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プロフィール
コメント数 2597
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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1901.  キングスマン: ファースト・エージェント 元々、僕はこの人気シリーズとは“相性”が良くないらしく、過去2作とも割と期待感高く劇場鑑賞してきたけれど、いずれも悪ノリの面白さよりも、露悪的な表現によるストーリーの破綻の方に嫌悪感を感じてしまい、全くハマることが出来なかった。 マシュー・ヴォーン監督の出世作、「キック・アス」や「X-MEN:ファースト・ジェネレーション」は傑作だと思っているだけに、監督の個人趣味に突っ走った本シリーズは、余程自分の趣味に合わないのだろうと思う。 そんな経緯なので、「キングスマン」の“エピソード0”として製作されたこの最新作に対しても、特に期待感は無く、度重なる公開延期に対してもほぼスルー状態だった。 某配信サービスの最新作にリリースされたので取り合えず鑑賞してみたが、率直な感想としては、可もなく不可もなくといったところか。 過去2作に比べると、悪趣味な暴走ぶりは鳴りを潜めており、“見やすい”娯楽映画だとは思う。ただし、その代わりに特筆すべきエンターテイメント性が無いことも事実だろう。 特に物足りなかったのは、前作までの(個人的には)唯一にして最大のハイライトだったギミックの娯楽性がほぼ皆無だったことだ。 時代設定が第一次世界大戦前夜であるから、ハイテク機能を隠し持ったギミック満載のスパイ・ガジェットの登場は無理だったろうけれど、前二作に登場したガジェットの「原型」となった“秘密道具”くらいは駆使してほしかった。 ストーリーテリングや、登場人物の言動においても、説得力に欠ける点が多く、どうにも映画世界に入り込むことができなかった。 レイフ・ファインズ演じる主人公は、無論“THE紳士”なたたずまいでソレっぽいけれど、実際のところ彼の行動は行き当たりばったりなことが多く、決して理知的でもなければ、紳士的でもなかった。 挙句、何よりも大切な家族や友人たちをことごとく失くしてしまうわけだから、やはりヒーローとしての魅力や説得力に欠けてしまっていることは否めない。 やはりマシュー・ヴォーン監督においては、むしろ制約の多いハリウッド大作の中で、しがらみに雁字搦めになりながら、それでもギリギリの範囲で“悪趣味”を爆発させるくらいの方が、彼のセンスが際立つのではないか。 彼の出世作がいずれもアメコミ作品であることは言わずもがなだし、同じくアクの強い映画監督であるジェームズ・ガン監督が、MCUやDCのアメコミヒーロー映画で傑作を連発していることからも、進むべき道は明らかだと思うけれど。[インターネット(字幕)] 5点(2022-02-27 00:40:36)《改行有》

1902.  クレヨンしんちゃん オラの引っ越し物語 サボテン大襲撃 ひろしの転勤により、野原一家は家族そろってメキシコにお引越し。 まず、奇妙なサボテンの実の利権を得るために地球の裏側まで飛ばされるサラリーマンの悲哀と逞しさを、父ひろしから感じずにはいられない。 そして、単身赴任を決意していた夫の想いを感じ取って、家族で着いていくと即座に決める妻みさえのここ一番の愛情も深い。 序盤の春日部の面々とのお別れもそこそこにして、しんのすけたちは海を越えてメキシコに到着、ラテンのノリに合わせるようにトントン拍子にメキシコ生活をスタートさせる。 “オラの引越し物語”の後に続く“サボテン大襲撃”という副題が表していた通り、映画はそこから一気に“モンスターパニック映画”へと転じていく。 荒涼とした乾いた土地を舞台にして、そこに住まう人々に襲いかかる怪物(=サボテン)の構図は、まさしくB級モンスター映画の金字塔「トレマーズ」を彷彿とさせ、同映画の大ファンとしてニヤリとせずにはいられなかった。 他にも、「エル・マリアッチ」や「デスペラード」へのオマージュなど、映画ファン的にフックとなる要素はあったと思うけれど、中盤からクライマックスにおけるストーリー展開としては、凡庸の一言につき、面白味を感じることはできなかった。 もう少し、B級モンスター映画なり、B級アクション映画のテイストに振り切ったり、パロディを盛り込むなどして、映画史的な文脈に沿った娯楽性を加味してくれていれば楽しかったのになと思う。[インターネット(邦画)] 5点(2021-09-26 22:41:01)《改行有》

1903.  竜とそばかすの姫 終幕後、何とも言えない神妙な面持ちを作らずにはいられなかった。 駄作だとは思わないし、エンターテイメントとしての複合的な意味合いでの華やかさと、エモーションを持つアニメーションだったとは思う。 だが、同時に、アニメ映画として誠実な傑作かと言うと、そうではないなと思う。 非常にアンバランスで、その不安定さが、とても下卑たものに見える瞬間も少なくはなかった。 主人公のアバター名が「ベル」であることをはじめ、ディズニー映画「美女と野獣」へのオマージュが多い映画だなとは序盤から感じたが、ストーリー展開を追うにつれその要素が大きくなり、オマージュというよりも、新しい解釈と新しいアニメーション表現を携えた“細田守版リメイク”、いうなれば「新世紀 美女と野獣」という趣向が強かったと思う。 圧倒的なビジュアルと音楽の融合によるイマジネーションの渦のようなアニメーション表現は圧倒的であり、独創性に溢れていた。 だが、あまりにも「美女と野獣」要素が強く、その独創性がイコール“オリジナリティ”の創出だったかと言われると、個人的には少々疑問が残った。 そういった超有名作との類似性も含めて、ストーリーそのものにおける“新しさ”はほぼ皆無だったのではないかと思える。 女子高生の主人公が抱える喪失と痛み、出会いと再生のプロセスは、極めてオーソドックスだったと言えよう。 そして、それを描いた現実世界の描写は、インターネット上の仮想世界の華やかさに対して、きっぱりと「地味」だった。 だがしかし、その「地味」な現実世界の描写こそが、このアニメ映画においては白眉のポイントだったとも思える。 少女の抱える傷心と、普遍的な心の機微が、高知県の田舎を舞台にしたアニメーションの中で、繊細にきっちりと描かれていた。 むしろ、それに対して派手で、壮大で、イマジネーションに溢れているはずの仮想世界の描写の方が、何だか既視感を覚え、面白みを感じづらかったと言える。 そういう意味では、田舎に住む女子高生の、地味でノスタルジックで瑞々しい現実世界の生活描写をもっと長く丁寧に描き出していてくれたなら、今作に対する印象はもっと変わったと思う。 そして、この映画における最大の“難点”は、やはり、最終的な決着の付け方だろう。 「児童虐待」という非常に重く切実な現実社会の闇を取り上げているにも関わらず、ストーリーの帰着があまりにも浅く、おざなりだったのではないか。 主人公のまるで合理的でない無鉄砲な自己犠牲的行動にも納得がいかないし、周囲の「大人」とされる人たちの存在の空虚さと無責任さにも不快感を覚えた。 実際に、同じような環境下、もしくはもっと劣悪な状況の中で虐待を受けてしまっている子どもたちは世界中に存在するわけで、それを主人公の“ファンタジー”的な言動であたかも解決したように見せてしまうことは、配慮に欠けるし、不誠実に見えて仕方がなかった。 もちろん、そういう題材を扱っている以上、製作者側にそんな適当な気持ちは無かったのだろうけれど、やはり誤解を生じてしまう描き方であったことは否めないし、根本的な作劇の軽薄さが露呈しまっていると思う。 前述している通り、大部分においてエモーショナルな映画ではあった。 インターネットの仮想世界におけるイマジネーションも、現実社会の風景を描いたノスタルジックも、秀逸なアニメーションで描き出すに相応しいものだった。 しかし、細田守という、いまやこの国を代表するアニメーション監督の作品である以上、主題となるストーリーの不誠実さや軽薄さは致命的であり、看過できるものではない。 商業的に巨大になってしまったブランドは、往々にして誠実な視点を見失いがちだ。細田守監督には、今一度、クリエイターとしてのエゴイズムを突き詰めて、唯一無二の作品作りに挑んでほしいなと思う。[映画館(邦画)] 5点(2021-07-17 18:29:52)(良:2票) 《改行有》

1904.  新感染半島 ファイナル・ステージ 娯楽映画として、“楽しい”映画ではあったと思う。ただし、「新感染 ファイナル・エクスプレス」の続編として期待したならば、楽しみきれない。 前作は、韓国という国の社会性や人々の人間性を踏まえつつ、このジャンルの映画に相応しい「風刺」を併せ持ったゾンビ映画の傑作に仕上がっていた。列車を舞台にすることによる“パニック”の上乗せ加減も見事だったと思う。 しかし、この続編は、その後の世界を描きつつも、映画的なテイストはリセットされ、まったく別物の映画として作られていた。 前作が持っていた“韓国製ゾンビ映画”としてのフレッシュさを期待していた者としては、正直「思ってたんと違う」感は否めない。 文字通りの「地獄」に取り残された人間たちの狂気と、そこから生まれる恐怖やさらなる絶望を娯楽映画として描き出そうとした試み自体は興味深かったけれど、その世界観の作り込みがありきたりで希薄だったことが、「別物」の映画としても楽しみきれなかった要因だろう。 また、登場するキャラクターの一人ひとりは個性的で魅力的な要素を持っていたと思うけれど、それらをストーリー的にあまり活かしきれておらず、中途半端な人物描写に終始してしまっているとも感じた。 人がゾンビ化するウィルスの蔓延を止めることができず、4年間放置され、韓国国内のみマッドマックス的に崩壊しているという設定は豪胆で潔い。 北緯38度線(南北境界線)により、北朝鮮から先の大陸には感染が広がっていないという設定も無茶苦茶ではあるが、娯楽映画としては許容範囲だろうし、原題「Peninsula(半島)」が表す意図も際立っていると思う。 もう少しその「半島」というテーマが孕むこの国の特異性や、ある意味での孤立感みたいなものを、ストーリーに盛り込むことができていれば、このシリーズの続編としても、ゾンビ映画としても相応しい批評性が生まれたのではないか、と思う。[映画館(字幕)] 5点(2021-01-10 23:22:10)《改行有》

1905.  ねらわれた学園(1981) 2020年4月10日、大林宣彦監督が亡くなった。 遺作となるのであろう最新作の公開予定日(感染症拡大の影響で延期)に合わせるようにこの世を去った巨匠を偲びつつ、本作を初鑑賞。 数多くの彼の監督作品をつぶさに観ているわけではないけれど、この監督の映画ほど作品に対する表面的なパブリックイメージと、実際の映画世界の中に孕む“異常性”とのギャップに戸惑うものはない。 大林宣彦監督自身の風貌や人間性から、ノスタルジックでファンタジックなファミリームービーを多く手掛けている印象を持っている人も多いと思う。 無論、そういう側面を持った作品も多いのだけれど、それはあくまでも個々の作品における一側面であり、彼が生み出す映画世界の本質は、もっとアバンギャルドであった。 もっと端的な言い方をすれば、ずばり“イカれている”と言ってもいいくらいに、その映画世界は変質的だった。 本作「ねらわれた学園」も、言い切ってしまえば、完全にトンデモ映画であり、イカれている。 決して大袈裟ではなく、最初から最後までクラクラしっぱなしの映画世界に唖然とし、呆然とする。 1981年当時の映像技術やエフェクト技術が実際どの程度で、この映画の頭が痛くなるほどのチープさが、どれほど許容されるレベルのものだったのかは、同じく1981年生まれの自分には判別つかない。 しかし、狙い通りかどうかはともかくとして、この確信犯的な“歪さ”は、この映画世界に相応しい。 多感で未熟な高校生たちの心模様と、1981年という時代性、そして超能力という題材。 それらが持つアンバランスさと稚拙さが、チープを通り越して“困惑”せざるを得ない映像表現と相まって、グワングワンと押し寄せてくるようだった。 そして、その中で唯一無二の存在として可憐に輝く「薬師丸ひろ子」というアイドル性が、イカれた映画世界を問答無用に成立させている。 角川春樹(製作)の「薬師丸ひろ子の“アイドル映画”を撮ってくれ」というオーダーに対して、破天荒な映画世界を支配するまさに“偶像”として主演のアイドル女優を存在させ、見紛うことなき「アイドル映画」として成立させた大林監督の感性は凄まじい。 更には、未成熟な高校生たちの“畏怖”の象徴として登場する峰岸徹演じるヴィラン“星の魔王子”の存在感も物凄い。 変質者的に主人公に目線を送る初登場シーンから、クライマックスの直接対決(+「私は宇宙!」のキメ台詞)、そして最後の“宵の明星ウィンク”……いやあ、まさにトラウマレベルの存在感だった。(クライマックスシーンの撮影現場を想像すればするほどそのカオスさにクラクラする) と、どう言い繕っても“トンデモ”で“ヘンテコ”なカオスな作品であることは間違いなく、この映画を観た大多数の人は「何だこりゃ…」と一笑に付したことだろうとは思う。 だがしかし、公開から40年近くの年月が経ち、時代が移り、創造主である映画監督も亡くなってしまった今、一周まわって「何だこりゃ!」と目が離せなくなる作品になっていることも間違いないと思える。 ともあれ、日本が誇るイカれた巨匠のご冥福を祈りたい。彼が残したフィルムは決して色褪せない。[インターネット(邦画)] 5点(2020-04-11 23:34:22)(良:1票) 《改行有》

1906.  クレヨンしんちゃん 新婚旅行ハリケーン 失われたひろし 昨年に続き、クレヨンしんちゃん映画を我が子と、友人父子らと連れ立って鑑賞。 昨年の「爆盛!カンフーボーイズ〜拉麺大乱〜」は、想定を大いに超えた素晴らしい作品だった。 このアニメならではの“おバカ”コメディを全面に繰り広げつつも、しんちゃんをはじめとする子どもたちの目線を通じて「正義」という概念のこの世界でのあり方を問うという、物凄くクオリティーの高いストーリーテリングに感嘆した。 そんなわけで昨年よりも鑑賞前の期待値が上がった今作も、“クレしん映画”ならではの「時代」を映すテーマ性は盛り込まれていたと思う。 今作のテーマは、母親であり、妻であり、一人の女性である“みさえ”によるずばり「女性讃歌」だ。 数年遅れのハネムーンの地で、母親であることの苦闘、妻であることの葛藤、それらをひっくるめて一女性としての強さと弱さを等しく全面に押出しながら、アドベンチャーを繰り広げる“みさえ”の姿が眩しく、愛おしい。 今作においては、主人公であるしんのすけは、めずらしく子どもらしいポジションにおさまっており、みさえとひろしの父母の活躍に振り切った構成も中々潔い。 それはまさに、この映画を子を連れて鑑賞しているであろうすべての母親たちにスポットライトを当てるべく用意されたストーリー展開だった。 この映画の焦点とその意図はよく理解できる。ただし、“クレしん映画”としてちゃんと面白かったかというと、少々疑問は残る。 個人的には、「母親」や「女性」といったターゲットに対する焦点の当て方が、少しあざとすぎたんじゃないかと思える。 主人公・野原しんのすけの存在感が“大人しく”見えたことに顕著に表れているように、「子ども」の存在をもう少し意義深く描き出すべきだったのではないかと思う。 「クレヨンしんちゃん」の主人公は、当然ながらしのすけである。 今作でも彼はいつものようにおバカに暴れまわってくれてはいるが、どこかその言動にいつものような“熱さ”を感じなかった。 “クレしん映画”の過去作をいくつも観ているわけではないので、どうしても前年との比較になってしまうが、声優の交代も少なからず影響しているのではないかと思う。声色的に違和感はあまり無かったが、この国民的キャラクターが内包する根本的な「熱量」を、まだ新しい声優は表現し切れていないのかもしれない。 まあとはいえ、僕の横で子どもたちはちゃんと笑い、ちゃんと泣いていたようなので、変な言いがかりをつけるべきではないのかもしれないが。[映画館(邦画)] 5点(2019-05-06 20:40:56)《改行有》

1907.  トレイン・ミッション 《ネタバレ》 この監督×主演俳優コンビの映画を観るのもこれで3作目。実際は通算4回目のタッグであり、余程この両名は気が合うのだろうと思う。 そして、毎度のことながら、このタッグによる映画、掴みは良い。 過去、「アンノウン」「フライト・ゲーム」と観てきたが、導入部分、特に冒頭シーンのシークエンスは両作とも白眉だった。主演リーアム・ニーソンの持ち前の物憂げな表情と、不穏を煽るビジュアルセンスが相まって、一気に引き込まれる。 今作では、老サラリーマンの日々の出勤前のシーンが幾年分も折り重なるように映し出され、このオープニングの数分間の描写で、主人公の男が積み重ねてきた「日常」の価値と、それと表裏一体の鬱積めいたものが伝わってくる。 ああ、何か良質なサスペンスが観られるかもしれない。と、期待は最高潮となる。 が、そんな期待感は、ストーリー展開と共に、アクション性が暴走し、事の真相が詳らかになると共に、徐々に確実に「脱線」していく……。 さすがに4度も共に仕事をするだけあって、この監督と主演俳優の相性自体は決して悪くはない。 ジャウマ・コレット=セラ監督のビジュアルセンスは長けているし、どんなにアクション俳優化したとしてもリーアム・ニーソンが名優であることは揺るがない。両者が表現者として持つ繊細な波長はよく合っていると思える。 となると、致命的なのはやはり脚本のまずさだろう。過去作も含めて、ストーリー展開がチープでお粗末だ。 同じようなジャンル映画であっても、もう少しだけ気の利いた脚本が備わっていれば、正真正銘に「面白い」映画になり得ると思う。現状でも充分に「観れる」娯楽映画ではあるだけに、勿体無い。 阿呆な陰謀チームの肩を持つわけじゃないけれど、最終的にそこまで無茶苦茶するんなら、ごちゃごちゃと面倒でリスキーなことをせずに、最初から“脱線プラン”でいけよという話だ。 まあその場合、主演俳優はリーアム・ニーソンではなく、スティーヴン・セガールになってしまうがね。[CS・衛星(字幕)] 5点(2019-05-04 17:25:54)(良:1票) 《改行有》

1908.  64/ロクヨン 後編 “忘れたくない”のに、殺された娘の記憶は、哀しみと怒りのみをくっきりと残して、日に日に薄れていく。一方、“忘れたい”のに、怒りと憎しみの根源である犯人の声は、こびりつくように脳裏に残り続けた。 これは、あまりにも悲しく、あまりにも辛い、「父親」の物語であり、主要な登場人物たちと同様に、僕自身娘を持つ父親として、身につまされたことは間違いない。   或る誘拐殺人事件を主題としたサスペンスとして、通り一遍ではない様々な感情と思惑、そして実際の時代的背景が入り混じったストーリー構成からは、流石に横山秀夫の著作らしい原作の空気感を感じた。   原作は未読だけれど、そういった魅力的な題材を、国内のオールスターキャストを揃えた「大作」として映画化するにあたっての、精力的な気概そのものは十分に感じた。 が、しかし、いかんせん演出が「稚拙」の一言に尽きる。残念だ。   昔からだが、なぜ日本のサスペンス映画は、過剰な慟哭をさせたがるのか。 仰々しい演出で、これ見よがしな慟哭を映画のハイライトとして映し出す映画に、あまり傑作は無いように思う。 今作も「前編」の段階から、熱演を通り過ぎて、少々オーバーアクトに見えてしまう場面がいくつもあった。 まだ前編に関して言えば、過剰な演出・演技に対して、描き出されるストーリーの焦点が極めて普遍的な県警内における“内輪もめ”だったので、仰々しい表現と実際に進行する展開の小規模さのギャップが、興味深く描き出され楽しめた。   しかし後編は、いよいよサスペンスの本筋である過去の悲劇的な事件と、リアルタイムに展開される新たな事件が絡み合う様が大々的に描き出されるので、仰々しいだけの演出が逆に白けさせる結果となってしまった。 事の真相が、必要以上に振りかぶって繰り広げられるので、それを受け止める側としても身構えてしまい、的確に捉えられなかった印象を覚えた。 フィクションなのだから、導き出される「真相」が荒唐無稽だったり、非現実的だったりすること自体は許容できる。しかし、それならば映画上の「嘘」を、擬似的な「現実」として観客に許容させるための演出方法があるはずで、それこそが映画の醍醐味だろうと思う。   前編で構築した地味だけれど見応えのある人間模様を、ないがしろにし、甚だ強引で整合性の無い帰着に導いてしまったこの後編はとても残念な仕上がりだった。 ラストの顛末も大きく改変してしまっているようだが、おそらく横山秀夫の原作は、この物語が描き出す「事件」に関わる群像一人ひとりの心情をあぶり出し、多層的なドラマ性を生み出しているのだろう。機会があれば是非原作小説を読んでみようと思う。   最終的に残念な仕上がりではあったが、前後編通じてキャスト陣は、演出の良し悪しは別にして、“熱い”演技をして見せてくれている。 前述の通り、個人的には異なった「父親像」を演じた俳優たちがそれぞれ印象的だった。   主演の佐藤浩市は、刑事として、父親としてあらゆる側面で“板挟み”になり苦悩する男を熱演していた。 被害者父役の永瀬正敏は、心身ともに文字通りに“汚れ”苦しみ尽くす様を見事に体現していた。 吉岡秀隆は、警察官としての正義のあり方に振り回され葛藤と共に人生を狂わされた男を好演していた。 そして、「緒方直人っぽいけどコレ誰だ?」と思わせる程に、色々な意味で屈折した表現を見せた緒方直人の演技も凄かったと思う。   原作が持つストーリー性と、俳優たちの熱い演技がもっと噛み合っていれば、本当の意味で「大作」になり得ていただけに、演出面の稚拙さが重ね重ね残念だ。[インターネット(邦画)] 5点(2019-04-02 17:03:37)(良:1票) 《改行有》

1909.  EAST MEETS WEST 三が日の最終日、正月らしく国産の芳醇な娯楽を堪能できる映画を観ようと思い、この岡本喜八作品をチョイス。 数多の名作の中で、今作の評価が高くないことは認識していたけれど、日本映画史が誇る稀代の大巨匠による痛快な娯楽性を楽しめるのではないかと期待した。 結果、全く面白くなかったとは言わないけれど、世間の評価に違わず、かなり「微妙」な映画であることは否めない。   時代は幕末、米国から開国を迫られた幕府の使節団の中に密命を受け潜り込んでいた攘夷派の水戸浪士が主人公。 真田広之演じる脱藩浪士が、アメリカ西部に降り立ち、自身の使命と運命に挟まれながら奮闘する。 即ち、サムライとガンマンとニンジャによる夢の攻防戦を娯楽色豊かに描き出すことが最大のコンセプトの映画企画だったのだと思う。 実際、その通りの映画に仕上がってはいるのだが、正直言って全編通して上手くいっていない。   先ず、主人公の立ち位置が冒頭からいまひとつ確立されていないのが気になる。 彼が、どういうバックグラウンドを持っていて、どれ程の使命感を持って使節団の中に潜り込んでいたのかが、極めて曖昧なままストーリーは展開されるので、一つ一つの言動に厚みを感じることが出来ず、故に熱さも感じない。 「用心棒」のような主人公の流浪感を狙っていたのかもしれないが、それを表現するには全体的な演出が雑過ぎたと思うし、主演俳優のキャリア的にも浅かったのではないかと思える。   個人的に最大の雑音に感じてしまったのは、竹中直人演じる忍者が出自の下僕の存在。 演技プラン自体は、今尚続くお決まりの「竹中直人」そのものなので、彼のパフォーマンス自体を非難すべきではないと思うが、それを是とし、全編通してまかり通させてしまった演出には物凄く疑問が残る。 前述の通り、主人公の人物描写に深みが欠けているため、この映画は文字通り終始“精力的”にはしゃぎ回る竹中直人演じる“為次郎=トミー”のドタバタコメディ映画になってしまっている。   クライマックスの対決シーンも、展開的な面白さもなく、焦点も全く定まっていないため、盛り下がる。 恐らくは、「七人の侍」とそのリメイク作である「荒野の七人」をミックスしたような映画世界を見せたかった筈だ。 監督をはじめスタッフ的にも、キャスト陣的にも、本来それが可能な布陣だったと思うが、実現されなかったことは今更ながら残念だ。   ただし、二十数年の年月が経ち、国内外で素晴らしいキャリアを積み重ねてきた今現在の真田広之が、再び今作の主演を務めたならば、全く別物のクオリティの映画に生まれ変わるとは思う。 ストーリー上、主人公“上條=ジョー”はアメリカの地に留まっているわけだから、その後の彼の生き様を描いた続編の企画が持ち上がっても良いのではないかと思える。 年老いた“ジョー”のピンチに、ニンジャからインディアンに転身した“トミー”が大群を引き連れて助太刀する様を想像すると、馬鹿馬鹿しくもあるが、それはそれで胸熱だがな。[インターネット(邦画)] 5点(2019-01-03 17:54:16)《改行有》

1910.  エージェント・ウルトラ 公開前に予告編を観たときは、とても興味をそそられた。ヒョロガリのコンビニ店員が実は殺人マシーンでした!という設定は、良い意味で馬鹿らしくて、それだけでイントロダクションとしての娯楽性は備わっていると思えた。 そしてそれを演じるのがジェシー・アイゼンバーグというのも注目ポイントだった。この若手実力派の最筆頭とも言える俳優であれば、完全なダメ男ぶりと、実は秘められた狂気性を、一人の人物像の中に同居させ表現し得ることは容易に想像できた。 想像通り、ジェシー・アイゼンバーグの滲み出る狂気性は、主人公のキャラクター設定と合致しており良い。 陰謀によって生み出された悲しき“殺人マシーン”と、彼を支える恋人との逃避行は、古典的でありふれたアイデアのようにも感じるが、ストーリーの紡ぎ方自体には新しさがあった。 少なくとも、個人的には嫌いじゃない映画的雰囲気が醸し出されていたとは思う。 ただし、最終的に面白い映画だっとは言い難く、この手の映画でそういう印象を持たせてしまった以上は、「失敗作」と言わざるを得ない。 つくり手の思惑としては、「ボーン・アイデンティティ」的なキャラクター設定をベースにしつつ、「キック・アス」的な悪ノリのバイオレンスアクションを展開し、「スーパー!」的なマンガ的で悪趣味なポップさを充満させた映画世界を構築したかったのだろう。 その趣向自体は伝わってくるし、部分的には理解できる。 が、結局の所、映画としてのクオリティの低さが致命的だったと思う。 そもそもの発端となる陰謀めいたものと、黒幕であるCIAの首謀者たちの愚行ぶりが、あまりにもおざなりで目に余る。 悪ノリだろうが、悪趣味だろうが、根本的な話作りが滅茶苦茶なので、致命的な雑音となりストーリーに入っていくことができなかった。 娯楽映画として面白ければ、当然続編にも期待したい終わり方だったけれど、このクオリティの映画にジェシー・アイゼンバーグを続投させることはあまりに勿体ないので、止めたほうがいい。[インターネット(字幕)] 5点(2018-09-16 15:39:28)(良:1票) 《改行有》

1911.  ゴーストバスターズ(2016) 1984年の「ゴーストバスターズ」は、世代的に、少年時代にハリウッド映画に触れ始めたタイミングの作品でもあり、非常に馴染み深い。 個人的には、アメリカの娯楽映画とはこういうものと無意識レベルで植え付けられた映画とも言え、ある意味娯楽映画の“基準”となった作品だった。 「もの凄く素晴らしい映画!」ということでは決してないけれど、特に僕らの世代以上の映画ファンにとっては、“愛着”のある映画であったことは間違いないだろう。 そういう意味では、オリジナルキャスト達のカメオ出演や、あの愛すべきアイコン、そしてテーマ曲等の踏襲は、往年のファンとして少なからず“アガる”ポイントであったことは言わずもがななところ。 時代と、主人公たちのキャラ設定は変わっているけれど、NYを舞台にして、お決まりのテーマ曲、お決まりのロゴマーク、お決まりのコスチュームで、“ゴーストバスターズ”の面々が出揃った瞬間、「帰ってきた!」と高揚した。 しかし、だからこそ殊更に残念なことだが、今作には、そういった高揚感を映画作品として保ち続けるための魅力が備わっていない。 言うなれば、“リメイク”として、オリジナル作品にあった魅力を再現できておらず、無論それ以上の付加価値を見出だせていないということだ。 バスターズの面々の性別を変えて、現代版として焼き直すからには、何かしらの新しい価値観や、テーマ性を示してほしかった。 今作の監督+主演コンビで、結婚式にまつわる女性の親友同士の「本音」をドぎついコメディと下ネタで繰り広げてみせた「ブライズメイズ」は最高のコメディ映画だっただけに、その部分が期待はずれだったことはとても残念だ。 オリジナル版のビル・マーレイやダン・エイクロイドは、勿論コメディ俳優という領域を超えた「名優」だが、今作のクリステン・ウィグやメリッサ・マッカーシーも、今後同等以上の存在感を放つ可能性を持った女優だけに、彼女たちが弾けきれていないことが殊更に口惜しい。 “ソー”こと、クリス・ヘムズワース演じる“逆・紅一点”の秘書ケビンの常軌を逸した“脳筋”ぶりは可笑しかったけれど。[CS・衛星(字幕)] 5点(2018-04-30 00:54:58)(良:1票) 《改行有》

1912.  未来警察 あのマイケル・クライトンのオリジナル脚本、そして自ら監督をした近未来SF。 生活の中に根付いたロボットが暴走し、人々を襲うというSF短編的なプロットに興味を引かれて鑑賞したが、良い意味でも悪い意味でも一風変わった映画だった。 まず、警察官が主人公なわけだが、制服から、警察署内の雰囲気に至るまで、まったく「未来」っぽくない描写が、期待感を削ぐと同時に潔く感じる。 そして、そのビジュアルの映画世界に対して、「未来警察」なんて殊更に違和感を生じさせるような邦題をつけちゃう日本の配給会社のセンスも、逆に潔い。 SFのベストセラー作家が描き出すに相応しいエスプリの効いたストーリー性を期待したけれど、悪党がロボット工学に長けているという設定以外は、概ねありふれた“刑事モノ”であったことが、意外であり、残念なところ。 襲いくるロボットの独特な気味悪さだったり、自動追跡銃のギミックなどについてはユニークだっただけに、娯楽性に優れた映画監督が指揮を取っていたならば、もう少しレベルの高いエンターテイメント映画になっていたかもしれない。 それこそ、「ジュラシック・パーク」同様にスティーヴン・スピルバーグが監督していたならば、映画史が変わっていたかもしれない!などという過剰な妄想を出来る程度には、妙な味のある映画だったとは言える。[CS・衛星(字幕)] 5点(2018-04-29 00:12:32)《改行有》

1913.  映画ドラえもん のび太のひみつ道具博物館 ストーリーのキーアイテムとなるシャーロック・ホームズセットをはじめ、コエカタマリンやらころばし屋なんかのマイナーなひみつ道具をピックアップしてくるあたり、現代の子どもたちをターゲットとしつつも、彼らを映画館に連れてくる僕たち往年のドラえもんファンに対してのサービス精神は豊富だ。 その他にも、頭上を越えていく“ザンダクロス”の巨体だったり、“どこでもドア第一号”などの描写は思わずニヤリとしてしまう。 そういう意味で、子どもも大人も楽しみがいのあるドラえもん映画であったことは間違いない。 だがしかし、小うるさい往年のドラえもんファンとしては、大きな物足りなさが残る。 それはやはり、ストーリーテリングの“踏み込み”の弱さだろう。 面白そうな掴みや、ギミックは散りばめられてはいるのだけれど、それらはすべて表面的な“ユニーク”さに終始しており、かつてのドラえもん映画に存在したワクワク感が感じられない。 そして、表面的な感動を追い求めた結果、あまりにウェットで安直な友情物語に着地してしまっている。 勿論、描かれているテーマ自体が悪いわけではない。むしろ、子供向けの友情物語であれば、これが真っ当な表現なのかもしれない。 ただ、のび太とドラえもんの間の「友情」って、そういうのじゃないだろう。と、思っちゃうんだからしょうがない。[地上波(邦画)] 5点(2018-04-24 23:44:06)《改行有》

1914.  ナイスガイズ! ライアン・ゴズリング&ラッセル・クロウの主演コンビのキャラクター性はユニーク。 ライアン・ゴズリングのクソ野郎ぶり、ラッセル・クロウの無頼漢ぶり、それぞれがこれまでの数多の主演映画で見せてこなかった“顔”を喜々として演じており、愛すべきキャラクター像を表現している。 そして、彼らのキャラクターとしての立ち位置も、過去の“バディもの”映画にはないスタンスで、絶妙なバランスを見せてくれている。 バディものとして世の好事家たちから好評を得た要素は理解できる。 けれど、ノワール調のストーリーテリングがとっ散らかっており、語り口があまり巧くない。 加えて、主演コンビが結束するに至るプロセスも今ひとつ曖昧で、軽妙な掛け合いに乗り切れなかったというのが、正直なところ。 結果彼らは“チーム”となるわけだが、次回作製作に向けての期待感や高揚感が、個人的に殆ど得られなかったことは、この手の娯楽映画として痛い。 オーストラリア出身の若手女優アンガーリー・ライス演じる娘ちゃんは大変キュートだったけれど。 主人公コンビは勿論、敵役、脇役含めて登場人物たちのキャラクター性は総じて魅力的だっただけに、映画全体のチグハグ感がつくづく残念な仕上がりだった。[インターネット(字幕)] 5点(2018-01-08 15:02:55)(良:1票) 《改行有》

1915.  LUPIN THE IIIRD 血煙の石川五ェ門 「峰不二子という女」、「次元大介の墓標」に続く「Lupin the Third」シリーズ第三弾。 「血煙の石川五エ門」というタイトルの通り殺陣場面の血生臭さは、一般的なアニメとしては度を超えている。「新しいルパン三世」を魅せようとするこの製作チームの“気概”は相変わらずだ。   だがしかし、「峰不二子~」の常軌を逸したインモラルに狂わされ、「次元大介~」の極上のハードボイルドに陶酔し、骨の髄までこのシリーズの大ファンとなっている者としては、正直、この血生臭さ加減のみでは物足りなかった。   1時間に満たない尺の長さではストーリー的な物足りなさが生じてしまうことは致し方ない。 前作「次元大介~」もストーリー性自体は極めてコンパクトだった。ただそれでも、ラストの一騎打ち“一発”で、次元大介というキャラクターのダンディズムを最大限に表現して魅せたことが素晴らしかった。   今作においてもファンとして求めていたことはまさにそれだった。 このタイトルを掲げる以上は、次元大介と人気を二分する“石川五ェ門”というキャラクターが持つ本質的な魅力を、どこまで振り切って描き出してくれるのかということ。   前述の通り、“斬鉄剣”が敵を切り裂く描写は、過去の映画シリーズにおけるマンガ的な表現とは一線を画し、壮絶に血生臭い。 ただし、目新しさはそれだけだったとも言える。 今作の石川五ェ門は文字通り致命的な迄に痛めつけられ瀕死の状態に陥りながら、極限の状態で敵を射止めるけれど、その描写がどこか俯瞰的なままに見えて、痛みが痛みとして伝わってこない。 それは詰まるところ、「峰不二子」や「次元大介」と比べて、「石川五ェ門」というキャラクターの魅力が引き出しきれていないことに他ならない。   「開眼」する前のもっとギラついていて、危うくて、脆い「侍」が、痛みと悟りを経て「石川五ェ門」と成る姿が観たかった。     あと“ついで”に苦言を呈するならば、このシリーズならではのエロティシズムが皆無だったことも至極残念。 それは即ち峰不二子の「露出不足」が甚だしいということ。 折角、日本のヤクザ文化と時代劇文化が全面に出ている作品世界なのだから、さらしを巻いた女賭博師なり、淫靡な遊女なり、破廉恥な春画なり、前作に登場した「“変態”機械仕掛け人形」並みの和風アバンギャルド描写はいくらでも用意できた筈だ。 せめて、檜風呂での入浴シーンくらいは見せろよ!とついつい声を荒げてしまう。     まあでもね、このシリーズに対する期待感は変わらない。暗躍する“あの方”と再び相見まえる「ルパン三世」長編劇場版の「リメイク」を心待ちにしている。[インターネット(邦画)] 5点(2018-01-03 23:43:05)《改行有》

1916.  映画 キラキラ☆プリキュアアラモード パリッと!想い出のミルフィーユ! 愛娘はもう6歳。 当時3歳だった彼女と初めて観に行った映画も「プリキュア」だったわけだが、あれから3年、通算5度目のプリキュア映画鑑賞となった。 今回は3歳になったばかりの息子も連れての鑑賞。彼にとっては、初の映画館での映画鑑賞だ。 3年前に初めて娘と鑑賞した際にも記したけれど、映画ファンにとって、自分の子どもたちと映画館に赴くという行為は、ことのほか大切なイベントになり得る。 「映画館」という行き慣れた領域(テリトリー)の中に、我が子を招き入れるという感覚も加味され、彼らにとって少しでも良い時間を過ごしてもらいたいと、無意識の内に思う。 滞りなく映画を観終えて、6歳の娘は一丁前に「今までよりも感動が少なかった」などと感想を述べていた。 3歳の息子は少しもぐずることもなく大画面に映されたアニメーションを終始真剣に観ていた。 同じ行為とそれに伴う時間を共有することで、子の成長を感じることもまた映画ファンの醍醐味だ。 小学校入学を来春に控える娘は、プリキュアの普段のテレビ放映はあまり見なくなった。 彼女と行くプリキュア映画も今回が最後かもしれない。 それはそれで少し寂しくもあるけれど、基本的に映画は一人でしか観ない自分に、新しい映画体験をもたらしてくれた「プリキュア」には感謝している。 映画自体は、今シーズンのプリキュアが“パティシエ”くくりだということもあり、「ミスター味っ子」みたいで鑑賞した過去作の中で一番笑えた。 娘の言うとおり、「感動」は少なかったな。[映画館(邦画)] 5点(2017-11-14 15:49:08)(良:1票) 《改行有》

1917.  ザ・マミー/呪われた砂漠の王女 御年55歳の稀代のハリウッドスターが、相も変わらず“年不相応”な肉体とアクションをこれでもかと見せつける。 “彼”の映画愛と自己愛が常軌を逸しはじめて久しいが(褒めている)、今作でもその部分においては、世界の映画ファンの満足に足るパフォーマンスを見せてくれていると思う。 詰まるところ、“トム・クルーズ”の仕上がり具合は、近年の傑作・快作と比較しても決して不足のない状態だったことは断言できる。 ただし、最新の娯楽大作としては、きっぱりと、面白くはない。 トム・クルーズの出演映画としては、近年珍しいレベルの「凡作」だったと言わざる得ない。 今作は、ユニバーサルが新たに仕掛ける「ダーク・ユニバース」なるモンスター映画シリーズの第一弾。 「マーベル・シネマティック・ユニバース」の大成功に対抗するといえば聞こえは良いが、要は臆面もなく企画を真似たフランチャイズ化だろう。 しかしながら、今後製作が予定されている「フランケンシュタイン」「透明人間」「ドラキュラ」「半魚人」などなど名だたるモンスター映画のラインナップには、一映画ファンとしていやが上にも高揚してしまう。 その先陣を我らがトム・クルーズが担うというわけだから、期待しないわけにはいかなかったところ……。 モンスター映画シリーズとはいえ、往年のモンスター映画そのままに怪物そのものの「恐怖」だけを描き出したところで、どんなに良質であったとしても“B級映画”の範疇を出ないことは目に見えている。 今の時代に、「ダーク・ユニバース」と銘打ったからには、時代と価値観を越えて、「悪」という存在そのものへの真理の追求や存在意義めいたものが描き出されることを期待した。 ユニバーサルの製作陣の狙い自体は、そういった期待から外れたものではなかったと思う。 トム・クルーズが演じた主人公が辿る運命然り、闇の女王から醸し出される悲哀然り、非常に惜しい要素は随所に見受けられたのだけれど、結局それらの要素が巧く結びつかず、最終的には酷く散漫で凡庸な映画世界の構築に終始した印象を受ける。 監督を務めたアレックス・カーツマンなる人物は、過去様々な娯楽大作において脚本や製作を担ってきた映画人だが、この壮大なフランチャイズの先陣を“初監督作”として纏め上げるには、少々荷が重すぎたのではないかと思わざるをえない。 まあしかし、これほど大規模なフランチャイズのスタートが困難であることは分かりきっていることで、ある程度の失敗も想定のうちだろう。 シャレにならないほど大コケして、次作以降のユニバース展開自体が頓挫しないための“トム・クルーズ”という「保険」だったとも思える。 ニック・フューリー的な立ち位置で登場するラッセル・クロウ扮する“ジキル&ハイド”は贅沢だったし、美しい“闇萌え女王”には是非とも再復活してほしい。 次作は、ハビエル・バルデムの「フランケンシュタイン」か、ジョニー・デップの「透明人間」か。程よくワクワクしながら待つとしよう。[映画館(字幕)] 5点(2017-08-05 20:03:17)《改行有》

1918.  マッドマックス2 荒廃した地球、入り乱れる暴力と狂気。 「映画」のみならず、漫画、小説、様々な表現において、その後デフォルトとなったこの「イメージ」を発明し、創り上げたこの映画の価値と衝撃は、如何なるものだったのだろう。 今作の製作年と同じ1981年生まれの映画ファンにとっては、伝え聞くその衝撃は、言葉通り“伝説”の範疇を出ず、非常に口惜しく思う。 2015年の大衝撃作「マッドマックス 怒りのデス・ロード(Mad Max: Fury Road)」が、“マッドマックス”初体験だった。 その直後に第一作「マッドマックス」を観て、今回ようやく「2」の鑑賞に至った。 ある意味必然的なことなのかもしれないが、伝説的なこの2作に対して、伝説通りの衝撃を受けることは出来なかった。 “カルト”であることは理解できる。いろいろと、どうかしている映画である。 だからこそ、レジェンド化され過ぎなんじゃないかとも思う。 非常に実験的でもあり、破れかぶれの映画であり、だからこそ世界中のボンクラ映画ファンの心を掴んで離さなかったのだろう。[インターネット(字幕)] 5点(2017-06-19 22:40:37)《改行有》

1919.  映画 はなかっぱ 花さけ!パッカ~ん♪蝶の国の大冒険 ゴールデンウィークの最中、子どもたちの暇つぶしに、某動画配信サービス内で見つけた今作を観始めた。 「はなかっぱ」は、今現在幼児を育てている家庭であれば、圧倒的な割合で毎朝観ているアニメ番組ではなかろうか。 因みにウチでは、この番組が終わるタイミングまでに身支度を終わらせ、全員で家を出るのが日課となっている。 自分の子どもが生まれるまでは、「はなかっぱ」というアニメキャラクターの認知すら殆ど無かった。 最初のうちは、完全なる幼児向けアニメだろうと流し見していたけれど、次第にナンセンスでシュールなキャラクターたちに愛着を持ち始めてきた。 頭から花を咲かせるって、なんて能天気なキャラクターなんだと思っていたが、「成長を通じて自分らしい花を咲かせよう」というそのテーマ性を知ってからは、「なんて真っ当な子供向けアニメなんだ」と思うようになった。 さすがはEテレである。 とは言え、「はなかっぱ」の映画化なんて、作品規模に似つかわしくなく大袈裟だろうと思っていたが、これが意外にも泣けた。 クライマックスで見せるはなかっぱの怒涛の攻撃シーンには、まさかの高揚感を覚え、そして横たわる母に向かって号泣するさまに涙腺が緩みそうになった。 アニメの悲しいシーンや可哀想なシーンでは必ずと言っていいほど泣き出してしまう我が愛娘は、はなかっぱの号泣シーンを我慢してじっと観ていたが、ふいに背後に自分の母親の存在を感じたらしく、途端に大号泣。 その様子を見ていた僕は、彼女が泣き出す瞬間の表情の変化を目の当たりにして、より一層胸が熱くなった。 人の親になって日々身に沁みていることだが、子の成長ほど感動的なことはない。 当たり前だが、それは自分のすべてを投げ売ってでも、守るに値するものだ。 自分の子どもたちが、頭にどんな「花」を咲かせるのか。 まんまとこのゆるーいキャラクターに感化されてしまっているが、楽しみでならない。[インターネット(邦画)] 5点(2017-05-05 21:11:46)(良:1票) 《改行有》

1920.  薄氷の殺人 邦題の印象から勝手に韓国映画だとばかり思って観始めたが、中国映画だった。 似たようなプロットの韓国映画もあったように思うが、国が違うとこうも映画の空気感というものは異なってくるものかと痛感した。まあ至極当たり前のことなのだが。 そして、残念ながら、個人的にはこの映画に対してとても居心地の悪さを感じてしまい、面白味を感じるまでに至らなかった。 退屈、淡白、ありきたり、否定をするための幾つかの形容が頭をめぐるが、どれもうまく当てはまらない。 寒々しい空虚感が全編通して満ちている。 湯気が立ち上る料理も、白日に打ち上がる花火も、超絶にダサいエンディング曲も、すべてが寒々しい。 勿論、それこそがこの映画のテーマであり、存在意義だとは思う。 ただし、その寒々しさを受け入れられるかどうかで、この映画への価値観は変容するのだと思う。 それを受け入れられなかった者は、この映画が醸し出す寒さと冷たさと空虚さと不潔さに只々苦しめられる。 主人公をはじめ登場人物たちにも一切感情移入をすることができず、困惑する。 そして、一刻も早くこの映画世界から抜け出したくなる。 “面白くなかった”ので、評価はできない。けれど、この独特な中国映画の存在意義は認めざるをえない。[インターネット(字幕)] 5点(2017-03-20 09:09:30)《改行有》

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