1. 張り込み(1987)
うだつのあがらない刑事が「張り込み」という貧乏くじを引かされるが、そこで監視対象の女との思わぬラブロマンスが芽生える。見張る側と見張られる側とが「犯罪捜査」という一線を飛び越えて結ばれていくという、従来からありがちなストーリーをコミカルかつスリリングな演出で魅せる。 そこに警察組織におけるヒエラルヒーの悲哀や、張り込みの手口の面倒臭さ(ただし日本の刑事の張り込みのような辛気臭さはない)などが織り込まれるとともに、それらの要素をカラッと軽妙に体現してみせるリチャード・ドレイファスの千両役者ぶりが堪らない。あらためてみると、ドレイファスって実はかなりの美男なんだと気付かされる。 後半の派手なガン・アクションの展開は「張り込み」という主題からすれば、そこまで時間を割かなくても、という感じはしたものの、畳みかけるようなリズム感は観る者を飽きさせず、絶妙な娯楽作品である。 [DVD(字幕)] 9点(2025-06-02 07:07:31) |
2. アマデウス
ネタバレ 3度目の鑑賞。観れば観るほど、噛めば噛むほど色んなドラマの面白さが味わえる素晴らしい作品だ。 初見の時は、自分がクラシック音楽に明るくないこともあって、物語の荘厳さ、絢爛さにばかり単純に目を奪われがちに終わっていた感があるが、3度目となると主人公サリエリの人間臭さ、モーツァルトの才能に裏打ちされた傲慢さ、オペラの上演をめぐる宮廷内の権力関係など、総じてまだ「近代」という黎明期を迎える前のヨーロッパ社会の人間模様の機微がじっくり堪能できるようになった。 「天才は天才を知る」とはよくいうが、サリエリはおそらく「努力の人」であり、苦節の末に宮廷作曲家の地位を得たのに、ポッと出の無粋で幼稚で能天気な「天才」モーツァルトに一昼夜にしてその地位を脅かされそうになる悲哀。 だが、サリエリはそんな憎むべき怨敵であるはずのモーツァルトの突出した才能を誰よりも見抜いていた。それもまたサリエリの才も秀でていたゆえに他ならない。だからこそ、宮廷内で嫉妬込みの侮蔑の的になる彼を擁護することで、おのれの音楽家としてのプライドを「名伯楽」という自己満足で充たそうとする。そんな陰湿で屈折しまくっていながら、どこかモーツァルトに父性的な感情も覚えていくサリエリをしっかり自分なりに肉付けし、抑えた演技で造型してみせたF・マーリー・エイブラハムの力量は凄まじいの一言である。 人間がその時その時に置かれた環境のなかで何を選択し、何を主張し、何を保持したいか。そんな心理の動向を近代以前の世界において描き、かつ壮大なクラシック音楽の楽しみを存分に加味して超一級のエンターテインメントに仕上げている。 まさに「映画を観て幸せだな」という溜め息が絶えない20世紀が誇る傑作だ。 [DVD(字幕)] 10点(2025-04-05 06:38:21)(良:1票) |
3. トッツィー
ネタバレ 日本公開当時、たしか「彼はトッツィー、彼女はダスティン・ホフマン」というキャッチコピーで宣伝されていたはずだが、とにかくホフマンが毎回3時間以上も費やしたという女装がハイレベルである。だが、女装の見事さ以上に目を奪われるのはホフマンの熱演ぶりである。 実力はある(と本人は思い込んでいる)のに意固地な性格が災いして干されている中年役者マイケル。窮余の一策とばかりに女装し、「女優」として売り出したらまさかの大当たり。一躍スターの座に就くが、一生「女性」でいるわけにもいかず、また共演する女優ジュリーを好きになってしまい、真実をどう打ち明けるかで頭を悩ませる。 スター俳優の女装という部分が独り歩きしがちであるが、テーマは男が女を「演じる」ことで実感する、社会に遍在する「性差」であろう。女として過ごす時間の中で、マイケルは女ならこうあるべきだという要求の不条理をはじめて自覚し、それを芝居の中でぶっ壊そうとする。それが視聴者や共演者から意外な好評を博したから彼はスターに持ちあげられるのであるが、所詮それは「異色の」という形容詞を冠する存在でしかない。 まだジェンダーギャップという概念をはじめ、LGBTQだとかシングルマザーだとか今日では浸透している性愛や家族のあり方も「特殊」とみなされていた時代に、そうした問題群を堰を切ったように詰め込んだ上でコメディとしてまとめ上げた点は特筆すべきではないか。 マイケルが自らの正体を明かす手段として、生放送の本番中に自らの役柄の設定を勝手に改変するというクライマックスは意表を突かれたが、ホフマンらしいマニアックさが生かされていて好きである。 余談だが、マイケルと同居する友人の舞台作家を演じるのがデビル・マーレーであるが、ホフマンより13歳も年下と死って驚いた。ホフマンが若々しいのとマーレーが老け顔なのか、劇中では同年代としても全く違和感がない。 [DVD(字幕)] 9点(2022-08-10 21:05:59) |
4. のるかそるか
ネタバレ 競馬というと、大学生の時に3回ほど挑戦してみたが、一度も勝てずに終わり、自分なギャンブルには向いていないと悟ってそれっきりである。したがって、競馬を題材にした映画と聞いてもあまり気乗りしないのだが、本作は大好きな役者であるリチャード・ドレイフスが主演だから観ようと思ったにすぎない。これが大きく予想を裏切られる快作であった。 競馬好きだが家賃も10年溜めこんで妻に愛想をつかされている中年のタクシー運転手トロッタ―が主人公。彼はたまたま入手したデマさながらの勝ち馬情報に乗っかってみたら見事的中。そこから「今日はツキがある」と勢いづいて大勝負(といっても倍率的には大穴ではないが)に挑み続ける。 この作品はいろいろと型破りである。第一に、始めから終わりまで物語が一貫して競馬からそれることはない。舞台も9割以上が競馬場で、しかもレース日のみ。それなのに全く飽きさせないどころか、観ていくにつれてテンションが上がり、画面にくぎ付けになってしまう。それも脚本の冴えとともに、何かに取り憑かれたようで踏みとどまるところはわきまえるというドレイファスの緩急自在の演技のたまものであろう。 第二に、最後まで主人公は負け知らずである。通常なら、ツキまくって調子に乗り過ぎて「その辺でやめとけよ」という大勝負に挑んでスッカラカンになってバッドエンドとか、逆に外しまくって「神も仏もないのか」と自暴自棄になりかけながら最後に勝利の女神がほほ笑むとか、ギャンブルを題材にした作品はラストのインパクトを際立たせるために成功と失敗を適度に織り交ぜるものである。しかし、本作はそんなセオリーなど意に介さないかのように主人公のバカバカしいほどに神懸かった快進撃で幕を閉じる。このまさかの展開には度肝を抜かれてしまった。 最初はとんだ穴馬を選ぶトロッタ―を狂人扱いしていた周りの人々が奇跡の連続にご追従(尊敬の念も?)へと態度が変わっていくのも現金であるが、トロッタ―が意外に堅実な人間でもあり、取り巻きと適度な距離感を保っている(大金が入って皆に大盤振る舞いしたりはしない)ので安心感がある。また、トロッターが苦労ばかりかけながら自分を愛してくれる妻に恩返しができるとしたら、やはりギャンブルで勝つことしかない。最後の大勝負は金のためというより妻への愛の証しとして挑むのである。 つまりギャンブルを通して、大事なのは金と愛情、金と友情、どちらなのか?といった人生哲学を問いかけるところに本作の味わい深さがある。とことん観る者の裏をかくことで快楽を与えてくれるコメディの傑作である。 [DVD(字幕)] 10点(2022-08-08 21:33:58) |
5. カリフォルニア・ドールス
ネタバレ この作品がテレビ初放送された時(1984年)、事前に「美人女子プロレスラーの話」だと知って「どうせエロい男性目線で撮った映画なんだろう」と観る前から決めつけ、結局は観なかった。だが、ピーター・フォークは大好きなのでいつかは観ようと思いながら40年近く経てようやくDVDで観賞した。 ご存知ロバート・アルドリッチ監督の遺作である。ドサ回りを続ける、芽の出ない女子プロレスラーのタッグチーム「カリフォルニア・ドールズ」と二人を支える中年マネージャーが一攫千金を夢見て七転八起を続けていくサクセスストーリーである。 フォーク演じるハリーは狡猾で行動力もあるが、肝心のところでツキに見放される。ドールズも容姿はそこそこ良いが、プロレス的な技術やセンスは未熟でなかなか買い手がつかない。それでも夢をあきらめないハリーはがむしゃらに奔走してビッグイベントへの出場のチャンスをものにする。 女子プロレスというショービジネスの世界で地べたをはいずり回りながら栄光の座へ向かって必死にもがいていく3人の姿には、底辺に生きる者の逞しさと図太さを看取できる。といってもフォークはじめ3人が陽性で我が身を呪うような場面もないので、洒落たコメディとして十分堪能できる。 その半面で、米国における女子プロレスラーの位置づけが現在よりもだいぶ低い時代であること、ハリ―が口達者なのは移民一世だった父親の処世術の影響であること、チャンピオンチームとそのマネージャーが有色人種であり、白人に対して敵愾心を抱いていることなど、当世の米国社会の抱える問題にも目配りしているのが、やはりアルドリッチである。 フォークはコロンボ警部とはひと味もふた味も違う軽妙洒脱な芝居で引き付け、勝負師としての「漢っぷり」も素敵である。ただドールズに関していえば、興行師に枕営業したり、あろうことかハリーと「男女」の関係になったりと積極的で一途な性格がうかがえるアイリスに比べると、モーリーの人物像の掘り下げが不足ではある。 本作を「スポ根映画」と評する向きがあるが、『ロッキー』のように血の滲むような特訓や稽古の場面はまるでなく、スポ根特有の「便所の100ワット」的暑苦しさは皆無である。その辺りも本作の基軸が「人間ドラマ」にあることの反映かもしれない。 だが、ドールズ役の二人は相当にプロレスの練習に取り組んだに違いない。試合の場面は彼女たちの体を張ったパフォーマンス(吹き替えは少しあるかもしれないが)迫力十分である。特にクライマックスのタイトルマッチが出色。彼女たちの練習の成果として技術とセンスが飛躍的な向上をみせ、実力的にも二人は立派にチャンピオンの器にまで成長するのである。フィニッシュがかつて対戦した日本人選手から盗んだ回転エビ固め(しかも二人同時に決めるルチャリブレ風!)というプロレスファンをニヤリとさせる展開も心憎い。 そして、セクシーな二人のコスチューム(むしろ今日以上にエロい。しかもまだハイレグブーム到来前)といい、まさかのポロリ付きの泥んこマッチといい、冒頭で述べたエロ要素は健全な装いで(?)しっかり盛り込まれている。テレビ初放送時の1984年というと、まだお茶の間で家族が一台のテレビを囲んで一家団欒、という時代だが、さすがに本作を家族揃ってブラウン管で観賞するのは気まずさ100%である。 ともあれ、そうした部分も含めた多様なエンターテインメント性に溢れているというべきか、何遍観ても手に汗握りながら面白く観られる珠玉の逸品をアルドリッチは最後に届けてくれた。 [DVD(字幕)] 10点(2022-08-07 21:17:38) |
6. ソフィーの選択
ネタバレ ナチスのホロコーストというと、ユダヤ人の悲劇が思い浮かぶ。だが、この作品では、ポーランド人でホロコーストの標的にされながら、何とか生き延びた女性が主人公であり、その生死の分かれ目を決めた「選択」とは何であったのかという回想を通して、ナチスの非人道性、異常性を浮き彫りにする。回想と現在とでソフィー役のメリル・ストリープの容貌が別人のように異なるのには全くたまげてしまう。 だが、どうしてもそれ以上に脳裏に焼き付いてしまうのが精神障害をもつネイサンの存在である。逆上した時も平常心の時も、ひたすらケヴィン・クラインが怖すぎる。この作品で初のオスカーを獲ったストリープといえども、正直言って、クラインとの絡みでは刺身のツマになってしまうほどのインパクトが彼にあるので、これは演出のさじ加減が間違ったというべきか。 深々と胸に刺さる、素晴らしいヒューマン・ドラマであるのは確かであるが、どうしても拭えない疑問がある。それは、あれほどの過酷な「選択」を経て自らの命を守った彼女が、なぜさんざん振り回されてきたネイサンと添い遂げることを最後の「選択」にしたのか。いよいよ発狂した彼に殺されるという恐怖のなか、何度も救いの手を差し伸べてくれた好青年のスティンゴの誘いを拒んでまで、ネイサンの下に戻って仲睦まじく最期を迎えるという結末は、彼女がネイサンのどこにそこまでの魅力を感じているのかが語られないため、モヤモヤしたものが残った。いかんせんホロコーストという肝心な主題との結合性がみえない結末になった感がある。まあ、そこはまだ自分の解釈が甘いのかもしれないが。 [DVD(字幕)] 9点(2020-07-09 20:32:33) |