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81.  毎日かあさん 《ネタバレ》 ダイニングとリビングの二間、玄関の内と外、小泉今日子の仕事部屋のデスクと奥のドア、透明なテラスの上と下、子供たちが乗るメリーゴーラウンドと手前のベンチ等々。 二つの空間を1フレーム内に取り入れた縦の構図によって奥行きのある立体的な空間を達成している。 その奥と手前それぞれに的確に配置された小泉今日子・永瀬正敏・小西舞優・矢部光祐の4人はロングショットと長回しによって群像としての家族を全身で生きている。 手を繋ぐ、じゃれ合う、抓る、叩く、抱く、と映画的な接触のコミュニケーションも愛情表現として大変豊かだ。 公園でのままごと、ひな祭りの写真撮影など、4人が固定フレームの中で絡む芝居はまさに演技を超えた仲睦まじい家族そのもののドキュメンタリ―の感すらある。 単純な切り返しの会話がなく、複数の人物を極力1つのショットに収め、パンフォーカスによって深い被写界の中で彼らを絡ませることで、個々人の身体はフレームに寸断されることなく、その関係性がより強固に炙り出されるという具合だ。 父のいる海へ行こうと、小さな水色のビニールプールで光る川を下る兄妹の姿の美しさといったらない。 車中での離婚届けへの捺印を挟んで、それまでツーショットで映っていた小泉と永瀬が個々の単独ショットに切り替わるなどといった演出も細やかである。 あるいは、店名の一部である「子」の字の映る飲み屋街のガラス戸。そこに映った永瀬の顔にフラッシュバックの返り血が浴びせられるインパクト。 フェリーニのような人工の川面。 親子が釣りに興じるシーンの少々賑やかな『父ありき』。 藍色の海の豊かな色彩とアニメーション。 工夫を凝らした奔放な発想が随所に挿入され、まったく飽きさせない。 そして、エンディングの「家族の肖像」がまたダメ押し的に素晴らしい。 問われるべきは、原作に忠実か、モデルと相似しているかといった事ではなく、 小林聖太郎独自の映画となっているかどうかだ。 [DVD(邦画)] 9点(2012-05-27 22:47:19)《改行有》

82.  HAZAN 琥珀色の光の中に浮かび上がる、窓辺に置かれた白い陶器。それを一心に見つめる少年の表情。そして、その全身像のシルエット。 映画の中で、波山が陶芸家に転身する動機らしきものを直接的に表すのはこの短い三つのショットのみである。 映画は説明に多弁を弄することなく、窯やランプの炎とオーヴァー・ラップする榎木孝明の顔や、長女(大平奈津美)がホタルの光や薪や星を一心に見つめる姿を通して波山の真情・感受性をあくまで寡黙に、間接的に、映画的に語りきる。 二人のロクロ師(柳ユーレイ、康すおん)が波山に心酔し協力することになる経緯も、一切の説明を省き、行動そのもので示されるのも簡潔にして雄弁だ。 そのアプローチにこそ、彼の陶芸の作風と矜持に対する作り手の映画的リスペクトが表れている。 明治期のランプや、窓からの外光など、単一の合理的光源を活かした金沢正夫の照明・芹沢明子の撮影もその任の多くを担う。 住職から返された陶器と、榎木を窓辺におさめたラストショット。 木々の揺れと慎ましい自然光の美しさに、妻と子供たちの楽しげな童謡と笑い声がオフで入ってくる。 端正・素朴でありながら、豊かな情感に満ちた素晴らしいラストだ。 [DVD(邦画)] 9点(2012-05-17 18:48:51)《改行有》

83.  原爆の子 乙羽信子と少年が互いに手を振りながら別れる萬代橋のシーンは、極端なローポジションによって、その欠けた欄干と手摺が空ける空間の中に組み入れられる。 被爆後7年を経た復興の風景の中に残る傷跡をそれ自体として中心化することなく、あくまでドラマの情景の一部として提示する慎ましさとリリシズムが全編を貫く。 被爆者の悲憤と糾弾を直截にアピールする同時期の日教組作品『ひろしま』との大きな違いだ。 歌唱やSEなど音楽的要素も様々に用法が工夫され、作品を抒情的に彩っている。 たとえば伊達信の臨終の場に、屋外から流れてくるチンドン屋の陽気な囃子(カウンタープンクト)。 少女が病に伏している教会に響く讃美歌。 元幼稚園だった草むらに残響する童謡。 雲間から聞こえてくる飛行機の爆音などである。 中でも、原爆投下直後を再現するモンタージュと伊福部昭作曲の合唱音楽の融合が、短いシークエンスながら圧倒的だ。 画面が伝える惨劇のイメージと、敬虔かつ崇高な音楽の力が一体となった情感は簡単に形容出来ない。 [ビデオ(邦画)] 9点(2012-05-12 23:58:13)《改行有》

84.  モダン・タイムス 《ネタバレ》 映画のラスト。朝の「太陽を背に受け」、チャップリンとポーレット・ゴダードが画面手前に向かって歩き出す。 続くショットは、「太陽に向かって」一本道を歩いていく二人の後ろ姿となる。 前作『街の灯』のラストの切り返しショットにおける「バラの位置」の不整合と共に、様々に解釈される本作の終幕のモンタージュである。 完全主義のチャップリンの編集であり、共に重要なラストショットなのだから、 凡ミスであるわけは当然ない。 吉村英夫著『チャップリンを観る』では、『街の灯』での不整合を「ハッピーエンドとアンハッピーエンドの両義性」を暗示するものとして、また『モダン・タイムス』での不整合は「朝陽(=希望)に向かう二人」を表象するため不自然を承知でモンタージュさせたものと考察している。 また、江藤文夫著『チャップリンの仕事』ではラストの太陽光は実際は夕陽であり、時間を朝から夕方に一気に飛躍させた繋ぎによって、延々と続く二人の道行きの果てしなさを暗示するとしている。 いずれにしても、それらはショットの「含意」に関しての解釈である。 確かに、冒頭では「白い羊の群れ(=工場労働者)の中に一頭混じった黒い羊(チャップリン)」という意味を担った象徴的なショットも持ち込まれ、作品としてのメッセージ性も強い。 そして、次の『独裁者』ではさらに映画のメッセージ性が強まり、地球儀の風船と戯れる独裁者の図といった寓意の強度もまた際立ってくることとなる。 本来ならば、そうした「意味」よりもまず1ショットにおける具象の美を優先したものとみるべきではある。 つまり『街の灯』の切り返しショットにおいて白バラの位置が変わるのは、まずもってバージニア・チェリルの表情を最も引き立てる構図を創り出すためであり、『モダン・タイムス』のそれは、朝陽であろうが夕陽であろうが、とにかく二人が互いに手をとり明るい光に向かって歩きゆく後ろ姿と影が黒いシルエットとして一体化した画、その映画美こそが何よりの要件であったからと思いたい。 が、上のような解釈がそれなりの妥当性を帯びるのも、チャップリンの純粋な活劇に次第にメッセージ性が浸食していく時期のものであるからだ。 ともあれ、多様な解釈を可能にしているのも作品の豊かさの証しである。 [ビデオ(字幕)] 9点(2012-05-03 21:42:50)《改行有》

85.  戦ふ兵隊 戦意高揚を目論む「撮らせる側」に対する「撮らされる側」の精一杯の抵抗と反骨が画面に滲む。 巧妙なレトリックで多義性を担保した字幕によって検閲を欺こうするも、やはり画面と被写体は作り手の思い入れや真情を如実に浮かび上がらせてしまう。 家を焼かれ、項垂れる中国農民。道端に残され、臥していく1頭の病馬。疲労し切った兵卒の眼差し。夜の野営地に寂しく響く驢馬の鳴き声。 明らかにやらせとわかる最前線の中隊本部の描写がふるっている。約10分間のフルショット・ロングテイク。同時録音らしい生々しさを醸しながら、どこか間の抜けた滑稽さをも纏う。 亀井監督の本作での演出意図に関する考察は、佐藤忠男の「日本映画の巨匠たちⅡ」などに詳しいが、付け加えるとするなら本作における行軍の構図取りもまた確信的なものだろう。 南京から漢口へと西進する日本軍がアニメーションの矢印で地図の左手方向に伸びるように示されるが、実際の行軍の画面は逆に右手方向へ向かうようにフレーミングされたものが多い。 田坂具隆監督の『土と兵隊』などが、一貫して左手方向への進軍となるよう画面作りしているのとは対照的だ。 ショットによっては、右方向へ行軍していた列が、(曲がり道のため)画面手前で左手に反転するかに見えるものもある。 これもまた日本軍の大陸での「左往右往」を文字通りに皮肉ったものと云えなくもない。 作中には、「(家に)帰りたい」と語る中国人捕虜のショットと字幕も登場するが、これが日本軍兵士の本心を暗に代弁させたものとするなら、この行軍のショットが示す方向性もまた、兵士たちの内なる思いを慮ったゆえのものだろう。 [ビデオ(邦画)] 9点(2012-04-22 23:09:59)《改行有》

86.  ジョニー・ベリンダ ヒロイン、ジェーン・ワイマンの出のショットとなる納屋のシーン。 雌牛の出産を手懸けるリュー・エアーズの指示で娘が灯りを高くかざすと、その彼女のクロースアップが暗闇から美しく浮かび上がる。 他にも、彼女自身の出産シーンやチャールズ・ビックフォードの葬儀シーンにおけるランプシェードなど、「闇から光へ」の宗教的主題を表すライティングの数々が素晴らしい。 舞台は冒頭の解説で示されるとおり東海岸だが、どうやらロケは西海岸らしい。 テッド・マッコードのキャメラは海沿いの風景を瑞々しく切り取り、嵐の前触れの不穏な感覚なども生々しく捉えている。 複数の人物を的確に配置した屋内のフレーミングもいい。 そして、叔母役:アグネス・ムーアヘッド、ステラ役:ジャン・スターリング、父親役:チャールズ・ビックフォード、いずれも地味な所作の中に人柄を滲ませる芝居で素晴らしいが、やはりジェーン・ワイマンの純真無垢な佇まいと表情が傑出しており、独壇場といって良い。 『舞台恐怖症』での彼女も外面のイメージと合致した役柄でとてもよいが、聾唖の設定である本作の彼女は、視線と手話の柔和な動きとで見事に役を生きている。 冒頭で、生まれた子牛に頬を寄せる彼女の慈愛の所作は、我が子を守り抜く映画の最後まで一貫して美しい。 父親を追悼する彼女の祈りの手話がとりわけ感動的だ。 [DVD(字幕)] 9点(2012-04-20 23:59:56)《改行有》

87.  アレクセイと泉 チェルノブイリの被曝地域であるブジシチェ村にご両親と共に暮らすアレクセイ・マクシメンコさん。その朴訥としたナレーションと、はにかむような表情と佇まいがとても素晴らしい。ラストの老夫婦のツーショットも心が暖まる。 朝もやの美しい情景を始めとする固定ロングショットの数々は、ともすれば単に「美しい風景」に陥りそうなところで、湧き出る水や村に残る様々な動物たちや高齢者たちの慎ましく淡々とした営為がフィルムに「生」のダイナミズムを湛えさせている。 その映画志向は『ナージャの村』から一貫しているものだ。 収穫を祝う村人たちのパーティと踊り。色鮮やかなスカーフを巻いて踊る女性たちと、酔いつぶれている男性たちのショットが微笑ましい。 水汲みや農作業、木材の切り出しから洗い場の組み立てまでの労働。落成した洗い場にイコンと十字架を供え、祈りを捧げる村人たちの敬虔な様が尊く美しい。 村人の周りに常に寄り添っている動物たち(馬、犬、家鴨、豚など)。 人間が汚染した土地に、邪気無く共存していく彼らの姿が愛おしい。 被曝地帯である現場に腰を置きつつ被写体である彼らに不必要に寄ることをしないキャメラの倫理は、3.11後を報道するテレビドキュメンタリーのカメラの多くがその涙を狙って被災者の顔面と眼に図々しく寄っていく浅ましさの対極にある。 それは、ひたすら『感情移入』と称した他力的な感傷と刺激の欲求を肥大化させていく「見る側」の倫理問題でもある。 [ビデオ(字幕)] 9点(2012-04-03 23:03:23)《改行有》

88.   オリジナル140分に対し、現存するのは巻頭・巻末部分を欠いた92分のフィルム。 ロングテイク主体でありショット数は250弱だが、その全てが素晴らしい。 出稼ぎにいく娘たちのシルエットが丘の稜線に小さく消えていくロングショットの美。 波打つ稲穂の揺れが拡がっていく緩やかな移動撮影。 斜面が活きた独特の農地の中を人物が走行するキアロスタミ的なジグザグ運動。 囃子のリズムに重なりながら、天秤棒を担いで水を運ぶ父娘を捉えるトラックバックの映画性。 風見章子が愛しげに掬い上げる精白米に注がれる光の眩さ。 そして、石臼や足踏み式脱穀機の生み出す土着的なリズム。 山本嘉一が座る囲炉裏端を捉えた屋内真上からの構図だけで醸し出されるただならない雰囲気。果たして傍の藁に引火し、一気に火の手が上がり家屋が炎に包まれる中を老人と子供が必死に這い逃れる姿を追う迫真のショットの苛烈な様。 各ショットの映画的充実ぶりは挙げ出せば限がないが、それは殊更な風俗描写や技巧の披歴ではなく、あくまで俳優と風土の素朴な佇まいと素朴な語り口の融合によってもたらされているものであり、生活風景の中のさりげない台詞ひとつひとつが人物描写として映画に厚みを出している。 フィルムの欠損と原作通りの徹底した茨城言葉の録音は、却って物語よりも言葉の意味よりも、映像と音の響きそれ自体の充実をより際立たせてくれており、作品の素晴らしさを損なうものではない。 [ビデオ(邦画)] 9点(2012-03-17 20:20:58)《改行有》

89.  ミカエル 《ネタバレ》 室内劇、フィクス主体の端正な画面である上、役者の動作も抑制的でスタティックであり、その画面の美的な求心力と緊張感は尋常でない。 ドイツ表現主義的な画面としては、画家の養子ミカエル(ヴァルター・シュレザーク)が師のスケッチを勝手に持ち出すシーンに拡大投影される竜の黒い影程度に慎ましいが、室内の調度品や美術品、宗教的意匠の数々のみならず、繊細なライティングに浮かび上がる女性たちのショットの輝きは息を呑むほどの素晴らしさである。 そしてその静的な画面ゆえ、女性が小さな溜め息をつく肩や画家(ベンヤミン・クリステンセン)の表情筋の微細な動き、絵筆を折る手の抑えたアクション、そして画面に張り巡らされた各々の視線の微妙な変化が、映画的事件ともいうべき強度を孕む。 特に、ミカエルが恩師を手伝う場面で突出する視線の劇が白眉である。 青年とも、女性モデル(ノラ・グレゴール!)とも、切り返しショットによって視線が結びあう事のない画家は、どうしても彼女の目を描くことが描くことが出来ず、ミカエルに代わりに絵筆を持たせる。 彼女の視線のショットである、アイリスで縁取られたフォーカスの中心が巨匠画家からミカエルのほうへ移動し焦点化され、そして二人の見詰めあう目のクロースアップがカットバックによって繋ぎあわされる。 ショットによる視線の結びつきが示す、心理的関係の劇的かつ決定的な変化がここにある。 かつてミカエルに見ることを諭した画家は、彼に看取られることなく生涯を終えていく。 その臨終の言葉、そしてラストショットの夫人の残酷な美しさも印象的だ。 [DVD(字幕)] 9点(2012-02-28 17:45:36)《改行有》

90.  マッチ売りの少女(1928) アンデルセン童話を原作とする詩的な題材と、ルノワール流リアリズムの融合。 そのフィルモグラフィーの中でも最も詩情豊かなフィルムかと思う。 夜の街のミニチュア、多重露出、逆回転、スローモーションと、ふんだんなトリック撮影が作り出す目眩めく夢幻的イメージが、手工業的テクニックの温かみと相俟って味わい深い。 とりわけ、雲海を駆ける馬同士のチェイスの荒々しい迫力は圧倒的で素晴らしい。 白黒のコントラストの強いVTR版ではパンクロフィルムの効果をあまり確認出来ないが、雪の白の鮮やかさやカトリーヌ・エスランのクロースアップの魅力を十分伝えていると共に、逆に童話の挿絵のような効果を醸していてこれもまた情緒がある。 夜明けのエンディングは、遺作『小劇場』の一挿話とも響き合って感慨深い。 [DVD(字幕なし「原語」)] 9点(2012-01-04 21:05:43)《改行有》

91.  殺人者(1946) 車のフロントガラス越しに照らし出される夜の街道。同乗している男二人のシルエットが浮かび上がるファーストショットから、ノワールムード全開である。 その直後のシーンに登場するダイナーの長いカウンターや、広い鏡を配したバーの内装の立体的造型が画面を引き締めている。 侵入から逃走まで、クレーンをダイナミックに使った長廻しによる強盗シーンもまた、奥行き豊かな空間とアクションの流れを作り出している充実したワンショットだ。 同伴のヴァージニア・クリスティーンそっちのけで妖艶なエヴァ・ガードナーに目を奪われるバート・ランカスター。その三人の配置と、スリリングな視線劇の妙味。 そしてファム・ファタルを妖しく照らし出す照明術の冴え。 あるいは、対峙した保険調査員エドマンド・オブライエンの一瞬の隙を衝いて拳銃を蹴り払い、一気に形勢逆転するジャック・ランバートの敏捷な動き。その緩から急への反射的アクションを捉えたワンショットの充実度。 さらには、クライマックスの感情を形づくるアルバート・デッカー邸内部の光と闇の拮抗。 スティーブ・マーティンの『四つ数えろ』でも多くのシーンが引用されているように、全編が見所といっていい。 [ビデオ(字幕)] 9点(2011-11-22 22:33:44)《改行有》

92.  飛行士の妻 街頭を歩きながら口論するフィリップ・マルローとマリー・リヴィエール。 それをハンディで追うカメラ。偶々通りがかった通行人なのか、エキストラなのか、後景に映る人々が何事かとカメラのほうに眼を向けたりしている。 駅やカフェテラス、バス内や公園と、街の空気にささやかに映画を波及させ、それを何気なく取り込みながら、映画が生々しく進行している感覚それだけで十分に楽しい。 飛行士を尾行するフィリップ・マルローに、お茶目で可愛い少女(アンヌ=ロール・ムーリ)が絡んでくる。目的自体が曖昧なまま、男女が男女を尾行するサスペンスの程よい緩さ。 緑豊かな公園の遊歩道、およびカフェの窓際席での二人の他愛ない会話劇がまたすこぶる楽しい。 尾行対象を常に後景(画面奥)に意識させるレイアウトが、画面全体を包括する視線を要求してくる。よって映画の心地よい緊張がまったく途切れない。 本作では緑を基調とした配色の中、少女の羽織るレインコートの黄色のアクセントが鮮烈だ。 [映画館(字幕)] 9点(2011-11-06 18:34:45)《改行有》

93.  エッセンシャル・キリング 《ネタバレ》 映画は映画であれば良い。読書ではないのだから。メッセージ(「いいたいこと」)やテーマを伝えたければ論文を書けば良いだけのこと。 文科省の読書感想文による主題論教育に従順に馴らされてきた者は一般的に映画においても画面を味わうことを知らず、まずテーマを読みたがり、そしてそれが自分の理解の範囲を超えたとたん、「芸術」を逃げ口上に使う。よって純粋な活劇はなかなか理解されることがない。 雪の白に擬態し、罠に嵌った犬を囮に使い、木の枝や蟻を齧り、崖から滑落する。 『ランボー』のサバイバルアクションを髣髴させつつ、その『ランボー』がラストにおいて嵌った饒舌な内面心理や社会性といったものも見事に削ぎ落としている。 言語も記憶も時制もことごとく排除され、生物の一次欲求だけが活劇を駆動していく。 代わりにその静寂のラストに訪れるのは『バルタザールどこへ行く』を連想させるような冷厳さだ。 右肩部分に血痕の付いた寡黙な白馬は、主人公(ヴィンセント・ギャロ)が野生へと転生した姿か。 回想シーンの幻聴や様々な状況音(ヘリの爆音、チェーンソー、犬の咆哮など)そして台詞の代わりに主人公の口から漏れる呻き、吐息、咀嚼音といった要素に意識を向けさせられるのもブレッソン的だ。 馬・鹿・犬たちの佇まいと躍動が素晴らしい。特に、ギャロの周囲に群がる犬の集団アクションは圧倒的なスペクタクルである。 [映画館(字幕)] 9点(2011-09-19 18:14:36)《改行有》

94.  ザッツ・ダンシング! エジソンの時代から80年代までのダンス映像がモンタージュによって紡がれ、一つのリズムにシンクロしながらオープニングナンバーを形づくる感動。 そして『ザッツ・エンタテインメント』シリーズと同様、名ショットがリプレイされる最中にストップモーションによってダンサーたちの素敵な表情と身振りの一瞬間が躍動の中から的確に切り取られ、その一瞬が永遠化するようなエンディングの映画的感動。 全身で表現される伸びやかなダンスがスクリーンを越えて観る側の何かを開放し、幸福感で満たしてくれる。 69年の不動産企業によるMGM買収とその「資産破壊」、そしてメジャー再編を経たMGM/UAによる本作に登場する作品は(皮肉にも)時代範囲からしてもMGM中心の上記シリーズ以上に多彩だ。 映画は「ダンス」を描いた古代の壁、絵画、彫刻、舞台、そして映画最初期から80年代のMTV時代までを網羅する。 様式的には、民族舞踊、チャールストンからモダンダンス、ブレイクダンスまで。 映画表現的には、サイレントからトーキー、モノクロームからカラー、スタンダードからシネスコへ。30年代のバスビー・バークレーの前衛的な視覚効果からアステア+ロジャースらの個人技・フルショットの時代への変遷も判りやすい。 なかでも、巨大セットとスターが象徴する絢爛豪華の50年代と、『フェーム』等のストリートロケが象徴する80年代とのルックの隔たりは、撮影所の崩壊を強烈に印象付ける。その一方で、ダンスは継承と同時にエレガンス志向からエネルギッシュなものへとスタイルの革新を示し、映画は黄金時代への郷愁に湿るばかりではない。 映画は健康なオプティミズムで締めくくられている。 そして何より「映画キャメラの発明以前にダンスの道を歩んだ人々に捧げる」とする映画冒頭の献辞が感動的だ。 [ビデオ(字幕)] 9点(2011-09-07 22:57:22)《改行有》

95.  怪人マブゼ博士(1933) ドイツ公開バージョン。 怪しげな工場内を移動していくファーストショットと、そこに響く重い振動音からして尋常でない緊張感が画面を充たしている。 その序盤シーンをはじめ、窓やドアといった装置がその開閉だけでもサスペンス演出としてバラエティ豊かに機能しており、米独通じての空間・装置活用の傑出ぶりを見せ付ける。 多重露光によって浮かび上がるマブゼ博士(ルドルフ・クライン=ロッゲ)の禍々しい幻影と、その憑依表現の見事さ。 全篇にわたって画面に退廃的ムードを漂わせる煙草の紫煙。水流と火炎と投光機のライトによるスペクタクル。ヘッドライトに照らされる路面や木々の流れが素晴らしい、夜のカーチェイスのスピード感覚と、屋内・屋外含めて画面の装飾は凝りに凝っている。 「閉じたドア・カーテン」が仄めかす背後空間と、実体なき音声による煽動、そして暗く見通しの悪い夜の一本道を猛進する縦構図の疾走アクションに、時代の空気を読みたくもなる。 [DVD(字幕)] 9点(2011-08-21 14:42:07)《改行有》

96.  レセ・パセ 自由への通行許可証 レストランの場面を撮る撮影現場のシーン。主役である助監督役ジャック・ガンブランが女優の肩にかけるショールを持ってくるようスタッフの女性に言いつけると、彼女は画面右手の楽屋へ小走りで取りに行く。それを追うカメラ。彼女が角を曲がったところでカメラが静止すると、手前では男とスタッフが出演交渉している。女性スタッフが戻ってくると、カメラは再び彼女を追い、女優の肩に無事ショールがかかる。 深い被写界の中、縦横無尽に移動するカメラは1ショット内に複数のシーンを入れ込み、画面を奥行き豊かに重層化させる。 それはこの場面に限らない。冒頭の喧騒シーンから、画面奥で活躍するエキストラ一人一人の動きも疎かにすることなく、その活気とエネルギーを画面に載せている。 クルーゾー、カイヤット、スパーク、フレネーといった当時の「コンティナンタル」を巡る錚々たる有名監督・脚本家・キャスト名が飛び交う中での、大道具・小道具・照明・衣装スタッフや端役、即ち名も無き映画を支えるスタッフ一人ひとりに対する心配りと賞賛の証しであり、その眼差しの表出が心を打つ。 映画は、ユーモアとスリルが絶妙に織り交ざり、長丁場を飽きさせない。 善悪を超えた人間描写の豊かさと共に、田舎道を自転車で疾走するシーンの縦移動の爽快感が素晴らしい。 [DVD(字幕)] 9点(2011-08-07 20:43:17)《改行有》

97.  ルネ・クレールの明日を知った男 《ネタバレ》 意欲と技巧の先走った感もあるトーキー初期に比べ、40年代ハリウッド期(第3作)の「音」使いは控えめながら要所要所で対位的な面白味を加味して物語を引き立てる。 窓ガラス越しのショットによって、オペラハウス会場の歌声と拍手をロビー側の強盗シーンの騒乱に被せる。または、楽屋裏でのアクションに表舞台の楽曲をオフで被せてシンクロさせるといった部分だが、それら技巧の突出を控える分、魅力的なキャラクター達の造形と話術に力を注いで荒唐無稽な脚本をファンタジックに昇華している。 川に飛び込んだリンダ・ダーネルが、ディック・パウエルのダブダブのスーツを着て自室に帰るシーンあたりから、少々無愛想だった彼女が俄然魅力を放つ。 クライマックスのアクションも空間的な広がりとタイムリミットが活かされ大いに盛り上がる。 そしてラストの雨宿りの幸福感溢れるツーショットはまさにクレール印だ。 冒頭と釣り合う形で、50年後(金婚式)の二人のロングショットにカットバックしたかと思うと、いま一度若き二人の仲睦まじい笑顔に戻る。その魅力的な二人の表情がとても愛しい。 主人公を諭すジョン・フィリバーの柔和な佇まいも素晴らしい。 [ビデオ(字幕)] 9点(2011-08-06 20:42:18)《改行有》

98.  犯人は21番に住む 雨に濡れた暗い路地。バーを出た男を尾行していく犯人の主観ショットの緊迫感から一気に映画に引き込まれる。 50年代に一気に名声を高めるクルーゾー監督の優れたサスペンス演出は、戦中の処女作(コンティナンタル製)から随所で光る。特に冒頭の刺殺シーンを始め、幾度か登場する殺人場面はいずれも見事。(『悪魔のような女』的な浴槽殺人も登場) 大写しとなるシルエットの用法や「3」の記号の活用などは、ラングからの影響もあるのだろうか。 一方で、ピエール・フレネーとお転婆ぶりが可愛いシュジー・ドゥレールの掛け合いや、手品師とのスリ合戦など、楽しい見所も充実している。 「ミモザ館」住人達のキャラクターもそれぞれ個性的だ。 ナイフ、マッチ、ステッキといった小道具の扱いも各所でアクセントとなっており、特にラストショットでピエール・フレネーがマッチを擦る粋な仕草は鮮やかに映画を締めくくっている。[ビデオ(字幕)] 9点(2011-08-06 19:34:52)《改行有》

99.  コクリコ坂から 《ネタバレ》 非映画的な「説明のための説明」など無い方が良いのは、言うまでもない。 主流シネコン映画の「全面介護式」に慣らされ、1から10まで手取り足取り映画に説明してもらわねば何も「ワカラナイ」観客、あるいは「見ていても気づけない」観客、(ついでに言うと「メッセージ依存者」)には不向きな映画であることは間違いない。 エスケープから戻った路面電車乗り場の告白シーン。カメラ正面に向いた少女の後景に次第にヘッドライトが入射し、今度は切り返された少年の正面へ順光が入射する。続いて横からのショットとなり、少女のいる画面右手から少年の立つ左手へと光は伝わり、彼らの後方でドアが開く。 古典的で寓意性豊かなシーン作りが絶品だ。 あるいは、『天空の城ラピュタ』的な垂直線上の出会いの鮮やかさ。 マッチを摺る、キャベツを千切りする、あじフライをフライ鍋の中で箸で裏返すという細やかな調理動作の見事さ。 そして金槌打ち、ハタキ掛け、壁塗り、箒掛け、雑巾掛け、荷物運びといった清掃の動作のアニメーションも過去作の群を抜いて多彩だ。 何故、宮崎駿は「労働」のシーンを重視するか。それは、アニメーター自らが徹底した観察と実演を通さねば描き得ないアニメーションの基本だからだろう。 だから彼は何よりもまず労働の場としてカルチェラタンを設定・脚本化し、スタッフに作画を課す。 彼は、人間の細部の動作を写実する地味で困難な作画を通してアニメーション文化の継承と若い人材育成に専心しているように見える。そしてスタッフはそれに見事に応えている。 宮崎駿を不遇時代から理解し、支え続けた故・徳間康快氏もあからさまに登場するが、それはこの作品が、宮崎から亡き恩人への直截な返礼と手向けであることを示す。 助力してくれる旧世代への信頼と肯定。そこから新世代の進歩が生まれるというメッセージ。それは討論会のシーンでも少年の演説の形を借りて直裁なまでに謳われている。子供達の未熟を映画は否定しない。 宮崎吾朗組は、先達の信念を肯定し尊重しつつ、それを継承することから、新しきを模索してゆこうとする。 少年と少女は、オート三輪やタグボートを駆る大人達の助けを素直に借りて協働しながら坂道を下り、海を渡る。 前半の「上を向いて歩こう」に呼応する武部聡志のサントラナンバー「明日に向かって走れ」に乗って二人が坂道を並び駆け下りて行く横移動シーンの高揚感、ロマンティシズムが素晴しい。 [映画館(邦画)] 9点(2011-07-19 23:41:36)《改行有》

100.  モラン神父 モノローグのナレーションを活かし、男女の機微を静かに見つめる作風は、デビュー作『海の沈黙』の趣向と非常に似通う。 様々な対話の劇によって映画は進行するが、神父(ジャン=ポール・ベルモンド)とベルニー(エマニュエル・リヴァ)の対話においては、古典的な「心を通わす」切り返し編集は抑制され、距離を置いて二人をツーショットで捉える構図を中心に展開される。(告解室の二人の構図が特徴的だ。) 「切り返しの排除」あるいは不徹底と、そして特に神父側の心理を表象させない自制的な人物造形(表情と仕草とリアクション)によって、悲恋を予感させながら緊張感を呼び込んでいく。 そして、結部のシーンの静かな情感の高ぶりが素晴らしい。 階段上にある神父の部屋。風が窓を震わせ、戸を揺らしている。向かい合う二人の対話。アンリ・ドカエのカメラは二人をどのように捉え、どう切り返すのか。正面中央に大きく据えられる神父と、距離を置いて中心からずらされるベルニー。その非対称の視線劇がせつなく印象深い。 ※バルニーの娘役で、マリエルとパトリシアのゴッジ姉妹が共演。幼少期と少女期をそれぞれ愛らしく演じている。 [DVD(字幕)] 9点(2011-07-09 22:09:20)《改行有》

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