5.《ネタバレ》 2年前に娘が生まれた。とても幸福な瞬間だったけれど、同時に「父親になった」という事実に対しては、ふわふわとした実感の無さを感じたことを良く覚えている。
女性は、子を産んだ瞬間に「母親」になると思う。それは、我が子の生命を身籠り、出産するという幸福と苦闘に溢れたプロセスをしっかりと経ているからだと思う。
一方で、男性は、そういった実を伴ったプロセスを経ていないから、本当の意味で「父親」という存在になるまで「時間」が必要なのだと思える。
それが数日間の人もいるだろうし、数ヶ月間の人もいるだろうし、「6年間」かかる人もいる。
この映画のテーマを知ったとき、“親”の一人として、選択の余地はあるのか。と思えた。
傍らの我が子をふと見て、今まで共に生きてきた子を選ぶに決まっている。と、思った。
この映画を、「母親」の目線で描くことはある意味容易だったと思う。
この「事件」において、最も傷つき、最も感情的な対象になり得るのは、当然「母親」だからだ。
しかし、この映画はそういうストレートな感動には走っていない。
「母親」ではなく、「父親」を主人公に据えた意味。それこそが、この作品の価値だと思う。
「交換」という決断を迫られ、夫婦は苦悩する。
母親は、他の誰よりも傷つくが、その分シンプルに決断出来る“強さ”を持っていると思う。いざとなれば自ら育てた子と二人きりででも生きていくという「覚悟」がある。
しかし、そもそも「親」になったということそのものに自信が備わっていない父親は、「子」との距離感に対して大いに惑う。
そこには、「父親」というものの弱さと脆さが溢れていて、それがこの映画が描くドラマ性なのだと気付いた。
映画のテーマに対して「選択の余地はない」と“シーソー”の片方に思い切り重心をかけて映画を観始めた。
そしてこの映画のストーリーは、概ね自分のその意思に沿った着地を見せた。
それなのに、観終わった瞬間、僕は“シーソー”の真ん中に立っていた。
どちらが正しいということは言えず、どちらも間違っていないとしか言えなかった。
「選択」を迫るこの映画は、終始どちら側にも偏ってはいなかった。故に観客は、描かれる人々の言動のすべてに共感し、また拒否することが出来る。
この映画の素晴らしさは、その“立ち位置”によるバランス感覚そのものだ。