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プロフィール
コメント数 407
性別 男性
ホームページ http://onomichi.exblog.jp/
年齢 55歳
自己紹介 作品を観ることは個人的な体験ですが、それをレビューし、文章にすることには普遍さを求めようと思っています。但し、作品を悪し様にすることはしません。作品に対しては、その恣意性の中から多様性を汲み取るようにし、常に中立であり、素直でありたいと思っています。

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1.  八月の鯨 《ネタバレ》 
「人生の半分はトラブルで、あと半分はそれを乗り越えるためにある」。この台詞がこの映画の名言としてよく取り上げられる。しかし、この台詞を吐くのは主人公の二人ではなく、二人の幼馴染みである老婦人ティシャ。彼女が会話の中でサラッと言うので、名言と知られているわりに、正直、あまり印象に残らない。ティシャと共に饒舌なのは、老紳士ミスター・マラノフ。彼も人生訓のような台詞を沢山吐くが、こちらも同様にその饒舌さ故にあまり印象に残らない。  リリアン・ギッシュ。当時、御年93歳。彼女は、姉役のベティ・デイヴィス(当時、御年79歳)から常にBusy、Busyと揶揄される。生真面目で、働き者で、常に忙しく動き回っていて、教訓めいた言葉、人生を悟ったような言葉を一切吐かない。盲目で気難しい姉に寄り添い、彼女の世話をする。死んだ伴侶との46回目の結婚記念日を静かに一人祝う。隣人たちに気を遣い、彼らの話をよく聞いてあげる。姉は妹の気丈な思いを感じて言葉に出来ない感謝を抱く。サマーハウスに新しい大きな窓を付ける決断をする。そして、八月の鯨を只管に待つ。  この映画の名言は、実は語られることのない彼女達の心の有り様。その奥深さ、とても言葉にできない静謐な生の佇まいの中にこそある。カメラはそんな彼女達が連れ立ってゆっくりと歩く、その握り合う手、歩調を合わせる足元を映す。エンディングの音楽も、彼女達が岬に佇むラストシーンの美しさ、その老齢な生の勁さを感じるが故に心に残った。
[インターネット(字幕)] 9点(2024-06-19 00:36:07)★《新規》★
2.  バタフライ・エフェクト/劇場公開版 《ネタバレ》 
この映画の最も秀逸な点は、ラストシーンにある。主人公は、彼女と出会わない世界をあえて選択し、その世界が彼女にとっての最も理想的な人生であることを確信する。彼にとっては、彼女を愛するが故の究極の選択である。数年後、彼は、都会の雑踏の中で彼女らしき人物とすれ違う。彼と彼女は、失われた記憶の中にお互いを認め、微かなときめきを覚える。ある種の既視感(デジャブ)が二人を捉える。  このラストシーンは、村上春樹の短編小説『4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて』(以下、『100%の女の子』)に似ている。 その後、彼と彼女は再びめぐり逢い、付き合い始めることになるのであろうか? 『100%の女の子』は、結局のところ二人がお互いを認識できずにすれ違い、行き過ぎる場面で終わる。『バタフライ・エフェクト』も同様であろうか。 僕の答えは、『100%の女の子』の二人がその後運命的に出逢う可能性があるのに対し、『バタフライ・エフェクト』の二人にはその可能性がない、である。その違いこそが「宿命」であり、「運命」の由来である。ときめきは失われた記憶から立ち上がり、事実として思い出された瞬間に押し止められてしまうのだ。  「失われた記憶」と「運命」と言えば、思い出す映画がありますよね。そう『エターナル・サンシャイン』! 記憶が失われて、二人は運命的に出会う。  「失われた記憶」こそが「運命」の由来。映画は、その出自を辿る物語。そう考えれば、彼と彼女が出会った時、二人の記憶をよぎる微かな瞬き(第一印象で「ビビビっ」とくるアレですな)、「第一印象で決めました」というのは、実に有意なのだ。失われた記憶の幻影(の可能性)故に二人は惹かれあうのだから。 運命とか宿命とかいう言葉は、科学的に説明不可能な概念である。もしそれが実際的な由来として現実的に有り得るのだとすれば、それは『エターナル・サンシャイン』や『バタフライ・エフェクト』のような物語として構築化され得るのではないだろうか。それが現実的であるかどうかは別にして、そういうアイディアは物語としてすごく有意だし、僕なんかは可能性に満ちた想像力を掻き立てられて、ちょっとドキドキして、そこはかとなく楽しい。  そう思いませんか?
[DVD(字幕)] 8点(2011-11-27 22:21:28)
3.  バーレスク 《ネタバレ》 
近年公開された現代風のミュージカル映画といえば、『シカゴ』や『ドリーム・ガールズ』、『ムーラン・ルージュ』などが思い浮ぶ。映画とミュージカルがうまく融合していて、それぞれに良く出来た作品である。特に、歌や踊りで登場人物達の心情を表現することで、通常唐突に思えるようなミュージカルシーンを場面展開の流れによくフィットさせ、ミュージカルだからこその深みや面白さを映画に取り入れることに成功していたと思う。 それに比べてしまえば、『バーレスク』は、とてもミュージカル映画と言えるようなシロモノではないように思える。まぁそういう路線を狙っているのではないのかもしれないけど、唯一、シェールがソロで歌うシーンのみ、前述の作品に比肩するミュージカルっぽさがあったかなと。  僕は、クリスティーナ・アギレラというシンガーをよく知らなかった。『シャイン・ア・ライト』でミック・ジャガーと一緒に歌っていた女の子、と言われれば、ああそうかと思う程度。確かに歌は上手いし、可愛らしいとも思うけど、映画としてみれば、ただそれだけのものとも思える。  凡庸な恋愛映画のフォーマットにクリスティーナ・アギレラとシェールを中心にした歌と踊りのステージを盛り込んだ作品。もし、そのプラス・アルファが作品としてのサムシング・エルスとなっていれば話は別だけど、実際のところ、この映画は、ストーリーの凡庸さに引きずられて、ステージシーンの良さが映画として生かしきれていない。最終的に映画として胸をつくような感動がない。それがこの映画の全てと言ってしまえばそれまでか。。。
[映画館(字幕)] 7点(2011-01-17 22:13:00)
4.  ハンナとその姉妹 《ネタバレ》 
『ハンナとその姉妹』は、ウディ・アレンの集大成的な映画だと思う。彼の哲学が詰まった作品。これまでのウディ中心の恋愛劇から群像的な方向が打ち出され、以後のスタイルの原型ともなった作品。各人の会話と心理描写が錯綜し、演者の表情や背景/風景が物語に奥行きを与えている。話は、ウディ特有の惚れたの腫れたのという単純な恋愛劇なのだけど、それと並行して、彼自身の生来の問題意識でもある「SEXと死」というテーマが扱われている。ウディ演じるテレビのディレクターが「死」という観念に囚われ、仕事を辞め、宗教に嵌り、最後にそれを乗り越えていく様子とマイケル・ケイン達のプリミティブな恋愛ゲームとの対比の中で、何故ウディ・アレンが映画の中でそこまで恋愛に拘るのかがじんわりと分かってくるのである。  ウディ・アレンは、恋愛をその出会いから成就までという従来のサイクルでは考えない。彼はその終わりと終わりからの始まりを描くことで恋愛の本質、「今、この瞬間の思いを大切にすること」を表現する。「今、現在」は過去の思い出や未来の不安の断片を常に含む、思いがけず、また思い込むことで連続していく様々な瞬間の蓄積としてある。他人同士が分かりあい、そしてすれ違い、我慢し合い、深く知り合う。恋愛がそういう蓄積としてあるならば、それは常に波のように揺れ動くものであり、ある振幅で瞬間的に壊れる可能性もある。あらゆる瞬間の可能性の中で人生という喜悲劇があり、恋愛というものがある。人生という波を微分的に捉え、そこに本質を見出し、それを味わうこと。そういう意志を自然のものとして感じる。  ウディ・アレン映画は、その総体、ひとつのシリーズとして評価することができる。こんな作家は今では他にいないだろう。『アニー・ホール』があり、『マンハッタン』があり、『ハンナとその姉妹』があり、『夫たち妻たち』があり、『重罪と軽罪』があり、『世界中がアイ・ラブ・ユー』があり、、、ウディ・アレンは年をとる毎に彼の「今、現在」を撮り続けることによって人生を表現していると言えよう。
[映画館(邦画)] 10点(2010-06-13 21:06:30)
5.  パフューム/ある人殺しの物語 《ネタバレ》 
この物語、副題には『ある人殺しの物語』とあるが、実はそこに「物語」がない。主人公は匂いをもたない人間であり、それは同時に自己が希薄で「こころ」がないことを示す。故に、彼には自分のための物語、自己と他者を繋ぐ物語が一切ない。映画は、主人公が次々と殺人を犯していくのと同時に、13人目の被害者となる女性の日常をも映し、その接点ともいうべき二人の邂逅の過程をドラマチックに描いていくが、その邂逅自体のドラマ性をあっさりと否定してみせる。  では、彼は何を目指していたのだろうか?彼は世界を動かしてみせる。その現実性うんぬんは別にして、非物語的で即物的な「パフューム」によって人心を把握する(「愛情」ともいうべき)幻想を顕現してみせるのである。 彼は「パフューム」によって世界を動かすが、最終的にそれを受け入れることができない自分を発見するに至る。それこそがこの映画の救いなのであろうか。しかし、主人公が群集を前にして流す「涙」に僕は全くと言っていいほどリアリティを感じなかった。僕らの世は無知にあえぐ18世紀のパリではない。情報過多の21世紀の日本である。同じような非物語で貫かれた世界でありながら、そのバックグラウンドとなるべき現実感には決定的な違いがあるような気がした。 主人公が流す涙のリアリティをそれを誰もが理解しないという現代性に通じる現実によって否定してみせる。もし、そうであれば、僕はこの映画のすごさを感じるが、その辺りの意図はよく分からない。いずれにしろ、そういった構造分析的な意匠では僕らの「こころ」を響かすことができないことだけは確かである。  最近、東浩紀の『ゲーム的リアリズムの誕生』という本を読んで、同じように「どんより」とした気持ちになったが、彼が提唱する「物語の死」とか「物語の衰退」と呼ばれるポストモダン的な状況やデータベース化した環境下での新しいコミュニケーション社会とそれを前提とせざるを得ない新しい批評体系というのはとても理解できるが、そこには全くと言っていいほど、「こころ」に響くものがない。 この「どんより」感はもう自明であり、仕方のないものなのかもしれないが、僕らはいつかその「どんより」感の中でもゲーム的リアリズムによって「こころ」をふるわせる日がくるのであろうか。そういうことを想起すると、また「どんより」としてくる。。。 
[映画館(字幕)] 7点(2007-04-20 22:55:10)
6.  ハンバーガー・ヒル
当時、「プラトーン」「ハンバーガーヒル」「フルメタルジャケット」とベトナムものが立て続けに上映され、僕らは仲間内でどれが一番気に入ったかを言い合ったものである。ちなみに僕はハンバーガー派であった。 ベトナム戦争は、アメリカの国家的戦争であり、アメリカ軍の戦争従事者にとっての敵はアメリカの敵である。つまり、彼らが自らの死を意識した時、それは「国家に対する死」ということになる。僕らは単純にそれをこう言いかえることができる。僕は国の為に死ぬことができるのだろうか、殺すことができるのだろうか、と。 僕が当時、「ハンバーガーヒル」を最も評価したのは、この単純な問いこそが作品のテーマであった点である。 日本が国を賭して戦い、国民が国民として国の為の死というものを初めて意識し始めたのは日露戦争の頃からだろう。ハンバーガーヒルの激戦は、僕にあの二百三高地を思い出させた。ただ国の利害の為に、戦略的高地を奪う為に、命令されるがままに、自らの狂気と引き替えにして命を落とした多くの若者達の煩悶が僕には聞こえてきたのだ。 昨今、日本にも微温的なナショナリズムが叫ばれているように感じるが、僕らにとって、そのナショナリズムの基盤とは一体何だろうか? 日本とは? 国家とは? 自由とは?  日常とは? これらの原理を理解した上で国民国家というものを考えた時、僕らは「国の為に死ぬことができるか?」という問いに出会わざるを得ない。<日本が軍隊を持つことはこういうことだろう。> ハンバーガーヒルも二百三高地も単なる歴史絵巻ではないと考えたい。
8点(2004-09-04 00:36:11)(良:1票)
7.  バッファロー'66
ヴィンセント・ギャロは、自らの腐っていく弱さと自閉していくイノセンスをギリギリのラインで救済して見せたのだと思う。この映画を「主人公にとって都合の良すぎる展開だ」ということで責めるのはちょっと違う。それはその展開こそが映画の方法論だからだ。この映画が指し示す「愛情」というテーマには切実に納得させられた。心底共感したと言うと僕もダメ人間ということになるのかな? まぁそれはいいけどね。ビリーにとってレイラが確かな存在として捉えられる、その弱さを包含したからこそ了解される「愛情」がビリーを破滅から救うことになる。ビリーというとてつもなくか弱いキャラクターをギリギリまで粗暴に扱っておいて、最終的にレイラへの「愛情」という装置に吸収してしまう方法は、一見するとなんの変哲もない物語に思われるかもしれない。ただ、僕にはその弱さの自明的な崩壊がギリギリのところで救われるというか、1周ひっくり返ってやっぱり救われる、崩壊への暴力と広範囲な救済をない交ぜにするような「愛情」という風呂敷でスッポリと包み込んで救われる、というような微妙に違和感のあるラインがとても新鮮だったのだ。ギャロが最後のシーンで描きたかったのは、個から愛への広範囲なひっくり返しの救済というイメージだったのだろうと思う。確かにイメージへの意識が強すぎて、展開が唐突な感じがしないでもない。レイラの母性を強調しすぎる点もちょっとひっかかる。しかし、今の世の中で成熟を永遠に放棄した人間たちがその内包している弱さを開放する方法など全くないのが現実なのだ。ギャロはそれをどうだと言わんばかりに開放してみせた。そこには人間の成長物語など初めから存在していないことに留意してほしい。人間の弱さこそ優しさの源泉だと僕は思う。しかし、それは腐っていくものだ。そして、それは絶対的な強さに転換などしない。僕らはそれをただ抱えていくのみで、そのことは人間の成長とは全く関係のないことだ。敢えて言えば、損なわれつつある人間が絶対的な個という「強さ」を放棄することによって回復していく、そういう可能性の物語なのだといえるのではないか。
9点(2004-05-19 01:25:36)(良:3票)
8.  ハンニバル(2001)
「ブレードランナー」のラストシーンは原作を超えていた。リドリー・スコットは、ラストシーンでルトガー・ハウアーの美しき死に様を見事なまでに演出してみせたが、本作での新たな解釈を持ち込んだラストシーンは、果たしてどうであったか? 僕は、はっきり言って納得できない。「ブレードランナー」が原作のモチーフを十分に理解した上で、レプリカントの悲哀と自尊心という「人間らしさ」を新たな軸に加えて作品を原作から悠々と昇華させてみせたのに対し、「ハンニバル」の原作ぶち壊しの甘ちゃんラストは、、、ま、まったくなんてことだ! ハンニバル・レクターこそ、意識を自由自在に操る「超人」であり、「人間らしさ」を超えてしまったが故に、ある意味で悲哀を備えたレプリカント以上にレプリカント的人物として捉えられるべきではなかったか。それこそリドリー・スコットお得意の分野のはずだ。なのに。。。「ハンニバル」は言うまでもなくレクター博士の物語である。原作では、レクター登場から3作目にして、レクター自身の独白や過去の物語がようやくと語られる。特に彼自身が経験したトンでもなく残酷な出来事を通じて、彼が既に人間という枠を見事に超えてしまったことが僕らに伝えられるのである。それは映画では語られない。そのことは別にいい。原作は長いし、映画に原作そのものをすべて詰め込むことはできない。ただ、レクター自身が、映画で見られるようなあんなラストシーンに掴まされるような人格では決してないということを分かっているのだろうか。(あの手錠のシーンです。。。) そして、クラリスもレクターと同種であるのなら、あんなラストを導くようなことはしないはずなのではないのか。原作のあの2人して人間界から飛翔する驚愕のラストシーンは何だったのか。凡百のサスペンスドラマのような結末は、途中までが良かっただけにかなり興ざめである。やっぱり、ここでもハリウッドスタイルの万人向けの座りの良い結末志向が顔を見せているのだろうか。小説「ハンニバル」が哲人ニーチェの思想をベースにした「超人」物語であることをリドリー・スコットが理解していないはずはないのだが。まったく不可解である。
7点(2003-11-08 18:52:32)(良:1票)
9.  バック・トゥ・ザ・フューチャー
映画館で観たのは高校生の頃かな。スリルがあって面白い映画だとは思うけど、それだけじゃん。。。なんて書くと、映画は娯楽でしょ!楽しければいいじゃん!って声が聞こえてきそうだ。でも、なんというか、映画の見方は人それぞれっていうけど、「不朽の名作」だとか「最高のSF映画」だとか、こんなに高い評価が並ぶのには本当にびっくり。そんなものなのかな。<まぁ「普及の名作」だとは思うけど、これがサイエンスフィクションかと言われると首をひねっちゃうな> 
7点(2003-10-25 12:54:04)(良:1票)
10.  背信の日々
とても恐い映画。ラストシーンには胸がつぶれます。
9点(2002-06-10 01:09:29)
11.  ハイ・フィデリティ
最高に面白い映画!ジョンキューザックの独白ショーに惹きつけられっぱなしでしたね。僕も32歳のベストヒットUSA世代で自称洋楽マニア<特に60-70年代>なので、論評と共に出てくる曲やアルバムのタイトル、ミュージシャン名にはいちいち頷くものがありました。これは洋楽好きじゃないと理解できないかもしれないなぁ、なんて思いながら観てましたけど、こういう<マニアックな>閉鎖空間を全く否定していないところがとてもGOODです。キューザックは人間性じゃなくて、趣味が重要だって言っているけど、それは冒頭のMiserableとMusicがどっちが先かの議論も同じで、趣味<音楽>への固執がある意味で自己の人間性の理解を含んでいて、それを従えた新しい関係性<他者との関係性>こそが生きていく縁<よすが>になり得るというように僕には理解されました。この映画のハッピーエンドはそのことの提示であり、新しいマニュフェストだといったら言いすぎかな。それにしても、ラストの「Let's get it on」はよかったですねぇ。フリアーズとキューザックの遊び心とともに音楽への深い愛情を感じて、妙に感動してしまいました。まさか、こんな隠し玉があったとはね。。。
10点(2002-06-09 18:59:24)
12.  初体験/リッジモント・ハイ
80年代がダサい時代であったのは全くもって正しい。映画も音楽もどうしようもないものが多かったのは確か。僕が青春時代を過ごした当時でさえそう思ってましたよ。でもダサさを排除した90年以降は、そのダサさが内包していた空虚さ自体をも排除してしまい、ある意味で洗練されすぎてしまったという感覚があるのはどう評価したらいいのかな? そこで失われてしまったのは「喪失」の感覚そのものだと思うんだけど、まぁこれはこの映画の話とは全く関係ないか。さて、僕はジェニファージェイソンリーの大ファンなのでこの映画にはとても満足しました。ストーリーは殆ど覚えてないけど、いまだに彼女の白い裸体が目に付いて離れないんだな。。。
7点(2002-06-02 01:00:13)(良:1票)
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