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881.  過去を逃れて 特に夜間場面におけるモノクローム撮影術の見事さは、『キャット・ピープル』のジャック・ターナー&ニコラス・ムスルカのコンビならではのもの。人物のシルエット、シェードランプやカーテンの揺れが十分に使いこなされ官能的ムードに満ちた屋内撮影はノワール様式の充実ぶりを示す。一方で、黒塗り車の光沢が醸しだす夜の街路の妖しさやアカプルコ~タホ湖近辺の自然景観など、屋外ロケの充実も作品世界をより豊かにしている。ロバート・ミッチャムの一貫して動じない物腰とポーカーフェイスの魅力、ジェーン・グリアのミステリアスな美貌。さらに不敵なカーク・ダグラスも絡んだ駆引きのサスペンスと展開の圧倒的スピード感によって、最後までドラマの緊張が途切れない。さらに注目すべきは、夜の山小屋でのスピーディな殴り合いの迫力。作中ほぼ唯一の身体アクションの場面だが、これほどのスピード感に満ちた拳闘アクションはなかなか見られない。[DVD(字幕)] 9点(2009-04-11 23:00:08)

882.  拳銃魔(1949) 走るキャデラックの後部座席に据え置かれたカメラがフロントガラス越しに進行方向の市街路と前席の主役二人の対話を捉える。路肩に駐車すると、運転席の男は右手の建物に素知らぬ風に入っていく。奥の角から警官が現れ、助手席の女は慌てて車を降り世間話で彼の気を引く。突然、男がドアから飛び出し、女は素早く警官を一撃する。警報が鳴る中、車を急発進させ逃走する二人、、。屋外の一ショットで銀行強盗の一部始終を捉えきった長廻しショットが実に圧巻である。人工照明のない即興風の画面感覚と、同時録音の臨場感によって描写はひたすら生々しい。長廻しによる静的な空間が警報によって一変し、主役二者の機敏な連携アクションが突発的に起動する。カメラは定位置のまま二人の主観に同調するようにフロントの光景が荒々しく流れすぎていく、その緩急の感覚と迫真性が素晴らしい。この後に展開する逃避行の場面はいずれもそのラフな疾走感がただならない迫力を生んでいる。広角クロースアップでひずんだ不安定な構図が合間合間に短く差し挟まれ、二人の顔面を狭いフレームの中に押し込める形の画面処理がまさに追い詰められていく二人の息詰まる閉塞状況を的確に印象づけていく。冒頭の過剰な雨と、それに対応するラストの過剰な朝靄の視覚的インパクト、一旦は別方向に別れた二人が車をターンさせ一台に乗り込むシーンの自然光線の鮮烈さと二人の表情なども忘れがたい。[DVD(字幕)] 9点(2009-04-09 22:23:15)

883.  いとはん物語 身分・性差に囚われない私的な舞台として登場する、二階屋根に外接した見晴らしの良いもの干し用広縁が良い。鉢植えの美しい菊が並ぶその空間は、お嘉津(京マチ子)と友七(鶴田浩二)の接点となり、花々や刻々と変化する夕焼け空の色、二番星・三番星の明かりがアグファカラーの郷愁を帯びた色調で豊かに彩られる。そして何といっても映画の白眉といえるのは、箱根の写真を契機に広がるお嘉津の夢の場面である。奇跡的というべき金色の夕焼け雲の下、裾野を並び歩く京マチ子と鶴田浩二の小さなシルエット。その叙情的なロングショットと伊福部メロディの絶妙な融合具合は両者の数あるコンビ作の中でも随一と思われる。[映画館(邦画)] 10点(2009-04-07 22:42:58)

884.  婦系図(1942) 石灯籠が並ぶ月夜の湯島天神境内の風情が麗しい。夜霧の漂う中、軟らかなライティングで梅の花の白が美しく滲んでいる。ここで主税(長谷川一夫)がお蔦(山田五十鈴)に別れ話を切り出すのだが、梅の木の幹に沿った上昇~下降~寄りの滑らかなクレーン撮影が醸しだす情感が二人の芝居とシンクロし、絶品である。これと同じ移動撮影が第二部後半同じセットで反復されるが、全く同様のカメラワークが今度は逆に舞い散る枯葉と寒々しい風音といった差異を際立たせ、彼女の孤独をより強調する効果をあげている。また美術的見どころとして第一部クライマックスである新橋駅の場面も素晴らしい。駅全景から改札そしてホームの人込みまでを延々と横移動で捉えた美術セットのスケール感、エキストラの規模は実景ロケと見紛うほどであり、別れの場面を細かいモンタージュを駆使して最高潮に盛り上げる演出も圧巻である。映画版の独創であるラストも優れた照明技術によって情緒に満ちた名場面だ。[映画館(邦画)] 9点(2009-04-05 23:04:36)

885.  春琴物語 同原作では島津版に続いて2度目の映画化。こちらは軟らかなローキーのタッチが特徴的である。春琴(京マチ子)の視覚に同調するように極度に明度に落としながら、その中で舞い散る桜や枯葉、雪、驟雨を美しく浮き立たせ、あるいは終盤の暗闇の中で絶妙の配光で針を鈍く輝かせるといった繊細な照明設計が為されているのがわかる。序盤での暗い廊下の奥から玄関口を臨む構図で捉えられた二人の初めての出会いと、後日談として付加されたラストの佐助の故郷における明るく開放的な入江の光景との対比。それは二人の開眼した心象を示すものだろうか。『忠治旅日記』での極めて情緒的な1ショットのごとく、触れ合う手と手のアップも印象深い。佐助と目の不自由な春琴が手をとり合うショットは度々反復されるが、二人の微妙な心情の機微と変化がその重なる手のアクションの微細な変化として捉えられていく様が見どころである。実演としか見えない京マチ子の琴の演奏も素晴らしい。[映画館(邦画)] 9点(2009-04-02 23:12:40)

886.  ヒート カフェで対峙する主役二人の対話が二人の後方からそれぞれごくシンプルな切り返しによって捉えられる。その構図は二人がまるでお互いに自分自身の鏡像と対話しているかのような印象も同時に与える。立場としては対極にある相手に自分との同質性を認め合う場面とも解釈できようか。かつてのノワール映画では、低位置のキーライトで人物の相似形の影を作り出し、オルター・エゴ(もう一人の自我)を仄めかすスタイルがあるが、これに近い印象でもある。終盤の最終対決にみる光と闇のモチーフも同様、背後の誘導灯の点灯によって逆光の中に浮かび上がるロバート・デニーロの黒いシルエットは、対照的に照らし出されたアル・パチーノ自身の投影でもあろうか。対極でありながら一体でもある光と闇の領域の対立、実景主体の写実的市街犯罪と、俯瞰撮影も交えながら印象的な夜景を捉えた都会的ルックはまさに大戦直後(1945~1949)のノワール第二期作品群を髣髴とさせつつ、シネスコ画面の水平ラインをより意識した新たなノワール様式を創出している。[映画館(字幕)] 10点(2009-03-28 17:31:42)

887.  地球が静止する日 平和的異星人との会談を徹底して拒否するアメリカ大統領は一貫して画面から排除される。この点、、オリジナル『地球の静止する日』(1951)の忠実な踏襲である。ロバート・ワイズ版の中では、異星人がリンカーン像を見上げ褒め讃える一場面などもあり、これが原爆認可と切り離せない映画公開当時の大統領トルーマンに対する逆説的非難であることは一目瞭然だ。その意味では旧作のほうがより直接的な政権批判を主眼とした政治風刺映画ということが出来よう。無論、本作における大統領個人の不在や軍の好戦姿勢、現実としてのアメリカ覇権主義描写もそれに倣ったものだが、リメイク版が志向するのは旧作が「物語」や「啓蒙的メッセージ」といった非映画的要素に重きを置く都合から各シークエンス間で省略した、より即物的な「アクション」部分である。具体的には、地球人の発砲により負傷したキアヌ・リーブスの治療の生々しい模様。隔離ブロックからの脱出経緯。二者が黒板に数式を黙々と書き込み合う動作等であり、特に前半部分は旧作に即した物語展開の為、その相違点は明確に際立っている。説明を極力排した活劇重視による画面主導の語り口が非常に潔い。宇宙人の翻意は、無表情で、(明快な)論理でないからこそ世界の豊かな多義性というものが映画に取り込まれている。●また、序盤で示されるタイムリミットの意外性に始まり、中盤のジェニファー・コネリーを上空から拉致する強引さ。彼女が墓地に再登場する唐突さ、戦闘機登場の突発性など、展開の目まぐるしさも良い。[映画館(字幕)] 6点(2009-03-24 23:05:22)

888.  死の接吻(1947) カーテンのライン、柱といった垂直のラインを多用して人物を狭所に配置し、夜の闇と人物の影によって黒の領域を大きくとった画面設計。そこに周囲の雑音を無音レベルまで消した録音効果が組み合わさり、息詰まるような焦燥感と切迫感が生まれている。その効果は序盤の高層ビルエレベーター内の場面、リチャード・ウィドマークがカーテンの隙間から目を光らせるレストランの場面、そのレストランの外で主人公ヴィクター・マチュアを待ち受ける黒塗り車の場面において絶大である。その異常な静けさが緊張を最高度に高めている。後半、ヴィクター・マチュアが裏切り者として狙われる側となってからの展開は特にサスペンス感に溢れ画面から目が離せない。これがデビュー作となるリチャード・ウィドマークの悪役像も強烈な印象度だ。[DVD(字幕)] 8点(2009-03-20 21:00:22)

889.  ジャコ万と鉄(1949) 岸壁に砕ける波濤。荒々しい漁船のローリング。網にかかったニシンの大群とヤン衆の格闘。そして雪原を疾走する犬ソリの主観映像。 迫力満点に活写されたドキュメンタリー・タッチの映像は、紛れもなくフラハティ『アラン』の影響だ。 時化(しけ)る海を警戒して松明が群舞する夜間撮影の見事さなど、スタッフの苦労が偲ばれるロケーション撮影の場面はいずれも文句なしに素晴らしい。 伊福部昭による重低音の情景音楽が不要と思えるほど、画面に力が漲っている。 ここでの久我美子はいまいち魅力を欠くが、三船敏郎ははまり役。 とりわけ鰊番屋で披露されるワイルドで独創的なダンスは圧巻だ。 月形龍之介との格闘シーン以上に強烈なインパクトがある。[映画館(邦画)] 7点(2009-03-12 21:03:04)《改行有》

890.  姉妹(1955) 《ネタバレ》 中原ひとみの初々しく、溌剌たる輝き。表情変化の豊かさ、発声の良さ、コメディエンヌとして抜群の運動神経を感じさせる。 同年のオムニバス映画『くちづけ』の一篇でも活発な次女役で見事な快足ぶりをみせるが、この映画でもその見事な走りはもちろん、友人宅の廊下や、凧揚げ場面、寮の階段での見事な転び方や、コミカルな演技の数々で楽しませてくれる。過疎山村の失業問題など、独立プロ的なテーマを盛り込みながらも映画が硬直しないのは彼女の起用に追う部分も非常に大きい。 姉妹愛の主題についてもこの映画は、その観念を実直に具象化してみせる。二人は言葉においてはあくまで個別性・自主性をお互いに尊重し仲違いもするが、彼女たちが画面に登場するときは常に身体的に触れ合わせるよう演出されている。お互いに肩を寄せ合い、手を置き合うという直截な映画表現がこの作品の視覚的な美質だ。 クライマックスとなる姉の嫁入りの日、妹は姉(野添ひとみ)にやさしく手を差し伸べ、自室へと誘う。その触れ合いの身振りが素晴らしい。 また、家己監督の心情表現は様々な小道具の活用においても発揮されている。社会の矛盾に憤る真っ直ぐな次女が、ポンプで乱暴に井戸水を汲む。ここで手桶に納まりきれず溢れ出る水のショットは彼女の思いを見事に視覚化する。不本意な見合い結婚を決めた姉を難詰する妹と、それに答えず一心にミシンを踏む姉。そのミシンが真っ直ぐに縫い進むショットは姉の決意の象徴だろうか。[映画館(邦画)] 10点(2009-03-08 22:27:46)《改行有》

891.  くちづけ(1955) 第一話『くちづけ』… いかにも石坂洋次郎原作らしいユニークなボキャブラリーと気取った台詞回しが楽しい。会話の中に『IT(あれ)』なんて単語が出てくるのも映画ファンにとっては一興。青山京子と太刀川洋一が教授(笠智衆)の前でホールドアップする身振りのコミカルさなどは『石中先生行状記』の杉葉子の一場面を連想させる。 第二話『霧の中の少女』…あぜ道、橋の上、温泉街、そして駅のホームを、次女(中原ひとみ)が風のように走りまわる。その軽やかな走り・躍動感がこの挿話最大の魅力といって良い。彼女を始めとする一家の屈託無い笑顔も素晴らしい。小泉博を迎えた夕飯の席、あるいは山の温泉で祖母(飯田蝶子)と姉妹たちが横並びになって「小原庄助さん」を歌うショットの和やかな幸福感。 まるでホークス映画のジャムセッションのような充実感。 第三話『女同士』…キャスティングはいわずもがな。短編ながら、自転車・チンドン屋といったお馴染みの意匠の数々が成瀬映画の刻印として登場する。表玄関を入ると一本廊下、診療室と並んで中村メイ子の下宿部屋といった特徴的な家屋構造もまた然り。 冒頭ではパッとしない彼女だが、自室でくちずさむ鼻歌を上原謙らに何気なく隣室で聞き流され、勝手口での八百屋の青年(小林桂樹)との会話を高峰秀子に廊下で立ち聞きされ、あるいは高峰秀子に日記を読まれるという、空間共有の劇を経ていくことで最後には不思議なほど魅力的なキャラクターへと変貌していく。 嫁入りのために表戸を駆け出していく彼女の姿が非常に感動的だ。 さらに最後。見事に「振り返」って作品を締める八千草薫も実に可愛らしい。 [映画館(邦画)] 9点(2009-03-06 21:30:42)《改行有》

892.   現地ロケによる地道な長期取材に基づき、自然と人間を描出していくセミ・ドキュメンタリーの手法は、明らかに35年日本公開の『アラン』(ロバート・フラハティ)からくるものだ。 またニュース映画全盛時代の、いわゆる写実的表現を尊重する時流の反映でもあるに違いない。 ただしフラハティの撮った過酷な辺境とは違い、日本の風土ならではの四季折々の豊かな風物が、軟調のローキー画面とフェード・イン、アウト、オーヴァーラップといった緩やかな画面転換を主とする日本的な時間表現の中で抒情詩的な味わいも醸している。 特に感動的な子馬の出産場面は優しいローキー画面の賜物といえる。 その柔らかな黒は迫真性の追及であり、夜間の静けさと緊張感、喜び、厳粛さの表現であり、主役たる馬への誠実な配慮でもある。 また、スタッフの写実性追及の姿勢は劇伴音楽の抑制という面にも現れている。 父親が病に倒れる秋は木枯らしの風音、馬が病臥する冬は吹雪の轟音、子馬の生まれる春はわらべうたの歌声、子馬と別れる夏はひぐらしの鳴声や夏祭りのお囃子、そして全編にわたり印象的な方言の響きといった具合に、あくまで環境音の採り入れ方の妙味によって「自然」と「ドラマ」両者を相乗的に引き立てており、秀逸だ。[映画館(邦画)] 10点(2009-02-17 23:12:27)《改行有》

893.  土と兵隊 冒頭で西へ進む輸送船が立てる白波とオーヴァー・ラップして、上陸後の兵士たちの突撃をカメラは側面から捉える。その行軍の模様は全編一貫して画面右手から左方向へとなるよう厳格に構図が設定されており、その反復と一貫性は行軍の、ひいては戦争というものの単調さと過酷さをあえて執拗に強調しているかのようである。戦闘場面でもやはり、側面位置からあるいは部隊後方から画面奥方向への望遠のいずれかによって組織行動を客観的に映し出し、特定個人のドラマが大きくクロースアップされることはほとんど無い。注目すべきは小火器による地道な砲撃で家屋の外壁を徐々に突き崩していく様を克明に捉えたモンタージュであり、日中戦争自体を象徴化したものととれる。一方では人間たちが行軍する足元の草花や、休憩中に空を流れる雲、廃墟をうろつく動物たちの写実的な点描が戦争行為を相対化させ、映画は無常観すら漂わす。あくまで刻苦や精励に主眼を置き、安易なヒロイズムや愛国主義とは無縁の行軍描写は『五人の斥候兵』に対するルース・ベネディクトの指摘のように「反戦」的とすらいえる。検閲制度のさなか、時局への迎合に対しぎりぎり踏みとどまる田坂監督の矜持と誠実さを示す作品である。[ビデオ(邦画)] 8点(2009-02-11 22:06:46)

894.  私は貝になりたい(1959) 橋本忍自身によるテレビ用脚本の劇場版だが、撮影・音楽・美術など東宝黒澤組の錚々たるスタッフの支えによって、映画として差別化が図られている。縦構図を多く取り入れ、画面に奥行きをもたせると共に、随所で丹念な長回しを多用してフランキー堺他の演技の持続から迫真性を引き出している。最期の笠智衆との静かな対話場面などがその白眉といえるだろう。村木与四郎氏による床屋の細やかな内装美術とその画面内配置は、主人公夫婦の人となりや戦中戦後の生活実感をよく表現し、対照的に巣鴨プリズン内の殺風景をより際立たせている。暗闇に浮かぶ絞首台の俯瞰ショットとハイライトも強い余韻を残す。そうした「善良なる」主人公への感情移入や共感を促す作劇や演出はそつない故に、映画自体の宿命ながら「反戦」という理性的主題論においては非常に弱い。例外的エピソードに基づくドラマは横浜裁判という国際問題のもつ欺瞞性を日本のヒエラルキーの問題へと矮小化させ、「戦犯」裁判の本質を見誤らせる危険を多分に孕んでいる。[ビデオ(邦画)] 5点(2009-02-09 21:45:27)

895.  鉄腕ジム J・フォードと共に、いわゆる「男性派」監督として並び称されるラオール・ウォルシュもやはりアイルランド系。この映画での初期ボクシング、家族愛、喧嘩、お祭り騒ぎ、仲間同志の連帯感といった要素はいずれも映画では馴染み深い典型的アイリッシュのアイデンティティである。これらのモチーフは一見、固有の民族像を描出しながらも、その人間関係の奥底から醸される叙情性は幅広い普遍性を獲得している。会う度に反目し、喧嘩してしまうエロール・フリンとアレクシス・スミスだが、最後には二人の恋愛が成就するであろうことを誰も疑わないだろう。ライバルとなるチャンピオンとの挑発合戦も同様、最後には胸の熱くなる和解の場面が用意され、原題である『紳士ジム』のキャラクターに深みを与えている。(二者を重層化する大鏡の演出が秀逸。)アイリッシュ的要素の数々は同時に映画的活劇性にも満ちており、特に港の桟橋を舞台とした拳闘試合の喧騒が大いに映画を盛り上げていている。[DVD(字幕)] 9点(2009-02-01 20:28:58)

896.  感染列島 キャスト数の無意味な膨大さは逆に誰一人として満足に人間を描写出来ず、舞台の散漫な広げ方は映画全体を弛緩させるのみ。冒頭の農村での無駄な説明台詞からして、早々と語るに落ちた冗長さ。余計な音楽の入れ方からして盛り上げたいらしい魂胆は十分伝わるものの、まるで情感の湧き上がらない恋愛ドラマとしての演出。深度が極端に浅く工夫も面白味もまるで無い、『雷魚』の監督らしからぬ構図、照明、カッティング。「映画内テレビ」が象徴するように、文字情報と必然性なきCG映像に頼りきった無味乾燥な画面。俳優の悪趣味な記号的絶叫演技。主題としても、画面としてもほとんど活かされることのない「りんごの木」や「東南アジア養殖問題」に明らかな、いわゆる社会派作品として見ても致命的に弱い問題提起力、etc、、、悪い面を挙げればきりがない。[映画館(邦画)] 2点(2009-01-24 23:09:35)

897.  コタンの口笛 現地ロケを活かした川辺のコタンの風情が素晴らしい。 隣家の病に臥した老婆のために秋味を密漁する場面での朝もやの美しさ、姉弟が父の遺体と共に朝を迎える場面で窓から入射する陽光の荘厳な様。成瀬組らしい美術・照明・撮影の技能が結集している。 病や怪我や死で横臥した人間を傍らからいたわるように見(看)つめる場面が多く、若い姉弟の悲しみや苦悩を印象的な光のもとに滲ませる演出は本作でも傑出している。 同時代的テーマ重視型の橋本忍脚本との相性は疑問だが、長大な二部構成の児童文学をシンプルにまとめながら、単純な差別・被差別の構図に陥らせない主題提示と脚本構成が巧い。 また忘れてならないのが、北海道出身でアイヌの伝承芸能に造詣の深い伊福部昭による音楽演出の貢献である。アイヌ民具の図柄が描かれた和紙を背景としたメインタイトルをはじめ、要所でその伝統古謡をモチーフとした声楽曲の旋律がリフレインされ、民族の苦難を重厚に浮かび上がらせる。 一方、主人公姉弟を慈しむように流れるピアノ曲の旋律もリリシズムに溢れ清らかで美しい。[映画館(邦画)] 9点(2009-01-17 22:22:48)《改行有》

898.  銀嶺の果て 暗黒映画的トーンで拳銃発砲から闇夜の追跡劇~輪転機までを 畳み掛けるように見せるダイナミックなオープニング。 そこにかかる急き立てるような伴奏は後に東宝映画『空の大怪獣ラドン』の 空中戦の場面でアレンジされることになる馴染み深い旋律だ。 これがドラマに一気に引き込む。 この映画は監督谷口千吉、役者三船敏郎と並んで、 作曲家・伊福部昭氏の映画音楽デビュー作でもある。 中盤の和やかなスキー場面の音楽をめぐって谷口、伊福部氏が対立した逸話は有名だが、 伊福部氏の信念通り採用された管楽器ソロによる寂しげで哀切な音楽は 背景の北アルプスの厳粛さをより際立たせ、不思議と強い印象を残す。 その安易な「調和」からのずらし方が非凡だ。 二者を仲裁したという黒澤明監督は後に『野良犬』などで対位的なBGMの用法によって 相乗的な効果をあげていくが、このスキー場面の創作事情は そうした技法を生み出したきっかけでもあっただろう。 最後のレコード曲の入り方もいい。 小屋を振り返る志村喬の穏やかな笑顔と、雪をまといつつ見送る若山セツ子の 泣き笑い顔が素敵だ。[DVD(邦画)] 7点(2009-01-14 22:58:01)《改行有》

899.  極北の怪異 ロバート・フラハティによる記録映画の魅力は、狭量な「民俗記録」でも「資料的価値」でもなく、ジャンルや手法や国境に囚われぬ自由な精神に基づく映画感覚といえる。一般的には記録映画としてもの珍しさを第一に要求するであろう映画会社に対し、フラハティはそれ以上に「人間と自然」の魅力の活写に大きな力点を置いていることが画面から明らかに伝わる。ローポジションが緊張感を煽るあざらし漁の撮影。酷寒の猛吹雪の迫力と寂寥を伝えるモンタージュ。一方でナヌーク一家がカメラに向ける大らかで人なつっこい表情やユーモラスな仕草が断然素晴らしい。カメラが全く警戒の対象とはなっていない。これは日本でいえば小川紳介(山形)、佐藤真(阿賀)等の傑作ドキュメンタリーに受け継がれていく、腰を据えた共同生活というアプローチあってこその魅力的な表情といえる。勿論それは単なる長期取材・長期撮影という手法のみで成し得るものではなく、一定期間はカメラを回さず肌で喜怒哀楽を共にすることによって獲得される対象との親和性や、映画的各瞬間を的確に捉える手腕と資質があってのものだ。[DVD(字幕)] 10点(2009-01-10 18:38:59)

900.  最後の切り札(1942) ジャン・ルノワールとの深い親交で有名なジャック・ベッケル。そのジャンルにとらわれない多彩さ、熱烈なアメリカ映画志向といった二人の共通項を改めて再確認させる傑出した処女作。南米が舞台のためか日中の場面は明るい日差しの印象が強烈で、同じ犯罪ものながら後の同監督作『現金に手を出すな』(1954)とは趣きが大きく異なっている。それでも、一般にフランス製フィルム・ノワールとして有名な『現金に~』の10年以上前にその萌芽とも取れる夜間ロケによるカーチェイスやトンネルの暗闇での銃撃戦を登場させているのが興味深い。小道具(ライター)を二度三度と活用する手腕。それを外線へ細工する場面の的確な描写。交換手のネタをきっちり三段で落とす秀逸なギャグ。何よりもその疾走感に満ちたきびきびした映画感覚が心地よく、ひたすらに痛快である。[映画館(字幕)] 9点(2009-01-06 22:44:03)

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