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1.  大人の見る絵本 生れてはみたけれど
還暦の誕生日に亡くなった小津は、人生の見取り図を眺めやすい。『出来ごころ』までが前半生の30年、『母を恋はずや』からが後半生で4作目からトーキーになる。赤ん坊時代も含めた前半生だけで傑作を次々と発表しており、それだけでも映画史にゴシックで名を残したことだろう。とりわけ本作。前半のギャグの連発には、ただただ恐れ入るしかない。それも客観的に外部にある笑いではなく、自分たちの子ども時代を思い出させつつ生まれてくる笑いだ。だから後半の苦みが「取ってつけたよう」にはなってない。前半の笑いの当然の帰結として、苦くなってくる。そこに子どもであることの苦さ、子どもを持つことの苦さが浮き上がっている。笑わせたあとでペーソスも加える、ではなく、笑いがそのままペーソスに移行している。これが20代の男によって作られたことに驚かされるが、その若さだから・そしてついに家庭を持たなかった監督だから、と考えたほうがいいかもしれない。こんな映画を撮ってしまう男が、家庭を持てるわけがない。
[映画館(邦画)] 10点(2013-01-12 09:50:07)
2.  キートンのセブン・チャンス 《ネタバレ》 
感謝するのは、若いころリバイバルが盛んだったことで、今から思えばビデオ化の波が近づき、それに対処する権利の問題でも絡んでいたのか、映画史の名作をずいぶん大スクリーンで見ることができた。そんな中で圧倒的な迫力だったのがキートン、これと『蒸気船』の名画座での二本立てに魂を抜かれた。プロポーズできない優柔不断男が花嫁の大群に追いかけられるという悪夢が大スクリーンに展開する。前半は「誰でもいいから7時までに結婚する」という必死な男を巡る「心理」的な笑いで、しかしその心理がだんだん「状況」に非現実的に投影されて世界ににじみ出てきてしまう。床屋の首あたりから、悪夢の濃度が濃くなっていく。いつも警官に追われていたサイレントコメディの主役が、花嫁たちに追われるという異様な悪夢(警官の大群に追われる短編『警官騒動』が併映されたので、とりわけ印象的に対比された)。パニック映画の様相も出てきた。満点は一人の監督(映画人)に関して一作、と私は勝手にルールを作っているので『蒸気船』とどっちにしようかと悩んだが、休みなく走るこっちを取ろう。斜面を転げ落ちてきた岩石群が詰まって止まりホッと一息入れられたと思ったら、ゆっくりとまた動き出し始める緩急のリズムのつけ方。たまらない。
[映画館(字幕)] 10点(2012-07-16 08:57:28)
3.  バリー・リンドン 《ネタバレ》 
よく映画の宣伝で「感動のあまり席を立てませんでした」ってのがあるが、そうそうあるもんじゃない。私の人生では2回だけ。キートンの二本立て(『セブンチャンス』と『蒸気船』)観たとき「もっかいもっかい」と半日映画館から出られなくなったのと、あとこれ。こっちは幸い最終上映で観てたので、掃除のおばさんに追い出されたが、そうでなかったらこっちも映画館から出られなくなったに違いない。人の世の愚かしさとそれゆえの厳粛さを描いて完璧だと思った。一つ一つの画も完璧と言わざるを得ず、観終わった途端にもう一度ひたりたくなった。監督は「ナポレオン」を撮りたかったそうだが、成り上がって没落していく物語としてはもうこれが完成しているのだから、気合いが抜けてしまったのだろう。いちいちの感動シーンについて記すのは面倒なので省く。第三者の眼で語られ、視点は誰にも加担せず、誰も結論めいたことを言わない(ただ文章が出るだけ)。しかしここには地球上に一時期存在した人類という種族の典型が精密に記録された、しかもその愚かな人類はなんと美しい世界を織り成してきたことだろうか。この作品では美が愚かさと必死で拮抗している。母親や家庭教師など、脇役の顔の選択も見事だ。そして音楽。バリーの運命が大きく変わるときに流れ込んでくるヘンデル、それと対になるようなレディ・リンドンのテーマとしてのシューベルト、どちらも的確。完璧という言葉は軽々に使いたくないが、この映画の美にかけた執念には、その言葉を使って褒め称えるより仕方あるまい。
[映画館(字幕)] 10点(2011-06-23 10:04:39)(良:2票)
4.  野いちご
「お前のベストワン映画は何か?」と尋ねられたら「いろんな方向でのベストワンが十数本はあり、とうてい1本に絞れない」と答える。しかしそこで出刃包丁を突きつけられて「これでも選べない?」と畳み込まれたら、たぶんさして迷わず本作を挙げるだろう(でも決して人生の最後に観たい映画ではない、最後に観るならMGMミュージカルかキートン)。初めて観たのが若い多感なときだったせいか、こころにじっくり沁み込んだ作品。その沁み込み具合は、半端じゃなかった。作品中で主人公イサクが、サラに鏡を突きつけられるシーンがあるが、まるでスクリーンが鏡となってこちらに突きつけてきたような映画であった。人の世のわずらわしさから逃げようとしたものの受ける罰。前半の回想で、サラがイサクへの想いを語っているのを、心地よい回想として眺める階段の場の老イサク、しかし中盤の夢で、彼はサラに裁かれる。サラ夫婦の家庭を窓越しに眺めるイサクの孤独。バッハの平均率の変ホ短調のフーガ。サラたちのように生きたい、しかしそう思う人間はそうは成り得ない、という絶対の壁がこの窓にはある。そして重ねて裁きが続く。イサクの孤独は、彼がそうしか成り得ない人間であったということじゃないか。そういう厳しい認識の果てに、ラストの回想が来る。この釣りの図の見事なこと。これは一人称の映画であり、登場する人々は主人公と照らし合わされるためにのみ存在している。そういう厚みを持てない構造が生かされ、その構造によって深くえぐりこめた作品だろう。
[映画館(字幕)] 10点(2010-08-13 09:56:54)(良:1票)
5.  アポロンの地獄
かつて名画座という文化があったころ、イタリア映画の最後の黄金期に立ち会え、フェリーニ・ヴィスコンティ・パゾリーニ三羽烏の追っかけを随分した。フェリーニの幻想、ヴィスコンティの風格に対して、パ氏の粗削りな現代彫刻のような手触り。本作の、オイディプスがテーバイにたどり着くまでが、とにかく好きだった。パゾリーニの映画によく出てくるニヤニヤ笑いをする民衆、ってのが、王を巡る物語だけにとりわけ効いている。荒涼とした風景に不意に雅楽の笛の音が流れてきて、トントンと太鼓(?)が刻み出すと、“運命”が世界を覆ってしまう。こんなにも民族音楽が効果を持った例は少ない(『王女メディア』では三味線が聞こえたが、これは日本人には四畳半的に響いて失敗だった)。しかもこの“運命”はあきらかに悪意を持っており、託宣によって積極的に主人公を不幸に導いていくのだ、そもそも赤子を“不憫”と思う気持ちに乗じて、運命はことを始めたのだし。もっともこの映画、古典悲劇の分析よりも、一つの世界の提示として強烈で、どこかの名画座に掛かっていると、好きな音楽を繰り返し聴きたくなる心境で、ついフラフラ行ってしまう麻薬のような力があった。非道な運命に対抗する荒ぶる王をやったフランコ・チッティ、パ氏の常連となったが、監督の没後はどこをさすらっているかと思っていたら、『ゴッドファーザーPARTⅢ』にチョイ役で出てきたのにはグッとさせられた。
[映画館(字幕)] 10点(2010-04-20 12:05:16)
6.  三里塚・第二砦の人々
シリーズ4作目。前々作のラストは、農民が要塞を掘るその穴掘りシーンだった。彼らが土に帰っていく・土に沈んでいくといったちょっと現実を離れた寓話的イメージがあり、その掘り進めている土の壁に延びていた植物の根のアップが印象深い。で本作に至って根のモチーフは大きく膨らみ、農民が掘り進めていく抵抗の根としての地下壕のイメージにつながっていく。あくまで散文的な記録性を保持しながらイメージが豊かに広がっていく。おそらくスペクタクルとしての迫力はシリーズ屈指だろう。野外戦の興奮。権力の横暴といった理屈以前の、その場の高揚がフィルムを覆ってしまっている。農婦二人が自分たちを鎖で縛り合わせているところをじっくり写していたカメラがぐるりと振り返ると、タイヤを燃やす黒煙がもうもうと立ち込め、坂を下ってくる機動隊や、回り込んでいく学生たちが激しくうねっている。そこにかぶさってくるヘリコプターの騒音、拡声器の割れ声、耳をつんざく笛の響き、とにかく映画はその場を実感させ、体験させる。バリケードの隙間から火炎瓶を投げるタイミングをうかがっている学生など、へんに生々しい。またユーモラスなシーンも活きている。シリーズ常連の柳川のオバチャンが、自分の作戦を語るところ。「ベターッともうダメになったふりしててよ、あのジジイ(公団職員)が来たらよ、縛ったふりしてたこん鎖でもって殴ってやんだ」。緊張したところでふっと息を抜かせ、少し画面に近づき過ぎてしまっていた観客の気持ちを、微調整する働きがこういうシーンにはある。しかし本作の重要さは、農民が自分たちの手応えの分かる形で抵抗しようとしているところにあると思う。火炎瓶などといった今までの暮らしと無縁なものは学生にまかせ、自分を木に縛り付けたり、土に穴を掘ったり、彼らが一番手応えの分かっているもののそばに戻っていく。そのときに彼らが浮かべるちょっと晴れがましい表情。換気口つきの地下壕を作り上げた農民の照れくさそうな自慢げな笑顔。自分の技術を生かして何かを作り上げる楽しさ。三里塚で起こっていることは、単に土地を巡る争いなのではなく、農民から農業技術を生かして働く楽しみを奪うことなのだ。それはここ三里塚で密度濃く現われてはいるが、日本全国で緩慢に進行している農業の死という問題にほかならず、小川は以後に続く重要なテーマにたどり着いたわけである。
[映画館(邦画)] 10点(2010-01-21 12:16:52)
7.  ブルジョワジーの秘かな愉しみ
たぶんブニュエルでは、メキシコ時代の作品群が最も充実しているだろうが、どれが好きかと言うと、私はこれ。自在な語り口の妙。不安と妄想とトボケた笑いが渾然一体となって、「作者は何を言いたいのか」なんて要約されることをきっぱり拒絶した、まさに映画でしか表わせない世界。映画でしか表わせないものというと、とかく美的な構図やスリリングな移動の効果などに多くの監督は工夫を凝らしてきた、でもブニュエルはそうはしない。ごく普通のカットを織り合わせるという基本で、映画が表わせるものを突き詰めた、いや拡大したと言うべきか。道を主人公たちがただ歩いていくシーンがポンとはいる。意味を考えりゃ、車に乗っていないブルジョワジーたちの頼りなさとか、周囲の農作物と隔てられた食欲だけの存在とか、いろいろ出てくるが、妄想と夢が氾濫した後にポッとその屋外シーンになると、もう意味がどうのではなく映画のリズムとしてまことに効果的で、こうして歩き続けていく彼らが映画を貫いてまとめ上げていくそのさまを、感じ入って見守るしかなくなる。あのシーンで感じる気分を、映画以外で味わうことは不可能だ。繰り返されるごとに夢の状況は悪くなっていくし、やたら発砲も起こる。喫茶店での軍人の話と神父のエピソードが重なってくる。それでも彼らは映画を貫いて歩き続ける。意味と無意味の境のような道を、あてがあるんだかないんだか歩き続ける。こちらは落語家の名人芸に立ち会っているように、ただただ話術に身を任せていればいい。
[映画館(字幕)] 10点(2009-07-08 12:09:30)(良:1票)
8.  天国と地獄
この143分てのは『生きる』と同じ長さなんだ。どちらも同じ二段構えで。何かを描くのにちょうどいい長さというものが、作家には固有にあるらしい。でもこれは私には『赤ひげ』とセットになっていて、ヒューマニズムの人としての総まとめが『赤ひげ』なら、サスペンス作家としての総まとめが本作だと思っている。そしてあちらに善の医者、こちらに悪の医者、と対になっている。黒澤は多くの作品で医者を描いていて、生命に密着した職業ということを越え、魂の治癒者といった役割りを持たされている。その医者がこの映画では、魂を沈下させていく。高台の権藤邸に憎しみの目を向けつつ、黄金町の魔窟にまで沈んでいく。こういう世の裏側の感じは、『野良犬』の楽屋裏なんかにも通じて黒澤が好んだ形而上学的な世界構造だ。この世界には一つ奥の暗い場所が隠されている、って。医者はそこを往還する職業なんだ。善い医者は下から上へ、悪い医者は上から下へと、魂を運んでいく。そういった世界観が黒澤にはあるのだと思う。この映画のサスペンスのうまさを今さらいちいち挙げてもしょうがない。好きな女優さんをひとりだけ挙げさせて。これを見るたびに印象に残るのは、山崎努と踊りながらヤクを受け渡しする女のそれらしさ。今村昌平作品なら主人公になれるような顔で、生き物の臭いはプンプンさせていながら生活臭のない女。ストイックな黒澤さんはきっとこういうタイプが嫌いなんだろうけど、それだけに見事に存在感を示していて、私はあのシーンになると異様にドキドキしてしまうのだ。
[映画館(邦画)] 10点(2008-12-24 12:23:52)
9.  鳥(1963)
ヒッチコックの映画が何度も繰り返し鑑賞できるのは、演出の名人芸を音楽のように味わえるからだと思うんだけど、ただこれだけはちょっと違うんだな。見るごとに、物語としても常に新しい読み取りかたに気が向くというか、味わうより考えちゃう。メラニーに「あなたは何なの」って問いつめる食堂の子連れのおばさんが気になったこともあるし、メラニーのいたずら好きってのが隠れたポイントじゃないかと思ったこともある(この事態は鳥がメラニーに替わっていたずらを始めたんじゃないか、でメラニーはラストでかつての鳥のような、目をパチパチするだけのか弱い存在になってしまったんじゃないか)。この異色作ばかりは悠然と鑑賞できず、いつも前向きに突っ込むように見てしまう。やっぱり原因不明のまま、話が開いたまま、エンドマークも出ないで終わっちゃうってとこが、謎として挑発してくるんだろう。鳥とは何か。たとえばある国なら少数民族のことを思い浮かべるかも知れないし、ある社会なら子どもを思い浮かべるかも知れない。人間には気がつかない些細なきっかけで大きな変化が起こり得るってとこに(非線形的変化っていうの?)、一番の恐怖があるのかも知れない。あなどっていたもの、気軽に石を投げつけていたものすべてが(生物に限らず)、この無表情で感情移入を拒む鳥の群れに重ねられ、見るごとに新しい恐怖を掻き立てている気がする。
[DVD(字幕)] 10点(2008-09-02 10:55:20)
10.  雨に唄えば
シド・チャリシーが死んだ。『バンド・ワゴン』もとても好きな映画で、彼女のダンスシーンはどれも完璧だけど、ただミュージカルの相手役としてのドラマをこなすには、やや愛嬌が欠けていた。デビー・レイノルズが愛嬌を振りまいた後で、都会の女(ギャングの情婦)として踊る『雨に唄えば』のクールな彼女のほうが、印象としては強烈。それにしてもあれは奇跡のような映画だったなあ。初めて見たとき、映画館を出ても心のウキウキが止まらないので、ただただ道を歩いてたら(とうぜん頭の中ではタップを踊っている)直線距離にして7kmほどある家まで着いてしまい、直射日光の炎天下の日だったのでバファリンが必要になったものだ。ミュージカルの楽しさが映画の秘密を握っているのではないか、とそれ以来疑っている。たとえば発声練習の早口言葉からダンスになっていくあの一瞬のスリル、ああいう日常の光景の中で不意に踊り出す瞬間に、映画の秘密があるような気がしてならない。アステアやケリーのミュージカルを見るたびに、その秘密を見極めてやろうと思うのだが、でも見始めるともう向こうに完全に乗せられてしまって、分析しようなんて気持ちはどこかにすっ飛んでしまう。映画がサイレントからトーキーになったのは退歩ではないか、としばしば思わされることが多いが、でも『雨に唄えば』を思い起こすと、その考えを打ち消さなければならなくなる。
[映画館(字幕)] 10点(2008-06-19 12:19:19)
11.  ロイドの要心無用
若いころリバイバルが盛んで、キートンに狂喜し、以後の公開予定のリストの新聞広告を切り抜いて眺めてはニコニコしていたものだが、全部は上映されなかった。客足がそれほど伸びなかったらしい。途中で立ち消えた。ロイドはもっと悲惨で、たしかこの一本だけだったんじゃないか。たしかにロードショー料金でリバイバルされるのは、映画好きにとってもかなり悩める状況で、評価の定まった古い名作より同時代の新作を見るべきじゃないか、と迷わされたものだ。そんなこんなで大型スクリーンで観た唯一のロイド作品(ビデオ・DVDで気軽に見られる時代が来るとは想像も出来なかった)。しかしこれに関しては、見てよかったと思っている。あの「とりあえず一階分だけのぼろう」という姿勢、その後の人生でしばしば思い返したなあ。ちょっと始めればなんかやれるもんなんだ、ということ。ほとんど座右の銘として心に残っちゃった。それも大スクリーンで観賞できたからかもしれない。コメディとしても、各階ごとに趣向があって、最後の風力計まで引き込まれること必定(ここで場内に拍手が湧き起こった喜びも映画館ならではの味)。都市が上を目指しだしたデパートメントストアの時代を告げているし、また広告の時代の到来でもあった。人集めが金になる時代になったのだ。スラプスティックとしても一級の作品だが、それらもろもろの時代の記録としても見事な傑作だったと言えるだろう。
[映画館(字幕)] 9点(2014-02-02 09:13:26)(良:2票)
12.  デカメロン
若いころ名画座ではイタリア映画が元気溌剌で、フェリーニの『サテリコン』『ローマ』『アマルコルド』あたりが繰り返し上映され、ヴィスコンティは配給権が当時あったのはそれだけだったのか『地獄に堕ちた勇者ども』と『ベニスに死す』の二本だけが繰り返され、若手監督ではベルトルッチの『暗殺の森』と『ラストタンゴ・イン・パリ』(私がサントラレコードを買った唯一の作品)、ヒネたのではフェレーリの『最後の晩餐』も好きだった(これのフィリップ・サルドの音楽に陶酔させられ、『ソドムの市』のモリコーネと合わせて「えげつないニ大名画の二大陶酔曲」として脳に刻印された)。そしてそのパゾリーニにも溺れ続けた。最近の人は分からないかもしれないが、ビデオやDVDのなかった昔は外国映画は配給権てのに縛られてて、配給会社が権利を買ってる間だけ上映できたの(たぶん今でもフィルムはそうなんだろう)。それが切れるとフィルムを返さなくちゃならないので、気に入った映画はとにかく日本で見られるうちに脳に焼き付けるまで繰り返し見ねば、という気持ちになってたわけ(あのころの観賞の気合いは、もう今では出来ない)。そんなころの思い出映画が『デカメロン』『カンタベリー物語』『アラビアンナイト』の三部作で、フランコ・チッティ、ニネット・ダボリなんて役者の名前を聞くともうそれだけでワクワクしちゃう。そして無名の役者さんたち。歯並びの悪い男、ニタニタ笑っている男、変に無理してるような・卑屈なような・不敵なような男たちの笑い顔。ひとつひとつの艶笑譚も楽しいんだけど、とにかく彼らに逢えるのが嬉しかった、それで見続けた。なんかほかの映画と違う広々した世界だった。
[映画館(字幕)] 9点(2014-01-15 10:12:04)
13.  マルホランド・ドライブ
困った。映画見たときは、これはいいと確信した記憶があり、確認のためDVD見たら、よく分かんない映画になっていた。そういう時は最新の観賞記録で登録するようにしているのだが、今回は9点のほうを生かしたい。たんにナオミ・ワッツが好きなだけなのかも。ハリウッドに出てスターになる、という夢を持った女の子の物語。常に嘘が忍び込んでくる。オーディション二態。あるいは深夜の劇場での音楽。青い箱までが提示部で、そのあと役がすれてくる。ベティがダイアンに、リタがカミーラに。どうやらハリウッドを夢見た女の子の滅びの物語だと分かってくる。スポンサーの横やりによってヒロインの座を盗られた女の子の物語。『マルホランド・ドライブ』って『サンセット大通り』の裏通りなのでは。ハリウッドに到着したときに励ましてくれた老夫婦が、嘲笑とともに訪れるラストへと至る(期待の重さ)。この監督の映画で唯一澄明な哀切を感じた作品。
[映画館(字幕)] 9点(2014-01-07 09:40:58)
14.  男はつらいよ 寅次郎夢枕 《ネタバレ》 
長期にわたったシリーズもののベストを判断するのは難しいが、それぞれの作品を観たときのトキメキの記憶で比べてみると、私は本作で一番ときめいた。寅の恋路がうまくいくってのの最初で、恋路でもないんだよな、ラッキョは緊張しないでいられる女性だったわけ、そして他人(米倉斉加年)の恋を優位に立ってクスクス笑いながら見ていた寅が、突然当事者になってしまいガクガクッとなってしまう。この転換に唸りましたな。パターンの引っくり返しでありながら、ただそれだけでなく、すごくキャラクターとして納得がいく。寅の悲劇の核がここにある。寅という人物がしっかり確立された一編であり、また八千草薫でなければならないマドンナだった。彼女のほうもすんなり納得できる。ラストのとらやで「あたしが振られたのよ」とか言って、まわりが冗談だと笑っていると「なんでおかしいの」と言うその語り口が(あくまで社交の範囲内の会話でありながら、本当にどうして理解されないのか、と思っているのが半分、理解されないことに対する苛立ちが半分)絶品だった。八千草さんてテレビの「岸辺のアルバム」では、スルッと不倫に走ってしまう貞淑な人妻をリアリティみっちりで・しかも不潔感皆無で奇跡のように演じたし、だいたい「ちょっと普通でない人」をやらせると凄いんです。
[映画館(邦画)] 9点(2013-12-31 09:31:52)(良:1票)
15.  神の道化師、フランチェスコ
説教もあってセリフの多い映画なんだけど、サイレント映画見てるような気になる。画面の感じがそうなのか。水の音や、ライ病患者(ハンセン氏病ってよぶと歴史的な厚みが感じられず、ここではこっちを使わせて)のカランカランとたてる音など、トーキーならではの効果が随所にあるんだけど、サイレンとタッチなんだな。画面の組み立てのせいなのか。対象だけを素直に捉えて、凝ったことをしないと決めているよう。単純者ジョバンニ老人が出てくるとさらにいい。彼とジネプロとの、純朴を画に描いたような中世コンビ。宗教が権威を持ってくると、原点へ・単純へ戻りたがる傾向を持つんだけど、フランチェスコってそうなんでしょう。その体現がこの二人。単純はまた独善に傾きたがり、種が乱れ飛ぶ中で完全なる喜びについて実験する話も他人に迷惑を掛けるわけで、単純と独善は紙一重なの。その延長には魔女狩りもあるわけだが、この映画は単純が単純として輝くギリギリのところを捕まえている。修道女が訪れるシーンの野の晴れ具合・広さの感じなんかいいですな。迎えに行くほうをずっと見せてて、切り替えして向こうに木が一本立ってる緩やかな斜面をやってくる四人の修道女になるの。一番張りつめるのは、ライ病患者に会うシーン。カランカランという音がなにやら幽玄と言うか。疎外者であり異端者であり、しかしキリスト教をキリスト教たらしめている核になっている素材、と納得させられるシークエンスであったが、能の世界と通じ合ってもいるような。でラストぐるぐる回って倒れた方角へ、布教にそれぞれ歩いていく。この教団について何か説明しようという感じではなく、いい連中だ、と作者が思っているその気持ちが、観客として見ててやはりいい気持ちになる。すがすがしさ。この複雑になった世界で単純さを求めることは、ある意味必死であり、かつそれを成せればすがすがしい。青空の中の雲、雲、雲。
[映画館(字幕)] 9点(2013-12-13 10:14:24)
16.  運命じゃない人 《ネタバレ》 
Aはごく普通の青春ドラマの装いで始まる。Bの、泣き出して気味悪いですか、なんてのがいい。おごってもらって悪いからと自転車こぐのもかわいい。でもがぜん映画が動き出すのはCになってからだ。携帯電話ができてメロドラマのすれ違いが出来なくなったと後ろ向きに考えてはいけない。新しい道具もどんどん使いこなしていくように映画は舞台を提供してきていたし、これからもそうだろう。見えないところでとんでもないドラマが進行していた、という楽しみ。映画が始まったときは、ベッドの下に○○○が隠れていたりする種類の映画とは思っていなかった。表情に別の意味が与えられていく。時間ずれてドラマに裏打ちがなされていく。義憤にかられての怒りと思っていたものが、早くトンズラしたい焦りだったり、走って追いかけてくる者も、あとで読み直される。鞄を抱きかかえてた意味も。これが初見だった中村靖日、その後朝ドラの「ゲゲゲの女房」で見、今の朝ドラにも出てる。いいキャラクターなのに、便利な脇役として消費されないで欲しい。
[DVD(邦画)] 9点(2013-12-05 09:23:51)
17.  ああ爆弾 《ネタバレ》 
私はこれが喜八で一番好きな作品。どういう組み合わせだったのか安部公房/勅使河原宏の『おとし穴』との二本立てで名画座で見た(次の週には『下町の太陽』と『気違い部落』の二本立て見てる。名画座文化の良かったのは二本立て制度で、ついでに見たもう一本で世界がどんどん広がっていったことだ)。今思っても、喜八監督のリズム感が全開した名作ではないだろうか。ドンツク・ドンツク・ポッポーなんてたまらない。砂塚秀夫や中谷一郎など常連が生き生きしており、ミュージカル合戦にもなっていて、和ものとあちらものが対決する。とりわけ和ものの使い方が秀逸で(邦楽ミュージカルってあんまりないから)、勧進帳の「毒蛇の口を逃れたる」がバキュームカーのホースになぞらえられたりする。三百万三百万と心の声が呟いたり、ドンツク・ドンドン・ツクツクに合わせて体が起きてきたり、楽団員がみな眼帯してたり、私の趣味がカタヨッていったのに、大きく影響した作品だったなあ。
[映画館(邦画)] 9点(2013-11-30 09:38:07)
18.  ざくろの色
私のノートには文章の合間にいろいろ図が描きこまれていて、言葉だけで記録をとるのが難しい映画だったのが分かる。階段の図に矢印が二つ(上っていくのと通過するのと)描きこまれてたり。壁画のタッチ、黒から白へ変わる、ということも何度も繰り返し書かれている。びしょ濡れの本、枠を持って歩く人たち、ろうそくの原に倒れている老いた主人公、なんてイメージが延々と綴られている。おそらく伝統に根ざしたイメージなんだろう。仕種や表情なんかもそうで、一人よがりになっていなかった。人形劇を見ている清潔感がある。やぎ、ロバ、鶏、羊、といった家畜の匂いも、頭だけでこしらえた宇宙じゃなくしている。もちろん伝統は格闘すべき対象であるべきなんだけど、差し迫った敵に対するときに団結する土台にもなるもので、グルジアの一般民衆がこの映画をどういうふうに受け止めたのか知りたい。黒いものが白くなっていくって、浄化のイメージでいいのかな。
[映画館(字幕)] 9点(2013-09-13 09:46:05)
19.  忘れられた人々 《ネタバレ》 
メキシコスラムのルポのように始まり、盲人から金を奪い、いざりの車を坂道から滑り落とし、ほんとどうしようもない不良連中。なんかカタワに対する微妙な不快感を目覚めさせるようなところがあって、見てて実にいやーな感じになる。不良のリーダーハイボによるフリアン殺し、真っ当に働いているところを呼び出して、後ろから殴って殺しちゃう。罪を半分着せられるペドロ、さあここらへんから残酷な歯車が回り出す。ペドロの孤独が浮き上がってくる。スローモーションの夢が素晴らしい。舞い散る鶏の羽根。肉の塊は食料だけでなく母の愛でもあろう。ペドロは母に喜んでもらいたく働き出すが、母は「どうせ」と思っている。そしてここぞと言うときにやってくるハイボ。母の手で感化院に送られてしまうペドロ。院長に信頼され、この映画で始めて明るく町を歩くペドロ、しかしまたハイボが来る。ここらへんの、救いを用意したようでいて、それを次々に取り上げていく残酷ったらない。イタリアのネオ・リアリズモのようでいて、あの「最後には心の芯が温まる視線」がない。ただ救いのない現実を記録していく。ペドロが見ただろう現実のやりきれなさを再現することに集中する。もちろんそこにはペドロだけでなく、あのどうしようもないと思われたハイボも含まれるだろう。彼の最期の、路上でゆっくり首を振る動作が忘れられない。それでも忘れられていく彼らたち。映画とはこういう仕事をしなければいけない、としみじみ思わされた作品。
[映画館(字幕)] 9点(2013-08-25 09:26:21)
20.  シザーハンズ
まずFOXタイトルのとこに雪が降っている。子どもに昔話を語る老嬢、窓の外に古城。一転してピンクやイエローのカラフルなおもちゃのような非現実的な町。古城だけでなくそれを際立たせる世間の造形がちゃんとある。抜けるような青空。そしてD・ウィースト。うまい人だなあとは思ってたけど、「単純」を的確に演じられるうまさってあんまりないよ。化粧品のセールスに荒れ果てた古城に入っていく人を自然に演じられる。でエディの登場。他人に触れることが出来ない、一種の加害妄想の現実化なわけ。社会適応の訓練。学校で紙切りやるのなんか楽しい。その彼が盗みを手伝わされちゃうとこからフランケンシュタインの怪物的哀しみが出てきます。武器を捨てて出てきなさい、って言われたってね。群衆によって化け物にされていく。芸術家の不幸の話でもあるか。人に触れる手の代わりに、創造するハサミを得てしまった男。寓話の映像化として最良の成果。
[映画館(字幕)] 9点(2013-07-31 09:40:03)(良:2票)
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