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やましんの巻さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 731
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自己紹介 奥さんと長男との3人家族。ただの映画好きオヤジです。

好きな映画はジョン・フォードのすべての映画です。

どうぞよろしくお願いします。


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人生いろいろ、映画もいろいろ。みんなちがって、みんないい。


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41.  西鶴一代女 《ネタバレ》 
随分と昔に見た時、偉大な名作というよりも、正直いって“実にヘンな映画!”という印象を抱いたものだった・・・。  同じ溝口監督の『山椒大夫』や『雨月物語』あたりに比べても、本作はどこか観客を奇妙な「居心地の悪さ」のなかに置き続け、結局そのまま置いてきぼりにしてしまう。感動というより、途方に暮れてしまう・・・といった印象。たぶんそれは、田中絹代演じるヒロインの、あまりといえばあまりすぎる「不運ぶり」とその転落人生を、徹底して突き放しながらも凝視する映画(というより、監督である溝口健二)の眼差しの“強度”に、見ているこちらが思わずたじろいでしまうからではあるまいか。  宮仕えの身から、最後は夜鷹という最底辺の売春婦にまで堕ちてしまう女。その次々と襲いかかる不幸の連続は、確かに封建的な時代の理不尽さや、女性に対する社会の酷薄さという戦後作品における「溝口的主題」を反映しているかに見える。が、この映画におけるヒロインの「怒濤の不運ぶり」たるや、ほとんど「喜劇」と紙一重だ(実際ぼくは、不謹慎と思いつつ見ながら何度も頭の中で爆笑してしまった・・・)。人生をクローズアップで見たら悲劇、ロングショットで見たなら喜劇だといったのはチャップリンだけれど、まさにこの映画は、ロングショットで見られた“世にも不幸な女の人生”そのものではないか。  しかし、本作を見ながらじわじわと迫るのは、田中絹代演じるヒロインを次々と不運にさらし、追い込み、堕ちさせるのが、他でもないこの映画(と、作り手の溝口)自身だという実感だろう。明らかにここでの溝口監督は、彼女をとことん汚し、堕としめることだけに精魂を傾けている。そしてこの、とことん堕ちた女に魅了されている(年増の夜鷹となった田中絹代の、凄絶なまでに美と醜がせめぎ合う様・・・!)。逆にいうなら、徹底して汚れきった女にしか表し得ない「美」があること、それを表現するためになら、人ひとりくらい平気で不幸のどん底へ突き落としてみせる。そういう気迫と「残酷さ」が、ぼくたちをただ圧倒するんである。  そして、そんな溝口の妥協なき「残酷さ」を全身で受けとめ体現しきった、田中絹代という女優の凄さ・・・やはりこれは、鳥肌ものの映画であります。
[ビデオ(邦画)] 10点(2010-03-01 12:29:11)
42.  鴛鴦歌合戦
もう、あまりにハッピーで、見ているこっちもシアワセになって、最後には嬉しナミダなんかすらにじんでしまう。けれど見終わって、いったいこの映画の何がそこまで面白かったんだろう? と考えても、何だかよく分からない。でも面白い。でも分からない。・・・その繰り返しで、もう何回見たことか!  もちろん、皆さんご指摘の市川春代チャン(と、なぜか“チャン”づけで呼びたくなるんですよ・笑)の可愛い意地っぱりにメロメロとなり、憎めないダメオヤジぶりが驚くほどハマっている志村喬など、出てくるキャラと役者の魅力が大きいのは分かる。モテモテ役の片岡千恵蔵だって、城中で家臣たちとジャム・セッション(!)を繰り広げる憎めない“陽気な殿様”ディック・ミネだって、ほんと良い感じだ。そして、宮川一夫のキャメラを得たマキノ正博監督の融通無碍な演出が、すでにこの時代に頂点に達していることもじゅううううううぶんすぎるくらい分かる。でも、この映画は、そんな作品それ自体の完成度を超えた〈場所〉で、その真の魅力をたたえているように思う。  それは、先に【ザ・すぺるま】さんが書かれている素晴らしいレビューのお言葉を借りるなら、その「浮かれかた」にあるんじゃないか。1939年という、すでに中国での戦争が泥沼化した時代にあって、ここまで「浮かれた」映画を撮ることは逆に容易なことじゃなかった。しかも、『会議は踊る』などのヨーロッパ風オペレッタというより、まもなく“敵国”たることが確実だったアメリカのミュージカル映画こそがふさわしい「浮かれかた」をめざすという、マキノ監督はじめスタッフ・キャストたち映画人の“心意気”こそが、このちょっとした「奇跡」みたいな作品を産み出した・・・。  「こんなご時世やからこそ、いっちょ底抜けにオモロイ映画を撮ったろうやないか」。そうして創りあげた本作は、時代を超えてなお、「浮かれる」ことが映画にとって“最大の「武器」”であることをぼくたちに教え続けてくれるのである。  ・・・あの軽やかに舞い上がるラストのキャメラ。ついには重力(それを「時代」とも「社会」とも読みかえてもらっていい)すら振りきり空にのぼっていく場面は、戦時下における「映画」と映画人たちの勝利を高らかに告げるものなんだと、ぼくは信じてやまない。  そう、やっぱり映画には「浮かれた」ハッピーエンドこそがふさわしい。
[CS・衛星(邦画)] 10点(2010-03-01 12:27:49)(良:2票)
43.  續・姿三四郎
開巻まもなく、横暴なアメリカ人水夫を三四郎が海に叩き込む場面。ああ、これってフライシャー兄弟のアニメ「ポパイ」じゃないか! そして、怪しげな日系人(だったかな)プロモーターが主催する異種格闘技の会場。リングサイドで歓声やら野次をとばす外国人観客の姿と、強烈なライトに浮かび上がるリングなど一連の描写は、ほとんどアメリカ映画そのもの! ・・・日本の敗戦の年に公開された「戦意高揚映画」だというのに、本作には驚くほど「ハリウッド映画」のテイストが満ち満ちている。しかも、まるで後の白戸三平の劇画に登場してもおかしくないほど強烈(であるとともに漫画チック)な柔術家兄弟のキャラクターをはじめ、ここには、他のクロサワ作品にはない特異さがたっぷり盛り込まれているのだ。   前作の好評を受けてしぶしぶ撮ったというこの黒澤監督の第2作は、しかし、この未来の巨匠が他の作品では決して見せなかったような、「B級娯楽映画」に徹したことによる魅力に満ちあふれている。お仕着せの企画なんだから、俺様の好きなように撮ってやる! といわんばかりに、前述のアニメやらボクシング映画やら西部劇の決闘場面やら、とにかく「アメリカ映画」のスタイルをこれでもかと踏襲することでデッチ上げたことは、何よりその画面そのものに現れているだろう。クライマックスの雪原での対決場面も、ほとんどバカバカしいくらいデタラメじゃないか。「面白けりゃいいんだろ!」という若きクロサワの声が聞こえてきそうだ。  だがしかし、これが実に面白いのだ。後年、『用心棒』といった西部劇テイストの映画を撮っても、ここまで「自由」じゃなかった。もちろんやっぱり超面白かったけれど、あの作品には(他のクロサワ作品がそうであるように)どこか「傑作」であることを義務づけられたような、そんなどこか重苦しさがあった。でも、そんなことなどお構いなし、おまけに敗戦濃厚な戦時下の空気なんぞもどこふく風といったクロサワの「B級」映画は、今見ても実に軽やかで、才気にあふれ、面白いのである。  もし黒澤明が、世界的巨匠ではなく、この『続・姿三四郎』のような映画づくりの道こそを進んでいったなら・・・。この“If”に思いを馳せられるだけでも、本作は貴重この上ない1本だと思う。
[CS・衛星(邦画)] 9点(2010-03-01 12:26:28)
44.  メンフィス・ベル(1990)
どこに爆弾落としても、地上の人間は死ぬっつーの! それを、「爆撃するのは軍事施設だけだ」とかぬかす若造どもの偽善ぶりが、映画そのもののユル~イ感じと相まって、見ている間じゅう怒りを禁じ得なかったことを、今も昨日のことのように思い出す。最近のアメリカが、戦争の時に目標だけをピンポイントで攻撃するなんて言うのを聞かされるたびに、この映画のことを連想してしまうんスよね。大ウソツキ野郎どもが! (…と、確かにこういった見方は、「映画と現実を混同視しすぎてる」と非難されるかもしれない。けれど、どんなファンタジーや夢物語だって、このぼくたちが生き、死んでいく”現実’の所産なのだし、もし、そういう”現実”を無視した、あるいは無自覚な作品が成立したとして、そんなものは徹底して無意味かつ無価値なシロモノでありましょう。少なくとも、ぼくはそう信じています。)
[映画館(字幕)] 0点(2009-12-09 10:47:38)(良:3票)
45.  喜劇 駅前温泉 《ネタバレ》 
森繁と伴淳が、全編にわたって丁々発止と渡り合う。しかもそこに、三木のり平やフランキー堺がからみ、淡島千景や淡路恵子、池内淳子(若いのに、何という艶っぽさ!)、そして実におちゃっぴいな司葉子らのキレイどころが華を添え、森光子や沢村貞子、菅井きんなどの名女優が脇をしめる。いやはや、これほどまでに贅沢なキャストの映画が、クレイジーキャッツ主演作の“添え物”として2本立て公開だったとは! この事実だけでも、当時の日本映画の凄さ豊かさが実感できるというものだ。   撮影所内に組まれた室内セットでの撮影を中心に、時折はさみ込まれる屋外ロケシーンのみずみずしさ。当時でも「田舎」だったろうその山あいの温泉街のたたずまいからは、単なる郷愁や“古くささ”といったものとはちがう“匂い”が漂ってくる。それは、菅井きんと幼い娘が扮する「乞食母子」の存在に象徴される、1960年代前半の「昭和」という時代の“貧しさ”であり、それでも人と人とが“情”によってつながり得た時代の風景であり、匂いであるだろう。  そして久松静児という監督は、常にそういった時代の“貧しさ”や人々の“情”というものを見つめ、丁寧に映像へとすくい取りながら映画を撮ってきたのだった。一方で「三助コンクール」なる場面のようなドタバタ風の味付けをはさみながら、また一方で、夏木陽介演じる青年のごとく若い世代への“判断停止”ぶりをあからさまにしながら(古い価値観にとらわれないというより、ここでの彼は単なる傍若無人で無神経な、若大将ならぬ“バカ大将”でしかない)、変貌しつつある時代への哀惜と諦観をにじませてしまう。それが、本来なら他愛なくも明朗な人情喜劇でしかないはずの本作に、どこかそれ以上の陰影を与えることになったのだと思う(・・・結婚して旅立つ娘・司葉子を乗せた汽車と、それを遠くから見送る森繁のラスト場面など、そこにあるのは単なる感傷というよりもっと深い諦観と「悲しみ」だ・・・)。  それを、いかにも「保守的」な後ろ向きの郷愁に過ぎないというのは、たぶん正しい。また、これが歴史に残る名作でも何でもなく、むしろ歴史に埋もれてしまうたぐいの映画であるだろうことも承知している。けれど、それでもやっぱりこの映画と、そういう映画の作り手としての久松静児監督を、ぼくはこれからもつつましく愛し続けるだろう。
[CS・衛星(邦画)] 7点(2009-12-09 10:44:56)
46.  明日への遺言
連日、厳しく罪状を追及してくるアメリカ人検事に、主人公はある朝、こんな風に声をかける。  「おはよう、検事殿」  あくまで何気なく、何のふくみもない平凡な朝の挨拶。それに対して検事は、思わずニッコリと微笑むのだ。  時間にして1秒にも満たないかのような、検事の微笑。そこから、全編が裁判所内というこの映画のなかの「空気」は、少しずつ“軽さ”をーーあるいは“すがすがしさ”へと変わっていく。それは、「裁く/裁かれる」という対立の構図ではなく、かつては(あるいはその時も)敵同士だった者たちのあいだに、連帯が、むしろ〈友愛〉そのものがうまれたからである。  そう、藤田まこと演じる主人公の岡田中将は、何も部下たちを救ったからだとか、日本人としての「品格」とやらを示したから称賛されるのではない。この映画はそんな程度のもの(と、言ってしまおう)を描こうとしているのではあるまい。ここには、戦争犯罪人という立場でありながら、日本人とアメリカ人、原告と被告、敗戦国と戦勝国、正義と悪といった対立軸を超えて、この法廷をただ正々堂々と戦い抜こうとする岡田中将と、同じく正々堂々と戦うアメリカ側という〈構図〉があるばかりだ。その〈構図〉を、フェアネスな“空気”を実現してみせたことにこそ、岡田中将という人の真の偉大さがあった。  映画は冒頭で、醜悪で悲惨な戦争の非人間性を記録フィルムで観客に示す。そのことで、岡田中将の“もうひとつの「戦争」”が、むしろ「人間性」をあらためて信じ、取り戻すためのものであったことを、この映画は見る者の心に鮮明に焼きつける。そう、この映画は人を(あるいは国家を、歴史を)裁くのでも、告発するのでもない。日本側・連合国側を問わずこの法廷にいる者たちは、人間というものの持つ真の「崇高さ」のために、共に共闘しているのだ。そういった姿を通して、人間というものの「美しさ」を、ただそれだけを映し出そうとしたものだったと、今ぼくは確信している。   確かに、一見すると地味で派手さのかけらもない、「映画的」ですらないと思われもするかもしれない。しかし、映画がここまで「人間」の美しさ、その精神の「崇高さ」を見つめようとしたことにおいて、本作は、ぼくにとってたとえばジャン・ルノワールの作品に比するものだ。  ・・・最後に。小泉堯史監督、貴方の映画と同時代の観客でいられて、ぼくは本当に幸福です。
[映画館(邦画)] 10点(2009-12-05 12:47:23)(良:1票)
47.  ユニバーサル・ソルジャー ザ・リターン 《ネタバレ》 
ヴァン・ダムを愛することにかけては誰にも負けないつもりの小生ですが、この映画だけはずっと見逃したまま(というか、実は見るのが怖かった・・・笑)。しかし、某地方TV局で放映したものを録画し、とうとう見ることと相成ったわけです。  冒頭、ミシシッピーとおぼしき沼沢地での水上チェイスシーンで、何より銃撃であがる水柱が絵的に格好良く、さすがスタントやアクション場面の第二班監督として場数を踏んだミック・ロジャースだけのことはあるわい、とニンマリ。こういうディテールひとつで、アクションシーンはがぜん活きてくるんだよなぁ!   と思っていたものの、その後はまさに“陸に上がったカッパ”のごときヘナヘナと勢いを失い、「自我を持って暴走するスーパーコンピュータ」だの、圧倒的に強大な敵(演じるのは、せっかく主演した『スポーン』があの結果で“あぼーん”されたマイケル・ジェイ・ホワイトだ)を倒すのに超低温でナニしてどうこうだの、『ターミネーター』シリーズから安易に設定の数々をパクるに及んで、ああ、やっぱり・・・と、脱力。初期のヴァン・ダム作品も確かに相当チープだったけれど、それでも、“いかにヴァン・ダムのアクションを美しく見せ(=魅せ)るか”を考え、工夫する設定や演出が凝らされていた。けれどここでのヴァン・ダムは、ただ右往左往するだけのデクノボウでしかない。そしてその結果、他の方もおっしゃっているように、爆発シーンだけで予算も吹っ飛んだかのような、後は予算も才能もけた違いのメジャー大作を安っぽく模倣したイミテーションに堕してしまっている(せめてTVリポーター役のヒロインだけでも、もう少し魅力的であれば・・・)。  まあ、それでも、アメリカでも劇場未公開のDVDリリースのみといった最近のヴァン・ダム作品に比べたら、まだマシじゃんだって? とんでもない! たとえばリンゴ・ラムや、古くからの盟友シェルドン・ルティックなどの監督と組んだいくつかの作品は、かつてのヴァン・ダム作品の輝きが垣間見られたものだ(特に『レプリカント』!)。それだけに本作の志の低さこそが糾弾されてしまるべきだろう。  あの、『その男ヴァン・ダム』という自己言及的なメタ映画でひと皮むけた存在感を見せてくれた今こそ、真の復活を切に望んでいるのは小生だけではあるまい!(だけか?)。起て! ヴァン・ダム!! 
[地上波(吹替)] 4点(2009-12-05 10:32:05)
48.  小さな恋のメロディ 《ネタバレ》 
これはもう、メロディちゃんを演じるトレーシー・ハイドに尽きる! ・・・と書こうとして「トレーシー・ローズ」って打ってしまった小生は、もはや永遠にこの映画について語る資格を失ったような気がする・・・   けれど、まあ、気を取り直してコメントさせていただくなら、英国の厳然たる「階級(クラス)」をシニカルに戯画化しつつ、そんな現実を軽やかにブッ壊していく主人公たちはじめ少年少女たちの姿に、あらためて感じ入りました。脚本のアラン・パーカーやワリス・フセイン監督らの作り手は、もはや挫折に終わった当時の世界的な「革命」の夢を、トロッコで地平線の彼方に消えていく“小さな恋人たち”に託したんだろうなぁ。そう思うと、なんか切ない気分の映画でもあります。  それでも、ビージーズの歌をバックにメロディちゃんが金魚を持って街をゆくシーンは、最初に見た中学生の時も、そしてオジサンの今も、変わりなく胸がキュンとしてしまう。いかにもロンドンの下町のオンナノコ風な彼女に、映画自身が“恋”したかのような眼差しが、そこにはある。(それでもやっぱり小生は、実のところローズ嬢こそ“もっと大好き”だったりするんですが・笑)   とにもかくにも、自由恋愛万歳!!  
[CS・衛星(字幕)] 7点(2009-09-02 10:27:11)
49.  HACHI/約束の犬 《ネタバレ》 
映画の冒頭、秋田県? らしき日本の風景が映し出され、子犬のハチが今まさにアメリカへと送り届けられようとしている。つまりここで、ハチが純然たる“日本の犬”であることが強調されているわけだ。当初は「?」なこの場面だけれど、見ていくうちにナルホドと納得させられるだろう。そうか、これはハチを通して「日本」を見つめようとする映画でもあったんだ、と。  投げたボールを取りにいかなかったり(あのスヌーピーですら条件反射的に追いかけるというのに!)、このリメイク版では、オリジナルの『ハチ公物語』にはない秋田犬ならではの性格が強調されている。こうした、“西洋人の眼から見た日本の犬”のストイックさと、しかし主人を全身全霊で慕うさまを、映画は、リチャード・ギア演じる大学教授と同じ驚きと愛情に満ちた眼差しで追い続けるのだ。そして、教授が文字通り「帰らぬ人」になった後、ハチがそれでも毎日駅に教授を迎えに行く。その忠誠心や忠義の徹底ぶりとは、まさに「無償の愛」そのものだ。そんなハチは、映画の作り手たちにとってたぶん、「サムライ」そのものだった・・・。  武士の心得を説いた書『葉隠』は、主君に仕える者(=侍)の関係を「黙って死ぬまでつき従う」ことの「究極の愛」としている。この定義ほどハチにふさわしいものはない(だからこそ戦前の日本で「忠君愛国」のイデオロギーにハチも取り込まれ、プロパガンダに利用されたのだった・・・)。それはしかし、主人が死んだからそれに殉じるというのでは断じてない。主人の死後もずっと慕い待ち続けるその「無私の愛」によって、洋の東西を問わず普遍的な感動を呼ぶのだと思う。本作の作り手はそこに、死の美学化ではない「武士道」の真髄を重ねているのだ。  それを、西洋人の単なる「日本幻想(オリエンタリズム)」というのはたやすい。でもこれは、アメリカから「日本(犬)」に贈り届けられた、慎ましくも美しい一編の“ラブレター”に他ならない。そして、そういった彼らの視点からこの忠犬物語を見直す時、ぼくたちはあらためて「ハチ」の生きざまを、純粋に愛おしむことが可能になるのだ。  HACHIィ~!
[映画館(字幕)] 7点(2009-08-21 14:33:12)(良:1票)
50.  ターミネーター4 《ネタバレ》 
まさにイーストウッドの硫黄島2部作を思わせる、冒頭のくすんで色褪せた映像による戦闘場面にはじまって、確かにこの映画は、これまでに見てきた様々な有名作・ヒット作・マニアックなB級作(マイケル・アイアンサイド! そして『スクリーマーズ』!)などのあのシーンこのシーンを彷彿させる“既視感”に満ち満ちている。全編これ引用=再現の連続、オリジナルに対する模造品[パスティーシュ]そのものだ。  それをオリジナリティの欠如だと否定するのも、ただのパクリじゃんと嘲笑するのも簡単だろう。が一方で、そういったシーンのすべてにおいて、無節操であることに開き直るあつかましさや、パロディやら引用と言い募るようないやらしさを感じさせないのも、また確かなのではあるまいか。ここにあるのは、マックGが愛してやまない映画たちへの単純にして純粋なオマージュであり、それらを自ら再現することへの無邪気なヨロコビそのものだ。そして、そんな〈愛〉の対象の最たるものが当の『ターミネーター』シリーズだったことは、たぶん間違いない。  そう、これは、映画が好きで、何よりキャメロンが創りあげたこのシリーズが大好きな男の手になる作品だ。だからこそ1作目と同じ容貌のシュワルツェネッガーが登場した時、単なる楽屋落ちやファンへの目くばせという次元を超えた「感動」があったのだと思う。マックGは、何としても『1』のシュワを自作で登場させたかった。ただそれだけの欲望と歓喜が、映画を見るぼくたちのハートに“共鳴作用”を呼んだがゆえの感動だったのだと。  それを、ただ「頭が悪い」と一笑に付すのは、先にも言ったように正しい。が、C・ノーラン監督のバットマン・シリーズみたくシニカルにお利口ぶった映画じゃなく、あるいは、映画を新奇な「見せ物[スペクタクル]ショー」程度のものとナメているとしか思えないマイケル・ベイ監督の撮るようなシロモノでもない、いいトシをしたオトナが「俺が見たいターミネーターを、俺自身が撮ったんだぜぃ!」と嬉々としているかのような本作にこそ、ぼくは文句なしに心ひかれる。しかも、数限りない制約だの軋轢の連続だったろう製作過程にあって、そういったノーテンキさをギリギリ貫けたあたり、この監督の“したたかさ”が窺えるじゃないか。  結論。「頭の悪さ」も、時には“才能”たり得るのです。
[映画館(字幕)] 8点(2009-08-19 12:52:26)(良:3票)
51.  刑事ジョン・ブック/目撃者
傑作だとか、駄作だとか、そういうんじゃなくて、愛することができるか否か、こそが大切な作品じゃないでしょうか。そう、確かにアーミッシュというものの風俗的面白さを除けば、陳腐なストーリー展開でしかないのかもしれない。映画史に残る大傑作じゃ、お世辞にもないでしょう。けれど、何気ない人物の表情や、セリフ、ワンカットといった部分が、これほど心に残る映画もそうはないと思う。だからぼくは、この映画が大好きです。時々、いろんなことに疲れたら、いつもこの映画に帰ってきます。そして、心満たされるんです。 《追記》明け方間近の薄明のなか、ハリソン・フォードの主人公にヒロインのケリー・マクギリスが駆け寄り、抱擁し、キスをする。まさに情熱=受苦として“パッション”と、この愛が刹那と分かっている「大人」たちのどうしようもなさを同時に了解させるふたりの姿・・・。今でもぼくはあの場面を、アメリカ映画のなかで最も美しいラブシーンのひとつだと信じております。
[映画館(字幕)] 8点(2009-06-13 17:00:29)(良:1票)
52.  最前線物語
映画史上のベストワンを選ぶなんてとうてい出来っこないけど、戦争映画のベストワン作品を選べというなら、文句なしにこの映画を小生は推す。ストーリー的にはサミュエル・フラーの『鬼軍曹ザック』の焼き直しではあるものの、どんな状況下においても日はまた昇り、人は生き、そして死んでいくという「真理」を、ここまで簡潔に、美しく見せてくれる映画はない。そんな、永遠の1本です。《追記》リー・マーヴィン演じる、苦虫を噛み潰したような“鬼軍曹”のヘルメットを、花で飾る幼い女の子。ナチスの収容所で助け出し、ヘルメットを被らせて軍曹が肩車をしている時に、命の灯が尽きて死んでいく男の子。…はじめてこの映画を見てからすでに20年以上(!)もの歳月がたっているのに、この2つのシーンがいつまでも頭から離れない。ヘルメットと子供たちをめぐる、一言も台詞のない小さなエピソード。しかしそこには、フラー監督の「祈り」が込められている。ささやかだけれど、はっきりと、力強く、世のすべての「無垢なるもの」に唱えられた祈りが。そして、あたかも「戦時下」のように子供たちの命が簡単に奪われていく現代ニッポンにあって、その「祈り」の声は、何と切実で悲しく響いてくることか、と思う。・・・以上、この映画の評価とは何の関係もないタワゴトです。すみません。ただ、そういう“想い”をさせることにおいても、やっぱりこの映画はぼくにとって永遠のベストワン作品です。 《追追記》フラーの戦争映画におけるヘルメットは、ひとつの「イコン」ですらあると思う。そしてこの晩年近くの本作で、『鬼軍曹ザック』にはじまるフラー作品の“ヘルメット・クロニクル(?)”が完結した感があって、それゆえいっそう胸をしめつけられたことを今もありありと憶えている・・・。何か中途半端に“再評価”されかけて、また忘れかけられている気がするけれど、フラーは、「カルトな作家」というより本当に「偉大な監督」さんだったんだと信じております。
[映画館(字幕)] 10点(2009-06-13 16:39:07)
53.  ウェドロック
SFアクションという体裁でありながら、作り手たちがひそかにめざしたのが、往年の『或る夜の出来事』に代表されるスクリューボール・コメディ! このあたりのセンスの良さが、実に気分の良い拾い物です(いや、ほんとですってば!)。いつ爆発するかわからない特殊爆弾を首につけられたまま刑務所を逃亡する、ルトガー・“レプリカント”・ハウアーとミミ・“元トム・クルーズ夫人”・ロジャースは、結構緊迫した状況なのに気のおけないケンカ友だちのよう(当然ながら、やがてお互い好きになっていくのもお約束)。そのウイットに富んだセリフと展開は、例えばジェリー・ブラッカイマーあたりが製作している大作イモ映画に爪のアカでも煎じて飲ませたいや。監督のルイス・ティーグは、『アリゲーター』もなかなかの快作でしたよ。 《追記》映画館で見て以来、残念ながら再見かなわず。ですが、やっぱりコレ絶対に面白かった! ということを「声を大」にして言いたかったのでコメント追加(笑)。実は「シリアス」な状況やら物語を、あえてコミカルに描いてみせる。これって相当センスがないとできない芸当なんだと思います。そしてルイス・ティーグって、そんな才能に恵まれた監督のひとりだったことをまさに証明してみせた1作。ジョアン・チェン(は、あの知る人ぞ知る大傑作『サルート・オブ・ザ・ジャガー』でもハウアーと共演してたっけ)の“イカれ悪女”ぶりも好ましく、お近くのレンタル店にソフトが置いてあったなら、そのオフビートでサブミッションな味わいをご賞味ください。映画好きのアナタなら、きっとニヤリとできる作品(じゃなかったら、ゴメンナサイだけど)だと信じておりますので・・・。
[映画館(字幕)] 8点(2009-06-13 16:22:26)
54.  心臓が凍る瞬間(とき)<TVM>
とにかく我が最愛のジェニファー・ルービン様が出演しているだけで、しかもニューロティックなキレまくり演技に感涙。映画も、B級スリラーでありながらどこか『ベティ・ブルー』していて、「精神異常であるのはわかっていても、俺のことを“好き”と言ってくれたのは彼女だけだったんだ。俺はそんなアイツのためなら何だってする!」というディラン・マクダーモットにナミダ…。彼とル-ビン様の「ニューロティックな“ボニーとクライド”ぶり」は、ベネックスのご本家よりもある意味哀しく忘れ難いものがある。ジェニファーと言えばコネリーよりルービンな世の皆様(果たしてどれくらい存在するのか…)なら、彼女の出演作のなかでも最高傑作のひとつという小生にきっとご賛同いただけるハズ!  どなたか、「JR友の会(って、何か鉄道マニアの会みたいだな…)」を創りませんか? 《追記》久しぶりにビデオで再見。やっぱりこれ、低予算のTV映画風でありながら実に良くできた小さな“大傑作”だと再確認しました。ジェニファー・ルービンの“壊れっぷり”と、それゆえの倒錯的美しさにウットリ・・・。誰もあまり見てくれない(というか、コメント書いてくれない)んで、ええいっ! と、点数を「8」から「10」にしちゃいます。個人的には当然の満点映画なんで。
[ビデオ(字幕)] 10点(2009-06-13 12:56:58)
55.  火星探検 《ネタバレ》 
冒頭、月着陸を計画した博士や宇宙飛行士たちの記者会見の模様が延々と続き、これがやたら長い。いいかげん観客が焦れてくる頃、ようやくアタフタと出発(笑)。しかし航行中、燃料の計算ミスで推進力が低下したとかで、今度は紙に鉛筆(!)で受験生みたく延々と計算し直す場面が続くんである。その挙げ句、突然の加速(またも計算間違いで?)宇宙船は軌道をはずれ、失神した乗組員とともに月ではなく火星に到達。ううむ、いったい彼らはどれだけの時間気を失っていたんだ? ・・・まったく、隕石群の飛来とか、核戦争の末に退化したらしい火星人の襲撃などといった見せ場より、この映画はそういった地味な(そしていささかおマヌケな)場面にこそ焦点を当てているかのようだ。  1950年代のアメリカ映画にあって、特にこの手の「B級」(とはいえ本作、赤狩りの当事者ゆえノン・クレジットだが脚本にダルトン・トランボ! 撮影監督や音楽にも驚くべき名前がクレジットされている)SFは、宇宙人や怪物たち(とは、冷戦と「共産主義者」の暗喩的存在だ)とのヒロイックな戦いを描き、無邪気なまでに「自由主義」礼賛を謳いあげたものだった。けれど一見「おバカ映画」な本作は、そういったプリミティヴな「思想的偏向」ではなく、実のところ極めて屈折したかたちで「愛」を描こうとする。というかこれは、オザ・マッセン演じる女性科学者こそを主人公とした「女性映画」、一種の『ニノチカ』の変奏(!)として見るべき作品なのだと思う。  ロイド・ブリッジスの好意にも冷ややかだった“科学がすべて”である彼女が、いかにして「女性」としての自己を取り戻し、「愛」の言葉を口にするかーー。それを、ルビッチ作品のような諧謔とフモール(ユーモア)ではなく、これも「ドイツ的」といえなくもない生真面目さとともに、「宇宙冒険もの」というカテゴリーにしのび込ませる。しかも、彼女が「愛することの歓び」に目覚めると同時に悲劇が訪れるという、驚くべき〈運命愛〉的な結末・・・。  おいおい冗談だろ、と申すなかれ。この名もないドイツ出身監督による低予算SF映画は、間違いなくもうひとつの「別の物語」を語っている。それが「ルビッチ」という“偉大なドイツ出身監督”の作品を想起させてくれただけでも、少なくともぼくにとって、実に刺激的な映画体験をもたらしてくれたのだった。 
[DVD(字幕)] 7点(2009-06-13 12:49:41)(良:1票)
56.  死霊の盆踊り 《ネタバレ》 
・・・たぶん作り手たちの主眼は、まだ当時メジャーの作品では御法度だった女性のハダカを、これでもかこれでもかとスクリーンに映し出すこと、それに尽きるものだったはずだ。その点では、堂々10名ものダンサーを次々と“競艶”させる大サービスぶりこそ、彼らが考える本作の「商品的価値」だった。つまりこれは、あくまで「プレイボーイ」誌なんかの映像版、“動くヌード・グラビア”のはずだった。  ただこの映画は、単なるストリップショーのライブをフィルムにおさめるのではなく、あくまで“劇映画”としての体裁をとってしまう。それゆえ「ハダカを見せる」だけ以上の付加(負加?)価値を求められることになり、そっち方面でのあまりの低レベルぶりが、本作を「史上最低の駄作」ということで、良くも悪くもカルト化させてしまったのだった。しかし、どうしてただのストリップ映画が「ホラー」(と、言えるならだが・・・)であらねばならなかったのか? そこにぼくは、原作・脚本・共同製作エド・ウッドの映画への“愛”を見たく思うのだ。  映画の冒頭近く、三流小説家の男が婚約者に「他は全然ダメだけど、ホラー小説だけは売れるんだ」と自嘲気味(にしては、ちょっと得意気)に語る。あきらかにあれは、ウッド自身の投影であり、彼の心の声だろう。そしてウッド映画のお馴染みクリスウェルが口にする大仰でバカバカしい(だが、いたって大真面目な)与太からもまた、ウッドの「ホラー」ジャンルへの自負やら思い入れが伝わってくるじゃないか。ここに欠けているのは、そういう「(ホラー)映画への愛」を表現するための演出であり、スタッフであり、役者たちであるだろう。逆に言うなら、ここには「愛」(と、女のハダカ)だけがあって他には何もないのである・・・。  それでもぼくは、ここでのブーイングと失笑の嵐(と、一部の“倒錯”した絶賛)にもかかわらず、この作品の徹底した「無意味さ」と、それゆえ透けて見える「エド・ウッド魂(!)」に、ひそかなエールをおくることにしよう。【はちーご=】さんも書かれていたと思うけれど、あの政治的・社会的に混沌とした1960年代半ばにあって、ここまで「無意味」に徹しきれることもひとつのラディカルさに他ならないのだし。だから、点数は「0」でも、個人的には「10」です。あしからず。
[ビデオ(字幕)] 0点(2009-05-25 17:13:51)(良:5票)
57.  グラン・トリノ 《ネタバレ》 
イーストウッドが、玄関ポーチにすっくと立っている。それだけで、そこに“荒野”が出現するのだ。イーストウッドが、街の不良どもに凄みをきかせる。その時そこにいるのは、まぎれもなく“ダーティハリー”その人だ。イーストウッド自身が最後の出演作というこの映画は、彼これまで演じてきたアンチ・ヒーローな「ヒーロー像」の集大成であり、それへのオトシマエに他ならない。  この映画から様々な政治的・社会的な寓意やら見解を見出すことは容易だろう(そこから、アメリカにおけるマイノリティの問題を皮相的に扱ったとか、不良少年たちの側の「問題」の背景を見ずに単なる悪役として描いている・・・等の批判も出てくるわけだ)。が、そんなこと以上に、『許されざる者』が「最後の西部劇」だったようにこれは「最後のイーストウッド映画」なのである。「監督」としてのイーストウッドは、「役者」としてのイーストウッドのキャリアをここに完結させ、“封印”してみせた。ジョン・ウェインの『ラスト・シューティスト』が、まさにそうだったように。  クライマックスの、両手を広げて地面に横たわる主人公は、ほとんどキリスト(!)のようだ。ここでもまた観客は、この“聖人画(イコン)”から様々な解釈やら印象を語ることができるのかもしれない。しかしそれが、「最高の死に場所」を得た主人公を映画が“祝福”するものであること、そして「役者」イーストウッドの最後の勇姿への“餞(はなむけ)”であること、ただそれだけのことだとぼくは信じて疑わない。本作の主人公であるとともに「役者」イーストウッドそのものである彼は、ここで映画に、そして「監督」イーストウッドによって召された。それをこういう形で目撃できたぼくたち観客は、何と幸福なことだろう・・・   そう、何よりもこれは「幸福」な映画なのである。だからぼくたちも、心からの祝福と“歓喜の涙”で応えてあげようじゃないか。
[映画館(字幕)] 10点(2009-04-27 17:37:55)(良:7票)
58.  パッチギ! LOVE&PEACE 《ネタバレ》 
ここでは3世代にわたっての、とある「在日」一家の生きるーーというか、“生き抜く”姿が描かれている。祖父の世代は苛酷な戦火のなかを、泥と血にまみれながら。二・三世である父母とその子供たちは、貧困と差別のなかを。そして四世となる男の子は、不治の病に対して。彼らはそれぞれの逆境を、時にのろい、時に怒り、時に嘆き傷つきながら、それでも生き抜こうとするのだ。  もちろん、彼らをそういった状況に追い込み、追いつめたのが日本という国家であり、その国民であることを、映画は真正面から描くだろう。けれど映画のなかの一家は、そんなことを告発や断罪する前に、とにかく必死に生きる、懸命に生きる。その姿を前にする時、「日本人」たちの何と卑小でみじめなことだろう・・・! そこでは藤井隆扮する「良い日本人」ですら、どこまでもひ弱で無力な存在でしかない(もっとも、彼は彼なりにーー愛ゆえに?--「意地」を通すのだけれど)。たぶん、彼らは我々にこう言うだろう。差別するなり反省するなり勝手にやってろ! と。  前作『パッチギ!』では、そういった「生」のエネルギーのほとばしりを高校生たちの群像ドラマに託しつつ、一方でそれを「在日」という言葉(=観念)に収斂させてしまうことで実に「上質」な(ということは、「映画賞の取れる」ような!)作品を撮りあげた井筒監督ら作り手たち。だが今回は、「政治」だの「歴史」だのといった観念性をブッちぎり、映画としての体裁すらブッこわしてまでも、主人公とその家族の「生」を、それだけを映像におさめようとした。そしてそれは、見事に成功したといえるだろう。何故なら、前作とうって変わってのこの「低評価」こそがその証じゃないか!  だが、これでいいのだ。映画が「生きるもの」たちの姿を、その輝きこそを映し撮るものだとするなら、これこそが正真正銘の「映画」そのものなのだから。  ・・・映画の最後、難病の男の子が、自転車にはじめて乗ることに成功する。彼は助からないかもしれない。しかし、それでもやっぱり生き抜こうとしている。その姿にふたたび家族がひとつになる。  何て美しい光景だろう。
[映画館(邦画)] 10点(2009-03-31 17:51:07)(良:1票)
59.  二十四の瞳(1954)
映画の中盤以降、主人公である大石先生はことある毎に泣いている。最後には、子供たちからも「泣きみそ先生」とあだ名される始末だ。でも、大石先生の流すその涙にこそ、昭和という歴史への、つまりは「戦争」というものへの“異議申し立て”があることを、この映画の作り手たちはまちがいなく自覚的である。それはただ悲しいからでも、つらいからでもない、「くやしい」からこそ流された涙だ。時代に翻弄され、押し流されながらなすすべもない時、人はそういう状況に追い込んだものたちに怒り、しかしそ気持ちの持って行き場がないから、泣く。そこには単なる「被害者意識」ではなく、もっと烈しい告発の意志がある。だからこそそれは、時代を超えて見る者の心を揺さぶり続けるのだと思う。  ・・・以上、ずっと以前に録画してあったビデオで、先日久しぶりに再見した感想。昔は単なる感傷と、いかにも日本人的な諦観にいろどられたもの、という印象を抱いていたのだけれど、今回見てコロリと考えがかわりました。やっぱり映画は、何回も見直すべきだなという反省と自戒をこめて、ここに記す次第です。木下恵介監督、ゴメンナサイ。 そして素晴らしい映画をありがとうございます。
[ビデオ(邦画)] 10点(2009-02-04 18:44:31)(良:1票)
60.  その男ヴァン・ダム 《ネタバレ》 
思えば、ヴァン・ダムくらい一人二役にこだわるスターも珍しい。『ダブル・インパクト』にはじまって、『マキシマム・リスク』や『レプリカント』まで、双子だのクローン人間だのを嬉々として(?)演じている。『タイムコップ』でも、過去の自分を未来から来たヴァン・ダムが見つめるという場面があったはずだ。そして本作もまた、「ヴァン・ダムがヴァン・ダム自身を演じる」という意味で、やはり一人二役をめぐる彼の“オブセッション”的主題を反復しているんである。  落ち目の人気スター「ヴァン・ダム」が郵便局強盗にまきこまれ、包囲する警官隊から犯人と間違われるという喜劇的設定ながら、全編を覆うシリアスな、重苦しい空気感。そのなかで、これまで演じてきたヒーローのようにはいかず成すすべもないヴァン・ダムの、疲れきった表情がまず素晴らしい。そして皆さんもご指摘の、あの独白・・・   ヴァン・ダムが突然カメラに向かって「これは俺の映画だ」と語りはじめ、これまでの人生やドラッグに溺れた事実などを告白し、最後に「そう、これは俺の現実だ」と告げて、ふたたびドラマへと戻る、ワンカットで撮られた長いモノローグ場面。そこにあるのは、単なるメタフィクションとしての面白さを超えて、映画(=虚構)と現実が交差することのスリリングさだ。そう、この映画はまさしくヴァン・ダム版『サンセット大通り』(!)とでもいうべき、現実のヴァン・ダムと虚構(=イメージ)としての「ヴァン・ダム」という“一人二役”を自ら演じてみせた作品として、その〈二重性〉に賭けられたものに他ならない。  ただ、これでもう少しヴァン・ダム=「ヴァン・ダム」の悲喜劇性を際立たせることができたなら、この映画はかなりの傑作になっていたにちがいない。と思わせる、映画としての“弱さ”は確かに認めよう。けれど何度もいうけれど、本作のヴァン・ダムは本当に良い。素晴らしい! これを契機にひと皮むけたヴァン・ダムの、今後に期待をもたせてくれただけでも、ファンとしては大いに感謝しようじゃないか。
[映画館(字幕)] 7点(2009-01-28 16:42:30)(良:1票)
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