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41.  男はつらいよ 寅次郎の告白
侘しさ・ひなび・渋味・地味と鳥取篇。杉山とく子の店のエピソードのしみじみした感じあたりは、やはり良い。豆腐を入れたまま流れていく鍋。一本の作品としては求心力が弱いが、就職とか母の愛人とか「少女の脱皮」ものでくくれたか。就職がうまくいかないあたりが丁寧で、社会への気後れの出し方がうまいので、思わず応援したくなる。寅のほうは吉田日出子なんだけど、もう今までのマドンナシステムは完全に崩壊して旅先でのエピソード止まり。柴又にも来ない。うまく行きそうになると逃げ腰になる伯父さんを、満男は反面教師として眺めているのでありました。もう完全にミツオ=イヅミが主役(そのせいでダンゴ屋に人を吸い寄せる力がなくなったんだろう)。帰りの列車、向かい合ってた二人が、寝てる客のせいで並んで座って、手を重ねるなんて段取り、こういうとこはやっぱりいいな。
[映画館(邦画)] 6点(2012-08-05 08:58:57)
42.  男はつらいよ 花も嵐も寅次郎
ワルツが久しぶりに鳴った。偶然の出会いを仕組むあたり、本シリーズでは珍しくはないもののやはり笑える。蛍子の親父さんが「こんな奴と付きあってんのか」というとこも笑った。とらやでの画面の作りはもう熟達の境地。すみずみまで無駄がない。左側に怒ったオイチャンがいると、右側に泣いているオバチャンを置いて釣り合いを取り、話が一室に籠もりそうになると、オイチャンのとこに人が来たりして、店から三郎に挨拶を送る場面を挟んだりして息を抜く。流れが出来る。このころから寅はよくマドンナの恋の相談相手になる。寅は結婚してないから理想が言える、ってことで、ヒロシの言葉を借りると「それが欠点でもあり美点でもある」。けっきょく寅は人生の通過者であり続けようとしたわけで、人生の転換点を乗り越えることが出来ない人なの。ある意味臆病、よく言えば永遠の青年。だからほかの人が乗り越えようとするとき助言を与えるのに熟達している。『太陽を盗んだ男』などニヒルな役が多かった沢田研二に、気の弱い動物園の飼育員をやらせたのが慧眼で、上方のボンボン的な資質を見抜いていた(鳥取生まれの京都育ち)。後年沢田は舞台で「夫婦善哉」をやることになる。
[映画館(邦画)] 7点(2012-06-14 10:13:09)(良:1票)
43.  汚名 《ネタバレ》 
メロドラマとしてのサスペンスと、スリラーとしてのサスペンスがあるのが、本作の特徴。鍵一個でハラハラさせられる。背中越しに移したり、夜会の中でのクローズアップ。シャンペンが次第になくなっていく怖さってのもあった(露見する恐れ)。観客の心は何もヒロインにだけ寄り添っているのではないんだ。何が怖いと言って、助けを求めようがないってのが一番怖い。自分が毒飲まされることに気づいても、そこにいる第三者に言えない(するとスパイがばれてけっきょくアウト)。こういう「とらえられた!」ってのがこの監督好きね。ラストの階段降りはただただ陶然。このワル、憎めないのよね。『鳥』のお母さんみたいのがいて家庭もある。ずいぶんかわいそう。ヒロインはけなげ。愛を証すために自ら敵地に乗り込み、そのことによって誤解を受けたりして、けなげ。
[映画館(字幕)] 7点(2012-06-11 10:23:47)
44.  男はつらいよ 寅次郎あじさいの恋 《ネタバレ》 
夢から覚める場がない、タイトルバックが江戸川土手でない、マドンナがとらやの座敷に上がらない、などの変化あり。室内の暗さが今回は目立ち、京都の伝統を出す意識的なものもあろうが、マドンナ(かがり)の暗い情念とも通じていたよう。今回の趣向は、寅がマドンナに追いかけられる、という点。今までもホンワカムードになったのはあるけど、一途に思いつめられて付け文をそっと渡されたりまでする。その前に丹後でかがりの家に泊まることになっちゃうのが予備段階の緊張。かがりの母が近所の手伝いに出てしまい居心地の悪くなる寅の晩餐、自分からお酒を求めるかがり、狸寝入りしている寅、そっと部屋に上がってきて寅の横にしばらく座るかがり(娘のランドセルを取りに来た、という理由はある)。その心理のだんまり芝居を見ているようなせめぎ合いが見事。かがりは失恋の痛手に、加納の「人に気を使うな」という叱責の言葉が重なりズタボロで、ゆきずりの・下駄をくれただけの下駄顔の男に弱った心が一気に傾く。翌朝の別れのとき想いが溢れ、ずっと船を見送り続けているかがりのカットの積み重ね。なんか蛇体となった清姫のような凄味さえ感じられてくる。山田洋次は、臆病になってはならぬといつも言いながら、そうい臆病になる人たちをいとおしんでもいる。寅も含めて。ここらへんシリーズ通してのテーマ。あともう一つシリーズの重要なモチーフとして、かがりは外での寅と内での寅の違いを江の島で指摘した。外で会ったときは優しいのに、家に帰ると違った人になっちゃったみたい、って。本作では恒例のとらやでマドンナがもてなされる場がない。今までの寅は、とらや一家の暖かさの代表としてマドンナに気に入られていた面があったが、本作で個人として自立した(!)、ってことか。あじさい寺に寅が満男を連れてきたのを見て、かがりはちらっと表情を翳らせる。ここには「寅は寅の所属する家の人なんだわ」という嫉妬と落胆がある。寅は旅先ではけっこう大人として振舞えていた。濃い人間関係が生まれそうになったら、無名の旅人としてその場を去れる状況では強い。しかし名を持った個人として剥き出しで女性に対さなければならなくなると、たちまち恐怖に囚われてしまう。そしてシェルターとしての家の代理人を誰か、さくらがだめなら満男でもいい、必要になるのだ。デリカシーのある男はつらいよ、って寅は言うだろうが。
[映画館(邦画)] 8点(2012-04-21 10:12:12)(良:2票)
45.  おろしや国酔夢譚
まじめに作られた映画で感動してやりたい気持ちはあるのだが、シナリオ術の低下は無視できない。映画のシナリオを作る伝統が、どこかでプツリと途絶えてしまっている不安を感じた。邦画のこの手の大作って、ストーリーのダイジェストになっちゃうのね。映画として楽しませようという気持ちがない。はたして観客はあの手の、通り一片の暴風シーンなんか見たいと思ってるだろうか。どうせスペクタクルで見入らせる金はないんだから、漂流しているとこから始めて、シナリオのなかにうまく粋に経過を織り込めばいいじゃないか。そういうとこで金を使わずにシナリオを構成するのが邦画の伝統だったはずだ。そんなとこより、河の氷が溶けるシーンなんかのほうが映画として十分盛り上げられそうなのに、西田敏行が岸辺にたどり着くまでを描かない。河が動き出す感動を映画は捉えない。西田の顔に河がオーバーラップするの。変に説明的なとこがあるかと思うと、彼らの進行を分からせてくれる地図を出さない。そういう「別の感動」への手助けとなる説明は、はしょらなくてもいいのに。小さな個人と大きな国家、小さな漂流と大きな歴史、そんな対比が芯の話と見た。海に向かって波に逆らって吹く風がすさまじかった。主人公が世界を知っていく感動や、望郷の願いやらは、も一つ焦点が定まらなかったみたい。
[映画館(邦画)] 5点(2012-04-10 09:59:31)
46.  女殺油地獄(1992)
これは近松の世話ものの中では唯一恋愛の描かれてない作品で、不良のせがれのいる河内屋の家庭劇という面があり、新劇やテレビドラマで取り上げられたときは、そこらへんを焦点にしてたが、本作はそれには関心を示してない。どっちかというとお吉を主人公にして、与兵衛への想いを持っている設定。オバンの情念の話にしてる。小菊(原作では遊女)をかたぎの娘にして恋仇にしてる。つまり近松の姦通ものの世界に組み直したような新解釈。でもそれだとどこか無理があり、のめり込んでいく凄みみたいのは感じられなかったなあ。小菊の嫌がらせだけで密会に行くのは飛躍ではないか。そこまでの段取りとしては、まず夢での自覚があり(風圧にゆがむ顔)、からかいみたいのがあって、婚礼があって(ここらへんはなかなかケレンで、狐面つけたり花火したり)と、一応準備運動はこなしてる。でもあの時代密会した男女が一緒に帰ってくるってのは、無理があるんじゃないか。殺しのシーンはスローモーションで、タプタプいう音にビチャビチャいう脚の音などが効果を出していた。この原作では堀川弘通監督版てのもあった。当時の扇雀、今の坂田藤十郎が与兵衛を演じた。新珠三千代のお歯黒が凄惨さを高めており、新解釈を加えない原作に沿った家庭劇としてこっちのほうが見応えあった記憶。
[映画館(邦画)] 6点(2012-03-29 09:58:40)
47.  お気にめすまま
もうちょっと前半テキパキしてくれたら、くたびれ男の恋愛ものとしてそう悪くない味わいになったと思う。妹の騒動の顛末が、けっきょく単なる痴話げんかに終わってしまい、この主人公カップルもヘリコプターから痴話げんかと見られてハッピーエンドに閉じていくあたり、いちおう対になっている構成。痴話げんかで納まる夫婦もあれば、痴話げんかをするまでになれた恋人同士もあり、まあ人間、情けないもの同士仲良くやっていきましょうや、というちょいとしみじみしたハッピーな気分。エレン・バーキンはクラシック系の歌い手には見えないな。「イオウジマ」なんて苗字は、まずないぜ。
[映画館(字幕)] 5点(2011-11-15 10:38:17)
48.  男はつらいよ 寅次郎の青春
このシリーズでは、よく人が人の家にやっかいになる。泉がさくらの家に、寅が蝶子の家に、こういうときの女主人の導き入れ具合の自然さに、気持ちのいいものがある。あんがいこのシリーズの重要なポイントかも知れない。よその人・旅人を積極的に家の中を通過させようとすること。そのことによって社会が悪く固着するのを攪拌してるような感じだろうか。もちろん、たいていが顔見知りだった村社会時代への、アナクロニズムなノスタルジーでもあるんだけど。寅は怪我さえして本当に背景に退いて、でも恋があっただけでも良かった。朝、船出する弟と蝶子さんの会話をしみじみと聞いているシーンなんか、ずいぶんと地味な味わいになってきた。
[映画館(邦画)] 6点(2011-11-13 09:48:35)(良:1票)
49.  おかあさん(1952)
この映画の怖いところは、母が次々に襲ってくる不幸から家族を守り続けているようで、その家族が順番に消えていくところ。家族の幸せを願うことが、その一家を解体していく現実。避けようがない病気を送った後には、娘を手放さなければならず、さらに精神的な頼りとなっていた手伝いの男も遠ざけなければならない。やっと露店から自分の店として再建できた家から、一人ずつ人が消えていく。中北千枝子に髪を触れられた娘はやがてこの家を去り、遠からずもう一人もこの家を去っていくだろう。これは成瀬の『麦秋』なんだと思う。あの解体していく大家族の物語を、成瀬の小市民の世界に移すと、こうなるんだ。どちらも厳粛な諦観が底に流れている。母はメソメソしないが、肝っ玉母さん的に豪快に笑うわけでもなく、激さない矜持を持ちながら不幸を通過させていく。どこかニヒリズムの匂いがする。成瀬の世界観がかなりクッキリ現われた代表作と言ってもいいんじゃないか。とちゅう股覗きしている子どもの視点になって逆さまの看板を捉えたり、映画館での「終」の画面で驚かせたり、けっこう遊んでおり、これは脚本の水木洋子の企てかもしれないが、サイレント映画を経てきた成瀬の可能性が高いと思う。加東大介、中北千枝子の常連脇役もそれぞれいい仕事をしており、とりわけ加東はベスト。どちらかというと「お嬢さん」役の印象が強い香川京子のパキパキした下町娘も新鮮だ。(そうか、岡田英次も香川京子も今では実質一人息子・一人娘になっちゃってるんで、なかなか結婚はスムーズに行かないかも知れんなあ。パン屋の長男がひょっこり生還すればいいんだが。まてよ、最後にクリーニング屋にやってきた見習い店員が16歳といってたから、娘とは二つ違い。あれを将来婿に育てて、と田中絹代は算段するかもしれん。まだまだひと波乱ありそうだぞ。)
[CS・衛星(邦画)] 8点(2011-10-24 10:06:07)
50.  オーソン・ウェルズのオセロ 《ネタバレ》 
ひたすら構図の美。キャシオとの喧嘩のシーン、水を張った酒蔵(?)の美しさ。反射の美しさ。犬が最後に歩く。嫉妬に狂いだしてからは、影が前面に出てくる。本人の影だけでなく日覆い(?)の交錯する線の影から、やがてイアーゴを吊るすことになる檻の影まで。それにしてもイアーゴの情熱の拠ってきたるところは何なんだろう。ただ副官になりたいってだけじゃないんだよね。もっと芸術的衝動というか。砦の上で並んで歩きつつ、たぶらかしていくあたりの丁寧さ。シェイクスピアお得意のところ。人を操る楽しみ。自分が「運命」になる喜び。イアーゴは自分のことをI am not what I amと言い、狂乱のオセロのことをhe is that he isと言う。
[映画館(字幕)] 7点(2011-10-20 09:40:51)
51.  夫たち、妻たち
今回の趣向は、ドキュメント風の手持ちカメラで押し通すこと。ドキュメントと言うよりもニュースタッチか。二組の夫婦から始まって、少しずつほかの人を巻き込んで広がっていくおかしみ。人間関係は、より安定を求めて動いていそうでいて、実はより不安定なほうへ流れている。ミア・ファーロウのタイプを元の旦那が「受動的攻撃性」と言ったのがおかしかった。受身のポーズでけっきょく自分の思い通りにことを運んでいく、って。人間関係への期待と幻滅。灰色の帽子をかぶって妥協してしまう。笑いとしては女学生レインが身の上を語るあたりか。役者ではジュディ・デイヴィスがピタリ。険があって魅力的ってのは難しいのではないか。ヴァンプとか貴婦人なら分かるけど、普通の人間らしい魅力に仕立てている。
[映画館(字幕)] 6点(2011-09-30 13:26:02)
52.  狼の血族 《ネタバレ》 
夢を紡ぐのも物語をするのも全部女性。少女に限らず、老婆を含む女性たちの物語。少女の成長の話だが「女性」の物語になっている。「これこれこういう話だから、こういう映画になった」というより「こういう雰囲気の映画を作りたくて、こういう話を選んだ」って気もする。監督が男だし。三つのエピソードで、次第に狼が恐怖の対象でなくなっていくの。加害者であった狼も、終わりのほうでは「狼にされる」という被害として扱われる。また「狼が人になる」ってのが何かの恵みのように見られる視点もある。「狼」のイメージが多岐に膨らんでいく。ラスト、赤ずきんの話で復習するよう。ばあさんを「殺してくれた」狼と一緒に狼の血族に入っていく。そして現代、もう眠っている場所は子ども部屋ではない。と窓を破って躍り込んで来る狼。フロイト流に見ればかなり露骨な象徴で、なんかつまんなくなっちゃうんだけど、これが男が作った「女の映画」の限界か。というより、女性たちに「男はこう考えてますが」とこわごわ「おうかがい」をたてている映画なのか。
[映画館(字幕)] 7点(2011-09-13 09:43:00)
53.  男はつらいよ 寅次郎恋愛塾
並列的に列挙する。・タイトルのバックが旅先というのは珍しい。・初期の寅のギラギラしていた部分をポンシュウが受け持っている。・帰宅後の寅の会話の中でだんだん若菜が現われてくるおかしさ。「珍しいなあ、男で写植やってる人は」「男と言ったか? 俺は」。・面接の場。こういうなんとはない社会の断面を見せるとこがうまい。・「真剣に恋をしている人をからかうなんてお兄ちゃんらしくないわ」で、民夫への教育となる。『寅次郎頑張れ!』の線。「僕はそんなこと出来ませんよ」「さいなら」のリズム感がいい。・アケミが「人妻になって寅さんの魅力が分かった」てなことを言い、社長と喧嘩になっていく。・「希望? そんなこともありましたっけね」と赤信号を突っ切りうなぎ屋に入り看板を倒してフラフラと去っていく民夫、これは昔の寅だ。・秋田へ行くあたりから調子が落ちる。リフトが行って帰ってくるのなどもう少し撮りようがなかったか。樋口可南子って笑顔が哀しい女優ベスト3に入ると思うんだけど(あと風吹ジュンとか)、あんまりそれが生かされなかった。
[映画館(邦画)] 7点(2011-08-18 10:39:11)(良:1票)
54.  オープニング・ナイト
カサヴェテスが好む「演じること」というモチーフは、当然芸人への興味に通じる。『アメリカの影』や『チャイニーズ・ブッキーを殺した男』に出てくる客受けしない芸人たち。演じさせられることの嫌悪がここにはある。はしゃぐことが使命となっている人たち。自分の世界と舞台の世界との落差が彼らを疲れに追いやる。あるいは俳優。本作は、段取り通りの決められたセリフ・決められた演出がどうしようもなく嫌になってしまった女優の物語だ。段取り通りの進行に感じる閉所恐怖、それに彼女が段取り通りに老いていく不安が重なって、映画は進んでいく。舞台上の俳優をクローズアップで捉えるものだから、演じられているストーリーが意味を奪われ、舞台に閉じ込められている人物として見えてくる。演じている自分は何者だろうか、という疑問。ジーナは自分たちのことを「誰から私たちのふりをしているの」と言っていた。演じている自分も実は誰かに演じられているのであって、そういう連鎖が無限に続いた果てで何でもなくなってしまっていたとしたら。演じるということは何かのふりをすることである。幸福であるふりをすること・リラックスしているふりをすること、しかしその「ふり」をする俳優的人間は、「ふり」をしている自分は幸福ではない・リラックスしてはいない、ということをいちいち確認させられているようなものである。演じることの苦痛がここにある。彼女はとうとう舞台の上で作品を離れ即興の芝居、というよりも夫婦漫才を始めてしまう。そのはじけるような解放感。俳優は演じることによって自分自身から逃げ出せる特権も持っていたのだ、しかしそれは自分自身を限りなく曖昧なものにしていくという代償と引き換えなのだけど。この矛盾の中にカサヴェテスは「演じること」のテーマをつかんでいる。『こわれゆく女』では深刻だったが、本作ではからかいのようなゆとりがあって、若干息を抜けホッとする(ヒッチコック劇場にこの二人が出演した「ひとり舞台」というスリラーが、やはりステージものだった)。
[映画館(字幕)] 8点(2011-08-10 10:15:13)
55.  お引越し
この監督は水が好きで、今回も不意の夕立やら疎水やら出てくるんだけど、それよりも火が圧倒的だった。引越しのゴミ燃し(放火のニュース)、アルコールランプ、大文字焼き、祭り、舟の炎上。少女の成長って民俗学的にもよく火と関わってる(『ミツバチのささやき』でも跳んでた)。それを背景にして、レンコが「おめでとうございます」と叫んだときには感動した。成長することを自分で祝福し、毅然とまなじりを決して受け入れていく。崩れて行く家族にすがろうとする自分を「おめでとう」と叫んで奮い立たせていく。おめでとうとは、ただお赤飯を前にしてるってだけでなく、厳しい言葉なんだね。前半は「けなげ」のパターンに収まってしまうんじゃないかと思ってたが、あの「おめでとう」でそこから一歩進めた。風呂場に立てこもるときの廊下の緊張、そうか立て籠もる話が好きなんだな。鋭く尖った三角形のテーブル。レンコはよく走った。
[映画館(邦画)] 7点(2011-07-22 10:13:25)
56.  おとうと(2009) 《ネタバレ》 
鶴瓶と吉永小百合の「合わなさ」ってのは、本当なら『男はつらいよ』における渥美清と前田吟の「合わなさ」みたいな組み合わせとなるはずだったろう。チャランポランと正論の対比で、寅シリーズの場合、その合わなさがお互いの批評になって、いつのまにか絶妙のコンビとなっていた。ヒロシの言う正論はもっともなんだけど、寅を介すると、その遊びのない正論が痩せたものに見えてくることがあり、そこにあのシリーズの広がりがあった。渥美と前田という全然違う個性がうまく対するようになれたのは、間に倍賞千恵子という緩衝材があったからかもしれない。SKD出身で浅草の匂いを残しているが立ち位置としては前田寄りの正論派に属している倍賞さくらの存在で、うまく機能できたのだ。そういう緩衝材抜きで鶴瓶と対さねばならなかった吉永小百合は気の毒であった。彼女が正論を述べると、それをやわらげてくれるフィルターがなく、白けてしまう。鶴瓶にしても、結婚式の場、その場が白けることを演じてるんだけれど、映画を見ているこちらも、そこに参加して白けてしまう。こちらもフィルターがないのだ。あらためて寅シリーズがうまく機能していたことに驚かされた。この映画でハッとさせられたシーンは、鶴瓶の部屋が大きな鳥籠になってるとこ。自由人としての彼の象徴でもあろうが、姉の家にあった鳥籠を思い出させ、姉への想いが言葉でなく状況で伝わってくる仕掛け、こういうところはちゃんとしている。それと崑への追悼が感じられたのは、出戻ってきた蒼井優が部屋へ上がっていくとき脱いだコートが襖の間に挟まるとこ、晩年の崑がサインのようによく描いた着物の裾を襖に挟むシーンの模倣をやってみたのだと思ったが、違うか。
[DVD(邦画)] 6点(2011-07-12 10:44:21)(良:1票)
57.  おとうと(1960) 《ネタバレ》 
崑てモダンなんだけど、日本の家の暗さを描くと一流なんだ。日本の家屋の古さにモダンを見ている。描かれていることは陰湿と言ってもいいのに、観ている印象から言うと、湿り気が感じられない。田中絹代の母が、一家のあまりの「背教的態度」に、ああーと絶望の声を上げるとこなんか、陰湿さであるはずのものが客観的な笑いを生んでいる。この距離感が、崑のモダンたるところ。暗い話を、監督は一緒に閉じ籠もって暗く見てはいなく、外から見ている。田中・岸田がひっそりと話し合ってるあたりに漂うユーモア。弟の内面をほのめかすシーン、死なせた馬が可哀想と繰り返したり、アイスクリームで人に伝染させちゃいけないと言う場面などでは、常に姉を立ちあわせている。姉の目を通した弟にしている。そんなに悪い子じゃないのよ、って。姉にだけにはそう見せたい弟の甘えでもあるのか。そういうとこに、この二人だけの親密さが漂う。あるいは鍋焼きうどんで姉を試そうとするあたりも。外の人間に向かわない自分たち姉弟だけで閉じている親密さを、これじゃつまんないな、と弟が病床で述懐するところが切ない(これがけっきょく彼の最期の言葉になったのか)。日本映画では、ラストをピタッと決めるのがうまく出来ないのが多いんだけど、崑はうまいね。パッと断ち切る鮮やかさ。俳優では暗い田中絹代が素晴らしく、彼女の長い俳優歴のなかでも異色の代表作と言っていいだろう。
[CS・衛星(邦画)] 7点(2011-06-30 12:15:48)
58.  お姉さんといっしょ
うわっ、半世紀以上も前の西武新宿線中井駅だ(ローカルな感動で申し訳ありません)。やがて山手通りとして混雑する線路を跨いだ道もあるし、弟が迷子になって帰ってくるとこは妙正寺川ぞいのあたりではないか。ロケもそこらへんとは限らないわけだが、坂が多いのはあそこらへんの特徴(学校は高山小学校と読めたが三鷹にあるやつだろうか)。古い映画で銀座や上野はよく見られるが、こういう山の手の住宅地は珍しかった。別に中井に住んだことがあるわけではないが、知ってる場所の昔が出ると嬉しい。廃墟の空き地ってのがまだあり、崩れ残ったレンガ塀の上を子どもたちが歩いて遊ぶとこでは感涙した。家にテレビはなくラジオもたまにつけるだけ、商店街での和服に割烹着姿の買い物客の比率の高さ、などなどに、いちいち反応させられた。こういうのが劇映画鑑賞の態度として正しいのかどうかは分からないが、じっくりと見させてもらった。つくづくあらゆる映像は記録だと思う。お姉さんをやった伊吹友木子って、すました奥様なんかをよくやってた女優さんの少女時代じゃないかと思い、ネットで検索して中年の顔を見ようと思ったら、最近の写真らしいお婆さんの顔しか出てこなかったので確認できず。えーと話は、お父さんが出張、お母さんが病気で田舎に療養、留守を預かるお姉さんと小学低学年・未就学の兄弟、三人暮らしのあれこれ。田舎のお祖母さんが来たり、りんご売りに気を取られて迷子になったり、といったエピソードで50分をつなぐ。もっと「けなげな留守家族」を売り物にするのかと思ってたら、普通に「わんぱく」で良かった。
[CS・衛星(邦画)] 6点(2011-06-21 12:22:56)
59.  オリヴィエ オリヴィエ
この題名、本当は前半が手書き、後半が活字なの。家の内側と外側、あるいはプライベートなものと公なもの。弟が不意にいなくなり、不意に現われる、その家族のありよう。男二人女二人の関係が多彩に組み合わされ、すべての男と女の間にはエロス的な線が引かれる。成人後のオリヴィエの気味悪さはなかなかなものである。この気味悪さって、欧米の映画に出てくる東洋人の薄ら笑いに近い。正体不明。なに考えてるのか。家庭を憩いの場としてでなく、緊張の場として見ている。姉の超能力が何か唐突に思えたんだけど、彼女は自分の能力が弟を消してしまったのではないかと思って取り乱し己れを罰したのか(タバコの火)。この事件をなにかの一点に集約させていくって言うより、それぞれの反応を見たかった、って映画らしい。見終わって、だから何なんだ、って気にもなる。エロス的に他人を取り込んでいく「家族」の気味悪さ、とか、「家」の脆さよりもしたたかさ、とか。
[映画館(字幕)] 7点(2011-05-26 09:47:51)
60.  オルランド
ややこしい。男から女に変身するオルランドを女性が演じ、エリザベス一世を男が演じている。原作・監督ともに女性。キートンのような憂い顔の主人公、「男の人は先のことを考えすぎるのよ」とロシア少女に言われる。彼のメランコリーは何なのか。選ぶスリルのない生活、老いない、恋をしない、詩は読むばかりで作れない、戦さにも加わらない。ならば選ばない人生の女に変身しよう、ってことか。選ばれる人生、でもそれも拒む。ただ子どもを産み落とす。選びもせず、選ばれもせず、昏睡になっても心臓の鼓動は聞こえてくる、それでも生き続けること。話のツボがよく分からないんだけど、変身するってのが適応しようとすることなら、つまりどちらの性も、それ以上でも以下でもなかったって話なのか? 画づくりにはグリーナウェイの影響ありと見た。音楽のあるシーンのほうが勢いがある、ってところも似てる。
[映画館(字幕)] 6点(2011-05-23 10:14:58)
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