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onomichiさんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 404
性別 男性
ホームページ http://onomichi.exblog.jp/
年齢 55歳
自己紹介 作品を観ることは個人的な体験ですが、それをレビューし、文章にすることには普遍さを求めようと思っています。但し、作品を悪し様にすることはしません。作品に対しては、その恣意性の中から多様性を汲み取るようにし、常に中立であり、素直でありたいと思っています。

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【製作国 : 日本 抽出】 >> 製作国別レビュー統計
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21.  トウキョウソナタ 《ネタバレ》 
廃墟の光景。 その昔、世界を失った者は、生活という場所に帰った。或いは、自己観念に囚われ否応なく破滅を志向した。今やそのような行き方というか逃げ場自体が失われてしまったようだ。それが『トウキョウソナタ』で描かれた現代的な喪失感なのだと思った。 役割を失えば、信じるべき自分という存在すら信じられない。役所広司演じる全てを失った泥棒に小泉今日子演じる「お母さん役」の佐々木恵が言う。「最後に信じられるのは自分自身でしかないと」 その言葉は空虚に響き、結局のところ、彼は自らの命を絶つに至る。 自己という観念が崩壊した世界で、彼らは帰るべき自分という場所すら見出せず、ただ孤立したまま、家族の食卓に戻る。そこで大切なのは、失った者同士が改めて集い、新たな役割を再構築することなのだと僕は思う。 最後の「月の光」とは、一体何だったのだろうか? 夜の海辺に瞬く光の波。カーテンに差し込む穏やかな光の漣。ピアノ曲。このとってつけたご褒美のような「希望」と「救い」は何だったのだろうか? そうか、それが「アカルイミライ」なのか。行き場のない現代人にとってのフラットで等価交換的なアカルイミライなのか。そもそもそこには深みや影がないという、表層の瞬きという発見なのだろうか。
[映画館(邦画)] 10点(2009-03-29 20:40:05)(良:1票)
22.  美しい夏キリシマ 《ネタバレ》 
この物語は死者と共にある。 少年は、学徒動員先の工場で戦死した親友を見殺しにしたという意識に取り付かれ、薄ぼんやりとした生と贖罪の中で生きている。 全てをジャングルに置いてきたと語る片脚を失った傷病復員兵と不安の中で彼に嫁ぐことになった女。彼は自分は幽霊のようなものだと女に語る。 南方で戦死した夫を持ちながら兵士と関係する女、その兵士は満州で人を殺したと呟く。それを受け流す彼女の生は日常の中での生死の意識を軽々と越えている。 静かに特攻での決死の覚悟を報告する海軍将校とそれを受け入れる女。それは既に多くの死の上にある運命といえる。  死者は記憶となり、記憶は生者を縛る。そしてその風景の中で人は生きた。  石田えり演じる宮脇イネが事の終わりに兵士に言う。 「死んでるもんでも生きてるもんでもなか気色の悪かものになっていくのが恐ろしゅうて、気持ちよか」 彼女は、戦死したと思っていた夫が生きていることを知り、罪の意識の中で生と死に揺れる。兵士に導かれて死を選ぼうとするが、結局、その男にも逃げられ、入水も未遂に終わる。彼女は生と死の日常を拒み、死者すらも失って村を出る。  死と死者が日常を揺蕩う終戦間近のキリシマ。そこでの数日間の出来事を美しい自然と人々の心象の風景と共に綴る叙事詩。それが黒木和雄なりの当時キリシマに生き、死んだ人々に対する鎮魂歌なのだと思った。それは美しい夏に翳り、さざめく影となって僕の心を打った。素晴らしい映画だと思う。
[DVD(邦画)] 10点(2009-03-29 20:36:51)(良:1票)
23.  歩いても 歩いても 《ネタバレ》 
映画の舞台となっている三浦海岸には半年ほど住んでいたことがあるので、画面に描かれる夏の終わりごろの色彩と空気の質感はとても懐かしいものがあった。 高台から見える青い海とその手前の街を走る京急電車の高架。所々に茂る緑。国道を跨ぐ歩道橋の向こうに広がる砂浜。海岸線の先には浦賀の岬、海の向こうには房総の山々。  とても印象に残る映画だった。 淡々とした日常の生活を描くものであるが、そこに確かな生の質量を感じる。言葉は単なるコミュニケーション手段であることを超えて、家族としての記憶を確実に紡いでいく。夫々が発する言葉は止め処なく拡散していくようにみえるけど、それは確実に風景として家族の歴史に刻まれる。  「人生はいつもちょっとだけ間に合わない」 この物語、僕ら40歳周辺のアラフォー世代にはとても身に詰まらされるものがある。親や兄弟との距離、子供との距離、家族の中の自分。子供の頃の記憶を自分の子供に重ねつつ、教育という名のもとに親としての役割を演じる。親の老いを見て人生を知り、また自らの老いへの予感に思いを馳せる。人生の中途だからこそ思うこと。 僕の父親は数年前に死んでしまったけど、彼が自分と同じような弱い人間で、人生の中の様々な引き合いの中で、いくつかの諦めがあり、手の負えなさがあり、それでも家族の為に必死に生きてきたという自負があり、それらのいろんな思いを僕は彼の死ぬ間際になってようやく実感した。子供の頃、学生の頃、そのことに気づいていたら、もっと違った関係を築くことができたのかもしれない、、、でも、人生とはそういうものなのだろう。大事なことは年をとって初めて気づく。その時に改めて本当の優しさというものを知るのだ。  小津安二郎や成瀬巳喜男が描いた北鎌倉の風景が現代の三浦海岸の風景に重なる。全ては新しくなったけれど、確実に紡がれているものがあるのだなぁ。家族の歴史の中で、彼らの言葉の断片は記憶となり、風景となり、伝えられるのだなぁ。  映画の最後に、切り取られた1日の出来事が永遠の風景となったことを僕らは告げ知らされる。引き延ばされた瞬間という永遠。彼の人が亡くなり、新しい命が生まれる。その中で気づくこと。すばらしいエピローグだと思う。
[DVD(邦画)] 10点(2009-03-18 20:37:01)
24.  EUREKA ユリイカ 《ネタバレ》 
人と人とは基本的に分かり合えないものだという認識を僕らは否定できない。ただ、彼の人が自分と同じような弱い人間であること。そういった妥当によって、僕らは赦しあい、関係を生きていく原理を掴むことができる。  冒頭に起こるバスジャック事件の犯人(利重剛)が発する狂気。その境遇は全く語られないが、サラリーマン風の出で立ちからも彼が何の変哲もない普通の人間であったことが想像される。彼は普通に社会と関わり、彼自身の物語を生きてきたはずである。そして、飛び越えられた一線。狂気は日常という明るさの中に偏在し、顕在している。人と人との断絶と同じように。  日常の中の狂気が導く些細な殺意。それは事件の被害者である沢井(役所広司)達に執拗に纏わりつく。しかし、彼らがそれらを抱えつつ、それでも人と人との関係の回復を求め、その中で生き続けたいと願った時、彼ら自身、生きる原理を掴むことから始めることが必要だった。人と人との繋がり、その関係性を生きる為の再生の旅である。  この作品の中で「何故、殺してはいけないのか」ということが問われる。それは正に日常の狂気とも言うべき観念であり、少年(宮崎将)の心を侵食し行為に駆り立てたものであるが、沢井はその意味も行為も一身に引き受けることで、まるで全てを抱擁するかのように、問いそのものを包み込み無化しようとする。それがこの映画に込められた最大の「願い」であり、「赦し」だったのではないか。自らの死と引き換えに、生の可能性へと繋がる彼自身の全身全霊を込めた「赦し」だったのではないか。それは僕らの心を確実に動かす。  バスが最後に辿り着いた場所。世界は色彩を取り戻し、その声が蘇る。言葉を失った少女(宮崎あおい)は沢井と同じように全てを受け入れ、生きる可能性を得ることによって、言葉(世界)を取り戻す。それが世界の原理だと分かる。(ユリイカ=見つけた) この映画は「癒し」と「再生」をテーマとしていると言われる。僕にはそれがもっとポジティブな意味において、全てを抱擁し、赦すというイメージとして描かれていると感じる。 断絶された世界、そのことが生み出す狂気や諦念が可視的な様相の中で、この長い物語は、人が人をしてまっとうに生きる原理を丁寧に描き出す。断絶と狂気から始められ、それでも人と人が繋がりを求め、全てを抱擁し、赦しあう物語として。その再生は描かれたのである。
[DVD(邦画)] 10点(2008-11-23 00:58:39)(良:1票)
25.  アカルイミライ 《ネタバレ》 
明るい未来ではなく「アカルイミライ」である。それは決して約束された未来、誰もがその輪郭をイメージできる立体感のある未来ではなく、戯画化されフラット化した「アカルイミライ」である。その「アカルイ」は本当に「明るい」のだろうか?ゲーム的なリアリティに意味を見出さざるを得ないような社会が真っ当に明るい未来なのだろうか?2極化した社会。その断絶は年々広がり、自らの価値観の中でしか現実が選択されず、オンリーワンであることに自足して閉じこもる一部の若者達。彼らの(そして僕らの)目の前の未来はとても暗澹としているように思える。  この映画の主人公、仁村はそんな一部の若者達を象徴する存在として描かれる。しかし、仁村に信頼される年長の有田守は、そういった現代的な等価交換的な考え方の染み付いた若者達とは一線を画する存在であるように思える。彼は、「待つこと」と「行くこと」の意味を理解している。有田守は自白によって殺人罪で逮捕されるが、実際の行為は描かれず、理由は明らかにされない。その場面では、殺されて横たわった夫婦と家を飛び出し歩いている少女のみが映し出され、有田守は何かを庇って罪を犯したか、又は罪そのものを被っているのではないかということが暗示される。(そう考えなければ彼の人物造形と行動が物語として矛盾する) そして彼は「待つこと」と「行くこと」の重要性をメッセージとして残しつつ沈黙と共に自死を選択する。 結局のところ、仁村は、有田守やその父親に導かれるように「生きる」ことそのものが、「待ち」そして「行く」ことであることを理解する。そうであれば、仁村は「許され」、癒されるべき存在であり、その未来を自ら進み、掴むことができるであろう。 同じようにゲバラTショーツを着た少年たちや両親を失った少女に明るい未来があるだろうか? この映画はそれを「アカルイミライ」と称し、決してその希望と可能性を失うべきではないと宣言しているように思える。有田守やその父親、そして仁村も、結局のところ、その少年少女達の「アカルイミライ」を保護し、承認する存在として描かれていると僕には思えた。  そして、僕はこの希望的「ミライ」を支持したいと思う。黒沢清のメッセージはこの作品から強く僕らに伝えられる。僕はゲーム的リアリティよりも、やはり人間的なリアリティを信じたい。それがどんなに狭く光微かな道であっても、である。
[インターネット(字幕)] 10点(2007-04-20 23:01:42)
26.  トニー滝谷 《ネタバレ》 
トニー滝谷の妻はいつも優美に服をまとっていた。彼女は元々洋服を買うのが好きであったが、ある時期を境にそれはまるで何かの中毒のように抑制が効かなくなってしまう。彼女は言う。「目の前に綺麗な服があると、私はそれを買わないわけにはいかないの」  孤独と恋の話である。トニーは彼女と出会う前、孤独であった。彼は彼女に恋をし、二人は結婚する。恋は孤独を安住の地から耐えがたい牢獄に変える。では、彼にとって結婚は安住の地となりえたのだろうか? トニーは彼女のことが好きであったが、彼女が服を買いすぎることが気がかりだった。実際にそのことが彼女を突然の死へと導いてしまう。 彼女は洋服を買うことを「ただただ単純に我慢ができなかった」 それは彼女の中の異質なものの発現であり、今ある状態に決して充足できない何かが、彼女の趣味であり可能性であった洋服をを過剰な渇望に変えてしまったのである。それは彼女にとって孤独と等値なのだろうか?  トニーは結局、孤独に帰るのであるが、それはもう静かで穏やかな世界ではありえない。大きな欠落感であり、生暖かい闇の汁である。 ただ、映画で最後に(原作にはない直接的な表現としての)希望の光、ある種の共有感への予感が描かれている。トニーはひとりぼっちであるが、もう孤独ではいられないはずなのだ。このシーンは原作にはないが、悪くないと僕は思う。  映画。 多くの人が指摘するように、映画『トニー滝谷』は、小説の朗読と映像、音楽及び独白で綴られた作品であり、従来の(映画的と言われる)手法の映画とは趣きを異にする。ページを捲るように場面は展開し、単調な調べはその作品を小説それ以上にもそれ以下にもしない、そういう配慮のようにも思える。 僕はこの短編小説が好きなので、この作品も好きである。市川準の映像も小説世界にマッチしているし、宮沢りえの透明感溢れる存在感もよい。イッセー尾形は年を取り過ぎており、僕のトニー像にはいまいちフィットしないが、まぁそれなりの表情をみせる。 この映画で退屈することはまったくなかった。小説を読むように映画が展開するのだから、小説を楽しむように、この作品を楽しむことができるだろう。
[DVD(邦画)] 10点(2007-01-27 01:18:47)(笑:1票) (良:1票)
27.  エリ・エリ・レマ・サバクタニ 《ネタバレ》 
正体不明のウィルスによって自らの意思とは関係なく自殺してしまう"レミング病"が蔓延する近未来のお話。レミング病は視覚映像によって伝染し、確実に死に至るという。まさに死に至る病である。  レミング病とは何か?それは死に至る病である。 死に至る病とは何か?それは絶望である。  作中の浅野忠信演じるミズイが相棒アスハラの自殺を目の当たりにしてつぶやく。 「病気の自殺と本気の自殺とどうやったら区別がつく?」  『死に至る病』の作者キルケゴールによれば、その区別は様々あれど、やはりそれは同じ罪としての絶望である。絶望を知り、それを克服する意思があるとしても、自己自身を抱えている以上、それは同じように絶望なのだと。本当にそうだろうか?  ウィルスによる絶望というのは、外敵、非自己による自己化ともういうべき自己の病への囚われ、第5の絶望、現代という無自己を絶望と化した時代のメタファーだろう。『ユリイカ』の監督である青山真治は、この最新作でそういった新しい絶望も含めた全ての「死に至る病」に対する抵抗を試みている。僕にはそう思えた。 アスハラが自転車をこいでミズイに会いに行く短い映像。その音楽。生きること、死ぬことに根源的な意味がある以上、僕らは常に本気でいるべきなのだと。少ないセリフの中にも僕にはそういった輝きを感じることができた。映像の一つ一つに抵抗としての生を感じることができた。  絶望に囚われ、それでも自己自身であり続けようとする。 自らの生を受け入れ、自らで選択する。  恣意的のようでいてとても示唆的な映像。 素晴らしい映画。  絶望につけこまれ、、、腹いっぱいになっても、、、死に至るか。。。 
[DVD(邦画)] 10点(2007-01-27 01:15:50)
28.  ブラウン・バニー 《ネタバレ》 
映画が現実に起こりえるとか起こりえないとか、そういった基準で観られるべきものではないというのが僕の考え方だ。バイオレット、リリィー、、、なぜ花の名前か?ローズ。美しいものの余韻。名前という幻想。名前にこそ意味がある。取り替えのきかない名前という幻想。それは彼の心を執拗に捉えていく。 なぜリリィーは涙を流しているのか、そんなことは疑問として意味がない。ただ涙を流しているということが答えなのだ。妄想?失われたものへの掛け替えのない想い。それを抱えていかなければ生きる意味なんてない。でもこれ以上の哀しみを背負う必要があるのだろうか。そして思いとどまる。 ロードムーヴィーとは何かを探す旅を映す。彼は?砂漠での疾走。砂漠という茫洋。無意味の意味。彼は何を追い求めているのだろう。 デイジーは死んで、死んだものは現実には帰ってこない。だから彼は夢想する。幻想としてのデイジーを彼は許す。人が生きる原理を掴むにはまず許すことから始めなければならない。彼が欲したのは、彼女を許すということ。その不可能性の可能性。それは幻想であるが、それは彼にとって必要なことだったのである。そして彼は帰還するのだ。 
10点(2005-01-23 11:32:23)(良:1票)
29.  東京物語
「私ずるいんです」 笠智衆に対して頑なに言い募る原節子は、最後に救われたのだと僕は思う。「東京物語」とは、大都会でひとり生きてきた原節子演じる紀子が自らの頑なさを笠智衆という在るがままの御仁にぶつけることによって救われる物語なのである。もちろんこの大傑作映画は、登場人物たちのさざめく日常を丹念に描き、様々な人々の様々な奮えを静謐に表現することによって、実に多面的で奥が深い作品となっている。その多くの場面に僕は感銘を受けた。 それでもやはり、原節子という優しさの象徴のような女性がその内情の弱さを吐露する場面は、この物語のクライマックスであり、それは笠智衆という「精神」の静かな態度によってしっかりと受け止められるのである。最終的に、笠智衆は妻に先立たれ、子供達には厄介者扱いされるような不遇の立場にあるわけだが、彼はその立場を捩れなく自然に抱えこむことによって、決して自らの弱さに屈しない、かつ自らの強さを誇張することのない凛然とした「勁さ(つよさ)」を見出すのである。原節子が最後に救われ、癒されたのはそんな彼の自然さであり、「勁さ(つよさ)」である。彼女が自分の「ずるさ」と自然に向き合えたことこそが彼女自身の癒しだったのだ。 笠智衆が一人佇む最後のシーン。彼が自分の人生を十分に反芻しており、そのことから滲み出る自然体であることの「勁さ」というものを僕は切に感じることができた。そして、僕も救われたのである。
10点(2004-08-25 01:20:02)(良:2票)
30.  A2
「A」と比べて「A2」がそのテーマを明確にしたことによって、出色のドキュメンタリーとなっているということに全く異論はない。そして、そのテーマとは、「オウムと世間との共存の可能性」である。オウムが日本各地に移転するたびに地域住民から排斥運動を受けて、結局追い出されてしまう、こういった構図は僕らも新聞報道等でよく見かける。しかし、映画の中では、オウムを監視していた地域住民ボランティアが監視を続けるうちにオウム信者達と仲良くなり、逆に地域内での一般住民たちの軋轢こそが浮き彫りになる、というケースを克明に描いてみせる。確かにそこで描かれるオウム信者はあまりにも普通の好青年であり、オウムでありながら地域社会に見事に溶け込んでいるように見える。彼らがその地域から引っ越す際には多くの地域住民たちに涙をもって見送られるのである。もちろん、このような例は数少ないに違いない。多くはオウムと地域住民たちとの滑稽なすれ違いの繰り返しなのだろうと思う。しかし、一部ではありながらこういった例が存在し、そんな現実をひとつの可能性として提示し得たことにこの作品の重要なテーマをみるのである。基本的に未だオウムというのが麻原への信仰を捨て切れない、世間から閉鎖した危険な思想団体であることに間違いはないだろう。それは彼らが世間から閉鎖された出家団体であり、世間とは根本的に対立する考えを持った人々の集団であることから既に自明なことである。一見するとそこに出口はないように思えるが、彼らが共存を求めており、僕らが社会としてそれを受け入れることを選択した以上、それが全く不可能ではないことをこの映画が指し示していることは重要である。人には信仰の自由があり、各人が別々の信仰を有しながらも共存共栄していくというのが正しい社会のあり方である。そんな当たり前の社会を不可能にしているとすれば、それは人と人との関係を強烈に捻じ曲げる偏見という名の人格無視だろうと僕は思う。お互いが分かり合える足場を失った状態でも人が人を理解する希望を失わないこと、そのためのシステムを作り上げること、それがこれからの社会の中で重要になっていくに違いない。無条件な憎しみの連鎖にだけは陥ってはいけないのだと僕は思う。
10点(2004-06-27 23:23:14)
31.  
「A」と「A2」を連続して鑑賞した為に「A」の印象というのは若干薄い。これは「A2」の方がより考えさせられる内容だったことにもよるかもしれないが、かといって「A」に見るべきものがなかったかというとそれも全く間違いである。「A」があくまで荒木広報副部長を中心とした物語であるとすれば、オウムという日本を震撼させた犯罪者集団、狂信的宗教団体の中で、あまりにも普通に苦闘し煩悶する彼の姿を浮き彫りにしていることにこの映画の重要な意義を感じるからである。僕は、ある意味で同世代の彼に安堵と共感の念を禁じえなかった。僕らが忘れかけていた青春的な葛藤劇をこんなところで見せられるとは思ってもみなかったけれど。<これを青春映画と呼ぶことに全く異論なしです> もちろんオウムの犯罪は今でも許しがたいものであり、僕らは安易に彼らの信教を犯罪から切り離して認めることはできない。矛盾を抱えた世の中と自分自身との関係に苦しみ、人生に対する絶対的な回答を得たいという彼らの真摯な願望は分からないでもないが、その終着が今でも麻原に行き着くところに捩れた純粋さを感じる。しかし、この映画はその辺りのところは脇に置いておいて、オウムという鬼っ子を完全に排除したいという公安機構や犯罪者集団というレッテルでとにかく押し通したいマスコミや世間の醜悪さを見事に描いており、どちらかというと僕らの側にあり、僕らが意識することなく認めている体制というものに様々な理不尽さが存在することを見せ付けるのである。とにかく偏見というのは恐ろしいものだ。オウムは信者をマインドコントロールするために多くのビデオやマンガを用いたそうだが、今、思考停止状態にある世間をメディアが煽動することほど簡単なことはない。中立であるはずの報道が偏見の為に誤った情報を流し続ける、そういう恐ろしさを感じざるを得ないのである。この映画は誠実な人、荒木氏の廻りの不誠実な公安権力やメディアをかなり決定的に映像化しえたことでドキュメンタリーとして成功したとも言えるのではないだろうか。
10点(2004-06-27 23:09:53)(良:1票)
32.  東京兄妹
一見すると淡々としていて、ある種、客観的な映像に思えるかもしれない。しかし、ほんのさりげない仕草が画面の空気に微妙な色合いを与えているのが分かるだろうか。そんな登場人物たちの僅かに揺れ動く情動が、僕らの心の澱にもささやかな波紋を広がらせるのである。簡単に言えば、、、なんかミョーにしみじみしちゃうんだよなぁ。
10点(2004-02-14 01:54:05)
33.  仁義なき戦い 代理戦争
まぁシリーズの頂点に立つ作品でしょうね。「仁義なき戦い」シリーズは、初作から「頂上作戦」までぶっとおしで観ましたっけ。学生の頃は暇でしたなぁ。僕は小林旭と梅宮辰夫が好きですねぇ。なんたって、辰っつあんは眉毛がないんだもん。もちろん成田三樹夫も渋くて貫禄十分だし、文太兄貴もかっこよかったよ。
10点(2003-09-27 10:48:41)
34.  遥かなる山の呼び声 《ネタバレ》 
『幸福の黄色いハンカチ』へ繋がる前章という位置づけもできるが、倍賞千恵子を中心として見れば、民子3部作の最終章であり、『家族』から10年目の続編という見方が妥当だろう。  この物語は、民子の物語である。 民子(倍賞千恵子)と武志(吉岡秀隆)親子の元に現れる一人の男。高倉健。彼は、70年代を貫く山田洋次作品の中のゲストであり、主役はあくまで民子である。民子は、これまで家族の中の妻と母という立場であり、女ではなかった。今回、『遥かなる山の呼び声』で、高倉健という適役を得て、彼女は初めて女になった。この物語はそういう物語としてある。そこにこそ心動かされる。  高倉健は当時、40代後半。個人的には、この頃(70年代後半から80年代前半)の作品が高倉健の最も「健さん」らしい味わいに溢れていると思う。傑作も多い。男も惚れる。子供も女も皆健さんに惚れてしまう。本作でも寡黙だが実直、男気に溢れ、喧嘩も強い。逃亡犯という陰を持つが頼れる男、「健さん」がそこにいる。  高倉健が別れを告げた夜、「どこにも行かないで、私寂しい」と彼にすがりつく民子。そのシーンの切実さを想うと涙が出る。そして、別れの朝のシーン。列車内でのハナ肇とハンカチ。僕らは2度の号泣を覚悟しなければならない。この映画は山田洋次監督の70年代の作品群の最後に結実した大きな結晶のような作品である。『家族』から始まった民子の受難はここでもまた続くことになるけれど、それは愛という結晶を得ることによって、希望へと結実したのである。  とにかく素晴らしい映画。何度でも繰り返し観られる。実際、昔はテレビで何度も観た。今はDVDで何度も観る。北海道の大自然、時に厳しい自然の姿があり、それを含めた美しさに圧倒される。 本作は、山田洋次作品の金字塔であり、日本映画、不朽の名作である。
[DVD(邦画)] 10点(2003-09-08 00:34:46)(良:2票)
35.  スワロウテイル
結構言いたい放題言われてますね。僕はこの映画に感動したし、面白いと思いましたよ。とても素直にね。「Love Letter」を観た時からこの監督は只者ではないと思っていたけど、この映画に至って、ストーリーにしても映像にしても音楽にしてもいろんな意味で映画という表現スタイルの可能性を最大限に使った手法は見事という他なく、あ~(日本)映画もここまで来たか~という感慨を受けたものでした。Charaがいいですね。彼女を日本で一番の女性ボーカリストだと思っている僕としては、彼女を主演に選ぶセンスにもう脱帽です。この監督、作品毎に全く違った感銘を僕らに与えてくれる、日本ではとても稀有な存在。多分に彼の美意識に由来する映像や台詞がダメな人もいるかもしれないけど、なんか僕にはすごくピタッとはまるんですよね。それは僕が少年ジャンプ世代だから?そうなのかな?MTV世代ではあるけど。まぁどうでもいいが。
10点(2003-09-06 23:14:31)
36.  リリイ・シュシュのすべて
正直いってとても怖い映画でした。僕はこれほどまでに悪意に満ちた映画を知らない。「拷問のような。。。」というレビューがありましたが、然り。世界を共有できないという苦痛が全編を覆っているのだから。しかし、、、この映画に心を震わしたとすれば、あなたは正しい。間違ってはいない。僕らは心を失って久しいし、本当に共有できる世界観をもっていないのは既に自明のこと。リリィという虚構の上に空虚な言葉を紡ぐことのリアルさなんて最初からないよ。そんな悪意に満ちた映像の中でも、僕らはこの映画にある種のイノセンスを感じたんじゃないのかな。その可能性にこそ、この作品の「救い」があるのだと思う。この映画の中に心理描写が皆無ですよね。ただ、田園に佇む少年たちと音楽があるのみで。そして画面を覆うワープロ文字の羅列。僕らは「痛み」を感じ、イノセンスへの「信」を握り締める。この世界の「ほんとう」をいかにして表現するか、もし、映画の目指すところがそこにあるのなら、この映画の手法はひとつのメルクマールとなるのではないか。岩井俊二は断続する「現在」を捉えているからこそ、一級の監督なのだと僕は思う。<追記>リアルとは何か?現代社会は成熟という過程を永遠に放棄しており、生きていくことの確固たるリアリティなどというもの、そのものにリアルな実感など既にない。キルケゴールは死に至る病として、絶望していることに気がつかないが故の絶望といったようなことを述べているが、今の世の中はそういう意味で多くの人が絶望的である。そういった認識がないとこの映画は「分からない」だろう。薄っぺらい世の中だからこそ、その薄っぺらさの上で足掻くことの空虚さ、その見えない痛みを痛いほど感じる、この映画はそういう表層のヒビを鮮やかに描いているのだ。<この映画は単なる中学生日記ではないのだ> 実は邦画の名作は昔からそういう地平でつくられていると僕は思っている。ただ、その自明性がここ10年ほどで加速度的に失われており、そんな閉塞感の無意識化を漠然とした表層の「らしさ」感覚とその亀裂の対比で描いてみせているのがこの作品の白眉なところだ、といえないだろうか。敢えて言えば、リアルさの喪失感に対するリアリティのなさをリアルに描いている、ということか。
10点(2003-05-11 18:26:02)(笑:2票) (良:1票)
37.  Aサインデイズ
崔洋一といえば、やっぱりこれでしょう。オキナワンロックの魅力がたっぷりと味わえるし、石橋凌が水を得た魚のようで、とにかく最高です。
10点(2002-12-31 01:45:59)
38.  永遠の1/2
僕も当時の日本映画ではピカイチだったと思います。原作者の佐藤正午は僕の好きな作家で彼の作品はほとんど全部読んでいるんだけど、映画の方を先に観たのも正解でした。<映画と原作本ってそういうもんだよね>ちなみに佐藤正午は短編がわりと良くって「人参倶楽部」とか「夏の情婦」なんてお薦めです。<このレビューとは関係ないけど。。。>まぁこの根岸吉太郎監督作品も小説とは違った意味で雰囲気のあるいい作品でした。大竹しのぶがわりと役にはまっていて、彼女の独白シーンはとてもリアルな感じでよかったですよ。
10点(2002-03-24 20:22:50)
39.  インディアン・ランナー
正義漢の兄と落ちこぼれの弟のお話。兄弟は、話の展開にしたがって徐々に心が離れていくようにみえる。理解しあえるようでいて、それはどんどん遠くに離れてしまうのである。そのことの理由は語られない。最終的に警察官の兄が犯罪者となった弟を追跡するシーンにまで至り、父親は兄弟の確執とは関係のないところで意味もなく自殺する。図式はありふれているし、話としても結構単純だ。しかしそのモチーフは僕にとって切実に思えた。兄は弟を追いながらそのことの意味を理解できない。弟は兄に追われながらその理由を失っている。自分の心さえ掴めない寂莫感にお互いが自覚的ではあるけれど、最後に兄が弟を見逃すシーンに言葉はなく、ただ「アイ・シャル・ビー・リリースト」(byザ・バンド)が流れるのみ。「いつかきっと僕は解放されるだろう」 あー、なんてリアリティのないフレーズだろうか。そのことの空虚さが心を締め付ける。「インディアンランナー」はたぶん時代遅れな映画だ。すべてに自覚的でありすぎる分、それはもう時代遅れなのだ。僕らはその時代遅れの気分でしか、もう心を震わすことができないかもしれない。それはとても切ないことだけど…。 <ちなみに冒頭で、狼の力を盗んで鹿狩りをするインディアンの逸話が出てくる。弟の中で幻影のように現れるインディアンとは、自分自身に潜む凶々しさとその神々しさが一体となったスピリチュアル・イメージであり、その「らしさ」に理由がない絶対的な存在としての強迫観念でもあるのだ。>
10点(2002-01-17 02:36:29)(良:2票)
40.  東京夜曲
とても静かでいい映画です。静かだけど、揺れのある、振幅は狭いけれど、たえず微かに揺れている、そんな映画です。出ている人達は何故か皆な照れていて?!、とても微妙な表情をしている。(僕には生き生きして見えるんだなぁ。これが。) そんな微妙さの中に様々な情動が見え隠れして、それがなんとも言えないリアルな色気を感じさせるのです。結構ぐっときます。桃井かおりに長塚京三、そして倍賞美津子、キャスティングも秀逸。「東京兄妹」もよかったけど、こっちもかなりいいですね。
10点(2002-01-17 02:22:48)
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