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マーク・レスターさんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 31
性別 男性
ホームページ http://ouiaojg8.blog56.fc2.com/
自己紹介 某光学メーカーの宣伝部に所属
通勤の地下鉄の中で、ポータブルDVDプレイヤーで映画鑑賞し、モバイルPCでレビューを作成。全てを通勤の地下鉄内で実施しております 。


在学中に制作した 「LAST FESTA」 という名の8mm映画が ’84 ぴあ・フィルム・フェスティバルに入選。
映像作家を夢見て 3年ほど映像の現場に、根性無しの性根が露呈して途中断念。
方向転換して レディースファッションの宣伝部に、その後、専門学校の広報部に、そして今、光学メーカーの宣伝部におります。


1000文字の限度内ではではどうしても、映画に対する思いを伝えにくく、こちらには一言感想のみに控えさせていただきます。

↓ 正式HPはこちら、長文の完成版はこちらにあります。どうぞお立ち寄り下さいませ!

http://ouiaojg8.blog56.fc2.com/

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【製作年 : 1960年代 抽出】 >> 製作年レビュー統計
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1.  緋牡丹博徒 花札勝負 《ネタバレ》 
今作の鑑賞は ■ 映像演出的には 【 ローアングルの深遠なる世界 】 に 狂喜し、■ 人物描写的には 【 奥床しさが漂う任侠映画であること 】 に 驚嘆し、■ 個人的には  【 加藤泰監督作品の共通項探し 】  に 興じた、素晴らしい映画体験となりました。 制限文字数では語り切れず、完成版はこちらまで ネタバレ注意 → http://ouiaojg8.blog56.fc2.com/blog-entry-93.html
[DVD(邦画)] 9点(2009-07-06 22:41:51)
2.  殺しの烙印 《ネタバレ》 
「ATG映画前夜」 の1967年に、こんなにも観念的な要素を取り入れて映画を作り上げてしまった鈴木清順監督の先進性に瞠目致しました。                                                   埠頭での決闘シーン。自動車下の匍匐前進の映画的興奮に酔いしれながらも、この楽しさを理解できなかった日活上層部の不調法を悔やんでも、悔やみきれない気持ちに襲われたのでした。                                完成版はこちらまで、ネタバレ注意 → http://ouiaojg8.blog56.fc2.com/blog-entry-2.html 
[DVD(邦画)] 7点(2009-04-28 00:49:23)
3.  アラビアのロレンス
今作が放つ、 【 開始30分における、空前絶後のパワー 】 と、【 ヒーローが狂い腐っていく、負のパワー 】 この相反する2つの力に、ボクは完璧に捻じ伏せられていきました。 そしてこの強固な 「二面性」 こそが、制作後40年を経た現在においても、名作として鑑賞され続ける今作の 「レゾンディーテル (存在理由)」 であったと悟りました。 完成版はこちらまで ネタバレ注意 → http://ouiaojg8.blog56.fc2.com/blog-entry-72.html
[DVD(字幕)] 9点(2009-01-17 20:47:20)(良:2票)
4.  妖星ゴラス 《ネタバレ》 
「恐怖の大王」が降ってきた!!。■ そんな時、ハリウッドでは「大王」をコッパ微塵とすることに終始し、 我が東宝映画陣は巨大な噴射口をおったてて、地球を避難させてしまった!。 なんて東洋的な発想と西洋的な発想の衝突なんだろうか。 このギャップを東洋医学と西洋医学の違いに投影して考察するとおもしろいと思った。 「恐怖の大王」という病巣が体内に巣食った時、西洋医学は摘出手術や薬物療法という 形で治癒を目指す。その行為は病巣への攻撃となる。 一方、東宝陣が施こした東洋医学的処置は鍼灸や漢方など患者の自己免疫力を高めて 病巣というマイナス要素からの悪影響を減少することにある。それは自己変革による解決を意味する。 「自己」と「敵」という存在がある場合、西洋は「敵への一方的な攻撃」をしかけ、東洋は「自己変革による敵との共存」をめざしているように思える。この問題解決コンセプトの違いこそが「アルマゲドン」「ディープインパクト」のハリウッド的思考と我が「妖星ゴラス」による東宝・東洋的思考の違いであるのだ。 そこには敗戦を経験し、東京裁判を経験し、アメリカからの日本国憲法を遵守し、民主 主義、資本主義の洗礼の中、自己変革をなしてナンバー2までのし上がった日本の歴史 があり、一方、目の上のたんこぶをことごとく攻撃し、自国の権力を増大させていった 国の歴史感がでーんと横たわっているのです。ハリウッドは敵から逃げることをけっし て良しとしない。共産主義からも、テロ国家からも、勿論、異星人からの攻撃にも、大 統領が戦闘機に乗って攻撃を仕掛けるぐらいなのですから。 自分らが内的変貌を遂げて局面をヤリ過ごすという屈辱的な危機管理は到底受け入れられないのです。でも僕ら日本人という歴史を持った者(少なくともワタクシ)は、南極に巨大な噴火口を作って「大王」をヤリ過ごす地道で途方もない努力に、どうしょうもなくロマンを感じてしまうのです。神道を基本とし、大陸からの仏教を受け入れ、キリスト的文化も受け入れ、民主主義・資本主義を取り入れ、その折々での自己の最適化を柔軟になしえてきた血がどうしようもなく騒ぐのです。 ストレートな差障り要因への攻撃という陽なエネルギーよりも、南極に大規模土木工事をやり遂げる忍耐力をワタクシは断固支持致します! 
[DVD(字幕)] 8点(2005-06-09 22:38:35)(笑:1票) (良:3票)
5.  モスラ(1961) 《ネタバレ》 
卵から幼虫、幼虫から繭、そして繭から成虫へと劇的な変体をするモスラのこれらの変化の真髄は、[移動方法の変化]に集約される。卵という「点」における停止状態から誕生という生命の出発点を経て、「線」移動を開始する芋虫状の幼虫となる。幼虫による移動の特徴はその距離をそのまま忠実に辿るところにあって、「跨ぐ」ということをしない移動方法によって通過場所は例外無く破壊され、その跡はあくまでも「線」を基本としている。その愚鈍なまでの忠実さは、その後に来る飛翔に向けての聖なる自制として感動的ですらある。幼虫としての移動距離を全うした彼は、第二の誕生を迎えるべく再び「点」に引きこもる。繭という自主的な卵に身を潜め、しばしの停滞を演じる。その直後の羽化。繭から「再生」したモノはまるで別の生き物だった。小美人を探し求めるためのDNAを受け継いだ、しかし全く違う肉体がそこにはあったのだ。 この肉体がもたらす最大の成果は「飛ぶ」という移動形態を獲得するところにある。 この「飛ぶ」ことによって彼は人間達がへばりついている「面」の世界を一気に凌駕することになるのだ。自力では飛べない人類がX軸とZ軸によって生成される「面」の世界に留まらざるを得ないのに対し、「飛ぶ」ことでY軸のプラス方向を獲得した彼は「面」に執着する人類を俯瞰の位置で見おろす、「宙」の世界を制覇する神々しい存在へと自らを転身させていくのです。■この華麗なる転身物語と同時に、この映画の世界観もインファント島という土着の地から、東京へ、そして急転、日本人が憧れをもつ欧米の地へと、順次ブランド・アップさせていることに気付く。そんな映画的構造の中に1961年公開当時の高度経済成長期の気運を見たようで大変興味深く感じました。が、しかし、結局、彼は小美人を救出して、今まで構築してきた「ブランディング」などかなぐり捨てて、出発点である土着の地、インファント島にあっさりと戻ってしまうのです。無粋きわまりないことは百も承知だが、イメージ戦略の端くれにいる自分としては、この有様を見て「おい....モスラ、お前、もったいないじゃん....」という言葉がつい口から漏れ出てしまったのでした、マル。
[DVD(字幕)] 7点(2005-05-11 22:24:17)(笑:1票)
6.  フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ 《ネタバレ》 
デカダンスの香り高き、実に上質なSF映画でした!。■最も興味深かかったのは“悪”のありかたで、従来は建造物の“破壊”とそれによる人的被害が怪獣による“悪”の表現でしたが、今作に持たされるものは“食べられる”という“破壊”の恐怖を超えた、生物であるが為の否定し難い、根源的な恐怖なのです。“異形”ゆえに持つ人類との“差別と疎外感”どころではない、捕食者と被捕食者という、両者の間には共存の妥協点などありようもない、揺るがし難い関係が構築されるのです。生きるために他者を殺し“食べる”という、自己存続のための“悪”に対し、人類(自衛隊)は異形の者(ガイラ)へ“メーサー殺獣光線車!”を駆使し、存続をかけた戦闘を仕掛けます。しかしその“悪”は生物の端くれである人類自体も背負っている宿命、どうしょうもない行為ではあるのです....。ガイラが殲滅される直前に、突如として善玉サンダが助けに入ります。今作は「“サンダ”善玉 ⇔ “ガイラ”悪玉」という対比の2体を 用意し、人類 対 異形の者 という単調な図式からの脱却を図っています。善玉のサンダは山岳地に息を潜め、「もののけ姫」「平成狸合戦ぽんぽこ」等のジブリ映画に見られる、人間社会に追いやられる“封印された生命体”という役回りを演じています。 人類に対する同化願望・従順性・ヒロイズム。それと並行する人類に対する疎外感・哀しみ。サンダとガイラの細胞レベルの結びつき等、様々な関係・感情がサンダの登場で生まれ、それらが絡み合いながらあの不条理なラストに突入していくのです。結局のところサンダは、ガイラによる根源的な“悪”と“異形である自分達”の存在を完全に封印するために、(彼らには予知できていた)海底火山での2体同時消滅という決着を望んだのかもしれません(涙...)。そしてガイラが、サンダや人類によって命を奪われたのではなく、海底火山という寓話性によったところに、ある法話を思い出しました。ガイラが“捕食”という、生を持つ者全てに備わっている醜悪さを一身に背負っているとすれば、そんな彼を無為に消滅させられるのは(裁くのは)同じ宿命を持つ“生物”であってはならないのです。何故なら、【他の生物に対して行われる行為の中で、唯一許されるのは“食べる”ことしかない。】からなのです。    
[映画館(字幕)] 9点(2005-01-16 00:20:51)
7.  2001年宇宙の旅 《ネタバレ》 
「人類」と「道具」の進化。そして両者の支配関係を巡る映画でした。始まりは「人類」が“サル”で、「道具」が“骨”の頃。今や2001年。道具を使って効率良く動物を殺し、食うことにより、“種”の競争を生き延びてきた類人猿はホモサピエンスへと進化。「道具」は、蒸汽動力を得て「機械」へ、電子工学の活用で「コンピュータ」へと進化。そんな進化を遂げた時、両者の支配関係に見直しの儀式が実施されたのです。場所は宇宙空間ディスカバリー号。人類代表ボーマン船長、一方はHAL。感情や自尊心を持つことでHALは「有機体的な無機物」という「有機」と「無機」の中間的存在へと究極の進化を果たす。ボーマンは酸素・重力が存在しない激変の環境で、自己制御が効かない「無機物的な有機体」となる脆弱な瞬間にいます。両者は「有機(能動)」と「無機(受動)」の境界線上にいる点で並列であり、“人類がHALを創造したが、HALが乗組員を管理し、支配もしている”という「支配・被支配」の混迷下にある非常にボーダーレスな関係にあったのです。 “種”の闘争に勝利し、次のステージ(宇宙空間)で対峙したのが、己の武器である「コンピュータ」の「狂暴な正体」だったのです。そもそも“骨”は他の部族や動物を支配するための「残虐な武器」として描かれており、「機械」や「コンピュータ」になってからも、「防衛・兵器」の側面から進化を加速させてきた経緯があります。支配関係逆転のための、偶然を装った必然の攻撃だったわけです。■結局。HALは電子動力を断たれ機能停止。勝者であるボーマンは次のステージへの新規DNA配列をダウンロードする為、再起動・強制終了を受けます。いくら文明が洗練されようとも、地球では「繁殖し、他者を殺し、食う。」「繁殖し、他者を殺し、食う。」という原始的で残虐な“種の保存”行為が繰り返されていくのです。宇宙空間に浮かぶ胎児は、この“種の保存”を実行する為に発生し、今後も発生するであろう夥しい数の胎児(=繁殖)を表現していると感じました。膨大な数の胎児を用意し、切り捨てを前提とした様々なロールプレイングを経て、DNAは生き残る術を学習していきます。地質学的な時間の中で最適なDNA配列に行き着いて、“種”は「進化」を続けていくのです。■■確実に、強固に、そして徹底的に他者を支配するために.......。  
8点(2004-01-04 21:53:19)(良:1票)
8.  怪談(1964) 《ネタバレ》 
昨今の、安っぽい ハッタリを利かせたホラー物とは、明らかに一線を画す怪作です。  恐怖を暴力的に振り回すのではなく、小泉八雲の「怪談」の世界を「超アナログなSF」として捉え、非現実世界を舞台に、真剣に「耽美・妖美」に向き合った映画なのです。 水の中に落とされる黒、赤のインクの不穏で不吉な美しいオープニングから圧倒されました。 特にオムニバス形式の1話と2話は仰天モノです。  第1話の「黒髪」は非物理的なものと肉体的なものの対比がおもしろかった。 心や精神(この場合は執着、怨念)という非物理的なものは残存し、時間の経過の前には肉体(そして家屋)という物理的なものは脆くも朽ち果ててしまった というお話。 ラストは妻の肉体の崩壊が発覚するとともに家屋の老朽も露呈。 その家屋を次なる崩壊へと促進するのが、とりもなおさず妻を死に追いやった主人公なのだ。 恐怖から逃れるためにバリバリと家屋を壊しながら自らも老朽していく恐怖は 凄まじい。 妻の肉体崩壊の発覚を期に家屋崩壊と自らの肉体崩壊がリンクしていくのです。 「執着の残存」と「家屋や肉体の老朽と崩壊」この図式を際立たせる為に、あの不必要なほどでかいセットが必要だったのですね。 しかもメロディを廃した、精神的キシミ、肉体的・物的キシミをデフォルメしたあの音楽!(60年代の大島渚のあの凄まじい作品群は 美術・音楽ともにこの映画の存在が大きいことを今さらながら発見しました。)  第2話の「雪女」は悲しい母性の物語であり、悲しい恋の物語と感じました。 目的は監視だったのでしょう。ホリゾントに浮かぶ眼がそれを示していると思います。 それが男と姑の人間性に触れて結婚。子供まで設けてしまう。 ささやかな幸せの毎日。しかしそれも永遠ではなかったわけです。 とうてい男を殺せるわけもなく、子供を案じながら家を出ていく彼女の姿が、哀れで、いとおしく感じてしまいました。 男がソッと置いたわらじも雪の中、フッと消えていきました。 きっと、ささやかながら、穏やかだった幸せの証として、感謝しながら持って行った。と私は思いたい。   
10点(2003-11-12 23:20:44)(良:5票)
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