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なんのかんのさんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

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21.  牧野物語 養蚕篇 -映画のための映画-
『ニッポン国古屋敷村』への準備のような二本。『三里塚・辺田部落』でつかんだ「農業の死」というテーマを展開していく。日本でいま進行している米作りの死の前に、養蚕業の死ってのがあったわけだ。国の柱としてもてはやされながら見捨てられていった産業と、それに付随する技術、それを記録しておきたいという気持ち、そういったことを表には全然出さないけれど、小川の仕事を通して眺めると、この「お蚕(こ)さま」への視線に当然のようにそれが見えてくる。手間を掛けることが楽しみになっていくような仕事のありよう。現在はいかに仕事から手間を省いていくか、ということに努力しているが、それが仕事を「苦役」にしてしまっている。また仕事の内容も完成の手応えの感じられないほど細分化され、工夫しようのない「苦役」になっているのだが。かつての労働が苦役ではなかった時代、品質が上がること・生産の効率が上がることへの手間をかける工夫が、そのまま楽しみになっていた時代。もちろん上部による搾取など経済的な苦しみはいつの時代もあったが、少なくとも仕事の現場では理想的なありようが、ここにはあったのではないか。冒頭、木村サトさんのおかあさんが伝説を語る。最初のうちは一生懸命標準語に近く話そうとしているのだけど、次第に地元の言葉に変わっていくのが楽しい。火事をきっかけに上の代がサトさんの代に替わった、そういうカッチリとした村社会の切り替え。かつての華やかなころの思い出を語らせるのも好きで、絹の服で学校に通った、とか。蚕が上に集まると蚕棚(?)がぐるっと回転する仕掛け、こういった工夫の楽しみこそが、本来の労働の手応えだと言っているよう。『三里塚・第二砦の人々』で、地下壕の換気口を工夫している農民の自慢げな顔を思い出した。
[映画館(邦画)] 7点(2011-08-26 09:52:37)(良:1票)
22.  魔人ドラキュラ
恐れる村人たち、迷信を笑う若者、霧が流れて古城へ向かう道、と何度も見てきたような筋運び。でもこれがドラキュラとしては一番最初なんだろ。伯爵家のセットがなかなかよい。高い天井、右からさす月光、走り回る怪しのネズミ。蜘蛛の巣を通り抜けてしまう伯爵。このゆっくりとしたしゃべりと歩きは何なんだろう。もうほとんど能の世界。死ぬことを許されぬ者は、世の東西に関わらずこうなるのか。「ゆっくり」のモチーフは手の動きも支配する。常に最初に出てくるのは手なの。棺から出てくるのもまず手から(フランケンシュタインの怪物で最初にピクピクし出すのも右手だった)。手は「つかむ」に通じ、ゆっくり追い詰めていく手、って感じが怖いんだろう。おそらく人体の中では最も速く動かせるものが手で、それが相手に気づかれぬようにゆっくりつかむ準備をしている、って怖さか。もう確実に確保し終えてしまっていて、あとはゆっくり賞味するだけだ、という感じもあるな。それと怪人ものでは、特色ある弱点がいい。魔除けの草、十字架、昼の光、等々。弱点ではないが、鏡に映らない、ってのも大事だね。
[映画館(字幕)] 7点(2011-08-16 10:08:37)
23.  まあだだよ
黒澤が最後にまた師弟関係を描いた。そしてそれは成功したのかというと、その判断は下しづらい。私はいままで黒澤映画を観てきて驚くほど世代の違いを感じなかった。優れた古典が同時代性を持つ証明として観ていられた。それが今回初めて、明治生まれの人の映画を感じたのだ。正直に言うと、ここで描かれる師弟関係があんまり麗しく感じられないのだ。先生が何か言うごとに「こりゃまいったなあ」とか「先生にはかなわないや」などと言うのが、お世辞や追従笑いにしか見えない。『椿三十郎』の三船敏郎と金魚の糞たちに一番近く見えてしまう。でも監督はそれを麗しいと示している。こちらは微笑ましさを強制されているようでたまらなかったし、摩阿陀会のはしゃぎぶりはほとんど恐怖であった。肯定とか否定とか言う以前の「わからない」というのが正直な私の反応である。純粋な先生を保護したくなる気持ちがポイントのようなのだけど、小さな集団の中に閉じてただ先生が上機嫌であるように動き回る人々、先生をお神輿のように担ぎ上げるのが敬愛ってもんじゃない、と思った。といってきっぱり否定も出来ないのだ。何かそれなりの倫理がありそうなのだが、実感として納得できない中途半端な気持ち。これは映画の出来不出来と言うことではなく、世代のギャップなのかもしれない。監督自身はこれに似た師を持つことが出来たのだろう。その麗しい関係をフィルムに残したかったのに違いない。しかしそれを麗しいと感じられる文化そのものが変質してしまった。監督がこういう師弟関係を麗しいと思っているその熱気だけは伝わってくるのだけれど、それは空回りを続け、ただ明治に生まれた人の遥けさだけが心に残ってくるのだ。黒澤は終戦直後の時代をリアルタイムで記録していってくれた。この時代を過去として描いたのは本作だけである。先生と弟子たちが野良猫を探し回っていたころ、町の反対側では志村喬と三船敏郎が、刑事の先輩後輩として野良犬を探し回っていた。時代の理想を探し回っていた。そして今その時代へ向けて逆の方向から、監督は明治の理想を振り返りに戻ってきた。そう思うと、この和気あいあいとした作品に、明治の人の伝達不可能になってしまった社会への幻滅が感じられなくもない。なぜか複数の鬼に対して一人でかくれんぼをしている少年の心象風景、友だちに発見される期待から目をそらし、夢の夕焼けに溶け込んでいく孤独な少年…。
[映画館(邦画)] 7点(2011-08-15 10:00:00)
24.  マルメロの陽光
道の向こうから画家がやってくる。カンバス作り。マルメロと向かい合ったセッティング。対象にマス目を作っていく。基準。足の位置も決める。不確かに流れゆく世間のなかにあって、ここだけピチッと決まっている関係。糸を垂らすのが『エル・スール』を思い出させるが、この下向きのオモリは、ゆっくりとした重力・時間を暗示していたようで、やがてマルメロの実がゆっくりと沈下していくことにつながっていく。ピチッと決まったまま止まってくれず、時間の中で絶えず更新していかねばならないもの。けっきょく木をピチッとした画に移し替えるのは無理で、たわみにつれて永遠に描き直さねばならない。一緒に生きていくってのはそういうこと。最初は目に見えなかった時間も秋の深まりとともに立ち現われ、画家はついに追いつけない。時間の勝利。マルメロを輝かせていた光、光はすべてを鉱物と灰に変えていく、って。理想的な絵画とは、時間の変化を織り込んだ積分値として存在するのか。なんか中国の古典の寓話にでもありそうな話を映像化したような作品で、私にはちょっと高尚すぎた。後半画質が急に悪くなるのも、この監督の場合つらい。それとも単純に少女が出てこなかったのが物足りなかったのか。これ観てからかつての二本の少女映画を思い返すと、やがてオバサンになって腐敗していくものとして少女を見てたのかなあ、この監督。
[映画館(字幕)] 7点(2011-07-27 12:18:09)
25.  マルコムX
この監督は最初のころは、ホームドラマ的な部分に冴えを感じていたので、そちらを伸ばしてほしかったんだけど、ま、これはこれで熱気が感じられます。ただマルコムのカリスマ性みたいなものが、D・ワシントンだとあまり感じられないな。スパイク・リーが出ると画面がイキイキするんだけど、後半彼の出番がなくなったぶん生真面目になってしまった。対象化しづらくなったってことか。かえって面白いのは、彼がブラック・モスレムに入ったあたりのところ。現実なら一番人間味のないところがかえって面白く、悪友どもが笑ったり、狂ったかと言ったりする。師からの裏切り後こそ、一番マルコムいう人のポイントになるとこだと思うんだけど、そこがちと物足りない。まだ映画化するにはナマすぎる人物だったんだろうか。白人が『JFK』作ったんなら俺たちゃマルコムだ、って気合いが先行しちゃったって気もする。けっきょく穏当な人だったって結論ぽくなり、これじゃキング牧師と同じになっちゃうな。アメリカ映画の限界か。
[映画館(字幕)] 6点(2011-07-11 12:12:33)
26.  迷子の大人たち
葬式で始まり結婚式で終わる、ってことでコメディ。豪華キャスティングはどれも狂気を秘めてる役者で、S・マクレーンのヒステリー、M・マストロヤンニの夢遊、K・ベイツは『ミザリー』の記憶、J・タンディは『鳥』の記憶、まっとうそうなM・ゲイ・ハーデンが息子ともども半分狂った役で、いわゆる「ちょっと風変わりな人々」もの。それぞれに見せ場を与えてあるため、それぞれに少しずつ物足りなさを感じる。心の傷を乗り越える勇気、ってのはアメリカが繰り返し描くモチーフで、アメリカ文化を構成している底辺なんだろう、みんな立ち直って人生を生き始める。一人の男の登場が、ドローンと淀んでいた女子どもたちを生き返らせるの。それも強い男ではなく柔らかい男ってのが、この20世紀末の映画なんだな。時代設定は60年代末なんだけど。アポロ月着陸も歴史になったのか、と当時は思ったものでした。メッツ優勝なんてのも向こうではもっとピンと来るんだろう。時代を表すのに歌は使わなかった。「ミセス・ロビンソン」以外。
[映画館(字幕)] 6点(2011-07-08 10:06:24)
27.  マヅルカ 《ネタバレ》 
色男・女たらしを描くと、この時代のドイツの右に出るものはないか(フランスよりも濃い気がする)。1935年のウィーン。真のヒロインが登場する酒場のシーンの頽廃感。バックに孔雀の羽根のようなデザインで姿を現わし、左手を腰に当てて、垂れたテープをかき分けながら歌って歩いてくる感じ。絶対に何か起こらねばならない、というワクワク感が満ちる。何しろ時代が下ってからこさえた時代色ではなく、まさに当時の空気なんだろうから。そして「何か」が起こって、映画は前半と後半にきれいに分かれる。それがどう重なっていくのか、っていうところが本作の推理小説的楽しさ。前半での女性の訪問が、後半で歌手の側から繰り返されたりする謎解き的楽しみね。物語の芯は、この時代に汎世界的にあった型で、何の作品がルーツかなんて確かめようもない人情話の世界なんだけど、やっぱりホロッとさせられる。警吏が、前に禁じたスカーフをそっと掛けてやったり。それと知らぬ実の子が礼を言って、空想の抱擁があって、歩いているうちにバックが輝きだして、となるの。前半で、女たらしと娘が踊るとこで、カメラと一緒にぐるぐる回ったりしてたなあ。
[映画館(字幕)] 8点(2011-01-18 11:02:57)
28.  マイ・ライフ(1993) 《ネタバレ》 
『ゴースト』や『ジェイコブス・ラダー』のシナリオの人だってんで期待したけど、それほど凝った話ではなかった。生まれてくる子に、末期ガンのパパが生前に作るビデオ、って趣向。ヒゲの剃りかたや、自動車の修理の仕方や、せがれにしたいことが、圧縮され、意識化される仕組み。「普段」の暮らし、というもののかけがえのなさが迫ってくる(なんか日本のほうがこういうの得意そうだけど、ソーントン・ワイルダーの芝居「わが町」ってのもそうで、アメリカにはけっこうこういうウェットな面がある)。超音波画像で子どもを出産前に見られるようになったし、こうして死後に向けた画像も残しておけるようになったし、「映像画面」というものを通して、今まで不可能だった出会いが可能になる拡がりが起こった。ある意味では人生の拡大。しかしその進歩を謳歌するだけにしないのが、あの一見合理万能の国の「気の弱さ」みたいなところで、そういう「人生を拡げる」科学に対する「人生を深める」もの、ってのを持ち出してこないと落ち着けない。それがあいかわらず東洋の神秘なんだなあ。それとホスピスの看護人が黒人と、アメリカ映画では精神面は有色人種が担うという絶対の定理がある。いつもそうやって釣り合いを取ってると、もうただの様式になっちゃって、そういう「気の弱さ」の本体を一度ちゃんと突き詰めてみたほうがいいんじゃないか、と老婆心ながら思ったりする。
[映画館(字幕)] 6点(2011-01-15 10:33:41)
29.  マンハッタン殺人ミステリー 《ネタバレ》 
これなんか別にテーマを掘り下げるとか言うんじゃなく、ほんとに軽く作った感じなんだけど、うまいよね。D・キートンの倦怠主婦のイキイキぶりが眼目で、「巻き込まれ型」ならぬ「強引な自分からの巻き込ませ型」ミステリー。現代生活における最大の謎は「隣人」ということで、『裏窓』の匂いもある。忍び込んでしまうあたりの、やり過ぎによるイキイキぶり。眼鏡をベッドの下に忘れる、いうオチもついて。死んだはずの夫人を目撃してから第二幕。エレベーター、追跡、溶鉱炉というトントン拍子の展開も何かおかしい。この人の映画では「4人」というのが一番安定するみたい。男2女2で、それぞれ線が引かれあう。そして最後に『上海から来た女』のスクリーン裏で、さらに鏡を使ったシーンで、視覚的なポイントを作っている。
[映画館(字幕)] 8点(2010-12-13 10:09:23)
30.  マダムと女房
本格的トーキーというものを、歌ではなく「騒音」で勝負したところが、ユニーク。ま「本格的でない」トーキーではすでに歌を聞かせていたが(たとえば溝口の『ふるさと』)、そうじゃなくて、あくまでドラマなんだ・我々が作っているのは歌の添え物じゃないんだ、という映画人の意地が感じられる。ネズミを追うために猫の鳴きまねをした後、本当の猫が鳴き出したときの渡辺篤の、俺じゃないんだよ、という田中絹代向けの表情などよかった。田中絹代と伊達里子が、対比されていたんだな、この時代。モダンまるだしの伊達マダムに対して、どこか古風で田舎っぽい田中女房。でも落ち着いた小市民の主婦、というところ。『伊豆の踊子』(同じく五所監督)より前だし、若いんだけどね。ラストはほのぼのと「マイブルーヘブン」、やっぱり音楽で締める。この時代の住宅地の風景は、なぜかとても懐かしい。
[映画館(邦画)] 6点(2010-11-11 09:59:39)
31.  マイ・ガール2
まあ「幻滅を越えて」というやつで、母に対する抽象的な神格化が、具体的な愛着に落ち着いていく経過。移民の街としてのロスが描かれる。日系人にブダペスト自動車修理所。このアンナ・クラムスキー嬢、前作でちょっと気になってたんだけど、少女から娘へと成長してましたが、なんか微妙に味わいは失われていた。ここらへん変わるお年頃なのね。少女のときに見せた味わいを持ったまま、娘に成長していくってのは難しいもんだ。あらためて少女スター出身のスターの偉さ、あるいは彼女らがそこを乗り越えるときにあっただろう葛藤を思った。相手のオースティン・オブライエン君てのには、もう少し見せ場を作ってやっても良かったんじゃないか。歴代大統領でニクソンぐらい安心してからかいの対象になるのはないな。
[映画館(字幕)] 6点(2010-10-22 10:06:25)
32.  マーヴェリック 《ネタバレ》 
西部劇の遺産がたっぷり。その遺産を食い潰しているだけで、新味を盛り込めないところが弱点といえば弱点だが、遺産があるだけいいさ。最後の場以外は不必要な殺人が一つもないのが正しい娯楽の姿勢。カタギの人間は殺されない。老人は天寿を全うする。かつての西部劇黄金期との違いでは、インディアンの扱いが難しくてネックになるのだが、これは成功。ただのイイモンでなく人間味を出せた。最初のポーカーのときの早撃ち男のような、不気味な顔を適度に配置して、コメディの隠し味にする。主役二人の騙し合いの楽しさ。崖でヘルプと言わねばならぬ、ああいったコント、二枚目半の主人公ものの味って好きです。脚本は『明日に向って撃て!』の人。終わりがちょっとダラついたが、楽しめた。
[映画館(字幕)] 7点(2010-09-17 09:31:42)
33.  マルサの女
伊丹監督の一番の業績は「情報映画」って新しいジャンルを作ったこと。一斉査察がドキドキさせたけど、調査の部分が興味深い。シーツの洗濯数から調べていったりする。それらの情報が大きいうねりを作ってくれないところがちょっと不満だけど、こういう題材を見つけてくる才能は抜きん出ていた、もっと大手会社の製作部に見習ってもらいたかった。ただせっかくドライに行ってんのに、山崎と宮本を人情で繋げようとしたりするのが分からない。この人はひどく自分の意見が映画に出ちゃうのを怖れているみたいなところがあって、ドライにいくか、さもなければ紋切り型でいくかってことになる。でもこういう「社会」を扱った作品だと、やはり自分の立場ってのがどうしても反映してしまう方が本当じゃないだろか。どっちかの側につけっていうんじゃなくて、両者の執念がキリキリと詰め寄ってるところをヒョイとかわすような視点があってもいいんじゃないか、などと思ったものでした。山崎努の役名が、『天国と地獄』でさかんに電話を掛けていた相手の「ゴンドウさん」というジョーク。
[映画館(邦画)] 7点(2010-08-28 09:59:58)(良:1票)
34.  マスク(1994) 《ネタバレ》 
あくまでマンガをフィルムにする、という点でのSFX。あごがガクンとなったり、目が飛び出したり、といったマンガ的表現を実写にする楽しみ。突然哀訴したりする「断絶変化」がジム・キャリーの持ち味なんだろうが、ちょっと笑いとして荒々しいというか、躁病的な過剰さが感じられ、やや不気味なタッチ。たぶん意識的に薄っぺらな笑いを狙った最初の男優というところに、彼の映画史的意義があるんだろう。このころから「意図的な薄さ」ってのをしばしば映画で感じるようになる。警官隊を前にルンバをやりだすあたりは笑えたが。悪女風と善玉女風とでヒネリが一応シナリオに用意してある。犬の使い方も、鍵を取ってこさせたり、フリスビージャンプで仮面をさらうなど定型だがソツがない。犬自身が変身してしまうのも悪くない。爆弾の処理で飲み込んじゃうってのも、馬鹿にしてていいなあ。なんだ、けっこう楽しんでたな。ハイ、すみません、薄っぺらな笑いって本質的に好きなようです。
[映画館(字幕)] 6点(2010-06-03 11:56:12)(笑:1票)
35.  マックス、モン・アムール 《ネタバレ》 
愛とは拘束なのか、いう問題を大島はずっと追い続けていて、夫は妻を拘束したい、妻はマックスを事実上拘束している、って図式。面白くなってくるのは誕生パーティのシーンからかな。カリエール好みの状況。犬の鳴き声で種類を当てているところにマックスの鳴き声が。上流社会とチンパンジーの取り合わせがカリエール的。シークエンスの終わりをアッサリさせてすぐ次につなげてうまさを出しているところが多かった。『戦場のメリークリスマス』ではフェイドアウトを多用していたと思うけど、今回はなかったんじゃないか。演出スタイルがどんどん変わっていくのが、まあこの監督のスタイルで、長回しの『日本の夜と霧』があれば、短いカットの『白昼の通り魔』もやってみる、といった感じ。探偵の二度目の登場「相手はサルでしたよ」がおかしい。鍵穴から覗けばいいのよ、と言われた夫も含めてすべて鍵穴に消えていくラスト、何かずるいって気もしましたけどね。
[映画館(字幕)] 6点(2010-05-10 11:57:42)
36.  マン・オン・ワイヤー
この手の人は、単に「目立ちたがり屋」と思っていただけだったが、その「目立とう」という意志はハンパではなかった。芸術の根源を見た気がする。だってこれ、金になるわけでなく、あとには逮捕が控えているだけ。そこで幾多の困難を乗り越えてプロジェクトを進めていくのは、目立ちたい、という強力な意志がなきゃ出来ない。義務でなく、公言したわけでもなく、いつでもやめられる、という状況下で、決行にまで至る。目立ちたい、もここまでくれば芸術衝動と言っていい。ただの土器に凝って火炎の縁を付けたのだって「目立ちたい」だっただろうし、引っ込み思案な役をやらせると天下一品という俳優だって、目立ちたくて養成所の門を叩いたのだろう。「目立ちたい衝動」は芸術の根幹を成すんだな、と思いを新たにした。再現映像が多い、純粋なドキュメンタリーではないが、中心にある「人への興味」が生きているので、これでもいい。綱渡りに至る準備が見どころ。映画ではいっさい触れてないが、どうしても裏に同時多発テロの記憶が揺れ、彼らの細緻な準備と対照的に、飛行機で突っ込むという大ざっぱな行為で消えていったこの舞台を、皮肉に思い返す。政治と芸術の力関係の落差に暗澹とした気分になりながらも、政治の大ざっぱより芸術の細緻のほうに加担せねば、と改めて思わされた。
[DVD(字幕)] 7点(2010-04-16 12:00:52)
37.  マークスの山
長編推理ものは映画には向かないんではないか、とつねづね思う。清張ものでもいいのは『張込み』とか『影の車』とか、すべて短編の映画化で、長編原作のは緩いでしょ。連続テレビドラマ向きなんだな、長編は。推理ものには「説明」の部分が必要で、でもそれを徹底するには言葉に頼らざるを得なくなり映画が死んでしまう、それを抜くと、観客は「…ということなんでしょうなあ」という曖昧な気分のまま映画館を出ていくことになる。これは後者で、現在と過去とが同時進行で描かれる暴力シーンで映画的に何となく説明したことになっているが、曖昧。でもベストセラーの映画化ってこうなるの多い、読んだ人だけを対象にしてるのかなあ。映画ならではの緊張は、終盤の事情聴取に対して、前を向いたまま微動だにしない小林稔侍のカット。萩原聖人が無垢の気味悪さをよく出していた。彼が山に行くまでを、列車の切符を買うとこから丹念に追っても良かったなあ。
[映画館(邦画)] 6点(2010-04-06 11:56:06)
38.  満員電車 《ネタバレ》 
乾いたユーモア、人工的なセリフ回し、と特徴は備えているけど、けっこう暗い作品。音楽のせいもあるか。冒頭の傘の卒業式からして「混み合っている」イメージで統一されていく。バスがすれ違うところ、電車、通勤風景、街頭。つらい人生をこれでもかこれでもかと強調する。タッチはユーモアなのに、暗い。気づいた構図として、部外者のこっち向きの顔を隅に置いておくというのがある。時計屋でメガネをのぞいている男とか、船越英二の部屋での川口浩とか、ちょっと不気味な神経症的雰囲気。それと室内の照明、独身寮の空漠さを出すために過度にしたり、影を強調するために低くから当てたり(川崎敬三が訪ねていったときの小田原の実家、そしてこういう低い照明は晩年に至るまでずっと彼の好みになる)、デフォルメの効果。もっとハメを外してもいいんじゃないかと思うところもあるけど、その時代における貴重な一歩を踏み出している映画であったことはよく分かる。ラスト、小さな掘っ立て小屋を主人公は母と一緒に悲壮になって守り抜こうとしているのである。
[映画館(邦画)] 7点(2010-01-28 11:59:18)
39.  待って居た男 《ネタバレ》 
山田五十鈴がはしゃいで探偵気取り、旦那の長谷川一夫がこっそり解決、って形。全然戦争中の気配がないシャレたタッチ。単純にまだノンキだったのか、意識的に娯楽に徹したのか(翌年の『ハナ子さん』となると、娯楽ではあるが戦時色濃厚)。なかなか主人公たちを登場させず、若奥さんの周囲に起こる不安な出来事で雰囲気を作っていく、材木が倒れたりとか。前作の犯人役の使い方もにくい。前作の駕篭かきにあたるお笑い担当は岡っ引二名、これが山田の手下となって走り回る。一方がもう一方をまね、犯人を捕まえたぞー、って一階と二階の廊下を走り回る場面はワクワクする。さらに金太のエノケンも登場、いろいろ教えてくれてありがとう、を繰り返すが、そう破天荒なトリックスターではなく、おとなしい役どころ。どちらも超主役級でありながらトーンのかなり違う長谷川一夫とエノケンが同一画面内にいると奇妙な感じである。あと言いたいことはいくつかあるが、犯人あてのものなので勘のいい人には分かっちゃうことを言っちゃいそうなので黙ってる。ちゃんと人妻役はお歯黒をつけていた。
[映画館(邦画)] 7点(2009-12-17 12:01:34)
40.  幻の光
自転車から自転車へ。人が消えていく周囲を自転車のモチーフがめぐって統一感を出している。話のポイントは、イクちゃんの死を驚かせ、しかし後半で、そういうこともある、と納得させていくところだと思うんだ、そういう意味では成功している。謎が現実の中で解かれるというんじゃなくて、現実が謎と溶け合ってしまう、というふうに。映画のスタイルがそういう方向なの。ただ実感を欠くんだよね。とっても美しく詩的なんだけど、その分、散文の持つ実感からは離れていく。そういう映画なんだから文句をつけるのは間違ってるんだろうが、この実感のなさは映画の手応えとして少々物足りなくはあった。締めが葬列ってのもちょっとつまんない。美しくはあるんだけど、死と離れたもので、死につながる何かがあればいいと思った。子どもらが遊ぶシーンも美しかったなあ、水を張った田の脇を駆け抜け、廃船に立ち。
[映画館(邦画)] 6点(2009-11-28 11:52:44)
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