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onomichiさんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 407
性別 男性
ホームページ http://onomichi.exblog.jp/
年齢 55歳
自己紹介 作品を観ることは個人的な体験ですが、それをレビューし、文章にすることには普遍さを求めようと思っています。但し、作品を悪し様にすることはしません。作品に対しては、その恣意性の中から多様性を汲み取るようにし、常に中立であり、素直でありたいと思っています。

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81.  ボウリング・フォー・コロンバイン
なかなか面白かったとは思う。アメリカの銃社会が白人のインディアンや黒人に対する自己防衛という脅迫観念から発したものであり、その脅迫観念は、境遇が変わった今でも形を変えてマスコミによって煽情的に流布され続けている。脅迫観念は常に外敵を作り出さずにはいられない。銃による犯罪は、その脅迫観念により常にアメリカ白人の重要な関心事となり、その銃犯罪の誇大報道そのものが自己防衛としての銃社会を国家的に認知していく、と同時に銃犯罪そのものを助長している。。。なるほど、まさにその通りかもしれない。ムーア氏の解釈はなかなか的を得ているように思える。この映画のタイトルでもあるコロンバインでの銃乱射事件の背景にあるのは、確かに彼の言うようなアメリカの銃社会という制度的(潜在的)な問題と利害を含んだマスコミのプロパガンダによるものなのかもしれない。ただ、それを理解した上で問いたい。何故、彼らは自分達の同級生に銃を向けなければならなかったのか? ムーア氏が銃犯罪の少ない国として賞賛する日本(銃携帯が認められないから当たり前か)でも子供同士の殺人事件が最近起こった。日本のマスコミは、事件の背景としてインターネットやお受験の弊害について論うのみで、動機は常に「心の闇」という言葉に帰着させているように思えた<それは15年前から先に進んでいない>。確かにそこから導き出されるディスコミュニケーションや疎外感の問題にある種の正当性はあるのだろう。その正当性を信じたいがために、また理由の見当たらない宙吊りの状態に耐えがたいがためにそこへ誰もが理解できる物語を当てはめたくなるのである。僕はそこに違和感を感じる。彼らの物語はもっと歪んでいるのだ。その歪みを正すのは、彼ら自身の生の原理を捉えた彼ら自身の物語しかないのではないか。 ムーア氏はコロンバインの殺人者達が事件の直前にボウリングをしていたことに言及していたが、それは彼らの歪んだ生の原理が垣間見える瞬間ではなかったか。ムーア氏は言及しただけで追及しなかったボウリングを禁止したからといってコロンバインの問題がすっかり解決する<彼らの歪んだ生が癒される>はずがないということは言うまでもないが。
8点(2004-09-04 00:32:33)
82.  アメリカン・ビューティー
主人公が取り戻そうとしたのは、自身の「青春」である。彼が会社を辞めてフリーターになり、娘の友達に魅せられて肉体を改造し、マリファナを吸ってロックを絶叫するのは、自らの青春への信とその回帰の意志からくるものであろう。この映画は、そんな青春に象徴される精神の自由とか、利己主義とか、社会に対する無責任さなどというものに対する無邪気な信頼を描いたものなのだろうか。  きっかけは、主人公を襲う妄想であった。現代的妄想とは、現実によって侵食された内面からの末期の悲鳴である。そしてそれは現実/世界を超越する意志という失われた原初的思念の新たな発現になり得るのである。 この物語のもう一方の主人公は隣人の若者であろう。彼の存在によって、ケビン・スペイシーの無邪気さは相対化されていると感じた。彼の現実は最初から不透明である。そこには回帰すべき青春への信などというものは既にない。しかし、彼とケビン・スペイシーはまるでコインの裏と表のような存在であるようだ。彼らが同じ世界を生きている以上に共有している思念を感じるのだ。それこそがこの映画のモチーフである「生きていくことへの信」だろう。そのモチーフに繋がる若者の動機が少し弱いかもしれないが、ある意味でそこにこそ「青春」というタームを超えたこの物語の新たな可能性を見たような気がする。
9点(2004-08-27 23:37:02)(良:1票)
83.  ゴッドファーザー・サガ<TVM>
「ゴッドファーザー・PART1」と「PART2」を年代順に並べなおした「ゴッドファーザー・サガ」。テレビの深夜劇場で4週連続2時間づつ放映していたのを眠い目をこすって観続けたのは、僕が高校生の頃だった。少年ビドーがコルレオーネ島から逃げるところに始まって、アメリカのイタリア移民社会での貧しい暮らしぶりやその中で暴力によってのし上がっていくところの淡々としていながらも叙情的な映像、ドラマティックで緊張感溢れる殺戮シーンと若きデニーロの哀愁と野望を秘めた表情、その精悍な立ち回り、時折発っするセリフから漂う掠れた雰囲気などなど、初回にしてぐぐぐいっーと惹き込まれたものだった。その後のブランドやパチーノの登場、とくにパチーノの挫折や成功の具現者としての憎悪と苦悩の歴史から、忘れがたい胸を締め付けられるようなラストシーンに至るまで、全てに通底した「呪縛の歴史」には圧倒されたと言う以外に言葉がない。でも、このコッポラ作品には、<その後の大傑作「地獄の黙示録」にも通じるが>歴史大作であるとともに、ニューシネマ的な青さ、もどかしさが僕にとって大きな魅力なのである。デニーロやパチーノのようなニューヒーロー達の若々しい存在感は、その「もどかしさ」の体現者として、僕らの胸をしめつける。この物語は、ファミリーの血の結束をテーマとしながらも、魂の孤独へのアンビバレンツな感情、呪うが故に救われる、その絶対的な孤独への呪縛を描いていると言えないだろうか。「この世界は永遠に家庭とは相容れぬ。破滅か、しからずんば。。。世に孤独ほど憎むべき悪魔はいないけれども、かくのごとく絶対にして、かくのごとく厳たる存在もまたすくない」-坂口安吾の青春論より-
10点(2004-08-24 01:24:28)
84.  ロスト・ハイウェイ
内面と現実の境界、それは人と世界の境界でもある。人は世界を構築する毎に必然的に人と世界の境界たる壁をも同時に構築してきた。しかし、今の時代<無精神の時代>、気がつけば壁は消失し、人は世界という波に無防備に侵食されつつある。つまり、内面と現実の境界が消失して侵食されたのは人の心的世界であり、これが内面の喪失と呼ばれる現代的な主体の変容なのである。侵食された人の心はその少ない領域の中で末期の悲鳴を上げるだろう。そこに立ちのぼるのが現代的な妄想であるのだ。リンチは映画がそんな人(作家)の妄想そのものが作り上げる世界であること、そのことを明確に主張しているように思える。妄想から浮かび上がる人間的なリアリティという面においては、最新作の「マルホランド・ドライブ」に譲るが、本作「ロスト・ハイウェイ」は、ひたすら人間理性の森の中で道を見失った主人公の姿を追うことにより、追い詰められた狂気の静謐さを見事に描いていく。「ロスト・ハイウェイ」という場所、そこが妄想の源泉であり、同時にそれは現実/世界を超え出でる「力への意志」という失われた原初的思念の新たな発現なのかもしれない。
9点(2004-08-21 00:00:24)
85.  アマデウス
モーツアルトは<神の子>である。神の子として、その天賦の才をもってしても人間である限りにおいて生きるという現実は単純ではなく、彼が苦悩と怖れを抱えて人生を生き、死んだことはよく知られている。モーツアルトを一人の人間として捉えるドラマというのもひとつの観点として興味深いものであるが、実際、その試みはイエス・キリストを主人公とするのと同じように難しいだろう。とはいえ、この映画を天才モーツアルトに対峙する凡庸の人サリエリの物語と考えるのはちょっと違う。サリエリがモーツアルトの音楽についての真の理解者であり、この映画をサリエリという自意識の鏡を通したひとつのモーツアルト像として捉えるのがやはり一番しっくりくるのである。やはり、主役はモーツアルトであり、モーツアルトの神性、人間性をサリエリという自意識を通して語ることによって、僕らは僕らの中の無限のかけがえのなさを語りえるのではないか、というのが僕の<文学的な>捉え方である。 モーツアルトの音楽を語る時、アポロン的な伝統音楽の高度な模倣の上にディオニュソス的な情熱、官能のエッセンスを見出すことが重要である。さらに生と死を行き交う精霊の如く、まさにデモーニッシュな一面により生み落された名作「レクイエム」に至っては、彼が神の子の苦悩を人間的な深みによって表現し得たことを示している。それをモーツアルトのモノローグによって語ることは不可能である。この映画では、サリエリという媒介を通じて、僕らはモーツアルトの心性を知るのである。 サリエリのモーツアルトに対する歓喜、恍惚、忘我、嫉妬、憎悪、愛情を僕らは理解する。芸術とは、神の言葉、御業かもしれないが、それはあくまで人間によって生み落されるものだ。人間という理性の森を通してしか、それは具現化されない。それがモーツアルトの作品であり、サリエリという自意識を通した時、それは僕らに人間的なドラマ<現代的な神話>を提供するのである。
10点(2004-08-15 23:15:59)(良:1票)
86.  アメリカン・ヒストリーX
歴史とは個々人の心の在り様の集大成としてある。世界の至るところで人々が憎しみを連鎖させ、負の歴史はつくられていくのだ。そこに出口はないのだろうか? この映画は改めてその可能性を信じることの困難さを見せつける。無邪気な救いは無慈悲に閉ざされ、どうしようもない救われなさだけが残るラストシーン。 お互いが分かり合える足場を失った状態でも、人が人を理解する希望を失わないこと、その為に僕らは如何したらいいのか? そもそもそういった方法論は有り得るものなのか? 僕らは昨今のイラク情勢により、憎しみの連鎖というものが如何に根の深い問題かを知っている。その救われなさは既に自明なのだ。その先の道筋へ、仄かな希望の光を見出すこと、そんな作品としての方法論に現実性があるのかどうか。今こそ確信的なコミットメントへの志向を期待したいものである。 「もしあなたの人生が、それほど筋のとおった理由もないのに、どこかの誰かの人生とからみあってきたら、その人はおそらくあなたのカラースの一員だろう。人はチェス盤をつくり、神はカラースをつくった。」(カラースとは、民族や制度や階級などに全くとらわれない、神の御心を行うためのチームのことである)~カート・ヴォネガット・ジュニア『猫のゆりかご』 ボコノン教教義より~  Peace!
9点(2004-08-13 01:09:09)
87.  恋愛小説家
ジャック・ニコルソン、変わった男である。極度の神経症とも思える、潔癖症、離人症、他人を平気で傷つける毒舌家、誰もがお近づきになりたくないであろう、正に偏屈オヤジ。でも、よく考えてみたら、これらの症状というのはすべて、青春時代に僕らが囚われる、あの自意識の過剰さに由来する心の在り様そのもの、その極端な症例ではないだろうか。ある意味で永遠に大人になりきれない男。恋愛小説を描くことを生業としながら、恋愛のできない男。恋愛に人一倍の憧れを抱きながら、自分を傷つけたくないばかりになかなか踏み込めない、過剰な自意識のせいで日常的な幸せの価値を見出せない不幸な男。 そんなジャック・ニコルソンが選んだのが、はすっぱな感じではあるけど、生活感に溢れる力強い母親、それでいて自分の可愛らしさを素直に表現できる女性、ヘレン・ハントだというのはすごく分かるような気がする。 この「恋愛小説家」という映画、僕にはこう思える。恋愛への過剰な憧憬を捨て、現実的な愛情生活に目覚めた中年恋愛小説家の転向、その滑稽さと清清しさ。実はものすごく共感してたりなんかして。。。 
9点(2004-08-12 21:52:14)
88.  ラスト サムライ
中途半端な印象は拭えませんね。確かに「ダンス・ウィズ・ウルブス」のサムライ版ってところでしょう。武士道などというものをハリウッドが表現できるとは到底思えなかったけれど、そもそもそれを日本人自身が理解していない限り、その評価も推して知るべしです。まぁいろいろと書かれているようにあまりその辺りのことを意識せずに架空的日本国を舞台にした日本人とアメリカ人との「愛と友情物語」として見れば、なんのことはない、従来のハリウッドスタイルそのものなのですね。「サムライ」や「インディアン」というタームは、反近代的なモチーフ、傍流の歴史を理解する為に選ばれてはいるけど、最終的にはアメリカイズムという個人主義にすっかりと回収されてしまっているように僕には思えました。 僕自身が武士道というものをよく理解している訳じゃないけど、武士道って江戸時代の一部の武士階級にとっての特権的な観念であって、ああいう戦国時代のような戦士や半農民的な足軽たちにとっては、日常的に不要の観念だったのではないかな。平和な時代だったからこそ、自らを律する為の観念が必要とされたのです。それに武士道自体を本当に尊ぶようになったのは明治初期でそれも一部の人々の間でしかないでしょう。あと利用されたという意味では太平洋戦争の頃ですか。「葉隠」なんて江戸時代でも多くの人たちはその存在すら知らないわけで、それを日本人全体の精神性かのように捉えるのはそもそも間違い。実際、日本人のすべてがサムライの息子ではないのだからね。 まぁそれはそれとして、ストーリー的にも僕にはあまりぐっとくるものがなかったなぁ。途中で三島由紀夫の描いた「神風連史話」(「奔馬」)が頭をよぎったけど、あの決起と自死の顛末に描かれたものこそ日本人が武士道的なものとして憧れるperfectな精神性ではないかな。その静謐さをハリウッドで描くことは不可能でしょう。
6点(2004-08-12 20:32:08)
89.  アルマゲドン(1998)
大好きな映画です。奇想天外、荒唐無稽、空前絶後の暴発的ストーリー展開にはかなり興奮しましたし、ブルースウィリスの超人的行動や献身的な最後にも晴やかさと潔さを感じましたよ。この映画に対して多くの言葉は要らないでしょう。最高です。
10点(2004-08-12 20:25:58)
90.  華麗なるギャツビー(1974)
ギャツビーもニックもちょいとイメージが違うのだが、、、原作のギャツビーは何やら怪しげな素性ながら実は純粋で誠実な人間であり、そのことが田舎インテリで若気を残すニックに感銘を与えるのである。ギャツビーの素性の如何わしさ、成り上がりものとしての存在感、上流階級に馴染めない率直さなど、レッドフォードのお坊ちゃん的雰囲気とはあまりにも対極にあるような気がする。ニックについても同様。ニックは語り部らしい機転のきくスマートな皮肉屋であるはずなのに、画面で見る人物は単なる田舎青年にしか見えない。つまり人物設定がかなり平板な印象を拭えないのである。それでも、若きレッドフォードはそれなりに魅せる人物ではあるようだ。確かに華麗である。でも、本来ギャツビーは華麗ではない。ギャツビーは価値判断の間違った無為な破滅志向に囚われる純朴さの象徴であり、それが偉大なのだ。ギャツビーの破滅がこの作品の主題であるとともに、ニックにしてギャツビーを偉大だと思わせる、その破滅も含めて忘れえぬ印象がニックを成長に導く物語でもある。その辺りの描写はかなり薄く、あの当時の時代的雰囲気を忠実に再現した小説のダイジェスト版と言われてしまうのも分かるような気がする。なかなか映画化は難しいものだ。
7点(2004-07-04 23:59:20)(良:1票)
91.  ブラック・レイン
「ブラックレイン」に対する僕の評価は、松田優作に尽きる。<僕みたいに>昔から松田優作が好きで、遊戯シリーズ等に思い入れがある人間でなくても、その圧倒的存在感にはおそらく痺れるのではないかとは思うが。この作品は、癌を患った彼が自らの病気を伏せて撮影に望み、病魔と闘いながらも魂魄の演技をし続けたことがエピソードとして伝えられる。結果的に彼の映画としての遺作となるこの作品で、日本人の役者がハリウッド映画で通用すること、それを自身の命を賭けた最後の仕事としたと言えるわけだ。そんな彼の想いを抜きにしてこの映画を観ることはできない。作品というのは、純粋な客体として絶対的に存在することは不可能だ、と僕は思っている。作品は、個人が観るという行為を通して初めて作品として個人に認識されるのであって、個人が観るという行為には、当然個人的な視点や歴史、或いは偏見が主観的に加わる。つまり作品とは常に鑑賞者と1対1の関係としてあり、評価というのはその関係性から立ちのぼる自身の思いとしてしか現われざるを得ないのである。「ブラックレイン」という作品には、松田優作という役者馬鹿の生き様がオーバーラップしており、そんな彼に対する感情を抜きにして作品を評価しなければならないということは原理的に不可能なのだ。僕はこの映画をストーリーや設定、演出や映像など、映画のあらゆる評価軸を越えて、松田優作の歴史そのものとして評価するのである。
9点(2004-07-04 21:59:31)
92.  情婦
アガサ・クリスティは、愛憎を絡めたミステリーに優れている。デビュー作「スタイルズ荘」や本作などはそういう意味で傑作の一つだろう。この作品の展開自体は、そんなアガサのミステリーをうまく再現しているように思える。しかし、この映画の本当の驚きはマレーネ・ディートリヒ、その人に尽きるのではないかな。彼女の演技には感銘以外の言葉が見つからない。
8点(2004-06-27 02:01:17)
93.  エルビス オン ステージ
エルビスが偉大なる復活を果たし、日本でも大ヒットした1970年のライブ記録映画。最近、僕の叔父さんが車で<オンステージ>のサントラ盤をかけながら、運転&熱唱していたのを横で見ていて、「なるほど、団塊の世代の叔父さんにとってもエルビスの歌が響くというのは、この<オンステージ>のせいなのだなぁ」と納得した。僕自身も、高校生の頃、テレビで<オンステージ>を観たときには、さすがに「エルビスすごいぞ!」と感銘し、さっそく図書館へエルビスのベスト盤テープを借りに行った記憶がある。ど派手なステージングも印象的ながら、あの甘い歌声から繰り出される極上のバラードソングには、男の僕でもかなり痺れるものがあった。単純にかっこいいのである。50年代中期から60年代にかけての若々しいロックンロールアイドルたるエルビスも印象的だが、やはり彼がスターとしてステージ上で最も輝き、その虚勢と苦悩をも全身全霊で見せ付けた孤高の<オンステージ>があってこそ、エルビスはエルビス足りえるのではないだろうか。(思い出してみれば、最近の映画で現れるエルビスの亡霊たちも皆この頃のエルビスではないか!日本のスターにしきのあきらも何かって言うとエルビス風の衣装を着ているしね。)彼の<オンステージ>はDVDで発売されている。もうこれは一家に一枚の世界だね。
10点(2004-06-25 02:03:48)
94.  ビッグ・フィッシュ
映画っていうのは所詮がホラ話なんですね。そりゃもう巧妙なホラ話。それをリアルに見せれば見せるほど人は満足したりするんです。不思議なことに。そうすると、「この映画は真実に迫っている!」なんて杓子定規な評価が出たりしまして、これは映画っちゅうものの成り立ちからしてそういう傾向があるから、仕方のないことなのかもしれませんけど。映画のジャンルを問わず、ドキュメンタリーであろうが何であろうが凡そ人が撮るものには必ず演出ってものが付いてまわるもんだし、言ってみりゃあ、それは思い込みとヤラセの世界ですよ。映画ってものはそもそもそういう了解のもとに観るべきものなんじゃないのかって僕は思うんですけどね。ホラ話だって、そこに夢や希望が感じられれば十分に幸せを与えられるんです。ということで、ティムバートンの「ビッグフィッシュ」っちゅう映画なんですけど、これが実に大らかでいい作品ですね。クソ面白くもないエピソードを延々と見せられてつまらんという評価もあるみたいですけど、あのつまらん(?)ディテールがラストに大団円となるところが「蒲田行進曲」的な映画愛だとしたら、僕がほんとに評価したいのは、そっちのつまらんディテールの方でして、あれこそがティムバートンなりのささやかな日常への賛歌なのだと思いますよ。映画もホラ話も、大風呂敷な夢や希望があるのはいいけど、それが日常に繋がる「誠実さ」もなくっちゃね。その観せ方には十分なリアリティがあったような気がしますよ、この映画は。実は親父も自分と同じ弱さを抱えたひとりの人間なんだって、この「自分が存在することの原理」みたいなものを認めなければ、本当の意味で自分が親父を赦し、自分を自分として認めることはできないんです。映画の中の息子と同様に、観ている僕たちが知らず知らずのうちにそのことを了解してしまう、そういう父子にとっての現実的な物語でもあるんです。
9点(2004-06-19 11:36:35)(良:1票)
95.  ショート・カッツ
傑作である。レイモンド・カーヴァーの小説作品といえば、日本では、村上春樹訳としてよく知られている。その村上春樹がカーヴァー作品について、「人間存在の有する本質的な孤独と、それが他者と関わりあおうとする際(あるいは他者とかかわりあうまいとする際)に生じる暴力性が重要なモチーフ」と解説しているように、カーヴァーは、その原初的な孤独と暴力性に常に囚われる下層労働者たちの荒涼とした悲哀を描く作家である。しかし、村上訳でカーヴァーに接する僕たちにその辺りのニュアンスを掴むのはなかなか難しい。村上訳から漂う軽妙な風がまさに都市的な悲哀を僕らに吹き込んでくるからである。個人的には、その悲哀の本質<弱さ>は変わらないと思うが、カーヴァー作品で描かれる下層労働者たちの絶対的な「どうしようもなさ」が圧倒的な存在感をもって僕らに伝わっているかと言えば、なかなかそうは捉えられないところがあるだろう。それに比べればアルトマンの描く「ショートカッツ」は実にカーヴァー的<原カーヴァー的>であると僕には感じられた。画面に漂うあまりにも明瞭な寒々しさ、絶対的な孤独を自明とした人々の生活とその荒涼感。映画としては、カーヴァーのいくつかの短編を繋ぎ合わせた構成となっていながら、そのエッセンスをうまく統合することにより、カーヴァー的世界を忠実に表現していたように思える。著名な役者たちも各々の無意識的な「ボロボロさ」加減をうまく演じていた。上空を旋回するヘリコプターが煽る硬質な不安感の中、最後の地震のシーンは人間の根源的な衝動、漠とした悪夢を見事に映し出す。僕は映画を観終わったあと、しばらく間、悪夢の続きの中をくらくらしたものだ。
10点(2004-06-10 00:47:32)
96.  コン・エアー
ダイ・ハード級の面白さ<アクション映画としては最大級の賛辞!>ですね。とにかく役者が揃いました。愚直な正義派マッチョマン、ニコラス・ケイジ。危険な香りをプンプンと撒き散らすインテリ系のボーン・トゥ・犯罪者、ジョン・マルコビッチ。最後まで訳が分からない変質者、ブシェーミ。とことんやさ男キャラ、ジョン・キューザック。このメンバーを見ただけでもうお腹いっぱいってところだけど、それぞれのキャラクターが妙に噛みあわずに空回りしている<誰もがみんな浮いている!>ところが、実に最高ですw。これはそういうキャラクター映画で、それを楽しめるかどうかがポイントではないかな。
8点(2004-06-10 00:46:28)
97.  ミッドナイトクロス
どこを取ってもデ・パルマ丸出しのデ・パルマ映画の中堅どころ。独特のカメラワークに、多用される画面分割、そして美しい音楽と奇妙に捩れたサスペンス・ストーリー。主演のトラボルタとナンシー・アレン<「キャリー」を引き継ぐアーパーカップル>も最高だけど、相変わらずの変質的殺人者ジョン・リスゴーもいい味を出しています。ラストはとても哀しい。美しきヒロインの死も、暴走する殺人者のあっけない死に様も共に哀しい。濃密な夢が終わるかのごとく、世の中は何事もなかったかのように日常を流れていく、ただ主人公の大きな喪失感と実録された悲鳴だけを残して。これはデ・パルマ版の「世界の中心で、愛をさけぶ」だ。かなり捻くれてはいるけど、やっぱりテーマは純愛物語なのだから。。。
9点(2004-06-05 00:52:00)(良:1票)
98.  バッファロー'66
ヴィンセント・ギャロは、自らの腐っていく弱さと自閉していくイノセンスをギリギリのラインで救済して見せたのだと思う。この映画を「主人公にとって都合の良すぎる展開だ」ということで責めるのはちょっと違う。それはその展開こそが映画の方法論だからだ。この映画が指し示す「愛情」というテーマには切実に納得させられた。心底共感したと言うと僕もダメ人間ということになるのかな? まぁそれはいいけどね。ビリーにとってレイラが確かな存在として捉えられる、その弱さを包含したからこそ了解される「愛情」がビリーを破滅から救うことになる。ビリーというとてつもなくか弱いキャラクターをギリギリまで粗暴に扱っておいて、最終的にレイラへの「愛情」という装置に吸収してしまう方法は、一見するとなんの変哲もない物語に思われるかもしれない。ただ、僕にはその弱さの自明的な崩壊がギリギリのところで救われるというか、1周ひっくり返ってやっぱり救われる、崩壊への暴力と広範囲な救済をない交ぜにするような「愛情」という風呂敷でスッポリと包み込んで救われる、というような微妙に違和感のあるラインがとても新鮮だったのだ。ギャロが最後のシーンで描きたかったのは、個から愛への広範囲なひっくり返しの救済というイメージだったのだろうと思う。確かにイメージへの意識が強すぎて、展開が唐突な感じがしないでもない。レイラの母性を強調しすぎる点もちょっとひっかかる。しかし、今の世の中で成熟を永遠に放棄した人間たちがその内包している弱さを開放する方法など全くないのが現実なのだ。ギャロはそれをどうだと言わんばかりに開放してみせた。そこには人間の成長物語など初めから存在していないことに留意してほしい。人間の弱さこそ優しさの源泉だと僕は思う。しかし、それは腐っていくものだ。そして、それは絶対的な強さに転換などしない。僕らはそれをただ抱えていくのみで、そのことは人間の成長とは全く関係のないことだ。敢えて言えば、損なわれつつある人間が絶対的な個という「強さ」を放棄することによって回復していく、そういう可能性の物語なのだといえるのではないか。
9点(2004-05-19 01:25:36)(良:3票)
99.  A.I.
「鉄腕アトム」には、成熟しない永遠の子供ロボットというモチーフがある。彼には元々家族が存在しなかった。<妹のウランはアトムが誕生日プレゼントにもらったものなのだ> 天馬博士からは成長しないことを理由に捨てられ、ロボットというだけで人間から疎外されながらも、愛情に飢え、逆に人類に対して無償の愛情を与え続ける、そういう存在がアトムの原型<原アトム>なのである。成熟の放棄は、人間のファンタジックな願望であるとともに人的異常さの象徴であり、心を持つアトムにとってそれは深い哀しみそのものだったのである。<「鉄腕アトム」の前身「アトム大使」では宇宙人から大人の顔をプレゼントされて終わるらしいが> というわけで、この「A.I.」という映画、「火の鳥」のウーピーやロビタ、永遠に生き続ける未来編の男、それらの物語群を彷彿とさせると同時に、僕には原アトムの物語を思い出させた。手塚治虫は、ディズニーアニメを模倣することによって、日本マンガの技術的手法を確立したが、成熟しない主人公という日本マンガ普遍のモチーフは、実は「鉄腕アトム」から培われたものなのだ。そしてその未成熟ロボットが愛すべきキャラクターとして肯定されたことが、戦後日本空間を象徴する確信的意味合いをもつのである。<その辺りのことは大塚英志の評論に詳しい> キューブリックやスピルバーグが手塚治虫のマンガを意識したのかどうかは知らない。ディズニーの「ライオンキング」の例のようにあからさまではないが、「A.I.」も明らかに似ていると感じる。A.I.として蘇った苦悩する愛情ロボット<原アトム>の物語は、その根底に時代的モチーフを持ちながらも、ピノキオという西洋ファンタジーの真綿に包まれることによって、アメリカ的成長物語として<全く逆のベクトルをもって>再生した、というように僕には感じられた。「成熟と喪失」というテーマは本来、日本にこそ相応しいが、アトムの本来的苦悩など今の日本で忘れ去られているのが現実であろうか。
7点(2004-05-03 10:01:08)
100.  プレッジ
とても怖い映画だった。この映画のニコルソンをどう捉えたらいいだろうか。彼にとってのプレッジとは一体何だったのだろうか。ショーン・ペンの前2作品を認めている身としては、彼が単なる凡庸なサスペンスを撮るような人間ではないという確信はあったし、実際そういうサスペンスのみの視点でこの作品を観るべきではないのだと思う。この作品に通底する孤独な男の信念が徐々にその箍(たが)を狂わされていく様子は正直言って恐ろしく、それが事件と素直に繋がっていかないところが逆に評価できると僕は思っている。それを「長いネタふりのコント」だと言われると、観る人によってはそうなのかなとも思うが、そもそも人生とはオチのつかない枝葉なエピソードのつづきであって、傍目には全く面白みのない孤独な一人芝居を知らず知らずに演じているものなのだ。まぁそれはもう自明なことであって、僕らがそこに求めるのはその中で失われつつあるものをどう汲み取っていくかということなのだろう。この作品は、冒頭から刑事を引退した後のニコルソンの一挙一動を克明に記していく。彼は、刑事としての本能と執念によって事件を執拗に追いかけているように見える。そして僕も映画中盤までは、その信念こそ彼が少女のイノセンスを守る孤独なキャッチャーであるというところから来ている、そういう物語なのだと思っていたのだ。<彼の語られない境遇は重要だ> ところが、、、徐々に何かが狂っていくのである。それは体の中に巣食う癌のように確実に何かを蝕んでいくのである。そんなニコルソンの微細な変化と抑えきれない狂気が垣間見える場面の恐ろしさ。彼の「イノセンスのキャッチャー」という立場は、その絶対的不可能性の罠に確実に閉じ込められていくのである。この作品のテーマはずばり「イノセンスのキャッチャー」の行く末だと思う。ニコルソンは年老いて歪んだホールデン少年の行く末なのだ。彼がプレッジとして信奉したもの、全てのイノセンスを守ることの不可能性は、容易に自らを矛盾の孤独に押し込め、どこでもない場所へ導く。なんというリアリティだろうか。この作品のエピローグは冒頭のシーンへと繋がっているが、そこにはウロボロスの如き出口のない絶望が横たわるのみである。前作で描いた希望の光のようなものはそこには見出せない。この地平からショーン・ペンが如何にして物語を紡いでいくのか、それは次作に期待するとしよう。
10点(2004-05-02 01:53:37)
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