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鉄腕麗人さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 2597
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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61.  イリュージョニスト(2010) 《ネタバレ》 
ひとり列車で去っていく老手品師の感情を追うように、街の光が一つずつ消えていくラストシーンを見終えて、一寸の間、心に空虚感が漂う。 あまりに悲し気な終幕に、突き放されたような印象さえ覚えるが、必ずしもそうではないことに気づく。  じっくりと落ち着いてみることが出来なければ、誤解を生みやすい作品であることは間違いない。けれど、このアニメーション映画は紛れもない傑作だ。  主人公の老手品師は、人格者のように見える。 実際、この作品の中の年老いた彼はそうなのかもしれないけれど、“マジック”という一芸一つで長い年月を生きてきた彼という人間の根本にあるものは、もっといい加減で、危ういものだと思う。 もしかしたら、それが原因で己の娘とも生き別れなければならなかったのかもしれない。 そして、その心に染み付いた空虚感と孤独を埋めるために、ふいに出会った田舎娘に自分の娘を重ね合わせていたのかもしれない。  そこには、手品師の悲哀、芸人の悲哀、“それ”しか生きる術を知らない者たちの決して拭いされない「孤独」が満ち溢れていた。  とても悲しくて、切ない。 この作品で描き出される田舎娘との交流も、意地悪な見方をすれば、貧しい老人に無知な少女がたかっているように見えなくもない。 本当にそこに“心の交流”があったのかということも疑わしくなってくる。  しかし、たとえそうだったとしても、老手品師は「満足」だったろうと思う。 己一人が生きるためだけのものだった“マジック”が、最後の最後で、一人の少女を“未来”へと導いた“マジック”になった。 その様を見たことで、彼は自分の手品師としての「役割」が終わったことを知ることができたのだろう。  すべてを手放して列車で旅立つ老手品師。 同席した幼女がお絵描きのちびた鉛筆をなくす。 彼は一瞬、マジックで自分の長い鉛筆を彼女に差し出そうか迷う。 しかし、彼はそうせずに、短くちびたそのままの鉛筆を幼女に返す。  マジックとの決別は、彼自身の人生との決別のようにも見える。 やはり、悲しく切ない。でも、なんだかあたたかさも感じる。  “赤い靴”を与えられたことで、田舎娘は外の世界へ踏み出すための「意思」を得た。 それは必ずしも幸福なことばかりではなかったのかもしれないけれど、それでも人生は悪くないと思える。 
[インターネット(字幕)] 9点(2014-05-03 15:44:26)
62.  キック・アス ジャスティス・フォーエバー
衝撃の問題作でありながら、その類い稀なエンターテイメント性を世界中が“スルー不可避”だった前作「キック・アス」。 その待ちに待った続編に対しては、当然誰しもが、4年前の衝撃の再熱を期待しただろう。  前作で一躍若手女優のトップスターとなったクロエ嬢をはじめ、主要キャストをきちんと再結集させ、ジム・キャリー、ジョン・レグイザモら魅力的な新キャストを揃え、体制は万全だったと言える。 おそらく、前作の“二番煎じ”をすれば、大多数の観客は分かりやすく再び熱狂しただろう。  が、前作監督のマシュー・ボーンの後を引き継いだジェフ・ワドロウなる無名監督は、果敢にもその「既定路線」をハズしにかかった。 もしかすると、この続編に対して、前作ファンの多くは「愚かな」と否定するのかもしれない。自分自身、呆気にとられた感は否めない。  けれど、結果として大多数に受け入れられるか否かは別にして、この無名監督の挑戦(暴挙)は正しかったと思う。 別の言い方をすると、この「キック・アス」という映画素材において、「既定路線」と辿ることこそが愚かなことであり、どんな形であれ観客の思惑をハズしてなんぼということなのだと思えてならない。  前作の奇跡的な娯楽性に対してこの続編が遠く及ばないことは否定しない。 ただし、前作があってこそ描き出された今作であり、この映画世界が抱える本質的な魂みたいなものは決してハズレていない。ならば「続編」としてこれほど相応しい作品もないのではないかと思える。  詰めれば詰めるほど粗だらけの映画であることは間違いないし、そもそもこの映画の製作陣は“真っ当”に作ろうとなんて端からしていない。完全に独りよがりだったとしても、ただただ自分たちが作りたい(見たい)モノの構築に没頭している。  ならば観客は、前作の余韻を引きずりながら、前作にも増して歪な映画世界の中で再度クロエ・グレース・モレッツの「支配力」にただひたすらにうつつを抜かす。 それがこの映画の正しい鑑賞のしかただ。   ただし!ジム・キャリーの使い方はあまりに勿体なかった……。
[映画館(字幕)] 7点(2014-03-10 00:00:16)
63.  ワイルド・スピード/EURO MISSION 《ネタバレ》 
この娯楽映画シリーズのファンとしては、相応しいタイミングでこの最新作を見ることができたと思う。それは、とても嬉しいことでもあり、あまりにも悲しいことでもあった。  今年の夏に、シリーズ中で唯一観られていなかった「3」見たばかりだった。 シリーズのファンなら周知の通り、“東京”を舞台に描かれる「3」は、シリーズの番外編的なニュアンスが強く、レギュラーキャストは殆ど登場しない。 そして、その中で唯一主要キャストとして登場する“ハン”の悲劇的な末路が描かれている。「3」を観た段階では、なぜ彼が独り東京に流れ着き、ヤクザ相手の危険な仕事に手を染めているのかの説明もなく理解し難い部分があった。  が、それを裏打ちするエピソードが、この最新作では描かれている。  “或る人物”の突然の登場に驚愕するエンドクレジット後のシーンからも明らかな通り、今作は、いささか変則的に繋がっていた「3」をシリーズの本流に結びつけ、次作に向けての新展開への起点となるシリーズの中でも非常に重要な作品に仕上がっていた。  シリーズも6作目となり、正直「一見さんお断り」な状況になっていることは否めないけれど、「EURO MISSION」という軽薄な邦題にミスリードされて、劇場鑑賞を見送ってしまったことをファンとしては甚だ悔しく思う。  ハン&ジゼルの悲しい運命に対して、想定外に胸を締め付けられたことは、この娯楽映画シリーズが少しずつ培ってきた“チーム感”の結晶とも言え、ますますド派手になっているアクションシーン以上の付加価値だったと思う。  あと、タイミング的には、「エージェント・マロリー」も今年観たばかりだったので、ジーナ・カラーノのナイスなキャスティングも嬉しかった。復活したミシェル・ロドリゲス嬢との“肉弾戦”は白眉だった。   そして、2013年11月30日、ポール・ウォーカーの突然の訃報。 そのあまりに悲しくショッキングな出来事が、この映画シリーズに与える影響は当然計り知れない。 映画スターの死が、その人の周囲の人間は勿論のこと、世界中の映画ファンに悲しみを与えるということを改めて思い知った。  心より冥福を祈りたい。 ただ、叶うことなら、撮影中だったシリーズ最新作「7」の完成を待って、彼の最期の姿を心に焼きつけたい。
[ブルーレイ(字幕)] 8点(2013-12-23 14:59:00)(良:1票)
64.  ゼロ・グラビティ 《ネタバレ》 
ついに進退窮まった最後の局面において、主人公は「これは誰のせいでもない」と達観する。 それはすべてをやり尽くした上での諦めの境地のようにも見えるが、やはり、彼女がようやく辿り着いた“生きる”ということに対しての強い覚悟の表れだったと思える。  子を亡くし人生に打ちひしがれた主人公は、自分に与えられた仕事にひたすらに没頭し、その結果気がつくと「宇宙空間」に居たのだと思う。 それは彼女にとっては逃避に近い行動だったのだろう。  そこに訪れた文字通りに絶体絶命の危機。  無重力の怖さ、無音の怖さ、無酸素の怖さ、どこまでも広がる「無限」の怖さ、宇宙空間の虚無的なリアリティとそれに伴う絶対的な恐怖を描き抜いたこの映画は、一人の人間の弱さと脆さ、そして「生」に対しての神々しいまでの「執着」を導き出していく。  「宇宙」というものに少しでも興味を持った人ならば誰しも、あの「空間」に放り出されることを想像し、その恐怖に総毛立ったことがあるはず。 この映画の発端は、まさにその誰しもが覚えた恐怖感であり、紡ぎ出されるストーリーも極めてシンプルだと言える。 しかし、シンプルだからこそ、その徹底された無重力世界の描き込みの総てにおいて驚嘆せずにはいられなかった。  登場するキャラクターはほぼ2人きり。しかも映画の大部分は、サンドラ・ブロックによる“孤独感”のみで描かれる。 余計な人物描写や回想なんて完全に排して、今その瞬間の「現実」と、それにさらされた主人公の等身大の姿のみで描き切ったこの91分の映画の潔さが素晴らしい。  「結末」は誰しも容易に想像できる。 それでも、繰り広げられるスペクタクルの一つ一つに例外なく息を呑み、終始主人公と同様に息苦しさすら覚え続けた。 そして無重力下で球体化する彼女の涙を見て、こちらも涙がこぼれた。  果てに、彼女は地上に降り立ち、地球の地面に屈服する。 紛れもない重力に喜びを感じ思わず笑みを浮かべる。 赤土を握りしめ、彼女は再び立ち上がる。 映画全編に渡るあらゆる比喩は、彼女が「再誕」したことを如実に表現している。  凄い。本当に凄い映画だ。
[映画館(字幕)] 10点(2013-12-14 15:16:04)(良:6票)
65.  悪の法則 《ネタバレ》 
ラストシーン、或る人物が「お腹がすいた」と一言発し、暗転、この映画は終焉する。 その瞳は、愉悦を覚えているようにも見えるし、欲望を満たすことを続けなければこの「世界」では生き続けられないということを、この映画に登場する誰よりも“正確”に理解している人間故の深く暗い悲哀に溢れているようにも見えた。  非常に哲学的で、極めて奇妙な映画であることは間違いない。 豪華キャスト勢揃いによる麻薬取引を軸にした“犯罪エンターテイメント”と高を括って観てしまうと、虚をつかれることは避けられないだろう。  マイケル・ファスベンダー演じる主人公が、終始ただ「カウンセラー(弁護士)」と呼称されることに表れている通り、この映画ではキャラクターのバックグラウンドに踏み込むような描写は一切無い。 それどころか、彼らがどういう経緯と理由で「悪」に手を染めているのかということも明確にならないし、描き出されるストーリーの“顛末”においても、「誰がどうしたからどうなった」という、普通の娯楽映画であれば当然ある筈の「事の真相」も抜け落ちている。  もちろんそれは描き手の明確な意図によるものであり、この映画で真に描き出したいことが、表面的にショッキングなバイオレンス描写やセックス描写などではなく、善悪の境界すらも超越した、彼らが生きる「世界」の本質的な「仕組み」の話であることに他ならない。  それはまさに、野うさぎを本能的に追うチーターの姿と何ら変わりない。  「捕食者」と「被食者」というたった二つの立場しか許されないピラミッドの縮図と、その真理だ。 そこには慈悲もなければ、憎しみすらない。ただどちらかが生きるために、どちらかが死ぬという極めてシンプルな「法則」があるだけ。  そのあまりに意欲的で野心的な映画世界を、「最新作」として送り出す大巨星リドリー・スコットの映画監督しての意識の“若々しさ”と“雄々しさ”には、毎度のことながら感服せずにはいられない。 映画作品としてのクオリティーを鑑みればそんじょそこらの映画監督が撮れる作品でないことは明らかだが、御歳76歳の大巨匠が描き出すような類いの作品ではないこともまた然り。 「衰え知らず」とは、まさにこの人のためにある言葉だと言っていい。  とても誤解されやすいタイプの映画だとは思うが、だからこそ、含まれた「真意」に対しての戦慄は殊更に際立つ。
[映画館(字幕)] 9点(2013-12-08 22:47:11)(良:1票)
66.  オーメン(1976)
よりによって妻子が実家に泊まり誰もいないひとりぼっちの夜に、この有名過ぎるホラー映画を観なければならなかった一週間レンタルの最終日。 ホラー映画に限ってはまだまだ“ビギナー”なので、どうなることかとビクビクしながら観すすめたが、流石はホラーというジャンルを超えた「名作」の呼び名に相応しく、“しっかり”と面白かった。  “恐ろしい”映画であることは言わずもがなだが、描き出される物語をどう「解釈」するかによって、この映画の“恐ろしさ”は大いに様変わりすると思う。  映画が伝える雰囲気のまま、悪魔の申し子“ダミアン”の禍々しさに恐怖することも勿論正しかろう。 一方で僕は、この映画が伝える「恐怖」のもう一つの側面に震えた。  それは即ち、この映画において、ダミアンは「実は何もしていない」という事実だ。  描き出される“おぞましさ”の殆どは、彼を崇める悪魔崇拝者の言動によるものであり、主人公のグレゴリー・ペックらを襲う恐怖の正体も、神にしろ悪魔にしろ狂信者たちの煽動によって導かれたものに過ぎないのではないかということ。  ラストの顛末に明らかなように、端から見れば、主人公の姿は完全に気が狂った父親にしか見えず、この映画が描く本当の恐怖は、「悪魔」の存在などではなく、人間が元来持っている不安定さとそれに伴う危うさそのものであることに気付かされる。  ジェリー・ゴールドスミスの荘厳な調べに誘われて、深く暗い「恐怖」というエンターテイメントを堪能した夜だった。
[ブルーレイ(字幕)] 8点(2013-12-03 01:01:37)(良:2票)
67.  ダイ・ハード/ラスト・デイ
劇場公開時、足を運ぶか否か迷った。“当たり屋”覚悟で劇場鑑賞しても良かったかもしれないが、やっぱり行かない方が良かったろうと思う。劇場でこの映画を観たなら、より一層の「憤慨」は避けられなかっただろう。  “ロートル”役が板について久しいブルース・ウィリスの“ただの”最新作なのであれば、苦言は大いにあろうが、憤慨するまでには至らないだろう。 馬鹿みたいに派手なアクションシーン自体はそれなりに見応えはあるし、昔腕を鳴らした老主人公が、スパイの息子をフォローしてアクションを繰り広げる展開は、目新しさこそないが基本的な娯楽性は備わっていたと思う。 ただしだ。それはこれが「ダイ・ハード」でなければという話だ。  第一作目の公開から25年の長き月日が経っていようが、端からおっさんだった主人公が完全な老人になっていようが、禿げ上げていようが、この映画に「ダイ・ハード」という冠を付け、客を集めている以上、ただの酷評では留まらない憤慨は避けられないというもの。  まあ何が悪いと聞かれても、「全部悪い」としか言いようがないのだけれど、敢えて一つ絞るならば、アクション映画の大傑作である一作目「ダイ・ハード」に対しての敬愛がまるで無いということだろうか。 一作目程の完成度など求められるわけもなく、それを越えることなど端から望んではない。 ただせめて、シリーズの主人公であるジョン・マクレーンという男の基本的なキャラクター性とか、過去作を踏まえたストーリーテリングとか、この映画がシリーズ作の一つであるということの最低限の「認識」くらいは持たせてほしかったと思う。  ま、この映画の場合、そういうシリーズへの愛着に伴う非難以前に、チェルノブイリでの安直なクライマックスシーンと、見識を疑う“中和ガス”が登場した時点で、完全アウトだけれど……。
[ブルーレイ(字幕)] 1点(2013-10-30 23:31:15)(良:3票)
68.  トランス(2013)
冒頭、ヴァンサン・カッセル率いる強盗団がオークション会場を急襲する。主人公のジェームズ・マカヴォイも含めて、その面々の面構えが絶妙で惹き付けられた。 俳優の表情というものは、勿論映画づくりにおいて最重要なポイントで、それがきちんと押さえられている映画は、ある程度信頼していいと思う。  そういう映画なので、終始面白く見れたことは間違いない。入り組んだストーリーテリングに絡む人間描写に引き込まれ、観客として最後まで謎を追い求められたのだから、この手の映画として“悪くはない”と断言出来る。 しかし、映画が終わり立ち返ってみれば、大いに腑に落ちない要素が目白押しの映画であることも間違いない。  こういう人間の「記憶」をサスペンスの中核に据えた映画は、観る者を幾重にも重なる謎へ一気に引き込むけれど、許容範囲をしっかりと設けておかないと、際限がなくなり一気にリアリティに欠けるものになってしまう。 ダニー・ボイルらしい繊細且つ大胆な映画世界の中で濃厚なサスペンスが繰り広げられていたけれど、残念ながら少々行き過ぎてしまっている。  決して納得が出来ない話ではないのだけれど、こういう顛末なのであれば、主人公をはじめとする中盤までの人物描写が、導き出される「真相」に対してあまりにアンフェアだったと思う。 結果、クライマックスにかけてこれほど主人公の人格が“急降下”していく映画も珍しく、最終的に誰にも感情移入が出来ないまま、映画自体が突っ走ってしまった印象を覚えた。  なんだかんだ言って、結局、ヒロインが最も悪魔的な行為をしているんじゃないかと思えるし、そうなるとあのエピローグは極めて無責任で、嫌悪感を覚えてしまった。  まあしかし、脳味噌を吹き飛ばされたヴァンサン・カッセルが喋り出したり、昨今の娯楽映画には珍しくヒロインの強烈なフルヌードが唐突に映し出されるなど、想像以上に個性的な映画であることは確かだ。 故に、ルックの秀麗さに反して完成度が高いとは言えないが、無下に否定も出来ない。  タイトルに相応しく、良い意味でも悪い意味でもとても「倒錯的」な映画と言えると思う。
[映画館(字幕)] 6点(2013-10-20 23:07:32)(良:1票)
69.  ウルヴァリン:X-MEN ZERO
マーベルをはじめとしたアメコミ映画は大好きで、大概満足するのだけれど、「X-MEN」シリーズだけは今ひとつ乗り切れず、好きになれなかった。 その最大の要因は明らかで、主人公であるウルヴァリンにどうしてもヒーローとしての魅力を感じることが出来なかったからだ。 一方で、彼が主人公ではない2011年の「ファースト・ジェネレーション」には相当満足したので、やはりウルヴァリンというキャラクター性が性に合わないということだろうと、自身で結論づけていた。  しかし、その結論は必ずしも正しくはなかったようだ。 “戦犯”のレッテルを貼付けていたウルヴァリンの「過去」を描いた今作は、想定を大きく外れて、きっぱり面白かった。 そもそも、アメコミ映画は大好きだけれど、その原作であるアメコミ自体には全く造詣が深くないので、「X-MEN」という作品自体の性質と、その一キャラクターとしてのウルヴァリンの存在性を理解出来ていなかったのかもしれない。  「X-MEN」というアメコミ作品の主役は、あくまでミュータント集団である「X-MEN」という群像そのものであり、ヒュー・ジャックマンが主人公然として演じるウルヴァリンというキャラクターをメインに見据えるべきではなかったのだろう。  ウルヴァリンの個人的な前日譚である今作を観て初めて腑に落ちたのだが、過去の記憶をいっさいがっさい失くして、盲目的に己の「異端性」を呪うしか術の無いキャラクターが、その辺のアメコミの主人公と同様にヒーロー然と振る舞えるわけがなく、どこか屈折し“陰”に傾いてしまうことは必然だ。  このキャラクターにこういった“経緯”があるということを全く知らなかったので、おおよそアメコミ映画の主人公らしくない彼に拒否感を感じてしまっていたのだと思う。  前日譚ではあるが、当然演じるヒュー・ジャックマンにとっては、3作品経た上での(当時の)最新作であるので、そのフィット感は彼自身のスター俳優としての進化も相まって、当然最高潮であり、ウルヴァリンという苦悩に溢れたキャラクターの出自から記憶を失ってしまうまでの様を描いた今作は、物語としても魅力的で、ちょっと感動的ですらあった。  順番は後先になったが、「ファースト・ジェネレーション」の高揚感に続いて、今作の意外な満足感。一気にこのシリーズそのものが好きになりそうだ。 ガン無視だった最新作「SAMURAI」も俄然観たくなってきた。
[地上波(吹替)] 7点(2013-10-03 23:06:45)(良:2票)
70.  トランスポーター3 アンリミテッド
良い意味でも悪い意味でも、「これぞトランスポーター」と言える映画だった。  ジェイソン・ステイサム演じる主人公の、プロフェッショナル精神をガンガン押し付けてくるわりには、あらゆる面で突っ込みどころ満載のキャラクターが健在。 致命的な「粗」とも取られかねないキャラクター描写の脆弱さを、圧倒的なアクションパフォーマンスと、ジェイソン・ステイサムならではの愛嬌で、「娯楽」の一つの要素としてまかり通しているのは、彼のアクション俳優としてのスター性によるところが大きい。  そういった主人公のある意味“ブレない”キャラクター性が安定しているので、シリーズのファンであれば充分に楽しめる映画には仕上がっているとは思う。  ただし、そのような贔屓目で見たとしても、いただけない部分が確実にある。 一つは、ストーリーのネタが一作目とあまりに類似し過ぎている。「運び屋」として運ぶものが、何やら訳ありの女一人という設定は、一作目と同じでありあまりに工夫が無い。  そして二つ目は、その運ばれる女、つまりはヒロインという位置付けの女優に魅力が無さ過ぎた。 無名のロシア系女優が、例によってリュック・ベッソンに見初められて大抜擢に至ったようだが、あまりに個人的な趣味趣向に走り過ぎてしまっている。 赤毛を携えたミステリアスな風貌は、「フィフス・エレメント」で同じくベッソンに抜擢されたミラ・ジョヴォヴィッチを彷彿とさせなくはないが、よくよく見れば見るほどそばかすだらけの顔が気になってしまい、ヒロインとして受け入れることが出来なかった。  終盤になる頃には、何とかヒロインのキャラクターに感情移入することは出来ていたので、この新人女優の可能性そのものは否定はしないけれど、やはりこの手アクション映画のヒロインには、分かりやすいチャーミングさが必要だと思う。  悪党チームの巨漢要員にK-1王者セーム・シュルトがキャスティングされていたのに笑ったのと、ステイサムのジャケット&Yシャツアクションは馬鹿馬鹿しさと新鮮味が相まって良かった。  というわけで、決して褒められる映画ではないが、なんだかんだと見所は備えている映画だと思う。  あ、首筋の「安」タトゥーの意味については深入りしません……。
[インターネット(字幕)] 5点(2013-09-27 17:02:16)(良:1票)
71.  ザ・バンク -堕ちた巨像- 《ネタバレ》 
ファーストカットのアップから始まり、終始、主演俳優クライヴ・オーエンの濃ゆい顔面が印象強い映画だった。 特に好きでも嫌いでもない俳優だけれど、改めて振り返ってみると、結構印象強い映画に多数出演しており、決して派手さはないけれど存在感のある俳優だと思う。  そのクライヴ・オーエン主演で、相手役は、これまた地味だけれど確固たる存在感を放ち続けるスター女優のナオミ・ワッツ。 この二人が組むに相応しく、映画は地味で堅実で骨太な世界観を構築している。  世界的な大銀行における巨悪と陰謀を、主人公らが単身対峙し、暴こうとするストーリー展開は、この手の映画ではよくあるプロットではある。 しかし、前述の主演俳優らの堅実な存在感と、ドイツ人監督のトム・ティクヴァの構成力が冴え、独特の緊迫感と映画的な美しさに溢れた見応えのある作品に仕上がっていると思う。 観る者を引き込む多彩なカメラワークは流石で、息を殺しての尾行シーンから突如として激しい銃撃戦に展開させる流れなどは白眉の出来映えだった。  映画のラストは、再び主演俳優の表情を画面いっぱいに映し出して終わる。 ファーストカットのそれと異なり、巨悪を追い詰めはしたが、結局何も変えられなかった主人公の表情は虚無感に溢れている。 カタルシスには程遠いラストだったが、この映画の顛末としてはとても相応しい幕引きだったと思う。  概ね良い仕上がりの映画なのだが、各キャラクターの造形には一抹の消化不良感が残る。 主人公をはじめとして、それぞれのキャラクターへの踏み込みが弱いので、今ひとつ感情移入できない部分もあった。 敵役関連のキャラクターも良い風味は出していたのだが、味わい深いところまで造形が及んでいたとは言い難く、そういう部分がラストの呆気なさに繋がってしまったとも言える。
[インターネット(字幕)] 6点(2013-09-07 16:06:54)
72.  ワールド・ウォー Z
どこかの悪大佐じゃないが、「人がゴミのようだーーー!」と思わず叫びたくなる“見せ場”は、トレーラーで何度も観ていてもやっぱり衝撃的で、個人的にはその過剰なまでの仰々しさが非常に好ましかった。  「ゾンビ映画」ということを大々的に触れ込むと、客層が限定されると思ったらしく、いやに“家族愛”を強調した国内プロモーションには辟易したが、言うまでもなく、この映画は紛れもない“怒濤”の「ゾンビ映画」である。  ただし、基本設定として描かれるストーリーテリングは、あくまで感染症のパンデミックであり、必然的に全世界的にゾンビが大発生している状態であるので、前述の通り良い意味で仰々しい映画世界は、恐怖性というよりもエンターテイメント性に富んでいて、僕のようなホラーが苦手な者でも程よい恐怖感と共に終始楽しめる「ゾンビ映画」に仕上がっていると思う。  “人体”そのものが虫の大群のように襲いかかる衝撃のビジュアルもさることながら、印象的だったのは、主演のブラッド・ピットの“目尻の皺”だ。 「ああ、もうこんな深い皺があるんだ」と稀代のハリウッドスターの老いを感じる一方で、これまでのブラッド・ピットの主演作のどれよりも、彼の「生身」の姿が投影されている映画のように思えた。  国連の紛争地域担当エージェントという他の映画ではあまり聞き慣れない役柄が、私生活のパートナーであるアンジェリーナ・ジョリーの国連親善大使としての活動から着想を得ているだろうことは言うまでもなく、途中両親を亡くした少年を家族の一人として受け入れる様なども、難民の子供たちを養子としている私生活の投影そのものだろう。  そういう意味で、プロデューサーでもあるブラッド・ピットが、俳優業を礎にして積み上げてきた己の人格そのものを反映したとてもパーソナルな映画であるとも言えると思う。 それがただの自己満足に終始するでなく、きちんとした娯楽性を備えた作品に昇華されていることが、ハリウッドのトップをひた走る映画人として“エラい”ところだと思う。  どうやら例によって続編の企画もあるらしい。 今作では、都合の良い解決策で安直なハッピーエンドを描いているわけではないので、ここからどう展開していくのか非常に興味深い。  まあいずれにしてもはっきり言えることは、「全力疾走」が出来るゾンビほどコワいものはないとうことだろう。 
[映画館(字幕)] 8点(2013-08-11 00:07:37)
73.  ヴァイラス(1999)
「遊星からの物体X」「エイリアン」「ザ・グリード」と数々の“モンスター映画”の二番煎じオンパレード映画であることは間違いない。 ただし、同じような趣向でも、もっとどうしようもない映画は沢山あるし、二番煎じにすらなっていないものも多い。 そういう“駄作”の存在を踏まえると、今作の出来映えはそれほど悪くはない。 “B級”であることは間違いないが、“B級”故に充分な「見所」は備えている作品だと思える。  まず、「トゥルー・ライズ」以来のファンとして、ジェイミー・リー・カーティスが主演ということだけで、個人的にはかなりアツい。 「エイリアン」のシガニー・ウィーバーを意識した配役であることは明らかで、この女優のことをよく知らない人にとっては、「なんでこんなオバさんが主人公なんだ?」と思うのかもしれないが、少なくとも一部のファンにとって、このキャスティングは作品の充分な魅力になり得ている。  そして、ウィリアム・ボールドウィン、ドナルド・サザーランド、クリフ・カーティスと、脇を固めるキャストの“地味な豪華さ”も映画ファンにとっては味わい深い。 特にドラルド・サザーランド御大の最終的なぶっ壊れぶりは、笑ってしまうが、見ないと損だと思う。  更には、「トランスフォーマー」や「ハンニバル」を時を越えて“パクっている”と思わずにいられないてんこ盛りぶりも、この映画の立ち位置に相応しい要素だと思う。  ラストが意外に大人しく終わってしまうので、もっとストーリー的にも暴走しても良かったし、その可能性がまったく無いとしても「続編」への布石は打っておいてほしかった。 そうであれば、もっと問答無用に褒められたかもしれない。
[インターネット(字幕)] 5点(2013-06-05 23:07:31)
74.  バンク・ジョブ 《ネタバレ》 
もはや娯楽映画のジャンルとしてはやり尽くしてしまっている感もあるケイパームービー(いわゆる金庫破り映画)。 今さら、どんなアイデアを持ち込んだところで、往年の名作の二番煎じ、三番煎じになってしまう可能性は極めて高く、中々“新しさ”を求めることは難しい。 ただし、今作においては、これまでのケイパームービーにはあまり無かった趣向を楽しむことができた。更にこれが実話を元にしてるってのだから、ちょっと驚く。  前述の危惧に漏れず、今作においても“金庫破り”そのものの展開は極めてオーソドックスで、過去の映画で何度も描かれてきたであろうプロットで構築されている。当然そこに目新しさは殆どない。 人生にくすぶり気味の主人公が、ふと持ちかけられた銀行の金庫破りに一発逆転を懸ける。 悪友を引き連れつつ、計画の片棒を担ぐ専門職を集めるくだりは、無駄無くテンポが良かったと思う。 金庫破りが成功するかしないかの展開も、緊張感とユーモアがバランスよく配置されており、娯楽性の巧さを感じた。 このあたりは、ベテラン監督ロジャー・ドナルドソンの手練ぶりが出ていたと思う。  なんだかんだはあるものの、金庫破りそのものは案外すんなりと成功してしまう。 「なんだ余裕だな」とその顛末に若干の物足りなさを感じ始めたところで、この映画が持つ本当のエンターテイメントが始まる。  破った金庫が、裏社会の面々御用達の貸金庫だったことから、主人公一味は悪党から政府の裏組織に至るまで、英国社会の表裏のあらゆる組織から追われる羽目になる。 この三つ巴、四つ巴の攻防が非常にエキサイティングに描かれている。しかもそれが実話だというのだから、殊更に面白味は深まる。  もちろん、この全てが事実だなんてことはないのだろうけれど、それでも実際にあった事件を元にして巧みなエンターテイメントに仕上げていることは事実。 あまりアクションシーンを与えられていないジェイソン・ステイサムの主人公ぶり、そして、非道なポルノ王に扮したデヴィッド・スーシェも印象的。
[インターネット(字幕)] 6点(2013-03-17 19:18:33)(良:1票)
75.  アタック・ザ・ブロック
漆黒の闇の中で蛍光色に光るエイリアンの牙、真っ黒なフードを被った少年ギャングの目、両者は互いにメタファーとして対峙し、“襲う者”と“襲われる者”が突如として入れ替わり立ち替わる。 ヒップホップに彩られたSFとバイオレンスとコメディの中で痛烈な社会風刺が差し込まれる。 この英国産のエンターテイメント映画は、ポップカルチャーの体裁を示しつつ、想像以上にハードで、それに伴うカタルシスに溢れた映画に仕上がっている。  少年ギャングが巣食う団地にエイリアンが襲来してきて決死の攻防を繰り広げるというプロットだけを聞くと、とても気軽に楽しめる類いの娯楽映画のように思う。 実際、この映画は表面的にはそういう方向性でプロモーションされているが、そもそもの発端となる舞台設定、ストーリー展開、そして映画の到達点は、非常に根深い社会問題に根ざしていて、予想外に深い感慨を観客に訴えてくる。  英国の社会問題となっている低所得者層の不遇。そこからある意味必然的に派生している暴力と犯罪。 文字通り“降って湧いた”凶暴なエイリアンとの攻防の中で、少年たちは、暴力と明確な「死」に曝される。そのプロセスにおいて、自らが置かれた社会環境の問題性と、自らが犯してきた罪の深さを知っていく。  前述の通り、この映画は表面的には敢えてライトに作られている。上映時間も88分と短く、映画内の時間経過も、事態の異常性のわりにはほんの2~3時間程度の出来事として描かれる。 そういったコンパクトさこそが、この映画で描かれていることが社会の「縮図」であるということの明確な意思表示のように思える。  この映画の製作スタッフは、自らが楽しみながら、あらゆる人々にとって楽しい映画を作り、同時に大きな付加価値を付けることに成功している。見事。
[ブルーレイ(字幕)] 8点(2013-03-11 11:12:22)
76.  スノーホワイト(2012)
このところのシャーリーズ・セロンは、“役選び”がとてもうまい。作品自体の善し悪しは別にして。 「ヤング・アダルト」しかり、「プロメテウス」しかり、そしてこの「スノーホワイト」しかり。  アカデミー賞を受賞した「モンスター」以降、与えられた役においてとことんまで“汚れられる”ということが、この美しい女優の最大の強みだろう。 類稀な美貌と表裏一体の「劣化」を伴うキャラクターを演じることにおいて、今彼女以上の適性を持ったスター女優はいまい。  そんなわけで、今作におけるシャーリーズ・セロンの“魔女役”はまさにハマり役だった。 何やら暗い過去を抱えつつ、他人の若さと美を吸い尽くし、残虐非道な悪役を貫き通す様は、彼女のクールな美貌に相応しい。 そして、正義に敗れ文字通り仮面が崩壊する様の恐ろしさも、彼女だからこそ成立した表現だったと思う。  と、悪役でありながら今作において殆ど主役扱いのアカデミー賞女優のパフォーマンスは賞賛に値するけれど、正直この映画の見所はただそれだけと言っていい。  映画全編通して映像に一定のクオリティーは備わっているものの、すべてのシーンが他作の使い回しのように見え、オリジナリティーがことごとく無かった。 もし、「ロード・オブ・ザ・リング」や「もののけ姫」などの作品がこの世に無いのならば、手放しで感嘆できるのだろうけれど、もちろんそうでない以上生じるのはチープな二番煎じ感のみだ。 それなりにレベルの高いスタッフは揃っているのだろうが、そこに「作家性」が皆無だったことが致命的だったのだと思う。  この映画の本来の主人公スノーホワイト即ち白雪姫は、彼女を守るべく倒れていった数々の“屍”の上に立ち、“統べるもの”へと成長していく……という風に描こうとはしている。 世界一有名な御伽話をベースにして仕立て上げられたダークファンタジーのその方向性自体は良かったと思う。 が、それも充分な尺のわりには酷く中途半端で、主人公の成長自体を描ことが出来ていないので、作品としての深みを生むには至っていない。  そして個人的に何よりもこの映画のマイナス要因となったのは、予告編で映し出されてたいくつかの印象的なカットが本編には無かったこと。 映画のプロモーションにおいてはしばしば見受けられることではあるが、どういう事情があるにしても観客に対してはあまりにアンフェアだ。
[ブルーレイ(字幕)] 4点(2013-03-03 15:42:42)
77.  レ・ミゼラブル(2012)
2012年、年の瀬。たぶん、今年一番泣いた。 生命をまっとうした人物たちが、人生の讃歌を高らかに歌い上げるラストシーンに涙が止まらなかった。  こんなにも泣くつもりはなかった。「レ・ミゼラブル」という物語については、原作も読んだことがあるし、過去の映画化作品も観ていたので、描き出されるストーリー自体に感動こそすれ号泣などはすまいと思っていた。 実際、涙が止まらなかった直接的な理由は物語に対しての感動によるものではなかったと思う。 映画の持つ素晴らしさ、音楽の持つ素晴らしさ、芸術という表現そのものが持つ果てしなく大きな「力」に対して、感動し、むせび泣いてしまったという感じだった。  この物語に本質的な意味で“間違っている”人物は登場しない。 すべての人物は、ただただひたすらに“生きる”ということに執着しているだけだ。必死に生き抜こうとしている彼らを誰も否定することなど出来ない。 ただ、だからこそ人間同士はぶつかり合い、すれ違い、「人間」であるが故の悲喜劇が生まれる。 この物語が、時代と国を越えて愛され続けているのは、そういう人間そのものの本質的な葛藤とそれに伴う壮大なドラマが、決して色褪せるものではないからだと思う。  その色褪せない人間ドラマが、音楽、歌唱、映像、演技、それらすべてをひっくるめた「光と音」で彩られる。 スクリーンいっぱいに繰り広げられるその映画世界は、もはや奇蹟的で、神々しさすら感じた。  そんな映画にこれ以上言葉など必要ない。 今この時季にこのミュージカル映画を観られたことへの多幸感に対して、立ち上がって拍手を送りたくなった。 いつか必ず舞台版も観たい。
[映画館(字幕)] 10点(2012-12-23 00:57:58)(良:3票)
78.  007/スカイフォール 《ネタバレ》 
良い意味で非常に「懐古的」な作品に仕上がっていることは間違いない。 今作では、時代の流れと共に「スパイ」という役割の時代錯誤感が問われ、存在そのものが追いやられる立場となるというストーリーが描かれる。 そして、今一度「スパイ」という存在の意義と必要性、そして“格好良さ”を「007」シリーズが培ってきたパターンを存分に生かして見せてくれている。  シリーズファンに対してのサービス精神が旺盛な分、往年の過去シリーズ作品の幾つかを観ていないと、面白味が半減してしまう部分が多々あることは否めない。(特に「ゴールドフィンガー」の鑑賞は必須!) アストンマーチンの“赤いボタン”などは、往年のシリーズファンにとっては最高のプレゼントだったに違いない。  そういった全体的にとても懐古的な「007」らしい映画世界は、ジェームズ・ボンドというキャラクターが、「成熟」しつつあるという表現と直結しているように思えた。 このダニエル・クレイグ版「007」シリーズの最大の醍醐味は、ジェームズ・ボンドという絶対的主人公の“未成熟さ”にあると思っている。 一流のスパイと称されるにはあまりに未成熟な故、この新シリーズにおけるジェームズ・ボンドは、あらゆるものを「喪失」してきた。この最新作においても、結果として彼はあまりに“大きなもの”を失ってしまう。 その「不完全さ」が、良い意味でも悪い意味でも「007らしくない」という評価を生んだことは明らかだろう。  ただ、今作ではそんな主人公ジェームズ・ボンドが、徐々に「007」らしさを見せ始める。それは即ち世界最高の諜報部員に相応しい「余裕」が垣間見えてくるということだ。 主人公に徐々に備わってきた「007」らしさ、それはまさに数々の過酷な「喪失」からの「誕生」であり、そこから「成熟」に至るプロセスこそが人気シリーズを「リブート」することの最大の価値だということを高らかに物語っているように思えた。  史上最高齢の“ボンドガール”との別れに惜別の念を感じつつも、新M、新Q、そして新マニー・ペニーの相次ぐ新登場には、もう問答無用にニヤニヤしながらエンドロールを迎えるしかなかった。  さあて、喪失からの誕生、そして成熟までの準備は整った。次作では、ダニエル・クレイグ版ジェームズ・ボンドの“集大成”を見せつけてほしい。
[映画館(字幕)] 9点(2012-12-06 12:26:34)(良:1票)
79.  裏切りのサーカス 《ネタバレ》 
ゲイリー・オールドマンの秘めた感情が読めない瞳が、眼鏡の奥で硝子玉のように鈍く光る。 彼が演じるスマイリーという男が、この物語の中で貫き通したものは一体なんだったのだろう。 それは正義だったのか、野心だったのか、それとも暗恨か、嫉妬か。 ラストカットで主人公が携えた微笑には、彼が抑え込んできた様々な感情が一瞬垣間見えたように思えた。  インフォメーションから伝わっていたようなストーリー的な難解さは実はない。 人と思惑が入り交じり、いかにも入り組んでいるように見えるが、最終的に解きほぐされた顛末は、呆気ない程に単純で驚きはなかった。このキャスティングで、“彼”が裏切り者では工夫がなさ過ぎると思った。 正直なところ、その呆気なさに対して満足度が高まり切らなかったことも事実。人物関係の説明描写が明らかに不足したまま固有名詞を並び立てる語り口は、ストーリーをただ無意味に難解じみさせているようで、サスペンスとしてアンフェアに感じた。 そのことが映画として必要な娯楽性の不足に直結していることは否めない。  ただし、“研ぎすまされた”という表現がまさに相応しい俳優の演技と、映像構築も含めた演出は、文句なしに際立っている。 さめざめしくも美しい陰影の濃い映像世界はこの物語に相応しく、そこに息づく俳優たちはそれぞれ最高のパフォーマンスを見せていたと思う。 特筆すべきは、やはり主演したゲイリー・オールドマンの素晴らしい存在感だろう。 一貫して感情を高ぶらせることのないこの映画の主人公は、彼のフィルモグラフィーの中でも最も「静的」なキャラクターだったのではないかと思う。 終始、淡々とした佇まいの中でも、決して平坦ではない、深い人物像を構築してみせたと思う。  ゲイリー・オールドマンは、今作でアカデミー主演男優賞も有力候補だったので是非穫ってほしかった。 そして、ナタリー・ポートマンもとい“マチルダ”から“スタンフィールド”へのオスカー授与シーンが見たかった!
[ブルーレイ(字幕)] 7点(2012-11-24 10:36:58)(良:1票)
80.  007/ゴールデンアイ
5代目ジェームズ・ボンドとなったピアース・ブロスナン版「007」シリーズの第一作目。自分自身の世代的には(1981年生)、最も馴染み深い「007」映画であってもいいはずだろうが、ようやく初鑑賞に至った。 今作の後の「トゥモロー・ネバー・ダイ」と「ワールド・イズ・ノット・イナフ」は公開時に観ていて、正直なところそれぞれ満足度が低かったことが、ブロスナン版の「007」に対する評価を確定付け、ひいては同シリーズ全体に対しての魅力減に繋がっていたように思う。  今作は、当時低迷していた同シリーズの人気を回復させ、批評的にも興行的にも成功したという評価だったので、今さらながら期待して観た。 結論としては、決して悪くはないけれど、特筆して「面白い!」ということも決してないというところか。  映画を構成する様々な要素があまりに“見慣れている”ということに尽きる。 事件の発端も、悪者の企みも、主人公のピンチとそれの回避方法も、あらゆる場面で「まあそうなるんだろうな」と容易に予測がついてしまう。 当然ながら目新しいワクワクハラハラなんてあるわけがなかった。  またこのシリーズの特徴からすれば、“ボンド・ガール”に色気がないことも致命的だったかもしれない。イザベラ・スコルプコ演じるキャラクターは、コンピュータ技師という設定もあってか、終始露出が少なく、「007」ならではの娯楽的要素を欠いてしまっていたと思う。 敵方の“裏・ボンドガール”を演じたファムケ・ヤンセンは、分かりやすいほどにエロい言動を繰り広げ色気はあるのだが、“超ハードS”なキャラクターなのでちょっと引いてしまった。  ショーン・コネリー版やロジャー・ムーア版の過去のシリーズ作品のように、もう少し時が経てば、オールディーな風合いが加味されるのかもしれない。 しかし、今の時点では中途半端な古臭さばかりが目につき、マイナス要素の方が大きいことは否めない。
[DVD(字幕)] 5点(2012-11-23 02:21:02)
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