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581.  ヨーロッパ一九五一年 ネオリアリスモの作品においては、 単に荒廃した街のロケーションが映し出されるだけではなく、 そうした光景を目撃する人々もまた映し出されているということを喝破したのが、 ジル・ドゥルーズ。 目撃する者が写し込まれているからこそ、 その映画の情景はより生々しく強度を帯びるという分析である。 この映画でも、 無機質な工場のラインを、川辺の貧困家庭を、低所得者の安アパートを 目撃するイングリッド・バーグマンの表情が写し込まれることで、 彼女の視線に擬えて捉えられた情景はより印象深く、迫真のものとなる。 そして映画のラストにおいて、 バーグマンもまた子供たちの見上げる視線によって目撃の対象となることで、 その表情のクロースアップは一段と映える。 ノワール風の夜の照明も含め、全体のムードはペシミズムを漂わせながらも、 ラストの微笑の聖性と、ジュリエッタ・マシーナの快活さ、そして子供達の純真さに ロッセリーニのオプティミズムが滲む。 [DVD(字幕)] 8点(2012-06-22 23:58:33)《改行有》

582.  帽子箱を持った少女 《ネタバレ》 娘ナターシャ(アンナ・ステン)と青年イリヤ(イワン・コワル=サムボルスキー)の 出会いと再会のシーンを始めとして、画面にたびたび登場する「両足」が 一つの主題と云っていい。 足や長靴そのものは勿論、凍った架橋で何度も滑って転ぶギャグや、 テーブル下での駆け引き、雪原の白い地平線を歩む登場人物など、 足を使ったアクションの充実もそうした印象を強化する。 人物の表情のアップとスラップスティックのロングショットの使い分けも メリハリが利いている。 その中で、奥行きを駆使した二人のラブシーンの画が印象深い。 ソファに座った二人を、奥にナターシャ、手前にイリヤの横顔を配して構図を決める。 当初は偽装結婚だったが今は本当に結婚したいと告白する彼女と、 周囲から賞金目当てととられるためそれは受けられないと固辞する青年。 その対話が、手前と奥それぞれフォーカスを変えた同一構図でショットが反復される。 現在なら1ショットのうちに簡単にピントを送れば済むところを、 当時の浅い焦点距離の限界のなかで手間をかけてフォーカスを調整し 奥行きを作りだそうと健闘しているのが良く伝わる。 現在の特権的な立場から見れば、ぎこちない繋ぎに見えてしまうだろうが、 そこには二人のすれ違う想いが画面として強く表現されているゆえに感動的だ。 映画のラスト近く、ナターシャが間違って自分の指を針で刺してしまうと、 イリヤはその指を口に含む。 すると彼女は次にわざと自分の唇を針で刺して、 彼に一歩二歩とすり寄りながらキスをせがむ。 その彼女のお転婆な歩みの動作がとてもキュートで可愛らしい。 そしてラスト、想い叶ってキスし合う二人のツーショットが幸福感一杯だ。[DVD(字幕なし「原語」)] 9点(2012-06-20 21:46:24)《改行有》

583.  無人の野 作中での人物のクロースアップはかなり頻繁だが、 それは構図から逃避するための安易なものでは決してなく、 一個の生命の個性を、感情を強固に描写するためのものに相違ない。 米軍のヘリが落とした照明弾用パラシュートを見つけては喜び、 米軍兵士を見事に威嚇し退散させた大蛇を振り回しては喜ぶ ラム・トイとグエン・トゥイ・アンの農民夫婦。 そのパラシュートを利用して衣服を縫う。大蛇の皮を剥いで太鼓を作る。 ヘリに見つからないよう、木々の枝を揺すって炊事の煙を拡散させる。 赤ん坊をビニール袋に包み、共に水中に隠れて空襲から守る。 そうした生活の一部としての戦争描写もまた、 彼らの印象的な表情と共に、丹念かつ具体的だ。 同時代の体験者ならではの顔であり、居住まいであり、リアクションである。 同時に米軍パイロット側のと表情のドラマも並行することで、 ラストにおいてその妻子の顔写真と、それが燃える様を見つめる グエン・トゥイ・アンの表情が胸を打つ。 そして、時に詩的な趣きをみせるメコンデルタの葦原の情景描写も瑞々しく 素晴らしい。 ヘリに狙撃されるシーンの仰角・俯瞰のカメラワークが醸成する迫真の緊迫感は、 『北北西に進路を取れ』のトウモロコシ畑にも決して負けない。 [CS・衛星(字幕)] 8点(2012-06-17 00:01:03)《改行有》

584.  群れ れっきとした劇映画だが、アンカラへ向かう列車から撮られた風景の点描や、 アンカラ市内のゲリラ撮影的な街頭ロケが土着的な音楽の数々と共に非常に生々しい。 手狭な列車内などでは人工照明も不十分なため、 明度も様々な粗い映像となって即物的なリアルを浮き上がらせる。 街中を行進する羊の群れと民族衣装を纏う主人公たちに好奇の眼差しを向ける 市民の表情やリアクションは、演技ではないだろう。 強盗によって喉を掻き切られる羊のショットなども強烈だ。 そうした、フィクションの中に度々介入してくるノンフィクション的なショットとの 絡み合いの構造が、同時代の批評となると共に被写体に緊迫した存在感を与えている。 口をきけなくなりながらも夫を慕う病弱の妻の身振り、籠の中の鳥を慈しむ姿。 長旅によってさらに衰弱したその彼女を背負い、人混みの交差点を彷徨う 夫の献身の姿。そして彼女の死を侮辱され半狂乱となる痛切な姿もまたそこで際立つ。 具体的に提示される羊の数、貨幣の金額もこの映画では重要な要素だ。 [ビデオ(字幕)] 8点(2012-06-15 23:56:40)《改行有》

585.  イースター・パレード ステッキを華麗に操るフレッド・アステアのスローモーションの素晴らしさ。 続いてそれを舞台袖で見つめるジュディ・ガーランドのショットが挿入されることで、 そのスローモーションは彼女の見た目のショットであった事に観客は気づかされる。 そこで単に妙技と躍動を披露する映像だったものは、 彼女の思い入れを伴った情景へと昇華する。 それは終盤のアステアとアン・ミラーのダンスも同様だ。 二人のダンスをテーブル席から一人見詰めるガーランドの姿が二度挿入されることによって、 その優美なダンスはそれ以上のものとして彼女の視線に倣った感情をもかきたてる。 映画の中でガーランドのダンスシーンは決して多くはないものの、 ダンスを見つめる視線という卓抜の仕掛けによって、 彼女は映画の感情を担うヒロイン足り得ている。 通行人を振り返らせようとする彼女のヒョットコ顔が楽しく、 ドア越しに拗ねる彼女の仕草がいじらしい。 暖炉わきのピアノを弾き、歌いながら愛情を確認するアステアとガーランド。 二人の視線のドラマと、彼らに緩やかに寄り添いながら背景の暖炉の炎を二人に 一体化させていくカメラワーク、彼女の纏う淡いピンクのドレスの色彩、 そして「It Only Happens When I Dance With You」 が集約され、 絶品のラブシーンだ。 [ビデオ(字幕)] 9点(2012-06-13 23:46:49)《改行有》

586.  幸せへのキセキ 人間と人間。動物と人間。 それぞれが物云わず見つめ合う交感シーンでの繊細な眼の表情が、 最後のシークエンスに至るまでことごとく素晴らしい。 虎やグリズリーなどの動物たちだけでなく、不動産のセールスマンや検査官や レジの女性など、端役一人一人に至るまでの目配せも実に丁寧だ。 また、巧みなのは印象的な台詞の反復だけではない。 窓ガラス越しに出会うこと。相手に眼差しを返すこと。陽の光を浴びること。 そうした視覚的主題の反復もまた重なり合って、 マット・デイモンとスカーレット・ヨハンソンの表情の切り返し、 エル・ファニングとコリン・フォードの表情の切り返しをより美しいものにしている。 キャメロン・クロウの選曲自体も相変わらず良いのだが、 夜の動物や虫たちの声を静かな背景音として聴かすべき三箇所で 音楽を被せてしまっているのが残念なところ。 引越し前の賑やかな夜との対比は利かせて欲しかった。 [映画館(字幕)] 9点(2012-06-11 21:44:19)《改行有》

587.  エスター ピーター・サースガードの役柄が建築デザイナーであることを活かしたツリーハウスや ガーデンルーム、中央に階段を配した印象的な居間、あるいは凶器となる工具 (バール、万力)など、セットの高低と小道具を巧みにアクションに結び付けている。 その死角を強調した居住空間は秀逸なカメラワークと共に、 窃視の視線と盗み聞きのドラマにも効果を発揮する。 併せて、「話せない」こともまた視線の強度とサスペンスを生んでもいるだろう。 それだけに、インターネットはともかく携帯電話の安易な利用はドラマ的に少し勿体ない。 しかし、短いながらも強烈なインパクトのあるショットの数々が要所要所で利いている。 冒頭の逆光シーンの夢幻感。 ヴェラ・ファーミガがベッドで童話を語って聞かせる、その手話の身振り。 バックで暴走する車を内側から捉えたショットの恐怖感。 割れた鏡に映るイザベル・ファーマンの分裂した姿。 その顔に残るアイシャドウの黒。 公開バージョンのラストは、企業のシステムによって選択されたのだろうが、 監督が本来使いたかったのは、「割れた鏡」へのこだわりからしても 恐らく別バージョンの方ではないかと思う。 [DVD(字幕)] 8点(2012-06-09 21:59:08)《改行有》

588.  テルマエ・ロマエ シネマスコープを効果的に使った、1960年前後の史劇大作風のオープニングでケレンを 利かすかと思えば、一方では矢口史靖的な人形を使ったチープなギャグも軽妙に演出してみせる。 コメディとロマンスも程よく織り交ぜ、スペクタクル・ご当地性・スター性と 雑多ジャンルを混成したシネコン映画的な要請にも器用に沿いながら、 寄り引き巧みな視点や構図、的確なカッティング・イン・アクションといった 安定した技術を土台に、ウェルメイドを達成する。 そしてその上で、独自の演出による細部細部を立ち上げ、自分の作品としている。 そのしたたかさこそ素晴らしい。 湯けむりや炎、水面の光の反射、群衆など、不定形素材の動的細部が映画的であるのは云うまでもないが、 とりわけ浴場の松明、蝋燭の灯り、焚火、窓から入る黄昏の太陽光など、特に夜の場面の炎がことごとく見事だ。 その「燃える炎」は、阿部寛が決死の直訴をする際の秀逸な音の演出として、 そして別離のシーンでの、瞳への照り返しの演出として、 物語の進行に伴い次第に意味を帯びるものとしていくのは作家の手際だ。 雨の降る中、悄然と階段に腰掛ける阿部寛の向こうにソフトフォーカスで捉えられた上 戸彩。手前に歩み寄ってくる彼女に凡庸にピントを合わせてしまうかと思いきや、 それを自制したショットの嬉しい裏切り。 この時点では一方向的な二人の関係性を示す事に専心する、そのまっとうな矜持が光る。 [映画館(邦画)] 9点(2012-06-07 21:28:13)《改行有》

589.  チャップリンのカルメン チャップリンが編集したオリジナルは2巻物(約20分)だったが、彼のミューチュアルへの移籍後にエッサネイ社が4巻物に水増しし、「でっち上げた」のが現行のバージョン。 (チャップリン自伝) つまり、映画の約半分は監督チャップリンの不服とするNGショットだ。 この苦い経験もまた、後に彼の完璧主義を形成していく一因となったのだろう。 確かにジプシー側の描写の多い前半部分などは活劇性も薄く、 人物の出入りを繋ぐ編集テンポも悪い為、短い時間を長く感じてしまう。 一方で、オリジナルからあっただろうショットもその充実ぶりからある程度察しがつく。 テーブル上でジプシーのダンスを踊る艶やかなカルメン(エドナ・パーヴィアンス)。モブシーンの猥雑とした活気。 邪魔が入って彼女となかなかキス出来ないチャップリン。 剣戟のコミカルで秀逸なアクション等々。 身も蓋もない云い方をすれば、彼の終生のパートナーともなるエドナ・パーヴィアンス との仲睦まじい絡みの全般であり、 自身の渾身のギャグシーン全般だ。 その釣瓶打ちとなる後半は、一気に映画を盛り返している。 バ―レスク(文芸作品のパロディ)とはいえ、悲劇「カルメン」の喜劇化それ自体が ラストのオチも含めて無理矢理感いっぱいだが、 ラストのツーショットで見せる二人の笑顔は幸福感に満ちて感動的だ。 [DVD(字幕なし「原語」)] 7点(2012-06-04 22:15:56)《改行有》

590.  猿人ジョー・ヤング 《ネタバレ》 先の悲劇的な『キングコング』に比べて、人間性に対する信頼が強まっている感が強いのは、ジョン・フォードも製作に名を連ねている関係か。 飼い主であるヒロイン(テリー・ヤング)は勿論、その恋人となるベン・ジョンソン、興行主(ロバート・アームストロング)らも協力して、主人公のゴリラ:ジョーをアフリカへと帰すべく一致団結して手助けする姿が感動的だ。 テリー・ヤングの可憐さ、ロバート・アームストロングのユーモアも利いており、 ジョーの仕草の愛嬌と共に作品にヒューマ二スティックで爽やかな後味を与えている。 オブライエン&ハリーハウゼンの特撮と、人間や馬やライオンのライブアクションとの絶妙なシンクロが素晴らしいのは云うまでもなく、後半の逃走劇のアイデアとサスペンス、そして赤い着色フィルムによる孤児院の大火災のスペクタクルもまた圧巻だ。 ラストのフィルムレターも幸せ一杯、ほのぼのとした大団円になっている。 [DVD(字幕)] 9点(2012-06-03 23:59:50)《改行有》

591.  ダーク・シャドウ(2012) 《ネタバレ》 アバンタイトルからベラ・ヒースコートが屋敷内に案内されるまでの流れは、あたかも彼女が主人公であるかのように思わせる展開だが、それは屋敷内の様子と登場人物を効率的に観客に紹介していくためのものであった事がわかる。 中盤からクライマックスにかけて彼女の影が薄くなるため、三角関係のドラマとしては些かバランスが悪くなってしまうのだが、そうした破綻とアンバランスさがバートン本来の病理的であやうい魅力と云えなくもない。 スタジオのしがらみが顕著な前作は、程よくユニークでウェルメイドで小器用で教訓的で無害でしかないが、本作の不健康ぶり・インモラルぶりこそ彼の本領に近い。 愛情と憎悪、煩悩と理性、異質な他者と一般人、その間で分裂するそれぞれのキャラクター。(エヴァ・グリーンの最期の表情の素晴らしさ。) 屋敷内や崖のシークエンスで印象的な、焦点深度の深い映像。(遠近を惑わすヒ―スコートと彼女の肖像画のパンフォーカスこそ、ラストの予告だ。) 伏線や整合性や現実的倫理といった小細工を取り払っているゆえに、作り手の特異な症候とその治癒への試みとでもいうべきものがバートン流「再構築」映画の中で際立つ。 [映画館(字幕)] 7点(2012-06-02 10:48:19)《改行有》

592.  ひろしま(1953) 敗戦から7年。 GHQによる映画検閲の廃止に伴い、原爆被害の言説に関する厳しい規制がようやく解かれ、新藤兼人監督の『原爆の子』と、本作『ひろしま』が製作公開される。 アピールの形式はそれぞれ異なるが、どちらの作品の画面にも表現の自由を束縛されてきた鬱憤を晴らさんとする作家の情熱と、「記録すること」への意思、そして犠牲者への想いとが尋常でない強度で充溢している。 それを支えたのが、当時第二の黄金期を迎えていた日本映画産業の充実したスタッフワークだ。 3分弱のシンボリックなカットで被爆の状況を表現した『原爆の子』に対し、本作で表象された被爆の図は、美術セットも衣装もメイクも、そして芝居も現在に至るまでに作られた原爆映画の中でも最も凄惨で、迫真的で、生々しいものだろう。 それだけに、戦争犯罪者に対する怒りと糾弾は直截的だ。 が、本作が指弾するのは、原爆投下者だけではない。 「何故か」当日空襲警報を出さず、新型爆弾の情報隠蔽を画策した軍上層部の棄民体質。 過去の痛みを忘れ、次なる朝鮮戦争特需へ向かおうとする世。 原爆症に対する無知。 現在からすれば、「8年しか経っていない」1953年だが、当時からすれば記憶の風化に対する危機感、切迫感が相当にあった事が映画の語りからは伺える。 硬直した作劇と台詞が貶しどころではあるが、その愚直さゆえに止むにやまれぬ思いが 伝わるのも確かだ。 原発事故一年後の現代日本とを重ねずにはおれない。 [ビデオ(邦画)] 8点(2012-05-29 21:31:54)《改行有》

593.  毎日かあさん 《ネタバレ》 ダイニングとリビングの二間、玄関の内と外、小泉今日子の仕事部屋のデスクと奥のドア、透明なテラスの上と下、子供たちが乗るメリーゴーラウンドと手前のベンチ等々。 二つの空間を1フレーム内に取り入れた縦の構図によって奥行きのある立体的な空間を達成している。 その奥と手前それぞれに的確に配置された小泉今日子・永瀬正敏・小西舞優・矢部光祐の4人はロングショットと長回しによって群像としての家族を全身で生きている。 手を繋ぐ、じゃれ合う、抓る、叩く、抱く、と映画的な接触のコミュニケーションも愛情表現として大変豊かだ。 公園でのままごと、ひな祭りの写真撮影など、4人が固定フレームの中で絡む芝居はまさに演技を超えた仲睦まじい家族そのもののドキュメンタリ―の感すらある。 単純な切り返しの会話がなく、複数の人物を極力1つのショットに収め、パンフォーカスによって深い被写界の中で彼らを絡ませることで、個々人の身体はフレームに寸断されることなく、その関係性がより強固に炙り出されるという具合だ。 父のいる海へ行こうと、小さな水色のビニールプールで光る川を下る兄妹の姿の美しさといったらない。 車中での離婚届けへの捺印を挟んで、それまでツーショットで映っていた小泉と永瀬が個々の単独ショットに切り替わるなどといった演出も細やかである。 あるいは、店名の一部である「子」の字の映る飲み屋街のガラス戸。そこに映った永瀬の顔にフラッシュバックの返り血が浴びせられるインパクト。 フェリーニのような人工の川面。 親子が釣りに興じるシーンの少々賑やかな『父ありき』。 藍色の海の豊かな色彩とアニメーション。 工夫を凝らした奔放な発想が随所に挿入され、まったく飽きさせない。 そして、エンディングの「家族の肖像」がまたダメ押し的に素晴らしい。 問われるべきは、原作に忠実か、モデルと相似しているかといった事ではなく、 小林聖太郎独自の映画となっているかどうかだ。 [DVD(邦画)] 9点(2012-05-27 22:47:19)《改行有》

594.  ハンナ シアーシャ・ローナンと、彼女が道中で知り合う少女がテントの中で横になりながら語り合うシーンは、二人が向き合っているはずでありながらカメラに対して二人が同一方向に身体を傾けているという、一般的にはあり得ない切り返しで撮られている。 同じく、走るキャンピングカー内でオリヴィア・ウィリアムズと対話する際もそれぞれ左右の窓際席の切り返しとなるが、 何故かどちらの窓外にも太陽光が輝いているという具合だ。 共に光の加減が見事な画面であり、自己との対話といったニュアンスを仄めかしたのか、ともあれ、整合性を無視した繋ぎをあえて選択している事は間違いない。 前半のICA施設のダクト、中盤のコンテナ置き場、後半の遊園地内といった舞台設定や、随所に現れる円形や回転のモチーフも含めて、映画に夢幻的な迷路感覚を呼び込むよう施された演出の一環だろうか。 縦横無尽の移動を絡めたバスターミナルから地下通路までの超ロングテイクや、太陽光の人物への当て方・屋内人工照明の印象的な用法といったジョー・ライト印の技巧も、その意味では効果を挙げている。 シア―シャ・ローナンの俊敏な疾走と、徒手格闘。そして、ケイト・ブランシェットの凄みは流石だ。 [DVD(字幕)] 7点(2012-05-26 23:57:54)《改行有》

595.  ファミリー・ツリー 《ネタバレ》 意識の戻らない母を逝かせる事が次女(アマラ・ミラー)に伝えられる。カメラは彼女の目に光る涙を見逃さない。幼さを残しながらも、気丈にその言葉を受け入れる彼女の表情。その一連のショットを繋ぐ寡黙で繊細で優しいディゾルブ処理が素晴らしい。 通俗に陥りそうな、親族会議でのスピーチを巧みに省略するのも、親子3人と少年の小さなシルエットがカウアイ島の渚を歩くロングショットの重なりが豊かな情感を醸成するのも、この適切なディゾルブ編集による。 単なるハワイの絵葉書的美観の羅列に陥らせずに、風や波の音と共に自然光を活かしながら、パンフォーカスやロングショットによって人物・自然・ポートレートを同化させる構図もシークエンスと主題を際立たせている。 その極めつけが、父ジョージ・クルーニー、長女シャイリーン・ウッドリー、次女アマラ・ミラーの親子がソファで寛ぐラストショットの一体感だろう。 母の形見の膝かけに包まる三人の真直ぐな視線。その背後にあるランプシェードの灯。額縁の絵。開放的な奥の空間。流れ続ける『皇帝ペンギン』のナレーション。 静かな時間の感覚が父娘の絆を炙り出すようで、秀逸だ。 [映画館(字幕)] 8点(2012-05-24 22:27:10)《改行有》

596.  アンノウン(2011) 《ネタバレ》 リーアム・ニーソンがパスポートの入ったバッグを空港に置き忘れるのは、ホテルのカウンターでジャニュアリー・ジョーンズだけがチェックインするのを監視カメラが捉える状況を作り出すというあくまで単純な作劇上の必要性から逆算した設定であり、その彼女が爆弾を止めようとして失敗するのも、届かない手のサスペンス(前半の鋏と照応)と爆破のスペクタクルを構成するというシンプルな映画的要請からくるものである。 フィクションに囚われ「<らしさ>とか<首尾一貫性>とか<心理>とかにばかりこだわる観客」(ヒッチコック&トリュフォー「映画術」)にとっては、単にキャラクターの愚かな行動という見え方でしかなくなるのだが、ジャウマ・コレット=セラ監督はそうした<らしさ>にも<首尾一貫性>にも<心理>にも拘ることなく、ひたすら状況設定とサスペンス感覚を核として映画を見せていく。 画面の意匠のみならず、そうした作法自体が「映画術」の忠実な踏襲として芯が通っている。 曰く、「マクガフィンには何の意味も無いほうがいい。」(ヒッチコック) 曰く、「映画作家は何かを言うのではなく、見せるだけだ。」(トリュフォー) 鏡面を使った看護師瞬殺シーンの絶妙な構図。アフリカ系タクシー運転手の亡骸に当たる照明。 その状況の秀逸な見せ方ゆえに、ブルーノ・ガンツ、フランク・ランジェラらは勿論、僅かな登場シーンしかない端役キャストに至るまで個性があり、そのいずれもが印象強い。 鏡面に映る二人の虚像を破砕するリーアム・ニーソン。その破片を握りしめる右手と、立ちすくむダイアン・クルーガ―の構図。 爆発による停電でモノトーンとなった画面に漲る一瞬の緊張と、交感する二人の表情がいい。 [DVD(字幕)] 8点(2012-05-22 23:46:06)《改行有》

597.  HAZAN 琥珀色の光の中に浮かび上がる、窓辺に置かれた白い陶器。それを一心に見つめる少年の表情。そして、その全身像のシルエット。 映画の中で、波山が陶芸家に転身する動機らしきものを直接的に表すのはこの短い三つのショットのみである。 映画は説明に多弁を弄することなく、窯やランプの炎とオーヴァー・ラップする榎木孝明の顔や、長女(大平奈津美)がホタルの光や薪や星を一心に見つめる姿を通して波山の真情・感受性をあくまで寡黙に、間接的に、映画的に語りきる。 二人のロクロ師(柳ユーレイ、康すおん)が波山に心酔し協力することになる経緯も、一切の説明を省き、行動そのもので示されるのも簡潔にして雄弁だ。 そのアプローチにこそ、彼の陶芸の作風と矜持に対する作り手の映画的リスペクトが表れている。 明治期のランプや、窓からの外光など、単一の合理的光源を活かした金沢正夫の照明・芹沢明子の撮影もその任の多くを担う。 住職から返された陶器と、榎木を窓辺におさめたラストショット。 木々の揺れと慎ましい自然光の美しさに、妻と子供たちの楽しげな童謡と笑い声がオフで入ってくる。 端正・素朴でありながら、豊かな情感に満ちた素晴らしいラストだ。 [DVD(邦画)] 9点(2012-05-17 18:48:51)《改行有》

598.  ある戦慄 夜の街を疾走する列車に被るロック風オープニング曲が非常にクールだ。 生々しいモノクロ・ロケ撮影による夜の都会の濡れた街路や、神経症的キャラクター群、そしてその濃い影が印象的なノワールスタイルを特徴とする前半部。 これから乗り合わせることになる登場人物たちの個性が列車の進行とカットバックされつつ簡潔明瞭に描写分けされていく。 そして密室劇となる後半部でもまた車両内の計18人それぞれを過不足なくドラマに関与させ、二部構成でサスペンスを醸成していく手捌きが巧みだ。 列車内はアメリカ社会の縮図と化し、その舞台劇的設定の中に人種差別・所得格差・同性愛・都市犯罪等々の社会問題を浮かび上がらせていくが、それはあくまでショットの力強さによる。 俳優の顔面と直近で正対するカメラの圧迫感が秀逸だ。 その時、視線を返されているのは観客自身である。 同性愛描写に関するコード改定が61年。 黒人問題を描いたラリー・ピアースの前作『わかれ道』が64年。 そして66年の新コード採用によって、アメリカの内包する苦悩が赤裸々に曝け出されている。 [CS・衛星(字幕)] 8点(2012-05-15 22:48:19)《改行有》

599.  僕の彼女はどこ? 鮮やかなテクニカラーが全編に亘って画面を彩る。 アバンタイトルの背景イラストと文字を始めとして、ステンドグラス・屋外の木々・屋内装飾・ベレー帽・衣装・劇中絵画・ポーカーテーブルなどなど、光の三原色(赤、青、緑)が徹底的に駆使されているあたりは、D・サークらしいこだわりぶりだ。 その混合であるシアン、マゼンタ、イエローもまた乗用車、ストロベリーシェイク、ドレスなどにそれぞれバランスよく配され、映画をさらに楽しくカラフルに染めている。 そしてその配置もポイントごとなのでケバケバしくなく、極めて上品だ。 その光の三原色が、映画ラストにおいて素晴らしい雪の「白」へと結集するのもテクニカラーの必然的帰結と云って良いだろう。 チャールズ・コバーンのユーモラスな演技も楽しいが、彼になつくおしゃまなジジ・ペルーもまた実に愛らしい。 質素な暮らしに戻ることを喜び、二人が興じるダンスシーンの幸福感は最高だ。 犬のペニーもまた素晴らしい。単に人間に仕込まれた芸を披露するだけの『アーティスト』のアギーなど足元にも及ばない。 演出家も予想できないような巧まざるリアクションを見せてくれてこそ、優れたアニマルアクターといえるだろう。 [DVD(字幕)] 10点(2012-05-13 23:52:47)《改行有》

600.  原爆の子 乙羽信子と少年が互いに手を振りながら別れる萬代橋のシーンは、極端なローポジションによって、その欠けた欄干と手摺が空ける空間の中に組み入れられる。 被爆後7年を経た復興の風景の中に残る傷跡をそれ自体として中心化することなく、あくまでドラマの情景の一部として提示する慎ましさとリリシズムが全編を貫く。 被爆者の悲憤と糾弾を直截にアピールする同時期の日教組作品『ひろしま』との大きな違いだ。 歌唱やSEなど音楽的要素も様々に用法が工夫され、作品を抒情的に彩っている。 たとえば伊達信の臨終の場に、屋外から流れてくるチンドン屋の陽気な囃子(カウンタープンクト)。 少女が病に伏している教会に響く讃美歌。 元幼稚園だった草むらに残響する童謡。 雲間から聞こえてくる飛行機の爆音などである。 中でも、原爆投下直後を再現するモンタージュと伊福部昭作曲の合唱音楽の融合が、短いシークエンスながら圧倒的だ。 画面が伝える惨劇のイメージと、敬虔かつ崇高な音楽の力が一体となった情感は簡単に形容出来ない。 [ビデオ(邦画)] 9点(2012-05-12 23:58:13)《改行有》

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