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なんのかんのさんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

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41.  危険な年 《ネタバレ》 
白人が無力にアジアから退場していって幕になるってところが、この作品の眼目でしょうな。もう自分の正義を振り回せない。西洋人がアジアを見るときの戸惑いが、そのままフィルムに定着しているようなところがある。変にビクビクしてしまうところ。昔の西洋映画のアジア観とは、ずいぶん違ってきた(といってもオーストラリアってのが微妙な位置にある西洋人社会で)。しかしなんといってもビリーね。あのキャラクターの印象は強烈。いい意味での憂国家なの。俺はここで生きるしかないんだ、という切実さがある。記者仲間のドローンとゆるみきった雰囲気、ベトナムへ行きたがっているわけ。よその「もっと面白いところ」へ行ける連中。けっきょくそれは帰る安全な場所があるからなわけで。群衆デモシーンに迫力があった。共産地区の田舎の風景と不安が重なるあたりのうまみ。メル・ギブソンが友情のために走ってくるが間に合わない、っつうのは出世作のラストと同じ。友情を描く作家なんだなあ。
[映画館(字幕)] 7点(2011-03-09 12:28:02)
42.  君はどこにいるの? 《ネタバレ》 
人生の転機なんてこんなものかも知れんなあ。ヒョータンから駒、その駒に乗せられて、地平線のかなたへと走らされてしまう。状況だけを捉えれば、別役実の芝居にでもありそうなんだけど(ホラのつもりで言った言葉で、極東へ旅立たねばならなくなる)、「隣人」たちとのいい意味での妥協がある。この隣人たちを主人公が嫌いだけど好き、ってところが本作の暖かさ。これは別に後退じゃないと思う。そして極東にもやがてこのような隣人たちが待ち構えているんだろうし。退屈しきった活気のない町の描写、働いてるやつはいない。不意に「旅立つ」と言ってしまう主人公。すると町が変わりだす。祭りが訪れたのだ。ハレを待っていたのだ。女性たちは一番の身だしなみとなる。といって映画は主人公を「祭りの人身御供」という視点で通すわけでもなく、この主人公の「災難」を祝福してもいる。「せっかくの決心を引き留めちゃ悪い」という親切もあり、家具運び出しを手伝ってくれる双子もいる。ナターシャの田舎娘顔も実にいい。「ほんとは知り合いなんていないんだ」とナターシャに告げる主人公、自転車で旅立ちのバスを追いかけ続ける少年、これで幕かと思ってると、バスの後ろに乗っている隣人たちの幻影カットが続く。これがなかなかいい。彼らの夢を乗せてるのか、主人公が彼らの夢を引きずってるのか。
[映画館(字幕)] 8点(2011-02-19 10:06:09)
43.  危険な遊び(1993) 《ネタバレ》 
向こうは悪は悪としてきっぱり断罪するからなあ。あの母親、これから一生クヨクヨ悩まなくちゃならなくなるんだろうな、と後味悪い。主人公のほうが精神的に危なくみられてるあたりがミソ。最初の木のぼりで、カルキン君がイライジャ君を宙吊りにして助け上げるのが伏線。妹への殺意がいま発動したってのに無理はないか、という気にもなるが、イライジャ君の登場で均衡が破れたってことなんだろう。アヒルのおもちゃが出てくるところは、もう少し何か出来なかったか。いい仕掛けなのだが、も一つ迫力がない。最後ぶら下がって、両手で僕を助けてよ、と言う。欧米人はこういうふうに悪魔はささやくと見るわけだ。キリスト教世界の厳格さ・容赦のなさは、つねづね映画を見ていて、我々のナアナアでやってきた世界と一番違いを感じるところ。ナアナアの世界も悪くないよ。ま、この映画の現在での価値は、『ホーム・アローン』後のカルキン君と、『ロード・オブ・ザ・リング』前のイライジャ君の、選手交替期のすれ違いを目撃できるってところか。
[映画館(字幕)] 6点(2011-01-24 09:59:05)(笑:1票)
44.  キネマの天地 《ネタバレ》 
映画は芸術よりも観客を励ます娯楽であるべきだ、という思想がまずあって、そこに通俗性の導入が企てられている(出生の秘密やラストの父の死など)。だがこのクセモノの作者たち(山田洋次・井上ひさし・山田太一)が、芸術と娯楽を対立概念として捉えたままで満足しているとは、どうも思えない。本当なら、芸術と娯楽の境界が曖昧になるところまで練り上げて、そこに通俗的なるものを導きたかったのではないか。そこへいくまでに作品が小さく固まってしまった、という気がしてならない。ラストで藤山寛美にダメを押されると、結局これは観客が素朴だった時代の通俗映画への単なるノスタルジーに終わってしまったのではないか、と思えてしまう。観念的だったホンが、スラプスティック化されて生き生きしたものになり、観客にも歓迎されていく、なんてあの具体的な姿勢で全編押していってもらいたいのに、助監督が映画への信頼を回復する、という重要な部分が、アカギレの女中に活動は楽しいと言わせるだけでは、彼が書いたシナリオと同じで、ナマすぎた。通俗と言われるもののバイタリティーをもう一度映画に回復させたい、という作者たちの気持ちはよく分かる。しかし通俗という言葉がしばしば悪口に使われるのもやはり理由のあることで、類型化による鮮度の後退という大きな欠点があるわけだ。『寅』シリーズが素晴らしいのは、パターン化されそうなところをいつも何か撹乱させる要素を含ませて鮮度を保たせていたからである。あれは通俗性を織り込みながらも、優れた娯楽映画だった。
[映画館(邦画)] 6点(2011-01-09 12:22:53)
45.  奇跡(1955) 《ネタバレ》 
ほとんど室内劇として進んできて、常に窓は室内から外に向いていたのに、医者の車を見送るシーンで、カメラは窓の外から父と三男を捉える。なにか今までと違う緊張が生まれたところで、室内にヨハネスが歩いてきて不吉なことを言う。壁を這っていく車の光。するとドアから、ミゲルが現われインゲの死を告げる。ここからラストまでは、ずっと石のように硬質な時間が続き、この充実した手応えは滅多に味わえるものではなかった。葬儀の場、人々はより確かな自分の立ち位置を求めるかのように、ゆっくり室内を経巡る。隠されたルールに基づいているかのような、確固とした移動。中央に動かないインゲが、最も安定した姿勢で横たわっている。人々の移動の果てに、ヨハネスと幼子の導きによって奇跡が訪れ、インゲとミゲルが支えあって立つ。一人で横たわっている姿勢ほど安定はしていないが、二人の生者としての安定した姿。キリスト者でない私が、この後段で心を震わされた理由をなんとか言葉にしようとすると、こんなことになるだろうか。この映画、初めて観たときは、ヨハネスの言葉に捉われ過ぎ、キリスト教に無知な者だからキチンと味わえなかった、と思わされてしまった。まして1930年代のデンマークの田舎における宗派対立なんか、理解できるはずもないし。でもこれは、愛と死と聖なるものをめぐる普遍性を持った映画だったのであり、この後段の、時間が石と化したあの固さを体験すれば、特定の宗教と関係なく、「味わえた」と言ってもいいのではないか、という気になっている。
[CS・衛星(字幕)] 8点(2011-01-02 14:55:35)(良:1票)
46.  木と市長と文化会館/または七つの偶然 《ネタバレ》 
とにかくいつものように人々が喋りあう。対立してはいるんだが非難には至らず、グツグツ煮込んでいるような楽しさに転じていくところが、この監督の人柄か、けっきょく庭を開放してのルノワール的パーティーでのミュージカルになってしまう。こうくるとは思わなかった。ドキュメンタリー的なインタビューシーンの対極のよう。それぞれが自分の主張を歌い、何も本当の解決にはなっていないんだけど、人の世の楽しさを遠望するような位置に監督は退いていく。これ少しズルいなあって気もしたが、少女によって導かれた夢として見るべきなんだろう。ぜんぜんカドがない世界。登場人物のすべての出会いが実になごやかなんだ。市長と教師の娘との出会いに至るまで。どこでも市長ってものは文化施設を造りたがるのか。もっとも建設業界からのリベートのために建ててるんではないらしいところは違う。
[映画館(字幕)] 7点(2010-11-27 09:59:28)
47.  キリング・ゾーイ 《ネタバレ》 
殺伐としてますなあ。実人生ではもちろん、あんまり映画でも会いたくないタイプの人間てのはいるもんで、でもたしかにこういう連中は世の中にいるなあ、とは思う。退屈すらしていない連中、怒ってもいない。世間との共通の土俵をまったく見出せない連中。たとえば深作の『仁義の墓場』なんかもそれに近かったが、あそこにはニヒリズムがあった。それすらない。だからダチ公的な友愛が描かれるわけでもない。このとにかく否定文でしか表わせない人種を描くことには成功している。でももちろん観ててスッキリとは全然しないわけで。銀行の外の警察を描かないのは、演出意図か、予算の都合か。人質が殺される、ってのは、この映画に限らず、どうも観ててすごく嫌になる。範囲は狭くとも、絶対的権力を握った者による権力の行使だからだろうか。
[映画館(字幕)] 5点(2010-11-18 10:17:11)
48.  ギルバート・グレイプ 《ネタバレ》 
よくできたスモールタウンもの、と思って観ていたが、ラストがいいので、ワンランクアップする。ずっと水のモチーフで展開していたのが(給水塔はおいといても、プール、キャンピングカー横の池、風呂場、ともっぱら凶々しいイメージ)、ラストに至って火を迎える。監督の母国の神秘主義にも通じていくような象徴性が感じられ、カメラも『処女の泉』や『サクリファイス』のスヴェン・ニクヴィストで、水と火の対比はお手のもの。また屋外に出される家具、ってのがなぜか映画では興奮させられるのだ。家と一体になっていた母を弔う方法。最初はただ恥ずかしいという受動的な思いだったのが(近所の子どもを窓から覗かせてさえいた)、彼女を笑いものにさせないという能動的な決断に至るわけ。アメリカの青春ものではあるけれど、どこかちゃんと高緯度の風が吹いている。
[映画館(字幕)] 8点(2010-11-14 10:20:29)(良:1票)
49.  キカ
この監督、暖色系の気味悪さを発見したのが手柄だろう。赤や黄色、なかんずくオレンジ色。自然色じゃない人工色の世界。どこかオトギの国の不気味さに通じていく(メイキャップという仕事も人工の世界の仕事)。当然ストーリーは室内劇とならざるを得ない。主人公は気のいい女、最悪ニュースのレポーター・アンドレアの対極、ドラマの展開しやすさからいけば主役脇役が逆になるところだが、これがどこかオトギの国に通じていくキカが軸になる。オトギの国の犯罪。どこか話が閉じていて、テレビというものの閉じ具合と関係づけているのだろう。他人の不幸。暗い人間は死に、見捨てられ、キカはヒマワリを背景に旅立っていく。映画とは、現実に対するオトギの国と割り切っているのだろうか。常連ロッシ・デ・パルマのことを、ピカソの絵から抜け出てきたような、と言うのはうまい。
[映画館(字幕)] 6点(2010-09-20 09:48:00)
50.  気まま時代 《ネタバレ》 
字幕なし・あらすじ配布なし、という苛酷な条件下での鑑賞だったが(アテネ・フランセ)、かつてはほかに観る手段がなく、ヒアリング能力が劇的に劣る私でもミュージカルだと楽しめるから嬉しかった。最初の見せ場はゴルフ場、クラブやボールを小道具に使ってフル回転、パッとポーズを決めるのだが肝心のジンジャー嬢はすでにベランダから姿を消しているというオチがついている。ジンジャー嬢の夢、スローモーションになったりする。ミュージカルでわざわざ夢を入れるのは野暮みたいなものだが(現実が変形するから面白いはず)、この場合は精神分析に絡んでいくからいいの。一番の見せ場は、板敷きのホールみたいなとこで、部屋から部屋へまわりながら踊り続けるシーン。いやあ堪能堪能。ほかの部屋へ踊りながら移れる、ってところにミュージカル映画の楽しみの核がありそう。視点の身軽さってことかなあ、もっと映画の本質と関係がありそうなんだけど。あとは婚約発表のときの催眠術的振り付けによるシーンか。オカシくなってるジンジャー嬢が街をさまようあたりが楽しい。ガラスを割りそうでいてなかなか遂げられず(スパナを握ると梯子の上の職人さんに、どうもと受け取られる)、お巡りさんの警棒のスイングであっさり割っちゃうとことか。射撃場でのパニック。女性が銃を構えると、たいていピシッと決まるのはなぜなんだろう。ラストはかなり強引ながらもメデタシメデタシ。
[映画館(字幕なし「原語」)] 8点(2010-09-15 09:58:17)
51.  ギルダ 《ネタバレ》 
リタ・ヘイワース。どこか退屈したような投げやりなような美女。妖婦。ただ、動いているのを見ると、意外と線が細い印象。話は後半グズグズになっていくんだけど、ナチに関係した人物ってのは、背筋がピンと伸びてるんだ。「大火事も大地震もみんなメイムのせい」とかいう歌がいい、有名なのかな。ラストのハッピーエンドは、たとえば、ジョニーを不幸にした女に災いあれ、という伏線を無視したもので、これがハリウッドなんでしょうなあ。「ジョニーって名前、覚えづらくて」なんてのもあった。いいねえ、ハードボイルドタッチ・ハリウッド映画のセリフは。
[映画館(字幕)] 6点(2010-09-09 10:05:27)
52.  菊五郎の鏡獅子
これの英語版ってやつもスクリーンで観ているが、「ライオンダンス」なんだな。舞台の長唄連中は「バンドマン」さ。彼ら自分がバンドマンだったとは気がつくまい。太鼓は「ドラム」だったか。これはあくまで六代目菊五郎(今の勘三郎の母方のおじいさん)の記録ということに重心が置かれてしまうフィルムで、さして小津めいたものを探しても意味はあるまい(このちょっと後に撮った『淑女は何を忘れたか』に歌舞伎座のシーンがあるけど)。六代目はこの記録を気に入らなかったらしく、「俺はこんなに下手かい」と人に言っていたそうだ。もっぱら正面と上手より斜めからのと二つの視点に、ときに上からのカメラも加わる。花道はまた別。空襲にやられる前の、戦前の歌舞伎座の内装が記録されてもいる、と思ってるんだけど、これ本当にあそこなんだろうな。借り切って深夜に撮影したって話はよく聞いた。でも獅子頭に引きずられて花道を引くところなど、花道より下手側の客席がなかったように記憶してて、というか花道が壁ぎわにあって、…あれ? 桟敷席ってのは戦前もあったんだろ? 映ってたかな? などと混乱している。冒頭のバンドマンたちが、説明的な画面もなく消えてしまうのも不親切。
[映画館(邦画)] 6点(2010-07-04 12:04:38)
53.  儀式 《ネタバレ》 
美しさの点では大島作品でも一二を争う。どこかヒンヤリしてるのが、いかにも儀式の美しさ。テルミチは滅びることによって佐藤慶の桜田家に抵抗したわけ。でもそんな「大敵」なのだろうか。たとえ大敵であっても、大敵として扱うことによって、さらにこちらの無力感を増幅させてるってことはなかったのか。「大敵」として扱うよりは、無視する・それができなければ見ないふりする、って手のほうが有効で、実は抵抗している者も深層では桜田家的なものが好きで、だから大物の敵として見たがっているんじゃないか。敗北の歌をこう美しく歌っていいのかなあ、という思いが残った。もちろんそれをこそ描いた映画なのだ、と大島さん言うだろうけど、ちょっと河原崎君ウジウジしすぎる。映画表現としても、否定すべき儀式をかくまで壮麗に描いてしまう心性と、どこか通じ合ってしまっている気がし、またこの陶酔的敗北主義って、戦後の反体制運動にずっと流れていたような気もし、そういったあれこれが点検できた作品として、私には大変面白かった。地中の弟の声を聞き取ることによってだけかろうじてアイデンティティが確保できるまで、「儀式」に追い詰められている。あの図柄はいいね、土俵ぎわで儀式と対抗している姿勢。耳を澄ますって行為自体が美しい(『ラスト・エンペラー』にもあったなあ)。あとは無人のお色直しのシーンの滑稽な悲痛さ。「ロシア兵は親切だっただろ」とさかんに聞く小松方正の共産党員。そして歌合戦。大島的なものが詰まっている。
[映画館(邦画)] 8点(2010-06-09 12:06:41)(良:1票)
54.  奇跡の丘
「キリストもの映画」ってのは、あちらの「忠臣蔵」なんだな。観客は話をすっかり知ってて、それをどう料理するかが見せどころ。あの役は今度は誰が演じるんだろう、といったキャスティングの楽しみとか。だから量産されても、キリスト教徒用という枠が感じられて、異教徒にはちょっと疎外感があった。そういった中で、キリスト教と無縁の私でも楽しめたのが、『ジーザス・クライスト・スーパースター』と、これだった。ドキュメント・タッチで、素人の顔の力が画面にみなぎっている。サロメはいたいけな少女で、マグダラのマリアはおばさん。そして民衆の顔、顔、顔。当時を再現したって感じでもなく、髪形なんかは現代のまま。それがキリスト物語の普遍性を打ち出した。説法して回っているときの、通行人の薄ら笑いなどに、ゾクッとするほどのリアリティがある。無名の教団に対する「変な人たちね」という視線。こういう視点がハリウッド製のキリストものには欠けていた。処刑前に刑吏たちがたむろして食事してるあたりもリアル。人間キリストを出すより、彼の言葉に集中する。こんなにも説法に時間を割いたキリスト映画はなかった。イタリア語圏でない者は字幕を次々読まねばならないのでつらいところだが、新約聖書を改めて点検してる感じ。ユダもなんの解釈もせずに、おそらく聖書どおりにそのまま描いているのだろう。この監督の映画には、斜面がよく出てくる気がするのだが、とりわけ本作と『デカメロン』三部作で印象が強い。崖や斜面を民衆が上下し、それがタペストリーのようにも見えてくる。音楽はバッハあり、黒人霊歌の「時には母のない子のように」ありで、あとアフリカの民族音楽が生きる。とりわけ復活の場。
[映画館(字幕)] 8点(2010-05-08 12:01:52)(良:1票)
55.  キャスパー 《ネタバレ》 
『アダムス・ファミリー』で目をつけといたクリスティーナ・リッチが、ここらですっかり娘さんになった。ただしまだ“怪奇”を引きずっていた。画面の合成にはもう驚かなくなったが、視線がピタリと合っているのが丁寧。あちらの幽霊もゾンビ的なただおぞましいものから、東洋的な哀愁を帯びたものへと広がっている。思い残し、ってのが幽霊のポイント。キャスパーが一晩だけ生ま身となるところではホロッとした、あのノッペリツルツルした感じをうまく使えば、新しい気味悪さを開拓できる気がする。屋敷を見たキャットは「スティーヴン・キング」と呟いたが、字幕では「ホラー映画みたい」となっていた。親子で指切りをするシーンがあったけど、あれって世界共通なの?
[映画館(字幕)] 6点(2010-03-06 11:54:18)
56.  昨日消えた男(1941) 《ネタバレ》 
本格推理ものの設定が珍しく、一同揃っての解決篇に至る礼儀正しさ。第二の犯行のとき、犯人に影で姿を現わさせるのも正しい。そして間にはさまれるオトボケの数々、「アホウもの、汝の名は女」とか「あなた~と呼べ~ば」とか「助けられたり助けたり」と、きっと当時の場内は沸いたであろう。時局を思わせるものと言えば、まあ悪漢が実は転覆を図る大塩平八郎の一味、ってことぐらいで、それだってそれほど「スパイに注意しよう」ってメッセージと感じられるほどのものではない。つまり至って娯楽主義に徹していて、立派なほど国策に非協力的。長屋の連中のなかには、自分で作った人形にうっとりしている人形師などもいて、ちょっと前のモダニズム時代の猟奇変態ものの空気を残していたりもする。雨の長屋で始まり、雪を経て快晴の長屋で終わる正しさ。目明しが雪の庭を調べていて、カメラが左へ動いていくと、塀の上に文吉がしゃがんでいてやりとりがあり、そのあと文吉と一緒に塀を越えるまでがワンカット。ただ渡辺篤・サトウロクローの「なるほどね」「いやまったく」は、売れない漫才が一生懸命言葉を流行らせようと反復しているようなミジメさが漂った。
[映画館(邦画)] 7点(2009-12-24 12:03:55)
57.  祇園の姉妹(1936)
溝口は、他の日本の名監督たちに比べてユーモアが苦手、って印象があるが、でもこれなんか傑作コメディだと思うよ。だいたい映画の本なんかだと、ラストの山田五十鈴を重視して、社会派のリアリズム映画に分類してしまってるんだけど、どっちかっていうとラストを観なかったことにして、コメディと分類したほうがスッキリするんじゃないかな。それぐらい志賀廼家弁慶と新藤英太郎が傑作で、男どもの卑小さを描いて傑出しているだけでなく、そこに上方文化の伝統にのっとった「愚かという徳」をも感じさせるあたりが、実に見応えがある(旦那が義太夫うなりながら乳母車をあやしてるとことか)。このユーモアセンスが監督の作品歴でもっと活かされても良かったんじゃないか、と私なんかは思う。それと上方女のキッパリ感を出した山田五十鈴の凄味、ラストでやや縮こまってしまう印象はあるがこれも見応え十分。どういういきさつがあるんだか知らないけど、戦後に溝口と山田が一緒の仕事をしなかったのは、日本文化における重大な損失だったと思う。
[映画館(邦画)] 8点(2009-12-22 12:04:52)
58.  9か月
この監督は絶対共和党だな。子どもはうるさいけど宝、ファミリー至上主義。でも映画というものが大衆へ向けられた商品である以上、この保守性・予定調和性は仕方のないこと、前提として受け入れなければならないのか。喜劇映画としてなら、ラスト近く病院へ駆けつける主人公の車に次々と怪我人が増えていくあたりから出産までのドタバタに、やや気が入っていた。途中おもちゃ屋でぬいぐるみの怪獣がしつこく絡んでくるところに、不気味な過剰さがあって、心騒いだ。しかし監督が意図したのではないかも知れない。この監督は3分の2ぐらいのところで歌を流し、細かなコントシーンを繋ぐのが、観客へのサービスだと思い込んでいるフシがある。あの怪我したほかの連中には一応オチをつけておくべきだったのではないか。
[映画館(字幕)] 6点(2009-12-18 11:54:54)
59.  喜劇 駅前開運
芸達者を集めて当時のプログラムピクチャーの贅沢さがうかがえ(うち二人がのちの文化勲章受章者だ)、しかも監督が豊田四郎、それなのにぜんぜん楽しめない。芸達者が芸惜しみをしてると言うか、テキトーなくすぐりで終始してしまうので、観てて歯がゆい。まあ24作続いたシリーズの22作目ということで、かなり疲労が来てはいたのだろう。設定は悪くないんだ。東口にスーパーが出来、西口にマンモス団地が出来、しかし間をつなぐのが開かずの踏切で、それによって東口商店街と西口商店街の思惑が交錯する、って現実の赤羽駅界隈を生かしている。さらに公害問題も絡め、68年の世相の記録としては上等。なのに大枠の設定が個々の笑いを生む段になるとあんまり生きてなく、どこかにあったような恐妻コントと戯画化された悪徳政治家風刺をつなげていくだけなの。人情喜劇という手法が社会との落差をを埋め切れなくなったということか、とも思ったが、この翌年(つまり駅前シリーズが終わった年)から『男はつらいよ』が始まっているわけで、要するに制度疲労による世代交替の時期だったと思ったほうがいい。映像の記録としては、団地の脇に広がっていた連隊跡地の広漠とした風景が収められているのが貴重。
[DVD(邦画)] 5点(2009-12-11 12:12:44)
60.  キャリントン
愛とは厄介なもので、生涯に一度という愛を感じた男がホモだった、っていう話。次から次と男を替えても、リットンには抱かれない。だって「女のからだはムカつく」なんて言ってるんだもん。おそらく本作唯一のドキドキする場面は、夜の庭にキャリントンが座り、窓辺の“浮気”を眺める場。横移動にマイケル・ナイマンの音楽がかぶさって、ちょっとグリーナウェイ的な気分で、ヒロインの孤絶が描かれる。夫や恋人たちも、けっきょくはこちらが真に愛していないせいか、それぞれ恋人を作っていく。真に愛しているリットンは美青年といちゃいちゃしてる。画家のヒロインは外からそれを見るだけなのだ。シューベルトの遺作の弦楽五重奏曲も使われたっけ。映画に出てくる芸術家たちの集まりってのはどうしてああ嫌らしいのだろう。でもそれがこの1915~30年頃の気分をよく表わしているようでもある。
[映画館(字幕)] 6点(2009-11-12 11:56:46)
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