《改行表示》 1.日本人は、最後の最後まで偶発的な「奇跡」を信じないし、頼らない。 どんなに危機的な状況であっても、まず確認し、準備し、試して、実行する。 だから、その“危機”を回避し乗り越えた瞬間も、大仰に歓喜に湧いて抱き合ったりしない。ただ静かに安堵し、握手を交わすだけだ。 それは、日本人という民族の美徳でもあり、脆さでもあろう。 ただ、「シン・ゴジラ」同様に、そんな日本人の性質、特に日本社会の中の体制的な組織に所属する人たちの“葛藤”と“闘い”を描き出した本作は、この国が生み出すべき真っ当な娯楽映画だったと思う。 「新幹線大爆破」がNetflixで“リメイク”されるという報を聞いたときは、キャストやスタッフの情報を得るよりも前に、即座に高揚した。 1975年のオリジナル版は、20年以上前に鑑賞していて、鑑賞当時すでに30年前の国産娯楽映画の圧倒的なパワフルさに対して、興奮と嫉妬を同時に感じたことをよく覚えている。 もうこの先、こんなにもスリリングでエキサイティングなパニック映画は、日本では製作されないのではないかと、落胆めいた感情を覚えるほどだった。 その落胆は、かつて1954年の「ゴジラ」第一作が孕む絶対的な畏怖や絶望感を、もう感じることはできないのだろうなと諦観していた頃の感情によく似ている。 そして、その“諦め”が、「シン・ゴジラ」の誕生によって見事に払拭された経緯にも、本作鑑賞後の感情はよく似ている。 無論、1975年版の豪胆でエネルギッシュなエンターテインメント性と、本作の性質は異なる。 だが、それに勝ると劣らない「現代」のアプローチによって、この映画は今の時代にふさわしいエンターテインメントと、この国の社会性を存分に反映してみせている。 多くの鑑賞者が頭に思い浮かべた通り、まさに本作は“シン・新幹線大爆破”と呼ぶに相応しい意欲作だったと断言したい。 オリジナル版の鑑賞者としてまず驚いたのは、本作が“リメイク”ではなく、正当な「続編」であったということ。 ほぼオリジナル版と同じ設定でありながらも、50年の歳月を経た地続きの物語であったことが、この映画の世界観に重層性を生み出していると思える。 国鉄がJRに様変わりしたことも含め、時代は大きく移り変わり、様々な物事や常識が変わった社会の中で、繰り返された大事件には、この国が辿った道程に伴う様々な軋轢やひずみが内包されていた。 1975年の「新幹線大爆破」で、高倉健演じる主人公・沖田哲男が引き起こしたあの大事件が孕んでいた、時代や社会に対する怒りと悲しみ。 その執念と怨念が入り混じった感情は、彼らの死によって潰えたはずだったけれど、50年が経っても変わらないこの国の本質的な“愚かさ”に対して、世代を越えて再び彼らの憤りが地の底から湧き上がり、一人の少女に集約されたような印象を覚えた。 昭和の大スター高倉健が、その顔面で牽引し、当時のオールスターキャストが揃った超大作であった前作と比較すると、文字通り脂汗が滲むような演者たちの「熱量」という観点では、本作はどうしても薄くは感じてしまう。 ただそれは致し方ないことだろう。本作で主演の草彅剛が演じるのは新幹線に乗務する車掌であり、ストーリーテリングのアプローチそのものが全く異なっている。 あくまでもJRという組織の一員として、懸命に自分自身の“仕事”を全うする姿こそが、本作が目指したドラマ性であり、冒頭で記した通り、現代社会の「日本人」を表現する上で適切なストーリーテリングだったとも思える。 オリジナル版と異なり、JRの全面協力を得られた要因もまさにこのストーリー性だったからこそだろう。 そして、JRの全面協力を得ることで、本作の映像的なクオリティーとスペクタクルは、オリジナル版を大いに凌駕するクリエイティブを実現している。 ノンストップの“はやぶさ60号”を舞台にした、息もつかせぬスペクタクルシーンの連続は、特技出身の樋口真嗣監督の真骨頂であろう。 オリジナル版では、現場刑事の荒唐無稽な案として一笑に付せられた“後部車両切り離し作戦!”が、本作においては見事採用され、中盤の最大の見せ場として展開されたことも、メタ的要素も孕んだ胸熱なポイントだった。 兎にも角にも、映画企画としては「大成功」と言って間違いない作品だったと思う。 惜しむらくは、この国産大スペクタクル映画を劇場のスクリーンで観られなかったことか。 Netflix映画ならではのジレンマはことさらに強く残った。 【鉄腕麗人】さん [インターネット(邦画)] 9点(2025-04-28 00:14:47) (良:1票) |