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1. おおかみこどもの雨と雪
《ネタバレ》 最近のアニメは、生きる理由に「誰かを助けたい」というのが多い。
そして誰かを助けることができるように、主人公が誰かを助ける力、
たとえば巨大ロボットを操縦する唯一の資格者とか、魔法が使えるとかそういう特殊能力を持っている設定が多い。
特殊能力を持っていて、かわいそうな人たちがいて、
すべてが用意された、受動的で薄っぺらい人生観だと思う。
この映画には、理由や説明はほとんど用意されていない。
花とおおかみおとこが付き合い始めた理由も、おおかみおとこが死んだ理由も、
先生が死ぬ理由も説明がほとんどない。
雪は、元気に自然を駆け回っていたが、人間界を選択した。
雨は、小学校にも通ったが、自然界を選択した。
物理的に出会うことと、魂が出会うことは全く別だ。
雪の魂は人間界を選択し、雨の魂は自然界を選択した。
理由などないし、なぜかなんてどうでもいい。
魂の感じるままに状況から行動を選択し、全うするだけである。
理由があるから生きるのではない。魂の求めるままにただただ生きるのだ。
生きる理由や助ける誰かを用意されないと生きていけないそこらのアニメの主人公より
この映画の登場人物は何百倍も力強い。
あと感心したのが、花と韮崎の交流の描写だ。
花は雪と雨を育てるために山奥に暮らし始め、一人で畑を耕し始める。
うまくいかなくても、一人で耕す。花に特技があってそれが地域の人の助けになった
なんてことは無い。花は自分の人生をひたすらがんばる。そういう姿を見て、韮崎は助言はする。が手助けはしない。花にやらせる。花も助言を受け、自分で畑を耕す。
助けてくれとは言わない。そうやって自分の畑を自分でつくり、そして地域の人たちとの交流が始まる。自分で動き自分の生活を自分で立てて、初めて他の人間と交流ができるのだ。できない理由を他に求めない、できなければできるまでやるだけなのだ。
最後に、鑑賞した映画館の呼び込みの人が「おおかみおとこの雨と雪」といってたのも
おそらくなんの理由もないだろう。[映画館(邦画)] 9点(2012-07-25 02:03:01)(良:2票) 《改行有》
2. ゆれる
《ネタバレ》 人間というのはなんて不安定なんだろう。自分は相手を信じていると思っていても、相手から否定された時、今までの信頼が簡単に憎しみに変わってしまう。人間は相手がいないと一人では生きていけない生き物なのに、相手がいればいたで相手に影響されて、自分というのがどんどん変わってしまう。「本当の自分」なんて言えるのだろうか?人間という存在は常にゆれている。猛が帰ってきた事により、稔も智恵子もあっけなくゆれる。稔に「触らないで」と叫ぶ智恵子。猛にガラス越しに唾を吐きつける稔。稔のゆれを受け、猛もまたゆれ、裁判で稔に不利な証言をする。人間というものの不安定さを映画はこれでもかと見せつける。映画は最後に、ゆれるが故に戻る事もできる、と救いの手を差し伸べる。が、猛の呼びかけに稔が振り向いた所で映画は終わる。人間というのは答えの出ない、どこまでもゆれる存在だ。なんて事を考えました。[映画館(邦画)] 8点(2006-09-05 02:16:59)(良:1票)
3. ゲド戦記
宮崎吾朗監督は、自分の中の表現したいものと格闘していないと思います。何を表現したいのか、それを相手(観客)により深く伝えるにはどうしたらいいのか、という事に対してもがき苦しんだ様子が作品からまったく感じられません。確かに話はうまくまとまっていますが、人物を都合良く配置し、起承転結に沿って話をセリフで転がしているだけだと感じました。
「心の闇」というものについてのたうち回る位に真剣に考え、その葛藤がそれこそフィルムになすりつけらている位に表現されていたら、父殺しの理由の具体的な説明が無くても全く構わないと思います。説明がない、辻褄があわない、というのは大した問題じゃありません。
しかし、映画からは「心の闇ってさ~」と喫茶店で友人に話している位のテンションしか感じませんでした。表現したい対象と向き合う覚悟が、駿監督とは決定的に違うなと思います。
有名タレントがちょっと格闘技を習ってPRIDEに出ているような映画に感じます。もし本気で監督を目指し二作目を作る気なら、マスコミも見向きのしないアマチュアの格闘技大会から出直す位の気持ちで作って欲しいです。[映画館(邦画)] 3点(2006-09-05 01:12:56)(良:1票) 《改行有》
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