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61.  未来世紀ブラジル 《ネタバレ》 
たとえば、拷問の記録をタイプにとっているところ。担当のオバサンが打ってるタイプを主人公がちらっとのぞくと「HELP!」と悲鳴が並んでいる。話しかけてオバサンがイヤホン外すとじかに悲鳴がもれてくる。あるいは食事の場でのテロ爆弾の炸裂、それでもせっせと食事を続ける人たち。ドンパチやってる脇で掃除を続けるオバサン。デ・ニーロが情報用紙に絡みつかれていく脇をゆく通行人。なにか切迫した大音声の世界と、静寂の事務的な世界がつながっている。事務の静まりのほうが大音声を圧倒し包み込んでいく。これは単にギャグと言うだけでなく、現代社会そのものといった納得を感じた。そういった大音声への無関心を導く社会の果てに、ラストの「ブラジル」を口ずさむ呆けた夢の世界が待っているのだろう。そしてこれはスクリーンを観ている私たちを皮肉っているのか、という気にもなってくる。カフカ的な暗い未来社会もの、って映画はほかにもあるが、とりわけこれは笑いと戦慄の振幅が大きくて好き。オタフクの笑顔もそうとう気味悪い。この後に観たフランス映画の『デリカテッセン』てのでもラテン音楽が暗い未来社会に流れていた。一番「自由」を感じさせる音楽なので皮肉に響くのか、あるいは世界が北方的に陰鬱になってしまったので皮肉に響くのか。ラテン音楽が皮肉に響くようになったら、その社会は要注意ってことだ。
[映画館(字幕)] 9点(2010-07-19 10:57:20)(良:2票)
62.  二十日鼠と人間(1992) 《ネタバレ》 
映画の評価に原作の力が入ってくるのはある程度仕方なく、原作がいいとやっぱいい。少なくとも原作を殺してない、ってだけで評価していい。スタインベックの映画化では『怒りの葡萄』『エデンの東』の二大名作があるけど、話としてはこれが好き。なんか山本周五郎の「さぶ」思い出したりして。登場するみなが夢や憧れを持ちながら孤独に沈んでいて、自分の孤独な夢を守るために互いに傷つけ合ってしまう。ここで行われる殺しには、憎しみはない。老犬を殺させるキャンディ、仔犬を殺してしまうレニー、女を殺してしまうのも、鼠の死骸の延長上で、そしてリンチの前に友を殺してしまうジョージ。レニーと生きることを許さない社会、自分の中のレニー的なものを分離させないと生活していけない社会、そのやりきれなさ。アメリカ南部って心の傷がよく似合う。レニーが一度仔犬を連れてきたふりしてジョージをからかうあたり、あとになって思い出すとしみじみしちゃう。常にジョージの顔色をうかがっていたレニーに向こう(夢の家の方角)を向かせ、二人の視線が互いでなく、はるかかなたで重なるラスト。
[映画館(字幕)] 7点(2011-12-28 12:15:52)(良:2票)
63.  暗いところで待ち合わせ 《ネタバレ》 
男は、誰も信用せず、いじめられるきっかけを与えないようにと気配を消して働いている。女は、外に出ると人に迷惑かけるからと、世間に対して気配を消して暮らしている。その女の家に、男が気配を消して住みついてしまう。被害者意識と加害者意識の同居。人生持ちつ持たれつ、もっとこう気楽にいけないですか? と見てるこっちが言いたい気分になったところで入る外出シーンだから、けっこうグッと来てしまった。初めて男に食事を提供するシーンなども含め、気配を消しているスリルの場面より、気配を消すことをついに突破する場面でこの映画はいい。
[DVD(邦画)] 6点(2007-09-17 09:29:50)(良:2票)
64.  シャネル&ストラヴィンスキー
アール・デコって都会的なんだけど、ここでは田舎の中にデコの家がある。黒い縁が美しい部屋。外に広がる「田舎」に、近代女性であるシャネルが必死で抵抗しているような室内装飾だ。外の田舎は、イーゴルの妻の方がふさわしい。とんがっているシャネルと、病弱ながら周囲に広がって包み込んでいるような妻、との緊張。シャネルはイーゴルに刺激されて、洋服屋から香りの芸術家になろうと試みる。妻は夫の譜の清書を淡々とこなし、この生活から感じる腐敗の匂いに耐えていく。これ面白くなれそうなんだけど、どっかで見たような三角関係話どまりになってしまった。ピアノの響きによる嫉妬のうずき、クリムトの絵画のようなベッドシーン、などはちょっと面白い。でも一番思ったのは、ついにストラヴィンスキーも映画になったか、という感慨。楽聖映画ってジャンルがあり、シューベルトなどの名作がある(シューベルトは全裸にならなかった)。私の知ってる範囲では、ケン・ラッセルの『マーラー』が一番最近の作曲家だったが、とうとう第一次世界大戦を越えて、20年代のストラヴィンスキーが、シャネルとの二枚看板ながら映画の主役になった。これは当初最前衛だったストラヴィンスキーの音楽が、一般的なポピュラリティを獲得したって事なんだろう。次に映画化されるのは誰か。ウェーベルンなんて、ナチの支配に耐えながら米兵に誤射されて命を落とすドラマチックな生涯なんだけど、音楽の極北のようなデリケートな十二音の世界が、いつかシューベルト並みのポピュラリティを獲得する日が来るかどうか。「スターリン&ショスタコーヴィチ」なんて方がありそうだな。
[DVD(字幕)] 6点(2010-12-22 10:09:35)(良:2票)
65.  コーカサスの虜 《ネタバレ》 
個人が、その個人以外の要件で裁かれることへの絶対的ないらだち。全編緊張していた映画ではなかったが、ラストでこのいらだちに至るテーマがキューッと絞られていくところが見事で、こういう映画は印象強い。少女が鍵を渡し逃がそうとしてくれるが「それでは君が罰せられる」と言って虜の青年はうずくまる。個人と個人の対話。その彼を長老は逃がしてやる。これも個人と個人の交渉。そこにヌッと個人を識別する能力のない近代兵器がバランバランと現われてくる。この凶々しさと言ったらない。なにやら牧歌的ですらあった戦争に、不意に現代が顔を出し、この個人の顔を失った時代がとても悪い時代であることを証明する。ひなびたワルツが、その悪い時代に滅ぼされた何かを弔い続ける。
[映画館(字幕)] 7点(2009-04-08 12:00:41)(良:2票)
66.  ALWAYS 続・三丁目の夕日 《ネタバレ》 
もしかすると、ワイドの画面てのが一番懐かしかったかもしれない。怪獣映画が始まるときのワクワク感を東宝スコープマークで思い出していると、それがそのままラジオに重なり、ゴジラの襲来につながっていくニクい設定。まだゴジラが戦争の記憶にかろうじてつながっていた時代へと引き戻されていく。着ぐるみのゴジラがCGで再現されるところに、この作品の立ち位置が表われている。あたりさわりのない話に風俗図鑑を埋め込んだ構成。むかしの現代劇映画を見れば、時代考証の必要のないそのものズバリの懐かしの風俗を発見することはできるが、それらを集めた図鑑をパラパラと眺めるような楽しみがこの映画の味だ。拾った捨て犬を空き地で飼えた最後の時代か。狂犬病対策で野良犬が撲滅され、空き地も消えていく。戦争がらみの亡霊もやがて消えていくだろう。最後に東京タワーからの展望が出るかと思ったが、さすがにそれを作るのは大変だったか。
[DVD(邦画)] 7点(2008-09-01 12:13:48)(良:2票)
67.  気球クラブ、その後 《ネタバレ》 
ケータイだけでつながっていた緩やかなグループが解散し、青春は終わったなあ、って思う話。社会人となったそれぞれが、都会の上空に浮かぶ気球を見上げるシーンがあって、もしかすると最初のシナリオではあそこをラストシーンに予定していたのではないかと疑っている。でも永作博美の泣き笑いが圧倒的に素晴らしかったので、編集の段階で順序を入れ替えたということはないか。実際この映画の印象は、平凡な青春もので終わるところを、あのラストの永作で一段濃く刻みこまれる。ついに地上での生活に降りてこようとしなかった「うわの空」のムラカミさんへの、切々としたもどかしい想いが堰を越えて溢れだし、その童顔の眼にはいつ狂気に振れてもおかしくない光すらアンバランスにきらめき、演出ではなく演技であれだけぞくぞくさせられたことは、最近めったにない。
[DVD(邦画)] 7点(2008-02-16 12:27:29)(良:2票)
68.  アギーレ/神の怒り
舞台は南米でも、ニーチェの国の映画。圧倒的な意志の肯定者。意志即反逆、自然の征服なの。面白いのはアギーレの意志が次第に膨らんでくるのに反比例して、河が穏やかになっていくとこ。アギーレに対抗して荒れ狂ってもいいのに、静まっていく。そこがこの映画の一番怖いところ。アギーレがいくら意志を膨張させても、河(自然)のほうはびくともせず、より静かに包み込んでくる。それでいて樹の高くに引っかかった船でちらっと実力を見せびらかす。それを見てアギーレはますます対抗意識を燃やすわけ。インディオの襲撃にしても、ほとんど姿を見せずに森そのものが攻めてくるみたいになってる。大自然そのものと戦ってる感じ。自分の意志の力で世界を変形させようとした男、そういう人物が歴史をときに危険に導き、また進歩させていったのが人類史なんだ。全体ドキュメントタッチのカメラで、レンズに水しぶきがかかってもそのままでいっちゃうの。
[映画館(字幕)] 8点(2012-07-11 14:50:19)(良:2票)
69.  告発のとき 《ネタバレ》 
良くも悪くもハリウッド映画は明瞭な世界を提示してくれるものだったが、最近はなにかモヤモヤとしてスッキリしないまま終わる傾向がある。現実の複雑さにまともに向かい合えばそうなるわけだけど、ただ溜め息をついてるだけじゃないか、という気にもなる。この映画も構造は至ってハリウッド的で、反発し合っていた師匠と弟子が協力して結果を出す、というパターンの変奏。昔だったらもっと晴れ晴れしいラストになれたのに、現在のアメリカはそれを許してくれない。ドラマは、せがれが壊れていく過程を発見していく父の旅という形になる。善良なせがれが悪い敵に殺される、という形の反戦映画ならそれなりに浄化の気分になれるが、もうアメリカはそんな無垢な自画像を持てなくなっている。それを父親は受け入れていかなければならない。ただ救助信号としての国旗を掲げることしかできない。この圧倒的な無力感が、現在のアメリカの率直な自画像なのだろうか。
[DVD(字幕)] 6点(2009-04-12 12:02:57)(良:2票)
70.  ピクニックatハンギング・ロック 《ネタバレ》 
前半が特にいい。ピクニックのまどろみの感じ、いつもと違う朝の空気。バレンタインデーは南半球では夏なわけ。バッハの平均率に乗って馬車が走り、町を抜けると手袋を外し、虫のさえずり、羽ばたく音。食べ残しのパンにたかる蟻。12時に止まる時計。このしだいに山の神秘に呑み込まれていく感じ、「美しい良い子」の少女たちは消えていかねばならないことを、映像で納得させてしまったのはすごい。消えていった少女たちにはほとんど個性が与えられていないのも正しく、少女の「普遍」なんだろう。これ少女期の終わりだけでなく、19世紀の終わりも重なっている。19世紀的な少女は消えていき、淘汰され、20世紀的な少女の時代になっていく。しばしば流れるベートーベンの「皇帝」の美しい第2楽章、これの初演が19世紀初頭、たぶんこれからはがさつな不協和音の時代になっていくのだろう。
[映画館(字幕)] 7点(2010-06-27 11:57:29)(良:2票)
71.  男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け 《ネタバレ》 
最近『ジョーズ』を再見したら、夢がジョーズの寅があったな、ということが気になり、調べたらこれだった。逆の流れでなく、夢づたいに思い出させる力があるのが寅シリーズの強さだ。これは「芸術とは何ぞや」を軸に語った一編。のちに『あじさいの恋』でも芸術(陶芸)と金銭の関係に触れるが、これでは酔った宇野重吉がちょろちょろっと描いて7万円の愕然から始まる。名前を有り難がる芸術市場への皮肉のようでもあるが、そこまでは言えないか。ついで龍野の旅になり(この風景の美しいこと)、宇野重吉と同行することで「車先生」になるあたり、やはり「名前で尊重される社会」への皮肉で通じ合っているような。宴会の里芋コロコロ。このシリーズでは食べ物のギャグが不思議と印象に残る。芸者ぼたん。この突き抜けた明るさがいかにもコロッと騙されそうなキャラクターで、また騙されることが美質に感じられるのが大事。後半で騙されたぼたんに一緒に付いていく社長もいい。工場の宴会に来てもらった返礼になっている。名前で有り難がるのではなく、相手の実質の行為に実質で応えようとする。寅はこういう現実社会の悪にはまったく無力で、池内淳子の『寅次郎恋歌』以来いつも傍観せざるを得ない。ただし本作では最後に宇野画伯の牡丹の絵を持ってきてきれいに締める。「金銭に代えられない芸術の価値がある」と言葉にすると愛想がないが、それを軸にして一編の人情話に見事に仕立てている。
[映画館(邦画)] 8点(2013-11-28 09:14:16)(良:2票)
72.  モスラ(1961) 《ネタバレ》 
私は東宝怪獣ものではだんぜんこれが好き。映画好きになった一因は本作との出会いにあり、感謝の一本。変態していく展開がほかの怪獣にまさるし、やっぱり東京タワーに繭を作るっていうあのファンタジーね、これにまさるイメージは、ついに怪獣映画からは生まれなかったんじゃないか。また、やがて映画界を衰退させていくテレビの電波塔を折り倒して成虫する映画の怪獣、ってのが、今から見ると別種のファンタジーでもある。東京湾で消えたモスラがダム湖から出現するのをフォローするのが、フランキー堺の「どうしてこんなところへ…」というつぶやきだけで、それで済ましちゃってるのは凄いなあと昔から気になってたんだけど、このほど「江戸歌舞伎の怪談と化け物」という本を読んでいたら、役者の水中早替わりに関して「日本には地の底で水はつながっているという異界観があった」という説明があった。ああこれだったのか、東京湾から山の中の湖に移動するってのは、日本文化の伝統的な世界観に則ればごく自然な展開だったのだ、と永年の謎が氷解し、ますますこの映画が好きになった。
[映画館(邦画)] 9点(2008-12-01 12:15:31)(良:2票)
73.  ヒトラーの贋札
「今日の銃殺より明日のガス」ってセリフは記憶に残るな。たとえそれが利敵行為と分かっていても、とりあえず今日の銃殺を避けようとするもんなあ。まして職人気質をくすぐられれば、歴史に残る贋札を作りたいと思っちゃう、そこらへんの「分かっちゃいるけどやめられない」の心理がナマナマしかった。『戦場にかける橋』で、つい捕虜たちが立派な橋を作りたくなった心理と同じだ。長期的な視点を持てないのではない、分かっちゃいるけど、現在の切迫がそちらの目を塞ぐのだ。歴史はこうしてクネクネと、理想へ直線的には動かないようにできてるのだな。ナチが悪役笑いするのには閉口。ナチの怖さは人格の卑しさから来るのではない。いたって有能な人物たちが、合理的思考に基づいてガス室の発明にまで至ったところにその怖さがある。この映画でだって、ユダヤ人の職工を使えば後始末が簡単、と合理的に考えるところが一番怖かった。よくナチと日本軍は同一視されるけど、どっちかって言うと対極にある。ナチは合理主義のバケモノ、日本は精神主義のバケモノだった。あっちは無駄を病的なまでに排斥する狂気、こっちは無駄が出れば出るほど気合いが入ると思い込んでいる狂気。
[DVD(字幕)] 6点(2009-01-17 12:09:46)(良:2票)
74.  ボルベール/帰郷 《ネタバレ》 
東風が人を狂わす、と最初にことわりを入れたことで、全体に古典喜劇のような柔らかなトーンがかかった。かなり悲惨な事件を扱いながら、刺々しくならない。姉と妹が、それぞれ“死人”について隠し事をしながら探り合うあたりのおかしみなど、こういう素直な映画も撮れる人だったのか、と見直した。いつもはそれがかえって落ち着かなくさせる暖色系に埋め尽くされる世界も、今回はそのまま暖かさととっていいような気になる。それにしてもアルモドバルに出てくる男はしょうがないな。ペネロペ・クルスの亭主にしろ、登場はしないが父親にしろ、女たちの世界の邪魔ものでしかない。祖母から孫までの三代の女、近所のかみさん連中も含めての女たちの世界の闊達な連帯の前で、邪魔ものの男どもは、桃太郎で退治される鬼の役割程度の存在。朗々と歌われる女性賛歌を、男は黙って聞くしかない映画だ。母親はお墓で眠ってなんかいない、千の風になんかなってない、風は人を狂わせ、母親はベッドの下に隠れて目玉をぎょろつかせてる。
[DVD(字幕)] 7点(2008-03-27 12:16:52)(良:2票)
75.  ゆりかごを揺らす手 《ネタバレ》 
ネチネチとものごとを企む女。衝動的にことを起こすのではなく、自分の演出を楽しむようにゆっくりゆっくりと事件のネジを巻いていく。観客は被害者クレアの戦慄も体験できるが、犯人ペイトンの側から“企む快感”も味わえる。ここらへんがまず楽しい。動機も、「公」的には理不尽なんだけど、「私」的にはそれも分からなくはない、と微妙に観客に納得させるように仕組んである。彼女が狙うのは、赤ん坊の命ではなく赤ん坊の愛情、そして家庭を奪うこと。そこでシナリオのうまさが生きてくる。小道具やセリフが効いてくる。タバコのにおい、ぜんそくの発作、軒に吊るされた風鈴、自転車、イアリング、ライター。日常のなにげないものが一つ一つ緊張を持ち、ラストへ導いていく。音楽で盛り上げることもなく、淡々とシナリオに信頼を置いて話を進めていく。もう少しケレン味があってもいいんじゃないかと思うところもあるが(たとえばクレアが亀の図柄を産婦人科医の旧宅で見いだすところなど、ヒッチコック趣味の監督だったら階段をゆっくり上がっていくカメラが回り込んでいって捉えただろう)、このシナリオを大事にする姿勢が、ジワジワ攻めていくストーリー展開の場合よかった。身近にいてニコニコ笑っている人間が、考えてみると何を心に思っているのかよく分からないという不安。それが家庭という「最終的に安全であるべき砦」の中で起こることの怖さ。それは裏返すと「最終的に安全であるべき砦」を攻略していくスリルでもある。他人の家庭の中で、さらに小さな温室のトイレの中で、論文をびりびりに引き裂いて荒れるペイトンの俯瞰シーン、このとき観客は彼女の執念におののくだけでなく、たった一人敵地に乗り込んでいる兵士の孤独にもどこかで共鳴していたのだと思う。
[映画館(字幕)] 8点(2009-09-30 12:09:10)(良:2票)
76.  友だちのうちはどこ? 《ネタバレ》 
いいのは母親とのやりとりのところ。アハマッド君は間違って友だちのノートを持ってきたことを発見する。返さなければ今度こそ友だちにとって大変なことになる。返しに行きたい。しかし母親は次々に用事を言いつける。ノートを口実に遊びたがっている、と母親が誤解していることを彼自身分かっている。つらい立場だ。落ち着かない。弟は宿題を済ませたから遊べるんだよ、と母親は教訓を垂れる。そのとき彼はイライラするのではなく、キョトンとした表情で静かに困惑するのである。これがいい。イライラするのは、誰かに自分の困惑を見せたいからだ。最終的にドラマをまとめてくれる物分かりのいい大人に見せたいからだ。しかしこの映画ではそういう大人は残酷なくらい排除されている。それらしく登場する老人もけっきょく少年の足かせになってしまうし、先生もただ鈍感なだけ。少年の気持ちを汲み大人の世界に翻訳してくれる救済者はついに登場しない。少年は最後まで世界の中にただ一人で立っている。そういう少年だからこそ、別の場所に一人で立っている友人のことに心を寄せられるのだ。ただ一人で立つ少年は、責任という問題に出会っている。宿題をやることが出来なくなっている友だちを助けられるのは、彼一人しかいないというところが辛いのである。おそらく今まで一度も母親の言いつけに背いたことのない「いい子」だった彼が、ここでそれよりも「責任」を、キョトンと困惑しながら選び取っていく。イスラム社会では強大であろう親や老人たちの言いつけを越えて、友だちの家を探しにポシュテの町へ走っていく。翌朝、間一髪で彼は友人を救うことが出来る(ここらへんの友人の絶望しきった描写が傑作)。彼のしたことは先生や親に褒められることでもなく、ただ友人の心配を消したことである。その充実が彼への最大の褒美だ。そういう彼の昨晩の冒険の証人には、小さな一輪の花がふさわしい。
[映画館(字幕)] 9点(2011-11-10 10:02:51)(良:2票)
77.  幻の湖
これを見た試写会は、私にとって忘れられない思い出。キネ旬の試写会に応募したら当たって、うわっラッキー、と期待いっぱいでイイノホールで見た。満員。だって橋本忍が、誰にも遠慮なく自分が最も書きたいものを書いて映画化したわけでしょ、期待するなってほうが無理。だいたい日本映画は冒険をしなさ過ぎると常々思ってて、作者が本当に作りたいものより、平均的な観客が60パーセント楽しめる企画ばかりが通っちゃう。これでは未来はないよ、と考えてたからすごく期待した。しかしすべてが裏目に出たようだ。こういう結果を見ると、臆病な企画しか出来ない企業の気持ちも、理解できなくはないなと思った。最初のうちは満員の観客も?となりつつも、なんとかついていこうと黙って鑑賞していた。なにしろまだマッサラな状態で、ただ橋本氏の名声だけを信じて見ているのである。まったく独自の因果律で登場人物が動く超前衛の作品なのだろうか、と皮肉でなくかなりマジに考えたところもあったんだけど、シロの幻が主人公を励ます目を覆いたくなるような陳腐な場面があったりすると、これはただ単純にひどい映画なのではないかという判断に近づき、また満員の観客も、おそらく同じような経過をたどって同じような結論に至ったらしく、中盤からはあちこちでプッという笑いが起こり、次第に遠慮がなくなり、後半の追っかけから宇宙に飛ぶあたりはもう爆笑の渦。こうなったらもう笑って楽しみましょうや、という気分が客席を一体感で包み込む。どよもす、というのはこういう状態を言うんだろうなあ、などとしみじみ思いつつ、私も涙を流して笑った。あんなに盛り上がった試写会というのは、後にも先にも経験がない。私が座った席の前のほうに関係者席があり、見間違ったのでなければ、藤村志保と江波杏子が招待されていて、藤村さんはじっと端正なお姿のまま鑑賞を続け、江波さんは豪快に笑い転げていた。それ以来ずっと江波杏子のファンである。映画が終わって退場していく人々の顔は、つまらなかったにもかかわらず、みな晴れ晴れと輝いていた。いま見直すと評価はいくぶん変わるかも知れないが、あの日の思い出を大切に取っておきたい。思えばこう時間が前後に跳ぶ話法は『羅生門』や『生きる』や『切腹』と同じで、やはり橋本忍の刻印は押されていたのだ。
[試写会(邦画)] 4点(2009-08-20 12:12:03)(笑:2票)
78.  男はつらいよ 口笛を吹く寅次郎
町の人たちがごく素直に、寅が入り婿になると決めてるとこがいい。杉田かおるとの会話でポロッと出て「そうじゃないんですかあ」なんて感じおかしかった。とらやを離れると寅は普通の大人に見えてるんだ、ときには本人以上に見えてることもある。これけっこうシリーズのポイントなんじゃないか。寅がとらやに帰ってくるのは、無力な駄目男に戻ってやすらうために帰ってくるってこともあるんじゃないか。このギリギリのところでの臆病に共感してしまうなあ。今回はマドンナがかなり積極的に意思表示してた。出戻り娘の寂しさという逃げ道を用意してあるのが山田の丁寧さ。そしてまた父と弟との緩衝材の役割りに戻っていくことになるのか。緩衝材というより、男二人がうまく彼女を使ってコミュニケートする仕組みを三人で納得している感じもある。日本の家における女性の役割り。このシリーズで下校シーンは女生徒が多い。いかにも「家」に帰っていくという感じが強いからだろう。男生徒だとフラフラ寄り道して寅になってしまったりするからだ。
[映画館(邦画)] 8点(2013-01-05 10:23:59)(良:2票)
79.  イースター・パレード
ミュージカルシーンとしては、冒頭のおもちゃ屋とか、ステッキ持ってのスローモーションとか(ステッキの回転が美しい)、アステア一人の場に見どころ多し。それにしてもこの人は燕尾服が似合う。二人が成功を収めた乞食のダンスは、それほどだったかしら。かえって最初の下手なときのほうが、見事な芸になっていて堪能できた。首を絞めちゃったり、腕のヒラヒラでアステアの顔隠しちゃったり、止まるきっかけが分からなくなっちゃったり。戦前のロジャースとの『有頂天時代』でも、アステアがわざと素人のふりをする、ってのがあったけど、こういうのがミュージカルのひとつのパターンとしてあるな。別れた相棒を見返してやるつもりがいつのまにか…、若い男への恋心もいつのまにか…、と主人公同士の愛が育っていく展開。ラストが贅沢で、ほんのわずかなシーンのために時代を再現しきっている。CGでない時代。邦画だと、こういう場面を作ると「金かけたからじっくり見てってください」と、長々と未練たらしく映すが、サラッと見せて幕にしちゃうのがイキ。
[映画館(字幕)] 7点(2011-09-07 10:12:44)(良:2票)
80.  ハワーズ・エンド
大雑把に言うと英国の上・中・下の階級が繰り広げていくドラマ。「下」というとちょっと極端な表現になってしまい、銀行に勤めている普通の勤労者階級だが、一応このドラマの中では「下」の位置に置かせてもらう。そこで面白いのは、普通だとこの「上」と「下」が対立するでしょ、滅びゆく上流階級と勃興する労働者階級って感じで。ところがここでは対立しない。「下」が、「上」を引っ繰り返すような力をまるで持っていないデリケートな弱々しい青年で現われてくる。労働歌を歌うより、花畑の中を散策しながら詩を口ずさむ手合いなの。この世ならぬものへの憧れに生きている彼は、上流階級のヴァネッサ・レッドグレイヴと対になっているような存在。本来なら対立すべき「上」と「下」が現実に背を向ける地点で寄り添い出してしまい、ドラマの軸を統制するのは「中」の役割りになる。夢見る「上」と「下」に挟まれて、「中」は現実を生きていく。しかしこれが「生きざま」などという語感からは程遠い「いい感じ」のもので、この映画はそのいい感じの味わいに尽きると言ってもいい。「上」と「下」との仕切り役に自分の役割りを定め、控え目にも過ぎず出しゃばりもせず、天真爛漫でありながら周囲に気配りも十分という、おそらくイギリスの長い社交の伝統が培ってきた中流階級の美点が、エマ・トンプソンに結実している。上流階級の洗練も英国の自慢だろうが、こういう愛すべき人物を育てた中流階級も自慢させてほしい、という感じ。ここには対立のドラマのダイナミズムはないが、そのかわり一点から緩く渦を巻き、そしてそれぞれの居どころへ静かに落ち着いていく上品な舞踏のような味わいがある。
[映画館(字幕)] 8点(2009-12-10 12:09:48)(良:2票)

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