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年齢 43歳
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81.  赤い靴(1948) 映画全体からカラーの喜びが伝わってくる。50年以上前にしてこの色があったのか、と驚いた。そして美術と撮影がほんと素晴らしい。この映画には、映画を作るという事への原初的な欲望を感じ取れるような気がする。それは、赤い靴がそこにあるというただそれだけの事に心が躍るような期待感である。靴がヴィッキーの小さな足に収まった瞬間、バレエと映画が幸福な出会いを果たす。最初はパッとしない赤毛の主人公だな、と思っていたら話が進む度にどんどん輝きが増していく。そしてラスト、彼女が踊りを終えた時(それは死を意味するのだが)、輝きは頂点に達して靴はまたもとの場所へと帰る。映画内の舞台がそのままストーリーの暗示になっていたことがここでわかる。話はいたってシンプル。男二人女一人のメロドラマで、今となっては化石も同然の古典的リズムが全編を漂う。しかし考古学者が史料を眺めるようにこの映画を鑑賞する必要はない。なぜなら画面から溢れるエネルギーに、嫌でも引き込まれる事間違いなしの面白さだから(ちなみにこの映画、見る前は異人さんに連れられて海外に行った女の子が苦労の末バレエダンサーになるというサクセスストーリーだと思っていた)[DVD(字幕)] 9点(2005-04-22 13:00:37)

82.  サンダーボルト(1974) 巨大な兵器を人に向けるのではなく、銀行の分厚い壁を破るためにぶっ放すというストイックさにやられた。アクション映画なのにカット数が異常に少ない。一発のカットだけで緊張感なり叙情を生み出せる力量を感じる。とにかく男の友情に対する描き込みが分厚い。それに対し対照的すぎる思春期の中学生ばりの画一的な女性観。とにかく欲求がストレートである。そしてクリント・イーストウッドのカッコよさ。ジェフ・ブリッジスも映画内で言っていたが牧師とはたいしたもんだ。祈祷とカーチェイスを同時に味わうという超映画的な悦楽がここにはある。ともするとこの映画からはホモセクシャルの香りを嗅ぎ取る人もいるだろうが、そう捉えるとこの映画は酷くつまらないものになってしまう。これは欠損の映画だ。何の欠損でもいい。金の欠損でもあるし、身体の欠損でもあるし、関係の欠損でもある。巨大機関銃を壁にぶっ放すという行為ですら欠損である。この映画をひたすら称えたいのは、アクションという強度を求めるジャンルの中からあえてこのような「弱さ」を提示したからである。「サンダーボルト」に西部劇の精神の継承を見た気がした。これが本当に長編1作目?ラストの高級車での二人の会話と、物語を見事に象徴するタバコの使い方にひたすら感動していただきたい。映画は女と銃と車があればできると偉人は言ったが、タバコも忘れてはならないね[DVD(字幕)] 9点(2005-04-18 07:48:15)

83.  ツィゴイネルワイゼン どこかの映画館で「ツィゴイネルワイゼン」と「陽炎座」の2本立てという魅力的な企画があって、清順を未見のままにしていた甲斐があった!ということで飛びついた。が、その日は上映開始からすでに眠かった。これはちょっと無理かな、と睡眠モードに入ろうとしたが、映像がすでに夢うつつ。しかも強烈な切り絵を連続したような不可解な繋ぎと意味不明な登場人物たちに吸い寄せられてしまい、夢を見ながらギリギリ覚醒しているような状態で4時間を過ごした。そのおかげで、いまだにどっちがどの映画なのかよくわからない。言ってみれば「ツィゴイネル座」なのだ。ここのレビューなどを見て何とか分離させようとしたがやっぱりダメ。花束から綺麗に花びらが散ったかと思えば山奥へ原田芳雄の夫妻を訪ねるシーンが出てくるし、まつげを舌でなめられたのは松田優作だったような気がするし・・・でも、これでいいような気がしてきた。だってセイジュンだし。事実、「ツィゴイネル座」は私にとって最強の幻想映画なわけで。[映画館(字幕)] 9点(2005-04-07 17:03:20)(笑:2票)

84.  サンタ・サングレ/聖なる血 スプラッタB級ホラーの香りをプンプンさせつつ、マザーコンプレックスを象徴する両腕の喪失と、父から与えられた胸の刻印による呪縛からの解放がストーリーの主軸となる。両腕の喪失と書いたが腕が無いわけじゃない。親父に両腕を切られた母親の腕代わりになっているのだ。母の仕草にあわせ息子が後ろから手を動かす姿は滑稽だがある意味怖い。主人公である息子は血を求める母親の代わりに殺人を重ねていく。メチャクチャな話ではあるが、ホドロフスキーは複雑な心理描写を排除してありのままの人間を描いている。奇形の人々や障害者が沢山登場するが、そこに違和感は全くない。欠けている部分が見えやすいかそうでないか、ただそれだけなのだ。見えやすいというのは明るさでもある。南米を意識したと思われる舞台の熱気と共に、彼らは激しく躍動している。とは言うものの皆さんがおっしゃるとおり、この映画は「エル・トポ」程の衝撃はない。ないのだが、僕はこっちのほうが感動した。スクリーンで見たというのもあるのだろうが、この映画にはとても気に入ってるシーンがあるからだ。胸にフェニックスの刺青を父親に彫られた主人公・フェニックスにひそかな思いを抱く少女が、傷ついた彼の胸に手を当て、鳥の翼のように羽ばたかせるパントマイムのシーンである。ちなみに少女は聾唖であり言葉を交わすことは一度もない。最初と最後に、見事なタイミングでこのシーンを持ってくる。映画が詩になる一瞬をここに見た。素晴らしい映画をありがとう、ホドロフスキー。9点(2005-03-17 17:01:29)

85.  或る夜の出来事 登場人物は皆思い込みが激しい。彼らはキャプラのあやつり人形となりアンジャッシュのコント(例えが悪くて恐縮ですが・・・)のようにカン違いの渦を広げていく。見ているこっちはじれったいが面白くて仕方がない。すれ違うときこそ彼らはそのキャラクターを発揮するからだ。くっつきそうになれば当然ジャマが入る。これは完全な古典だ。古典は古い、当たり前だ。だが、古典は揺るがない。気がつくと見ているこっちがキャプラにあやつられていた。「素晴らしき哉、人生!」は正直見ていて疲れた。大団円のラストは必然としても、映画が内側から「そうでなければならない!」と、エネルギーを発散し過ぎているようで目が当てられなかったから。「或る夜の出来事」にはそんな力みが一切ない。これぞキャプラの様式美。バスの合唱シーンは最高ですな。9点(2005-03-15 21:57:00)(良:1票)

86.  マルホランド・ドライブ この映画に出てくるファミレスとそっくりな場所が東京の登戸周辺にあるらしい。まあ、そんなことはどうでもいい。私はこの映画が大好きである。ただ、大好きといいながら最初は意味がよく分からなかった。前半と後半でナオミ・ワッツが同一人物だとは思わなかった。それでも意味不明では済まない高密度な展開を目の前にして思わず戦慄した。何度か鑑賞の後、ストーリーを理解した時はリンチの虚実感覚に確かに驚いたが、それよりもこの悲しすぎるラブストーリーの濃度がこの映画のキモなのだと確信した。リンチはどう考えてもヒューマニストだ。その意味不明な映像の連続とフリークス達に、まず目がいってしまうが、彼の映画の本質は社会からはみ出てしまった人間たちを「ありのまま」描くことにある。トラウマ体験間違いなしの「イレイザーヘッド」ですらそれが見て取れる。おそらく彼にとって、むき出しの人間をそのまま描くのは顔が赤くなるぐらい恥ずかしい事でもあるんだろう。リンチは社会から見えない異形を映し出す「ラーのかがみ」になる。そして登場人物達に「遠回しの愛情」を注ぐ。それがまた魅力的なのだ。前半の、ありえないぐらいキラキラしていてポジティブ、それでいてエロさを併せ持つベティはまさにハリウッド的異形。発端だけ提供される幾つかのストーリーは次第に消えて一本の筋が見えてくる。それは一本の張り裂けそうな欲求だった。そしてデビッド・リンチの冷徹な視線はそんなベティの妄想を打ち砕く。夢は破れてしまった。映画は一気に破局を迎える。ベティ(ダイアン)とリタ(カミーラ)の蜜月がオーバーラップされ、最後の「シレンシオール」。うーん、切ない!ダイアンの衝動は「ノー、アイ、バンダ!!」のシーンに集約されるのだと思うと泣けてくる。[映画館(字幕)] 9点(2005-03-14 09:49:37)

87.  霧の中の風景 完璧。もう一度言っちゃおう。完璧。映像も音楽もストーリーも、とにかく全てが。個人的にはいろんな意味でぶっ飛んでるギリシャ現代史三部作とか「アレクサンダー大王」のほうがアンゲロプロスの人間性を感じられて好きだが、「霧の中の風景」はかなり特別な存在だ。これの前の作品は「蜂の旅人」という非常にパーソナルな映画で、この映画からは老いを疲れるぐらいに感じたのに、数年後の次回作がこれだ。一体何があったのだろう。時空をまたぐ歴史語りに疲弊して旅に出た老人が、沈黙の詩人になって帰ってきた事は確かだ。ちなみにこれ以降は国境線上の夢遊病者になる。「霧の中・・・」に関しては色々と書きたい事があるが、一番重要と思われるのは、アンゲロプロスもまたこの二人の子どもたちのように原郷を探していたのだろうということだ。そしてこれが一つの答え、なのかどうかはわからない。というのもあそこがその場所なのだとしたら、それはこの世にはない場所だから。それは昔はあったはずだが今ではすでになくなってしまった場所とも言える。だから正確には探しあてたというよりも元の場所に戻ったというべきか。フェリーニには「アマルコルド」という原郷があり、タルコフスキーには「ノスタルジア」という失った原郷がある。そしてアンゲロプロスは「霧の中の風景」についに帰ることが出来た。ただし、これ以降彼の作品を包む霧はそんなに優しくはない。「ユリシーズの瞳」はまさにそれを象徴する。苦しい映像体験になると思うが、これもぜひ鑑賞していただきたい。彼特有の「あえて見せない」演出は曇天の鉛空だからこそ発揮するという事がよくわかるはず。[映画館(字幕)] 9点(2005-02-24 14:17:48)(良:1票)

88.  春の惑い 二大巨頭のチェン・カイコーとチャン・イーモウが中心となって作り上げた「『黄色い大地』な映画」は最近では影を潜め、二人は現在エンタメ路線に転向(?)し、映画が業界として向かうべき欲求(=金儲け)に正直であろうとしている中、同じ第5世代の監督が珠玉の作品を現代中国の映画作家に向けて作った。とにかく静かな映画だ。音だけでない。人が、自然が、暗闇が、戦後の傷跡が全て静かなのだ。そしてこの静かさは今にも消えてしまいそうな危うさでもある。例えばチャイナドレス。主人公である女性はまさにチャイナドレスを着るために生まれたんではないかというぐらい、よく似合う。ところが、チャイナドレスというのはあの形から考えてもエロスの欲動が潜んでいると自分で勝手に思ってるのだが(だって・・・エロいよね?)、この人が着ると、それはタナトスへの指向となってしまう。そうさせているのはこの女性の演技はもちろんのこと、この映画の最も重要な要素である光の力だろう。指す光、漏れる光、揺らめく光・・・光ってこんなに沢山の種類があったのかと思わせる。その張本人は夜だ。この映画では夜に物語が動く。相当に広い屋敷の中でわずかな光がこぼれている。この光の強弱が感情の振幅になって観る者を惑わせる。物語は非常に単純だ。しかし古城の春の訪れをこんな形で伝えてくれた監督の力量は凄い。また中盤、大河に浮く小船の上で登場人物たちが「美しき青きドナウ」の中国版を合唱するシーンが個人的には大好き。リーピンビンの映像に酔うしかない。[映画館(字幕)] 9点(2005-02-14 13:28:09)

89.  天井桟敷の人々 贅沢な贅沢な映画である。極めてわかりやすい形のメロドラマであるにもかかわらず詩人ジャック・プレヴェールのオシャレな脚本が人物に息吹を与えることに成功しているだけでなく、当時の様子を忠実に再現したであろう巨大なセットによる素晴らしい美術に圧倒されることは間違いない。長丁場を感じさせないテンポのよさ、舞台と実際のストーリーが交錯しながらラストの別れへと向かう。このラストシーンでは、それまでは少人数の人間が中心となって動いていたストーリーに、突然大衆が割り込んでくる。そういえば「もののけ姫」でも、サンとアシタカを引き離したのは結局のところ兵士の大軍であったように(これは監督の意図であったそうだ)運命という巨大なうねりが個人に降りかかるというのは結末への口実として一見都合が良い手段に思われそうなものだが、こういう開き直りは個人的に結構好きだったりする。フランス流時代劇として必見の一本といったところか。[映画館(字幕)] 9点(2005-01-20 19:10:55)

90.  ニール・ヤング/グリーンデイル 知る人ぞ知るニール・ヤングが映画を作った!興味本位で鑑賞、そして、最初10分でこの映画は一体・・・?と、困惑させられた。というのも登場人物はなにも喋らない。いや、正確に言うと口パク。どういうことかというと、ニール・ヤングの歌声が全部セリフなのである。映画にするという意図がアルバム製作時からあったのかわからないが、歌詞は台本(?)的だ。映画の内容や状況は、全部「グリーンデイル」というアルバムに沿って進行している。音楽を映像化したのではなく、音楽が映画になったというところか。この映画によって、映画を「観る」ことが当たり前だと思っていた人は衝撃を受けることと思う。この映画は「聴いて」こそ響いてくる。これは単なるアメリカ批判映画では決してない。というかこんな映画みたことない!(追記)時間が経って思い返すとこの映画は思ってた以上にすごい映画なんじゃないかという気がしてきた。そして上映を行った吉祥寺バウスシアターは震源あるいは音源として映画館の常識を覆してくれたとも思う。[映画館(字幕)] 9点(2005-01-13 01:54:07)

91.  友だちのうちはどこ? 《ネタバレ》 この監督ってどうしてこういう表情を撮れるんでしょうか?大人も子供も表情をほとんどピクリとも変えない。唯一泣きじゃくる子供がいましたがそれ以外は、特に子供は無表情といってもいいぐらい。主人公の男の子の表情なんて「こうこう、こうして」と教えてできるもんじゃないでしょう。「ミツバチのささやき」のアナという女の子の無表情もとても印象的なのですが、その時の印象とは全然違いますね。アナは、普通の子供が背負うことはないグロテスクなものを本人は気づくことなく背負っています。一方、この男の子は私達が小さい頃に持っていたかわいらしい悩みを、それこそ人生の一大事とばかりに背負い込んでいます(笑)話は単純です。というか、普通なら誰もこんな部分から映画へと着想させようとは思わないに違いありません。それが何でここまでの素晴らしい作品になってしまったのかは、未だにわかりません。なんというか、この子が走っているのをカメラが追うだけで、今まで見ていた世界が一変して急に懐かしい気持ちになってくるんです。世界が変わる、と言うよりは昔いた世界に戻る、と言った感じです。キアロスタミのまなざしの奥にはこの男の子のような子供がいまだに存在しているに違いないです。[映画館(字幕)] 9点(2004-12-25 03:34:08)

92.  イノセンス DVDで何度も見返すたびに、映画館で繰り返し観なかったことを激しく後悔する映画がこれ。こんな贅沢な映画はそうないです。攻殻機動隊とは一味違うハードボイルドの世界。現在、これほどのコテコテなハードボイルドが生身の人間(笑)にこなせるでしょうか?無理でしょう、あるいは出来たとしてもそこには一種の滑稽さが潜んでいるのではないでしょうか。一方、彼ら(ゴースト)の孤独はシャレにならないです。人間によって彼らの似姿として作り出された人造人間。それら(というのも憚れるが)は人間の理想形として、従属するものとして量産されます。この映画の冒頭、球体人形のような姿の美しい人造人間は、暴走した後、自ら壊れます。このプログラムとして予定された自殺の残酷さは、意外な存在によるものだとわかるのですが・・・それにしても生々しすぎる。バトーもまた、マトリクスの裂け目の向こう側に行ってしまった少佐の影に囚われ、それでもゴーストを体現する自らの肉体を必死で引き止めるかのように、犬に対して過剰な愛情を注ぎます。バトー(人造人間)もまた、誰かとつながっていたいと願っているということです。終盤、ロボットに乗り移る少佐と彼女に自分のジャケットを着せるバトーのペアは、最も美しいカップルの一組だったのではないかと思ってしまいます。≪われわれの神々もわれわれの希望も、 もはやただ科学的なものでしかないとすれば、われわれの愛もまた科学的であっていけないいわれがありましょうか≫[映画館(字幕)] 9点(2004-12-19 02:24:02)

93.  特別な一日 誰もいなくなった団地。管理人のおばちゃんが大音量で流すナチスの集会の放送だけが聞こえるその団地での、ソフィア・ローレンとマルチェロ・マストロヤンニとの出会いは、既に諦念によって包まれており、そこにはあらかじめ決められたかのような不可能性があるばかりだ。ラジオから流れる「軽さ」と、カメラの前で繰り広げられる特別な一日の「重さ」が同時進行していく、その緊張感は見事としかいいようがない。 ラスト、少しずつ電気が消され暗くなってゆく室内は、特別な一日が終わりを迎えた事を示すだけでなく、さっきまで「軽さ」であったはずの戦争は生活に直接影響する「重さ」へ変わり、二人の出会いは風船のような「軽さ」へと変わる。ソフィア・ローレンに残されたのは三銃士と修理された電球だけだったが、それは消えてしまいそうな軽さの為に欠かせない、錘なのだった。屋上でのシーンとともに忘れられない映画。[ビデオ(字幕)] 9点(2004-12-07 01:22:26)(良:2票) 《改行有》

94.  大地 この映画、やばすぎる。この映画の主張としての労働者の苦しみや解放といういかにも共産主義的な感じの物語は70年過ぎた今、様々な形で表現されてきており、特にどうこうということでもない。しかしそんなことをはるかに超越する映像がこの映画を70年たった今もクラシックの名作として棚に残している。普段自分が自然として認識しているものと、このドヴジェンコという人が認識していた自然の格差にまず愕然とする。ドヴジェンコは間違いなく自然、大地に神を感じていただろう。アスファルトの上から大地を感じ取ることの困難、あるいは困難すら生じない現代では、この映像は既知のものであってももはや未知の映像だと思う。[映画館(字幕)] 9点(2004-11-15 02:23:09)(良:1票)

95.  揺れる大地 人生は一回きり。繰り返し起こるものではないのだから、理科の実験のように様々な仮説を立ててそのつど実験し、その中から正しい仮説を判断することはできない。ゆえに勝つ者が勝ち、負ける者が負ける。後者の描写はヴィスコンティの初期に見られる。後期は勝った者の負け(というか崩壊)だ。ヴィスコンティといえば滅びの美学の代名詞として有名だが、それもこの映画のように「滅び」そのものを鋭く見つめた過程があったからこそである。しかし、この映画が何を言いたいのか、私にはよくわからなかった。生きることの厳しさ?ん~。不条理な社会へのメッセージ?という冗談は置いておいて、例えば戦争という人間の心に深くて広い傷を作る現象を、ぞれが実際に戦争そのものとしてではなくても、戦後の社会に及ぼした影響という点で見ても、リアリズムというかたちで表現すれば同時に限界もあらわれるはずだろう。リアリズムがリアルであることに忠実である以上は。おとぎ話のような「ミツバチのささやき」が痛いほどにスペイン内戦の後遺症を表現できていることは紛れもない事実。とはいってもこの映画はやはりどう考えてもすごい。役者として漁村の人々をそのまま用いたらしいが、まさにパッション(イタリアだからパッシオーネ?)。わかりやすい金持ちと自由奔放な女と、あのイタリア語。ヴィスコンティはもっとイタリア人の映画を撮ればよかったのにと、たまに思う。9点(2004-11-12 01:39:23)

96.  ゴジラ(1954) 最近のゴジラといったらどうも他の怪獣と対決しているイメージが強く、"いい奴"としてのゴジラをまず想像してしまう。映画館に押し寄せるゴジラファンは何を期待しているかといえば、間違いなくゴジラが大都市を破壊し尽くすシーンだろう。この元祖ゴジラはその後の怪獣バトルを考えると、数少ない「人間たちを照準とした」作品で、都市の破壊こそが信条だった。「ゴジラが来る夜に」という非常に面白いゴジラ論では、この作品において「怪物が現れた、怪物を殺せ」ではなくて「怪物が現れた、人間が変われ」という可能性を提示したと書いている。そうなるとゴジラとは一体何なのか。シリーズを通してそのあり方を何度か変化させたゴジラはそれぞれ別のものなのか。怪物とは人間の内に潜む恐怖(とは言い切れない部分もある)が具現化したものであり、それが人間に悪い影響を与える。これを「殺す」というのは何だか気味が悪い。それは自分を殺すという意味でもあるから。[映画館(字幕)] 9点(2004-09-24 16:57:52)(良:1票)

97.  イージー・ライダー 自分はバイクにはあまり興味は無いが、この映画には大いに興味がある。というのもこの映画は全編通してうさん臭さが漂いまくっているからである。それにもかかわらずここで描かれるアメリカの暗部はマイケル・ムーアが暴くアメリカの暗部以上に、グロテスクに体内に入り込んでくる。田舎の町の喫茶店でのシーンなんかは、あれはどういう人たちかわからないが、明らかデニス・ホッパー一行を現実にも憎んでいたのではないかと思うぐらいの表情だった。そしてなんだかわからないうちに、衝撃的な結末へと向かう。空撮をボーっと観ながら、この映画がうさん臭いのではないことがわかった。むしろこの映画はうさん臭さを表現することに成功したのだと。9点(2004-09-24 02:28:41)

98.  ボスニア 怪作(怪物のような作品の意)「アンダーグラウンド」のラストの字幕<この話には続きがある>という不穏なメッセージ。バトンを受け取ったボスニアの詩人でもある監督が描いたボスニアの内戦は、その不穏が筆舌に尽くしがたい程の絶望に変換されたものだった。いや、戦争の恐ろしさや狂気を描いた作品は今ではどこにでもある。そんなものまでも消費物としてポップコーンを飲み込むようにしてやがて排出される運命にある現状で、「ボスニアを東京まで拡大せよ」というメッセージを受け止める覚悟はなかった。「いつまでも平和ボケしていられると思ったら大間違いだ」と釘を刺されたような気分だった。反対に「ボスニア」を直接に体験する登場人物たちは確実に生きていてそして何かを勝ち取る為に死んでいく。生き長らえたとして残るものは・・・・全編通じて流れるジプシー音楽の調べは彼らの青春であり諦念でもあった。それらを包み込む「民族と友愛のトンネル」の暗闇と円環構造になっている物語がこれから続くであろう世界規模の内戦を予見している。アメリカ同時多発テロ後しばらくして見ただけに終了後はどうしようもない気分になった。とんでもないものを見てしまったという感情と、ユーゴ問題すら気がつけば忘却のかなたにあったということ。そして何よりも日本でこの映画を見たということにショックを受けた。にもかかわらず、この映画が自分にとって愛すべき映画になっている。それはこの映画にこもった魂があまりにも切実だったから。[映画館(字幕)] 9点(2004-09-05 01:50:36)

99.  台風クラブ まず言いたいのは、相米監督万歳。見終わってメメント・モリという言葉がよぎった。三上君にとっての台風は、あの純粋すぎる魂を前触れなく奪っていってしまう類の死神だったのか。死でさえも消費の対象になっている時代にとっては彼の決意が遠すぎる(世の中に目を向ければ、死を実感してこなかった子供たちがそれを実感できないままに殺人を犯している)。そして居るはずなんだけど見えない家族。家族の不在というか家族を願望の中でいびつに歪めている感じを受ける。この物話は、都会でなくて郊外を舞台にしたのが大きい。性格がすれてないだけに彼らが味わう特別が日常として当然あるような、そういうあやうさが郊外とはとてもマッチする。台風は時には閉塞を生み出し時には開放的な気分にさせる。これって思春期の子供たちそのまま。台風はそれともつまらない大人になる為の通過儀礼だったのか。自分にも中学3年生という時期があったのだと素直に驚く。大切にしたい映画である。9点(2004-08-05 00:26:23)

100.  ユリシーズの瞳 映画誕生100年目にして出来た唯一無二のこの作品、一回見ただけでは何の判断も下せないでしょう。寄せては返す波のごとく行ったり来たりしながら、ハーベイ・カイテルが演じた映画監督Aとマナキス兄の現実(旅)と夢(追憶)に少しずつ近づく必要があります。映画はエンターテインメントだ、とはよく言われることでありますが、それと同時に抑圧から生まれる純度の高い結晶としての映画の存在も忘れてはならない。最初は何のけがれもなかった映画へのまなざしは100年を経て今の姿となりました。古典となった映画を今でも見るのは、映画にこびりついてしまった手垢に触れたくない時があるからでしょう。失われた無垢のまなざしを求める時空を超えた旅は歴史の渦に巻き込まれ、悲しすぎる惨劇でもってラストを迎えます。映画の敗北か、それとも第2章の始まりか。アンゲロプロスのまなざしは、私には遠すぎます。[映画館(字幕)] 9点(2004-07-25 01:17:27)

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