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コメント数 106
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21.  8 1/2 《ネタバレ》 
映画の製作現場を舞台に、周囲を取り巻く息詰まるような人間関係、映画にかける想い、郷愁の念、不信から来る喪失への怖れ、などを描いた自伝映画。とはいえ、フェリーニは他の作品でも自らの体験や想いを軸にしているものが目立つ。それは別に「自分の生活が興味を引く」とか考えているわけではなく、「さも真実らしい嘘をつく」「くそリアリズム」な映画、「何でも夫(監督)の思い通り」で「騒ぎが好き」なだけの「無用な言葉や音楽に窒息させられる」ような「規則的な」映画は作りたくないだけなのだ。人間は複雑で多面的なので、「嘘や妥協のない映画」を作るために「私の映画では全てが起こる」。この映画も「単純なことを伝えるつもりだった」が、こうならざるを得なかった。だが、この確固たる信念が私生活では特にマイナスに作用する。「深刻に考えすぎ」、人を信じられず、妻にさえ正直になれず、過去にしがみつき、「一つを選び取ってそれに人生をかける」ことができずに全てを欲してしまう、ゆえに愛を知らない。「全てを受け入れ、愛する」ことができれば、「全てが真実で輝いて見え」て、ラストの大団円のような開放感を味わえるのだが、信念とのギャップ、矛盾に苦しみ、そうはなれない少数派、孤独なフェリーニ・・・1人の人間の全てを丁寧に映像化したフェリーニ。尊敬と共感で涙が出たほどの作品。 ―――こういった説明調の感想は詰まらぬものだと知りながら、十全な説明を見かけないためとりあえず。
[ビデオ(字幕)] 10点(2006-04-15 01:55:00)(良:1票)
22.  夏物語(1996) 《ネタバレ》 
人間観察。本人でも気付かないくらいの微かな心情の移ろいを映画一本全てを使って映し出し、伝える。フェリーニと根本の美学は同じで、一人の人間の全てを誠実にフィルムに焼き付ける。ロメール自身が人に悩み、人について考え、葛藤していなければとても作れない。ロメール自身の投影とも言えるだろう。・・・「僕は愛されなければ、愛すことができない」。存在を強く認めてくれることこそが彼にとっての愛。主導権を握りたいという気持ちも強く持っているのに、愛すため(愛されるため)に下手になり、その過程を愛と錯覚する。だから一人の女を選ぶなんてことできない。けして女たらしでもナルシストでもない。彼はいつだって受け身。合気道みたいなもん。自分に対してのアクションがなければ何もできないから集団行動も無理。距離を保ち続ける女、音楽を受け入れる女、全てを理解してくれようとする女。皆に魅かれ、彼の立場から言えば、翻弄され続けるその姿は愚かしくもあり、彼の独特の腕組み姿は可愛らしく、可笑しく、切なく、優しい。 ロメールの映画は言語的と評される。それはけして台詞の多寡によってではなく、それは例えば『裁かるゝジャンヌ』のように、見た目の言語性を超越した精神性への言及と捉えられなければばならない。より刮目すべきは台詞ではなく彼の腕組み姿なのだと念を押しておきたい。・・・最後に一つだけ、正直言って合気道のことよく知りません。よく知らないくせに合気道乱用すんじゃねーよ、とか言われたら困るので一応言っときます。ごめん。合気道。まじごめん。
[ビデオ(字幕)] 10点(2006-04-15 02:37:53)(良:1票)
23.  ロゼッタ
ファーストカットの瑞々しさにはつい目が奪われるのだが、1分と待たずに蔑視に変わる。ベルギーの貧困問題を眼前に厳密に提示することこそ主題と呼べる代物だが、ドグマ95に純潔の誓いを立てたかのような手持ちカメラ、効果音の欠如に独自の軽薄なクロースアップが加えられ、構図の喪失を招き、程々のダイナミズムを獲得している。出来事性と卑俗な設定と押し付けられる感情に支配されたえもいえぬ貧しき映画。一過性の流行だと断言しておく。
[ビデオ(字幕)] 3点(2008-02-07 14:07:27)(良:1票)
24.  昼下りの情事 《ネタバレ》 
ヤ○チンに振り向いてもらうために・・・嫉妬させて自分だけを見てもらうために、背伸びしてプレイガールぶっちゃうオードリーがとてもいじらしく可愛らしかった―――なんて感想、マフィアに脅されても言えんわ。いたいけな処女が、カネモチ・ハンサム・ヤリチ○というぐらいしか情報のないオジサマにのめり込んでいく様子を微笑んで見守ってあげられるって宇宙のような広い心やと思うわ。動機が分からない、前提を理解できていないのに勝手に話し進められても置いてけぼりくらってしまう。んで、事実を知ったらオジサマ急にいい奴になったりして、でもやっぱり可愛いから連れてっちゃおみたいな展開になって、「ま、すぐに捨てられて泣きを見るやろ」とか思いよったら、結婚して幸せになったりしとんもん。何ともまぁ映画的でヤラしいわ。 というかまじめな話、オードリーのような個性俳優に演技俳優のような役を与えるのは明らかな過ちだと思うのだが…… 
[ビデオ(字幕)] 2点(2006-04-22 19:49:23)(笑:1票)
25.  軽蔑(1963)
昔はすべてが共犯の歓びの中で無意識に過ぎていった。何もかもが異常で魔法のような気軽さとともに起きた。 異常なまでに繰り返される主題曲は、もはや作品の言語世界に追随することを辞め、自らの見えざる主題を語り出しているかのようである。 気付かぬ内に彼の腕に抱かれていたあの感覚はまるでなかったかのように姿をなくす。 自室で繰り返される真意の読み取れない議論の末、直後の劇場での、ラングとカミーユ、ポールと製作者の座席の位置で愛の消滅を告げる。これが映画である。 妻を殺しても愛を失い、浮気相手を殺しても愛を失う。 不毛な議論の中で、無価値な言葉と同等に発されたこの一節が価値を帯びてくる。これが映画だ。 フリッツ・ラングへの愛、映画への愛、ホークスへの愛、ヒッチへの愛、カリーナとの愛、一部映画への軽蔑。 言語が語る、音楽が語る、映像が語る、海が彫刻が語り合い、せめぎあっている。だからゴダールの映画は凄い。だから映画は素晴らしい。 
[DVD(字幕)] 10点(2006-12-29 02:23:05)(良:1票)
26.  空中庭園 《ネタバレ》 
あまりに似つかわしくないランプシェードを円の動きで捉え続けるオープニング。カメラ自身も回転しながら団地を映し、バスの上から見る街並みを、丸い観覧車を、そして人物を取り囲むように映す。円は恐怖であり、穏やかさであり、輪廻であり、螺旋である。遠くから近づくバスを待つ固定ショットのコーナーにはタンポポがあったりだとか、光の配し方だとかカメラワークだとか、まるで学び始めたばかりのような厳密さがあり、洒脱さに欠け、退屈ではあるのだが、しないよりはマシというのも事実なのだから仕方がない。また小泉の二面性を表すフォークのシーンや、変化を表す「死ねよ」という言葉も私にはその裏切りの展開や方法論が何とも凡庸に感じられるのだが、何とも嬉しいことにこの作品には何とも素晴らしい「映画的帰結」が詰め込まれていた。秘密のない家族、秘密のある事実。母親の愛情不足の所為で人生が狂ったという思い込みの認識と注がれていたという事実。いま中で出して卵子に精子が届けばすぐに家族になれちゃう事実、思ったよりも簡単に気付かないところで愛は生まれているという事実。母親からの「誕生日おめでとう」の電話で思い込みから解放される小泉。ベランダに出て、血の雨を受け、浄化される小泉。泣きながら血まみれで産まれてくる赤ん坊のように、血まみれで泣き叫び、生まれる。何とも映画的ではないか。これでいいんだ。この豪腕さが、映画なのだ。 
[DVD(邦画)] 7点(2006-12-29 02:21:51)(良:1票)
27.  汚名 《ネタバレ》 
これと「めまい」はヒッチの作品史上稀有に堅実な傑作である。つまりはシナリオに支えられ、偉大な演技者たち(ケイリー・グラント、バーグマン、クロード・レインズ)に支えられ、無駄のないシンプルな外見を仕立て上げている。特に俳優に関して言えば、それぞれが目で語らしめる実力を備えており、実際ヒッチコックもこの作品に関しては目で語らせることを相当意識して作っている。ケイリー・グラントの真意の読み取れない奥深い眼、パーティシーン等でたびたび注視されるクロード・レインズの疑いの目、コーヒーの毒に気付いた際にバーグマンが見せた隠しきれない動揺の目。とりわけこのシーンではクロード・レインズ、母、バーグマン、それぞれの意図を反映した目のクロースアップが次々とカッティングされることで展開の変化を告げる素晴らしき映画の躍動に満ちている。この作品はいかにもヒッチコック風の視覚的エモーションの緊密性には縛られていないが、やはり随所でその鋭利な演出を見せ付けられている。バーグマンが鍵を隠し持つシーンがそれであり、積極的に転落へと向かうワインボトルのカッティングがそれであり、絶望のなか屋敷への階段を上るクロード・レインズ、その陰影の美しきシンメトリーの静謐な緊迫がそれである。 またクロード・レインズの最期を省略したことや、ブフカの死を見せなかったこと、バーグマンに対する遅効性の毒を考えてみても、発狂の瞬間よりもむしろその過程、溺れて死ぬまでの息苦しさをこそ描きたかったのだということもよく分かる。 
[ビデオ(字幕)] 8点(2006-12-29 02:41:44)(良:1票)
28.  日陽はしづかに発酵し・・・
何とも面白い、特異な作家の登場である。確実に映画史・映像史の基礎を踏まえた画作りでありながら、その因果関係を語ることを許さない。ソクーロフの映画としか言いようのない、生誕の瞬間から完成していたかのような気味の悪さがある。褐色のモノクローム、アイレベルではありえない垂直の俯瞰視線、その奇抜さを語ることさえ拒むかのような完成度なのだ。 色調の徹底はタルコフスキー的(というよりタルコフスキー以後ロシアの伝統的)であるし、紙に火をつけ燃やす(これがなかなか点かない)1ショット1シークエンスもまたタルコフスキー的である。 が、その色調はタルコフスキーのように自然を美化するためのものではなく、むしろありのままの広大な自然、荒野に人間を配置し、その人物を浮き立たせるためであるし、省略を恐れず、積極的に物を語る姿勢にも充ちている。惜しむらくは語るべき物の不在であろう。ソクーロフはいつか傑作を撮る。この作品に触れて、それだけは確信できる。 
[ビデオ(字幕)] 7点(2006-12-29 02:33:43)(良:1票)
29.  霧の中の風景
幼い姉弟が、見たこともない父親に執着してどんな苦境にもめげず躍起になって外国まで探しに行くなんて発想、それ自体いかにも映画的でヤラしいし、この旅を通じて姉弟が成長したとも思えない。レイプされたり、カラダ売ろうとしたり、ホモの旅役者で失恋を味わったりせんでも姉はいずれ恋をするやろうし、弟だっていずれ動物の死に対面するし、アルバイトもするやろ。旅役者が、時代背景を象徴するとともにストーリー進行においても必要不可欠なキャラクターであったことは確かだが、取って付けたようなエピソードの羅列にはうんざりしてしまう。・・・・・・けど、けど、映像表現はとにかく素晴らしい。もう、めちゃめちゃ素晴らしい。ロングショットの美しさは勿論のこと、白と黒のあまりに見事な対比によって、吸い込まれるような、家の無機質なテレビが無機質でなくなるような映像を見せてくれる。人差し指の欠けた手の彫刻がヘリで運ばれる画は印象度も絶大で、暗喩としても充分なものであった。 これでもっと人間考察の深みがあれば・・・と思うと残念でならない。希望と言う光を持ち続ければ・・・ってのも気休めとしか思えんのよな。
[ビデオ(字幕)] 7点(2006-05-12 17:40:38)(良:1票)
30.  さらば箱舟 《ネタバレ》 
田舎者にしか出せない感覚。 この映画には整合性が無い。欠落しているのではなく、欠落させている。整合性を持たない均整。狂った地点での均整。演出への自信。下品を恥じない演出。時計の魔術、時間の喪失、貞操体、健忘症、死者の穴、血筋、抜け出せない田舎、100年遅れた田舎、モノクロ、緑、音色。全てが土着的で田舎臭くて洗練されている。田舎と都会を兼ね備える者にのみ奏でられる協奏曲。消え去る田舎、連れ去る都会、消え去る時代、消えざる写真。笑えない驚きとの感動的出会い。
[ビデオ(邦画)] 9点(2006-09-24 12:17:21)(良:1票)
31.  吸血鬼ノスフェラトゥ(1922)
映画史を遡るしかない我々には元ネタを発見するという楽しみがある。脚本の元ネタは当然だが、数々の構図が後年の作品にそのまま使われていることに驚く。これはつまり模倣することでしか水準を満たすことのできない、カリスマ的なまでの完成度を本作品が有しているという証明だろう。 それにしてもこのシュレックという俳優はその容姿といい、影絵に生かされる長い指といい、まるでこの作品のために生まれたかのような俳優ではないか。  この作品においての影絵とはグロテスク描写を排するための手段であり、美しさであり、光と影の戦いの象徴でもある。船の上部をぐるりと回りこむ際の影はとりわけ忘れ難く、この作品の力強い存在を見せつけられる。
[ビデオ(字幕)] 7点(2006-09-24 12:24:37)(良:1票)
32.  夜の人々(1948) 《ネタバレ》 
“この青年とこの娘の物語は正しく伝えられたことがない” 頭に予感が走ったがやはりそうだった。ボニー&クライドである。かの低脳映画、『俺たちに明日はない』とは較べたくもない出来映え。真実 かどうかは知る術がないが、少なくともこの作品には真実味、説得力がある。――何故か――二人の愛、つながり、悲壮感、苛立ち、沈黙を描いているから。キャラクター設定からして説得力がある。ボウイは16歳で罪を犯し、7年間投獄された世間知らずの青年。女との喋り方も分からず、結婚式の最中でも堂々としていられず、これでいいのかな、って顔で戸惑っているような青年。一方のキーチーはアル中の父親と二人で暮らし続け、普通の女の子がすることなんて自分には縁遠いと諦めていた娘。 おれは思う。 本当の純愛物語は童貞と生娘でしか成立し得ない。彼らだからこそ可愛らしいという目で見守ってあげられるのだ。 とまぁここまでは前提であって魅力の本質ではない。 まず目立たないが台詞が粋だ。「タバコを」 {よく吸うね} 「いらないわ」 {持ってない} この極端に短いやり取りだけで、キーチーがいじらしく好かれようとしているのが伝わり、またその後に陥りがちなロマンチックで寒々しい空気を一瞬にして打ち消している。この魅力を作品の中心に据え、一つの映画にまで昇華させたのが『ストレンジャー・ザン・パラダイス』である、というのはまぁいいか。 そしてもう一つの魅力は説得力に裏打ちされた、これまた地味ながら緊迫感と味のある演出。分かり易いのはやはりラストのショット。説得力のあるマッツィの裏切りと演技ののち、静かにキーチーの眠るモーテルに近付くボウイ。この際の緊迫感も大したものだが、重要なのはその直後。警察に気付いたボウイがわずか2歩ほどだが、モーテルから離れる。地味だが、この、キーチーを巻き込みたくないという一貫した想いを行動で描写する演出に素敵を感じさせてくれる。
[ビデオ(字幕)] 9点(2006-09-24 12:38:52)(良:1票)
33.  動くな、死ね、甦れ!
1989年ソ連製作の映画に対して見当違いなことを言うようだが、これは紛れもなくネオ・レアリスモの傑作。いや、まぁそんな必死になって説明する気もないし別に何でもいいんやけどさ。題材としては“大人は判ってくれない”を想起させる。“他人は構ってくれない”のほうがしっくり来るけど。ワレルカ少年は下水にイースト菌入れたり、電車脱線させたりするけど、社会に反抗したかったわけでもないし、迷惑かけたかったわけでもない。ただ無邪気に、この陰鬱とした気持ちを、鬱憤を晴らしたかっただけ。お母さんのことも好きやし、愛されていることも分かっている。戦争も起こっている、銃殺刑も当たり前のように簡単に行われる社会で自分のした事がそんなにも咎められることとは思わなかっただけ。確固とした流れに沿わず、展開の組み合わせでここまで感じさせる手腕は大したもの。特にワレルカとガリーヤの“幼いけれど真実の愛”の芽生え方、描き方はただただ素晴らしい。人々がぎゃーぎゃーまくし立てるのは卑俗で好きになれない演出なのでそこだけマイナス。
[ビデオ(字幕)] 8点(2006-04-16 01:05:33)(良:1票)
34.  晩春
小津の作品は当然にしてコメディだと形容できるのだが、あの切り返しだけはあまりに凄まじく、ホラーと呼んでしまいたいくらいである。それは『散りゆく花』のなかでグリフィスがリリアン・ギッシュに向けた視線に近い感覚の何かであり、それは様式美であり、愛である。さて、小津の一作品を論じる意味があるのだろうか。小津とは反復であり、心地よい音楽であり、様式美である。娘を重宝しすぎた父親と、沢庵の切れない(嫉妬深い)婚礼期を過ぎた生娘の物語はあまりに中庸に始まり、凡庸な結末を迎える。だがそれを心地よく反復される台詞と仰角の、または特権を与えられる切り返しの、ほんの少しの恐怖が「映画」を形成してしまう。小津はマニエラであり、マニエリスムである。ミケランジェロであり、カラヴァッジオでもある。普遍的であり畸形であるのだから畏怖する以外仕方がないではないか。
[ビデオ(字幕)] 10点(2008-02-07 14:01:23)(良:1票)
35.  欲望(1966) 《ネタバレ》 
まず、衣装・セット・女性のずば抜けたセンス。そしてカメラワーク。人の目で見ているような息遣いを感じる動と、斜めからフィックスで撮る静のカメラが非常に印象的だった。話はというと、公園で撮った写真を引きのばしていくと殺人現場らしきものが写っていたというもの。こう聞くとサスペンスのようだが、けして違う。それは衝撃的なシーンで合えて効果音や音楽を排除していることからも顕著である。この作品は、人間がその一瞬一瞬に見たこと・感じたこと・思ったことの儚くたゆたっている不確実さを映像化したもの。女には飽きたと言いながらもセックスをするその姿も、ライブハウスから出ればごみ同然となるぶっ壊されたギターも、ひどく気に入って即買いしたプロペラも全てこの象徴であり、その空ろさ故に、その感覚を他者と共有することは限りなく不可能だという真実を示している。出来事は他者にとってはある種全てが虚構であり、何が存在していて何が存在していないのかは問題ではないということが最後のパントマイムテニスにもよく表現されている。気分屋で気難しい写真家という繊細な役柄を見事にこなした演技、混沌とした中から少しずつ形を成してくる抽象画のように、引きのばした粒子の粗い写真から何かを見出すというプロット構成を高く評価したい。
[ビデオ(字幕)] 9点(2006-04-15 15:03:10)(良:1票)
36.  裸のキッス
スコセッシやスピルバーグに影響を与えた?それどころではない。作品を観れば、ゴダールやヒッチコックに並ぶ逸材であることは明らかである。短いショットの連結によって確信犯的に重要度を知らしめるその手法は正にヒッチコックの手法であり、事実匹敵しているし、ジャンプカットを始めそれ自体がその運動自体が魅力となりうる事象や技法を提供する姿勢は正にゴダールである。加えてこの作品に触れた折、思い出さずにいられないのが『狩人の夜』である。撮影が同じくスタンリー・コルテスによることは後で知り、驚きと納得を得たのだが、その光をふんだんに取り入れた映像そのものもさることながら、映像によるところの語り口(長回しを厭わず、省略を恐れない)、真相を目撃した際のカッティングであるとか幼女が真相を語った後の流れるような、一連の動きと運命付けられていたかのような録音機からテープへのカメラワークだとか、夢の絶頂であった子供たちとの掛け合いの歌を凍り付くような絶望の歌として再会させてくれるあたり、すべてが『狩人の夜』的なのである。それはつまり『狩人の夜』の素晴らしさを再確認したいのであるが、それと同時に、ゴダールやヒッチコックまでも感じ取らせてくれる、この教祖として申し分ない人物、サミュエル・フラーを本来あるべき陽の下に立たせようとする運動への欲求なのである。 
[ビデオ(字幕)] 9点(2007-01-04 10:08:52)(良:1票)

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