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1.  鳥(1963)
ヒッチコックの映画が何度も繰り返し鑑賞できるのは、演出の名人芸を音楽のように味わえるからだと思うんだけど、ただこれだけはちょっと違うんだな。見るごとに、物語としても常に新しい読み取りかたに気が向くというか、味わうより考えちゃう。メラニーに「あなたは何なの」って問いつめる食堂の子連れのおばさんが気になったこともあるし、メラニーのいたずら好きってのが隠れたポイントじゃないかと思ったこともある(この事態は鳥がメラニーに替わっていたずらを始めたんじゃないか、でメラニーはラストでかつての鳥のような、目をパチパチするだけのか弱い存在になってしまったんじゃないか)。この異色作ばかりは悠然と鑑賞できず、いつも前向きに突っ込むように見てしまう。やっぱり原因不明のまま、話が開いたまま、エンドマークも出ないで終わっちゃうってとこが、謎として挑発してくるんだろう。鳥とは何か。たとえばある国なら少数民族のことを思い浮かべるかも知れないし、ある社会なら子どもを思い浮かべるかも知れない。人間には気がつかない些細なきっかけで大きな変化が起こり得るってとこに(非線形的変化っていうの?)、一番の恐怖があるのかも知れない。あなどっていたもの、気軽に石を投げつけていたものすべてが(生物に限らず)、この無表情で感情移入を拒む鳥の群れに重ねられ、見るごとに新しい恐怖を掻き立てている気がする。
[DVD(字幕)] 10点(2008-09-02 10:55:20)
2.  友だちのうちはどこ? 《ネタバレ》 
いいのは母親とのやりとりのところ。アハマッド君は間違って友だちのノートを持ってきたことを発見する。返さなければ今度こそ友だちにとって大変なことになる。返しに行きたい。しかし母親は次々に用事を言いつける。ノートを口実に遊びたがっている、と母親が誤解していることを彼自身分かっている。つらい立場だ。落ち着かない。弟は宿題を済ませたから遊べるんだよ、と母親は教訓を垂れる。そのとき彼はイライラするのではなく、キョトンとした表情で静かに困惑するのである。これがいい。イライラするのは、誰かに自分の困惑を見せたいからだ。最終的にドラマをまとめてくれる物分かりのいい大人に見せたいからだ。しかしこの映画ではそういう大人は残酷なくらい排除されている。それらしく登場する老人もけっきょく少年の足かせになってしまうし、先生もただ鈍感なだけ。少年の気持ちを汲み大人の世界に翻訳してくれる救済者はついに登場しない。少年は最後まで世界の中にただ一人で立っている。そういう少年だからこそ、別の場所に一人で立っている友人のことに心を寄せられるのだ。ただ一人で立つ少年は、責任という問題に出会っている。宿題をやることが出来なくなっている友だちを助けられるのは、彼一人しかいないというところが辛いのである。おそらく今まで一度も母親の言いつけに背いたことのない「いい子」だった彼が、ここでそれよりも「責任」を、キョトンと困惑しながら選び取っていく。イスラム社会では強大であろう親や老人たちの言いつけを越えて、友だちの家を探しにポシュテの町へ走っていく。翌朝、間一髪で彼は友人を救うことが出来る(ここらへんの友人の絶望しきった描写が傑作)。彼のしたことは先生や親に褒められることでもなく、ただ友人の心配を消したことである。その充実が彼への最大の褒美だ。そういう彼の昨晩の冒険の証人には、小さな一輪の花がふさわしい。
[映画館(字幕)] 9点(2011-11-10 10:02:51)(良:2票)
3.  東京物語
老夫婦が子どもに会うために東へ行き、子どもたちが親を送るために西へ行く、というシンプルな二つの移動の物語で、しかしその移動はほとんど描かれず、ただ西から東へ帰る紀子(原節子)の姿のみが最後に置かれる。描かれているのは人の世のむごさだが、しかしそのむごさは改めたり正したり出来る「あやまち」といった類いのものではなく、「そういうふうになってるもの」として提示されているがゆえにより沁みる。以前は、最後の京子(香川京子)の憤懣がちょっと剥き出しで、この繊細きわまる傑作の唯一のほころびかと思ったときもあったが、あれはただ本質を見つめられない「若さ」を客観的に描いていたのかもしれない。紀子によってフォローされているのだし。その紀子と京子が時計を介して照らし合わされ、移動する車中の紀子で閉じられていくことは、ここで初めて西と東が連続しようとしているようにも思われた。おそらく京子はここを通って東に行くだろう。しかし老父の葬儀までもうここを西に行く家族はいまい、という幕を引くための移動のようにも思われてくるのだ。
[CS・衛星(邦画)] 9点(2011-04-15 09:43:53)
4.  東海道四谷怪談
なぜ直助殺しの場はあんなに感動的なのだろう。不意に隠亡堀にすべてが変わってしまうわけではない。屋内の構えはそのままで、そこに血の池ができ、葦が生え、戸板が流れ着いている。そしてそこにスローモーションで直助が倒れていく。屋内のままで外界の水が導かれている。廃墟という感じでもないのだ。タルコフスキーが好んだ設定、屋内の自然、雨が降ったりとか、あれに近いのだろうか。あと近いので思いつくのは、宮崎駿の『ラピュタ』にも、メカニックな世界の中央に草の原がしまわれているイメージがあった。なんかこういうの、外界が唐突に建物の中に呼び込まれることの驚きって、単に驚きだけでなく、もっと深い感動に通じているようなのだが、どうも私には分析しきれない。きちんとあるべきはずの屋根の下に、有機物が魔のように跋扈しつつある、ってことか。それだとやっぱり廃墟のイメージだな、それとは違うように思うんだが。とにかく私はなぜかそういうシーンになると、もうおののきながらめちゃくちゃ感動しきってしまうのだ。
[映画館(邦画)] 9点(2009-01-01 12:17:48)
5.  ドイツ零年
廃墟のベルリンをそのままセットで使うって、考えてみればずいぶん贅沢な映画です。露出の不安定さが変にリアル。ニュースみたいだからだろうか。突然カッと光があふれるショック。狭い室内ではカメラが人物を追いまわし、目まぐるしく往復する。父殺し以降の充実感がすごい。社会派ドキュメンタリーだったものに、不意に神話的な風が吹き込んできて、罪と救済のテーマが躍り出てくる。さらに子どもの孤独の描写、これは敗戦国に限らないかもしれない。いままでの登場人物たちに少年を拒絶させていくの。突如鳴り響くオルガン、ヘンデルのラルゴ。町並みにたたずむ人々。前半のヒットラーの演説と対照させる。しかし教会も救済してくれない。このラストの少年への密着がすごくて、淡々と戦後風景のルポやってたのが、グッと奔流に飲み込まれる。社会が悪いんだ、とは言えるが、なぜその報いがこの少年に集中するのか? そのシステムの由来は? なんてことを考えてると、神の問題に近づいてしまうのだった。
[映画館(字幕)] 8点(2013-12-18 12:33:14)
6.  逃亡者(1990)
M・ロークが何のいいところもないイヤーな悪人で(ひたすら恋人の到着を待ってるあたりに人間味を感じるべきだったのかな)ただのわがままというか、自分勝手。このイヤーな男が、イヤーな感じになってる一家に飛び込んでくる。この監督は女より男ね。女の描写は刑事も含めてつまらない。男は、ただカッカするだけの脇の役と思ってたのが、途中で異様に膨らんできたりする。リーダーと別れて自由になった途端に、バラバラと分解していっちゃう感じがある。狭いところから広すぎるところへ出て拡散しちゃうような。血だらけになってガソリンスタンドをうろつく。でも女子大生を人質にとって立て籠もろうとはしない。流れのあるところへ誘い出されていくの。もう停滞するのはこりごり。そこらへんに不思議な哀感が漂った。西部劇の時代ならもっとかっこよく死ねたのに、とか。コロラドの風景や、“保安官”というあたりに、開拓時代への・失われたものへの気分があるような。
[映画館(字幕)] 8点(2013-12-02 09:52:45)
7.  東京オリンピック
これはいろんなカメラマンが撮影したものを編集したそうだから、画づらに監督のタッチを見てもあんまり意味はないかもしれないが、聖火リレーのときの屋根瓦の構図はあれはどう見ても崑タッチだよね。800mをずっと回しながらワンカットで捉えたのもいい。とにかくスポーツ競技の結果への「興味のなさ」がよく、試合前の選手の表情や敗者の表情など、スポーツをする人間そのものへの興味に絞られているのが潔い。自転車競技の八王子あたりの牧歌的な風景、マラソンの甲州街道沿道も貴重な記録だろう。開会式はこのころはまだ簡素なものだった。これ以後テレビの時代になって記録映画というものも次第に意味をなさなくなり作られなくなったかわりに、式は次第にテレビ向きのウルサイものになっていってしまった。まだオリンピックが「スポーツの祭典」でしかなかった良き時代の記録にもなっているだろう。
[DVD(邦画)] 8点(2013-10-12 09:21:59)(良:1票)
8.  道成寺(1976)
これより前に『鬼』という作品があり、こちらの習作の感じ。繁みの中を歩いていくとき、太棹三味線に合わせたり、人形浄瑠璃のノリ。画面の手前に金粉散らしたりしてるのはガラス越しに撮ってるのか。同じように物狂いに至る女の話だが、まだ「日本的な美」に寄りかかったものを感じた。しかしこちら『道成寺』はそういう日本的なものを使いながらも、それを越えられたという気がする。たしかに絵巻物風の構図はあるが、清姫が日高川に飛び込んで波に炎がチラつき出すあたりのリズムは人形浄瑠璃ではなく「映画」だ。ベッタリとした平面で蛇が鐘へ向かう図も面白い。情熱を抑えに抑えている気配が生きてくる。おそらく監督ピークの作品。
[映画館(邦画)] 8点(2013-05-17 09:42:42)
9.  トライアングル(2009) 《ネタバレ》 
反復や回帰があるとドキドキするのは、時間芸術のけっこう根源にある問題なんじゃないか。音楽がそうでしょ。ソナタ形式では提示された主題が展開部を経て再現部に至ったとき「いわく言い難い感興」をもたらす。ジャズだってテーマが即興によってどんどん変形されたのちに最初の形で登場するとやはり「いわく言い難い感興」をもたらす。反復・回帰ってのは時間芸術のキモなんだ。で映画だと、『羅生門』みたいのもあるけど、主にコメディとスリラーで反復がよく使用される。本作で反復が確認されるあたりのドキドキワクワクは「たかがスリラー」かもしれないが、時間芸術のキモに連なっているんだ。別の新しい角度から反復を見ることになる感興、そしてその反復がどうも何度も繰り返されてきたようだと次第に分かってくる怖さ。落としたペンダント、走り書き、デッキに蓄積している「我々」の死体(これは笑いと紙一重だったが)。そして「錨を上げて」のメロディが、レコードと屋外のブラスバンドでつながって、ループの端と端とを留めている。ほっておくと映画そのものも永遠に循環していきかねない怖さが最後に残る。
[DVD(字幕)] 8点(2012-12-06 09:59:42)(良:1票)
10.  どっこい! 人間節-寿・自由労働者の街 《ネタバレ》 
題名だけ見ると、なんか「貧しくてもオレたちゃ自由だ」ってな威勢のいい人間群像を予想してしまうが、違って冒頭から合同葬儀、全編死の影が覆っている。身近にナマナマしく死を意識しながら生きている人々。田中豊さんの回顧談から。靴磨きや盗んだ雨合羽を売ったりした話。「柴田と少年院にいたころ…、柴田だよ、巨人の…」なんて言ってた豊さんが脳出血で行き倒れになって冒頭の葬儀になったわけ。松葉杖を見つけてきてやった久保さんは「俺が殺したようなもんだ」と自責の念を募らせているし(この人ちょっと理屈屋)、隠居役みたいな人もいるし、いろいろ個性が出ている。寿町に筋ジストロフィーの人もいるのには驚いた。いつかいい世が来るだろうが、それを俺は見られないのが残念、とちょっと芝居がかっているが、そういう思いを支えにしてるんだろう。アル中と戦っている鈴木さん(平凡な名前が多いのは本名を変えているのかもしれない)が、ぼそっと「怖い」と呟く。その孤絶の凄味。カメラは窓の外の夕暮れの町を見回してからまた彼に戻ってくる。彼の孤独が町につながらないながらも、響いていくような不思議な感覚。彼がそれでも何とかアル中を治そうと思った力はどこから湧いてきたのか。なんとなく「町に逃げ込んできた人々」という印象を持っていたが、やっぱり追い詰められて仕方なく来たのかも知れない。「不思議と景気がよくなると寿町の人間も増えるんだ」という。やくざ関係っぽい黒須さんもいい。ちょっと緊張しててインタビューに答えるときはいちいちマイクを奪ってしゃべる。小川映画ではお得意の討論シーンがこれにもある(小川は編集を担当)。絶対非暴力の朝鮮人にジョーが食ってかかって久保さんが中に入ったり。この人たちを見ていると、市民社会では隠されていたものが露出している感じ。タテマエとホンネを使い分けるのが市民社会の文化だが、ここにはそれがない。ホンネだけだって言うんじゃなく、一緒くたになってる。噛みあってる感じ。タテマエはタテマエで突き進んでいつのまにかホンネに成り代わってると言うか。最後に、強盗に襲われて年末年始をここでしのいだ人が感激してお礼に指を詰めましょうって来たエピソード。けっして景気のいい映画ではないが、人間展覧会としての豊かさに希望を見たくなる。
[映画館(邦画)] 8点(2012-02-25 10:05:06)
11.  トップ・ハット
人違いもののモチーフで、ずっと引っ張り続けるシナリオがいい。途中紹介される場面で、ここまでかな、と観客に思わせといて、さらに勘違いを続けていく粘っこさが嬉しい。誤解を続けさせる会話の妙。ダンスのほうはやや地味目で、二人で踊るのでは、仕方なく踊り始めてからしだいに熱が入っていく「チーク・トゥ・チーク」が見どころか。ただ一番うっとりさせるのは、アステアのロンドン公演でのステッキもの。ロンドン紳士の正装で、けっこうワイルドに踊るのが趣向。映画の冒頭、ロンドン紳士のクラブで音をたてないように息をひそめていた場面が反転される。タップの響きを銃声に見立て、向こうに並んだ同じく正装の紳士たちを(恋がたきという見立てか)、ステッキの銃で一人二人と倒していき、残ったのは機関銃で(ステップの連続音)薙ぎ倒す。それでも残った一人は、ヨーロッパ風に弓矢で仕留める。イギリスの上流階級と、アメリカのギャングとの重ね合わせのようなシャレた(ちょっと殺伐とした)趣向に、息を飲まされた。すべての動作がイキのよさで充満している。ロジャースの上の部屋で「砂の上の音をたてないタップ」をした欲求不満が、雷雨の中のあずまやで解消されたのと同じような爽快感が、このステージにもある。
[映画館(字幕なし「原語」)] 8点(2011-05-07 09:39:39)(良:1票)
12.  トゥルー・ロマンス 《ネタバレ》 
感情のおもむくままに走っていくシナリオ。とてもホット。それでいて部分的にはネットリしているのがおかしい。正義と悪の対決というより、ホットな二人とクールな世間の対決。G・オールドマンが電灯を揺らしながらC・スレーターをからかうとことか、それからもちろん、C・ウォーケンとD・ホッパーの向かい合いとか(それにしても豪華なキャスティングだ。D・ホッパーをいいお父さんにするなんて憎いね)。エルビスの啓示を受けて揉め事に入り、エルビスの啓示で救われる。お得意の三すくみはあるが、でもシナリオが書かれたのは『レザボア・ドッグス』よりこっちが先だったらしい。問題はラストのファミリーシーンだ。もしかするとこれ、平穏な若夫婦の・しがないコミックブック店員夫婦の、こうありたかった妄想なのかとも思えてくる。「トゥルー・ロマンス」って、何かそんな皮肉みたいな題じゃん。この二人以外は、世間はみんな死んでしまって。ひたすら夢としての冒険、ホットでありたいいう気持ちがここまで妄想を暴走させたのだとしたら、つまりそれだけクールに浸されてしまった時代だってことなんだろう。
[映画館(字幕)] 8点(2011-03-20 09:56:17)
13.  隣りの八重ちゃん 《ネタバレ》 
「気さくな近所付き合い」を理想化したような描写は、今でもテレビドラマで見られるが、そこに漂う「生あたたかい不潔な感じ」は本作にはない。映画の前半は、ほとんど「気さくな近所付き合い」の描写だけで進行し、それがとってもいいの。ガラス割っても、お隣で昼飯食べても、そこにはごく「ふだん」の時間が清澄に流れていて、それを丁寧に綴っていく。こういうのがドラマとして成り立つ、ってどうして分かったんだろう。「靴下をはかせろ」ってとこで、子どものようにはしゃいでいた八重ちゃんに「乙女心」が、さらに「女」がハッと現われてしまうあたり、たまらない。会社や大学はいっさい出てこない。家の中に入ってくる外部は、女学生友だち、これがデビューの初々しい高杉早苗だけで(やがて市川猿之助の母となり、つまり香川照之の祖母となる!)、この世界を動揺させる力は持っていない。後半になると岡田嘉子の姉が異質な外部を持ち込んでくる。芝居の質も、彼女だけ新派を演じているようでかなり浮いているが、それだけ外部性は強まった。ここでは「不潔」は、この外部の彼女が一手に引き受け、二軒の「清潔」をさらに強める。その姉はおそらくカフェの女給になって満州にでも流れていくのではないか。彼女の一家は朝鮮に転勤になる。敗戦時には「外部」に剥き出しで呑み込まれ、苦労するであろう未来を予告するようにラストには雷鳴が轟く。しかしこの時にそれが分かるわけがなく、あの雷鳴を入れたのは何の作用なんだろう。単にトーキーになった嬉しさで、夏の風物詩として入れただけなのか。あるいは二人の恋の火花がこれから散るだろうという明るいイメージなのか。もしかして映画には予知夢の能力があるのかも知れない、と不気味に思った。
[映画館(邦画)] 8点(2010-11-21 09:50:02)
14.  東京の宿 《ネタバレ》 
たぶん小津作品で一番貧窮した人たちの話。そのせいか屋外シーンの比率の高さでも、一番じゃないか。そして犯罪が描かれた最後の作品だろう。『東京暮色』で警察は出るけど。子どものシーンはやっぱりうまいなあ。帽子買っちゃうとこ。思わず買ってしまった帽子が重荷になっていく感じ。父のとこに戻るときは弟にかぶせてんの。「ちゃん怒るぞ」と言いながら兄弟が歩いていく感じ。ふっと振り返ったのをきっかけに、ワーッと走り出していく。あるいは風呂敷包みを互いの責任にして道に置き捨ててきちゃうとこ。意地の張り合い。あそこらへんの子どもの心理はなかなか描けないもんですよ。ぺこぺこしてる親に「あんな守衛殴っちゃえばいいんだよ」と子どもは言う。『生れてはみたけれど』の視線。岡田嘉子は突然画面を横切って登場するんだな。けっきょく喜八は人のいいおっちょこちょいなわけで、女に「落ちぶれてはいけない」と諭しつつ自分が盗みに行ってしまう(ほとんど寅だけど、寅は犯罪にまでは踏み切れない)。『出来ごころ』的な“いいかっこしい”の場面もあり、その裏には、かあやんへの甘えがある。ここらへんの関係の作り方がうまい。『自転車泥棒』より10年以上も前の作品なわけだ。
[映画館(邦画)] 8点(2010-04-25 11:59:28)
15.  トラベラー 《ネタバレ》 
サッカー少年、すでに落第していて、不良とまでは言えないが“困った児童”。彼がどうしてもテヘランで行なわれるサッカーの試合を見たいという情熱の塊となり、ほとんど求道者となる話。あんがい中世の宗教家なんてこんな面構えをしてたんではないかなあ。野卑にして高貴。“道”のためならなんでも行なう。一心不乱。まず金集めを始める。家のものを盗んで母親に学校に言いつけられると、被害者づらして「母さんが嘘をつくんだよう」と泣く。偽の写真屋になって友だちを撮り、5円ずつもうける。カメラの向こうですまし顔をする子どもたちの顔顔顔。ついに自分たちのサッカーボールやゴールまでも売ってしまう執念。ここらへん、主人公に崇高さまで漂って見えてきた。友人てのがよくて、友の狂乱につきあいつつも戸惑っていて、いい対比。夜の出立のとき何度も呼びかける場が圧巻。ガッセム君は、友のことなど全然頭にないんだけどね。でテヘラン、切符は手前で売り切れ、迷わずに帰りの運賃をダフ屋に出してしまう。以下、建て前としての教訓映画的な展開になっていくんだけど、映画観ている我々はこの少年のエネルギーに感嘆するほうが先になるわけ。彼はどうやって帰るんだろう、もしかするとこのままテヘランに居続けるのかも知れない、そのときあの故郷の友人の懐かしさがひときわ立ち上がってくるのではないか、などその後をいろいろ想像する楽しみもあるラスト。
[映画館(字幕)] 8点(2010-01-12 12:06:09)(良:1票)
16.  泥の河
一番ジーンとしたシーンは、姉弟が初めてうどん屋を訪れたとこ。大人は子どもたちを・姉は弟を・招いた者は招かれた者を・招かれた者は招いた者を、それぞれ見守っている。いたわっている。弱者同士が肩寄せ合って生きていく、っていうとクサくなってしまうのだが、そういう高揚した感じはなく、実に礼儀正しくいたわり合うのだ、まるで自明の作法があるように。決して水臭いというのではない。「カスのように生きてきた者」にとってのルールなのだろう。こちらからは傷つけないから、そちらも傷つけないでくれ、っていう。この帰り道、送っていくと橋の下を舟が通り抜けていく、ここらへんの正確さがたまらない。少年が初めて加賀まりこの部屋を訪れる場面もいい。ここにあるのも礼儀正しさだ。女の溢れるばかりの感謝の気持ちを、じっと静かに保たせている緊張がいい。「おばさんもおいでよ」「りこうな子やね」。礼儀正しさが頂点を極めるのはラストであり、子どもの呼びかけに絶対人影を見せない舟の姿である。我々はその舟の中でじっと一つの恥を中心に肩を寄せ合っている家族の姿を想像し、その腹立たしいまでの礼儀正しさに感銘を受けるのである。 /(蛇足)田村高広と池部良の俳優歴って似てる。デビューはズレるがどちらも戦後民主主義の時代を体現する若者として登場し、役柄は「まじめ」。が東京オリンピックに向けた経済成長期になると、そのまじめさが俳優としての幅を狭めてしまい、影が薄れた。ところがオリンピック後の1965年に、どちらもプログラムピクチャーの脇役を得る。田村は『兵隊やくざ』、池部は『昭和残侠伝』、勝新太郎と高倉健という戦後民主主義を「体現しない」主役との戦中戦前を背景にした作品で新境地を開き、その後の渋いバイプレイヤーの地位を確定する。なんかこの二人の俳優歴に、戦後史そのものが重なって見えてくるよう。だから田村のデビューごろの時代を描いた本作で、彼は自分の俳優生活の総括をしたようにも思われるんだ。(11年9.29)
[映画館(邦画)] 8点(2009-12-29 12:07:26)(良:1票)
17.  どん底(1957) 《ネタバレ》 
音楽はアタマに鐘、ラストにピーッと能管、あとは中のバカバヤシ。『隠し砦』の踊りや、『夢』の葬列もあるが、けっこうミュージカル的な様式を感じさせる作品だ。冒頭はやはり門、黒澤映画で門は繰り返されるモチーフだが、ただ門の内と外のドラマではなくて、これは門の下の人々なの。門の内と外での争いからも脱落し、赤ひげのような“父”的人物もいない世界。これに近いのは『どですかでん』だろうが(どちらにも珍しく志村喬が出ない)、あちらは底に肯定の気分が感じられるのに、こちらにはない。みな嘘の自伝や夢に飲み込まれてやっと生きている。俺は職人なんだと最後まで世間の基準にすがっていた東野英治郎も、ラストではバカバヤシに加わる。その中で不意に現実の寒気を感じてしまった役者が首をくくり、三井弘次のアップ「踊り(夢)を邪魔された」で幕となるわけだ。陽だまり→風→雨と天気の移ろいも的確。職人の鍋をカリカリ引っ掻く音がいらいらを表現する。構図としては直線が直角に交わらない世界、平行四辺形が、圧力下にある世界を感じさせる(美術は先日亡くなられた村木与四郎、あなたの仕事は永遠に残ります)。暗い話を、どうだ暗いだろう、とじめじめ溺れずシャープに描いていて、このあたりの黒澤作品はとりわけ映画としての純度が高い。それにしても左卜全は貴重な役者だった、同じヒョウヒョウでも笠智衆だとマジメ一方だが、こちらはしたたかなずるさも含んでいる。あと個人的なことを言わせてもらうと、これと『蜘蛛巣城』の二本立てが、私が初めて東京池袋の文芸地下という名画座で観た映画でした。その後かなりお世話になって私の映画好きの下地はだいたいここで形成されたもの、その意味でも忘れられない作品なんです、これ。
[映画館(邦画)] 8点(2009-11-29 12:12:57)
18.  トゥルーマン・ショー 《ネタバレ》 
現実のリアリティの喪失という社会的な気分から、世界は実在するかってな大きな哲学的なテーマまでカバーできる設定で、こういう豊かな寓話を生み出せるのはハリウッドの強みだ。そしてハリウッドの伝統である自由への脱出ものにもなっている。実際現代社会のあれこれって何かセットみたいに薄っぺらになってるし。途中に入るCMがおかしい。待機しているエキストラたち。急に作られ解消される渋滞。群衆シーンのおかしさ。かなり笑えた。エレベーターのセットぐらいちゃんと作っておいてもらいたい。月が大きかったのはイメージじゃなかったのね。妻のローラ・リニーに変に不気味な味が出ていた、追い詰められつつココアのCMをしたり。この設定が怖いのは、有名になりたい、という我々の潜在願望も突つかれてるところがあるからで、あるいは、自分が主役であることを知り晴れがましさを感じて島にとどまり続ける、というさらにグロテスクなエンディングも有り得たな。
[映画館(字幕)] 8点(2009-01-18 12:13:28)
19.  トム・ヤム・クン! 《ネタバレ》 
詩情あふるる導入部、そして悪人の屋敷に文字通り飛び込んでくる主人公のアクションのキレ、小艇での追っかけのスピード感、いいぞいいぞと前のめりになって見た。舞台がオーストラリアに移ってややダルになったか、と思うと、ローラースケートやらバイクやら車輪軍団との倉庫での闘争でつなぎ、密殺料理店でのひたすら階上へと向かうワンシーンワンカットに至る。撮り直し・壊し直しが簡単にはできぬ長回しの緊張がびんびん伝わってくる。ちょっと階段の手すりから下をのぞくと、男どもがワーッと駆け抜けていくのがピタリのタイミングで見えたりして、まことに嬉しい。映画というものを侮っていない姿勢に感銘を受けた。悪漢どもが、ヒーローが活躍しているときに卑怯な飛び道具を使わない・一人ずつ順番に出てきて順番にやられていく、と礼儀正しいのも立派である。
[DVD(字幕)] 8点(2007-12-08 12:18:15)
20.  東京流れ者
小津映画の同窓会メンバーの常連、北龍二がやくざの親分だ。ただし気が弱い。そういえばあっちでも若い細君を気にしすぎてたりして、そんなキャラクターだった。異様に清潔なセット。原色で。この監督の、というか美術の木村威夫の好みを表わすのに、「ステージ性」って言葉はどうか。活劇のステージとしての簡潔な清潔さ。日本の家屋でも格子などが強調されていて、演歌の舞台背景のようになっている。佐世保のドンチャン騒ぎでも、どこかステージ性が意識されている。この人のセットの特徴として「ステージっぽさ」という言葉を当てはめてみた。本来記録するものだったフィルムに、舞台の不自然さを強引に持ち込んでみた、ということか。
[DVD(邦画)] 7点(2014-01-05 09:52:49)
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