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プロフィール
コメント数 178
性別 男性
ホームページ http://ameblo.jp/mabuse-tarou/
自己紹介 人にはそれぞれ言い分があるのです 。

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評価順12345

1.  ミスティック・リバー 《ネタバレ》 イーストウッドが素晴らしいのは、この映画に描かれた人生のすべてを、感情のすべてを、肯定していること。「復讐」を賛美しているわけでも、「教育」の重要性を啓蒙しているわけでもなく、ただ、そこにある人生を受け止めること。 継娘を殺された女性は、夫が間違って友人を殺してしまったことに善悪の判断を求めず、ただこれからの家族の幸せを願う。「あなたはこの街の支配者だ」と。そしてその夫は、心の底で罪の意識を感じながらも、多分、彼女の言葉通りに幸せに暮らしていくに違いない。あるいは、自分の夫を殺された女性は、その犯人だと知りながら金を貰い、息子の幸福だけを願って、同じ小さな街で生き続けていくのだろう。 イーストウッドが提示した幾多の人生は、まさに圧倒的だ。色を抑えたコントラストの強い画面の中で、役者たちは完璧にイーストウッドによって統御される。その人物の動かし方(カフェテリアでショーン・ペンを尋問する際のローレンス・フィッシュバーン)、どこを切り取っても完璧な構図(ティム・ロビンズとマーシャ・ゲイ・ハーデンの階段の上下での切り返し)、カッティングの冴え(死体を発見したケビン・ベーコンのアップから階段を上がるショーン・ペンのロングへのつなぎ)、そして、酒屋の親父(イーライ・ウォーラックだ!)から人生を放棄したかのような母親まで、すべての人物の圧倒的な存在感。 そしてパレードが行われる。ある男の人生を狂わせた場所と、ここは同じ通りなのだろうか。華やかなパレードの中で、父を失った息子は、父親と同じように背を丸めじっとうつむいている。母親を発見し、やっと彼は微笑みを母に向ける。悲惨と絶望の中の唯一の救い。 生きていくことは残酷で哀しく、善も悪も正義も大きな流れの中に混在している、そしてふとした偶然からその多くが変わっていく。もしかしたら変えることが出来たのかもしれない。しかし眼前の人生は必然だ。この世界はパーフェクトではない、それでも、ただ受け入れ、生きていくしかないではないか。10点(2004-01-18 18:37:41)(良:10票) 《改行有》

2.  デビルマン ■世界が破滅する。それはまず、普段の生活、日常を今後送ることが出来ないとと悟ること。社会的規範、個人の倫理、愛、すべてが喪失すること。そしてそれ以上に、人間の意識や意味や価値を真っ向から覆すものであること。人智を超え、すべてをゼロに戻し、新たな規範や価値基準が生まれる場であること。 ■つまり、私たちの全く知らない世界が現出する恐怖。と、期待。 ■そのテーゼを教えてくれたのが、「デビルマン」の美樹ちゃん首チョンパであり、 「バイオレンス・ジャック」であり「漂流教室」であり「ワースト」であった。 ■ところが、この映画における「破滅」とは、誰かが誰かを失うこと、でしかない。要するに「愛」。そのレベル。チンピラ男とコギャル(死語?)の愛、でもなんでもいいが、そんなのTVドラマで毎日やってるじゃん。デビルマンに変身しなくたって世界が破滅しなくたって神とか悪魔とか言わなくたって、ほら、あなたの周りで毎日起こってることじゃん。そんなもん誰が見たいのか。それが「デビルマン」なのか。 ■なぜ「破滅」に真っ向から挑もうとしないのか、と思う。こんなもんでいいんじゃん、ハリウッドの真似でいいんじゃん、映画のラストはこうでなくちゃね、と思っている姿勢が情けない。業界の裏側が透けて見える映画はやっぱ空しいです。 0点(2004-10-16 00:23:40)(良:8票) 《改行有》

3.  ネバーランド ええ年こいた大人が、なぜインディアンごっこしてるのか、とか、なぜケイト・ウィンスレットの世話を焼くのか、とか、なぜ綺麗な奥さんを邪険にするのか、とか、なぜダスティン・ホフマンは失敗続きの劇作家に肩入れしてるのか、とか、ジュリー・クリステイはなんであんなに悪役なの、とか、とにかく、ジョニー・デップ演じるヒーローが何を考えているのか、私にはまったくわからない。■なぜなら、それは描いていないからです。単に「子供の心を忘れないヒーロー」という通俗的な概念だけが映画より先にあって、それに寄りかかったまま映画が描くのは、ファンタジーと現実とが交錯するスペクタクルフルな見せ場と、子供の可愛い笑顔と、デップの無表情だけ。それをマルチカメラでとりあえず撮っておいて、お話が分かるようにつないで、こぎれいな音楽をかぶせて、感動的な映画のできあがり。■もっとちゃんとせぇよ、と。子供たちが飛び上がる瞬間や、凧が舞い上がる瞬間をちゃんと撮れよ、と。アップだけでつなぐのもいい加減にしなさい、と。空虚な映画でした。■ただ、存在感だけで役を演じること、それを心得ているケイト・ウィンスレットが素晴らしい。彼女に1点。1点(2005-01-21 20:44:02)(良:7票)

4.  アパートの鍵貸します ビリー・ワイルダーは飽きる、というのが私の意見です。どう?この小道具の使い方、といったこれみよがし、この話法かっこいいしょ、といったしたり顔が、どーも鼻についてくる。しかし、この映画はいかんともしがたい。中学生の時、深夜テレビの画面に向かって涙し、拍手して以来、どうにもこの映画だけは心のワンオブベスト、恥ずかしながら「傑作」と呟かざるをえない。何が凄いって、「ひびの入ったコンパクト」が凄い。ジャック・レモン、シャーリー・マクレーン、フレッド・マクマレイ、バラバラに描いていた三者の関係がコンパクト一つで一気にまとまり、物語がダイナミックに転回する。物語を語るとはこれだ。この「コンパクト」は凄い。そしてラストのマクレーンの疾走感が凄い。ほんの2、3秒のカットなのだが、静かな物語を解放するかのように、走るマクレーンの横顔を捉えた移動ショットの素晴らしさ!この歓喜に満ちた表情を見るために私は映画を見ているのだ。ビリー・ワイルダーは今ひとつだ、と思う。でもこの映画は忘れられない。10点(2003-12-07 20:22:06)(良:6票)

5.  殺人の追憶 この映画が描く当時、韓国は軍政下にあり、夜間は灯火管制が敷かれている。ある時間がくると村内放送が流れ、家々は戸口を閉ざし灯りを消しはじめる。映画の冒頭近くにおかれたこのシーンが、半ば過ぎに再び繰り返される。犯人が女性を襲うとき、この放送が流れるのだ。助けを呼ぶ声はスピーカーからの放送にかき消され、人々は家の中に入り、次々と明かりが消えていく。 ■時代背景の説明として登場した記号がサスペンスへと変容し、さらに、このような猟奇的な事件を招いた時代への批判としても機能しはじめる。ある物事の意味が変容し、重層的な視点、「歴史」という巨大な視点を獲得することの素晴らしさ。その緻密なる構成。■しかも驚くのは、この作品の犯人像である。未解決の事件だから、当然、その犯人がわかるわけがなく、またサイコサンスペンスにありがちなプロファイリングなる手段が犯人像を類推するわけでもない。何しろ未解決なのだ。犯人はまったくわからない未知の存在、ただその異常性だけが次々に暴かれていく。この犯人は人間ではなく、超常的な存在、悪意に満ちた幽霊なのではないか。「羊たちの沈黙」の「蛾」がまるで怖くなく、「桃」が滅茶苦茶に怖いのはそのためだ。「こんな事件、ソウルにもあったか?」という台詞は素晴らしく恐ろしい。■未解決事件の犯人は怖い、これはサイコサスペンスものの新たな発明だと思う。■そしてラスト。主人公の刑事が、20年という時を経て、映画の冒頭と同じ仕草を演じる。それは刑事が歩んだ歴史の重さを感じさせると共に、改めて、事件の神秘性、不可思議性をさらに高める。私たち観客は宙づりにされたまま、新たな謎と恐怖に陥れられる。■さらに私たちはファーストカットに登場した「少年」の意味に気づかされる。少年のアップからクレーンアップして展開される広い世界。そこは謎と狂気に満ちており、混沌とした世界と歴史の中を、犯人を捕らえることの出来なかった刑事とバッタを捕まえることのできたこの少年が、共に生きてきたことに気づくのだ。単なる猟奇殺人事件が、韓国が背負ってきた歴史と現在という重厚な意味を持つのはこの時だ。私たち日本人は、ただ息をのみ、ただ圧倒されるばかりである。この作品は韓国で大ヒットをしたという。日本からの答えが「踊る大捜査線」と「チルソクの夏」ではあまりに情けなくはないか。10点(2004-05-07 13:16:44)(良:6票) 《改行有》

6.  クラッシュ(2004) ポール・ハギスはプロの脚本家であって、アーティストではない。書類の体裁を整えるような仕事ぶりは、実に官僚的で、おざなりで、安直で、いい加減だと思う。■冒頭に死体発見シーンを配置するエンターテインメントへの配慮。「透明なマント」や銃を買うシーンなどのうま~い伏線。なにより許しがたいのは、雪が舞い落ちる叙情的なスペクタクルにすべての救いを求めていること。私が観たいのは、映画サイズに無理矢理縮めた人生の縮小版や、実人生と映画との安易な馴れ合いではない。■確かに、適度な感動と、程よい絶望や諦感、救いを巧妙に配したその脚本は実に上手い。でもそれって、みんなが唾棄するハリウッド流エンターテインメント以外の何ものでもないじゃん。そんな程度で「映画」はいいの?映画としての面白みがまるで見つけられませんでした。[映画館(字幕)] 0点(2006-03-27 00:19:41)(良:5票)

7.  パッチギ! 様々な問題を無造作に投げ出し、並べること。それらにメロドラマ的なり、叙情的なり、とりあえずの解決などは決して与えないまま、もちろん空々しい現実的な解決や思想を導くわけでもなく、井筒はそれを「映画的」に解決してしまうのだ。それは天才・松本でも計り知れない、映画に生きる者だけの選択(私はそれをマキノ的と言いたい)なのだと思う。■例えば、包茎手術後のペニスを養母に見せるシーンの混沌。包茎男の生い立ちが明確になる感動と、パンツを下ろす唐突なアクションと、クライマックスを形作る出産と、ユーモアと、下ネタがぐっちゃぐっちゃになる、そのエネルギー。あるいは、朝鮮突っ張り少女が四条大宮駅でふと見せる生活と、あの感動的な跳び蹴り。■まさにこれは「映画」なのであって、映画でしかどうにもならないことをやり、ハリウッド産エンターテインメントと小洒落たミニシアター系(実は出来損ないのハリウッド映画でしかない)の狭間にごんごーんと屹立する、これぞ娯楽映画なのだ。くたばれ今のハリウッド(とミニシアター)。これが映画だ。10点(2005-03-07 23:05:49)(良:5票)

8.  リンダ リンダ リンダ 冒頭に登場するビデオカメラの少女が観客に向かって宣言するように、さらに横移動で捉えられる学校の風景とそこに生きる高校生たちの姿は、ここが特別な場所の特別な時間であることを示している。ある人にとっては過酷であったり、甘美であったり、郷愁を誘ったり、もしかしたら今まさにそこに立っている人もいるであろう特別な場所と時間。しかし、その中に生きる高校生たちにとって、それは特別でもなんでもなく、ごく日常的な平凡な時間の積み重ねでしかない。■そんな特別だけど平凡な一瞬を私は見続けることとなる。事件が起こる訳でもない、物事が都合よく説明される訳でもない、ただ平凡な日常の断片が切り取られて提示される。例えば私は、告白する男子とそれにとまどう女子の姿を窓の外から覗き見る、バンドに誘われて訳もわからず返事をする女子の姿を壁に囲まれた枠越しにそれを眺める、あるいは顧問の先生のようにビールを飲みながら、ある種のノスタルジーを覚えながら彼女たちの練習に耳を傾ける。そんな平凡だけど特別、特別だけど平凡な時間の連なりを眺めることの心地よさ。■そして一人の少女が誰の目にもふれえない場所へと赴く。スキップをし、両手を広げ、「フランクフルトいかがですかぁ~、焼きそば、おいしいすよ~」という言葉を聞いているのは私たち観客だけだ。そして彼女は観客に向かって声を張り上げ「仲間」たちを紹介する。このシーンが素晴らしいのは、眺めるだけの存在であった私たちが彼女との時間を共有するからだ。彼女が話しかけているのは誰もいない体育館ではなく、私たち観客なのだ。■あるいは大勢の観客を前に逡巡する彼女は、突然後ろを「仲間」の方を振り返る。私は舞台の上の彼女としてではなく、まるでバンドの一員であるかのように眼前にそれを目撃する。そして唄う彼女、演奏する彼女たちを舞台の袖から見続けるのだ。■この映画が描くのは郷愁ではなく、現在の時間です。現在の時間として、人生においてまさに特別であった場所、特別であった時間を共有することの素晴らしさ。できればいつまでもそんな時間を過ごしていたいと思う。彼女たちや先生や、「あ酒ですか?」とか「OK?」とか言ってる間の抜けた男子たち、茶髪の留年女子、この映画に描かれるすべてと別れる、その痛みに、ブルーハーツのオリジナル曲が流れても涙が止まらなかったとです。[映画館(字幕)] 10点(2005-08-01 01:14:04)(良:5票)

9.  雁の寺 川島雄三の映画は巨大すぎて、時に、わけがわからぬ。「2001年」だの「マルホランドドライブ」だのなら、ま、どうでもいい格下でしかないのだが、もちろん川島の映画はどうでもいいではすまされない。この映画も何度見てもわけがわらない。 ■物語は破綻している。慈念は何を考えているのかまるでわからない。「どこに行けばいいのかわからない」若尾文子の悲しみは、決して誰とも結びついていかず、彼女がすがるはずの慈念は唐突に旅支度をはじめてしまう。 ■川島雄三としては初めての大映京都、大映京都の錚々たるスタッフにびびりながら、威圧しながら、文芸映画の巨匠としての職人的手捌きを存分に見せつけていったのだろう。そこに入り交じる映画を壊すかのような作家性。それが拮抗し、破綻し、このようなわけのわからぬ、迷宮のような映画を造り上げたのか。 ■但し、例えば山茶花究や小沢昭一登場シーンにみられる喜劇性を殊更にとりあげ、川島という映画作家の刻印を見いだそうとするのは止めた方がいいと思う。多分、川島雄三はそんな言説以上に巨大な作家なのだ。[DVD(邦画)] 10点(2007-06-03 23:47:51)(良:4票) 《改行有》

10.  宇宙戦争(2005) 《ネタバレ》 駄目男だけど、そんなにすごく駄目でもないパパ、であるとか、離婚の顛末だとかなんとか、息子とパパの関係であるとかを何気に描写し、さらに戸口でのトム・クルーズと元妻との切り返しに感動し、スピルバーグが「離婚」をこんなにちゃんと描いたのは初めてだったんじゃないかなと思い、しかも続く物語は「続・激突カージャック」の裏返し。■ところがトム・クルーズとダコタ・ファニングは次から次へと酷い目にあわされ苛められ、結果、特に駄目親父が復権したわけでもなく、なんとなく宇宙人が死んだように、なんとなく映画は終わるのだ。そのくせティム・ロビンズの地下室のシーンはやけに長く、おいおい商品ならこのシーン切るでしょ。つまりスピルバーグの妙な資質。■一方で、スピルバーグの技は冴えにさえ、クルーズ親子に視点を固定した演出、ロングショットのこれぞ!ってな挿入(街の上に立つ三本足ポッドのロングショット!!)、絶対に美しい画面にはせぬ、という心意気、スピルバーグ印の横移動、さらに斜面での戦争はアルドリッチの「攻撃」やらヒューストンの「勇者の赤いバッジ」を思わせる、なんとも真っ当な戦争映画ぶり。つまり上手い、上手いと連発したくなるスピルバーグの確かな演出技量。■さらに、地下に100万年眠っていたとは思えぬリアルなポッドの造形、SONYとNASAが共同開発したみたいなライト付きカメラ触手、全然怖くない宇宙人。つまりスピルバーグの幼児的な欲望。■これらのスピルバーグ印が渾然一体となり、全然怖くないホラー、妙に怖い戦争映画、楽しい楽しいSF、全然感動しない人間ドラマができあがりました。やっぱスピルバーグは面白いわ、と実感した一作。がんばれスピルバーグ、あと10年もしたら、イーストウッドになれるかもしれん。それとも自主映画を撮ってくんないか。[映画館(字幕)] 10点(2005-07-02 00:57:30)(良:4票)

11.  流れる 成瀬巳喜男は断じて「やるせなきお」ではない。男女の悲劇的な運命をやるせなく描く作家ではない。いわゆる「成瀬目線」を駆使したカットの連鎖が醸し出す、軽やかなリズム感の作家である。また、若夫婦が住む狭い室内から、大家族が住まう旧家の広い空間まで、あらゆる空間を絶妙に制御した作家である。そして成瀬が素晴らしいのは、そんな計算され尽くした構図の中で、立ち、座り、着替え、食べる役者たちが醸し出す空気の自由奔放さ。細かなカット割りと、一部の隙間もない構図の中で厳格に役者たちの動きは規定される、事実、小津と同様に成瀬もまた、計算された動き以外の所作を役者たちに許さなかったらしいが、それにもかかわらず立ち上ってくる、ルノワールにも似た自由でおおらかな空気、役者たちの即興めいた楽しさ。高峰秀子、中北千枝子、原節子、杉葉子、杉村春子、司葉子、岡田茉莉子、小林桂樹、三橋達也…、成瀬世界にあってはあの三船までが怒鳴ることを止め満面の笑みを浮かべるのだ。「流れる」はそんな成瀬作品の最高峰の一つです。時代に取り残され、没落する芸者置屋の物語。その歴史を淡々と客観的に見つめる、外部からやってきた女、田中絹代がとりあえずの主人公だろうか。田中絹代は時に冷静に、時に暖かく、そこに住まう様々な女たちを見守っていく。世界のすべては成瀬に統御されているのも関わらず、狭い置屋で女たちは自由に動き回り、酔いつぶれ、踊り、金を数え、ラーメンをすすり、喧嘩をし、まさに生の表情をみせてくれる。観客は田中絹代と同様に、その愚かさ、賢さをただ楽しめばよい。「浮雲」は成瀬世界の一端にしか過ぎないし、異質なる傑作だとすら思う。繰り返し述べるが、成瀬は断じて「やるせなきお」ではない。完璧な、しかしその完璧さを誇示することも、完璧ゆえの息苦しさもない、ただただ楽しく、ただただ愛しい映画なのだ。10点(2003-12-08 00:57:28)(良:4票)

12.  コラテラル 「仕事に対しプライドを持っている」と判断した殺し屋は、タクシーの運転手をパートナーに選ぶ。しかし運転手はただの夢想家であり、殺し屋は「人間としての何かが根本的に欠けている」。この二人が単なる善悪におさまらない倒錯的な関係を結んでいく。支配する者、される者の関係が微妙に崩れ、互いが互いを教育しあい、時には支配される者が支配する者を演じることとなる。そして、運転席と後部座席に離れていた二人は、「これが仕事だ」と叫びながら、まるで鏡を挟んだかのように対峙する。■シリアルキラーと刑事、ギャングのボスと刑事、そして殺し屋とタクシーの運転手。対立する人間同士が鏡を挟んで向き合うこと。■プロの殺し屋のくせにミスが多い、というシナリオの弱点などどうでもよい。そのスリリングな関係だけを見つめていればいいのだ、と思う。■それよりなにより、運転手の生活を冒頭数分で描ききる演出や、女検事との車中での会話や、赤外線をチェックする刑事の小さな芝居や、ぼろアパートの一室から見える室内の風情や、どちらの地下鉄に乗ったのかを迷う数分の間や、停車駅での見事なカッティングや、「裏窓」的サスペンスや、銃の安全装置をはずす芝居やらなんやらを見つめ、魅了されれば、シナリオのミスや(ていうか、プロの殺し屋ならレンタカーを使わないか?んなことハリウッドの百戦錬磨たちがとうに気づいてるだろ)、つまらない現実との齟齬なんぞ、どーでもいい。だってこれはファンタジーなんだもん。■タクシーの運転手は、都会に住むコヨーテの姿にはじめて気づいたのだ、きっと。10点(2004-12-02 00:51:06)(良:4票)

13.  日本沈没(2006) 「途方もなく酷い映画だった」と家族、親戚、友人、上司、部下に触れ回ってほしい。■そしてこの映画を大コケさせてほしい。■その上で「製作委員会」に名を連ね、多数決で映画を作ろうとした人々の左遷、降格、減給を望んでほしい。■次に、監督として、脚本家として才能や力がないばかりか、「製作委員会」の決定に唯々諾々と従い、作品よりも自己保身、売名に汲々とする樋口真嗣、加藤正人、尾上克郎には仕事を今後与えないという、業界内の暗黙の了解をとりつけさせてほしい。■こんな映画つくってちゃ、ほんとーに駄目になるよ。■さらにもう一つ問題なのは、この映画の酷さ、「デビルマン」クラスの酷さが、大マスコミからはまるで漏れ聞こえてこないこと。[映画館(字幕)] 0点(2006-07-23 19:12:57)(良:4票)

14.  赤目四十八瀧心中未遂 主人公の青年はただの負け犬で、自分では「死ぬ為に生きてる」などと呟いてはいるが、実はなんとか生きることの口実をつけようとしてるだけのように見える。もちろん映画はこの男をヒーロー然と描こうとはしない。その事務的な毎日を綴るだけだ。そして彼の前に現れる奇妙な人々もまた、なんら象徴的な意味を帯びてはいず、ただ彼のつまらない日常を通り過ぎていく。この前半は、何というか、臓物を串に刺すそのリズムが妙に心地よいように、ただただ面白い。■そして後半、登場する女は、何というか、まとわりつく「死」を一生懸命振り払って、一生懸命生きていこうとする女だ。なにしろ、彼女と「くりそつ」な兄貴は暴力と死に満ちているし、愛人は「刺しちがえる覚悟」で仕事をしているのだから。■このような男と女の「死」への道行きがはじまる。その齟齬から生じる可笑しさと幻想、対比がうみだす「生」の素晴らしさ。■しかし彼女は悟る。「あんたはあかんな」と呟くとき、彼女はすべてを悟ったのだ。この男が「死」に憧れつつも常に「生」の側におり、自分は常に「死」の側にいるのだということを。いくら懸命に振り払っても「死」は自分につきまとっているのだと。自らの存在が「死」をよびこんでいるのだと。それでも生きていこうとする寺島が素晴らしい。■そして男もまた気づく。自分は死ぬことも生きることもできない負け犬であることを。「死の中だからこその悦楽」も「生」もまたただの幻想に過ぎなかったことを。女が生の証として与えたパンティーはなく、自分が社会不適応者だと告知してある明解さんだけが手元に残る。実は少年時代に知っていたはずなのに。彼は美しい蝶をつかまえることはできない。それは悲しく、そして実に可笑しい。合掌。10点(2004-08-22 10:16:54)(良:4票)

15.  SPACE BATTLESHIP ヤマト ほとんど拷問、糞駄目映画。私は愁嘆場と学芸会を見に来たわけではない。[映画館(字幕なし「原語」)] 0点(2010-12-02 22:58:29)(笑:1票) (良:3票)

16.  死刑執行人もまた死す 《ネタバレ》 後半、弾圧されていた側による復讐が、なんのきっかけもなく始まる。ナチスの統治システムを逆にとった民衆による復讐は、まるで何かの機械のようにシステマティックに、厳かに、そして確実に作動する。巻き込まれた者は、運命を受け入れるがごとく、緩やかな死に向かって進んでいくしかない。これは反ナチ映画ではなく、システムに対する恐怖映画だと思う。10点(2003-12-07 00:27:22)(良:4票)

17.  ALWAYS 三丁目の夕日 DVDで観ただけで悪口を書くのはあれなんで、ま、無視してもらってもいいんだが、あまりの酷さにびっくりした。■コントみたいな演技(とりわけ吉岡君には参った)とコントみたいなセット、凡庸で官僚的な演出、「こーゆーことあったあった」ネタ(知らないが)のオンパレード、うるさい音楽。何より許しがたいのは、30年代初頭の人々がすべて力道山に盛り上がったかのような、表面的な人間観、世界観。■天の邪鬼で言っているのではなく。いや、ほんとに、単純に、酷い映画だと思う。[DVD(字幕)] 0点(2006-06-09 22:47:53)(良:4票)

18.  ミリオンダラー・ベイビー ■「モ・クシュラ」という謎の言葉、レモンパイを出す店、スクラップ、それらの配置はいかにもハリウッドの文脈にのっていて、そこからはずれることはない。この映画のラストを、ハリウッド映画一流のさげ、と評してもおかしい話ではないし、「ウェルメイド」な物語が現実と程良く折り合っている、と批判したって構わないとさえ思える。演出は完璧だし、フォード的、ホークス的な疑似家族は私たちを心地よく映画の世界に引き込んでくれる。■しかし、そう言いきれない居心地の悪さ。妙なズレ。■それは例えばマギーの口にねじ込まれるボールペンであり、片足の無いシーツのふくらみであり、がらんとした部屋で詰られるマギーの姿である。それは「残酷な現実をクールに描く」というものでもない。また「多様な現実を並列に配置している」わけでもない。■「現実」ではなく「映画」が要請しているから描いただけ、イーストウッドにとって「現実」とは「映画」なのだ、と思う。「映画」が世界の有り様をねじ曲げていくのだ。現実ではなく「映画の倫理」の中でしか、イーストウッドは生きていない。■だから、「マギーの選択の是非」「イーストウッドの決断の是非」を問う言葉、あるいは、「感動した」「マギーの家族がステレオタイプ」「後味が悪い」などの評に、賛否を問わずことごとく違和感を感じるのは、それらの言葉が常に現実を参照しているからだ。現実との距離を計測し、自分と映画の立つ位置を定める言葉。それらはこの異様なる傑作を前にして、すべて無効となる。■しかし、それらの言葉は当然と言えば当然ではある。映画は常に現実の模倣であり、あるいは現実との不断の闘争の場である。ところがイーストウッドはそれをすんなり乗り越える。軽いフットワークで現実を凌駕する。「映画」が世界の有り様をねじ曲げていくのだ。しかもハリウッドの文脈の中で。凄すぎ。■でもね、クリント、そんなのよくわかんないすよ。だから私はただ途方にくれ、ただ泣くしかない。その完璧なスタイルの中で繰り広げられる異様な事態を見続け、これが「映画」だと、ああ私は今まさに「映画」を観ている、凄い何か、異様な何かが目の前で進行している、と思う以外にない。[映画館(字幕)] 10点(2005-06-06 11:37:16)(良:4票)

19.  おかあさん(1952) 川本三郎的というか、後ろ向きというか、日本映画を語る際の「ノスタルジック」な文脈、今はなき日本の風景を懐古する楽しみは、とりあえす私が老人になってからでもいいと思う。ただし、この作品は別だ。もちろんこの作品は私が生まれる20年以上前に制作され、描かれた風景はノスタルジーの範疇外のものである。しかし、この作品に描かれる風景のなんと懐かしいことか。銀座のバーや上流家庭、花柳界ではない、どこにでもある下町のごく当たり前の風景の心地よさ。職人さんが上がりがまちに腰掛け焼酎をすする。洗濯物を干す。店屋物を食べる。そんなごく当たり前の風景の中で描かれる「おかあさん」はあなたや私の母の姿のようだ。//もちろん、成瀬の技は冴えに冴えている。狭い室内で、田中絹代は主に目線を下にした立ち姿。絶妙な目線つなぎ、かっちょいい省略、季節の変化。例えば、加東大介と「おかあさん」を嫌悪の表情で見つめる香川京子、第三者の視線とナレーションとの見事な連携。しかし、そんなあれやこれやは途中から忘れてしまう。ただ泣きに泣く。//もし、あなたが成瀬作品を観たことがない幸福な観客だったら、「浮雲」ではなく、この作品や「石中先生行状記」から入るといいと思う。あるいは、「浮雲」を観てどんよりしてしまった若者諸君は、この作品で元気を取り戻して欲しい。この作品はただただ楽しくて愛しい、普通に泣け、普通に笑える極上の絶品だ。//そして香川京子が素晴らしい。香川京子(あるいは司葉子)を三船や自身の分身の添え物としか使うことの出来なかった巨匠に殺意すら抱くほど、成瀬作品の香川京子は素晴らしい。小さく舌を出してはにかむ、花嫁衣装に涙ぐむ、「私はお母さんが大好きです」と独白する…、恋人、岡田英次とたわいないやりとりを繰り返す香川京子の姿は、もしかしたら若い日の私の父と母の姿なのかもしれない。10点(2004-03-08 12:29:32)(良:4票)

20.  リクルート 例えば、アメリカを揺るがすような大きな陰謀を阻止するために選ばれたのが、就職して1年に満たない若者ただ一人であることに、コリン・ファレルは疑問を抱かなかったのだろうか?、とか、日本の刑事ドラマなみにお粗末な尾行シーンとか、ネタがすぐばれるとか、ま、そんなことはどうでもいい。この映画で一番問題なのは、こくがないこと。例えば、なぜコリン・ファレルはCIAを志したのだろう?映画は説明する、父親について知りたいため、と。しかし、それは単に説明だ。ファレルはなぜ父親について固執するのか、大手企業を袖にしてまでCIAを志すのか。説明ではなく、納得したいのだ、私は。 つまり、すべてが性急に過ぎ、メリハリに欠け、主要な物語を語るだけで、ディティールやキャラクターの面白さがまるでない。などと書くと、「そんなこと描いてたらタルくなっちやう」と若者諸君は言うかもしれないが、例えば70年代のサスペンスストーリーはたった1カットで物語の様々を描く技量を持っていたのですよ。そんな演出が今のハリウッドにはまるでない。中年の繰り言のようで申し訳ないが、そういうことだ。お話だけの映画を観たいなら、原作小説で充分だ。私は映画が観たいのです。3点(2004-01-18 18:47:51)(笑:1票) (良:3票) 《改行有》


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