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141.  リンダ リンダ リンダ 「ブルーハーツ!?熱いねえ・・・」ってしゃべるダブりの女子高生最高。屋上にマンガ喫茶経営するお前の方が熱い。「素晴らしい日々」歌っちゃってるし。遅刻の埋め合わせのために登場した彼女のギター演奏と、怪我でバンドに参加できなかった子の信じられない美声によってギャラリーが段々と体育館に群がる。大雨の体育館の中でのこの前座パフォーマンスはいまだに心の中に不思議な余韻を残している。あとぺ・ドゥナが徹夜練習の抑えきれない高揚(?)によって一人で校舎に飛び出すところ。これは本当にいいシーンだと思う。この終盤に来るまでは、笑いを狙いすぎたり山下ワールドを出そうとする過剰さに、煩わしさを少なからず感じたが終わってみれば満足(実はぺ・ドゥナとビラ配りを絡ませてくれただけで満足だったりするが)。先生が彼女達を見つめる視線にしんみり、ぺ・ドゥナがメンバーに振り向く視線にニッコリ。成瀬とは比べようもないけど、結構な視線の使い手かな?と思う。まあ、青春がテーマでもあくまでカーブを放る山下監督は、やっぱり推したい。[映画館(字幕)] 7点(2005-08-15 21:52:06)(良:1票)

142.  旅芸人の記録 時間はこの人にとってあまり重要ではないのだろうか。いつも同じことが起きていた(場所)こそが彼にとって重要なのだと思う。記憶から思い出されるのは時間ではなくていつも場所である。時間の旅行が伝えているのは常に不変だった場所だ。ただの場所ではない。記憶としての場所と歴史としての場所が彼の映画ではいつも混在する。そしてここから人物は登場しているかのようだ。人物が、場所から発生しているというのは非常に重要な事で、というのも、アンゲロプロスが生み出す神話的空間の磁場によって時間を越えた普遍性が彼らに与えられるからだ。旅芸人たちには神話の人物名が与えられている。長い時間をかけてさえ、場所が創り出すギリシャ的なものは変わることがない。だが、それではまだ半分足りない。ギリシャはギリシャという場所であると同時にバルカン半島という場所に包まれている。ギリシャ的なものが内なる力だとすればバルカン半島は外力だろう。バルカン半島は民族同士の争いが絶えず、当然ギリシャも巻き込まれた。この辺の歴史は、もう何が何だか分からない。政権交代、内戦、外からの侵略、虐殺・・ひたすらにこれの繰り返し。この凄惨な歴史を語るためにはそれなりの語り手が必要だった。アンゲロプロスが旅芸人に託したもの。それはまさに吟遊詩人の役目だったのだろう。「ヤクセンボーレ!」と叫ぶあの曲の悲しみはもはや言葉で表現などできない。吟遊詩人でありながら、ギリシャ市民が味わった悲劇を彼らも当然味わっている。[DADA]さんが指摘するように遠景の長回しでゆっくり歩く彼らはギリシャの一般大衆でもあり、ここから彼の映画で重要な要素となる大衆と音楽の交差が見えてくる。こんなに贅沢で思索にも富んだ娯楽映画はない。最初に時間はあまり重要ではないと言ったが、例外が一つある。冒頭とラストのシーンだ。全く同じ構図で同じセリフなのにもかかわらず、見る側は全く違う印象でこのシーンを見つめることになる。4時間の長丁場がまるでこのシーンでの時間と空間の再会の為に用意されているのではないかという位の仕掛けだった。映画叙事詩の最高峰。[映画館(字幕)] 10点(2005-06-17 02:55:10)(良:1票)

143.  奇跡(1955) 人が生き返るということから私はすかさず「ゾンビ」を連想してしまう。心やさしい人ならば「白雪姫」を想像するかもしれない。人によっては「バカボン」で、馬鹿田大学の友人の葬式でバカボンのパパが「死んだー、死んだー、ザマーミロ~」とお経を唱えたら、その死んだはずの友人が飛び上がり元気になって逃げるパパを追いかけるシーンを想像する、かもしれない。どれもフィクション的な復活で、そこにはそれぞれの強度を持って死者の復活を意味づけている。ところがドライヤーの「奇跡」はそういう感覚を超越している。「聖なるものの顕現があるところ」を映画上で作り上げてしまったのだ。いわば映画内の完璧な儀式化である。カール・ドライヤーは儀式を全うする人と空間と時間と、それらの内から生じる「何か」をスクリーンで表現する為に、これほどはないというほどの美しい白黒の映像を生み出した。それはこの映画における白・黒こそが映画で初めて生と死を際立たせたのではないかと思うぐらいに、である。故にこの映画は彼女が生き返るということに疑問の余地を全く与えない。奇跡が起こるということがフィクションの特性としてあるとするなら、この映画における奇跡が起こる過程はおそらくどんな映画よりも崇高で近づきがたい。であるがゆえにこの映画は、本当に映画と呼んでいいのか、何か別のものなのではないかという気さえ起こる。[映画館(字幕)] 10点(2005-06-16 02:33:30)(良:1票)

144.  2001年宇宙の旅 高校時代に何かの授業でこの映画の前半の人類の夜明けを見せられた時、言葉では説明できない得体の知れない恐怖が襲ってきたのを良く覚えている。数年後、軽い気持ちでビデオで借りて全編を見た。鼻で笑うことによってまったく理解の出来なかった心境を取り繕うのが精一杯だった自分に、新たな映画の見方が必要としていることを悟らせた。その半年後、新文芸座の巨大スクリーンで観たときに待っていたのは映画館に居ながらにして宇宙空間を共有出来た開放感と、人類の起源やその回帰を瑞々しい程に表現した「ツァラトゥストラかく語りき」の音楽であり、要するにキューブリック抜きでは自分の映画史(そんなに大げさなものじゃないけれど)は語れないのである。[映画館(字幕)] 10点(2005-06-16 02:00:52)

145.  ゴジラ(1954) 最近のゴジラといったらどうも他の怪獣と対決しているイメージが強く、"いい奴"としてのゴジラをまず想像してしまう。映画館に押し寄せるゴジラファンは何を期待しているかといえば、間違いなくゴジラが大都市を破壊し尽くすシーンだろう。この元祖ゴジラはその後の怪獣バトルを考えると、数少ない「人間たちを照準とした」作品で、都市の破壊こそが信条だった。「ゴジラが来る夜に」という非常に面白いゴジラ論では、この作品において「怪物が現れた、怪物を殺せ」ではなくて「怪物が現れた、人間が変われ」という可能性を提示したと書いている。そうなるとゴジラとは一体何なのか。シリーズを通してそのあり方を何度か変化させたゴジラはそれぞれ別のものなのか。怪物とは人間の内に潜む恐怖(とは言い切れない部分もある)が具現化したものであり、それが人間に悪い影響を与える。これを「殺す」というのは何だか気味が悪い。それは自分を殺すという意味でもあるから。[映画館(字幕)] 9点(2005-06-15 17:02:44)(良:1票)

146.  プラットホーム 「私たちはいつも何かを期待し、何かを探し求め、そしてどこかに落ち着き先を見つけるのです(ジャ・ジャンクー)」この映画をずっと共有できたら、と思った。しかし160分という短い時間の共有はスクリーンの向こうでは10年以上の時間だった。別に彼らは「映画のような」生き方をしたわけではない。中国の広大な国土と大自然は悠久の時の流れを思わせるが、人間の世の中はむしろ加速を続けていて、時代の大きな転換点のなかをタンポポの綿毛のように浮遊している彼らはそれでも確かにそこにいて・・・観た後に感じる茫漠とした圧倒的な感動でしばらく動けなかった。意識的に非生産的でいられる時期なんて若い時ぐらいしかなく、その間にも加速していく時間の中である者はそれにしがみつき、ある者は腰を落ち着ける。こういうことはどの時代でも起きていたのかもしれないが、この監督はその舞台を中国がどんどんと自由な国に向かおうとしている時代を選んだ。それが一番印象として現れてくるのは時が進むと共に変わっていく音楽だろう。題名の「プラットホーム」とは80年代を通して中国で大ヒットしたロック音楽で、こういった新しい音楽が古い音楽では伝えきれなくなった彼らの感情を、代弁者になり爆発させる。この映画は結構クサい場面が多い。かなり露骨に狙っている。でもそれがいい。さらに言えばこれが中国大陸をまたいだ青春映画でありそのスケールが素晴らしい。[映画館(字幕)] 10点(2005-06-12 02:40:59)

147.  10ミニッツ・オールダー 人生のメビウス ラーメン博物館という所がある。そこには人気のラーメン屋がずらり並んでいるらしいのだが、それにもかかわらず行列には差ができるらしい。うまいものでも優劣を付けたくなるのが人間、同じようにこのオムニバス形式の映画も差ができるだろう。どの「ラーメン」が「並ぶ」か。イデアの森の方も参加させてみた。一番待ち時間が長そうなのはジャームッシュとベルトルッチだろう。さっぱりしてるのにダシの効いた親しみやすい味わい。カウリスマキ、ヴェンダースは一品勝負。この店にこの味あり、といったところ。常連客多し。変り種ならシュレンドルフとチェン・カイコー、マイク・フィギス。客層に色が出そうだ。クレームもよく出るだろう。正統派なラドフォード、サボー。冒険するのが面倒なら打率の高いものを、って人に。スパイスの効いたスパイク・リーとクレール・ドゥニ、スパイスの効いたラーメンて何だよ。イジー・メンツェルは深い味わい。まあ濃い味ってこと。ゴダールはそれらを全部つぶして新しい味を作り出そうとしている。その意気買って並ぶもよし。ただハマったら抜け出せなくなるので注意。そしてエリセは、別格。俺がここの博物館のオーナーだったら誰にも食わせない。でもそんなことをしてるから彼は新しいラーメンをなかなか作ってくれないのだ。やべっ、ヘルツォーク入れ忘れた。彼のラーメンは、茹でない。ベビースターラーメンみたいな感じ。[映画館(字幕)] 7点(2005-05-21 02:19:05)(笑:4票) (良:2票)

148.  回路 ホラー映画のオチは、たいてい不遇の死を遂げた人間の怨念が原因となっている。怨念は閉じられた場所でそれに関わった人間や時には全く関係のない者に危害を与え、用が済めば消えるか、あるいはその場にとどまり続ける。これが起こっている世界はそれゆえ非常に狭い。何というか都市伝説的だ。と、確信するほどにホラー関係に詳しいわけではないのだが、これが世界の崩壊に導くほどの範囲を描いたものに「リング」がある。伝染という発想がこれを可能にした。ただ、「リング」ははっきり言って発想だけ。映画として(小説でも)世界の崩壊を描けたかというとはなはだ疑問で、それは多分主人公達が恐怖の発信源に近すぎるからなのだと思う。で、黒沢の「回路」。ここまでホラーの話で引っ張ってみたが「回路」はホラー映画ではないかもしれない。ただ恐怖という原点は同じなので強引に進めると、この映画は個人の怨念に恐怖のもとはない。「死」というルール(法則)そのものからあの映像を具現化させている。魂というものがあるならば死後の世界にもルールがあるということだ。そのルールの崩壊が同時に世界の終末の始まりとなる。この映画がうまかったのはそういう死の永遠の孤独と、ネットという開かれているようで実は閉じられた世界を違和感なく変換できたことだろう。この変換の媒介となったものこそ「開かずの間」で、それはこの世に一個ではなく個人が一つずつ持っている。つまり中心がない。中心がないということはどこでも起こりうるということでもある。地上からどんどん人が減っていく感覚。黒沢監督はアンゲロプロスのようにロケは曇天にこだわり、時にはデジタル処理を施して崩壊のプロセスを展開した。システムは一度動き出すと、それが複雑であるほど止められなくなる。それはこの映画で見た未来の方向性とどこか似ている。[DVD(字幕)] 9点(2005-05-15 16:25:03)(良:1票)

149.  老人Z バブル期の香りが作品全体から漂う。扇を振ってる女が出てるわけでもないし、バブルに便乗した金まみれ男が出てるわけでもない。なんか知らないがとにかくそう感じる。独り暮らしをする寝たきり老人の家で、アンナミラーズの制服を着た女の子が洗濯物を干すシーンに代表される無節操なサービス精神に、あるいはそのことが含まれているかもしれない。そんな時代を謳歌する江口寿史のキャラクターがどことなく哀しく映る。とかいいつつ、はっきり言ってバカバカしい映画だ。楽しけりゃいいじゃん、な終末的なノリが凄くいい。そして大友克洋にかかれば、老人だって「ネオ」にしてしまうということがよくわかる映画でもあった。工場のおびただしいパイプやコンクリート、大友の作品ではこういう無機質のものが主役になる。「あのね、未来ってみんなツルツルに書くでしょ。ぼくはああいうのは嫌いなんです。もっとザラついて錆びていて、油もギトギトしている。だから世界はそこにしかないというか、どこにもないっていうか」。「AKIRA」の背景はこの言葉が全てを物語っている。そして「老人Z」はマンガ「童夢」のチョーさんの皺から始まっている(笑)老人とメカ。プリンに醤油をかけたらウニの味がするようなもんだ。もう、この映画はメカデザインを担当して介護用ベッドにブラックジョークを詰め込みまくった大友の道楽に違いない。[CS・衛星(字幕)] 7点(2005-04-29 11:02:00)

150.  MEMORIES 前半の2話は、まあいわゆる限界状況サスペンスの典型みたいな話であり、娯楽性にも富んでいて楽しませるがこれらは別に大友でなくとも作れるレベルの作品だと思う。問題は3つ目。大友の作品にはその背景に必ず国家がある。この国家はかなり曖昧だ。全体がみえてこない。ただ、何らかのシステムによって支配されているということはわかる。そして、それは人間による人間の為のシステムであるに違いないが、大友の場合このシステムが突然自己生成を始める。それらは例えばAKIRAであり、暴走した介護用ベッドであったり感情の振幅によって殺戮能力の変化する人体兵器だったりする。これらのシステムは最終的に国家に対して復讐を行うわけだが、この辺が大友作品の痛快な部分なんだと思う。この「大砲の街」はわずか20分ほどの短編であるが、国民が総動員で大砲作りに従事している街の一日という恐ろしい寓話となっている。ここでもやはり彼らは何のために、そもそも誰に対して大砲を打ち込んでいるのか分からない。で、やはり大砲を作るという「システム」に対しては徹底的な描写(それは蒸気の噴射や計器の振れに至るまで!ここを見ないと大友を何も見ていないのと同じ)をこなしている。この短編ではシステムの描写のみで話が終わるが、人々は完全にシステムに組み込まれ、彼らを統治しているであろう王様を疑うことすらしない。しかし実のところこの大砲を発射する王様が本当に支配者なのかも定かではない。彼でさえシステムの中に組み込まれた一要素だと言える。そんな機械のような人間たちと対照的に、生き物のように敵国に向けて砲弾を飛ばす大砲。この終末観は、アナログへの偏愛ともいえるほどの執着でもってただのメルヘン世界で終わらせない鋭さを纏っている。街への爆破を予感させるラストのサーチライトとともに。点数は1話7点、2話7点、3話10点という配分を平均したもの。[CS・衛星(字幕)] 8点(2005-04-27 15:54:29)(良:1票)

151.  ヴィタール カルト映画を作る人は痛みというものの概念に独創性を持っているような気がする。心の痛みとかそういうのでもなくて、精神と肉体つまり精肉(by武田泰淳)がごっちゃなのか或いは等価なのか。痛みの境目が曖昧でありそこになんとなく惹かれてしまうような、一味違う感動を与えてくれるようだ。それは壊れやすさといってもいいかもしれない(異形とはそもそも欠落なわけで)。ホドロフスキーの映画にもそういう部分で感動する。で、「ヴィタール」だが、所々に映画全体を暗示するようなイメージの挿入がなされる展開に目を丸めてしまうが、よくよく見ると凄く単純なストーリーだとわかる。そう、これはメロドラマだ。愛する女を失ったことをいつまでも引きずる男と、なんとかこっち側へ引き戻そうとする独占欲の強い女、そして時々姿を見せる死んだ男の恋人の幻影が織り成す三角関係(ま、強引だけど)。ただし話を包む世界観があまりにも独特だ。小さい頃は心というものが体のどこにあるのかと不思議に思いながら、その疑問を保留にして生きてきた自分にとって、こういう魂と肉体の解釈には新鮮なものを感じた。浅野忠信の恋人役は、生気に溢れた魂としての死者を大胆に演じていたと思う。反対に浅野忠信はミスキャストのような気がした。彼のミステリアスな風貌は必ずしもこの映画の方向と一致してない。だってこれ、コテコテのメロドラマだし。浅野じゃなければできないというよりも、とりあえず浅野、みたいな感じだ。この映画は「鉄男」を撮った監督としては、なんというか安易な印象を受ける。それは才能だけで撮ったという意味でもある。解剖手術を痛みの感覚的表現にしたとしても、あまり伝わってこなかった。何よりも、登場していた研修生達が医学生に見えない。まるで美大生のようだった。都市と人間の関わりというテーマのための「方法」が今作では中途半端だったように思う。コンクリートの湿った質感だけが塚本の異能を保っているようだった。[映画館(字幕)] 6点(2005-04-25 13:51:02)

152.  赤い靴(1948) 映画全体からカラーの喜びが伝わってくる。50年以上前にしてこの色があったのか、と驚いた。そして美術と撮影がほんと素晴らしい。この映画には、映画を作るという事への原初的な欲望を感じ取れるような気がする。それは、赤い靴がそこにあるというただそれだけの事に心が躍るような期待感である。靴がヴィッキーの小さな足に収まった瞬間、バレエと映画が幸福な出会いを果たす。最初はパッとしない赤毛の主人公だな、と思っていたら話が進む度にどんどん輝きが増していく。そしてラスト、彼女が踊りを終えた時(それは死を意味するのだが)、輝きは頂点に達して靴はまたもとの場所へと帰る。映画内の舞台がそのままストーリーの暗示になっていたことがここでわかる。話はいたってシンプル。男二人女一人のメロドラマで、今となっては化石も同然の古典的リズムが全編を漂う。しかし考古学者が史料を眺めるようにこの映画を鑑賞する必要はない。なぜなら画面から溢れるエネルギーに、嫌でも引き込まれる事間違いなしの面白さだから(ちなみにこの映画、見る前は異人さんに連れられて海外に行った女の子が苦労の末バレエダンサーになるというサクセスストーリーだと思っていた)[DVD(字幕)] 9点(2005-04-22 13:00:37)

153.  パッチギ! もっと話題になってもいいかなと思うぐらい話をあまり聞きませんが、これは間違いなくいい映画だと思います。暴力が友情の手段となり得た時代を井筒監督が自分もその世界に入り込むようにして作ったんだろうから、つまらないはずはないです。だってあの人なら当時の話を面白おかしく何日でもしゃべりそうじゃないですか!登場人物がみんな魅力的なのは井筒監督のノスタルジックな愛情ゆえです。ただ、やっぱり政治的な面の説教はつまんないです。が、それがいいんです。だってあの高校生たちが高尚な民族問題語るより青臭い理想論ぶら下げてる方が全然本当でしょう。この人はその理想論に地で乗っかる熱い漢(おとこ)魂を全面的に信じているということです。だ・か・ら・こ・そ、ダウンタウンの松っちゃんも書いてましたが彼なりの「答え」を見たかった。これはかなり残念。なんか、いざ答えに向かう時に限って急に都合がよくなるんですよ(笑)。例えば「GO」でもそうでしたが、死んだ奴が全然「生きて」こないんです。キモの部分がビックリするぐらい形式的で事務的なんですね。まるで在日問題そのもののように。でも、それはこの映画では問題でないんでしょう。そもそもそちら側に突っ込んでいって苦悩する井筒監督って一体誰?って感じですし。テーマはあくまでパッチギ!ということなんです。お前らワシの頭突きで目ェ覚ませと。余計なお世話?いやいや、これは必見です。井筒監督は本当に純粋なガキなんだな(もちろんこれは褒め言葉です)と思いました。[映画館(字幕)] 8点(2005-04-21 12:57:04)(良:2票)

154.  初恋のきた道 「アジアンビューティー」ことチャン・ツィイーです。ヨーロッパが嫉妬する黒髪です。その彼女を世界に知らしめた出世作がこれ。チャン・イーモウがまるで彼女を「発見」したかのように、カメラは彼女を追っていきます。多少のバランスの崩れは無視。ファインダーに捉えられた未来のアジアンビューティーは完全無欠の田舎娘を演じきり、目がくらむほどの極彩色の風景に溶け込んでました。俗っぽい審美眼は置いとくとして、純愛映画に欠かせない、古き良き時代の設計は完璧だったと思います。ただ、映画としてはつまらんですね。まったく映画に無駄がないから。チャン・ツィイーの魅力もノスタルジックな田舎も全部計算されてる感じがします。だから想像のつく魅力でしかないんです。ゴダールの映画におけるアンナ・カリーナを見るとドキッとする瞬間が何度もありますが、これは計算できるものではないと思います。最近観たものだと「子猫をお願い」のペ・ドゥナにもそういう瞬間がありました。この映画はチャン・ツィイーを愛玩化することで、カメラの先にある意外性を排除している気がします。ただ一ヶ所だけ、料理を作っているシーンではチャン・イーモウの愛玩から解放されているように思いました。「紅いコーリャン」のコン・リーも、やっぱり料理を作るシーンがいいんです。蒸したギョーザを手で触るシーンがこの映画の白眉ですね。[CS・衛星(字幕)] 6点(2005-04-21 07:45:12)

155.  サンダーボルト(1974) 巨大な兵器を人に向けるのではなく、銀行の分厚い壁を破るためにぶっ放すというストイックさにやられた。アクション映画なのにカット数が異常に少ない。一発のカットだけで緊張感なり叙情を生み出せる力量を感じる。とにかく男の友情に対する描き込みが分厚い。それに対し対照的すぎる思春期の中学生ばりの画一的な女性観。とにかく欲求がストレートである。そしてクリント・イーストウッドのカッコよさ。ジェフ・ブリッジスも映画内で言っていたが牧師とはたいしたもんだ。祈祷とカーチェイスを同時に味わうという超映画的な悦楽がここにはある。ともするとこの映画からはホモセクシャルの香りを嗅ぎ取る人もいるだろうが、そう捉えるとこの映画は酷くつまらないものになってしまう。これは欠損の映画だ。何の欠損でもいい。金の欠損でもあるし、身体の欠損でもあるし、関係の欠損でもある。巨大機関銃を壁にぶっ放すという行為ですら欠損である。この映画をひたすら称えたいのは、アクションという強度を求めるジャンルの中からあえてこのような「弱さ」を提示したからである。「サンダーボルト」に西部劇の精神の継承を見た気がした。これが本当に長編1作目?ラストの高級車での二人の会話と、物語を見事に象徴するタバコの使い方にひたすら感動していただきたい。映画は女と銃と車があればできると偉人は言ったが、タバコも忘れてはならないね[DVD(字幕)] 9点(2005-04-18 07:48:15)

156.  ミスティック・リバー 映画を見ていると自分が何を考えているのか分からなくなる時がある。「ドッグヴィル」ではあれほど高揚し自ら道徳の破壊を二コール・キッドマンに託したにもかかわらず、この映画におけるショーン・ペンの罪を川底へ沈めようとする姿勢には苛立ちを覚える。「スリーパーズ」でのラストのパーティーで、復讐の後のたった一瞬の安息に胸を下ろし「これでよかったんだ」と思いつつ、「ミスティックリバー」におけるパレードでの人間模様の重層にただ戸惑う。この映画には見えやすい形としての厳然な罰がない。もし私がこの映画の脚本をやったとすれば、ジミーに対し厳然たる罰を与えてしまうだろう。そうすれば人物達の悲劇が見せかけ上では、等価になる。しかしそれは映画を完結させるための逃避であり、多くの映画はそこで作品への誠実さを失う事になる。「ミスティック・リバー」はそういう見せかけの倫理の奴隷になることなく、運命のおもむくままに25年間変わらない場所でうごめいていた悲劇の胎動を、それこそ厳然とした態度で我々に見せつけた。そこに平等や等価はあるはずがないのだ。と書きつつも心の中では何も消化されていない。多分私はこの映画を全く理解していないのだろう。10点というのはイーストウッドの映画術に対してあげたものである。ここに書いたレビューだって所詮はイーストウッドという本格の周りをただうろついているに過ぎず、この映画に対しては否定も肯定もできない。ただ、一つ言えるのは終盤のシーン――ジミーとその妻が支配者云々を語り抱き合う――は前半のデイヴが犯した罪にたいして妻と語り合ったシーンと「弱さ」という点で酷似しているということ。そう考えるとこの映画は正義とか、アメリカの傲慢さという話とは全く無関係だと思うのだが・・・[DVD(字幕)] 10点(2005-04-15 16:33:45)(良:4票)

157.  アギーレ/神の怒り 例えばドラクエをやってて深いダンジョンに準備万端で突入したものの、凶悪なモンスターによって次々に仲間を失いながら、気がつけばリレミトを使うMPも残っておらず、それでも奥深くへと進んでいくときの孤独な勇者の心境。アギーレは決して狂ったわけではない。蜃気楼を追い続ける砂漠の旅人である。自分の大志の実現に1mmもの疑いを抱いていない。夢の実現と狂気の関係は笑いとホラーの関係と比例する。そして狂気は笑いの延長線上にある。しかし映画としての面白みはあまりない。これは「フィツカラルド」にもいえることで、ヘルツォークが作る人物にイマイチ魅力がない。こういう人はドキュメンタリーの方が面白いものを作れるんじゃないかと思う。[ビデオ(字幕)] 8点(2005-04-14 14:36:38)

158.  DEAD OR ALIVE 犯罪者 屈指のバカラスト。ヤクザ映画史に残る数分間だろう。それ以外で覚えているのは哀川翔の変な声と杉田かおるが爆死するシーンだけ。これ、映画館でやった時観客の反応はどんな感じだったんだろう?凄い気になる。[DVD(字幕)] 7点(2005-04-14 14:21:59)

159.  10話 キアロスタミはイランのオズといってもいいかもしれない。映画スタイルこそ全く違うものの、登場人物へのやさしいまなざしは非常によく似ている。誰もが平凡でつまらないと感じる視点を一瞬で非凡の領域に変えてしまうところも。舞台は車だけ。若いイランの女性が運転する車の中で、彼女を中心とした人間模様がタイトル通り10話に区切られて進行する。映画をつくる方法としては、おそらく中学生でも出来るぐらいにシンプルだ。だって車の中にカメラを据えているだけだから。しかし、「こういう風」に撮ることは誰にもできないことがすぐ分かる。なんというか、演技とかそういう次元を超えている。例えドキュメンタリーでもこういうのは絶対に撮れないだろう。この映画に働いている力は一体何なのだろう。というよりもこれが映画になってしまうのなら、この世に溢れる大枚をはたいた凡百の作品って一体何なの?映画には大量のカネがつきものだが、そのカネとは、映画そのものにつぎ込まれているわけではない。ていうか多分映画そのものには金はかけられない。映画を飾る雑多な要素をほとんどそぎ落として映画としての最小単位を求めた結果、本作は車の中だけでイランの生活そのものを表現するという離れ業を成し遂げられたのかもしれない。だからといって観る側はイランという国の特殊性にばかり目が向かうのではなく、むしろ誰もが抱える生活への不安とか人間関係の難しさを感じ取ることになる。喜劇でも悲劇でもない、ただひたすらに優しくて暖かいまなざしがそこにはある。[映画館(字幕)] 10点(2005-04-11 10:28:18)

160.  シャンドライの恋 ベルトルッチ凄すぎるよ。「暗殺の森」がよくわからなくてそれ以降、彼の作品を見るのはやめてたけど、バカだった。「暗殺の森」ももう一度見なければ。この人は間違いなく映画作りの天才。映画を設計するってのはこういうことなんだな。ただでさえ素晴らしいあの螺旋階段の屋敷を、スーッと抜けるように動くカメラの曲線的な動きは繊細なガラス細工のよう。で、そのカメラがシャンドライ(髪型が気に入った)と一緒にスーッと上っていくと、あの赤を基調としたピアニストの部屋が現れる。長い1ショットがもうそれだけで映画になってる。凄い。あと部屋。シャンドライがピアニストの靴をベッドの下から拾うシーンがあるのだけど、ここの光線がやばい。埃まで誇らしい。そんな事まで言いたくなる。室内撮影の制限を完全に利点にしてしまっているのです。凄い。そして衣装や文様。この映画では細かい模様をメチャクチャこだわっている。映像にもあからさまに入れている。一度見た人は今度はもっと画面の近くに寄って見るべし。遊び。映画に遊びを盛り込むヌーヴェルバーグをこよなく愛している(に違いない)彼ならではのジャンプショットやスローモーションや早送り。あるいは同じイタリア映画の「特別な一日」を髣髴とさせる洗濯物をしまいこむ風景。ベルトルッチのカメラは速い。画面の切替えとかそういうことじゃなくて、コマの連続性が、まあサッカーで言うならACミランのカウンター攻撃のように合理的なのにそこには即興的な想像力が秘められている・・・よくわからないけど、そんな感じ。ミランのサッカー見てください。対の音楽。延々と反復し続けるアフリカの民俗音楽とクラシックピアノがまさにドラマそのものとなっている。こういう映画にセリフや具体的な物語はただの雑音にしか聞こえないだろう。ラストは当然セリフなし。印象的な青みがかった早朝のローマの町並みに佇む夫こそドラマの終焉。映像美っていうか彼の場合は映画美だな。凄い。 (追記)と、大絶賛したものの冷静に考えて10点はあげすぎか。なんか、バカみたいに高揚してたな・・・8点(2005-03-29 15:59:55)(良:1票)

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