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221.  ターミネーター2 《ネタバレ》 
本作のあたり、90年代の前半、SFX技術は急速に進歩した。昔の合成の、ふちが緑に光ってたころから特撮映画好きだった者として、ほぼ完成の域に達したなと感慨無量であった。下水溝のチェイス(トラックが跳び下りてきて追っかけちゃうんだもん)などアクション映画の基本的な見せ場もシャカシャカいうリズムに乗せて身を乗り出させるが、液体金属ロボットの動きに力を入れていて「ここまで来たか」感が強かった。床の市松模様がムクムクと起き上がったり、格子を通り抜けてもピストルは引っかかったり、と芸が細かい。見せ物として本道を行っている。エレベーターの天井からブスバスと刺してくる。せっかく液体金属の身体ならもっとほかの襲い方もあるんだろうが、まいいか、と思わせる。液体窒素で凍るとこも細かい。足がボロッ、ついた手がボロッ、でも細片が融けてまた戻っちゃうの。この監督は女性に重火器持たせて戦わせるのが好きみたい。
[映画館(字幕)] 8点(2013-03-09 09:51:28)(良:1票)
222.  ジャッキー・ブラウン 《ネタバレ》 
主人公を演じるパム・グリアーの、開き直った安っぽさに痛快味があり、でも実質上の主役はロバート・フォスターでしょうな。しがない中年男の味。サミュエル・L・ジャクソンが悪い人、イキがってる馬鹿だが、それだけに危険というところ。周囲の人間みんなが馬鹿にしているのに気づかない。デ・ニーロはあっさり殺される効果として適役。マイケル・キートンは、ま誰でもいい役。ヒーロー、ヒロインともに“しがなさ”を生きてる共通項があって、そこに互いに惹かれていく。ドラマが動き出すのは中盤からで、なにやら裏切りいうか、騙し合いの匂いが立ち込めてきてワクワクさせる。一番の見どころは試着室の場、三者の経過を繰り返して見せる。キューブリックもやってたけど、照らし合わせの妙味、主観と客観の交錯、映画ならではの面白味でした。ジャッキーの好きという曲をカーステレオで聴く中年マックスがいじらしい。
[映画館(字幕)] 7点(2009-02-17 12:12:00)(良:1票)
223.  お早よう
これはトーキー以後の小津で、蒲田サイレント時代のリズムが一番感じられ大好きな作品。子どものハンストが『生れてはみたけれど』の反復という直接的な関係もあるが、どちらかと言うと、おでこをツンとする仕種が『生れては…』のまじないを思い出させ、タンマの仕種も絶妙に使われている。給食費請求のゼスチャー、「書いて示せばいいのに」と思ってしまう我々は、トーキー以後の映画を見て育ってしまった人間の無言観で、ここは「字幕」に頼らず沈黙の身振り・仕種で伝えようとしなければ、サイレント時代から映画を作ってきた矜持が許さないのだろう。久我美子のトンチンカンな解答が笑わせてくれる。若夫婦がジャズを口ずさみながら横断するカットは、チンドン屋好きの成瀬ならまだしも小津のトーキーで見るとかなり異様に映るが、サイレント期の、学生の応援団(『落第はしたけれど』)や肩を組んで歩む不良グループ(『朗らかに歩め』)の再来なのではないか。ところで、四つの家の配置がいつもよく分からなくなるので(住んでる東野英治郎でさえ間違うくらい)今回は図を描いてみた。草の土手がある側に杉村春子と高橋とよ、ブロックの斜面がある側に長岡輝子と三宅邦子が並んでいるよう。異常なのは奥と手前両方を土手状の斜面で視界を塞いでいることで、こんな住宅地現実にあるだろうか。庭の眺望が必ず隣家によって遮られる小津の嗜好が、拡大されたのであろう。つまりこの住宅地が一つの家のようで、小津映画でおなじみの部屋から部屋への出入りを、隣近所に広げてみたわけ。移動する四人の主婦が小津常連の名手ばかりで、最良の弦楽四重奏のようなアンサンブルを楽しませてくれる。全編天上の音楽を聴くような傑作で、トーキーになってもこういう純粋なコメディをもう2、3本作っておいてくれてても良かったのに、と思うけれど、一本でもあるだけ嬉しい。登場する駅は、蒲田の川向こうの八丁畷であった。
[CS・衛星(邦画)] 9点(2012-10-07 09:35:47)(良:1票)
224.  刺青一代 《ネタバレ》 
河津清三郎邸の平気でリアリズム離れするすごさ。弟が殺されるところの花道的な使い方。長廊下。横移動。斬り込みシーン。雷に映る障子の影。延々と続く襖。待ち構える槍の列。奥の黄色い光。一人ずつ対戦するのも美しさのため。河津がいる部屋も、何か半階上にある抽象的な世界でググッと左に移動して影に入ったりまた戻ったり、と突如真下から見上げるの、エイッと突くとパタッと外は篠突く雨、…まあ見事でした。これ途中でちょっとでも休んじゃダメね、こちらにどうこう客観的に醒めた目で見る時間を与えない。ひとつひとつの安っぽさを塗り重ねていくことで、なんだか知らないけど異様な「たしかな手応え」を生んでしまっている。あと思い出すままに挙げると、野呂圭介が屋根で寝てるとこ、高品格とのけんか、船のあたりでの人の見え隠れとか、ラストの花札パラパラとか。話はけっこう定型踏んでるの。カタギの弟のためだったり、自分はやくざもんだからと和泉雅子の愛を振り切ったり、山内明が逃がしてくれるあたりの男と男の意気など、ごく普通の定型の物語なのに、それを全然定型でない映画に仕立ててしまっている。
[映画館(邦画)] 7点(2011-02-20 11:06:25)(良:1票)
225.  百万円と苦虫女 《ネタバレ》 
喫茶店から早足で去る蒼井優とそれを自転車で追う森山未来のシーンがいい。それもそこまでの二人が接近していく描写(飲み会のエピソードとか)が丁寧だから生きる。ずっと人間関係が生じそうになると逃げてきた彼女、かき氷の天才とおだてられても、桃もぎが上手と持ち上げられても、人間関係がややこしいことを引き起こすに違いないという確信があって、その前に去ったり、逃げ遅れてややこしさに捕まったりの“逃亡生活”を送ってきた。でもやっぱりしゃべる相手の誰かが欲しかったんだよな。このガーデニングコーナーの仕事で、初めておだてられずに叱られたが、そのかわり後ろ姿に「おやすみなさい」と手を振る相手を見つけられた。その嬉しさが喫茶店で「しゃべりすぎてしまう」シーンにつながる。あの早足で去ろうとするスズ子さんの「しゃべりすぎ」を後悔する恥ずかしさ、でもそれより、他人に開かれた自分に対する戸惑いのようなもののほうが強く、後ろで泡食ってるナカジマ君も戸惑いの極致、「これから村八分です」と絶望してみせ、しかしそういう態度を示せる相手がいることへのさらなる戸惑いもあって、あんたたちとってもいいよ、と声をかけてやりたくなった。このシーン最高。ナカジマ君の後半は、問いつめられたとき「百万円たまっても行かないでね」としゃべっちゃえばよかったわけでやや不自然なんだけど、まあどっちも「なにやってんだか」と不器用なカップルだったということで、納得してやるか。 
[DVD(邦画)] 6点(2009-07-03 12:05:16)(良:1票)
226.  レッドロック/裏切りの銃弾 《ネタバレ》 
N・ケイジ、D・ホッパー、J・T・ウォルシュのうつろさもいい。欲望渦巻くスモール・タウンものっていうのか。砂漠の中の無法地帯って感じ。関わってはいけないものに関わってしまう、本来通過するだけだったはずの主人公。間違えられて殺人を依頼され逃げようとするのだが、いろいろな要因によって何度もWelcome RedRockに戻ってきてしまうの。ここらへんのストーリー展開はなかなか。保安官や殺し屋やの出はいりが楽しい。ホッパーによる警官殺しがなければ、悪人以外の犠牲者はなかったことになるのだが、まあ名誉の殉職ということで目をつぶろう。踏切りで列車の寸前に横切るってのは多いが、並走して斜めに追い抜いたのは新鮮だった。慾に溺れた人間たちの町を通過するって地獄めぐりの設定で、彼自身無人スタンドで金を盗まなかった冒頭の姿勢が基調になるわけ。積極的な善人ではないが、悪に染まらずに逃げ切れる、いう。
[映画館(字幕)] 8点(2011-04-18 12:13:05)(良:1票)
227.  サマーウォーズ 《ネタバレ》 
高校生と原発危機、高校野球長野予選とペンタゴン、が同列に扱われる世界を、受け入れられるか否かが分かれ目でしょうな。あるいはワビスケさんが製作者と分かったときに、つまずくかつまずかないか。こういうのに慣れてないもんで私は若干つまずいたが、話の設定としてこれからはそういうのもアリか、と古い世代の者としては最近寛大になっている。というか、その同列性こそがバーチャルな世界の特徴なんだろう。だからこれ、現実とバーチャルな世界との争いを描いてはいるけど、土俵はもう最初からあっち側にあるのだ。現実の側の描写では、夏の早朝の光の変化が丁寧に描かれ、仮想空間では、ノッペリした白色の中で小さな色たちが飛び交う。どちらもアニメならではの美しさ。ワルモンを城郭に閉じ込めたものの、しかし巨大化してそれを破って出てくるあたりが見どころ。なんか『ファンタジア』の「はげ山の一夜」を連想する姿だが、黒を構成する小さな部分がモゾモゾ動いているのがミソ。最先端の電脳戦争で、花札勝負になるってユーモア。ただ、せっかくあそこで世界の個人個人からの支援を受けたのに、最後は一族の結束(妾の子も含む)で締めるってのは後退じゃないか。「個人たちによる明るい連帯」に突き抜けられそうなところを、「デジタル-孤独-暗い」と「アナログ-家族-明朗」のステレオタイプな対比に戻ってしまったような感じ。
[DVD(邦画)] 6点(2010-10-30 10:22:26)(良:1票)
228.  男はつらいよ 幸福の青い鳥 《ネタバレ》 
ポンシュウがコンピューター運勢ってのをやっていた。思えばこのシリーズでのテキ屋の商売の変遷を見ると、昭和後期の時代相が浮かんでくるかも知れない。で、そこで示された方角に行くと古い小屋。劇場の男とのしみじみした会話、ここらへんのうらぶれた感じを出すのはいつもながらうまい。東京の歌舞伎が来た日にちをソラで覚えている。で座長の娘さん。なんか大河ドラマとしての『男はつらいよ』を感じてしまった。ここらへんまでは味わいがあったが、東京の話になっていくと、やや弱い。トラがラーメンの配達をして店の前を通り過ぎていくあたりは笑った。区役所での「あなたの声を聞かせてください」もおかしかったが、あんまりこの監督の持ち味ではない。ギャグのような風刺のような中途半端さ。笑ったけどね。満男君が微妙な年頃になっていて、家族の者たちを無視したりするようになる。全体としてもとらや離れという感じがあった。若い二人だけのシーンの比重が増していたよう。こういう形式で何か新しい展開を模索していたのかもしれない。でもけっきょく志穂美悦子でなければならないってものがなかったのがイタイ。そういうものをマドンナ役者から引き出すのが、このシリーズの魅力だったのだが。
[映画館(邦画)] 6点(2010-08-06 10:23:06)(良:1票)
229.  タワーリング・インフェルノ
『ポセイドン・アドベンチャー』が、出口という「上がり」へ向けた「すごろく」みたいな展開だったのに対して、こっちは「パーティー会場から動けない」という状況で見せる。最初は遠く離れた火だったのが、徐々に迫ってくる怖さ。その遠さが「大きくなり過ぎた建築物」を印象づける。恐竜は尻尾の先の痛みを脳が感じるまで1秒以上もかかる、とかいう話を思い出した。エレベーターから火だるまの人がころがり出てきて安全の結界が破られ、ガラスが割られ外の風がじかに吹き込んでくる。着飾ったドレスが汚れてくる。くつろぎのパーティー会場にどんどん外部が入り込んでくる。映画の基本が見世物だとしたら、観客が一番喜ぶのは火事場の野次馬になってもらうことだ、と製作者に見抜かれてしまっているのは悔しいが、たしかにそうなんだ。ワクワクして野次馬になりきってしまう。『ポセイドン』では観客はある程度登場人物と一体化して観ていたが、こちらは少し離れて野次馬の立場から、街の名士たちのオタオタぶりを眺めている。でもこのころはあんまり高層ビルもなかったが、今では林立していて、観客のほうも当事者になり得る可能性が高まっている。非常階段にコンクリの残滓がヒョイと捨ててあるなんて、似たようなことアリソーだし(最近の日本でも飛行場の工事で産廃が滑走路の下に埋められてたってのがあった。非常階段が倉庫がわりになってた、ってのは歌舞伎町の火事だったっけ?)、手抜き工事の話は枚挙にいとまがない。そうそう安全な野次馬の立場ばかりでもいられなくなっているのだ。この映画の忠告は、現在いっそう切実になっている。下からインフェルノの劫火と天からの大洪水、あちらの人にとってはキリスト教的な構図でもあるんだろうな。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2010-11-26 10:08:07)(良:1票)
230.  炎のランナー 《ネタバレ》 
高貴な映画。光線が美しい。それも室内や曇天など翳りを含む光が絶品(海辺だけじゃなく、妹に決意を述べるとこも)。これだけでも参ってしまうのに、さらに時代色が濃厚。ほんのワンカットのために車用意したり、衣装も大変だったんだろうな。そして選手たちの走り。最後の100mなんか、スタートしたらすぐスローモーションになるんじゃないか、と思ってたらそのままのスピードで走ってきた。走ることの神々しさが、小手先でなく出た。とにかくまったく自分のために走った二人の物語ってのがすがすがしい。学校の名誉や国の名誉をコケにするからと言って別にイキがってるわけじゃなくて、自分の信念を守っているだけなの、またそこがスポーツマンシップであるところが皮肉。彼らもクヨクヨ悩みはするけど、信念そのものに対する疑いは生まれてこない。こういう信念の人間は本当は苦手なんだけど(歴史を見ればそういう人が危険な場合のほうが多かった)、すがすがしく好感が持ててしまったのも事実。リデルのほうは中国で死んだっていうのは、日本兵にやられたってことなんだろうか、遠くの美しい物語が急にナマナマしく感じられた。ラストで冒頭部分が繰り返されるんだけど、曇天のなか過去の亡霊たちがニコニコと笑いながら走り来たり走り去っていく感じで、味わいもひとしお。
[映画館(字幕)] 8点(2012-06-20 09:43:28)(良:1票)
231.  沈黙の女/ロウフィールド館の惨劇 《ネタバレ》 
かつて原作読んだときは、怖い話として傑作だと思ったものの、後半で登場する「もう一人の女」がちょっとつまんなかった。家政婦一人で、はっきりとした悪意がないのに惨劇に至る話しのほうがいいのに、と思った。しかし本作を観たら、その「もう一人の女」がいいんだな。もちろんI・ユペールの俳優としての凄味もあるんだけど、「二人になることで起こってしまう」事件として納得できる。一人ずつだったら、不機嫌は彼女らのうちで留まっていただろうに、二人になって、じゃれあう女学生のような「場」が出来たことで、その不機嫌が解放されていってしまう。上機嫌なイザベルってあんまり観たことなかったけど、これが怖いんだ。前半はまるで「普通の人」みたいに登場し、でもやっぱり途中からI・ユペールでしかない役柄になっていく。彼女もハッキリとした「悪」というわけではなく、世の中とうまく合わない感じが、次第に凝り固まって終盤に雪崩れ込んでいく。S・ボネールのほうは、最初から世の中と合わない障害を持っており、それを隠そうとするのが前半のスリルで、ここまでは観客は彼女の側に立ち、ロウフィールド館の人たちの親切に一緒になって怯えるわけ。こういう設定を考えつく原作R・レンデルは、本当にねじくれた天才だ。まったく特異な状況だけど、彼女の怯えには普遍性が感じられる。文字の帝国となった世間に対する文盲の怯え、なんて普遍性があるとは思えないのに、誰もが心の底で世間に対して構えている怯えと通じ合うのか、「もう一人の女」が現われれば、簡単に惨劇に至るのを納得できてしまう。彼女にとっては「口封じ」の皆殺しだったわけだ。これが家の者たちの親切に対する回答である。前半で彼女に寄り添って見ていた観客は、こんな理不尽な話はないと頭の片隅で抗議するんだけど、それを越えて、実話の再現のような整合され切れないザラザラした現実感と、明晰な悪夢のような手触りが同時に残り続け、ヒッチコックよりブニュエル気分での観賞がおすすめ。
[DVD(字幕)] 8点(2012-08-26 09:28:54)(良:1票)
232.  眠狂四郎 殺法帖
いちおう抜け荷がらみの話なので、悪の側がひっそりと動くのは分かるが、それにしても厚みがない。悪いお殿さまと悪い商人・銭屋が剥き出しで存在して、それを取り巻くグラデーションが感じられない。ナンバー2なり、その手下どもなりのピラミッドが想像され得ない。玉緒さんはかつて縁があったんだから唐突に城内に現われるのも分かるけど、狂四郎も唐突に江戸藩邸内に出現する。手下は何をしているのだ。チームが存在しない若山富三郎も所在なげで、いちおう狂四郎と吊り合う一匹狼的存在のようだが、なら何をしたいのか・なんでそこにいて飛んだり跳ねたりしているのかが、よく分からない。二人ともけっきょくのところこの事態に対する態度がよく分からないので、最後に砂丘で向かい合っても盛り上がらない。砂地での争いって足跡が残るのでカメラマンが撮影するの面倒だと思うが、すぐに踏み荒らされていて誰の足跡か分からないようになっていた。けっきょくモヤモヤしたまま、崖っぷちに狂四郎が立てば、終わったんだな、とは思えるのであった。/今ほかの方のレビューを読んでたら、鱗歌さんが音楽が「春の祭典」に似てると指摘されていた。まったく同じ印象を持ったので嬉しかった。坊さん連中がぞろぞろ塀ぎわを歩くあたりだと思うが、『羅生門』の「ボレロ」より似ていて、盗用ギリギリの線。これから同曲を聴くと『ファンタジア』ではなく、坊さんの行列が出てきそうだ。
[CS・衛星(邦画)] 4点(2013-09-15 09:46:41)(良:1票)
233.  世界で一番美しい夜 《ネタバレ》 
そりゃ失敗作でしょうよ。エピソードが未消化なまま次々と展開していく。たぶん冒頭の、文明から逃れ退化していきケータイで火を発見するアニメが、まとまりのある出来としては一番よかった。あとはゴテゴテと縄文式土器のように部分部分が勝手な方向へ増殖した畸形の作品となっている。保険金殺人をめぐる推理ものに落ち着くのかと思ってると突如オカルトがかったり、挫折した革命家の苦みの話かと思ってると屋外での縄文時代的乱交に至ったりと、ごった煮の世界。でもね、因果なことに、こういう豪快に破綻した失敗作って嫌いじゃないんだよね。最近の映画って弥生式土器のようにノッペリと小器用にまとめられちゃってるのが多いでしょ、とりあえず無難に完成させてるの。こういう無難でない映画、統一させようなんてハナから思ってない縄文映画、なんか嬉しかったなあ。おやじ今村の南島志向を受け継いだような話の枠組みが一応あり、田口トモロヲは『神々の深き欲望』の北村和夫につながってるみたい。トモロヲがまた蛇になるのは(ネズミを食べるシーンあり)、おやじの遺作へのオマージュか、それともあれは今村作品というのは名ばかりで、実質せがれの映画だったのかもしれない。止まっていた構図が動き出す瞬間などに、映画ならではの喜びがあったし、三上寛、若松武史といった寺山修司の顔が揃ったのも懐かしい。ここは笑うところなの? ムッツリ思案するところなの? と見てるほうがどういう態度をとっていいのか分からなくなるシーンが多々あるが、そういう戸惑いも含めてけっこう楽しんで見ていた。これをきっかけに大バケする監督か、もっと破綻街道を突き進んでいくのか、それとも反省して小器用な映画に戻るのか、興味津々です。
[DVD(邦画)] 6点(2009-07-20 12:09:09)(良:1票)
234.  チェンジリング(2008) 《ネタバレ》 
おびえる子どもたちが、おびえながらも何らかの勇気ある行動を取るところがいい。たとえば犯人の側の少年が、荒れ果てた牧場で遺体を埋めた場所を掘るところ。刑事がもういいと言っても掘り続け、泣き崩れる。あるいは被害者のほうの少年が、黙っていたことに自責を感じ、名乗り出る不安におびえて何年も耐えてたと分かるところ。(ふてくされていた犯人も、絞首台の上でおびえ、子どものように「きよしこの夜」をふるえ声で歌い出す。)子どもたちは恐怖と自責に取り巻かれ、しかしそれを何とか乗り越えていく。彼らの世代はやがて『父親たちの星条旗』や『硫黄島からの手紙』の兵士になって、さらなるおびえと戦わなければならなくなる訳だ。この陰惨な世界の中で、どこかでおびえ続けている子どもを探し通す母が映画の芯になる。バスから最後に息子を見送った窓辺の位置が何度も反復され、刑務所の犯人と対決するのも窓辺、ラストの取調室を覗くシーンでは、子どもではなく反射する自分の顔と向かい合っているのが痛ましい。ただ映画としては、サスペンス・社会派・法廷もの・犯罪者の心理ものと間口を広げすぎて焦点が拡散してしまった。精神病院のエピソードなんか、もっとあっさりしてても良かったんじゃないか。マルコヴィッチが意外と面白くない。
[DVD(字幕)] 7点(2009-10-30 12:00:08)(良:1票)
235.  ギルバート・グレイプ 《ネタバレ》 
よくできたスモールタウンもの、と思って観ていたが、ラストがいいので、ワンランクアップする。ずっと水のモチーフで展開していたのが(給水塔はおいといても、プール、キャンピングカー横の池、風呂場、ともっぱら凶々しいイメージ)、ラストに至って火を迎える。監督の母国の神秘主義にも通じていくような象徴性が感じられ、カメラも『処女の泉』や『サクリファイス』のスヴェン・ニクヴィストで、水と火の対比はお手のもの。また屋外に出される家具、ってのがなぜか映画では興奮させられるのだ。家と一体になっていた母を弔う方法。最初はただ恥ずかしいという受動的な思いだったのが(近所の子どもを窓から覗かせてさえいた)、彼女を笑いものにさせないという能動的な決断に至るわけ。アメリカの青春ものではあるけれど、どこかちゃんと高緯度の風が吹いている。
[映画館(字幕)] 8点(2010-11-14 10:20:29)(良:1票)
236.  嵐ケ丘(1939)
これはもうあちらの『忠臣蔵』というか、いろんな版があり、このほかにブニュエルの、吉田喜重の、J・ビノシュのヒロインで坂本龍一が音楽やったの、を観てるが(リヴェットのは未見)、どれも独自の趣向を凝らして面白いけど、何か物足りないのも事実。これ、映画よりも連続ドラマに向いてる話なんじゃないかなあ。ヒースクリフの帰還までにモッタイをつけたいところが、映画だとそれが出来ず、キャシーとヒースクリフの愛憎のごちゃごちゃをこちらでほぐして味わう時間が足りない。キャシーがただのヒステリーに見えてきてしまう。時間を強制されたくないストーリーってこと。それでも多くの名だたる監督たちを魅了してしまう魔が、この小説にはあるんだ。この戦前白黒のワイラー版が余分な解釈のない分、基本の位置を確保していて見応えがある。私はヒースクリフなのよ、って叫ぶあたりはやはりコワい。ロウソクのゆらぎで盗み聞きしていたヒースクリフの退場を知る、なんて演出。
[映画館(字幕)] 7点(2009-11-05 12:02:27)(良:1票)
237.  ナージャの村
チェルノブイリの被害を受けた村の、リンゴの収穫から冬を経てまた春までの一年。こういう四季ものってのは、だいたい時間の循環を描くものだが、隔離され滅びるのを待たれている村なので、その循環がかえって直線的に滅亡へ向かう現状の厳しさを際立たせる。生活の営みはあるけれども、着実に人は減り、死者となって帰ってくる。バス停も店も草に覆われ、終末のイメージは隠せない。村に残っているのは老人ばかりでなく、タイトルのナージャという女の子もいれば、ボクサーという名のうさんくさい男もいる。屋根のスレートを剥がしては売りにいき、あとは釣りをしてブラブラしている。そういった豊かなキャラクターがありつつも、着実に村は衰亡に向かっている。ヤギのシロも死ぬ。ナチの侵攻に耐えた村だったが、「今度のやつは…」と村人は言う。それでもおばあちゃんは種を植え「外はいいぞ、早く芽を出せよ」と唱えるの。希望を見いだしづらい映画だが、現実がそうなのだから仕方ない。編集に佐藤真。
[映画館(字幕)] 7点(2009-02-05 12:11:29)(良:1票)
238.  十九歳の地図
ただの鬱屈だったものが、電話という匿名の装置を発見して、凶暴な不機嫌に育っていく、その公衆電話を発見するシーン。サッカーのボール(おーい新聞屋)を公園のほうに蹴っ飛ばしたのがスローモーションになって、その方向に公衆電話が現われてくる。ゾクゾクさせる場面。雨の日に、みんなが雨雨降れ降れの合唱になるとこ、連帯っぽいものが描かれたのはあそこだけで、あとは弱者同士が殴りあい落としあう世界。カサブタのマリアに対して「そういうふうに蛆虫みたいに生きんのを売り物にして」ってところは凄かった。弱者は弱者づらする弱者を最も憎む。そして地図を作っていくシーンの緊迫、あんな地味な作業でも、映画の興奮は生まれるってこと。なんでも派手にすればいいと思ってる昨今の監督に見せたい。ちょっときっかけさえあれば、右翼の組織の中に安住してしまいそうなところに立っている19歳。手応えの固い確かさという点では、これがこの人の一番じゃないか。
[映画館(邦画)] 8点(2010-04-18 11:55:58)(良:1票)
239.  大木家のたのしい旅行 新婚地獄篇
この国で地獄は長らく死とセットになった恐怖の場所であった。現代日本人はついにそこまでレジャーの対象にしたか。この夫婦、帰ってこられるのは当然と思ってちょっととしたエスニック旅行気分で旅立っていく。そのあっけらかんぶりには、地獄への怖れは感じられない(アリスの不思議の国への旅立ちをなぞったような段取り。時計うさぎの代わりにジャーを盗んだ柄本明、うさぎ穴の代わりに屋上のバスタブ)。この「あっけらかん」が本作の笑いのツボで、夫婦の緊迫感のない会話が面白い。鬼にやるチップの相場はこれくらいだろうか、とか。だからあくまで観光旅行であったほうがいいので、赤鬼の襲撃や温泉での事故など「身の危険」を感じさせる出来事は余計な気がしたが、なにせこういう話なので、まあどうでもいい(タイトルでも「たのしい旅行」と断わっている)。最初の森の道で「後ろがパレードみたい」ってあたりが個人的にはウケた。ホテルやナイトマーケットになると、エスニック旅行への「なぞり」が、少しハッキリし過ぎて膨らみがない。死者が最後に行く場所というより、これから生まれる者の待機所でもあるようで、そういう輪廻に日本人の死生観がうっすら残っていたか。ともかくリアリズム好きの邦画界では貴重な作品でした。森の道のシーンで二人を追ってカメラの上下がひっくり返るところ、中川信夫の『地獄』への挨拶と見た。
[DVD(邦画)] 6点(2013-03-10 09:20:00)(良:1票)
240.  こうのとり、たちずさんで 《ネタバレ》 
硬質な、ドキュメンタリー的な画面の中で、登場人物が不意に詩を語り出す。国境に立つ兵士が点呼の中で川の流れについて語り、議会で政治家が雨音の背後から聞こえる音楽について語り出す。政治に追いつめられた人々が魂の中から語り出す言葉は、詩にならざるを得ないのか。ところがこの映画の重要な場面になってくると、その詩さえ消え失せてしまう。レポーターが娘に出会うバーでは、視線だけが交わされる。川越しの結婚式の場面では、向かい合う視線と伸ばされる手だけ。この作者はもう会話を信じていないのだ。詩の言葉はあっても会話は失われている。言葉の代わりにコミュニケーションの役割を担わされた視線と手は、しかし両者の距離を強調していく。マストロヤンニとモローが市場の橋の上で向かい合うとき、二人の間には見えない国境線が引かれているようだ。人々はなぜ引き離されたのか。一方が逃げ、一方がとどまったからだ。マストロヤンニは逃げ、モローはとどまった。花嫁は逃げ、花婿はとどまった。しかし逃げた者が自由になったわけではない。逃げ出した場所にはまた別の牢獄が待っている。永遠に繰り返されるだろう脱出の後に、無数の国境線が引き直され、出会えなくなる人々の沈黙だけが堆積していく。そして詩となった言葉はさらに沈黙へ傾斜し、映画はリアリズムから伝説に入っていく。「アレクサンダー大王」は群衆の中に消滅し、「シテール島」の老夫婦は漂い消え、本作の政治家も、幾人もの目撃者たちの中に分裂しながら、伝説の人物になっていく。ならばこの映画は敗北主義に浸されたフィルムなのだろうか。いや、タコの話を聞かされた少年に託されたかすかな希望がある。そして「黄色い人」がいる。アンゲロプロスの沈んだ世界に登場する原色の黄色は、前作でも目を引いたが、この作品でとうとう重要な役を割り振られた。危険な仕事に従事する移民労働者、戸籍も国籍もなく、アイデンティティからも追放されたような人々、顔さえ定かでない究極の自由へ漂い出した人々。言葉だけでなく視線も手も封じられ、しかしそういう彼らがどこかとどこかの間に電線を繫げようとしている。ぎりぎりのメランコリーの果てに監督がたどり着いた希望。国家というものが無効になった先へ張られていく電線。その背後の空には、おそらくこの映画で初めてだろう、厚い雲を割ってかすかではあるが青空が見えかけている。
[映画館(字幕)] 8点(2010-07-01 12:14:46)(良:1票)

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