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501.  呪いの家 夜の屋敷内、蝋燭の灯だけを光源とした照明設計が魅惑的な闇を創りだす。 その黒の中に白い影が亡霊のように浮かび上がる。 クライテリオン盤DVDはチャールズ・ラングJr.の モノクロームの美をよく引き出している。 巻頭の目眩く波間の空撮。 リスを追いかける犬のアクションによって家そのものをも演出していく手際。 女優陣を愛でるエレガントで艶やかなクロースアップ。 スクリーンプロセスと、緩やかな海風とボートの揺れとの見事なシンクロ。 その画面の充実ぶりはラストの夜明けの美しさまで一貫している。 萎れる花や、捲れる書物の頁など、慎ましい特殊効果もゴシックムードに相応しい。 崖から落ちかけるゲイル・ラッセルのロングショットには息を呑む。 [DVD(字幕なし「原語」)] 8点(2014-01-19 22:15:54)《改行有》

502.  大脱出(2013) 映画冒頭の脱獄シーンの寡黙さがなかなか良いと思う間もなく、 シルヴェスター・スタローンの雄弁な種明かし演説が始まってしまう。 かと思えば、主舞台に移っても公衆の中で堂々と密談を続けている。 監視の中、いかにして相棒とコミュニケーションを取り合っていくか。 そこにサスペンスを生み出すのが、脱獄映画の基本だろうが、その辺りが相当杜撰だ。 共演がよほど嬉しいのか、二人の対話については明らかに台詞過多である。 ボルトがどうの、シフトがどうの、それは画面に語らせれば済む話であり、 安易に台詞に頼るべきではない。 主人公の観察眼については、序盤で説明済なのだから。 状況解説用のトラッキングはただ官僚的であり、 対話どころか殴り合いまでアップショット偏重で鈍臭く 面白味を欠いた画面は映画でなくてテレビだ。 二人共、銃を構えたショットだけはやはり様になっている。 [映画館(字幕なし「原語」)] 5点(2014-01-17 23:57:41)《改行有》

503.  火まつり キャストをみて初めて職業俳優が多数出演していたとわかる。 そのくらい、キャストの佇まいや方言が現地に溶け込んでいる。 それは引きのカメラによる達成でもあるだろう。 街の一角を、後方に山を望む駅を、引いたカメラで出来る限り広域に取り入れ その中で複数の人物を近景と遠景の間で動かし、絡ませるなど 非常に手間と労力のかかる贅沢な演出をしている。 人間と自然を一体のものとして画面に載せた、意欲的なロケ撮影だ。 オートバイに乗った男女が勢い余って生垣に投げ出される、 滑走する漁船から安岡力也が海に放り出される、といった危険なスタントも 引きのワンカットで収めるといった具合に、アクションも気合が入っている。 静かな森の中で次第に風が立ち上がり、ざわざわと枝葉が揺れ出す。 激しく降り出す森の中の雨は人工の雨か、それとも本物か。 これらの撮影はまさに神憑りと云うべきだろう。 太地喜和子の乗る小舟が、埠頭を歩く北大路欣也と並走しながら入港してくる、 その船側から陸側を望む横移動の緩やかな運動感。 柳町光男も、これをやっている。 [ビデオ(邦画)] 8点(2014-01-11 23:41:04)《改行有》

504.  麦子さんと 時折挿入される、昭和期を思わせる解像度の粗いフィルム風映像。 その中に映し出される、青春時代の母親を演じる堀北真希の美貌が ノスタルジックに映える。 彼女のこれまでのフィルモグラフィにも拠るのだろう。 あからさまな時代の演じ分けをしない分、彼女の二役は違和感がなく新鮮だ。 あるいは中森明夫の書く通り、彼女のスター性ゆえかも知れない。 カラフルな柄物のカジュアルウェアが、一方で黒い礼服姿のイメージを引き立たせる。 そうした衣装の演出に関しても吉田監督の拘りがうかがえる。 が、音楽の入れ方、特に挿入歌の大仰な使い方などは想定通りすぎてつまらない。 余貴美子の手料理を噛み締める堀北。 そしてその料理へのお返しにスーパーで肉を買い、パン粉を付け油で揚げる彼女の横顔。 そういう黙々とした、淡々としたさりげないシーンの積み重ねでこそ泣かせて欲しい。 [映画館(邦画)] 6点(2014-01-10 00:00:57)《改行有》

505.  ゼロ・グラビティ 驚くべきは、その引切り無しの音の氾濫である。 映画冒頭の字幕第一行目でまず宇宙の無音を説明し、劇中の二者の会話でも 宇宙の魅力をその「静寂」と語らせているにもかかわらず、だ。 通信音声が終わると同時に、船外作業の三者の対話が止めど無く続き、 間髪入れずに脅かしのBGMやSEが鳴り響く。 映画が全くの無音を採り入れるのは、中盤でジョージ・クルーニーが ハッチを開けた瞬間の約30秒弱。正確にその一箇所のみである。 無論、音響によって静寂を逆に強調する手法もあるだろうが 本作の場合は明らかに音や台詞が過剰だ。 サンドラ・ブロックがひたすら何かを「GRAB」しようとする 純粋なアクション映画としてならばそれもよろしいが、 映画は最後に何やら地球讃歌・生命讃歌をやりたいらしい。 それなら、最後の羽虫の羽音や波音の感動はより対比的に際立たせるべきではないか。 彼女は単に重力だけを実感しているのではないのだから。 空の青さに、大地の感触。そして生命の音。 タイトルを読むことばかりに囚われては、それらを見逃し、聞き逃すだろう。 (そもそもこの題名自体、重力だけを意味するのではない。) ともあれ、サンドラ・ブロックが素晴らしい。 中国の宇宙ステーションに取り付かんと悪戦苦闘する、 その全身のアクションこそ感動的だ。 [映画館(字幕なし「原語」)] 7点(2014-01-07 08:02:11)《改行有》

506.  REDリターンズ それぞれの俳優のキャリアをパロディ的に活かすあたり、 『ギャラクシー・クエスト』の監督らしい味だ。 ロケーションのスケールを広げつつも、テンポは軽快であり、 続投組も新規キャラクターも見せ場を与えられ、そのバランスも申し分ない。 新規組では、イ・ビョンホンがアクティブな魅力と色気を放っている。 前作の『ガントレット』シーンを今回担うのは彼だ。 逆に続投組ではヘレン・ミレンら女性陣が光る。 ポーカーフェイスで大見栄を切る彼女の射撃アクションも前作を継承して爽快である。 カーアクションで滑稽に弾けつつも、一方では堅気の健気さを覗かせる メアリー=ルイーズ・パーカーはその絶妙なバランスで今回キャラクターが 豊かに膨らんだ。 彼女がラストにサンバを踊りながら見せる陽気な笑顔がいい。 [映画館(字幕なし「原語」)] 7点(2014-01-05 22:04:01)《改行有》

507.  ホワイトハウス・ダウン ドラマの中に登場するメディアが、テレビ報道から今やネット動画へ。 変わらぬ王道プロットだけに、そんな細部の差異が約20年の時代変化を感じさせる。 コンビの掛け合いは『リーサル・ウェポン』や『48時間』を彷彿させつつ、 二者の人種関係の社会的変化も隔世の感である。 ホワイトハウスは黒煙に包まれ、白シャツは綺麗な黒へと染まっていく。 格闘アクションはひたすら無骨で泥臭く、それを追うカメラも乱雑である。 建物の空間性を活かしきっているようにも思えない。 そんな格闘、爆発、破壊の描写を差し置いて、最も感動的なアクションを 担ってしまうのが、少女ジョーイ・キングの旗振りであるところが楽しい。 [映画館(字幕なし「原語」)] 7点(2013-12-29 21:15:49)《改行有》

508.  永遠の0 無駄に氾濫する説明台詞に、その会話が始まると同時に鳴り出す説明調のBGM。 このパターンが全編にわたって続く。 おまけに語り手自らが感傷に溺れきったナミダナミダの鬱陶しい表情芝居の羅列と、 手とり足とり。これは幼児向け番組か。 思い入れも過剰にキャラクターに寄りすぎのカメラは引くことを知らず、 ダラけた脚本は、省略というものを知らない。 一枚の写真は最後に一度だけ効果的に見せれば十分だろう。何度も見せる気が知れない。 橋爪功の知るはずのない、一夜の帰宅シーンのエピソード。 なぜ、それをあたかも橋爪のフラッシュバックのごとくに視覚化し、 現在シーンの三浦春馬らのショットへ繋げるのか。 ここも、後半の井上真央に語らせればすむだけのシーンだろう。 見せるばかりが脳。見せないことで語るということをまるで知らない。 いくらシネコン映画とはいえ、観客をなめすぎではないか。 [映画館(邦画)] 2点(2013-12-28 16:02:54)《改行有》

509.  オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ アナログレコードの音楽に合わせて踊る、トム・ヒドルストンとティルダ・スウィントンの俯瞰ショット。 ソファの上で弾むように脚を組み替えるミア・ワシコウスカの仕草。 静かな映画の中で、それらの滑らかな運動感がアクセント的に心地よい。 途中、そのミア・ワシコウスカの闖入によって館が三人所帯となることで ジャームッシュ流の移動の映画=ロードムービーとなる。 彼女の登場は、移動を促す契機としてあると云っても良い。 遠くに街の灯が散らばるデトロイトの寂れた夜道。 まばらな明かりの中に浮かび上がる廃墟の群れが、街の盛衰を偲ばせる。 勾配が特徴的なタンジールの石畳の路地。 黄昏のような、艶を帯びた妖しげな光の加減がエキゾチックで素晴らしい。 ランプを光源とした屋内シーンの見事さも見逃せない。 [映画館(字幕なし「原語」)] 8点(2013-12-23 23:26:06)《改行有》

510.  かぐや姫の物語 子の成長、四季の移ろい、里から都への暮らしの変貌。 その「移りゆき」をモチーフとするアニメーションの素晴らしさは、 かつて高畑勲監督が賞賛したあのフレデリック・バックの『木を植えた男』 からの継承を思わせる。 作中のワンシーンにある、樹々の再生の件などはまさにそれへの オマージュともいえる。 桜の樹の下で舞い踊る娘の喜び、野や山をひた走る娘の激情が迸るクロッキー風の タッチ。 生物の営みそれ自体への慈しみが滲んでいる柔らかなタッチ。 その伸びやかで、味わいのある筆致が創りだす画面の躍動は、 動画であって動画を超えている。 (エンディングのスタッフロールでは馴染みのない様々な作画の役職が並んで 興味深い。) 波やせせらぎの表現の斬新と大胆。木々の影が人物の衣類に落ちて、揺れ動く紋様を創りだす様。機織りや演奏などをはじめとする写実的なアクションと、快活に跳ね回り、飛翔する姫のファンタジックなアニメーションの絶妙なバランス。 題材とのマッチングゆえか、今回はその技巧もそれ自体が目的といった感が無く、 一枚一枚のスケッチの丹念な積み重ねがキャラクターに血を通わせている。 ヒロインを回り込むようなカメラの動き、彼女の寝返り、振り返りなどの動作は スケッチを立体的に浮かび上がらせるだけのものではない。 青い星を振り返る姫の涙が美しい。 [映画館(邦画)] 9点(2013-11-30 08:14:39)《改行有》

511.  リアル 完全なる首長竜の日 《ネタバレ》 中谷美紀によってあっさり説明されるフィロソフィカル・ゾンビなるものの特殊効果も 得体が知れてしまえば不気味さ半減。 ゆらゆらと溶け出す都市も、具象化された首長竜のスペクタクルも 種明かしされてしまえば恐ろしさ半減。 いかにも高予算のはずの大仰なCGが、綾瀬はるかの柵越えのアクション一つに敵わない。 黒沢作品では恒例の「日常的な異世界ともいうべき」(上野昴志)車中のシーンも、夢という設定が課されている本作の場合、逆に味気なく映る。 曇天の波間に揺れる赤い旗。背後の廊下を渡る人影を暈す半透明の蚊帳。 廃墟のロケーションに漂う詩情。 そうした即物的な佇まいの画面にこそ只ならない 凄みと迫力が宿っているという転倒がある。 [映画館(邦画)] 6点(2013-11-27 22:10:54)《改行有》

512.  コルドリエ博士の遺言<TVM> ジョン・ロバートソン『狂へる悪魔』(1920)以降、幾度も映画化されている 『ジキル博士とハイド氏』。 三十年代のルノワールならトリック撮影の工夫で見せたかもしれない 変身シーンそのものに、彼はいっさい興味を示していないようだ。 当時のテレビの利点である、マルチカメラによる芝居の持続性こそが 最大の関心であったらしい。 映画の敵とも見做されたテレビを否定することなく積極的に受け入れていく大らかさ。 それが、映画冒頭に本人として登場するルノワール自身の姿に見ることが出来る。 何より目を引くのは一人二役を演じるジャン=ルイ・バローの変貌ぶりだろう。 ルノワールらしいロケーションの中、 彼が電子音楽と共に街に現れ、奇矯な仕草とともに通行人を襲う彼の暴力 が圧巻である。 マルチカメラを活用したセット撮影のシーンは手狭な印象が強いが、一方で ビル屋上からの俯瞰撮影や、街中の大階段などのロケ撮影も活かされており、 その中での暴力描写もテレビ作品だけにより際立っている。 [DVD(字幕なし「原語」)] 7点(2013-11-25 01:36:28)《改行有》

513.  ペコロスの母に会いに行く メインキャストの背後に印象的に配置された長崎の坂道。 その坂道を、夏服の女学生たちが、ベビーカーを押す主婦が、 下校途中の小学生たちが行き来している。そうした俳優の街への溶け込み方がいい。 そのベビーカーの親子はラストの坂道での交流に重なり、 女学生はコーラスの生徒たちのイメージと重なる。 空を舞う鳶や、水平線を見る背中や、バックミラーとの切り返しといった 類似・相似ショットのさりげない反復。 登場人物たちの対話における同一フレーズ・仕草の反復・変奏。 それらの繰り返しが、個々のシーンや端役まで含めたキャラクターのイメージを より印象深いものにしていく。 黄色いランタン祭りの中を彷徨う赤木春恵と、花街を彷徨う原田貴和子の重なり合い。 現在と過去、幾度も登場した個々の写真のイメージがクライマックスで 鮮やかに集約する。 [映画館(邦画)] 8点(2013-11-24 01:15:34)《改行有》

514.  十字路の夜 闇夜のカーチェイスが迫真だったジャック・ベッケルの『現金に手を出すな』や 『最後の切り札』。そのノワールなアクションの原型が、ここにある。 なるほど、ベッケルは『十字路の夜』の制作主任兼助監督だったのだ。 ヘッドライトに照らされた夜の街路が、荒々しい前進移動によって生々しく 流れていく。さらに、運転席からの拳銃の発泡が閃光を放ち、緊迫感を煽る。 尋問シーンに幾度か挟まれるコップの水のショット、排水口のショット。 そして霧雨のそぼ降る泥濘んだ街路の質感は、『水の作家』によるトーキー初期作品 らしく、流水や足音の湿った音響によって一層強調される。 自身の初トーキーに水洗トイレ音を響かせたルノワールらしい拘りだ。 胸の傷をピエール・ルノワールに見せるヴィナ・ヴィンフリードの艶めかしさも堪らない。 [インターネット(字幕)] 10点(2013-11-17 01:14:59)《改行有》

515.  甘い罠 《ネタバレ》 アナ・ムグラリスが車で出かけるのを、窓辺から見つめるイザベル・ユペール。 今回公開された『甘い罠』・『最後の賭け』・『悪の華』いずれにも共通して、屋内から窓外の事象を捉えるショットが特徴的だ。 窓一つを介した世界の隔たりと奥行きが、それだけで映画に波乱の予感を呼び込む。 そのフレーミングはルノワールの継承を感じさせる。(劇中では『十字路の夜』もチラリと登場。) ピアノの置かれた応接間と居間を繋げた重層的な空間つくりの妙。そこにさらに鏡が配置されており、人物のさりげない映り込みが幾重にもサスペンスを増幅させる。 石垣の連なる暗い坂道をヘッドライトが照らしながら、危うげに車が下っていくシークエンスの緊迫感が素晴らしい。この前進移動ショットはまさに『十字路の夜』だ。 そして、イザベル・ユペールがみせる仮面的表情とソファにうずくまる彼女の背後にレイアウトされた蜘蛛の巣の刺繍。隣室から聞こえてくる葬送曲の調べ。 それらが醸しだす不穏なラストの余韻まで緊張が途切れない。 [映画館(字幕)] 8点(2013-11-12 08:00:02)《改行有》

516.  地獄でなぜ悪い どういった仕掛けでヤクザ達と自主映画チームを遭遇させ、それをどう演出するのかと、 ダラケた展開をとりあえずその興味だけで見ていると、これが面白くもなんともない。 これがこうなってこうなりましたというだけの、視覚的な感興のまるでない、 単なる辻褄合わせだ。 「映画の外道、映画の非道を生き抜きたい」(『非道に生きる』)と語る園監督に それを「映画的でない」と批判したところで詮無いだろうが、つまるところ 面白くなければそれまでだろう。 堤真一の芝居は煩わしく、クライマックスの乱闘がまた無駄に長く、飽きる。 [映画館(邦画)] 3点(2013-11-10 23:45:22)《改行有》

517.  ばしゃ馬さんとビッグマウス 書き仕事が中心となるシナリオライターのドラマを如何にアクティブに描出するか。 映画としては困難な題材だろうが、『風立ちぬ』の図面書きのようによく工夫している。 最後の挑戦となる執筆を前に、髪を束ねる麻生久美子の凛とした横顔。 安田章大と麻生のリズミカルなカットバックと、キーボードを打つ手のアクションが、 手持ちカメラの躍動と共に画面を弾ませる。 一方で、要所要所では丹念な長廻しによって俳優の心情の静かな昂ぶりを収めきる。 友人の結婚式の帰り、安田に携帯電話をかけるシーン。 岡田義徳の部屋で泣きだすシーン。それぞれに、麻生のナチュラルな芝居が活きている。 脚本あっての映画だが、俳優の活かし方が良いのだろう。 主演らの芝居の背後にさりげなく映っている助演たちもまた彼らの世界を生きている、 という細やかさがいい。 双子の姉妹とか、本筋とは無関係ながらそのキャラクターたちから 映画が豊かに肉付けされていく感覚がある。 出番としては少ない山田真歩も、彼女なりのドラマを持った役柄となっており、 それが作劇にも活かされている。 [映画館(邦画)] 7点(2013-11-10 22:33:37)《改行有》

518.  終戦のエンペラー 本来ならフィクション映画に史実との整合性云々などどうでもいいところだが、 いわゆる映画のリアリティの観点から云うなら、「映画芸術」連載の寺脇・荒井対談 でも指摘されているとおり、事実的に「あり得ない」のオンパレードだろう。 外国人に石を投げる子供にしても、米語を流暢に操る威厳ある軍人にしても、 あるいは皇居での戦闘にしても。 米内光政のエピソードなどは当然、除外するわけだ。不都合だから。 無論「教材」としては話にならない。 NHKスペシャル『日本海軍 400時間の証言』くらい踏まえたらどうか。 映画は自惚れ鏡とはよく言ったもので、本作のような美化された虚構の日本人像 ならば「よく理解している」にすり替わり、「真実である」と持て囃されるわけだ。 朝日・毎日共同広告の有識者(提灯)座談会が誉めそやすのも、 専らそのような観点からだ。リスペクトだとか、公平性だとか。 ラストの会談シーンは、扉を閉めるフェラーズ秘書官(マシュー・フォックス)の 窃視として部分的に処理したこと、それだけで深みのあるシーンとなった。 窃視の視線。それが事実ならぬ真実性を強調するということか。 [映画館(字幕なし「原語」)] 5点(2013-11-10 22:26:53)《改行有》

519.  かぞくのくに いかにも善良な母・宮崎美子に、いかにも生真面目な父・津嘉山正種。 キャラクターイメージそのままのキャスティングも芝居もステレオタイプにすぎる。 京野ことみを始めとする同窓メンバーのいわゆる熱演も何ともクサく、 手持ちや自然光照明のドキュメンタリー調と馴染んではいない。 安藤サクラと井浦新の対話もまた熱演なのでああろうし、 役柄になりきらせる演出として恐らくアドリブを多々入れているのだろうが 作り手の過剰な思い入ればかりが突出し、芝居は読みやすい。 一方で、詰め寄る安藤に対してどんなリアクションで返してくるのか、 全く読めないヤン・イクチュンのどこか非心理的な佇まいと 静かな迫力こそが抜きんでている。 [DVD(邦画)] 5点(2013-11-05 00:07:33)《改行有》

520.  パシフィック・リム 人間の動きをトレースするロボット。 その同調のモーションをどう視覚的な快楽として演出するか。 実写作品の手本なら『リアル・スティール』があるし、 操縦者二者がシンクロするカタルシスを如何に映画的に描写するかの手本なら 庵野秀明がコンテを担当したアニメ作品『エヴァンゲリオン』第9話がある。 いずれも、画面分割なりデフォルメなり高速度撮影なりの工夫を動員して 運動の同調が具体的な動画として描写として落とし込まれているからこそ、 あるいは見せたいアクション・見せたいショットからの逆算で 物語が設定されているからこそ、映画となっている。 この作品でのシンクロの設定は単に設定にすぎず、 動画(モーションピクチャー)として昇華されない。 二者が持続的な同一フレームの中で同じ動作をする。 それだけのことすらまるで出来ていないから一体感も連帯感も描写にならない。 単に見づらいだけのアクションシーンだ。 だから、中盤での伏線を残したままの凱旋シーン時点で、 まだ続くのかとうんざりする。人型ロボットである必然性皆無の海底シーン以降は ひたすら苦痛でしかない。 これでハリーハウゼンへの献辞とか、おこがましい。[映画館(字幕なし「原語」)] 3点(2013-10-17 23:48:55)《改行有》

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