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121.  若者のすべて 《ネタバレ》 
3章の「ロッコ」から、それまでのネオリアリズモのタッチと、神話のような世界とが重なってきて交響し、圧倒的。長男は小家庭に籠もり外界には無関心、四男は都市でやっていこうと決心して、その信念に沿って勉強してる。長男の消極的都市生活に対して、積極的都市生活。五男は未来への希望であり、故郷へ帰れる者、さらには故郷を富ませるであろう者として存在する。重要なのはもちろん、次男のシモーネと三男のロッコの対立で、この二人の自分の役割に執着するその過剰さが、神話の雰囲気をかもす。獣性と聖性の対立という二元論で片づけてもいいんだけど、さらにこの二人がどちらも都会に不適応であるところが厚み。クライマックスでロッコがシモーネのことを、「家のいけにえ」と言ってたけど(公開時の字幕では、私のノートを信ずるなら「家族の土台となる者」)、あれは自分も含めてなんだよね。クリーニング屋での女たちにからかわれながらの働き、ジムで見込まれたときの歯まで調べられる扱われよう、酔いどれて酒場で友だちに馬鹿にされる痛ましさ。それは彼ら兄弟が地上に堕ちた神々の気配を漂わせているからこそ増幅される惨めさなんだろう。シモーネが金をたかるシーンでテレビがずっと古典画を映し続けていたのなんか、これは古典悲劇なんだよ、と監督が確認してるみたい。四男はロッコのことを「許してはけないものまで許してしまった」と言ってたけど、その過剰さが彼を神々の高さにまで引き上げ、また社会との不適応を招いている。ナディア陵辱シーンの、この兄弟の惨めさの極みがそのまま神性に通じていくようなあたり、ゾクゾクする。みなで雪掻きに出かけていくシーンは、後で振り返って悲しむために仕込まれた失楽園用情景だな。父が故郷にいるあいだずっと辛抱し、憧れ続けていた北部都市にやっと出てきたという母も悲しい。南部の暮らしのつらさを描いた場面はワンカットもないのだけれど(それならもう『揺れる大地』でミッチリ描いた)、それがずっと映画の通奏低音になっている。
[CS・衛星(字幕)] 8点(2011-01-27 10:27:10)(良:1票)
122.  美術館の隣の動物園
韓国の理想の男像って、ゴツッとしたモロ師岡タイプのようだ。民族によって“いい男”はずいぶん変わる。女優のほうは桑野通子似で理解可能。ケンカで始まるラブ・コメディと、いたって平凡な枠組みだが、ポイントはふたりで作るシナリオの映画中映画が入るとこ。それぞれの空想の中で、ふった女・憧れの男が演じてる。この部分はスタイリッシュな構図で、まさに“夢”のように描かれる。ツンケン女が自転車を蛇行させる内気な娘になり、議員秘書が天文学趣味の獣医になる。ラストで映画中映画とこの二人が融合するあたりが映画ならではの楽しみ。
[映画館(字幕)] 6点(2008-08-31 11:10:55)(良:1票)
123.  おとうと(2009) 《ネタバレ》 
鶴瓶と吉永小百合の「合わなさ」ってのは、本当なら『男はつらいよ』における渥美清と前田吟の「合わなさ」みたいな組み合わせとなるはずだったろう。チャランポランと正論の対比で、寅シリーズの場合、その合わなさがお互いの批評になって、いつのまにか絶妙のコンビとなっていた。ヒロシの言う正論はもっともなんだけど、寅を介すると、その遊びのない正論が痩せたものに見えてくることがあり、そこにあのシリーズの広がりがあった。渥美と前田という全然違う個性がうまく対するようになれたのは、間に倍賞千恵子という緩衝材があったからかもしれない。SKD出身で浅草の匂いを残しているが立ち位置としては前田寄りの正論派に属している倍賞さくらの存在で、うまく機能できたのだ。そういう緩衝材抜きで鶴瓶と対さねばならなかった吉永小百合は気の毒であった。彼女が正論を述べると、それをやわらげてくれるフィルターがなく、白けてしまう。鶴瓶にしても、結婚式の場、その場が白けることを演じてるんだけれど、映画を見ているこちらも、そこに参加して白けてしまう。こちらもフィルターがないのだ。あらためて寅シリーズがうまく機能していたことに驚かされた。この映画でハッとさせられたシーンは、鶴瓶の部屋が大きな鳥籠になってるとこ。自由人としての彼の象徴でもあろうが、姉の家にあった鳥籠を思い出させ、姉への想いが言葉でなく状況で伝わってくる仕掛け、こういうところはちゃんとしている。それと崑への追悼が感じられたのは、出戻ってきた蒼井優が部屋へ上がっていくとき脱いだコートが襖の間に挟まるとこ、晩年の崑がサインのようによく描いた着物の裾を襖に挟むシーンの模倣をやってみたのだと思ったが、違うか。
[DVD(邦画)] 6点(2011-07-12 10:44:21)(良:1票)
124.  チョコレート(2001)
男三代のカチカチの家の息苦しさ。とりわけ祖父の重さ。伝統。しょうがない女だったと言われているが、母の不在が大きい。子を愛していたことに遅れて気づき、父を愛していなかったことに遅れて気づく不幸。椅子の血の汚れと、車の座席の血の汚れ。これはすでに崩壊した家のホームドラマでもある。しかし差別の意識はこんなにも簡単に拭われるものだろうか。すべて祖父一人に、伝統に、過去に責任を押しやって、主人公をきれいにしすぎた気もする。南部ジョージアの匂いをさらりと出しているのはいい。
[映画館(字幕)] 6点(2008-06-23 12:12:23)(良:1票)
125.  悪人 《ネタバレ》 
『告白』もそうだったけど、最近「へらへら生きる者」と「本気の者」の対比の映画が多いな。「本気」に生きる難しさ、って言うか(この二作に岡田将生はどちらにもトホホな役で出演していて偉い)。デートの後で金を渡され傷ついた深津絵里が車で送られたとき、「本気やったと、ダサかやろ」と呟く。「呟き」だけれどほとんど「叫び」であり、つい観ながら「そんなことない、そんなことない」と呼びかけてしまう。そのあと妻夫木君も洋服店を訪れ「本気やった」と告げる。「そうそう、それでいい」とこちらもうなずく。岡田将生一人がへらへら役を任されててちょっと気の毒なんだけど(あと松尾スズキの催眠商法男も、社会にタカを括っている点でへらへらに分類されるか)、彼に関する柄本明の「大切な人はおるか」のモノローグが流れ、それぞれの大切な人が描かれていくあたりはキュンとした。言ってみれば道徳演説で普段なら抵抗を感じるところだが、前に「ダサかやろ」で深津絵里に釘を刺されているので、ダサく感じることを許されない。全体、いろいろ引っかかりかけるところで、あのおずおずとした「ダサかやろ」が蘇ってきて、観ててへらへら小馬鹿に出来ないのだ。ずるい。映画としていいなと思ったとこは、妻夫木君が食事中に母親から警察が来たことを知らされるあたりの演出。ビクッとしたりオドオドしたりがなく、黙々と食ってていきなり吐くのがいい。あと深津絵里の店員としての客への応対。日常の倦怠感をことさら出さず、熟練さを見せて長くこの仕事をやってきた心の裏を感じさせる。この事件に外側から巻き込まれていく深津と柄本の仕事場に、どちらも鏡という世界を裏返しに見返す装置があるのは偶然か。
[DVD(邦画)] 6点(2011-12-14 10:26:29)(良:1票)
126.  男はつらいよ 寅次郎恋愛塾
並列的に列挙する。・タイトルのバックが旅先というのは珍しい。・初期の寅のギラギラしていた部分をポンシュウが受け持っている。・帰宅後の寅の会話の中でだんだん若菜が現われてくるおかしさ。「珍しいなあ、男で写植やってる人は」「男と言ったか? 俺は」。・面接の場。こういうなんとはない社会の断面を見せるとこがうまい。・「真剣に恋をしている人をからかうなんてお兄ちゃんらしくないわ」で、民夫への教育となる。『寅次郎頑張れ!』の線。「僕はそんなこと出来ませんよ」「さいなら」のリズム感がいい。・アケミが「人妻になって寅さんの魅力が分かった」てなことを言い、社長と喧嘩になっていく。・「希望? そんなこともありましたっけね」と赤信号を突っ切りうなぎ屋に入り看板を倒してフラフラと去っていく民夫、これは昔の寅だ。・秋田へ行くあたりから調子が落ちる。リフトが行って帰ってくるのなどもう少し撮りようがなかったか。樋口可南子って笑顔が哀しい女優ベスト3に入ると思うんだけど(あと風吹ジュンとか)、あんまりそれが生かされなかった。
[映画館(邦画)] 7点(2011-08-18 10:39:11)(良:1票)
127.  孔雀 我が家の風景 《ネタバレ》 
こういうすばらしい映画を見ると、あれはどういう意味だろう、と考えるより、ただただシーンを思い返していたくなる。日常にうんざりしている娘が屋上で寝転がっている目に飛び込んでくる、落下傘部隊の優雅な降下訓練。アコーディオンに合わせて朝鮮の踊りを鏡の前で踊る、どうも家庭的に不幸らしいおじさん。知的障害がある息子が見初めた娘がどれか知ろうと、道で一人一人この娘? この娘? と指さして確認する母…、ととめどがない。ばらばらに散り、また一緒になる兄妹たち、そこには再会の喜びはなく、過ぎ去ってしまった時間の取り返しようのなさを悔やむ娘の涙だけがある。だけど、その過ぎ去った時間はこんなにも豊かだった、と映画を見た者なら分かっている。孔雀は誰も見ていないところで羽根を広げていたのだ。
[DVD(字幕)] 8点(2007-10-09 12:16:17)(良:1票)
128.  次郎長三国志 第三部 次郎長と石松
追分三五郎の小泉博と石松の森繁とのロードムービー的要素あり。こういうコンビは「さぶ」とか「ハツカネズミと人間」とか、「計画するリコーと純情のバカ」といった普遍的な安定したコンビであって、しかも女が絡む。女はバカを肯定するが、しかし好きにはなれない。で、男同士はやっぱりいいなあ、となるわけ。次郎長のほうも男だらけで、牢屋の中でもワッショイワッショイで勢いつけて牢名主に対する。このワッショイの陽気さ志向こそ、このシリーズの眼目で、好き嫌いは別にして男の集団の一つの原型ではある。彼らがそれぞれに黒駒の勝蔵と向かい合っていくことになる展開。壷ふり女の美しさってのがとりわけ映画で際立つのは、壷を置くまでの素早い「動」から「静」の緊張に至り、上目づかいで見据える顔が実にキマるところにあるんだろう。田舎の湯治場の狭い道を、お仲が歩いていくシーンなんかなぜか懐かしい。
[映画館(邦画)] 7点(2010-02-14 10:45:56)(良:1票)
129.  エド・ウッド
自分の夢を精緻にフィルムに刻めた天才もいれば、いいかげんなフィルムを量産することで夢を消化していった凡才もいる。程度の差はあれ、何かを作り上げることを知ってしまった者の、恍惚と不幸と滑稽と。芸術の世界はこうしてどこかに進んでいくわけだ。夜の沼のシーンでタコと格闘する場で胸が詰まった。あそこは映画の自己愛を越えたものがあったが、あとはおおむね段取り通りの展開で、これからノッてくるのかな、という気分のまま終わってしまった感じ。意外とひねくれてない。元恋人が、こんな馬鹿なことで人生を無駄に潰したくないわ、と去っていくとこも、ちょっと胸を打つ。これはすべての登場人物の心の片隅にあった疑いの言葉であり、それでもやめられないんだから、全員がヤク中みたいなものなんだ。ここをもひとつ突き放す視点が欲しかった。でもいいのかな、一般世間はとっくにこういうB級映画は突き放してて、映画好きだけが愛を注いでるって状況なんだろうから。
[映画館(字幕)] 6点(2009-10-31 11:54:58)(良:1票)
130.  くちづけ(1955) 《ネタバレ》 
第1話。いいなあ昭和30年の青春。肯定の精神。この手の朗らかさは今やるとシラけちゃうだろうが、やっぱり映画ってのはその時代固有の条件の中で生まれてくるものなんだなあ。だから時代の記録にもなるんだ。第2話。女湯でたてた波が小泉君のほうへ伝わっていくとこなんかよかった。第3話。オムニバスのリズムとしては、2と3入れ替えたほうがいいかもと思ったが(このコント的な味は中間部にふさわしい)、でもやっぱ監督の序列があるんだろう。『浮雲』の年で、肩の力を抜いた成瀬が楽しんで撮ってるような感じが好ましい。前の道をホッケの太鼓やチンドン屋がちゃんと通る。これで一番記憶に残ってるのはラストの八千草薫で、美貌の女優さんなら誰でもいいようなもんだけど、あの人のどこか非現実的な笑顔がピタリ合ってる。あの女優さんは、けっこう気のふれた人とか、ちょっと現実とずれた人やることが多いでしょ。「男はつらいよ」シリーズで一番最初にパターンを崩したのも八千草さんだったし(あれはシリーズ中でもかなり好きな一本)、ああいう役を観客に納得させて演じられる貴重な人。本作の一瞬の登場も、そういう彼女のキャラクターがあって、オチとして実にフンワリと心地よく決まる。
[映画館(邦画)] 7点(2010-09-22 09:56:37)(良:1票)
131.  ホームワーク(1989) 《ネタバレ》 
最初のうちはシンプルなインタビュードキュメントだ。子どものアップ、それを捉えるカメラ、そしてたまにキアロスタミ本人、の三つのカット。このカメラのカットは、自分たちが子どもに与えている威圧感を意識して見せているのかもしれない、ほとんど尋問というイメージがある。子どもをインタビューしつつ、子どもの視点も入れているわけ。インタビューで繰り返されるのは罰についての質問、そこからイラン社会の状況へ滑り込んでいく。戦争と喧嘩は違うのかなあ、といった呟き声。海外教育をつぶさに見てきたというオッサンも割り込んでくる、日本の子どもの自殺にまで言及して。でも見どころは泣き虫小僧の登場からだ。少しずつ醸し出されていた「罰」のモチーフが前面に出てくる。定規が折れるほど叩かれて、怯え切ってしまっている少年、友人が一緒にいないと不安になる、パニックになる。その親へのインタビューがあって、外での儀式。音が絞られていく。監督は、子どものざわつきで儀式が非礼になるからとタテマエを言っていたが、もちろん生き生きとして子どもたちを見せるためであろう。そしてもう一度泣き虫君の登場、もう怖くないと言いながらだんだん危なくなってくる、そして奇跡の瞬間、後ろの友人に支えられた心で朗々と宗教詩を朗読するんだ。こっちが泣けた。世界に対してハリネズミのようになっていた子どもの心の中にも、やはり詩があったってことか。このストップモーションの的確さ。イランではNoのとき「チッ」っと音を立てるんだね。
[映画館(字幕)] 8点(2009-12-19 11:56:23)(良:1票)
132.  パラノーマル・アクティビティ 《ネタバレ》 
この手の主観映像ものも、ちょっと飽きが来るかと思っていたが、けっこうまだ楽しめてしまった。どうも映画の楽しさの核に触れている気がする。主観映像ではあるが、カメラが第三者として夫婦の間に割り込んでいるようにもなっていて、そこに新手の面白味が感じられた。こうやって夫婦でカメラを交替しながら撮影し合っていると、普段より喋ることになる。ほとんど喋り合っている。この第三者としてのカメラを意識して、微妙に演じ合う感じになる。そこで夜や留守の時の沈黙がひときわ浮き上がり、カメラの記録係としての役割が生きてくる。この設定が悪くない。早回ししていた時間表示が普通のテンポになると、さあ来るぞとドキドキする。やってることはたわいなくても、神妙に耳を澄まし目を凝らした。ケイティはカメラを憎悪していても、旦那が一人で階段を下りようとしているときなんかけっこう撮影を手伝っていて、そこらへんはもうちょっと自然な段取りがほしいような気もするが(ほかにも不自然なとこはいっぱいあるけど)、そうさかんに「映さないでよ」と言っていたカメラに自ら近づいてくるというラストは、それなりに落としどころとして正しい。ああそうか、旦那にはカメラ・妻には悪魔、という二つのノリウツリの話でもあるわけか。まだまだこの手の手法は開拓できそうだ。
[DVD(字幕)] 7点(2010-09-07 09:37:45)(良:1票)
133.  ドラキュリア
「おい、様子を見てこい」って言われると、みんなで一緒に行けばいいのに、一人ずつ順番に行って一人ずつ順番に血をツーッと吸い上げられてしまう。みんなで行けば怖くない、ってのは真実だなと思った。処女の生き血は現代では入手困難なので、吸血鬼も大変なのだった。アメリカを舞台にすると南部のカトリック地帯でなければならないのだった。
[映画館(字幕)] 5点(2008-07-20 12:07:54)(笑:1票)
134.  いつか晴れた日に
ジェームズ・アイボリーにしろカズオ・イシグロにしろ、けっこうイギリス的な気分てのは非イギリス人によって継承されていて、台湾の監督がジェーン・オースティン撮ったって不思議はあるまい。クラシック音楽の担い手が西欧に限らなくなっているのと同じことだ。でイギリス的とは何ぞやというと、馬車の似合う風景、婚期を逸した娘、大団円の満足感、といったところか。ささやかな不幸とささやかな幸福の家庭劇、分別過多の娘も多感な娘も、それぞれ幸せを得ましたとさ、って。とかく“いいかげん”と見なされがちなハッピーエンドも、“大団円”としか呼べないようなツボにはまる正確さを伴えば、よしよし、と心が満ちる。一度陰った気持ちが曇りなく晴れ渡る。二度目に大佐に抱かれて雨の中を戻ってくる次女、反復の妙。画面の遠くの庭師たち、あるいは働く下僕らの足音など。もひとつハッとする瞬間がほしいという気もするが、そういうことするとレースの手触りのようなトーンの傷になってしまうのかも知れず、エドワードが女性二人を見るとこなども、実に淡々と、笑いを取ろうとしてないのが、かえって好感。イギリス的だ。
[映画館(字幕)] 7点(2009-09-06 11:59:49)(良:1票)
135.  レナードの朝 《ネタバレ》 
せりふを使わないで発病の経過を示していく導入がすこぶるいい。ベンチに名前をナイフで彫りかけて手がしびれる。いつも成績がAかBのレナード君のテストの採点をしている先生がノートを調べると、単語の端がズーッと流れてる。ここらへん怖い。友だちが遊びに誘いに来たのに、帰さなければならない雪の日。視点は医者に移り、バイキンの本見ながら食事をする学者肌。治療が始まる。ボールによる訓練、音楽療法。床の模様替えをして、ルーシーが歩き続けるとこ。水飲み場へ行くのかと思っていると、その脇の窓辺に立つの、ニクい。で新薬の投与による目覚め。悲喜こもごも。熱帯植物園で退屈してるあたりのユーモア感覚。やがて「アルジャーノンに花束を」的な展開になり、ドアの外の自由から遮断される。痙攣が始まると歯を磨くときに便利、なんてユーモア入れちゃうのも凄い。娘が食堂でダンスしてくれるのに泣けるが、彼女がバスに乗るまで窓から見送るのも涙。そう、これは窓の映画ね。R・ウィリアムスはいつもの通り邪気のない善意の人で、困った人でもある。映画も彼を勇気のある立派な人とのみは捉えてなく、でも大量投与で少なくとも一時的な目覚めを与えることは出来たわけで、医療と言うものの難しさを思う。人と人との間にある距離のはるかさ、それだけに人と人とが出会えることの奇跡的な美しさ。
[映画館(字幕)] 8点(2013-09-07 09:55:22)(良:1票)
136.  マディソン郡の橋
メロドラマで好きなのは、まだ二人が親しくないころ、丁寧な言葉づかいをしながら意識しあってく出会いのあたりと、別れのとこで、愛が成就してるあたりはつまんないの。これもそう。出会い、車中でのくどいほどの切り返しの後に橋の場になって、歩き回るカメラ(ステディカム?)がイキた。キンケイドが出ていく場も、カメラがねっとりと追いかけていく。外は闇。明け方のほうが美しいけれどそれじゃ人に見られてしまう。映画としての山場は雨の町。カッパのように頭髪を張り付かせたイーストウッド。信号待ちで二台の車がつながる。バックミラーにかけられたペンダント。ドアノブにかかるフランチェスカの手。追いすがるように追い求めるようにカメラがキンケイドの車を捉え続けようとする。ホロリ。不倫の噂で村八分になっている女を置いて「世間」というものがより濃密になった。この人の映画はいつもちょいと長い気がする。現代の子どもらを入れる必要があったかなあ。
[映画館(字幕)] 6点(2009-11-17 11:59:21)(良:1票)
137.  ゾンビ革命~フアン・オブ・ザ・デッド~ 《ネタバレ》 
“ゾンビ世界めぐり”を志しているわけではないが、変わった国のゾンビ映画が目につくと見てしまう。イスラム圏初の『パキスタンゾンビ』とか、最近では(イギリス製だが)アフリカものもあった。「世界はゾンビで一つ」の思いが深まる。やってることはだいたい同じなのに、風土が変わることで、微妙に映画の表情も変わるとこが味わい。で今回は共産圏から参加。まずこういう映画が作られ得ることに驚いた。検閲はないのか? 「米帝国の陰謀による反体制運動」と報ずる国営放送など、平気でおちょくっている。壁のスローガンも笑いの対象。中国では作れまい。ゾンビ蔓延する街が海で限られてるとこが一番キューバらしさで、すぐに現状と重ねて思うが、それほど逃走に切迫した意志は感じられず、ダラダラとアパートの屋上から状況を眺めているのが、とりあえず食うに困らない島国で安穏に暮らしたい気分と通じる。若者たちはマイアミを目指すが主人公は国にとどまる決着は、ガス抜き映画として当局も認める落としどころだろう。手錠で一列につながれている端からゾンビになって齧られていくのがおかしい。広場でうごめくゾンビたちをちょん切っていく手段がユニーク。
[DVD(字幕)] 5点(2013-06-26 09:31:04)(良:1票)
138.  激流(1994) 《ネタバレ》 
けっきょくボートだと漕ぐだけで工夫のつけようがないんだよね。製作者としては「川下りなんてのはなんか目新しいものが出来るんじゃないか」と思って作り始めたんだろうが、旦那を先遣隊にして小細工はしたものの、どうしても本筋は淡泊。まあ映画ってのは疑似体験させるって役割もあるので、そのレベル。でも実際に川下りしたほうが面白いだろうなあという気になる。ラストのケヴィン・ベーコンの「俺を撃つと悩むぜ」とか、いろいろ説得しようとするあたりのネバッとした感じ。相棒のデブの小心ぶりも、定型ではあるが大事なとこ。観客をちょっとホッとさせ、また主ワルを際立たせる。ちゃんと犬と子どもも出る。M・ストリープのアクション映画という珍しさの価値。気になるのは、非白人は、あっさり殺されてかわいそうな役になること。こうなること多いんだよね。パニックものやSFなんかでも、チームのなかに非白人がいると、しばしば「皆に感謝される勇気ある犠牲者」になる。いい役だろ、と与えておいて、実質最後に白人が生き残るための捨て石・厄介払い、って感じがする。無意識の底では、大団円のときは白人だけで祝いたい、と思ってるんじゃないか。って、これ被差別妄想かなあ。
[映画館(字幕)] 6点(2010-05-15 11:53:52)(良:1票)
139.  アウトブレイク 《ネタバレ》 
ペストの時代から疫病というのは半分社会問題であった。D・サザーランドが「言ってみれば、この人々は名誉の戦死なのだ」という論理。彼が常に口にする「センチメンタル」という批評、ここらへんに一番の怖さがあった。日本にもよく「センチメンタル」で切り捨てる知事がいるでしょ。多数と少数の問題。多数の側に立てば、あらゆる人道的発想はセンチメンタルとして扱われるだろう。小さな町が軍に封鎖されてからが本筋。なあに脅しだけさ、と逃げた車が容赦なく爆破される。不意に少数の側に区分けされてしまった市民、こっちの側に立てば「センチメンタル」などと言ってられないのだ。そうは言っても多数の側に立てば、やっぱり安全を考えちゃうだろうし。そこらへんの問題。多数はこういった少数の集積であるって考えが大事なんだろうね。アメリカ映画でいいのは、主人公が組織の問題児ってところ。勇気ってことも絡んでくる。それと責任ってことか、責任から逃げない。そういう本筋の健全さが偉い。D・ホフマンをつかまえにきた軍に、レネ・ルッソが「背の高い男よ」と教えるところは、もっと笑っていいんじゃないか。
[映画館(字幕)] 8点(2010-04-19 12:00:10)(良:1票)
140.  カルラの歌
この人は「悪い時代の国」を描くのだけど、その悪い時代の中にひそむ若さや可能性を、老いたグラスゴーの街と対比して見ている。うらやましいなどと思ってはいけないが、と作者自身自戒しつつ、どこかでうらやましがっているような。不自由な国の中で自由を求めて戦っている者にのみ、自由は味わえるのではないか、と。老いた国での自由は、二階建てバスでピクニックをしてしまうこと、ただし失業と引き換えだ。バスがグラスゴーとニカラグアをつないでいる。この人は、どこかで起こっている悲惨に常に関心を持ち続けているが、それはまた常に自国との関係において問われているところがいいんだ。
[映画館(字幕)] 7点(2009-02-06 12:11:42)(良:1票)

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