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301.  es[エス](2001)
ゲーム的な気分にしだいに「マジ」が入り込んでくるあたりが見せ場になるはずなのに、主人公が積極的に挑発してしまうので興を削ぐ。特定の誰かが仕掛けることなく、集団そのものの力学で事態が悪化していくべき。屈辱を与えなければならないという発想や、連帯責任の発想といった、人間集団の病理に迫れるところを、後半は既視感のあるB級映画の世界に逃げてしまった。個人の資質と無関係に状況から残虐は生まれてくる、って大事な話なんだけど。閉所恐怖症気味の人間としては、あの箱に閉じ込められるシーンがないといいな、と念じつつ見てたが、やっぱりあった。
[映画館(字幕)] 6点(2008-06-26 12:15:26)(良:1票)
302.  裏窓(1954) 《ネタバレ》 
これは映画館で観なくちゃ意味がないような映画で、スクリーンと向かい合って、あたかも脚にギプスをはめて身動きが出来ないような気分で味わうフィルムよ。そうでないと、向こうがこちらを見つける瞬間の怖さは半減する。G・ケリーが脅しの手紙を持って向こう側に現われただけで、なんか信じられないことが起こったようなドキドキが起こる。あるいはこちらで掛けた電話が向こうで鳴り、話し合ったりする。それらに比べると、グレイスがいる間に男が帰ってきたりする向こう側だけでのドキドキは大したことない。こっちと向こう側がつながることが怖いので、こうなると最後は向こうがこちらに侵入してくるよりほかにないわけだ。こちら側の観客の一人だったはずのグレイスが向こう側に行っちゃうだけでショックなのに、安全地帯から覗き続けていたはずのスクリーンの人物が、「覗いてたな」とにらみ返すんだから、もうパニック寸前。映画という装置の怖さを知り尽くした作品だろう。
[映画館(字幕)] 9点(2012-12-29 09:23:28)(良:1票)
303.  フレンチ・コネクション
警察ものの場合、たとえオールロケでも、犯罪現場や捜査会議室なんかは繰り返し映され、光景に馴染みのある・なしの濃淡が生まれてくるのが普通だ。本作にはそれがない。観客にとってすべてのシーンが「ゆきずりの場所」であり、そこをノンストップの電車のように突っ走っていく。警察ものの真の主役は都市そのもの、と割り切った映画。匿名の街角が連なっていく。張り込みと追跡の背景としての都市が流れていく。そのザラついた摩擦感が味わい。一番好きなのはフェルナンド・レイをポパイがホテルから地下鉄まで追跡するシークエンス。人混みの中に見え隠れする紳士の姿、そして車両に乗ったり降りたりの騙し合い、レイの人を食ったキャラクターが生かされていた(これを初めて観たころはまだブニュエル映画を知らなかったはずだが)。音楽がけっこういい。低弦のユニゾンがモゾモゾッとうごめいて、やがてジャズが乗ってくる。このモゾモゾッに、なんか文楽の太棹三味線的な、映像に対する合の手の味がある。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2012-11-04 09:44:24)(良:1票)
304.  武士の家計簿
ユニークな映画が出来てるのではないかと期待してしまった。小説ではない人文系の書籍をベースにして劇映画にしたってことで、市川崑の『私は二歳』のような風変わりな作品を期待した。同じ才人監督だし。侍たちが並んでソロバンをはじいているなんて、あんまり見たことない図で、事務職としての侍の職場を描いた珍しさなんかいい。それで主人公の「ソロバン馬鹿」ぶりを具体的に展開していくのかと思っていると、それほどでもなく中盤に至り、そうか一家の倹約作戦を細々と見せていくのか、と膝を乗り出すも、その話は大ざっぱに収まり、いつのまにか幕末になってけっきょく歴史をソロリと撫でただけで終わってしまった。原作にあっただろう(読んでないので想像で言っちゃうのが弱いのだが)エピソードを、あたりさわりのない話(父と子の確執とか)に変換して繋いだって感じ。親父の一つ語りの門の片面だけを塗った話、みたいな「何の教訓にも変換されない」具体的な手触りの感じられるエピソードをもっと聞きたかった。原作の人文書そのものから膨らませるのではなく、既存の物語の型に当てはめただけに見えた。もったいない(歴史学の本を劇映画にするのは実際大変だろうとは思います)。ただ最近小林正樹の『切腹』見たばかりだったので、江戸時代のアタマと終わりでの侍の対比となって面白かった。とりわけ刀の扱いの違い。侍が官吏になり士道がソロバン道になっていったが、別にそれは劣化だったわけではなく、それなりの一生懸命が必要だったんだ。息子の祝いの席で出た絵の鯛を持って縁側を(縁「川」に見立て)人々が行くシーンが、唯一映画として生き生き感じられた。
[DVD(邦画)] 5点(2011-12-09 10:23:02)(良:1票)
305.  アンナと過ごした4日間 《ネタバレ》 
男が忍んでいるときのアンナの顔が初めてはっきり見えたのは、ヘリコプターのシーン。鏡越しにこちらで隠れている男と目が合うんじゃないか、とハラハラさせつつ、指輪をうっとりと眺め男の心を歓喜で満たしている場面。それまでは、ただいればいいという役どころで、スタッフの一人を使って演出しても安上がりに済んじゃうんじゃないか、などと思っていたが、このシーンから彼女は「対象」として生命を吹き込まれ、終盤やはり演技の力を見せる。裁判の場のアンナが素晴らしい。視線のそらしと凝視だけなんだけど。ああ東欧の女優さんの顔だ、と思う。なにか耐えに耐えて硬くなったなかに、人間味を潜めている顔。風景も久しぶりに、旧体制下の東欧を思い出させる陰鬱な静まりを見せてくれて、とても美しい。裁判の場で、寡黙だった男が「愛」という言葉を口にする。その場違いな唐突さ、驚き、その上で「この言葉以外にないな」と深く得心させられる。これレンタルビデオ店では「ラブストーリー」に分類されていたけれど、間違いなくラブストーリーなのだ。同じ姿勢でレイプされたもの同士の共感からスタートしたのかも知れないが(皿洗いから記憶がよみがえる趣向)、「愛とはこういうものだった」と、すごく極端な設定で普遍の本質を提示されたような感動があった。
[DVD(字幕)] 8点(2010-08-20 09:57:42)(良:1票)
306.  ホット・ショット 《ネタバレ》 
『トップガン』のパロディということで、あまり期待してなかったんだけど、そうパロディに頼ってなかったんじゃないか。本家を必ずしも必要としない笑いになっていた。いいぞいいぞと思い出したのは、馬上の美女が枝につかまって鉄棒の離れ業を見せるあたりからか。あと順不同で思い出すと、窓の外で訓練していた兵士たちが踊り去っていくとこ、表情が見えないのがいい。二枚目が「おごってやるぜ」と言うと、ドアやロープからワーッと人々がなだれ込んでくるとこ。二人が険悪になると店中が険悪になり、和解すると店中が和解する。吹き替えの歌が続いている間に、水を一口。唐突に歌いだすオンリーユー。猫が走り過ぎ、梯子の下をくぐい、鏡が割れ、ケネディ暗殺の真相をポケットに秘めたまま明るく離陸していく奴。サダムが出てきたのは仕方ないのかなあ、純度が少し落ちた。固い軍隊と柔らかなものを単純に対比したギャグはさして面白くないが、完全にドタバタやってるシュールな「有り得ない世界」が具体的に展開しているのが、面白い。
[映画館(字幕)] 8点(2012-12-15 09:58:02)(良:1票)
307.  エレニの旅
もちろんすばらしい映画ではある。筏を連ねての葬儀や、樹に吊るされている羊たちや、水没していく村など、アンゲロプロス以外には作れない厳粛な映像が展開している。難民の世紀としての20世紀を検証しようとする姿勢も正しい。でもなんかツルッとしている。初期の作品はもっと歴史と人間がジャリジャリと擦れ合っていた。脚本にトニーノ・グエッラが加わるようになってから、このジャリジャリ感が少しずつ薄れてはいないか。どこかページェント的、オリンピック閉会式のショーを見ているような気にもなってしまうのだ。
[映画館(字幕)] 7点(2007-12-05 12:25:20)(良:1票)
308.  牧野物語 養蚕篇 -映画のための映画-
『ニッポン国古屋敷村』への準備のような二本。『三里塚・辺田部落』でつかんだ「農業の死」というテーマを展開していく。日本でいま進行している米作りの死の前に、養蚕業の死ってのがあったわけだ。国の柱としてもてはやされながら見捨てられていった産業と、それに付随する技術、それを記録しておきたいという気持ち、そういったことを表には全然出さないけれど、小川の仕事を通して眺めると、この「お蚕(こ)さま」への視線に当然のようにそれが見えてくる。手間を掛けることが楽しみになっていくような仕事のありよう。現在はいかに仕事から手間を省いていくか、ということに努力しているが、それが仕事を「苦役」にしてしまっている。また仕事の内容も完成の手応えの感じられないほど細分化され、工夫しようのない「苦役」になっているのだが。かつての労働が苦役ではなかった時代、品質が上がること・生産の効率が上がることへの手間をかける工夫が、そのまま楽しみになっていた時代。もちろん上部による搾取など経済的な苦しみはいつの時代もあったが、少なくとも仕事の現場では理想的なありようが、ここにはあったのではないか。冒頭、木村サトさんのおかあさんが伝説を語る。最初のうちは一生懸命標準語に近く話そうとしているのだけど、次第に地元の言葉に変わっていくのが楽しい。火事をきっかけに上の代がサトさんの代に替わった、そういうカッチリとした村社会の切り替え。かつての華やかなころの思い出を語らせるのも好きで、絹の服で学校に通った、とか。蚕が上に集まると蚕棚(?)がぐるっと回転する仕掛け、こういった工夫の楽しみこそが、本来の労働の手応えだと言っているよう。『三里塚・第二砦の人々』で、地下壕の換気口を工夫している農民の自慢げな顔を思い出した。
[映画館(邦画)] 7点(2011-08-26 09:52:37)(良:1票)
309.  幻影師アイゼンハイム 《ネタバレ》 
身分違いの初恋が成就する、というおとぎ話のようなストーリーが、世紀末ウィーンという大人の時代(たとえば『アイズワイドシャット』の原作シュニッツラーの世界)を背景に、セピアがかったトーンで描かれるのが、味わい。公爵令嬢だった娘は逢引きを発見され、兵に引き離されて、「私を消して」と手品師志願の少年に訴えた。それをかなえてやった大人の時代。もっと世紀末のすえた匂いを嗅ぎたかった気もするが、あくまでおとぎ話が本作の基本。警部がもうけ役で、宮仕えにウンザリしながら忠実に王室の番人をやっていたのが、最後に駅頭で快活な高笑いをする。やられた、という悔しさではなく、見事なマジックを見て、ブラボーと叫んでいるような高笑い。上流階級が舞台の本作で、おそらく低い身分出身者は警部とアイゼンハイムだけだったわけで(マジックを降霊術と信じたがる大衆の存在も社会背景としては重要だが)、そういう階級的共感も下地にあった高笑いかもしれない。
[CS・衛星(字幕)] 6点(2013-04-23 09:05:34)(良:1票)
310.  ナバロンの要塞 《ネタバレ》 
ずっと担架で運んできた怪我をした仲間に偽の情報を吹き込んでおいて、やがて自白剤を使うであろうドイツ軍を混乱させようと考えるG・ペックを、D・ニーヴンが非情すぎると非難する。ここらへんもっと突っ込めば「戦争における非情さ」で芯のテーマになれる問題だろうが、エンタテイメント映画を逸脱するのでサラリと描き、怪我人の内心の屈曲には触れずに、彼はチームの成果をベッドから見て喜ぶだけ。女性スパイの処分の場も「軍人は抵抗できぬ女性を射殺できるか」という戦場における非常さの問題に突っ込みかけるが、ここもなんとなく「戦争とはやり切れぬものだ」という詠嘆どまり。エンタテイメント作品ですから、という言い訳でずいぶん逃げてるなと思ったけど、「エンタテイメントをそれだけで終わらせない姿勢」と思えばよいのか。ただ各エピソードが寸断されてる印象があり「話を膨らます」展開に乏しかった。ペックとA・クインの軋轢は、最期の海で銛で救助する場面でうまく生かしてまとめた。第二次世界大戦ではギリシャものってのがあるんだな。最近ではニコラス・ケイジの『コレリ大尉のマンドリン』てのがあった。ノンキというのとは違うけど、独特の色調が加わる。地中海的おおらかさ?
[CS・衛星(字幕)] 6点(2013-07-11 09:22:27)(良:1票)
311.  夏の嵐(1954) 《ネタバレ》 
この監督は、異世界の闖入で始まる映画が多い。『山猫』は祈りの場に兵士の死体、『地獄に堕ちた…』はブルジョワの誕生パーティーにナチの兵士、『家族の肖像』はもう闖入そのものが主要なモチーフで、本作はオペラ劇場に解放を呼びかけるビラ、となる。緊張で張りつめ、静けさ・秩序を保っていた世界が、崩れ始める予兆。劇的効果満点で、下り坂にかかって、ぎりぎりに保っていたものをプツンと切るところから、ドラマが始まるわけ。そして全体が没落の傾斜を演じていく。軽蔑していた密告者への没落。しかしラストの処刑によって、男を「オトコ」にしてやった最後の愛情とも取れるわけで、すべてがみじめに没落していく中でそこだけ高貴なものを輝かせようとした女の凄みみたいなものを、アリダ・ヴァリが演じきった。というかもうこれは監督の資質なんだろうな。売春婦一人を画面中央で捉えるところでも、実に格調があって堂々としている。生まれながらの貴族ってこういうものか。
[映画館(字幕)] 7点(2012-06-30 09:48:35)(良:1票)
312.  冬物語 《ネタバレ》 
若い娘に振り回されることに快感を感じる監督であった。あの髪結いの亭主とか、ヒロインがシャルルとの再会を祈らされるロイック君とか。ヒロインが一度きりの人生を満足に送るために、男どもはひたすら奉仕させられる。そういう状況を作ることに、この監督は熱心になってる。彼にとっての男女関係の基本。奉仕して裏切られる屈折した快感、裏切らせることであがめてるの。このシャルル君、不在だから輝く対象になったので、これからどうなるのかを見せないところが、ずるいと言えばずるく、優しいと言えば優しい。演劇による啓示。現実は演劇になり、おとぎ話のように再会する。再会のシーンでこちらの娘に対応するように、向こうに女友だちドラがいて、これが『緑の光線』の人なんだな、あの人はまだ不幸を背負ってるようだ。
[映画館(字幕)] 7点(2012-01-03 10:53:59)(良:1票)
313.  男はつらいよ 寅次郎忘れな草
このシリーズでは旅先の風景シーンがいつも素晴らしく、本作も北海道の広さなど見事なものの、今回心に残るのは、東京のリリーがらみの二つの情景だ。母との場、それとリリーが立ち去った部屋のうつろさ、まるで北海道の広さの対照物のような狭さ・暗さがザックリ心に染み入り、こういうシーンがあるせいで、作品はぐんと深まる。「俺たちアブクみたいなもんだ」とかっこよく詠嘆しながらも、寅には北海道まで迎えに来てくれる身内がいた。身内がいるっていいものだ、と思わせておいて、後段になって、リリーの身内=母が登場し、金をねだる。リリーが悪態をつき、言い返すか何かしてくれればまだいいのに、ここで母に泣かれる。このベトベトした「身内」というもののやりきれなさが、五反田(?)の高架下や濁った川が画面を埋める狭苦しさと重なる。明るいとらやの人たち全員に拮抗する暗さをこの母(利根はる恵)は一人で持ち、ワンシーンだけなのにこれまでの母娘の軋轢の長い歴史をしっかりと示した。あと寅がリリーの去った部屋を訪れるシーンもいい。彼女の内面を語ってくるすさんだ室内。別の部屋の住人がこわごわ応対する。かたぎの住人にとっては、女に逃げられたやくざのヒモにしか見えない寅なのだ。アブクみたいなリリーと寅、「とらや=身内」という背景を除いてしまうと、寅もこの荒廃した情景にふさわしいという現実を一瞬のうちに見せたシーンだった。ヒロシが憧れる「広いところを旅する気ままな暮らし」の後ろには、こんな部屋が隠れている。
[CS・衛星(邦画)] 8点(2013-06-14 09:58:33)(良:1票)
314.  あんにょん由美香
ほとんどの証言者は男であり、彼らが口を揃えて言うのは、由美香の男性性についてだった。ゴーケツだった、とか。男のスタッフに囲まれて女性性を売り物にする仕事をしていた彼女は、オヤジ化して対さざるを得なかったのか。女性関係者では銚子でひとり登場しただけで、彼女はいたって影が薄く、男性の陰に隠れるように「女性的」にふるまっていた(この銚子の寂れたシーンはいい)。たしかにこういうエロ業界では、女優はうたかたのように通り過ぎる者であって、過去の証言者を探すのは難しいだろうし、探し当ててもインタビューに応じない可能性も高い。だから非常に男性に偏った証言になってしまう。そのなかで、今はもういない由美香だけが、どんどんオヤジ化されてイメージされていく。そこらへんが面白かった。男たちのイメージの中で、彼女はある種の祭司に祭り上げられていくが、それでいいのだろうか。彼女はほかのうたかたのような女優とは違った、っていうことが強調されていくが、小遣い稼ぎでチョコチョコっと業界を通過していった女性群たちのエネルギーこそ、もしかするともっと注目すべきものだったのかも知れず、うっかり業界に残ってしまいオヤジとなって死んでいった由美香さんは、こう祭り上げられるよりも、別の視点で見るべき犠牲だったのではないか、という気持ちもちょっとする。この映画が男のみの視点になってしまったことからくる単純さを感じた。もっとも男にもドラマはあり、子どもの出産の日が撮影日だった、という男優の話など面白かった。子どものためにも仕事に精を出さねば、とセックスシーンに励む。セックスと出産と子育てという本来哺乳類として密接に繋がっているものが、ずいぶんややこしい遠回りな関係になってしまっているおかしさ。そして「ラストシーン」。以上のような理由で、これは男だけの身勝手な祝祭でしかないと醒めて思う一方、関係者一同が揃ってくるとそれだけで、映画ならではの「たむけ」として心動かされてもしまうのだった。
[DVD(邦画)] 6点(2010-07-27 10:49:29)(良:1票)
315.  毎日が夏休み
お父さんのキャラクターがユニーク。会社へ行かなくなるのは、それ以後の時代の映画だったらリストラなんだけど、「出社拒否」であって、あくまでこっちがあっちを拒否したの。全然敗北感がなく、自信たっぷりで会社を蹴ってる。それが娘にも伝染し、イジメにあってる学校を完全にやめるときも、敗北感がなく、こっちが学校を蹴飛ばしてスキップしながら去っていく。この明朗さはとかく湿っぽさをよしとする邦画では貴重で、もうちょっと洗練されてほしい部分はたくさんあるが、ライトコメディという日本では苦手な分野に挑んだ姿勢をたたえたい。舞台となった新興住宅街のコギレイで厚みのない世界とうまくマッチした。原作が女性である本作で、ファザーコンプレックスってものが生理として感じられた。義父(いちいちギフと発語する)という他人のような父にしつらえて、娘にとって恋の対象にもなりうる理想の「お父さん」を造形している。なるほど、ファザコンとはこういう感じなのか、と実感として納得できた。『晩春』なんかファザコンの映画と言われても、やはりどこか男たちが頭で作った世界という感じだった。頼もしいだけでなく「かわいい」お父さんを、娘たちは期待しているんだ。お父さんの側にとっては、いつも驚いたように大人を観察している佐伯日菜子の一本調子がとてもかわいい。
[CS・衛星(邦画)] 6点(2011-09-09 10:09:07)(良:1票)
316.  音のない世界で
聾者の、耳が聞こえないってことに、健常者は鈍感すぎてもならないが過敏すぎてもならないってこと。差異は認めて差別はするな、ってことか。手話の身振り手振りこそ、まさに映画が誕生したときにあったコミュニケーションだったわけで、彼らは「観る」ことのスペシャリスト、「身振り手振り」の専門家である。細かなエピソードが、聾者を身近なものにしてくれる。親族のほとんどが耳が聞こえない中で、どこそこの子だけは、かわいそうに耳が聞こえてる、と言っている青年。身近に子どもの聾者しかいなかったので、大人になる前にみんな死んでしまうんだと思い込んでいた子が、初めて大人の聾者を見たときの喜び。家族がどっと笑っても何で笑ったのか分からない孤独。健常者と聾者、どんなに同じだと言っても、音楽を楽しむことだけは違うだろう、と思っていたが、冒頭の四部合唱(!)、一種のパフォーマンスかも知れないが、確かに音楽に近い何かだった。欠損は欠損には違いないが、それを補う力が人間には強いってこと、また欠損があることによって豊かさに敏感になれるということ。聾唖者こそ、サイレント映画の監督にふさわしいのではないか。というか、映画監督に必要なのは、聾唖への想像力だ。
[映画館(字幕)] 7点(2010-04-17 11:58:06)(良:1票)
317.  野いちご
「お前のベストワン映画は何か?」と尋ねられたら「いろんな方向でのベストワンが十数本はあり、とうてい1本に絞れない」と答える。しかしそこで出刃包丁を突きつけられて「これでも選べない?」と畳み込まれたら、たぶんさして迷わず本作を挙げるだろう(でも決して人生の最後に観たい映画ではない、最後に観るならMGMミュージカルかキートン)。初めて観たのが若い多感なときだったせいか、こころにじっくり沁み込んだ作品。その沁み込み具合は、半端じゃなかった。作品中で主人公イサクが、サラに鏡を突きつけられるシーンがあるが、まるでスクリーンが鏡となってこちらに突きつけてきたような映画であった。人の世のわずらわしさから逃げようとしたものの受ける罰。前半の回想で、サラがイサクへの想いを語っているのを、心地よい回想として眺める階段の場の老イサク、しかし中盤の夢で、彼はサラに裁かれる。サラ夫婦の家庭を窓越しに眺めるイサクの孤独。バッハの平均率の変ホ短調のフーガ。サラたちのように生きたい、しかしそう思う人間はそうは成り得ない、という絶対の壁がこの窓にはある。そして重ねて裁きが続く。イサクの孤独は、彼がそうしか成り得ない人間であったということじゃないか。そういう厳しい認識の果てに、ラストの回想が来る。この釣りの図の見事なこと。これは一人称の映画であり、登場する人々は主人公と照らし合わされるためにのみ存在している。そういう厚みを持てない構造が生かされ、その構造によって深くえぐりこめた作品だろう。
[映画館(字幕)] 10点(2010-08-13 09:56:54)(良:1票)
318.  グランド・ホテル
頽廃の匂いと言うほどではないが、アメリカがヨーロッパ・とりわけドイツに抱いている世紀末的な雰囲気への憧れが感じられた。子どもが大人に抱くような視線。滅びや衰退ってものの厳粛さへの過剰な評価。死が近づく病人、人気下降気味のバレリーナ、崖っぷちの会社、それらがウィンナワルツをBGMに旋回していく。当然のように犯罪も入り込んでくる。歴史を重ねてきた都市だけが醸し出せる「大人」の雰囲気。アメリカ映画が持てなかったヨーロッパ的なものを、とりわけ大事そうに画面に塗りこんでいるところが、いじらしくも楽しかった(ドイツの小説をアメリカで戯曲にしたのの映画化と聞いている)。この様式が拡大されたのが、アルトマンってことか。『グランド・ホテル』にはアメリカのヨーロッパへのコンプレックスが感じられるが、アルトマンがそれをより発展させ、混在国家アメリカに文化にしてしまった。最後に「事件」を置いてキュッと全体を締める手法なんか、『ナッシュビル』でより大規模に再現してくれた。そのアルトマンの映画が、ヨーロッパでより高く評価されたってあたり、旧世界と新世界の相互の「憧れ合い」が微笑ましく見えてくる。この手のドラマでは、人々がそれぞれの人生を担って同時に生きていることを示すため、当然のように長回しの手法が生かされてくるんだ。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2012-03-18 10:02:32)(良:1票)
319.  ニッポン国 古屋敷村
農家の人たちの専門用語って、なんか美しい。「しろみなみ」とか「あんどん穂」とか、嫌なものにもきれいな言葉をつける。そういう言葉たちに満ちた前半の理科の授業も面白いが、本当にいいのは後半、老人たちが語り出してからだ。この映画の忘れ得ぬ場面は、フィルム上に現われるのではなく、人の語りの中から浮かんでくる。わり婆さんの生涯最大のびっくりした話、家訓で熊撃ちをやめた話、景気がよかったころの花火の話。一日かけて町へ売りに行き疲れて帰ってきた後、親子で馬の脚を洗う情景など実際に映画で見たような気になってしまう。これら過去の物語が、みずみずしく現出してくる。語りかける相手を失っていたこういう無数の話が、このフィルムにかろうじて記録され、でもおそらく21世紀の現在は、語り手も含めてすべて消え失せてしまっただろう。花屋さんの作った炭のたてた澄んだ響きも、蚕が桑を食べるささやかな音も。
[映画館(邦画)] 9点(2008-03-11 12:23:09)(良:1票)
320.  怒りの葡萄 《ネタバレ》 
ラストの決意がちょっと抽象的に跳びすぎていたように思うんだけど、でもパン買うシーンが(実に具体的で)大好きなので、忘れられない映画です。主人公の一家が旅の途中15セントのパンを10セント分だけ売ってくれって言うと、いいよ全部持っていきな、と店主が言う。老人は乞食じゃないんだと反撥するわけ。そこで店主は古いパンだからと「譲歩」するの。と子どもが飴ほしそうにしていて、これ1本1セントかね、って聞くと、パン売るときはしぶしぶそうだった女店員が、2本1セントです、って答えるの。一家が去ったあと別の客が、1本5セントじゃねえかよ、と笑って、釣りはいらねえぜ、と勘定をすませる。店員が金額を見て、まああの人ったら、というように微笑む。人情ドラマの一景として完璧でしょ。山田洋次が『家族』で笠智衆に似たようなエピソードやらせたのは、これへのオマージュなんじゃないかと思ってる。アメリカ映画って、けっこうウエットなところあるんだよね。ペキンパーなんかにも感じるし。そこらへん太平洋をはさんで日本と共通する感性があるみたい。
[映画館(字幕)] 7点(2010-01-05 12:06:18)(良:1票)

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