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1.  シャイニング(1980) 《ネタバレ》 
ホラーだというのに画面はいっつもピーカン照りというか、暗い照明のシーンなんて皆無。それで、その明るさでもって恐怖感をかもし出させるような演出であり、やっぱりただ事ではない作品なのだと思う。   あらためて、伝説になっているジャック・ニコルソンの怪演などよりも、恐怖におののくシェリー・デュヴァルの演技の恐ろしさに釘付けになってしまい、全部観終わったあとにその部分だけ(ジャックの原稿を読んでしまい、ジャックに追いつめられて階段を後ろ向きに上って行くシーン、それからジャックがドアを斧でぶち割る背後で恐怖に叫ぶシーン)二度見してしまった。すっごい!
[CS・衛星(字幕)] 9点(2014-11-22 12:35:01)
2.  第三の男 《ネタバレ》 
 第二次世界大戦後のウィーンの街、その地政学的な状況がひとつの大きな背景であり、そしてもうひとつ、アントン・カラスのツィターの音楽もまた、決定的な背景を形成している。   さいしょにオーソン・ウェルズがその顔を見せる場面は、「シャイニング」のジャック・ニコルソンぐらいの、あるいはそれ以上のインパクトがあるかなあ。映画史の中の名シーン。地下水道の追跡(ここは短いカットの積み重ね)、そしてあのラストシーン(長回しだ)などもすっばらしいんだけれども、わたしはアンナ役のアリダ・ヴァリが、警察に連行されてのシーンの演出が好き。「おお、映画やなあ」と、うならされる。   前半の叙述が今の映画とはずいぶんと異なる感じで、そういうところでは現在の映画文法でリメイクされたものを観てみたい気もする。監督は、そりゃあデヴィッド・フィンチャーに決まってる。
[CS・衛星(字幕)] 9点(2014-11-22 12:30:52)
3.  カプリコン・1 《ネタバレ》 
宇宙飛行士のひとり、サム・ウォーターストンの逃亡中のひとりごとがすばらしい。「屋根の上」が「崖の上」につながるというオチ。‥‥意外とカメラとかがんばっていて、思いもかけない長回しとかクローズアップに惹き付けられてしまった。むかしのハリウッドは意欲的だったんだなあという感慨。ヘリコプターのオペレーションとかも、観ていても「そりゃあ危険だろうが」というギリギリのところをやってる感じで、この「ヤル気」には感銘を受けた。カレン・ブラック、ブレンダ・バッカロ、そしてテリー・サラバスらの客演もみごと。脚本でいえば、エリオット・グールドは(本来ならば)もっとかんたんに抹殺されちゃうことが想像できるからアレだけれども、皆さんに不評のラストは、コレでいいんだと思ってます。 
[CS・衛星(字幕)] 7点(2014-01-17 16:55:11)(良:1票)
4.  スラムドッグ$ミリオネア 《ネタバレ》 
日本でも、京都とかで、ああいう「ニセ観光ガイド」がいたりしたら面白れえなあ。
[DVD(字幕)] 8点(2013-11-24 09:15:07)
5.  回転 《ネタバレ》 
いやあ、すっごいですよね! この映画! みんな、「シャイニング」のジャック・ニコルソンとかを「すごい!」っていうけれども、こっちの、デボラ・カーの、すさまじさといったら! いやあ、もう、あきれかえりました。眼を見開くとこの人、黒目のまわりが上下左右ぜんぶ、白目になるんですね。そういうこと誰でも出来るのかどうか、知らないけれども、もうこの映画でのその効果は抜群! このスクリーンのなかで、デボラ・カーが眼をむいただけで、観ているこちらは恐怖感に感染してしまう。   ‥‥ナチュラル言語の英語があんまり聴き取れないなかでの感想だけど、この家庭教師のデボラ・カーって、ひょっとしたら「処女」なんだよね。少なくとも、充実した恋愛体験は持っていない。それで、この屋敷の「古譚」に惹き込まれてしまうし、少年の「おやすみのキッス」にも反応してしまう(もう、この場面の、デボラ・カーの演技の、その凄さといったら!)。   いちおう、むかしにこのヘンリー・ジェームズの原作の「ねじの回転」は読んでるんだけれども、こういうヒロインの「屈折」というのは書かれていたかしらね? まあ、脚本がすべてトルーマン・カポーティだけでものしたわけでもないだろうけれども、トルーマン・カポーティも楽しんだだろうし、監督のジャック・クレイトンもまた、ここで入れ込んだわけだろう。「シャイニング」が「すごい!」なんていってるんだったら、「いやいや、もっとすごいものが!」と、このきょうれつな作品を観ていただきたいものである。大傑作。
[CS・衛星(字幕なし「原語」)] 9点(2013-10-24 14:27:04)
6.  ドラゴン・タトゥーの女 《ネタバレ》 
●二時間半があっという間だった。面白いのは先行するスウェーデン版の、美術やセッティングを意識的に踏襲しているあたりで、「ミレニアム社」の編集室や、犯人の「処刑室」など、「そこまで同じにしなくっても」と思ってしまうぐらいに、その部屋の間取り、美術、照明など、まるでおんなじ、なのである。脚本もおそらくは原作からそんなにいじっていないんだろうけれども、やはりスウェーデン版とまるでおんなじ、というところが多い。 ●スウェーデン版とちがうところ。それはまさに、主人公のリスベットという女性の解釈である。まずはもちろん役者がちがうわけで、ある意味でスーパーウーマン的な、強烈な個性をにじませた、食肉系の猛禽類をも思わせるスウェーデン版のノオミ・ラパスと対比すると、ここでのルーニー・マーラという役者はあまりに弱々しく植物的な印象で、「これではたしてリスベットを演じられるのか」と心配になるわけだけれども、つまりはこの演出において、フィンチャー版はスウェーデン版とは対称的な差異をみせている。また、この差異をきわだたせるためにこそ、あえて背景をスウェーデン版とおなじにしている、とみることもできる。 ●背なか一面に、大きなドラゴンのタトゥーを入れたノオミ・ラパス版のリスベットが、それこそアウトサイダーな生き方にどっぷりという空気だったのに対して、ちょっと遠慮がちに、背なかの左半分にドラゴンを彫ったルーニー・マーラのリスベットには、どこか「こうしたくてやっているわけではない」というような空気もあり、「まわりから追いやられてこうなってしまった」という哀しさのようなものも感じてしまう。彼女の設定は二十三歳とかそのくらいだったと記憶しているけれど、なんかフッ切れてしまっている感のあるノオミ・ラパス版にくらべると、このルーニー・マーラには、たしかに二十三歳らしい、そして女性らしい、愛し愛されたいという願望をもっていることもわかる。これがまさにラストでの、スウェーデン版とこのフィンチャー版との「違い」というものに如実にあらわれているのだろう。 ●もちろんわたしにはノオミ・ラパスの強烈な個性を否定するなどということはできないし、あちらはあちらですばらしい作品だったと思うのだけれども、わたしもやはり男だからか、こちらのルーニー・マーラの「愛おしさ」みたいなものも、やはり大好きなのである。
[映画館(字幕)] 7点(2012-04-11 08:17:39)(良:3票)
7.  ジャーロ
まるでその現場に観客も立ち会っているみたいな、ゆらぐ手持ちカメラによる映像(カメラがとめられた車に近づいて行くとき、「ほら、ここで車の窓におそわれた女性の手がはりつくぞ」と期待すると、その通りの展開になる)。いつものどこかメランコリックな音楽。極彩色の画面。画面を赤く染める血。「鮮血の美学」である。もう、ストーリーなんかどうだっていいではないか。エイドリアン・ブロディ(犯人役との二役を楽しんだだろう)も、エマニュエル・セニエも、ちょっと期待したほどでもなかったけれど、「羊たちの沈黙」以降のサイコメトリストものの影響をたっぷり受けながら、「それがどうした」みたいな演出になっているあたりが、さすがダリオ・アルジェント、である。ある意味で、「捜査」と「人命」とどちらが大切なのかという、「サイコメトリスト」否定という文脈で観られなければならないのかもしれない。唐突なエンディングには「えっ!」と、思わず笑ってしまったけれども、みごとなエンディングだと思った。やはりダリオ・アルジェント、偉大なり。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2012-01-15 09:57:06)
8.  クロムウェル 《ネタバレ》 
●タイトル・ロールのクロムウェルを演じるのがリチャード・ハリスで、対するチャールズ一世をアレック・ギネスがやっている。ドラマはほとんどこのふたりの対決の歳月を描くかたちで、大河ドラマのように進行する。リチャード・ハリスの「剛」に対してアレック・ギネスの「柔」と、わかりやすい描き分けをやっているんだけれども、アレック・ギネスの演技もあって、チャールズ一世の方により人間らしさを感じざるを得ないところはある。このチャールズ一世の王妃の造型がちょっとばかし「マクベス夫人」で、脚本もぜんたいにシェイクスピアばりの史劇を目指していただろうことがうかがえる。圧巻は二度の戦闘シーンで、まずはかなり牧歌的な雰囲気の「エッジヒルの戦い」のパースペクティヴの効いた演出があり、そんな甘っちょろいのではダメだ、とばかりにハードにせまる「ネイズビーの戦い」の迫力はそうとうなもので、わたしは堪能した。●ただ、ここでクロムウェルは圧倒的な理想主義者として描かれ、現実とのギャップのなかで苦悩しながらの選択を強いられるとするわけだけれども、ここでクロムウェルの演出のイメージとしての「剛」ということとのそしゃくがあんまりよろしくないというか、リチャード・ハリスはたしかに熱演でいいのだけれども、ちょっとばかしその演技、そして演出が一面的にすぎるというのか、どうもわかったようなわからないような、それでいいのか、というような気分にさせられてしまうことはたしかなのである。この演出でいけばファシストも英雄になってしまう。そういう感覚は抱いてしまうわけである。 
[CS・衛星(字幕)] 5点(2011-06-05 13:14:46)
9.  キラー・インサイド・ミー 《ネタバレ》 
●原作のように主人公のモノローグを入れての進行なのだけれども、じつは核心のところでその主人公がなにを考えているのか、ということはモノローグからはみごとにオミットされている。これがこの作品ではうまくいっていて、モノローグのぶぶんは主人公のノーマルさを浮き立たせ、ところが映像では主人公ではそのノーマルさを裏切る非道さを際立たせることになる。だから主人公のなかにごくふつうの常識人と、そこからは想像できない人非人ぶりとが同居しているということが、原作以上にはっきりと示されることになると思う。「愛してる。すぐ終わる」と語りながら唐突に女性を殴り殺そうとする主人公が観るものに与えるショックは、そのケイシー・アフレックのなにげない顔とあわさって、尋常のものではない。ウィンターボトムの演出も、原作のストーリーを追うように見えながら、おそらくはストーリーなんて重視していないというか、この異常な主人公の造型をきっちりと組み立てることにのみ専念しているようではある。 ●わたしはもうほとんど原作をおぼえてなどいないのだけれども、おそらくたしかにこのようなストーリーだったとは思う。しかし、あきらかにある一点から先はこれは主人公の妄想というか、まちがいなく非現実として演出されている。お膳立てはとにかく現実と見まがうようにストーリーは続くのだけれども、もうここからあとはほとんどデイヴィッド・リンチの世界というか、現実とも非現実ともつかない、主人公にとっては甘美なことであろう破滅の世界がくりひろげられる。 ●医師の息子として教養ある環境に育った主人公は、書斎にすわってマーラーを聴く。書棚には膨大な量の書物が並んでいる。いっぽうで舞台となったアメリカ西部の荒んだ環境はBGMのカントリー・ミュージックなどでもあらわされ、とくにラストのSpade Cooley & His Western Band による「Shame On You」の、その一見陽気な曲調と辛らつな歌詞との対比は強烈である。ぜんたいにそういうカントリー・ソングの連なりでストーリーを引っぱって行く演出はみごとなもので、ここはさすがに音楽の取り入れ方のうまいマイケル・ウィンターボトムであると、うならされてしまうのである。  
[映画館(字幕)] 8点(2011-06-01 14:28:43)(良:1票)
10.  アラビアのロレンス 完全版
 とにかく、ロング・ショットで映される砂漠の景観の雄大さ。やっぱりこれは映画館の大スクリーンで観なくっちゃダメでしょ、という感じになる。デヴィッド・リーンとしては、ジョン・フォードのお得意のモニュメント・ヴァレーなんか、この砂漠の雄景に比べたら箱庭みたいなもんだぜえといわれるようにしてやるという対抗意識もあったかもしれない。ベドウィン族はどうみても西部劇のインディアンだし。これ以後の映画でいえば「スターウォーズ」の砂漠、「風の谷のナウシカ」の腐海とかに受け継がれる光景ではないだろうか。こんかい観て、「風の谷のナウシカ」なんかぜったいにこの「アラビアのロレンス」の変奏曲ではないかと思ってしまう。  しかし、そんな映像の雄大さにくらべ、このドラマの屈折ぶりは半端ではないということになる。基本的には砂漠を舞台として、「砂漠を愛してしまった男」の一大叙事詩を描くという演出なのだけれども、どう観てもこの作品のドラマ展開にはホモセクシュアルな香りがプンプンと匂い立つ(とにかく、女性というものがまったく、これっぽっちも登場してこない映画というのも珍しい限りなのだけれども)。そこに、あまりに象徴的に「銃」という小道具(これはもちろんいうまでもなくペニスの象徴である)が何度も登場するわけである。あきらかにホモセクシャルな傾向をもつ主人公のロレンス(ピーター・オトゥールがはまりすぎ!)に対して、ナヨナヨフニャフニャしたファイサル王子(アレック・ギネス)という存在と、あまりにマッチョなベドウィン族のアウダ(アンソニー・クイン)とが彼を両サイドからはさみ、ノンケな顔をしていながらロレンスに異常な愛憎感情を持つアリ(オマー・シャリフ)がいつもロレンスのわきにいる。これにさらに、ホセ・ファーラーみたいなトルコ軍のサディストじみた将校も登場して、SM趣味まで加わってくる。こんなイヤらしい映画に誰がした!という感じであるけれども、まあわたしのなかではヴィスコンティの「ベニスに死す」にも拮抗する、偉大なるホモセクシャル映画、ということになる。そうそう、モーリス・ジャールのスコアが、素晴らしいのである!        
[CS・衛星(字幕)] 8点(2011-02-15 13:02:35)(笑:1票)
11.  トゥームレイダー
 この作品の脚本はすごい。動機もストーリーも裏付けも何もないなかで、ただデティールだけが暴走している。あちこち移動しているようでも、これだけ一直線映画というのもみたことがない。観て思考することなどまったく不要なのだ。いくらゲームの映画化だからって、これはあんまりだろうと思う。作品としては「インディ・ジョーンズ」だとか「ハムナプトラ」などの系譜から来ているのだろうけれど、とにかくここまで歴史的背景とかも描かないで勝手気ままにつくりあげる(でたらめ、ともいう)技には感服してしまう。これはこれでひとつの映画のあり方を示しているのだということだろう。「ハムナプトラ」が、まるで歴史の教科書に思えてしまうではないか。この脚本で撮り上げてしまう監督の手腕もすごい、ということになる。「ダメ」という評価と、「いいんでないの」という評価のあいだで、こころがゆれ動いた(いい方に評価したけど)。カンボジアの六手の魔神像は、ハリーハウゼンの「シンドバッド」へのオマージュ、なんだろうなあ。もうちょっと活躍してほしかった。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2011-02-02 17:30:19)(良:1票)
12.  インセプション 《ネタバレ》 
「人の夢に介入して思考の条件付けをおこなう」なんてメインの話はまったく面白いわけでもなんでもなく(つくっている方でもメインのストーリーなんかどうでもよかったんじゃないかという気がする)、サブのストーリーというか、主人公のパーソナルな部分で展開されるストーリーこそが、この作品でもっとも面白い部分に思える。そこにはいくつかのギリシア神話からの引用が垣間見られるわけで、まず主人公の「家族の待つ家に帰りたい」という願望はオデュッセウスの航海をほうふつとさせられ、この作品全体を支配するのはこの「オデュッセウス神話」ということになる。そして、この作品であらわれる「夢」はつまりは「迷路」ということであって、ミノタウロス神話こそがこの「夢の世界への介入」というコンセプトを支える。そしてもうひとつ、おそらくはもっと重要なのが、主人公が過去に「夢」のなかで失なった妻へのオブセッションであって、主人公の夢の世界にひんぱんに混入してくる妻の幻影が主人公の行動を狂わせる。これまたオルフェウス神話からの引用で、オルフェウスは冥界で妻を振り返ってしまうことで妻を永遠に失ってしまうけれど、この作品の主人公においてはこの点はちょっと変更され、夢にあらわれる現実には再会の困難なふたりの子どもの姿の(この子どもたちに再会したいという願望が「家に帰りたい」ということになるのだけれども)、その振り返った顔を見てはならない、という意識になってあらわれている。 このような、メインのストーリーからはみ出した、三つの神話の組み合わせのなかを迷う主人公のストーリーを追うことこそが、この映画を観る楽しさではないかと思ってしまう。しかし、だからすばらしい作品なのかどうかというと、やはりそのあたりは映像と観念とが合致してイマジネーションを豊かにしてくれている印象でもないわけで(映像によるイマジネーションがまるで喚起されないのがこの監督の特徴だと思う)、じつは非常に似通ったプロットなのだといってしまえるタルコフスキーの「惑星ソラリス」を観たときのような感動を受けるわけではない、ということになる。  あと、映画の字幕で「現実」に拮抗するものとして「アイディア」ということばがなんども使われていたけれども、これは当然「イディア」のことで、ふつう日本語として使われる「アイディア」よりもずっと広い意味を持っている。
[映画館(字幕)] 6点(2010-08-26 17:25:35)(良:2票)
13.  農夫の妻
サスペンス映画ではありません。ほのぼのコメディー。 冒頭の犬(名演技/名演出)とか、馬、ガチョウなどといろいろ出て来る動物たちが、田舎の農家の雰囲気を出していて気持ちいい。いつも口を「へ」の字にしている使用人のアッシュとか、お茶会をひらく家の奇怪なメイド(怪演)などの脇役陣も楽しい。ヒッチコックの演出はサイレントだからといってあまり字幕に頼らず、平気で無音のまま登場人物に会話させ、観るものに勝手に想像させるやり方。それでもやはり人物の表情は誇張して、主人公の男性の表情の変化など、凄まじいものがある。笑ってばかりいる女性、いつもおどおどしているような女性とかの描写も楽しく、そのおどおどした女性が、皿に大きなプリンを持ったまま動揺したときに、皿の上のプリンもいっしょにぷるんぷるん揺れるシーンが最高だった。イギリスの田舎の雰囲気がすてきな作品でもあった。そうそう、求婚された女性たちの拒絶の理由が、どれも妙に現代的で面白い。
[ビデオ(字幕)] 7点(2010-02-05 10:53:44)
14.  三十九夜
「なぜ登場人物はほかの登場人物の言うことを信じるに至ってしまうのか」という裏付けをかなりすっ飛ばしていて、今どきならこういう脚本では映画に出来ないだろうなあと思うけれど(初期のヒッチコック作品にはこういうのが実に多い)、そういうムダな(?)描写に時間を費やすことなく、「信じたのだから信じたんだよ、ほら、信じたとおりだっただろう?」とばかりに前進して行く。のちにアメリカに渡ってからの「逃走迷路」、「見知らぬ乗客」、「知りすぎていた男」、そして「北北西に進路を取れ」などの作品で繰り返されることになるディティール満載で、そういう逃走劇のシチュエーションばかりをダイジェストでつなげて作ったような作品。やってみたいことを一本の作品にむりやり詰め込んでみたんだろうという印象。演出/編集/カメラワークなどで面白いシーンがいろいろとあり、見返せばまた「こんなことをやっている」というのが見つかるだろう。
[DVD(字幕)] 7点(2010-02-05 10:47:19)
15.  パイレーツ・ロック 《ネタバレ》 
ポップス/ロック好き魂をゆさぶる楽しい佳作、と云いたいところだけれども、ロック好きだけに気になってしまった箇所がいくつか。 まずその一、この点はファンタジーとしてみれば、見逃して楽しめばいいのだけれども、かかる音楽と時代設定が合わない。この映画の時制で考えればジミヘンはまだデビューしていないし、ストーンズの「Jumpin' Jack Flash」もまだリリースされていない。 その二、これは趣味の問題だけれども、単純に登場人物の名前のついた曲を選ぶだけの、安直な選曲が多い。ダスティー・スプリングフィールドの「この胸のときめきを」の選曲が最高だっただけに、ああいう(ストーリー展開に合わせた)選曲をもう少しやってほしかった。 その三、これはわたしがいちばん訴えたいことがら。劇中で船が沈みそうになり、ダサい時代遅れのDJと皆からみなされているボブが脱出するとき、一枚のアルバムが他のスタッフに「ダサい」と捨てられてしまう。このアルバムは実はわたしのいちばんの愛聴盤であり、ここで波間に沈んで行くジャケットを見ながら、わたしの心も沈んでしまう。アーティストはThe Incredible String Band、アルバムタイトルは「The 5000 Spirits or the Layers of the Onion」という。さらに説明が必要なのだけれども、この映画の中で「最高にヒップな伝説のDJ」と紹介されるリス・エヴァンス演じるギャヴィンには、実在のロック史を動かしたJohn Peelというモデルが存在する。そのJohn Peelが、この1967年に海賊放送で実際にへヴィーローテーションでかけていたアルバムこそが、この捨てられたアルバムなのである。この件は英語版のWikipediaにはっきり書いてある事柄。つまり、この当時、ここで捨てられたLPこそ、最高にヒップな音楽とみなされていたのだ。このことは、この映画を見る人に是非とも知っておいて見ていただきたいことで、大げさに言えば、この点で、この映画は事実を彎曲して(正反対に)描いているのですよ。大事なのは、実際には、この映画でたくさん流されているポップ・チューンの方こそ、当時は「ダサい」とみなされていた方なのだ、ということです。時代は巡って、そんな「ダサい曲」こそ、当時を懐かしんでノスタルジックに聴かれるようになってしまった。まあそういう映画です。 ビル・ナイはかっこよくって、見惚れましたが。
[映画館(字幕)] 3点(2010-01-17 23:13:48)(良:2票)
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