169.中島監督の「下妻物語」本作「嫌われ松子の一生」は
映画にCM的な手法を取り入れるというそういった次元ではなく、
CM的な表現法の積み重ねで映画をつくろうとします。
そういった中島流演出法の極地が本作だと私は思います。
何故なら誰かの不幸を、これほどまでに楽しく描ききってみせたのだから。
それが出来る人は中島監督をおいて他にはいないでしょう。
それは不幸のどん底で半ば廃人になっている松子。
本作はこのどうしようもない主人公を2時間かけて売り込むという
正にCM、コマーシャルだと思うからです。
ここからは例え話
不謹慎ではありますが
本作の登場人物
中谷美紀演じる川尻松子を売り込みたい「商品」
瑛太演じる川尻笙を「客」
と仮定します。
まずこの松子という欠陥商品。
売り込む為にはどうしたら良いでしょうか?
①商品(松子)の魅力に客観性を持たせる
世間では物を売りたいとき、時に体験者談が大きな意味を持つことがあります。
それは社内の人物ではない利害関係のない他人の発言だからこそ信頼できるものであります。
本作序盤から終盤まで決して松子は人生の殆どを客観的に観ると「不幸」な生活を送ります。
嘘、人殺し、廃人・・・ただそんな松子が魅力的に写るのは上の考えと同じ事がいえます。
物語上に登場する龍洋一、沢村めぐみが正に本作での客観視点での体験者で、
とにかくこの2人が松子の魅力を語りまくる事で、客(笙と観客)は最終的には松子の魅力に気付かさるのです。
②セリフにキャッチコピーを持たせる+α
物を売るCMには必ずといっていい程気の利いたキャッチコピーが設けられます。
本作の会話劇、物語の展開を観てみた時に不思議なことに気付かされます。
本作の物語進行は大筋
①松子の人生談の解説→②客観視点での体験者の気の利いた一言→③笙のドライな発言orギャグ
という流れでループしているようにも感じるのです。
つまりここでは松子のキャッチコピーを体験者が言い、
それに対して直ぐには信用しない観客の心情を
瑛太演じる笙が代弁しているのです。
なので本作を拝見していると変な登場人物ばかりの中、
笙だけが話が分かりそうな奴に思えてしまう事こそ本作の狙いなのでしょう。
笙が松子の魅力を感じる頃、
同時に観客も松子を好きにならずにはいられないのです。