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141.  コタンの口笛 現地ロケを活かした川辺のコタンの風情が素晴らしい。 隣家の病に臥した老婆のために秋味を密漁する場面での朝もやの美しさ、姉弟が父の遺体と共に朝を迎える場面で窓から入射する陽光の荘厳な様。成瀬組らしい美術・照明・撮影の技能が結集している。 病や怪我や死で横臥した人間を傍らからいたわるように見(看)つめる場面が多く、若い姉弟の悲しみや苦悩を印象的な光のもとに滲ませる演出は本作でも傑出している。 同時代的テーマ重視型の橋本忍脚本との相性は疑問だが、長大な二部構成の児童文学をシンプルにまとめながら、単純な差別・被差別の構図に陥らせない主題提示と脚本構成が巧い。 また忘れてならないのが、北海道出身でアイヌの伝承芸能に造詣の深い伊福部昭による音楽演出の貢献である。アイヌ民具の図柄が描かれた和紙を背景としたメインタイトルをはじめ、要所でその伝統古謡をモチーフとした声楽曲の旋律がリフレインされ、民族の苦難を重厚に浮かび上がらせる。 一方、主人公姉弟を慈しむように流れるピアノ曲の旋律もリリシズムに溢れ清らかで美しい。[映画館(邦画)] 9点(2009-01-17 22:22:48)《改行有》

142.  最後の切り札(1942) ジャン・ルノワールとの深い親交で有名なジャック・ベッケル。そのジャンルにとらわれない多彩さ、熱烈なアメリカ映画志向といった二人の共通項を改めて再確認させる傑出した処女作。南米が舞台のためか日中の場面は明るい日差しの印象が強烈で、同じ犯罪ものながら後の同監督作『現金に手を出すな』(1954)とは趣きが大きく異なっている。それでも、一般にフランス製フィルム・ノワールとして有名な『現金に~』の10年以上前にその萌芽とも取れる夜間ロケによるカーチェイスやトンネルの暗闇での銃撃戦を登場させているのが興味深い。小道具(ライター)を二度三度と活用する手腕。それを外線へ細工する場面の的確な描写。交換手のネタをきっちり三段で落とす秀逸なギャグ。何よりもその疾走感に満ちたきびきびした映画感覚が心地よく、ひたすらに痛快である。[映画館(字幕)] 9点(2009-01-06 22:44:03)

143.  大自然の凱歌 最後のシークエンスなどは、「階段」からしてもウィリアム・ワイラーの担当場面だとわかるが、特に前半から中盤にかけての快調なテンポと演出はまさしくハワード・ホークス印といえる。ウォルター・ブレナンの飛びつき。「オーラ・リー」の合唱。エドワード・アーノルドの叩き下ろす豪快なパンチ。フランシス・ファーマーがみせる粋なマッチの擦り方。登場人物たちの織り成す視線劇の面白さ等など。その何れもが魅力的だ。撮影担当二者の布陣も凄いのだが、労働者をしっかりとフレームに納めながら森林伐採から材木搬出、切断加工までを捉えた冒頭の迫力あるロケ撮影はやはりグレッグ・トーランドだろうか。豪快な躍動感のみならず、巨木と労働者のスケール対比、そして人間の労働を明確に描出したロングショットが素晴らしい。冒頭の飯場、酒場の乱闘シーン、終盤のパーティのシーン等でも個々の人物に満遍なくフォーカスを当てた撮影により群衆場面の活気をさらに盛り上げ、一方ではレースのカーテンの薄い影が揺れる「女優フランシス」の横顔のソフトな美しさを一際艶やかに浮かび上がらせる繊細さはやはり、G・トーランドの真骨頂というべきか。[DVD(字幕)] 9点(2009-01-02 20:46:46)

144.  赤西蠣太 優れた映画話法が満載であり、オーヴァーラップの使い方一つとっても洗練の極み。冒頭の小さな迷い猫が居つくまでを簡潔に示す繋ぎ。赤西の恋文書きの微笑ましい苦闘ぶりを紙くずの山によって示す繋ぎ。奥女中である小波からの返信の文面から二人の並ぶイメージショットへの繋ぎ。小波が赤西の来訪に喜び慌てる様と、衣類の散乱した部屋のショット、そこから客間で畏まっている赤西と小波たちの構図への繋ぎ。そしてさらに赤西の長居を示す三段階の繋ぎetc。これらの特長はそれぞれ単なる時間経過表現や、省略という機能にとどまらない。猫の場面ではその肥え太った貫禄ぶりがユーモアを醸し出すと共に赤西の面倒見の良さを、衣装をとっかえひっかえした後を示す部屋と畏まって正座する小波との対比では彼女の内面の動揺と喜びが描出される、といった具合に簡潔明瞭なキャラクター描写ともなり得ている。その上、類似した構図のショットを溶け合わせているので一瞬たりとも画面の安定と調和が崩れることがない。見事な画面連鎖である。[映画館(邦画)] 9点(2008-12-14 18:13:52)

145.  歌行燈(1943) 能における「幽玄」や「妙」(柔和、優艶、優雅)の映画的表現ともいえるのが「松風」を伝授する松林の場面における自然光の傑出した美しさだろう。木立を縫って緩やかに下降するクレーンショットの情調。かすかに揺れる木漏れ日の光。山田五十鈴の無心の舞。明け方の路地を歩むショットとの的確なオーヴァーラップとその反復。それらが渾然一体となった絶品のシークエンスである。撮影担当の中井朝一氏、照明の岸田九一郎氏は、同じく能の様式を取り入れた黒澤作品『蜘蛛巣城』などでも優れたスタッフワークを見せる。岸田氏は『ゴジラ』を始め、数々の東宝怪獣映画も手がけることになるが、超自然的存在を照明術によって映画の中に浮かび上がらせるという意味で、能の世界を主題とした本作と相通ずるものがある。 [映画館(邦画)] 9点(2008-12-08 23:05:40)《改行有》

146.  青べか物語 自身が転居を繰り返した山本周五郎は、その小説の中でも名もなき風来坊の物語に本領を発揮した。同じく、転居を繰り返し撮影所を転々とした川島監督も仮住まいの宿を好んで映画の舞台とした。その意味で、これは非常に相性の良い原作小説と映画であるように思える。映画冒頭とラストで浦粕橋を渡る流れ者としての主人公が、常に「出て行く」ことを前提として共にキャメラの側に背を向けて歩いているのは象徴的だ。原作は三十二の章から浦粕町という町自体とその住人たちの暮らしぶりを描出したもので、「場所」「移動」への拘りという意味でも川島的題材といえるだろう。映画の中でも、干潟や水路を航行するべか船の叙情、フランキー堺が新妻を乗せて川沿いを飛ばすバイクの疾走感がリズム感を生み、快い。原作の中でも最も映画的なエピソードのひとつといえるのが老朽汽船の船長の回想を描いた「芦の中の一夜」だと思うが、水路を進む蒸気船と、それを土堤の上で見送りつつ追いかける桜井浩子を船の側から捉えた幻想的な移動ショットなどは格別に美しい。また、「移動」に関連して川島作品のひとつの特徴である「脚」のカットは、乙羽信子夫婦の挿話に絡んで登場する。この部分は原作には無いため、歩行障害を患った川島監督自身あるいは新藤兼人による直截な創作エピソードという事になろう。山本周五郎と川島監督の半私小説的挿話の混交と、岡崎宏三の優れた情景ショットによって幻想的な趣の強い作品になっている。[映画館(邦画)] 9点(2008-11-21 22:19:07)

147.  戦艦ポチョムキン 随所で強烈な印象を残す、波間に揺れる光。亡くなった水兵を葬送するランチの場面に始まり、夕刻から翌朝にかけて推移していくオデッサ湾内の霞に煙る水面への光の反射と小船の影を映し出した画面はまさに印象派画家クロード・モネの『印象・日の出』そのままの美しさであり、「散り行く花」冒頭の霞がかった港湾のショットにも通じる美観である。また注目すべきは、戦艦を歓迎する市民のヨットの群れが水面をすべる爽快感。岸へと集まっていく群衆のロングショットの壮観。戦艦の砲撃による爆煙の迫力等〃。数え上げればきりのない画面の充実ぶりであり、「教養」以前に純粋な活劇として何度観ても面白い。滑落する乳母車の図に緊張してしまうのは、技法以前に単純に画面に漲る気迫とサスペンス感からだ。「一人は皆の為に、皆は一人の為に」これは映画の政治宣伝的主題のみならず、個々のショットと作品全体の関係をも表した台詞といっていいだろう。それだけの強度を湛えた画面が全編に満ちている。[映画館(字幕)] 9点(2008-11-08 22:56:50)

148.  水俣 患者さんとその世界 ドキュメンタリーに限らないが、映画ではどこに視点を置き、何を撮り、どう編集・構成するかに撮る側の立場・思想が自ずと浮かび上がる。土本監督の作品の魅力は、単なる事実記録や告発などという皮相ではなく、被写体である人間に対する繊細なポジションや撮影手法を通して画面上に具体的に表れるその人間性にある。犠牲者の遺族へのインタビューでは、キャメラは背後に故人の遺影が必ず入る様に位置し、両者を同一画面内に入れるという配慮を忘れない。タコ漁の場面では、漁師と一緒に海中を覗き込み、瑞々しい画面を獲得する。あるいは、胎児性水俣病患者の少女が海沿いの畑道を歩くのをキャメラは後方から慎み深く距離を置いて追っていき、角を右手に曲がったところで海面への夕日の美しい照り返しで彼女を包ませている。注目すべきは、映画の随所で非常に印象的なこの美しい陽光の採り入れ方である。クライマックスともいえる株主総会後のエピローグでも、ボラ漁に出帆していく漁師たちの小船を岸から見送るキャメラは彼らを確信的に輝く水面に包ませる。土本監督の控えめでありつつ雄弁なメッセージだ。映画の中で紹介される胎児性患者たちの表情や仕草、それを慈しむ母親の手などの優れたクロースアップは、時間をかけて撮影環境と馴染ませる地道な関係づくりがあってこその賜物だ。憐憫などという驕りを忘れさせる彼らの表情にはまさに生の輝きがありただただ素晴らしい。映画ではシンクロ撮影が出来なかった為だろう、別撮りの音声と画面を編集段階で調整していることがわかるが、その微妙なズレが方言の難解さと併せて不思議に見る側を画面に引き込む効果をあげている。[映画館(邦画)] 9点(2008-10-05 22:09:40)

149.  ハウルの動く城 街中を歩く主人公たちの後景では、様々な人々が往来している。実写でいうところのパン・フォーカスであり、そこでは物語とは直接的に関わることのない市井の一人一人が驚くべき細かさで描き分けられている。予算上・技術上・手間の問題から最も省略されがちなこうした「その他大勢の生物たち」のアクションにこの映画はひたすら拘りぬく。そうした手間をかけた動画だからこそ、映画最初期の「リュミエール工場の出口」の1ショットが捉えたような、世界を構成する豊かな要素(煙、風、雲、光、影、仕草)に気付かせてくれる。テレビアニメの功罪によって本来最も肝要であるべき動画の豊かさが軽視されてきた流れの中でこれほど徹底して人間の基本動作を高度にアニメートした作品は稀だ。劇中で「歩く」ことの大切さが語られるが、この映画は終始、様々な人々の様々な歩行・登行のアニメーションにもこだわりを見せる。それも一般的に枚数節約のために用いるリピート動画ではなく、その一歩一歩をこの映画は手抜き無く描く。終盤で、生きている大切な火を移動させるためにバランスを取りながら階段を慎重に下りるヒロインの動き、重い材木を懸命に運ぶ動きなどは絶品の職人技だ。「活き活きと人が歩く」それだけで映画が感動的足り得ることを最初期の映画やヌーヴェルバーグの映画群と共に宮崎映画は証明する。宮崎駿は「ストーリー・テーマ最重視、動画最軽視」が主流の業界の中でのあくまで「アンチ」として位置する。前作「千と千尋~」にも連なる明快なメッセージは、不可解なもの・異質なものに対して「わからない」と拒絶し他人に責任を押し付けることなく、その世界を受け入れ、順応し、積極性を発揮していくヒロイン像に打ち出されているはずである。[映画館(邦画)] 9点(2008-07-23 22:49:50)

150.  エースをねらえ! 《ネタバレ》 杉野昭夫作画のシャープな描線が素晴らしい。 静の場面の端整な劇画調と、淡い背景の対照がコミックの味わいを残し、パワーテニスのスピーディで力感ある身体動画と流動線が画面に独特の躍動感を呼び込む。 そして、馬飼野康二の劇伴音楽も大いにドラマに緩急をつける。 今の時代の鑑賞なら、テレビゲーム画面や、ビデオ録画テープの巻き戻しやコマ送り映像など、当時の最新風俗・流行を取り入れた斬新さは、逆にノスタルジーの対象と写るだろう。 が、現在の無粋なケータイ文化の中では成し得ない、古きよき固定電話によるコミュニケーションもまたノスタルジーを帯びつつ、その映画的用法の見事さによって感動はまったく古びない。 「呼び鈴」の音の叙情。沈黙の時間と夜空の星のショットが醸し出す興趣。主人公とコーチの電話のやり取りは都合3度、段階的に発展活用され最終場面の感動に繋がっていく。 ラストに再び響く、呼び鈴の余韻がまた素晴らしい。 [DVD(字幕)] 9点(2008-05-20 19:53:59)《改行有》

151.  第七天国(1927) 甘美なロマンスムード一辺倒ではなく、後半では第一次世界大戦での塹壕戦の描写なども手抜きがない。中盤の出征のくだりからは街路や戦場での大掛かりなモブ(群集)シーンが俯瞰気味で捉えられ、またかなり凝った特撮も組み合わされており大作の風格すら感じさせる。厳然たる戦場(地獄)に正面から向き合ってこそ対位的に強調される「天国」。その対比に関連するなら、恋人たち二人の身長差を始め、高層アパートや階段、地下水路といった舞台設定や台詞の中など随所に高低差が意識されており、見上げる・見下ろす・昇るといったモチーフに活かされている。下降―上昇―下降―再上昇という物語構造は現代なら宮崎駿監督なども意識して用いる普遍的な作劇であり、具体としての垂直方向の身体アクションが説話と融合することで、ドラマへの強い感情移入と感覚的高揚を可能にするのではないか。観念的な意味ではない、具体的な「上を見上げる」という行為の美質に溢れた作品である。[DVD(字幕)] 9点(2007-09-22 18:34:18)

152.  宇宙戦争(2005) 《ネタバレ》 仮想的を「宇宙」に求めたバイロン・ハスキン版(53)とは異なるアプローチによる、本来あるべきウェルズ原作「世界間の戦争」の忠実な映画化である。 それは即ち、異なる価値観に生きる他民族同士の争いを問うという事だ。 第二次大戦後のパル=ハスキン版に対し、2005年にH・G・ウェルズをリメイクする意義とは、いわゆる9.11が触発した現在進行形のイラク侵攻(一方的軍事侵略)が突きつけた課題に映画人としてどう向き合うか、という事に他ならない。それを明確に象徴するのが旅客機の残骸の図であり、埃塗れのトム・クルーズであり、暴徒化し難民化する群衆の姿だ。 映画は大状況の説明には興味を示すことなく、小状況の中で争い合う人間の、いわば原理を追究していく。 だから、映画は地下壕での主人公自身による殺人行為に異様なほど十分な時間を割く。ドアを閉じ、ダコタ・ファニングを眼隠しすることがここで映画的効果を発揮している。 闇を効果的に強調するヤヌス・カミンスキーの撮影が相変わらず素晴らしい。[映画館(字幕)] 9点(2007-08-04 22:21:04)《改行有》

153.  ウリハッキョ 最初期のロバート・フラハティ(カナダ、アラン諸島)から、小川紳介(山形)、佐藤真(阿賀)等に到る傑作ドキュメンタリーの伝統的一手法が、腰を据えた共同生活による長期取材・長期撮影といえる。 社会派的なテーマ先行ではなく、あくまで生活者の日常に寄り添いつつ「人間」を活写すること。 勿論それは手法のみの問題ではなく、被写体との良好な関係づくりや映画的各瞬間を的確に捉える手腕と資質があってこそ画面は魅力を放つ。 とにかく全編通して素晴らしいのが学生たちの多彩な表情だ。時勢と題材、そして言葉の壁といった障害からして彼らの緊張感・警戒感を拭うには相当な困難があったろう。日本を舞台に韓国人監督が朝鮮学校に長期密着するという手法によって初めて撮り得た瑞々しい表情といえる。 周年の学校行事を中心にした生活の細部描写が積み重なる中、自ずと日本側の排他性というものが炙り出されてくる形になっている。 後半、北朝鮮に修学旅行に行く場面があり同行出来ない監督はカメラを学生たちに託すのだが、この学生たちの撮った画面もまた彼らの感動を直截に伝え素晴らしい。 出発の場面で、埠頭の監督達とフェリーの生徒達双方が手を振り見送り合うシーンが編集で繋がれる。撮る側、撮られる側に築かれた羨むべき信頼関係の発露が胸を打つ。[映画館(字幕)] 9点(2007-07-08 21:11:31)《改行有》

154.  フライトプラン ヒッチコック自身が「映画術」の中でも「穴だらけのシナリオ」と語っているにも拘らず『バルカン超特急』が映画として傑出している要因は、列車という舞台の活かし方であり、キャメラワークであり、サスペンスの醸成であり、という映画的手法の豊かさにある。この「映画術」は示唆に富んで非常に面白い。ストーリーを語る事を重視しつつも、ストーリーには<らしさ>や<首尾一貫性>など無くてもよいということ。辻褄合わせよりも人物の動作や画面連鎖のリズム感を大切にすること。ミステリー(謎解き)ではなくサスペンスこそ肝要であること。説明台詞への依存によって、視覚的表現を疎かにすべきでないこと。『フライトプラン』はプロットのみでなく、こういったヒッチコックの映画術自体を範としているのであり、必然的にこのフィクション映画の主眼は瑣末な犯人探しやトリックではなく、母親のドラマとしてエモーションをどう喚起するかにあることがわかる。例えば、暖色系に色調を変え半逆光の美しさを活かした最後の場面では安易に台詞を持ち込むことなく、無言の情感を演出する。仮にここで社会規範に縛られた余計な「謝罪」の台詞などが入ればそれは単なる一義的な和解でしかなくなり、両者の間にある賞賛や自尊や畏怖、その他諸々の複雑微妙な交感のニュアンスが打ち消され、何の余韻もない貧弱な場面になるはずだが、この映画はそのような愚を犯さない。絶品のラストである。そしてWASPの抱く妄想という、いわゆる9.11報道の虚構性・欺瞞性に対する鋭い批評性はもっと評価されても良い。それはジョディ・フォスター起用の意義の一つでもあるはずだ。[映画館(字幕)] 9点(2006-06-05 00:13:48)

155.  雪の女王(1957) 《ネタバレ》 透過光のふんだんに使われた幻想的な氷の宮殿や、氷の宝石の光沢、あるいは暖炉の炎の照り返しなど、特殊効果の贅沢な用法に光への意識の高さが窺える。 生命感あふれるカモメやカラスや鹿たちの動きや、主人公の少女の細やかな仕種・動作のアニメーションが絶品だ。(髪を梳かす場面の質感表現の見事さ。旅の途中でお世話になった人々や動物たちに都度丁寧にお礼をするその仕種も大変愛らしい。) とりわけ特徴的なのは波や風雪の表現の多彩さで、旧ソビエトの風土ならではだろう。日本語が多様な雨の種類を使い分けるのと同様、本作では彼地の特色たる多様な降雪がこだわりをもって描き分けられており面白い。 キャラクター設定だけでなく、映像表現の面でも日本のアニメーションへの影響が多々窺われる作品であると思う。 様々な民族の助けを経ながらの旅といった要素が旧ソビエト的でもあり、大団円が「雪解け」であるのも象徴的だ。[ビデオ(吹替)] 9点(2005-08-14 23:27:24)《改行有》

156.  ピカソ-天才の秘密 ピカソの絵画制作過程が、特殊キャンパスの裏面を通して直に画面上に描写される。 モノクロの簡素な描画(スタンダード画面)から始まり、 最後には大掛かりな油彩(シネスコサイズ)にスケールアップして 変幻自在に絵筆が展開される様が非常に圧巻であり、劇的な構成も工夫されている。 中盤では、色鮮やかなキャンパスと対比して色を落とした硬質な画面で 撮影風景が挿入されその手法の種明かしをしてくれると共に、 フィルム残量を示しながらの時間制限のサスペンス要素を取り入れたりと、 『恐怖の報酬』の監督らしい趣向が凝らされている。 最後の油彩制作過程は裏面からのリアルタイムの撮影は当然出来ない為、 表面側からコマを割っての撮影となり必然的に画家の試行錯誤の「間」は 省略されてしまっているのが残念だが、 このクライマックスの画面変化は凄まじい。 完成品の内側に込められた膨大な下書きと手直しの過程。 絵がまさに躍動する。 モーション・ピクチュア=映画である。 [DVD(字幕)] 9点(2005-03-05 17:52:51)《改行有》

157.  沈黙は金 「雄弁は銀、沈黙は金」のごとく、無声からトーキーへの革新に難なく順応し、それぞれの特質を洗練させてみせたルネ・クレールのサイレント賛歌であり、トーキー賛歌である。 「喜び」はオープンカフェのヴァイオリンや、レストランのオーケストラ、アパート前の路地のシャンソンの音色によって変奏され、「悲しみ」は様々な破砕音(ガラス、花瓶)の形で変奏される。 それも直接的な視聴覚の融合だけではなく、音と主体(人物や対象物)を分離する演出も絡めながらドラマ効果をあげている点が匠の技だ。(サイレント演技する役者と演技指導する監督の声。あるいはオフ空間から響くガラスの割れる音と、後のシーンで心象として活きる「割れたガラス」のショット。アパート入り口前で仲睦まじく語り合う恋人同士の会話を、路上のシャンソンの歌声によって消すロングショットなど実に多彩。) 撮影所の監督部屋で衣装替え中のフランソワ・ベリエとドア外のマルセル・デリアンが、監督役:モーリス・シュヴァリエの仲介により顔を合わせぬまま挨拶代わりの握手をする。後に恋仲となる二人の手と手が結ばれる一瞬のクロースアップ。その短いショットだけで、二人が惹かれあうだろう予感を強く印象付け、物語る力。 二人が登っていく夜のアパートを外側から緩やかに上昇して追うカメラの慎ましさ。 アパート部屋の小さな窓から望むパリ夜景の情緒を実現する美術の技量。 馬車のシーンで、スクリーンプロセスとの絶妙なシンクロを見せる的確な照明操作。 撮影所の洗練された技術が活きる、撮影所の映画だ。 [ビデオ(字幕)] 9点(2005-02-20 20:22:45)《改行有》

158.  女神の見えざる手 《ネタバレ》 ヒロインを取り巻くガラスや鏡は、彼女の読唇術を披露する機能にとどまらず、その姿を雨に滲ませたり、 フレームで画面を割ったりという効果も担う。 銃撃事件後の空港ロビーで大写しになるガラス窓は虚空を強調するし、オフィスの仕切りは時に硬質の質感で彼女を映し出し、 時に脆さとして象徴しもする。 ラストシーンで彼女を後ろ向きで去らせるか、前向きに歩ませるか。 映画はその期待以上のハードボイルドな表情と佇まいで締めくくってくれる。[映画館(字幕なし「原語」)] 8点(2018-01-19 23:09:35)《改行有》

159.  ひゃくはち 《ネタバレ》 原作は高校卒業八年後からスタートし、現在と過去を交互に語っていく形式である。 映画版はこれを高校時代の現在進行形で進めていく形に改変したのが良かった。 それに伴って、相馬佐知子のキャラクターも新人記者に変更され、映画後半のストーリーも 斎藤嘉樹と中村蒼の間でのベンチ入り争いへと大きく変えられることになったが、こちらも 一〇八の煩悩という題材を発展させた脚色として、尚且つ 躍動的な練習シーンと二人の感情のぶつかり合いが相俟った見事な映画的アレンジである。 序盤で携帯電話を壊される1シーンを加えることで、クライマックスの雨の公衆電話シーンが 音響と縦構図が印象的な名場面となった。 打撃や守備の練習をする部員らの身のこなしも本格的で実にさまになっており、 強豪校のレギュラーメンバーという設定を説得力をもって提示している。 ラストの斎藤のずっこけをスローで処理してしまっているのがちょっと勿体ないが、その直後の笑顔はピカ一だ。[DVD(邦画)] 8点(2017-10-12 00:41:45)《改行有》

160.  ドリーム 《ネタバレ》 ケヴィン・コスナーからタラジ・P・ヘンソンへと手渡される白いチョークが二人を繋ぐ。その慎ましいクロースアップが 不思議と心を揺さぶってくる。 これは冒頭の少女時代の教師から手渡されるチョークのアップショットとも呼応するのだが、 こうした様々なモチーフのさりげない反復や変奏が非常に豊かな映画である。 閉じられるドアと開かれるドア。コーヒー。ネックレス。見上げる行為。歩く行為。走る行為。 ガラス張りの本部長室とトイレの鏡。 オクタヴィア・スペンサーとキルスティン・ダンストとの対話もトイレの鏡像(虚像)として交わされるシーンを 一旦挟むからこそ、ラストの二人が活きてくる。 クライマックスである打ち上げ直前の再計算のシーンは実際なら内線電話一本で済む話だが、 そこをあえてドアからドアへとヒロインを走らせ、ドアを開けて迎え入れさせるというのが映画の演出である。 ケヴィン・コスナーに怒りをぶつけるヘンソンの叫びは、言葉の意味以上に声音そのもの響きと震えで心を打たずにおかない。[映画館(字幕なし「原語」)] 8点(2017-10-06 23:04:44)《改行有》

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