141. 異人たちとの夏
この作品は本来、美しきホラー映画になるべきものであったと思う。片岡鶴太郎と秋吉久美子演じる両親との暖かい再会と名取裕子演じる女性との恋愛。この2種類の死者達との邂逅/交流のストーリーを同列に見なければ物語の真意は掴めない。ファンタジーの裏側にあるグロテスクさ。僕らはそれに惹かれるのだ。本来はその幻想性と一体であるはずのグロテスクさを一身に引き受けてしまった名取裕子の存在を完全に否定したい気持ちは分からないでもないが、これはそういう物語なのだから仕方がない。異界との交流を描くファンタジーとは、いつでもそういう地平の上で描かれるべきものなのだ。誰もがノスタルジックな気分に浸れる両親との切ない別れのシーンは確かに泣けた。それと対比するはずだった恋人とのおぞましき対決シーン。その出来栄えが、、、何ともチープな超B級特撮とは。。。確かにちょっと言葉を失うけど、「ハウス/HOUSE」や「漂流教室」の大林宣彦監督だから、それはそれで仕方がない。というか、やっぱりもったいなかったよなぁ。 7点(2004-04-07 18:41:14) |
142. 就職戦線異状なし
バブルの時代ですねぇ。僕の就職時期よりもちょっと前のお話。こういう時代が昔確かにあったのですよ。当時の就職活動というのは、言ってみれば自己錯覚的な狂乱狂喜の儀礼だったのかもしれない。あの頃、自分を見失った人たちは、たぶん今頃大変だろうなぁ。ちなみにこの映画、作品としてはわりとよく出来ていると思います。あの頃流行ったトレンディドラマの映画版という感じがしないでもないけど。 7点(2003-10-13 15:45:03) |
143. きょうのできごと a day on the planet
淡々とした展開に潜む日常の危うさ。人々の心のさざめき。そういうものが一切感じられないという、僕にとっては非常に不幸な映画であった。ある種のニュアンス的世界といってもいいか。微妙なニュアンス、ちょっとした感覚のズレ。まさに現代的感性の映画かもしれない。時代的モチーフとしてはよく分かるが、正直いって僕にはついていけないところがある。モチーフの切実さが感じられないのは、僕にとって致命的なのだ。確かに僕にも日常というものへの絶対的帰依の気持ちは十分にあるが、その信頼性に関しては無自覚、無感覚に受け入れることがどうしてもできない。根底にはいつでも日常に対するアンビバレンツな感情があるはずなのだ。なんというか、そんなことを思ってしまう限り、この映画のツボは永遠に理解できないのかもしれない。 6点(2004-08-12 20:37:08) |
144. ラスト サムライ
中途半端な印象は拭えませんね。確かに「ダンス・ウィズ・ウルブス」のサムライ版ってところでしょう。武士道などというものをハリウッドが表現できるとは到底思えなかったけれど、そもそもそれを日本人自身が理解していない限り、その評価も推して知るべしです。まぁいろいろと書かれているようにあまりその辺りのことを意識せずに架空的日本国を舞台にした日本人とアメリカ人との「愛と友情物語」として見れば、なんのことはない、従来のハリウッドスタイルそのものなのですね。「サムライ」や「インディアン」というタームは、反近代的なモチーフ、傍流の歴史を理解する為に選ばれてはいるけど、最終的にはアメリカイズムという個人主義にすっかりと回収されてしまっているように僕には思えました。 僕自身が武士道というものをよく理解している訳じゃないけど、武士道って江戸時代の一部の武士階級にとっての特権的な観念であって、ああいう戦国時代のような戦士や半農民的な足軽たちにとっては、日常的に不要の観念だったのではないかな。平和な時代だったからこそ、自らを律する為の観念が必要とされたのです。それに武士道自体を本当に尊ぶようになったのは明治初期でそれも一部の人々の間でしかないでしょう。あと利用されたという意味では太平洋戦争の頃ですか。「葉隠」なんて江戸時代でも多くの人たちはその存在すら知らないわけで、それを日本人全体の精神性かのように捉えるのはそもそも間違い。実際、日本人のすべてがサムライの息子ではないのだからね。 まぁそれはそれとして、ストーリー的にも僕にはあまりぐっとくるものがなかったなぁ。途中で三島由紀夫の描いた「神風連史話」(「奔馬」)が頭をよぎったけど、あの決起と自死の顛末に描かれたものこそ日本人が武士道的なものとして憧れるperfectな精神性ではないかな。その静謐さをハリウッドで描くことは不可能でしょう。 6点(2004-08-12 20:32:08) |
145. 世界の中心で、愛をさけぶ
主人公と同じ年の僕は、学生の頃、世界の中心で愛がないことを叫んでいた。もちろん世界の中心は僕で、それは僕に向かって叫ばれていた。当時、100%の恋愛小説というキャッチフレーズで刊行された村上春樹の「ノルウェイの森」が流行っており、この物語に心奪われた僕は、彼の作品を旧作に遡って何度も読み返したものだ。恋愛小説というのは愛に溢れたお話ではなく、恋という自己の病に囚われるお話で、僕はそのやりきれなさと不確かさを現実に持ち込んでは、廻りの人達を傷つけていたように思う。未来すらも既に終わってしまった物語のように強烈なメランコリーに只々取付かれていた。何もかも納得できなかったし、納得したくなかっただけなのに。先日、話題の小説「世界の中心~」を読み、そして映画を観た。何故、今、この物語がこんなにも流行るのか、それはよく分かるような気がする。「君と世界の戦いでは世界を支援せよ」これはカフカの言葉であるが、加藤典洋がこの言葉を自著の表題とした80年代中頃、僕らは、毒虫<自己の喪失>の姿に犯され始めていたとはいえ、まだ内面の名残をもつ「君」<自己>としてキリキリと存在していた。だから加藤典洋は、カフカの言葉を引きながら、失われつつある「君」の存在、その敗北をもう誰も止められない時代に来たことを敢えて宣言しえたのである。今や世界は「君」や「僕」を呑み込んで、僕らは相対化した世界の差異の中にしか自身の存在感を得ることができない。世界の中心なんてないし、それは僕の中心でもない。そんな自明性すら既に失われて、ある種のノスタルジーに覆われた甘美な物語に、漠然とした世界で確かなものとしてあるべき「愛」を叫びたくなるのである。そういう時代を敢えて否定はしない。けど、物語は作り物であっても、本来それは自分の物語を喚起させるべきものだ。特に映画版は僕にとってまるで遠い国の神話のように自身との接点を確認することができなかった。そこから自分の物語にどうつながるんだ~? と叫びたくなる気持ちを僕は捨てがたい。 [映画館(字幕)] 6点(2004-06-26 01:26:40) |