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onomichiさんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 402
性別 男性
ホームページ http://onomichi.exblog.jp/
年齢 55歳
自己紹介 作品を観ることは個人的な体験ですが、それをレビューし、文章にすることには普遍さを求めようと思っています。但し、作品を悪し様にすることはしません。作品に対しては、その恣意性の中から多様性を汲み取るようにし、常に中立であり、素直でありたいと思っています。

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1.  探偵はBARにいる 《ネタバレ》 
面白かったので、映画を観てから、原作も読んだ。原作との大きな違いは「相棒」高田こと、松田龍平が準主役級の扱いになったこと。高田の恍けた味わいと2人の掛け合いが楽しかった分、主人公「俺」の大泉洋の魅力もかなりアップしたと思う。映画は、原作以上に登場人物たちのキャラが立っていて、キャラクター映画としても楽しめる。 主人公のキャラも若干かぶるけど、ところどころにルパン三世を彷彿とさせるシーンがあったりして、それも結構面白かった。 実は、それほど期待して観始めたわけではなかったので、カルメン・マキの登場、彼女の一言と『時計をとめて』には個人的にいきなり「やられた」って感じだった。そういった映画を印象付ける小道具が効いていて、いくつかの小技(ディテール)がツボを突いた。主人公の行動はわりとコミカルなのだけど、それでも自らの信条(マキシム)に従っているかの如き言い訳がましいモノローグが微笑ましく、ハードボイルドというよりはソフトボイルドって感じで、それはそれでひとつの文体として結構ハマっていたと思う。  但し、主に原作との比較で不満な点もあった。ひとつはバイオレンス描写。高嶋政伸のキャラ故のことだと思うが、あそこまでの(原作にもない)バイオレンス描写を映像化する意味があったのだろうか?正直、やりすぎの感あり。 もうひとつは冒頭シーン。原作は、ハードボイルド小説の常套として、依頼人からの電話で始まる。映画もそれに倣ってほしかった。それはやっぱりお約束でしょう。  最後に、主人公が真相に気付くシーン。これは原作にない感動的なシークエンスだと思う。正直言って、真相そのものは「それしかないだろう」というほどに単純なプロットなのだけど、事件に至る彼の人の動機、探偵が事件に拘る動機、登場人物たちが事件に関わるそれぞれの動機に関しては、すごく説得的で、胸にじーんとくるものがあった。それは「愛」である。たとえその行いが間違っていたとしても。。
[映画館(邦画)] 9点(2011-10-09 22:56:06)(良:2票)
2.  旅立ちの時 《ネタバレ》 
『旅立ちの時』の最大の魅力は、リバー・フェニックスその人に尽きると思います。リバーの演技、特に彼の切ない表情がたまりません。 彼と彼女(マーサ・プリンプトン)の出会いのシーン、何気ない散歩のシーン、初めてのキスシーン、自分の思いを告白するシーンなど、それは全て青春のオンパレードとなります。また、マーサ・プリンプトンがとても魅力的で、自分の愛情に正直な振る舞い、彼を一途に思う気持ちが胸を打ちます。それに対し、両親世代には自分たちの生き方に対するほろ苦さがあり、彼ら自身の親との断絶も描かれて、リバーの境遇を通して繰り返される家族の悲劇が僕らの胸を締め付けます。  リバーはとても従順な男の子で、決して両親に逆らわないのですが、そこには彼なりの葛藤があります。熱い気持ちと諦念が同時にあり、それはもどかしくも彼の中で静かに流れていきます。その描かれ方は、反抗の60-70年代とは違うし、現代的な無根拠で等価交換的な若者の振る舞いとも違います。ある意味で、リバーの姿こそ、僕らの世代(80年代をティーンエイジャーとして過ごした世代)の象徴のような気がして、なんとなく心置けない気持ちになるのです。  この家族は、反体制派であり、反社会的な存在の最たるものなのですが、その中にも「愛」があり、そして今や失われた「青春」があります。そして、大人になるということ。その道筋がしっかりと示され、達成されている。実は、とても真っ当な家族の姿だと僕には思えます。
[DVD(字幕)] 10点(2011-06-01 19:20:12)(良:1票)
3.  誰も知らない(2004) 《ネタバレ》 
『誰も知らない』は、登場人物達の絶対的などうしようもなさを残酷なまでにリアルに描ききった作品である。親たちは何の悪気もなく、子供を突き放し、結果的に彼らを疎外する。そのどうしようもなさ。その衝撃。そして、子供たちは何の屈託もなく、親たちを赦し、結果的にそういう社会を自明のものと受け入れる。そのどうしようもなさ。その衝撃。  カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』や『日の名残り』の主人公たちを思い出す。彼らは自らの運命を受け入れ、そこから決して逸脱することがない、限定された世界の住人たちである。彼らの独白は、限定された世界から決して外れない、彼らの世界観の中でこその語り、その絶対的な記憶であるが故に、僕らにある種の違和と共に欠落を想起させた。 それが『誰も知らない』の子供たちにも言える。諦念という言葉では当てはまらない現代的な心情、そのどうしようもない底の浅さと生来的な欠落を感じさせる。  しかし、全く救いのない物語の中に、子供たちの生き生きとした姿を感じてしまう(『空気人形』の人形と同じに)、そこで描かれる救いとは一体何だったのだろう。彼らが否応もなく受け入れた世界。それを自明のものとして引き受ける逞しさとアカルさに現代的な救いと希望を感じてしまう。ある種の恐ろしさをセットにして。。。
[DVD(邦画)] 10点(2010-04-03 09:16:44)
4.  ダ・ヴィンチ・コード
原作は夢中になって読んだ。その謎は僕らのイマジネーションを刺激するのに充分衝撃的だったし、尚且つそれなりのリアリティがあった。しかし、ミステリーとしては一流だけど、サスペンスとしては三流だったかもしれない。スリリングなオープニングの展開がサスペンスとして持続していないのは、やはり拍子抜けの感が否めない。それは著者がサスペンスよりも歴史ミステリーを優先させたからなのか、単なるプロットとストーリテリングの能力の問題なのかよくわからないけど、なかなかこの2つを兼ね備えた作品というのはないようである。だけど単純に言えば、僕はこの作品が好きである。それは、この作品のミステリー部分が僕の歴史的記憶にとてもマッチしたからだ。  映画にしろ、小説にしろ、音楽にしろ、作品とはそれ自体がイマジネーションであると同時にそれは僕らのイマジネーションを補完するものである。作品の技術的な良し悪しがあるのと共に、作品が僕個人のイマジネーションに共振し、僕個人の物語を補完する。それがどのように僕を掴み、震わすのか?そういった評価軸は絶対個人的にのみ存在し、それこそが作品に対する絶対的評価になり得る。(評価とはそもそも絶対的でしかありえない) だから敢えて言うけど、この『ダ・ヴィンチ・コード』という映画は、『ダ・ヴィンチ・コード』という小説世界を映像として補足しているだけのものであるにもかかわらず(というかだからこそ)、小説を読んだものにとって、この映画は小説の映像的な補完として違和感なく受け入れられる。『2001年宇宙の旅』が映画とノベライゼーションでワンセットの作品であった、、、のとは意味合いがちょっと違うかもしれないけど、映画がその映画だけで評価されなければならないという決まりは全くないのである。 つまり、僕の映画『ダ・ヴィンチ・コード』の評価は、映画単独での評価というよりも作品として小説とワンセットとなっていることが前提なのである。  あと、、、実在するオプスデイやバチカンをあからさまに非難する姿勢はなかなかすごい。オチのつけられなさはこの作品の性質上自明であるとも言えるが、そこに明確な思想というかイデオロギーが全くないところも現代的でこれまたすごい。なんというか、如何にもアメリカ的な「能天気な合理的過激さ」とでも言うべきものがある。。。
[映画館(字幕)] 8点(2009-06-07 22:55:31)
5.  太陽を盗んだ男
この映画が僕らを惹きつけて止まないのは、その能天気な破綻性のせいだろう。シリアスなストーリーの中にサブカル的な要素を唐突に盛り込むことによって、映画の文体を大胆にずらしていく。そこで明らかにされるのは、主体性の欠如という当時新たに現れた文学的ラディカリズムの変容なのだろう。この映画では、原爆というテーマの上でプロ野球中継の延長やローリングストーンズの来日について語られる。原爆製作シーンやその奪還劇は、シリアスなシチュエーションでありながら、あまりにも無邪気なコントと言ってよく<これは現代ではもう珍しくないが>、マンガ的破綻性、そういった話法展開のハシリともいえる。菅原文太演じる実直な刑事は、最後にはゾンビにさせられ、そのイメージを変成したまま回復することなく終幕する。この映画が創られた1979年というのは、こういった新しい感性によって作品が生まれつつあった年なのだ。様々なイメージは、変成したり、縮合したり、解体したりしながら、差異化され、メタファー化され、価値を創出していく。「先進的な資本主義が何か未知の段階に入りつつあるぞという、そういう感じ方の中では、それは、だから素人であろうと、玄人であろうと、みんな同じじゃないか、大して違わないじゃないか、ボタン一つ押せるか押せないかという違いで、素人がいつだって玄人に回るとか、そういうことっていうのが出来るようになったということじゃないか。」これは吉本隆明、1982年の言説である。素人の時代。そういう時代の入口だったのだ。
9点(2004-11-20 02:11:04)
6.  ダンス・ウィズ・ア・ストレンジャー
この映画の題名は恋愛という現象を如実に表していると思う。ミランダ・リチャードソンが恋愛にのめり込み、愛憎に駆られ、嫉妬に苛まれる女性を切なく演じている。恋愛という狂気は最終的に凶行にまで行き着くが、ルパート・エヴェレットの軽々しさに振り回され、否応無く突き動かされるミランダの情動がとてもリアルだ。ミランダの人工的美しさが恋愛に塗れると共に徐々に醜く変化していく様がこの映画の白眉なところとも言える。とても切ない作品である。
8点(2004-03-02 20:35:50)
7.  タンデム
ラジオのクイズ番組司会者と助手兼運転手の友情を描いたロードムービー。かつての栄光と現在の凋落、そのことに一番自覚的なのは、おそらく主人公のミシェルだったのだろう。村上春樹の名作「ダンス・ダンス・ダンス」の一節を思い出す。「踊り続けるんだ。なぜ踊るかなんて考えちゃいけない。」踊り続けることが辛くなった時に、初めて僕らはその意味の不毛さに辿り着くのだろうか。だけど、意味の不毛さなんて最初から知っていたんじゃないのか。ただそれを見ようとしてこなかっただけで。僕らに必要なのは踊り続けるためにネジを巻くこと。 その行為自体がささやかながら大切な場合もあるのだから。。。そんな声が聞こえてくる。
8点(2003-10-20 21:14:54)
8.  ダウン・バイ・ロー
トムウェイツは、当時「レインドッグス」が出た後、僕自身もこの知る人ぞ知る傑作アルバムに痺れていた頃だったので、へぇ役者もやるのかぁ、いいかもね、なんて感心したものです。さて、映画の話ですが、当時、ジャームッシュ的なノリが新しいものとして登場して、世間を席巻していました。反ハリウッド、反商業大作という風潮は、映画に関わらず、音楽の世界でも10年に1回くらい押し寄せる景気の波みたいなものです。ただ、ジャームッシュの映画に関していえば、僕自身には、どうもぐっとくるものがなく、特に「ストレンジャー・ザン・パラダイス」や「パーマネント・バケーション」なんて、退屈なだけの映画としか印象に残りませんでした。70年代のアメリカンニューシネマがアンチヒーローのノリだったのに対し、80年代の中期に興ったこのノリは、カッコよく言えばノンシャラン、向うべきところのない足掻きを忘れた無気力といってもいいものでしょう。確かにセンスがあってカッコいいけど、ただそれだけ。生き難さに捉えられることなく、逃避を繰り返す80年代ポストモダン的風潮が産み落としたものだと言うこともできるかもしれません。確かにその世界観は正しいけど、そこにはその世界で真っ当に生きるための道筋が全く見えない。彼らのセルフストーリーが全く見えないのが不満だったです。こういう感想が今や正しいものなのかは分かりませんが、僕は映画の中に彼らの足掻きが見たい、ストーリーを感じたい。それが映画作家の真っ当な姿なのだと思うのです。ちなみに「ダウンバイロー」に関して言えば、ベニーニやトムウェイツがわりといい味を出していて、ちょっと気に入ってたりして。あれ?
8点(2003-10-13 16:58:58)
9.  ダイナー(1982)
この手の青春群像を描いた映画って結構ありましたね。「セントエレモスファイヤー」とか「ファンダンゴ」とかね。その中でもいちばん好きな映画です。クールでいて、もの哀しい、そんな雰囲気がたまりませんです。あ~、青春だァ。
9点(2003-07-27 17:02:48)(良:2票)
10.  タクシードライバー(1976)
この映画のテーマはずばり「正義」の行く末でしょう。この世の中に正義がなくなって久しい。主人公が愚直に信じる正義の観念とはうらはらにその向かうべき対象は異様なねじれを見せる。そういう世の中である。一見するとそれは単なる狂人の妄想に思えるし、ラストの展開は「暴力衝動」の発露そのものに見える。スコシージ自身もデニーロの圧倒的な存在感を軸として、そういう見せ方をしているから、この映画自体がストーカー的な「狂気」へのひそやかな共感という見方をされることも分かる。しか~し、始めに戻ると、この映画のテーマは「正義」の行く末である。僕らは今やこの「正義」の意味についてあまり自覚的でない。その当時、アメリカがベトナム戦争を「正義」の戦争として遂行していた時、主人公の「正義」は確かにあったはず。「正義」への従属こそ人を生かしめた時代があり、その後それは「懐疑」の象徴に代わった。ベトナム後ですら、主人公はあまりに「正義」への従属に愚直であり、そういう人間像として、主人公は「正義」に殉じるヒーローたろうと奮闘し、その末に念願のヒーローになる!が、それはあまりにいびつで滑稽な達成であった。「正義」という観念にとって、それはそれはもの哀しいラストなのである。「正義」や「ヒーロー」という言葉に空虚な響きしか覚えない現代の僕らにとって、そのいびつさは自明すぎるだろうか。「正義」は「小さなラディカリズム」へと変遷し、今では「狂気」そのものになってしまったのだろうか。失われた「正義」に心を震わせること自体が既に時代遅れな感覚なのだろうか。
10点(2003-07-27 15:54:38)
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