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まぶぜたろうさんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 178
性別 男性
ホームページ http://ameblo.jp/mabuse-tarou/
自己紹介 人にはそれぞれ言い分があるのです 。

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【製作年 : 1950年代 抽出】 >> 製作年レビュー統計
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1.  殺人捜査線
イーライ・ウォラックの異常性は表層のみにとどまり、ドン・シーゲルは彼をあくまでもアクションの男として捉える。だからドン・シーゲルは本質的にノワールの人ではなく、活劇の人なんじゃないか。
[DVD(字幕)] 10点(2009-11-11 12:27:58)
2.  彼奴(きゃつ)を逃すな
コンクリートの土手を背にして一本の道が走っており、その両脇にはささやかな商店が並んでいる。このオープンセットが素晴らしい。主人公である若夫婦は、時に土手を背景にした閉鎖的な空間を背を丸めながら歩いてくるのだし、時には活気のある商店街を手をつなぎ闊歩する、あるいは警察の目を避け道を走るローラー車に隠れながら通りを横切る。このオープンセットは物語の要請に応じて、その背景や視点を見事なまでに変え、そのとき折々の登場人物を演出する。またこのオープンセットは物語上の現実を的確に描き出すだけではなく、超現実的な光景を繰り広げる場ともなる。「幻想」シーンではなく、あくまでも日常と地続きになった白昼夢の風景を現出させること。■このオープンセットだけでない。若夫婦の住む小さなアパートの廊下、やや俯瞰気味に捉えられた縦構図の素晴らしさ。二間続きの室内は、窓からの光によって妻の姿を逆光で捉え、あるいは灯りの有無によって寝室と居間の差異を際立たせる。さらに商店街からアパートへ続く運河沿いの道。■これらの場とその中での登場人物を的確に演出する鈴木英夫の才能は、クライマックス、若夫婦の経営するラジオ修理の店の室内でピークを迎える。暗殺者に迫られた夫は妻に「ニゲロ」というサインを机に描く。これを見た妻は、そのサインを犯人から隠すように、夫の手に自分の手を重ねる。サスペンスという現在の物語は、若夫婦の愛情の物語へと一瞬で変容する。サスペンスを構成していた様々な記号がくるりとその意味を変えていく。これには感動した。「疑惑の影」じゃないか、これは。
[CS・衛星(字幕)] 10点(2005-12-03 00:26:24)(良:2票)
3.  4Dマン
マッドサイエンティストものの定石から全く外れない常識的な展開なだけに、例えば主人公が落ちに落ちるコーマンの「X線の目を持つ男」などの傑作にはほど遠い。とはいえ、例えば主人公が婚約者を弟(兄かな?)にとられちゃう設定とか、クローネンバーグ的な哀愁があっていいし、ジャンル映画ならではの楽しみは存分に満喫できる。ラストもいいしね。■と10点にしてたんだけど、いくらなんでもな。
[DVD(字幕)] 5点(2005-08-20 23:41:43)
4.  噂の女
STINGさんに逆らうようで何なのだが、私はこの「噂の女」がえらく楽しめた。もともと溝口の良さがあんまりわからないせいなのかどうなのか、「赤線地帯」や「祇園の姉妹」に通じる遊郭ものなのだけれど、STINGさんが書かれてるとおり深みに欠けるありきたりなメロドラマなのが、逆に楽しめた理由なのかもしれない。■さらに、物語にみられるそのような底の浅さと共に、固定画面とささやかなパンショットによるリズムや役者の動きが実に軽やかで心地よいのだ。■芸者やら下働きの女中さんらが行き交うのを背景に田中絹代と久我美子を切り返し、久我の不安や孤独を的確に演出した冒頭シーンや、久我美子が夜更けに水を飲みに行くために渡り廊下を歩くシーンのサスペンスや、田中絹代が愛人である大谷友右衛門のまわりをくるくるとその居場所を変えながら甘えるシーン、久我と友右衛門の会話を盗み聞くシーン、さらには舞台上での狂言や日本舞踏の演者をフォローするゆるやかなカメラまでが、なんというか、カメラや役者たちの動きが実にさりげに良い。クレーンでぐぉんごぉんとか流麗な移動ショットや墨絵のごとき宮川タッチとは異なる、軽やかな何かをふと目にしたかのような快感。■もしかしたらこの作品は、遊郭に生きる女性たちの悲哀を描いた作品といったものではなく、久我美子がその軽やかな動きを取り戻すまでを描いた映画であるのかもしれない。■そういえば、この作品のクライマックスで、田中絹代はハサミをふりかざしながら愛人を追いかけ、久我美子はグレーのスカートを床に広げてきりりとカメラをにらんでいた。そのシーンを契機に田中は病に倒れ床に伏せ、久我美子はぽつねんと孤独に佇んでいたはずの玄関先を、黒のタートルネックとショートカットでくるくるくると歩き回るのだ。■関係ないが、久我の台詞「そんなイージーなことを考えるものではないわ」に笑った。そう、すごくイージーで楽しい「噂の女」。溝口ってあんまり…、って人が好きになる映画かもしれまへん。 ■(追記)1954年の久我美子が「イージー」なんて言うわけないわな。「意固地」つってたんだな、きっと。ま、いいけど。
[映画館(字幕)] 10点(2005-04-30 22:24:57)
5.  舞姫(1951)
↓「彦馬」さんのおっしゃられるとおり、岡田茉莉子と木村功のもっこりレオタード姿にしか目がいきません。昔、岡田茉莉子さんにサインを頂く機会があり、その時「舞姫以来のファンです」と言ったら、とても恥ずかしそーにしていらっしゃいました。超、キュート。
10点(2005-02-08 01:00:04)
6.  稲妻(1952)
なんといってもクライマックス、夕方から夜へと時間が推移し、そして光の加減も微妙に変化していく中で、高峰秀子と浦辺粂子が会話するシーン。ルビーの指輪のエピソードがラストにさりげに利くのもいい。中北千枝子が住む古いアパートを橋から見上げたショットもすごい。それと、小澤栄太郎だな、やっぱ。なんて書いてると、古き良き日本映画を懐古してるみたいだが、そうではなく、どこを切り取っても「映画」だってことを言いたいだけなんす。
10点(2005-02-08 00:54:14)(良:1票)
7.  山の音
台風のため停電となった鎌倉の旧家。夫はろうそくを手に立ち上がり、妻は布団の上にすわり、義娘のことを語り合う。カメラは二人を切り返すことでそのシーンを綴るのだが、夫の立ち上がる動きは妻の目線だけで描かれ、その様を観客がみることはない。これが、いわゆる成瀬目線なのだが、ここで不思議なことが起こる。妻が話す様をカメラは見下ろすように捉えているが、妻に対する照明が妙に揺らぎ、時に妻は暗闇の中に入ってしまうのである。その理由を観客は次のカットで知ることとなる。このシーンでの唯一の光源であるろうそくを手に夫は話しており、夫が所在なげに動くたびに、ろうそくは妻に投げかける光を変えていたのだ。老夫婦の心理を描写する演出、といった説明以上に、この照明の変化は唐突で観客を困惑させる。■問題なのは、このシーンでの照明の変化が、何の説明もなく、また、水面や炎が与える揺らぐ光といった既知の記号でもなく、カメラの裏側で起こっているはずのことがまるで可視のものであるように描写されていることだ。■カメラの裏側で生起していることを目線だけで描写する。このいわゆる成瀬目線が、動作の一部を省略することで軽やかなリズムを生み出す、といった伝統的、古典的な演出ではなく、なにやら実験的で、映画の枠を揺るがせる演出であるように思えるのだ。カメラの向こう、裏側にも世界が広がっており、しかもそれは物語の中に捏造された、もっともらしい嘘の世界であること。それを故意に顕在化させること。■このような「成瀬目線」のいかがわしさ、過激さ、それに自覚的であり、またその不自然を露呈させようとする演出が「山の音」には数多く見受けられる。■原節子はいつのまにか自転車に乗り、いつの間にか山村聡に近づいてくる。杉葉子は「目線」の不自然をことさらに意識したかのように、何度も目線を上下し、そのたびに話す相手の位置が変化する。あるいは「浮雲」。金を持ち逃げした高峰秀子と森雅之が旅館で話すシーン。高峰はいつ草履を脱ぎ、庭先から座敷に上がってきたのか。■不自然を不自然であると自覚して演出すること。不自然を故意に顕在化させること。映画を壊そうというのか、あなたは。■成瀬巳喜男を観るのは、古典的な演出を愉しむ、日本の原風景を懐古する、といった消極的な愉しみではなく、きわめて現代的でスリリングな愉しみだと思う。成瀬は、凄いぞ。
10点(2004-08-22 10:36:02)(良:3票)
8.  浪人街(1957)
↓まあな。 てか、なんでこないに盛り上がんねん。
10点(2004-06-29 00:26:52)
9.  東海道四谷怪談
長大なストーリーを簡潔に、過不足なく描いた職人技にも驚嘆するが、何よりも、超絶技巧の連続技に目を見張る。冒頭、夏のだるだるな暑さを漲らせたワンシーンワンカットから、現世と地獄が一続きになるストップモーションまで、映画の技法とはこれや、といわんばかり。しかももちろんそれは技法自慢なんぞではない。技と技の果てに映画の彼岸がある。観たこともない映画がここにある。大島渚が、こんな映画は作れない、と感嘆したそうな。
10点(2004-03-08 13:16:55)(良:3票)
10.  男の子の名前はみんなパトリックっていうの
可愛い可愛い可愛い映画。大好きっす。
10点(2004-03-08 12:55:48)
11.  おかあさん(1952)
川本三郎的というか、後ろ向きというか、日本映画を語る際の「ノスタルジック」な文脈、今はなき日本の風景を懐古する楽しみは、とりあえす私が老人になってからでもいいと思う。ただし、この作品は別だ。もちろんこの作品は私が生まれる20年以上前に制作され、描かれた風景はノスタルジーの範疇外のものである。しかし、この作品に描かれる風景のなんと懐かしいことか。銀座のバーや上流家庭、花柳界ではない、どこにでもある下町のごく当たり前の風景の心地よさ。職人さんが上がりがまちに腰掛け焼酎をすする。洗濯物を干す。店屋物を食べる。そんなごく当たり前の風景の中で描かれる「おかあさん」はあなたや私の母の姿のようだ。//もちろん、成瀬の技は冴えに冴えている。狭い室内で、田中絹代は主に目線を下にした立ち姿。絶妙な目線つなぎ、かっちょいい省略、季節の変化。例えば、加東大介と「おかあさん」を嫌悪の表情で見つめる香川京子、第三者の視線とナレーションとの見事な連携。しかし、そんなあれやこれやは途中から忘れてしまう。ただ泣きに泣く。//もし、あなたが成瀬作品を観たことがない幸福な観客だったら、「浮雲」ではなく、この作品や「石中先生行状記」から入るといいと思う。あるいは、「浮雲」を観てどんよりしてしまった若者諸君は、この作品で元気を取り戻して欲しい。この作品はただただ楽しくて愛しい、普通に泣け、普通に笑える極上の絶品だ。//そして香川京子が素晴らしい。香川京子(あるいは司葉子)を三船や自身の分身の添え物としか使うことの出来なかった巨匠に殺意すら抱くほど、成瀬作品の香川京子は素晴らしい。小さく舌を出してはにかむ、花嫁衣装に涙ぐむ、「私はお母さんが大好きです」と独白する…、恋人、岡田英次とたわいないやりとりを繰り返す香川京子の姿は、もしかしたら若い日の私の父と母の姿なのかもしれない。
10点(2004-03-08 12:29:32)(良:4票)
12.  早春(1956)
人と話をしていて、つい別のことを考えたり、文脈からずれたことを言ったり、親しい相手以外は通じないことを言ったり…、それをそのまま映画に撮って成立するのは小津だけだ。ごく日常の言葉を物語の中に再構成し、ごく自然に演出することの素晴らしさ。それは、淡島千景が池部良と久々に顔を合わせる際に発する「こんちわ」という感動的な一言に結実する。この「こんちわ」には泣けた。        若い夫婦の危機という題材や、狭い二階屋という空間、窓からの光を生かした演出は、小津というよりは成瀬巳喜男的で、とりわけ、暗い部屋で座り込む淡島と、2階にいる池部良とのカットバックは、小津にしては珍しいのではないか。というより、「いつも同じ話」「どれがどれかわからない」と人は小津を評するが、小津作品に珍しくない映画、異色作でない映画などあるのだろうか。       それにしても、ビール瓶に手を添える岸恵子のエロティック、朝の光の美しさ、笠智衆と池部の会話に不意に登場するボートのスピード感、眼帯をかけた女性の不気味、いつもながら小津の細部は感動的だ。「感情移入できなかった」だの「古い価値観についてけない」だのといった個人的な感想を軽~く超えて、小津はやっぱり素晴らしい。「古くったってね、人間に変わりはないよ」と浦辺粂子も言ってます。       最後に一言。成瀬組常連の中北千枝子が小津映画に最初で最後の出演をしています。「秋日和」などの岡田茉莉子、「麦秋」での淡島千景のような、主人公の友人といった役どころ。これが小津ワールドに見事にはまってない。妙に自由奔放、アドリブ演技しちゃったわ、って感じで、成瀬との演出の差がうかがえるのも、ファンには楽しいところです。
10点(2003-12-11 01:45:12)(良:2票)
13.  お早よう
同じような間取りの建て売り住宅は、カットでつながれると迷宮のようだ。空はどーんと雲一つない青空だし、やっぱ小津は異常だ。映画史上最初で最後の「おなら映画」だし…。
9点(2003-12-09 01:30:06)
14.  流れる
成瀬巳喜男は断じて「やるせなきお」ではない。男女の悲劇的な運命をやるせなく描く作家ではない。いわゆる「成瀬目線」を駆使したカットの連鎖が醸し出す、軽やかなリズム感の作家である。また、若夫婦が住む狭い室内から、大家族が住まう旧家の広い空間まで、あらゆる空間を絶妙に制御した作家である。そして成瀬が素晴らしいのは、そんな計算され尽くした構図の中で、立ち、座り、着替え、食べる役者たちが醸し出す空気の自由奔放さ。細かなカット割りと、一部の隙間もない構図の中で厳格に役者たちの動きは規定される、事実、小津と同様に成瀬もまた、計算された動き以外の所作を役者たちに許さなかったらしいが、それにもかかわらず立ち上ってくる、ルノワールにも似た自由でおおらかな空気、役者たちの即興めいた楽しさ。高峰秀子、中北千枝子、原節子、杉葉子、杉村春子、司葉子、岡田茉莉子、小林桂樹、三橋達也…、成瀬世界にあってはあの三船までが怒鳴ることを止め満面の笑みを浮かべるのだ。「流れる」はそんな成瀬作品の最高峰の一つです。時代に取り残され、没落する芸者置屋の物語。その歴史を淡々と客観的に見つめる、外部からやってきた女、田中絹代がとりあえずの主人公だろうか。田中絹代は時に冷静に、時に暖かく、そこに住まう様々な女たちを見守っていく。世界のすべては成瀬に統御されているのも関わらず、狭い置屋で女たちは自由に動き回り、酔いつぶれ、踊り、金を数え、ラーメンをすすり、喧嘩をし、まさに生の表情をみせてくれる。観客は田中絹代と同様に、その愚かさ、賢さをただ楽しめばよい。「浮雲」は成瀬世界の一端にしか過ぎないし、異質なる傑作だとすら思う。繰り返し述べるが、成瀬は断じて「やるせなきお」ではない。完璧な、しかしその完璧さを誇示することも、完璧ゆえの息苦しさもない、ただただ楽しく、ただただ愛しい映画なのだ。
10点(2003-12-08 00:57:28)(良:4票)
15.  フレンチ・カンカン
「感情移入できない」とか「主人公の性格が嫌」といった映画批評でよくみられる言葉は、ルノワールの前で全く無効となる。「人にはそれぞれ言い分がある」のだし、そもそも映画って万人が愛する人物像を描かなければならないの?この映画のジャン・ギャバンも相当嫌な奴だ。アルヌールはただの浮気者だし、その恋人も女々しい嫌な野郎だ。ところが、それがぜ~んぶチャラになる素晴らしさ。このカンカンを前にしたら、あなた、もう何の言葉も浮かびません。途中、一度曲が途切れ、アルヌールがポーズを決めた時、「え、もう終わるの?」のため息が観客から一斉にこぼれる。再び音楽が始まると、ほっとした空気が流れる、「ああ、まだ見れるんだ」。そして再び、観客の予想を遙かに超えた踊りが繰り広げられる。もっともっともっとこの踊りを観ていたい。できることなら一生見続けていたい、と思う。しかしエンドマークはやってくる。映画と自分との間に広がる果てしない距離を思い、絶望的になるのはその時だ。
10点(2003-12-08 00:50:51)(良:1票)
16.  静かなる男
ジョン・フォードで一本、となると私はこの映画を選ぶ。え、まじ?と言われようと、だって滅茶苦茶盛り上がるじゃん、としか言いようがない。この映画を前にしたら、ほんとに言葉がない。馬鹿じゃん、と言われようと、だって楽しいもん、としか答えられないっす。「カルフォルニア・ドールズ」「フレンチ・カンカン」と並んで、映画史上三大盛り上がり映画。
10点(2003-12-04 02:40:17)(良:2票)
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