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プロフィール
コメント数 404
性別 男性
ホームページ http://onomichi.exblog.jp/
年齢 55歳
自己紹介 作品を観ることは個人的な体験ですが、それをレビューし、文章にすることには普遍さを求めようと思っています。但し、作品を悪し様にすることはしません。作品に対しては、その恣意性の中から多様性を汲み取るようにし、常に中立であり、素直でありたいと思っています。

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1.  セントアンナの奇跡 《ネタバレ》 
素晴らしい映画。胸にグッとくる物語。 村上春樹が『1Q84』の中で「物語」についてこう言っている。「それは理解できない呪文が書かれた紙片のようなものだ。時として整合性を欠いており、すぐに実際的な役には立たない。しかしそれは可能性を含んでいる。いつか自分はその呪文を解くことができるかもしれない。そんな可能性が彼の心を奥の方からじんわりと温めてくれる」  この映画で語られる物語も最初は「理解できない呪文」のようだった。それが最後の最後に大事なところで繋がったように見える。実際のところ、セントアンナの大虐殺が絡んだ少年の過去も、詩を読むナチス将校の役割も、パルチザンの存在によってナチス親衛隊とアメリカ黒人兵部隊が結び付けられる、彼らの行く末も最後に明らかになる。しかし、登場人物達の様々な思いであり、愛憎という形で散りばめられたパズルのピースは、全て埋まらずに終わる。なぜなら、この物語の登場人物の殆どが死んでしまうから。 英語、イタリア語、スペイン語、ドイツ語が飛び交う。国籍を超えて、彼らはそれぞれのナラティブを生きていることをこの映画は確実に伝える。戦争はそういった個人が紡ぐ歴史の全てを大量死の中で奪い取ってしまう。戦争とは喪失の物語である、と同時に物語の喪失なのだと僕らに伝えられる。 『セントアンナの奇跡』が素晴らしいのは、そのような喪失の中にこそ「奇跡」を描いてみせたことだと思う。奇跡とは何か?それは、生き残った黒人通信兵の存在である。彼は少年とナチス将校によって生かされる。また少年はチョコレートの巨人に生かされ、逃亡を幇助したドイツ兵によって生かされる。彼らによって紡がれる生の可能性こそがこの物語の呪文を解く鍵なのだろう。奇跡は人々の祈りによって生み出され、微かだけど確かな光を未来に指し示す。 最後の銃撃戦は、イタリア・トスカーナ地方の小さな村の住民たちを否応なく巻き込む。傷ついた少年を胸に呆然と佇むチョコレートの巨人。想いの人の名を叫ぶ女性。支えあう人々。それらは直ぐに背景となり、登場人物達の壮絶な最後が描き出される。ここで物語は一度喪失し、僕らは人を想うことのかけがえのなさを切に感じ、それが失われることに涙する。しかし、「奇跡」は起こる。本当のラストシーンで、僕は差別や偏見、憎しみを超えて紡がれた命に、「奇跡」が指し示す希望という明るい未来に、涙を禁じえなかった。
[映画館(字幕)] 10点(2009-08-09 21:17:47)
2.  世界の中心で、愛をさけぶ
主人公と同じ年の僕は、学生の頃、世界の中心で愛がないことを叫んでいた。もちろん世界の中心は僕で、それは僕に向かって叫ばれていた。当時、100%の恋愛小説というキャッチフレーズで刊行された村上春樹の「ノルウェイの森」が流行っており、この物語に心奪われた僕は、彼の作品を旧作に遡って何度も読み返したものだ。恋愛小説というのは愛に溢れたお話ではなく、恋という自己の病に囚われるお話で、僕はそのやりきれなさと不確かさを現実に持ち込んでは、廻りの人達を傷つけていたように思う。未来すらも既に終わってしまった物語のように強烈なメランコリーに只々取付かれていた。何もかも納得できなかったし、納得したくなかっただけなのに。先日、話題の小説「世界の中心~」を読み、そして映画を観た。何故、今、この物語がこんなにも流行るのか、それはよく分かるような気がする。「君と世界の戦いでは世界を支援せよ」これはカフカの言葉であるが、加藤典洋がこの言葉を自著の表題とした80年代中頃、僕らは、毒虫<自己の喪失>の姿に犯され始めていたとはいえ、まだ内面の名残をもつ「君」<自己>としてキリキリと存在していた。だから加藤典洋は、カフカの言葉を引きながら、失われつつある「君」の存在、その敗北をもう誰も止められない時代に来たことを敢えて宣言しえたのである。今や世界は「君」や「僕」を呑み込んで、僕らは相対化した世界の差異の中にしか自身の存在感を得ることができない。世界の中心なんてないし、それは僕の中心でもない。そんな自明性すら既に失われて、ある種のノスタルジーに覆われた甘美な物語に、漠然とした世界で確かなものとしてあるべき「愛」を叫びたくなるのである。そういう時代を敢えて否定はしない。けど、物語は作り物であっても、本来それは自分の物語を喚起させるべきものだ。特に映画版は僕にとってまるで遠い国の神話のように自身との接点を確認することができなかった。そこから自分の物語にどうつながるんだ~? と叫びたくなる気持ちを僕は捨てがたい。
[映画館(字幕)] 6点(2004-06-26 01:26:40)
3.  戦場のピアニスト
不条理下における芸術性のあり方については、これまで否定的な考え方を幾つも目にしてきた。戦争による芸術の無力化。芸術的抵抗の挫折。しかし、そもそも芸術とは抵抗する力をもつものなのだろうか。戦争が個人のもつあらゆる社会性を崩壊させた時、己を生かしめているものは狂気より他ない。闘争は正義をも崩壊させるのだ。この映画は、主人公のピアニストが戦争によって社会的自我や人道的正義を喪失していく様を克明に描いていく。では彼の芸術的内面はどうだったのだろうか。絶望的飢餓状態の中で狂気を彷徨う主人公にピアノの旋律は聴こえていたのだろうか。その答えが瓦礫の廃屋でピアノを弾く主人公の姿なのである。実はポランスキーがこの映画に込めたメッセージとは、この一点に集約されているのではないか。間違ってはならないのは、芸術的内面というのが決してヒューマンなものではないということだ。それは人が全てを失った地平においても、生きていく狂気とともにあり続けるものであり、誰からも(己からも)アンタッチャブルなものとして個人を吸い込んでいく領域なのである。そもそも芸術的内面とは、哀しみによって熟成していくものではなく、哀しみそのもの(をのみ込んだもの)なのだ。瓦礫の廃屋で主人公を助けるドイツ軍将校は、自らの持つ民族的国家的正義に支えられながらも芸術への理解を示す人物像として描かれている。彼にとって芸術への理解とは、一人の優秀なピアニストを守るということによって自らの正義へと直結している。その彼が捕虜となり、逆に主人公に助けを求める姿は、その個人的な正義すら、狂気により脆くも崩壊してしまうという現実を見事に描いていると言えよう。戦争と芸術、この映画は、二つの喪失の狂気を対比させながら、正義なき、神なき時代の絶対的根源的な魂のあり方を描いている。それは芸術的内面の崇高性を描いていると言えるかもしれないが、ある意味でそれは絶望に変わりない。そして、芸術的内面という喪失感すら喪失している僕らにとってそれは悲劇の極致なのである。
9点(2004-03-27 23:24:14)
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