みんなのシネマレビュー |
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141. 河内山宗俊 すべての登場人物たちが物語を把握することなくすれ違ってゆく。我々観客だけが把握する。終盤にかけて大筋は把握してゆくのだが、細かいところは把握していない。よって娘を助けるという一致した終焉に向かってゆくクライマックスは、けして全てを理解した者同士ではなく、人間味を持ちにくい世の中にあって、汚れを知らぬ光を消し去りたくないという想いであったり、女の意地であったりというそれぞれの想いが交錯しながら進行していく。真相を知らなくても人間としての尊厳や情というものがたったひとつのエンディングへと誘う。人間らしく生きることを選択し散ってゆく者たちに涙せずにはいられない。悲劇でありながら、快活な演出と怒涛のクライマックスが娯楽に富んだ名作へと昇華させている。原節子が身売りを決心するシーンの画面に立ち込める重い空気を今でもはっきりと覚えています。[映画館(字幕)] 8点(2005-12-27 13:12:35)(良:2票) 142. 人情紙風船 《ネタバレ》 黒澤明率いる黒澤組の合言葉が「山中に追いつけ追い越せ」。今の映画環境では誰も真似のできない(雲待ち3日とか)完全主義を貫いた山中貞雄の早すぎる遺作は、なんとも暗くて悲しい物語。しかし長屋の住民たちの日々の暮らしの描写は、幸福とはいったいなんなのかを提示してくれているようだ。隣人をからかい、ふざけ合う、そして怒ったり笑ったりしながら生きてゆく。何かにかこつけては皆で飲んで大いに笑う。お金の使い方もよく知っている。いつもよりもっと笑う。女はあきれる。そこに幸福がある。冒頭で首をくくった住民は元武士。そして主人公も元武士。要らぬプライドのせいでこの幸福に気づかず、やっと気づいたとき、そのことに気づくはずもない妻によって無理心中、、。やるせない悲しみを完璧な紙風船の動きがさらに増幅させて終わる。ただ、この暗さ、この悲しさの中に、たしかに幸福感が存在している。だから傑作なんだと思う。ただ完璧なだけではなく、ただ巧いだけでもない。映画の中にただならぬ人生の喜びと哀れみが存在する。[映画館(字幕)] 8点(2005-12-26 18:01:58)(良:1票) 143. 殺しの烙印 安っぽいアメリカのハードボイルドの雰囲気を醸すも主人公はハードボイルドとはほど遠いご飯の匂いフェチ。とことんウラをかいてくる。さらに日活解雇の逸話からも想像できる美しい映画文法の破綻がそそる。生活感を一切感じさせないモダンな部屋のカットがセックス描写の合間に挿入され、そのセックス描写も後の『陽炎座』において芸術の域にまで達した感のあるデフォルメされたカタチを映すのみで性的な臭いは一切ない。唯一性的な臭いを感じるのが、本来生活感を感じさせるはずの炊飯器という観客のイメージをも混乱させるつくりに驚きと喜びがこみ上げる。イメージといえば、主人公の中で雨とともにイメージ化された女を、常にそのイメージのまま(雨とともに)登場させることにも驚いた。実体感の無い女を見事に演出していた。つくづく思った。鈴木清順は凄い! きっとこの人は我々を驚かすことだけを考えてこんなことをやっているのではないと思う。ただ映画が、テレビや演劇でもない、ましてや小説でもないということを誰よりもよく知っているだけなんだと思う。[DVD(字幕)] 8点(2005-12-22 14:00:10)(良:2票) 144. アカルイミライ 若者の怠惰な生活、すぐキレる性格、そして凶悪な殺人、、。親に対する息子の態度の醜悪さ、対する親の威厳のなさ、集団でたむろしては目的もなく犯罪を重ねる高校生、、。そんな描写から描かれるのは普通、現代の教育問題だったり、家庭問題だったりがテーマとして与えられ、現代社会の病巣が描かれたりするものです。そうなると、この先日本はいったいどうなるんだという不安や諦めが作品を支配するか、もがき苦しむ若者たちの悲壮感であふれた作品になるしかないはずである。しかしこの作品はそのどうしようもないひとつひとつの描写から見えないはずのほんの僅かな光を見ようとし、幻かもしれないその「アカルイミライ」を確かに画面に残した傑作だ。題材に縛られない演出をこれまでずっと観せ続けた黒沢清が、今回もネガティブな題材をポジティブな演出で観せた。殺人という、とり返しのつかない罪を犯した若者は、もしかしたら友人を助けるためだったのかもしれないという微かな光。もちろん殺人を肯定するものじゃなく、全くの闇じゃないという可能性の提示でしかない。しかしその可能性も見ようとしなければ見えないもの。擬似家族がさらに光を模索する。今の若者の凶暴性や欲深さや無気力さの原因がどこにあるかは描かない。そうなってしまった彼等は、彼等なりに生きるしかない。ラストシーンの無理やりに引き出した「アカルイミライ」が眩しかった。[DVD(字幕)] 8点(2005-12-16 16:57:01)(良:1票) 145. ミリオンダラー・ベイビー 《ネタバレ》 イーストウッド、この人は一貫してアウトローを撮り続けてきたから勧善懲悪ではないもののハリウッド的予定調和を部分的にでもとりいれてきた。しかしハリウッドでのしっかりとした位置を確保した後、いつからか神の存在しない理不尽な社会を描きだし、前作『ミスティック・リバー』において予定調和は完全に崩れ去った。そして今作『ミリオンダラー・ベイビー』においてさらなる残酷な社会を炙り出す。貧しくとも健気に生きる家族は映されず、貧しさゆえに貧しさを利用する、ずるく心の貧しい家族が映し出される。やる気だけではけして報われないことを練習生が見せる。実力者は金のなる木として消耗させられ、欲張らず懸命にがんばった女にも神はその代償を与えない。常にどこかで神の存在が絶対条件であったハリウッドに対する挑戦状ともとれる今作にアカデミー賞を与えたハリウッドは懐が大きいのか、それともバカなのか。ボクシングがいかに危険なスポーツであるかを想像させる迫力のファイトシーンを見事に見せてくれたヒラリー・スワンクの受賞はうなずけます。 これまで自らの体を切り刻まれ、撃たれ、痛めつけられてきたイーストウッドが応急処置の天才というのが面白い。しかし応急処置の天才は応急処置の不可能な究極の傷を負う。愛する者を自ら殺すという究極の傷を。そしてフランキーは消え去る。究極の傷を負ったフランキーはどこに行ったのだろう。究極の傷を描いたイーストウッドはどこにゆくのだろう。観た後すぐにもう一度観たい衝動にかられた。[映画館(字幕)] 8点(2005-11-29 13:05:44)(良:2票) 146. 悲情城市 日本が戦争に負け台湾を撤退した日から、数万人の死者を出した2・28事件を経て台北を臨時首都と定めるまでの激動の四年間をある家族を通して描いてゆく。歴史的大事件を描いた作品は数あれど、その中にあってこの作品ほど人間を映し出した作品はそうはない。あくまである家族の怒涛の四年間を描いており、政治的な事件はその背景でしかなく、しかし背景でしかないその事件が深く深くのしかかり、生活を脅かし、尊い人生を奪ってゆく様が静かに、時には激しく描かれてゆく。戦争そのものも、植民地状態の様も、2・28事件も、蒋介石も出てこない。侯孝賢は大作を撮っても、なにげない仕草を丁寧に、なにげない視線を大切に描いてゆく。それでいて見応えのあるものに仕上がっている。いや、だからこそ、なのでしょうか。丁寧に描いたもののひとつひとつが時代をはっきりと映し出している。歴史大作においてミステリアスな事件の真相やドラマチックな人情劇やダイナミックな騒動を封印できる監督が、今いったいどれだけいるだろう。[ビデオ(字幕)] 8点(2005-10-11 17:18:39)(良:1票) 147. 夫婦 《ネタバレ》 家族ではなく夫婦を描いたところが小津との差異でしょうか。冒頭の同窓会帰りの菊子が階段を上り高台からの景色を見下ろし清清しい顔を見せる。オープニングでいきなり解放を望む内なる心情を映し出しているわけです。その後夫婦のどこにでもあるようなちょっとした諍いが描かれ、ベースにある夫婦の倦怠がこのちょっとした諍いをどんどん大きなものへ変えてゆきます。いっしょに住むことになる夫の同僚、その同僚に密かに好意を寄せる女性が絡んでドラマが展開されてゆくのですが、そのひとつひとつのシーンで見せる、会話に無い心情の見せ方が非常にうまい!ドラマは夫婦の崩壊へとなだれこみそうな展開をみせつつ、そんな諍いがあるのが夫婦なのだと言わんがごとくに、あることを機に絆を深めて終える。絆を深めるというより、最後の最後にやっと「夫婦」となるのである。それもこのドラマを彩った他の登場人物たちを全く介さずに、夫は夫になり妻は妻になる。まさに「夫婦」となった瞬間、この映画は終わることを惜しまれつつ終わるのである。[映画館(字幕)] 8点(2005-10-05 13:30:05) 148. コラテラル とくにストーリーの破錠や穴を感じることなく鑑賞できました。タクシーを使うのは最後にタクシードライバーを殺し、全ての犯行現場に立ち寄ったタクシードライバーを犯人に仕立て上げる為だし、組織のアジト前でタクシーが包囲されなかったのも、現場の指揮が殺しの犯人を追う警察ではなく、組織をマークしていたFBIだからだし、アタッシュケースのすり替えだって、組織の人間ではなく、ヴィンセントの雇った第三者を通してと考えるのが妥当だろうし、、、まあ、完璧に穴が無いとは言いませんが、、。第一の殺しがマックスに見られるというのはヴィンセントのミスではなく、ヴィンセントが「人としての何かが根本的に欠けている」ことを象徴しているシーンだと思います。地球上に住む人間の中のたかだか一つや二つの命を消す、人を殺すことを重く受け止めていないからこそ平然と、隠すことを全く考えずに人を殺す。見られて都合が悪ければ殺しちゃえばいい。ターゲットを殺すのが仕事であるが、ターゲット以外を殺しちゃいけないなんて感情の余地が付け入る隙は全く無いということ。 それにしてもこの作品はコヨーテのシーンがあるのと無いのとでずいぶん印象が変わります。都会的であわただしい映像がその一瞬だけ神秘的な時間の空白を見せてくれます。ここで繰り広げられる殺し屋とタクシードライバーのドラマ自体さえもちっぽけに見えるほどのドラマを背負っているかのようにコヨーテがただ歩いてゆく。このシーンが出てきた瞬間、この映画を好きになりました。[DVD(字幕)] 8点(2005-07-25 14:23:30)(良:5票) 149. 汚れた血 アメリカ女が出てきた時点で、これはフランス映画とその中で誕生するヌーベル・ヌーベル・ヴァーグの物語と解釈してしまった。以下、私の妄想的解釈。アメリカ女=アメリカの映画会社のプロデューサー。謎の病気の蔓延とハレー彗星接近による世紀末的状況=フランス映画の低迷。ワクチンがあり、彗星もいずれ通りすぎるので低迷は一過性のもの。殺された男は偉大なるヌーベル・ヴァーグ?息子は父と同じく手が器用=ヌーベル・ヴァーグを引き継いでいる。息子の名前はカラックスの分身・アレックス。新たな世界へはばたきたいアレックスは資金調達のために父の仲間と共にある計画を実行する。盗み=引用?仲間はアメリカ女を恐れる男とスタイルに拘る男と謎の女。やっぱり出てきたガラス張りのアジトは映画そのもの。今度の“新しい波”はとてつもないスピードを見せつける。腹話術=直接言葉で伝えない?アレックスは死ぬが映画は死なない。疾走する映画は女に受け継がれた。頻繁に出てくる髭剃りのシーンは?パラシュート降下は?さぁ、みんなで考えよう!って適当なことを長々とスイマセン。でも、透き通るような美しさとはまさにこのこと!と思わせる二人の女優を見るだけでも価値があると思います。女優を美しく撮るって重要なことです。[DVD(字幕)] 8点(2005-07-12 16:12:25)(良:2票) 150. 桃色(ピンク)の店 《ネタバレ》 社長というキャラはとりあえず年寄りでえらそうにふんぞり返っていたらそれなりに社長に見えるもんです。でも実際、年寄りでえらそうにふんぞり返ってればみんな社長かと言ったらそうじゃないし、そうだとしても社員はついてこない。この作品の社長は何よりも大切な愛妻を社員に寝取られ(と思って)、そいつが憎くてたまらなく、とうとう解雇してしまう。しかし自殺を考えるほどのショックを受けているにもかかわらず、個人的な憎しみとは別に、解雇した社員の能力を私情をはさまず正当に評価し、でき得る限りの紹介状をつくる。ここに社長としての資質が見事に描かれている。さらに社長が仕入れたシガレットケース(でしたっけ)に関するエピソードや最後のボーイとの会話に人間的魅力をも存分に見せることで、この人だからこそ社長になり得て、この社長だからこそ人がついてきて、この社長の店だからこそこの極上のドラマが生まれる、となる。ルビッチの映画を見てると、傑作って簡単にできるものだと錯覚してしまう。[ビデオ(字幕)] 8点(2005-06-15 15:05:54)(良:2票) 151. 家での静かな一週間 ある男がある家に行き、ドリルで壁に穴をあけ覗き見ると、そこには摩訶不思議な世界がある。覗き終わると用意した目覚まし時計をセットし用意した枕で寝る。時計が鳴ったらすぐ起きてまた別の穴をあけて覗く。これを1週間繰り返すのですが、規則正しく繰り返すことで独特のテンポを生み出しています。テンポ以上に面白いのが現実世界と壁の向こうの異世界の対比。モノクロで見せる現実世界と色鮮やかに見せる異世界。ガサガサと雑音の入る現実世界と全く音の無い異世界。ただ走るだけ、ただ穴をあけるだけのシーンでも、細かくショットを繋いで、あわただしい様を見せつける現実世界と実際はさらに細かいショットの繋ぎ合わせ(コマ撮り)にもかかわらず、滑らかな動きを見せる異世界(残像を残すことでさらに滑らかな動きになっている)。バカみたいに規則正しい行動の現実世界と好き放題に動きまわる異世界。シュヴァンクマイエルが幻想の世界を創りつづける理由をこの対比に見出すのは強引すぎるでしょうか。とにかく、彼が独創的なアートを創り出す天才であるだけではなく、素晴らしい映像作家であることをこの作品は証明しています。現実世界と異世界、両者に共通する意味不明感がまた、たまらん。[CS・衛星(字幕)] 8点(2005-06-08 17:57:14) 152. 世界の心 英国宰相の依頼で作られた第一次世界大戦を舞台にした戦意抑揚映画らしいが、連合軍として独裁政権を共に倒そうとアメリカに促したものであって、作中にも「ひとにぎりの人間が戦争で儲けようとしている」とあるように、けして戦争賛美の映画ではない。実際の前線にカメラを持ち込んで撮った戦争映画ではあるが、印象に残るのは生々しい戦場の描写ではなく、ドロシーの炸裂するお転婆ぶりである。30人定員の小さな映画館で見たのですが、この手の映画館というのはちょっとしたことで妙にわかったふうにクスクスと笑う人が必ずおり、それが鬱陶しくてたまらなかったりするんですが、この作品に限っては場内大爆笑。もちろん私も笑いをこらえることなく大いに笑った。ドロシーの奮闘ぶりも楽しいが、リリアンが嫁いだ先の末っ子がまた大いに笑わせてくれ、そして大いに泣かせてくれる。またぜひ見たい作品なのですが、いつ見られることやら。[映画館(字幕)] 8点(2005-05-18 13:30:47)(良:1票) 153. イントレランス 《ネタバレ》 『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』の時間軸をバラバラにした構成を受け入れられなかったアメリカですから、100年近く前のアメリカでこの作品が受けなかったことはじゅうぶんに理解できる。それほどまでに4つの時代を平行に描いた構成は前衛的だったといえる。見所はその構成と有名なバビロン空中庭園の巨大セット。この巨大セットを全て映し出そうとするために生まれたんじゃないかと思われる俯瞰ショットは圧巻。 人間の持つ不寛容が悲劇を生む。4つの時代のそれぞれの不寛容、それぞれの悲劇を描く。唯一「現代」だけが最悪を免れるというのは、人間がこれまでの歴史の中でさまざまな悲劇を経験し学び、そしてゆりかごで揺らされる赤子からようやく成長した証しということなのでしょう。しかし1916年当時のアメリカ人、グリフィスが、不寛容のもたらすものをここまで描いているにも関わらず、今現在のアメリカが世界中にその不寛容さを見せつけている様はなんとも皮肉です。人間はいまだ、ゆりかごから出られないでいる。[ビデオ(字幕)] 8点(2005-05-17 15:14:35) 154. 國民の創生 冒頭でアメリカに買われたアフリカ黒人の姿が映され、「悲劇の種は蒔かれた」というような(正確には違う文言だったと思います)字幕が出る。つまり黒人蔑視の描写があっても、黒人=悪のストーリーではなく、諸悪の根源はアメリカが黒人奴隷を買いつけたという歴史にあると言っている。とはいえ、そのことを理由にKKKを正当化していることは間違いないところ。しかし、それもその時代の南部出身のグリフィスの視点という意味では仕方のないことなのかもしれないし、当時の思想を見る、という部分では興味深かったりもする。ストーリーはさておき、この作品の凄いところは、今ある映画手法のほとんどがこの作品によって生まれたということ。映画をいきいきとさせる、そのための手法がわんさと投入されるこの作品は、今見ても存分に楽しめるものとなっている。映画手法のパイオニア的価値を見出すまでもなく、その躍動感だけで十分この映画は面白いのである。物語がどんなものであれ。 ただしストーリーを全く無視するということはなかなか難しく、またストーリーによる感動も些細ではあるが映画の一部であると思ってしまう私は、心情的に違和感を感じた光り輝くラストシーンだけがどうも...。あれさえなければ10点を付けていたかもという可能性を否定できません。[ビデオ(字幕)] 8点(2005-05-16 12:38:28) 155. 北の橋 な!な!な!なんじゃこりゃ~~!!これが見終わってすぐの率直な感想。しかし良い意味でなんじゃこりゃです(なんのこっちゃ)。まずへんてこりんな女が一人いますがコレが笑えます。素振りが変なんです。この女が原チャリでパリの街をぐるぐるとまわるシーンがあるのですが、延々とそれだけが映し出されたと思ったらいきなりピアソラのタンゴが強烈なインパクトをもってバックに流されます。この意味の無い映像が一変して名シーンになるというとんでもないシーンです。「ドンキホーテ」をベースにしたストーリーはストーリーとしての機能を持たず、リヴェット作品に付き物の「陰謀」も最後には置いてきぼりをくらう。終わり方はただ呆然とするしかなく、ここまでハチャメチャな構成の映画は見たことがありません。不思議な世界ではあるけれど、そこはまぎれもなくパリだし。ただ凄く印象に残る映画なんです。[ビデオ(字幕)] 8点(2005-05-10 14:50:49) 156. セリーヌとジュリーは舟でゆく 冒頭のセリーヌとジュリーの出会いから即興ならではの先の読めない展開で、終始ワクワクしながら好奇心旺盛な二人に誘われるように不思議な世界を共に堪能してゆきます。キャンディを舐めている間だけ覗ける異世界のドラマはキャンディを舐めきると当然そこで中断します。主人公二人と同様に早く続きを見たくてしょうがない。翌日またキャンディをほうばると待望の続きではなく同じ場面が重複して展開される。「もう、そこは見たって!」私がそう思うように彼女等もそう思う。そんな共感に嬉しくなりながら、異世界に入ってゆく二人と同じように、いつのまにか映画の中に入ってゆく自分がいる。あまみさんがご指摘のように、異世界に入っていった二人は芝居をメチャクチャにしているようで、反対に映画の可能性を提示しているようです。“なんでもあり”な映画の素晴らしさ見せてくれるリヴェットの傑作。そしてリヴェット作品一番のおすすめです。[ビデオ(字幕)] 8点(2005-05-09 16:56:49)(良:1票) 157. ブルジョワジーの秘かな愉しみ 食欲、性欲、睡眠欲が人間の三大欲と言われます。登場人物を全てに満たされた上流階級の人間とすることでより明瞭に人間の欲深さが描かれる。同時に睡眠中の夢を通して人間誰しもが持つ無(死)への不安を描く。この作品もまたどこからが夢なのか、はたまた全てが夢なのか、、。贅沢な文句を言いながらいつまでたっても食にありつけない様で、一度手に入れたものは離したくないという人間の欲深さをあざ笑う。地位欲とでも言おうか、それこそ上流階級の人間らしいと言える欲も描きながら、人間を面白可笑しく描いてゆく。果てしない欲に向かって真直ぐに歩いてゆく人間たち。まるで人間ではない人が人間を観察して作ったような作品。我々もここに描かれる人々を高見の見物的に見ると、人間って愚かで滑稽だなぁと思うと同時になんとも可愛らしい生き物だなぁと思ってしまう。流麗なカメラワークと極端なアップからのズームアウト、この小ばかにしたようなギャップも面白い。[CS・衛星(字幕)] 8点(2005-04-28 15:00:14) 158. 哀しみのトリスターナ 清純を絵に描いたような可憐な少女トリスターナと冷酷な悪女と化したトリスターナ。ふたつの顔を見事に画面に残したブニュエル+ドヌ-ブが素晴らしい。ひとつひとつの画にいろいろなことを暗示させるブニュエルの傑作。二つに分かれた道でどちらに進むかをトリスターナが自信たっぷりに選ぶシーンは、道の先での狂犬病の犬騒動でその後の彼女の悲しい運命を予感させるとともに、後半、個人主義を貫くドン・ロぺを夫としては認めなくても父としては認めるというセリフに繋がり、養父ドン・ロぺの思想を受け継いでいることを象徴している。だから結婚制度を嫌い教会を下げずんでいたロぺの、結婚を望み教会へ足を運ぶという行為はロぺ自信が自己を否定するにとどまらずトリスターナをも否定する行為となってしまう。後戻りのできないトリスターナにとっては許されない行動となる。後半の赤子を見るシーンは前半の赤子を見るシーン(家族を否定するロぺに口答えする)に観客の頭の中でフラッシュバックさせ、「こんなはずではなかった」と哀しみに暮れるとも開き直りともとれるトリスターナを映し出す。しかし自分で決めて自分で行動する個人主義に生きながら、不幸の責任は自分には無く諸悪の根源をドン・ロぺと考えるトリスターナの存在そのものがこの作品の中で一番哀しいものとして描かれている。 自分に都合の良い信仰心、自分に都合の良い無神論、自分に都合の良い家族主義、自分に都合の良い個人主義、、、人間の哀しい性で溢れている。[ビデオ(字幕)] 8点(2005-04-27 17:39:23) 159. 山猫 3時間6分の完全復元版を見ました。前半はシチリアの美しい情景を、後半は社交界の豪華絢爛な美をバックに、貴族出身のヴィスコンティ自身が投影されているだろうサリーナ公爵を通して、貴族の衰退と自らの老いをリンクさせながら描いてゆく。繁栄すればその後には衰退がある、生きていれば老いてゆく、というヴィスコンティの哲学とも言えるテーマの中で、平民の血をいれるという変革を決断し自由奔放な若きタンクレディに跡を任せるという潔さがまさに滅びの美学。しかしそこには葛藤がある。葛藤を隠して踊る堂々としたワルツの美しいこと。葛藤とは無縁のような性格のタンクレディが新しい時代に相応しいというのもどこか皮肉であるが、情勢によって立場をころっと変えてしまうタンクレディは誰からも好かれる好青年であり、その印象の良さはことさら強調される。若さと老いの対比である。 後半の舞踏会では、本物の貴族の家を使い、食器から装飾品までもがシチリア貴族のものを提供されたものらしい。そこまで拘ってはたして映像で伝わるのかどうかはわかりませんが、風前の灯火のごとく光輝く美がたしかにありました。この「美」の部分だけでも見る価値あり。[映画館(字幕)] 8点(2005-04-08 19:39:42)(良:1票) 160. オープニング・ナイト 脚本にあるセリフをどういう口調でしゃべるのが適当か、またその役の人間はどんな感情を持つべきか、そしてその感情をどこまで表に出すべきか、、そんな役者の質問にカサヴェテスはこう答える。「あなたに任せる」と。役者を信頼しているのです。裏を返せば信頼できる役者でないと使えない。この作品で主人公の舞台女優が女優としての葛藤と戦う様が描かれる一方で、葛藤に負けたかもしれない女優に全てを託す演出家が描かれます。心中覚悟で初演に望みアドリブ演技に一度は見切りをつけて劇場を出ますが「女優への信頼」に腹をくくり戻ります。そして映し出される女優と相手役の男優の自由で自然で生々しくて活き活きとした演技合戦。信頼を得た俳優たちは単なる俳優の枠に納まらずアーチストへと昇華する。監督(演出家)はアーチスト(芸術家)と呼ばれることがある。しかしカサヴェテスにとっては俳優もまたアーチストであるべき存在なのです。そしてカサヴェテスの映画の俳優たちはまぎれもないアーチストたちである。8点(2005-03-17 12:27:36)
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