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1.  シムソンズ 《ネタバレ》 
勉強のみならず、カーリングでも0点しか取れないと森下愛子にからかわれる加藤ローサが憮然として おかずをつまむと、それは0の形をした地元・北見産のオニオンフライだったというような視覚的なギャグの用法の数々。 真っ直ぐな一本道などのロケーションと競技リンクのライン、そしてそれらをヒロインらの素直なキャラクターとシンクロ させる清新な画面作り。 初歩のぎこちないプレーぶりから、錬度をあげていく様を丁寧にショットで積み重ねていく描写の誠実ぶり。  誉めるべき箇所が多々あるだけに、やはりラストの未練がましい引き伸ばしが勿体ない。
[映画館(邦画)] 7点(2018-02-28 22:29:08)
2.  ひゃくはち 《ネタバレ》 
原作は高校卒業八年後からスタートし、現在と過去を交互に語っていく形式である。 映画版はこれを高校時代の現在進行形で進めていく形に改変したのが良かった。 それに伴って、相馬佐知子のキャラクターも新人記者に変更され、映画後半のストーリーも 斎藤嘉樹と中村蒼の間でのベンチ入り争いへと大きく変えられることになったが、こちらも 一〇八の煩悩という題材を発展させた脚色として、尚且つ 躍動的な練習シーンと二人の感情のぶつかり合いが相俟った見事な映画的アレンジである。  序盤で携帯電話を壊される1シーンを加えることで、クライマックスの雨の公衆電話シーンが 音響と縦構図が印象的な名場面となった。  打撃や守備の練習をする部員らの身のこなしも本格的で実にさまになっており、 強豪校のレギュラーメンバーという設定を説得力をもって提示している。  ラストの斎藤のずっこけをスローで処理してしまっているのがちょっと勿体ないが、その直後の笑顔はピカ一だ。
[DVD(邦画)] 8点(2017-10-12 00:41:45)
3.  ジェネラル・ルージュの凱旋 《ネタバレ》 
クライマックス前の倫理委員会のシーンなどは、ともすればテレビドラマ的なダイアログ従属型の場面になりがちだが、 人物の出入りと共にさまざまな音響(手ばたき、携帯のコール音、スクリーンの開くモーター音)をフレーム外から先行させていくショットつなぎで シーンの緊張を持続させ、その後の動的なスペクタクルへのタメとしても機能することとなる。  病院玄関口で待機する山本太郎らのショットに、救急車のサイレン音を次第に高めていく形で響かせる。 エピローグでの堺雅人と羽田美智子のツーショトに、救急ヘリの音を響かせて次の屋上ヘリポートシーンにスムーズに繋げる。  舞台が病院という閉鎖空間に限定される舞台だからこそ、発生源不明の音響を配置することによって画面外へのベクトルを創り出す。 そうした意識的な音の用法を以て観客をドラマに引き込んでいこうという細やかな芸は 随所で確認できる。コーヒー豆を挽く不協和音の活用の巧さも言うまでもない。 モブシーンでの、画面中央からフレーム外へと放射状に人物の動線をつくって空間を広げてみせる演出も同様だろう。  モノクロでのパートカラー処理によって印象づけられる、赤色灯、血、口紅の艶めかしい赤が仄かにエロティックなラブシーンとなっている。
[DVD(邦画)] 7点(2016-07-19 14:12:57)
4.  キプールの記憶 《ネタバレ》 
朝方、非常事態宣言下にある無人のイスラエルの街。陽の光の滲む地平線から姿を現すヘリ。 土地の空気を的確に掬い取るレナート・ベルタの撮影がやはり素晴らしい。  本物の雨なので雨滴は画面に映らないが、雨の質感と湿潤の感覚ははっきりと伝わってくる。  ヘリからの圧巻の空撮がある。戦車が残した無数の轍がぬかるみとなって緑の平原に延々と広がっている。 冒頭の絵の具塗りたくりにも相通ずる、緑と茶の網目状模様とその堆積が、戦乱の激しさとともに歴史をも意識させる。  あるいは、数人がかりで負傷者を運ぼうとするがなかなか捗らない様。そのもどかしい時間の重みこそ アモス・ギタイの伝えんとするものだ。
[DVD(字幕)] 7点(2015-11-18 23:56:11)
5.  チェチェンへ アレクサンドラの旅
装甲車内で静かに銃を構えるガリーナ・ヴィシネフスカヤ。 マーケットで、値段を聞く彼女を無言で睨む青年。  そのような、寡黙さの中にさりげない凄味を秘めた眼のショットの数々があって シンプルな物語にすんなり収まらない引っ掛かりを残していく。  一方では、駐屯地の宿舎で彼女に振舞われるそば粥やサラダに添えられた 花瓶の花もまた、映画に慎ましく美しい印象を付与する。  乾いた昼間シーンから一転、夜間シーンの湿った幻想性がソクーロフらしい。
[DVD(字幕)] 7点(2015-06-16 00:06:12)
6.  いのちの食べかた
いずれのショットも画面にパースをつけ、厳格すぎるくらい厳格に構図を決めている。 その画面領域の中で動植物・人間・メカニックそれぞれがせめぎ合う様が スペクタキュラーだ。 その奥行きを強調したカメラ移動は、その産業の構造的スケール感を否応なしに 感じさせる。(延々と続く厩舎、延々と下るエレベーター等など)  そしてここには「機械的で規則的な運動のリズム」(長谷正人 『映像という神秘と快楽』)がある。  映画に登場するベルトコンベアー作業の数々は一見、単調で「無機質」でありながら、 それは無意識に規則正しく心拍運動し生命を維持する人間とも通じ合う。 ゆえに、そこには心情に拘らず、 リズミカルな反復運動に同調する「映画的快楽」が逆説的に伴う。 その規則の中に不意に現れる小さな不規則の面白さがまた引き立つ。  音楽を一切廃すること、言語解説による意味付けを一切廃すること。 それによって観客は反復のリズムを体感し、動植物の肉声・質感を感受し、 意味から開放される。  動植物への同情や憐憫や感謝。それらの単純な感情を喚起する自由を保障しつつ、 作り手はまず、様々な運動と色彩と音にあふれた画面そのもの、つまりは 本源的な映画の面白さを受け取ることを 求めているに相違ない。  断片的なショットに、奥行を意識した構図。機械と動物と、食事する人物。 まさに映画の定義に適った、リュミエール的な映画じゃないか。 
[DVD(字幕なし「原語」)] 8点(2014-09-19 00:21:59)
7.  エレニの帰郷
『カサブランカ』や『嘆きの天使』などは少々サービス過剰かとも思う。 米国マーケット他をかなり意識したのか、どうか。 濃霧の中、抱き合うイレーヌ・ジャコブとウィレム・デフォーの周囲を 旋回しかけるデ・パルマまがいのカメラなどには冷や冷やしてしまいそうになる。  被写体サイズの大きさも有名俳優起用によるものだろうが、 そうした大御所俳優らを配しながらも曇天への妥協の無さは一貫している。  ブルーノ・ガンツの乗った船が橋梁をくぐると、彼に影が落ちスッとシルエット可する ショット。その黒と彼を包む曇天の鈍い白が異様な迫力で迫ってくる。  夜の国境検問所、暗闇とそこに浮かびあがる人物に当たる照明の加減も素晴らしい。  シベリヤの工場群の吐きだす白煙、ジグザグ階段の造形などもアンゲロプロス ならではの壮観であり、ロングテイク内での転調(パイプオルガンの演奏、 警官隊の突入など)も驚きこそないが、楽しめる。   
[DVD(字幕)] 7点(2014-09-12 16:06:54)
8.  紙屋悦子の青春
セット中心の撮影と長回しによって、あえて戯曲を忠実になぞる試みである。 それによって、メインとなる見合いシーンはほぼ実時間に近いのだろう。 時刻に関する会話や時計音の演出もあって、ぎこちなくも切実な一瞬一瞬の 「時間」が印象づけられる。 冒頭約10分間にわたる現代パートのロケシーンを配置して映画を回想形式にしたのも、 夕刻の光の推移と共に、約60年間という二人の戦後の時間を意識させるための ものだろうか。  舞台を限定し、松岡俊介の手紙の件りなど伝聞スタイルを活用すること。 紙屋邸前の石段のセットや、襖奥での会話といったオフ空間をよく利用していること。 それら観客の想像力に訴える手法は効果的で『永遠の0』の山崎貴なども 見習ったらどうかと思うが、これは単に舞台劇演出の援用でもある。  ならば肝心な原田知世の慟哭シーンこそ、襖の奥の悲痛な哭き声だけを 聴かせなければならなかったのではないか。舞台では間違いなくそうしたはずだ。  このシーン、映画の多角的な視点が逆に仇になってしまっている。   
[DVD(邦画)] 6点(2014-08-31 22:27:14)
9.  ロード・オブ・ザ・リング/王の帰還
権威を盾にするわけではないが、宮崎駿などは当然ながら解っている。 「(ロード・オブ・ザ・リングの)原作を読めばわかりますけど、 実は殺されているのはアジア人だったりアフリカ人だったりする。 それがわかんないでファンタジーが大好きって言ってるのは、馬鹿なんです。」 (『ダーク・ブルー』パンフレット)と。 原作など読まなくても映画を見ただけで解るが。 9.11を経て、なおも「ピュア」に勧善懲悪を楽しめてしまうような、 隠喩も解らぬ「馬鹿」な大人にはなりたくないものだ。  この、他種族を殲滅してメデタシメデタシという欺瞞的でうすら寒い大団円には 反吐が出る。 古典という権威に寄りかかり、単に原作を絵解きしただけの、単なる原作従属物。 A級ならA級らしく、現代世界への問いかけくらい含ませたらどうか。   おまけにこのダラダラと間延びした後日談はもはや拷問である。
[映画館(字幕なし「原語」)] 0点(2014-04-05 22:43:51)
10.  インスタント沼
麻生久美子とふせえりが自転車に乗って並び走る。 ふせの一言一言に麻生のペースは落ちたり上がったりと、刻々変化する。 画面比として大きくなったり小さくなったりというその表象的リアクションを、 カメラは後退移動のロングテイクで延々と捉えている。  やがて画面右手には線路が見えてくるロケーションだ。 ならば間違い無くやってくれるだろうと思いつつ見ていると、 果たしてその長廻しの中盤とカット尻、狙いすましたかのように 通過する山手線の車両の緑を二度画面端に入れ込んでいる。 そのタイミングが絶妙だ。 線路を写したならそこにぬかりなく列車を走らせる、 映画の作り手としてのその律儀さ。そして色使いに対する拘りの徹底ぶりが嬉しい。  単に衣装や小物や美術での配色ならさほどの難度はないように見えるが、 本作で麻生が纏う衣装のバリエーションは半端ではない。 緑のダンプカーの配車も大掛かりだ。  その上でさらに、自転車のシーンのような手の込んだ芸当を 軽やかにやってのけるあたり、侮れない。 そうして拘り抜いた眼に優しい緑の配色が心地いい。  映画前半は、しゃがむ、病床で横たわる、沼に沈む、埋もれるというモチーフから 後半は快晴の中、飛翔する、上昇するというモチーフへ。 いろいろとよく考えてもいる。   
[DVD(邦画)] 7点(2014-01-20 12:25:35)
11.  クロエ(2009) 《ネタバレ》 
フルショットで撮られたジュリアン・ムーアが携帯電話で話し出すと、 相手方のアマンダ・サイフリッドの声も不自然なほど鮮明に聞こえてくる。  違和を感じた瞬間、カメラがパンすると同室に彼女が入り込んできていた事 が判明するという、そういったさり気ない音響の仕掛けが随所で巧い。  人物の背後からのライトを中心に、複数の光源を用いて 女優の金髪の輪郭線と瞳とを妖しく美しく輝かせるライティングの緻密さ。 拡散する影の動きも画面を重層化させて見事である。  手前の人物と、背景の窓枠・額縁・鏡・スクリーンを的確にレイアウトした構図など、 ショット一つ一つが官能的に決まっている。  見るものの欲望の投影たる鏡・窓ガラス。そこに幾度も映し出される ファム・ファタルとしてのアマンダ・サイフリッドは「虚像」の視覚的隠喩である。  『上海から来た女』を始めとする鏡の映画史に倣えば、 映画の構造上のクライマックスは、「砕け散る鏡(ガラス)」以外有り得ないことは 中盤には明らかになるだろう。  その映画的終結というべきスローモーションも美しい。 
[DVD(字幕なし「原語」)] 8点(2013-07-17 23:09:54)
12.  闇の子供たち
どこそこのディティールが「現実的にありえない」だの、 「突っ込みどころ」だのというのは 概してフィクションというものを理解出来ない者の常套句だが、 映画作家は「その不自然さを前提にしたところで、それとは別のところに ドラマを作り出しているのだから、それを見なければ映画を見たことにならない」 (上野昴志「映画全文」)わけで、 Wikipediaあたりの拾い読み程度の薀蓄に頼った批判など、 物語に対しては有効でも、映画に対しては決して届かない。  少女を詰めた黒いビニール袋は、『トカレフ』でのそれのように、 あるいはペドロ・コスタの『骨』のように、 その生々しい物質感の露呈として映画内に要請されているのは云うまでもないだろう。  宮崎あおいは、その異質なビニール袋を目撃するや、とっさに走り出す。 無我夢中に。非現実的に。だからこそ映画的に。その走りと横移動のカメラワークがいい。  そして本来、映画の批評として肝要なのは上野氏が「非対称の視線―『トカレフ』論」ですでに書かれている、登場人物の視線の劇としてのあり方だろう。  建物の二階部から屋外を見下ろす主観構図の反復。その一方向的な視線の不穏な感覚。 江口洋介が、妻夫木聡が見詰める鏡。そこに反映する自身を見つめる眼差し。 クライマックスの取材現場での複雑な視線の交錯。そこに漲る形容不能な情感。  そうした視線によるドラマ作りを継承する本作は、劇中で幾度も主題を強調する。 具体の視線によって「見ること」を。 
[映画館(邦画)] 8点(2013-02-09 01:28:43)
13.  ゴモラ
映し出される登場人物と同等以上の存在感をもって、 独特な構造をもった居住空間や街の景観が、深いパースペクティブを活かした 画面の中に印象深く捉えられている。  被写体をひたすら粘り強く追っていくハンディカメラによって、 画面の中の都市空間はより立体性を増して迫ってくる。  その中で、突発的に起こる銃撃のバイオレンスが幾度か繰り返されることで、 何気ない日常のシーンがそれだけで張り詰めたものとなっていく。  罠に嵌って郊外へとおびき出される青年たちのバイクの迷走を 後方から見下ろすように追うカメラ。  それだけで、ただならない不穏と緊張が漲らせている。  さらに、凄惨なシーンに被さる軽快な音楽も対位的に効いており巧い。  防弾着で銃弾を受ける度胸試しの順番を待つ少年たちの、 演技には見えぬ迫真の表情などは忘れ難い。 
[DVD(字幕)] 7点(2012-12-22 23:52:43)
14.  エスター
ピーター・サースガードの役柄が建築デザイナーであることを活かしたツリーハウスや ガーデンルーム、中央に階段を配した印象的な居間、あるいは凶器となる工具 (バール、万力)など、セットの高低と小道具を巧みにアクションに結び付けている。  その死角を強調した居住空間は秀逸なカメラワークと共に、 窃視の視線と盗み聞きのドラマにも効果を発揮する。  併せて、「話せない」こともまた視線の強度とサスペンスを生んでもいるだろう。  それだけに、インターネットはともかく携帯電話の安易な利用はドラマ的に少し勿体ない。  しかし、短いながらも強烈なインパクトのあるショットの数々が要所要所で利いている。  冒頭の逆光シーンの夢幻感。 ヴェラ・ファーミガがベッドで童話を語って聞かせる、その手話の身振り。 バックで暴走する車を内側から捉えたショットの恐怖感。 割れた鏡に映るイザベル・ファーマンの分裂した姿。 その顔に残るアイシャドウの黒。  公開バージョンのラストは、企業のシステムによって選択されたのだろうが、 監督が本来使いたかったのは、「割れた鏡」へのこだわりからしても 恐らく別バージョンの方ではないかと思う。 
[DVD(字幕)] 8点(2012-06-09 21:59:08)
15.  HAZAN
琥珀色の光の中に浮かび上がる、窓辺に置かれた白い陶器。それを一心に見つめる少年の表情。そして、その全身像のシルエット。  映画の中で、波山が陶芸家に転身する動機らしきものを直接的に表すのはこの短い三つのショットのみである。  映画は説明に多弁を弄することなく、窯やランプの炎とオーヴァー・ラップする榎木孝明の顔や、長女(大平奈津美)がホタルの光や薪や星を一心に見つめる姿を通して波山の真情・感受性をあくまで寡黙に、間接的に、映画的に語りきる。  二人のロクロ師(柳ユーレイ、康すおん)が波山に心酔し協力することになる経緯も、一切の説明を省き、行動そのもので示されるのも簡潔にして雄弁だ。  そのアプローチにこそ、彼の陶芸の作風と矜持に対する作り手の映画的リスペクトが表れている。  明治期のランプや、窓からの外光など、単一の合理的光源を活かした金沢正夫の照明・芹沢明子の撮影もその任の多くを担う。  住職から返された陶器と、榎木を窓辺におさめたラストショット。 木々の揺れと慎ましい自然光の美しさに、妻と子供たちの楽しげな童謡と笑い声がオフで入ってくる。 端正・素朴でありながら、豊かな情感に満ちた素晴らしいラストだ。 
[DVD(邦画)] 9点(2012-05-17 18:48:51)
16.  ギフト(2000)
「隠された事実というのはサスペンスを引き起こさない。」だから「謎解きにはサスペンスなど全くない。」そして「(一種のパズル・ゲームに過ぎない)謎解きはある種の好奇心を強く誘発するが、そこにはエモーションが欠けている。」(ヒッチコック『映画術』)  本作における犯人探しミステリーもまた、ヒロインをめぐるドラマに情動を付与するための一手段に過ぎないのであり、確信的に登場人物を絞り真犯人を仄めかしている作品に「犯人が早々に判る」式の批判は、ナンセンスでしかない。  映画が主眼とするのは非本質的な謎解きなどではなく、ケイト・ブランシェットが担う「映画の感情」なのだから。  地味な普段着で息子達の部屋片付けをする母親像。パーティシーンで鏡を前にふと衣装を気にする女心。床のペンキに滑り、ずっこけるアクションの人間臭さ。キアヌ・リーブスの恫喝や、弁護士の陰湿な追及に対して怯えながらもそれに真直ぐに対峙する気丈さ。そして、ラストの車中の純真な涙。ナイーヴで不器用な中に芯の強さを湛えた表情と芝居が素晴らしい。  彼女とジョバンニ・リビシとが車中で見つめ合う切り返しの「間」と、続いて警察署前での視線を交わすショットは(謎解きが無くとも)その時点で二人がもう再会しないだろうことを確信させる。そこにはエモーションが充溢しているからだ。  物干しに揺れる白いシーツ。霧のかかる池。樫の木の合間に揺らぐ水中の死体など。(『狩人の夜』のよう) イメージショットの数々も美しい。 
[DVD(字幕)] 8点(2012-04-29 00:35:30)
17.  4分間のピアニスト 《ネタバレ》 
ハンナ・ヘルツシュブルングと初対面したモニカ・ブライブトロイは不作法で凶暴な彼女に失望し、騒乱状態となった部屋を退出していく。看守たちが駆け付け、渡り廊下もまた騒然とするが、画面はスローモーションとなりBGMのごとくピアノ曲が流れだす。 その曲に反応するように振り返るモニカ・ブライブトロイの表情によってそれが現実音であったことが判明する。  あるいは映画後半、画面を横切るピアノと共にヒロインを消して驚きを創出するショットなど、さりげなくハッタリを利かせた趣向が光る。  そして、窓外の外光や屋内のランプなど合理的光源に限定した自然主義の照明設計が創り出す画調が全編に亘っていい。  冒頭で首吊り死体の背後に光る朝陽のショットを始め、いずれのショットも自然光と暗部の黒がよく映えている。  その極めつけがクライマックスの演奏であり、スポットライトの蒼い光と闇は、音楽とヒロインだけの世界を画面に現出させる。  映画のラストを締めくくるヒロインの眼差しのストップモーションは名状しがたい最高度の情動を湛え、素晴らしい。 
[DVD(字幕)] 8点(2012-04-26 22:46:23)
18.  アレクセイと泉
チェルノブイリの被曝地域であるブジシチェ村にご両親と共に暮らすアレクセイ・マクシメンコさん。その朴訥としたナレーションと、はにかむような表情と佇まいがとても素晴らしい。ラストの老夫婦のツーショットも心が暖まる。  朝もやの美しい情景を始めとする固定ロングショットの数々は、ともすれば単に「美しい風景」に陥りそうなところで、湧き出る水や村に残る様々な動物たちや高齢者たちの慎ましく淡々とした営為がフィルムに「生」のダイナミズムを湛えさせている。  その映画志向は『ナージャの村』から一貫しているものだ。  収穫を祝う村人たちのパーティと踊り。色鮮やかなスカーフを巻いて踊る女性たちと、酔いつぶれている男性たちのショットが微笑ましい。  水汲みや農作業、木材の切り出しから洗い場の組み立てまでの労働。落成した洗い場にイコンと十字架を供え、祈りを捧げる村人たちの敬虔な様が尊く美しい。  村人の周りに常に寄り添っている動物たち(馬、犬、家鴨、豚など)。 人間が汚染した土地に、邪気無く共存していく彼らの姿が愛おしい。  被曝地帯である現場に腰を置きつつ被写体である彼らに不必要に寄ることをしないキャメラの倫理は、3.11後を報道するテレビドキュメンタリーのカメラの多くがその涙を狙って被災者の顔面と眼に図々しく寄っていく浅ましさの対極にある。  それは、ひたすら『感情移入』と称した他力的な感傷と刺激の欲求を肥大化させていく「見る側」の倫理問題でもある。    
[ビデオ(字幕)] 9点(2012-04-03 23:03:23)
19.  ぼくのエリ/200歳の少女 《ネタバレ》 
あちらこちらのサイトで「一つ覚え」のようにあげつらわれる検閲批判をこそ嗤う。  それは問題のショットが、単に通俗的な種明かしに過ぎないだろうからだ。 一義的な「正解」を映画に説明してもらわないと安心ができない観客たち。  相手の性別や種族がどうであれ、少年がその存在に既に惹かれ、受け入れている以上、彼が何を目撃したとしてももはや問題ではない。 本来ならば、リーナ・レアンデションが自身の性について語る2つの台詞と、カーレ・ヘーレブラントの目線のショットのみでニュアンスは誰にでも十分把握出来るはずだ。  彼の主観による下半身ショットは、酸で焼け爛れたベール・ラグナルの右半面を窓ガラスへ「ぼかし」気味に反映させた後さらにわざわざ明瞭に露呈させる2つのショットと同様、通俗的インパクトの為の蛇足にすぎないと言っても良い。  原作に依存した「模範解答」など、映画の解釈の多義性を狭めるだけだ。 そのような「外部情報」に依らずとも『ぼくのエリ』は、具体的画面の有り様において映画単体で十分素晴らしいのだから。  検閲を問題とするなら、解釈の「ボカシ」をではなく、画面自体の汚しを問題とするべきであるし、映画が、冒頭から「赤」の連鎖(あるいは伝播)を明確な視覚的主題としているなら、問題のショットに写るワンピースの色の有り様にこそ敏感になるべきだろう。
[映画館(字幕)] 8点(2011-10-19 22:27:21)
20.  大丈夫であるように ─Cocco 終らない旅─ 《ネタバレ》 
映画の冒頭、ツアーバスの中で黒砂糖だけの食事をとるCoccoの姿が何気なく映し出される。 それは、彼女の拒食症を仄めかすものであり、映画の終盤に至り、彼女の異常に痩せた腕とそこに数多く刻まれた自傷痕の凄惨さに気圧されることとなる。  劇中に挿入されるステージ風景で、沖縄口をパフォーマンス性豊かに使い分けつつも、MCの度に感極まって涙声になる彼女の姿は、どこか危うい奇矯さや破滅型というべき思い込みの激しさを感じさせるのだが、それは文字通り「身を削って」心情を歌い上げる悲壮な姿であったことを思い知らされる。  その姿は、いわゆる「社会派映画」から得た「知識」や「情報」程度で何か社会問題を「考えさせられた」気になって自己満足に浸りたがる観客の安易さを撃つ。 それは単なる「よい子」の作文と同様、具体的には「何も考えていない」と同義にすぎない、と。  沖縄出身の彼女は、コンサートツアーの中で彼女のファンである青森県の女性と対面し、六ヶ所の実情を「知らせてくれたこと」の感謝を直に伝える。  彼女は、社会問題を「知識」や「常識」としてではなく、具体の視線と身体で「見ること」「会うこと」「体感すること」において捉えようとする。それが彼女にとっての「反戦」・「反核」であり、それが彼女の純粋さであり、素晴らしさだ。  キャンプ・シュワブの鉄条網に彼女は色鮮やかな「抵抗」のリボンを巻きつけていく。 暗い砂浜で、自分の黒髪を切り、自分宛のファンレターと共に焚火の中に投げ込んでいく彼女は何を想うのか。  オレンジの炎の照り返しに浮かび上がる彼女の無言の横顔。 その相貌の固有性とシーンの緊張感は、彼女の生々しい傷痕のイメージとともに見るものの感性を揺さぶる。  
[映画館(邦画)] 8点(2011-09-02 23:15:29)
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