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1.  ライトスタッフ
科学の先端での「職人気質」を賞揚する。人間臭さの連帯感みたいなこと。最後のドンチャン騒ぎのバーベキューパーティで最も優れたパイロットの名を言いかけて、あとはマスコミ向けのジョークに変えてしまう。副大統領に会わないグレン夫人をめぐるゴタゴタで一致団結する。この「誇り高い職人たち」を、夫人たち女の理論がさらに対象化して笑えればもっと良かったんだけど。室内がやたら暗いのは、青空の勇気の世界と対照させているのか。瑣末なエピソードの堆積こそが歴史である、という考え方。出来事を全体で捉えようとする。宇宙ものはSFと決まっていたのに、本作あたりから「歴史」になった。へー、これアカデミー作曲賞とってんのか。チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲もどきで、宇宙に出ると「惑星」の火星や木星が鳴って、かなり安易と思ったが。
[映画館(字幕)] 7点(2013-04-30 09:27:28)
2.  ラジオタウンで恋をして 《ネタバレ》 
原作がバルガス・リョサ(いまではノーベル賞作家)だっていうんだけど、特別南米文学の雰囲気はない。アメリカ南部の話。ラジオでソープオペラ(まあ昼メロと思えばいいんでしょ)が流行っていた時代で、それのパロディになってるらしいけど、もとを知らなくても、まあ笑える。大袈裟な音楽、ご都合主義的なラストの畳み込み、「兄妹じゃなくてイトコだった、いやイトコでさえなかった」、と「実は」「実は」が続くあたり。アルバニア人への悪口のくすぐりもあり、ちょっとくどかったけど、笑った。ドラマの中の近親相姦、現実のなかでの叔母甥の恋、15歳の年の差、と「常識に逆らう愛の物語」というのが芯になってはいる(「愛とは常識に逆らうもの」というか)。ただ一本の映画として見どころが焦点を結んでくれないんだ。
[映画館(字幕)] 6点(2013-02-17 09:50:18)
3.  ラスト・ボーイスカウト 《ネタバレ》 
初めはいいのよ。まず社会的な大事件をポンと置いて、次にうらぶれた主人公へのつまらなそうな依頼があって、それがだんだんつながっていく段取りね。古風なハードボイルド風の気の利いたセリフもあり、キザと悪趣味のギリギリの線で面白く、でも展開がザツなんだな。こういうのではよくあるんだけど、主人公以外はあっさり殺すのに、主人公だけは手をかけて拉致するだけで、あとで逆転されてしまう悪漢、とかさ。良かったのはしつこい殺し屋か。テープ早回しすると絡まっちゃうってのはおかしかった。これトニー・スコットか。自殺記事ではもっぱら“『トップガン』の”と書かれていたが、『トゥルー・ロマンス』が面白かった記憶。
[映画館(字幕)] 6点(2012-08-27 09:47:16)
4.  襤褸の旗
部分的には田中正造をちゃんと対象化しているところもある。草野大悟が小作の苦衷を切々と訴えて離れていっちゃうとか。社会主義の煽動家の軽薄さなんかも、決め付けすぎてるけど、日本の社会派映画の中では面白い描写のほうだった。でもやっぱり全体として日本の社会派ものの基調である「嘆き節」からは抜け出せていなかった。心の深いところで無力感を「堪能」してしまっているようなとこが感じられるのよね。本当に勝ちたいと思っているのか、それよりも滅んで「恨みの鬼」になるのを望んでいるようなとこがあって(けっきょくそのほうが気楽で、江戸の町人時代から続いている「狂歌作って溜飲下げるだけで満足しちゃう」性癖)、日本人のこういう傾向って分かるからヤなんです。けっきょく理より情で動くの。製作当時は三里塚の強制執行と重なってある種の感慨もあったのだろう。天皇への直訴のところなんか、もっと盛り上げられそうなんだけど、左翼の作家としては天皇を最終判定者とする「直訴」の扱いは困るとこ。
[映画館(邦画)] 6点(2012-08-10 09:59:43)
5.  ラヂオの時間 《ネタバレ》 
この人の基本モチーフは「その場しのぎ」を重ねてひたすら横滑りし、とんでもない地平にまで至ってしまう面白さ。リツ子をメアリー・ジェーンへと駒を一つ移動しただけで、次々と横滑りが起こり、海のないシカゴへ、ダムの決壊へ、漁師がパイロットへ、さらに宇宙飛行士へと、どんどん非日常へ拡散していく。芸術と仕事との関係とか、芸術者の署名の責任とか、副次的なテーマもあるけど、この拡散の勢いこそが本作の眼目。拡散に手を貸していく面々のキャスティングが楽しく、三谷組の役者と芸能界からの起用とのアンサンブルが見事。ただただ事態を面白がっているような井上順なんかが、すごくいいのよね。そういう芯まで「芸能界の人」と、「車のセールス」やってる実直な旦那・近藤芳正(疑惑に囚われている彼を横移動で捉えるとこが傑作)と、まったく地平の違う人たちがここに集められて、ドラマをこね上げていく祭のような楽しさ。いかにもこういうところにうろちょろしてそうな業界の便利屋・モロ師岡も忘れてはならない。世界が閉じてしまうのを壊そうとトラックの運ちゃんを登場させた意図は分かるが、なんか蛇足の印象。こういうコメディは閉じてていいんじゃないか。外の目としては我々観客がいるんだから。
[CS・衛星(邦画)] 8点(2012-06-26 10:29:18)(良:4票)
6.  ランブリング・ローズ 《ネタバレ》 
前半は裏返された『テオレマ』って感じ。“ゲスト”が家族全員を愛してしまうの。それが奔放なわけで、人の目には率直というより軽率、さらには淫乱と映る。社会はどこまで個性を許せるか、という話。デュヴァルが「一人の人間であると同時に、私はこの家の父(家長)だ」というようなことを言ったのはある程度正しいのであって、人は個人の世界と世間とをうまく調整して「世慣れ」ていかなくてはならない。しかしあくまで基本は個人でなければならないという原則がアメリカにはあり、その原点の確認をするのが母のダイアン・ラッドなわけ。原則主義の潔さ。ただしそれはタテマエの薄っぺらさとウラハラであり、子宮摘出手術うんぬんのあたりは、ちょっと演説倒れだった。これ監督は女性だけどシナリオは男性で、フェミニズムへの受け狙いを感じたのはヒネクレ過ぎか。後半ローズが保護されるぶん、ややしぼむ。あの母が膨らむからいいじゃないかと思われるかもしれないが、やはりローズ本人で勝負してほしかった。どうしても世間と折り合えないギリギリのところでのつばぜり合いを見せてほしい。単なる偏見の問題のレベルではなく、個人が人間の集団といかに戦っていくかという意気込みを見たかった。南部を舞台にすると生々しさが消え寓話っぽくなるのが利点だなあ。妹がときどきかわいい。リサ・ジャクブってのかな。
[映画館(字幕)] 6点(2012-02-02 10:17:37)
7.  ラジオ・フライヤー
一応ファンタジーなんだけど、でもファンタジーとしての枠組みがちゃんと作れてなかったから、ラストはヘンテコリンな気分になる。どちらかと言うと、児童虐待をめぐる社会派的な部分のほうに見どころがあったんではないか。眼を見せない義父。サングラスしてたり、子どもに目隠しされてたり、逆光だったり、それがラスト車で追いかけていくときに眼だけのアップになる。一つの表情としての顔はついに見せない。カントリーのBGMも不気味。近所の子どもたちもいじめてくるし、けっきょく母と子の兄弟だけ、血のつながった者だけしか心を許せない、という閉塞感が暗い。ベン・ジョンソンと約束したから、母親に心配をかけてはならぬという気持ち、あれが「父」的なものの象徴だったんだな。
[映画館(字幕)] 5点(2012-01-30 10:05:00)
8.  ラスト・オブ・モヒカン 《ネタバレ》 
昔の映画なら善悪をキッパリ割り切れたんだろうけど、そこらへんいろいろ気配りしなきゃいけない時代になって、さらに自然保護のメッセージも入れなきゃならないとか、キッパリ出来ない。演出もあんましうまくない。一行がヒューロン族の攻撃を受けるあたり、まず変な鉄砲玉野郎が二人ほど飛び出してきて、それからヒューロン側から奇声を上げていく連中を描く。これはやっぱし主人公の側にカメラを向けっぱなしにしといて、最初はなにかの聞き違いかと思っていた声が次第に左右で高まっていって大音響となり、そしてワラワラと湧いてくる、ってのがいいんじゃないか。ま、こういうストーリーの基本形を確認できる楽しみはあった。波乱の運命に巻き込まれる姉妹、副次的なカップルが悲劇を担当する、とか。まだ西部劇以前の「東部劇」の時代。ロングの場でところどころ美しいカットがあった。英仏両軍が降伏の交渉を始めようと向かい合ってるシーンとか。
[映画館(字幕)] 6点(2011-12-10 10:07:05)
9.  羅生門(1950) 《ネタバレ》 
黒澤は『虎の尾を…』から『夢』まで屋外でのドラマを好んだが、とりわけ本作は徹底していて、おそらく屋根の下に座っているはずの取調べ役人は姿を見せず、調べの庭のみを映していく(このときの塀ぎわに控えている証人たちの姿の美的正確さ)。あとは森の中。屋内の停滞している空気を本質的に嫌ったのだろう。流動している空気と一緒に呼吸していたい気持ち。そういう空気の流れの中に多襄丸も侍も妻も投げ込まれ、それぞれの証言を演じさせられる。ちょっとした気流の違いで、証言は大きく変わっていく、屋外にいるとはそういうことなのだ。それまでに映画の起承転結の文法はいくつかの型を生み出していて、いわばソナタ形式のような定型が生まれていた。黒澤はそこに変奏曲形式を付け加えた。同じテーマが変奏されていく面白味。もちろんアイデアを生んだのは芥川だが、それを映画に持ち込めると判断したのは監督だ。本来記録する装置だったフィルム、無意識に信頼を寄せていたフィルムだからこそ生じる変奏の面白さは格別である。うるさいぐらい音楽が鳴り続けるのも、その4つの変奏を強調したかったんだろう(4つめは音楽抜きでかえって印象深い)。大きな門というモチーフも忘れてはならない。監督は繰り返し映画に大きな門を登場させ、そこを人が通過する物語を描いた(『赤ひげ』ではそこに青年が入るまでの、『影武者』や『乱』ではそこを老人が追放されるまでの、『隠し砦の…』ではそこを突破するまでの)。これもラスト、子を抱いた志村喬がその非情の大門を通り抜けたようにも見えるのだ。おそらく封切り当時、捨て子や通りすがりの強姦はもっと生々しく受け止められるモチーフだったろう。黒澤の作品の中では理知的で異色作だが、彼の表現様式が十全に提示された名作だと思う。
[CS・衛星(邦画)] 8点(2011-12-05 10:19:01)
10.  ライムライト
チャップリンというとペーソスとかセンチメンタルとかウェットな印象がまず来るが、個々の作品を見ると、『キッド』や『街の灯』のような作品でもけっこうシャープでドキッとする悪意を含んでおり、ベトベト甘いだけの作家ではなかった。でもセンチメンタルなものが嫌いだったわけではなく、一度そういうものにドップリ漬かってみたかったのではないか、そんなことを感じさせる映画だ。この作品に意義があるとするなら、その「湿っぽいもの」へ思いっきり身を投げ出している彼のいさぎよさだろう。本作で、もしシャープな悪意を求めるとするなら、主人公の「老い」だろう(テリーがサクラを雇ったってのが残酷の要素になるんだけど何か中途半端で、あれ最初はサクラの笑いだったのが本物の笑いに呑み込まれていった、ってことなのか)、しかしここで描かれるのはあくまで「老愁」であって「老醜」ではない。それはチャップリンの任ではないのだ。だから歯止めをなくしたセンチメントはただただ溢れ返っていく。C・Cを敬愛する私たちは、困ったことになったな、と思いながらもそれを呆然と受け止め続けるしかない。いささか臭い人生訓を語り続けるC・Cにも、前半生であれだけ沈黙していたのだから好きなだけ語ればいい、と思う。ステージの袖で立てなくなったとパニックになるテリーのエピソード挿入のぎごちなさも、見ない振りをしよう。それぐらいの義理は、彼の前半生の傑作群への利息として払う用意がある。ああそうだ、この映画で唯一感じられた悪意は、キートンにヴァイオリンの足枷をはめて走れないようにしたいたずらか。
[CS・衛星(字幕)] 6点(2011-11-24 12:19:09)
11.  ラヴ・ストリームス
「愛の不条理」なんて言い切ってしまうと、途端に安っぽく聞こえてしまうが、でもカサヴェテスの映画って、そう言える。人は本当なら愛の中でこそ安らげるはずなのに、なぜ愛とリラックスは同居できないのか。そんな問いが、いつも聞こえてくる。そして登場人物は、またはしゃぐ。ボーリング場での男あさりは序の口。動物たちを家に連れてきたりして、白眉は30秒で夫や娘を笑わせようとする場。くつろぎを求めて疲れ果ててしまう、という彼のモチーフのエッセンスシーンだ。おどけふざけプールサイドでさんざんはしゃいだ後、後ろまわりでプールに飛び込むまでの30秒、あのまったくコミカルでないジーナ・ローランズが演じるだけに、その痛ましさと言ったらない。「演じること」のモチーフは夢の中のオペレッタになる。どの場もキレよりコクで勝負の監督。本作には姉と弟という神話的構図があり、家畜たちとの嵐の場なんか。神々しくすらあった。カサヴェテスは、じたばたしている人間を、ほとんど神のように尊敬を込めてコッテリと描く。人間のそういうところが好きなのだ、とでも言いたげに。
[映画館(字幕)] 8点(2011-08-08 09:38:37)
12.  ラスト・アクション・ヒーロー
お遊びの映画で、アイデアもそう大したものではないが、映画内映画が始まるときはワクワクする。ちゃんとコロンビアのマークが出て「ジャック・スレイターⅣ」となる。これが映画だと納得させようとするあたりがおかしい。街を歩いている人がみんな美人揃いじゃないか、とか、ビデオ屋の受付にこんな美人がいるはずないじゃないか、とか。ターミネーターがスタローンの代表作だったりする。あ、モーツァルト殺した人だ。ドーベルマンが指の合図でピラミッドを組むギャグが好き。最初っからそういう小さな笑い狙いの映画だと納得していれば、それなりに楽しめる。現実のニューヨークが、悪が善に勝つ世界として、反映画的状況として浮かび上がってくる、というテーマもあることはある。俳優と役との関係って、スターが持つジレンマなんでしょう。自分をコケにして立派すぎる役のほうから眺めるおかしみ。「向こう」へ行くと元気になる、ってのに一抹の哀愁があるね。でもこういう映画が作られること自体、アクション映画がこの当時困難になってた、ってことかも。荒唐無稽をそのままスクリーンで展開できず、ひとつ趣向を被せないと観客がシラけるようになってしまっていたのか。
[映画館(字幕)] 6点(2011-05-30 12:16:36)(良:1票)
13.  ライジング・サン(1993)
監督にしろ音楽にしろ、最良の仕事というわけではない。しかしカーチェイスの場は、普通音楽はほとんどリズムを刻むものだが、この人は自分のトーンを優先して、リズムを刻まない音塊で盛り上げていった。さすが。冒頭、カントリーをカラオケで歌うやくざで始まる。しかもその画面の中で『用心棒』(西部劇の血を引く時代劇)を引用したりして、両国の奇妙な絡まり合いを暗示。ちょっと違うんじゃないか、と言いたいところは多々あったが、黒人との混血で手に障害のあるアサクマ嬢が、日本が住みづらかったと言うあたりは、そうかも知れぬと思う。どこかネットリしてキレのないタイプだから、サスペンスには向かない監督だわな。
[映画館(字幕)] 5点(2011-04-14 09:59:31)
14.  ラ・ジュテ 《ネタバレ》 
剥製たち。静止画像だと、それが生きているのか剥製なのかの区別がつかない。そこが博物館だと知らされているので、過去に死んでいるので静止しているのだろうと思うが、こういう作りの映画だから動物園を描いても同じに見える。そこらへんの多義的な曖昧さが作品のポイント。寝ている女の顔の連続画像によるうつろいが美しく、そして静かに目をまたたく。実はこれ、昔スクリーンで、同じマルケスの『北京の日曜日』やレネの短編なんかと一緒に一度観てるんだけど、そのときの私のノートには「“過去の女”がまたたいたとこは動いた気がするが、巧妙なディゾルヴだったか」と自信なく記されている。今回は録画してあるので、観終わった後にさらにもう一度確認した。動いている。やっとはっきりしてスッキリした。このハッとさせる瞬間のために静止画映画という試みにしたのかも知れない。剥製のように静止していた過去のものが、生きてまたたくおののき。スッキリはしたが、スクリーンで何も知らずに観たときの、再確認できない・夢幻のような曖昧なまたたきの効果のほうが狙いだったのであって、余計な確認をしてしまったか、という気もした。
[CS・衛星(字幕)] 6点(2010-12-25 15:02:54)
15.  落葉樹
作者が取り乱している。息せき切って取り乱している、それを隠そうとしてない、それが良かった。大の大人が「おかあさん」と口にするときの、もうハニカミも何もないみっともなさを思い切って肯定してしまうところに、この作品の立地点があるようなのだから。小林桂樹はかつてテレビで山口瞳の「血族」をドラマ化したときも、母を思い出す初老の男を演じた。たぶん同じ原作者による映画『江分利満氏の優雅な生活』の小林を引き継ぐイメージでキャスティングしたんだろう。でもこのころの小林はかつてのヒョウヒョウよりも深刻な演技をするようになっていて、「血族」原作のハニカんだニュアンスはゴッソリ失われてしまっていた。しかしこの新藤作品では、その深刻ぶりが、かえって生きたようなのだ。照れながら語ってくれる山口瞳のような人もいてほしいし、こう取り乱して語ってくれる新藤兼人のような人もいてほしい。『江分利満氏』の小林桂樹と『落葉樹』の小林桂樹と、演技の変化に合ってうまく出会えたそれぞれの作品という気がした。前半、ほとんど民俗学の教育映画じゃないかと思われるような静かな家庭の風物のあれこれが描かれ、そこから一人ずつ葉が落ちるように家族が減っていく。コウモリ追い、狐火、夏の海、おもちゃを買ってとねだる…、などの記憶が淡々と綴られていく。その淡々の中に母を思う気持ちが、取り乱さんばかりにうねっている。社会派新藤監督作品としては異色作だが、けっこう好きです。
[映画館(邦画)] 7点(2010-08-09 10:35:51)
16.  ラウンド・ミッドナイト 《ネタバレ》 
親切とか友情とかいうよりも、もうこれは献身ですな。身を滅ぼして創造していく芸術家、それにインスピレーションを受ける生活人。この男がイラストレイターってのが、うまい設定。芸術家と生活人の境界にいる。彼の親たちのような「調和のある暮らし」をしてるわけじゃないし、また奏者のように確固とした自分の芸術世界を持っているわけでもない。その両者の間で宙ぶらりんになってるんだけど、ひたすら献身と保護で、芸術家と調和のある関係を生み出してしまう。彼が献身する主人公のサックス奏者のオッサンがいいんだ。デクスター・ゴードン。ボーッと立っててゆっくりゆっくり歩くの。表情はほとんど変化なしで、でもその分、酒をやめると決意するあたりはジーンとしてしまう。あと誕生会のとことか。ただボウゼンと座ってるだけなんだけど、味わいがある(演技の素人を使って味のある芝居を引き出すってのは、イタリアのネオ・リアリズムやら、清水宏やら、ブレッソンやら、映画史で繰り返されてるんだけど、これは映画ってものが「演劇」の発展したものでなく、あくまで「記録」の精神から出発してることと関係があるんだろうな)。日が射す海辺を少女と遊ぶ場面以外は、ほとんど夜か曇天の世界で空気がこもってる感じ。人と人が理想的な組み合わせで出会う、ってのにしみじみ感動させられてしまうのは、そういうことが現実には滅多にないからなんだろう。後を追いかけていったらオレンジジュースを注文していてほっとするところ、などジンワリ。
[映画館(字幕)] 7点(2010-07-24 10:06:12)
17.  落第はしたけれど 《ネタバレ》 
これはギャグの豊富さでは、現存する小津作品の中でも一二を争う。試験場のカンニングをめぐる連発の密度の高さといったらない。四番を教えて、の合図が飛び交う感じ。教授の背中のカンニングペーパーを取り損なって、腕時計に耳を当てるリズム。あるいは下宿の仲間たちのワイワイやってる内輪の雰囲気。それらを通して「腐る」感情と「意気揚々」とした感情が交錯する(泣いてた突貫小僧がサンドイッチもらうと手をピンと伸ばして意気揚々と退出なんてのもあった)。小津のサイレント期のシナリオを読むと、失われた作品も含めて「腐る」というトガキがやたら目に付く(しばしば斎藤達雄の役どころで)。そうなのだ、小津作品とは「主人公が腐る」ドラマなのだ。意気揚々としたい学生生活・サラリーマン生活が、なんらかの障害に遭い、腐らざるを得なくなる。不機嫌を抱えたまま誰かに甘えかかって解消しようとし、活動が停滞する。それをスラプスティックな笑いに持っていってしまうところが小津の天才。止められた大きな動きは、小さな無意識の動作となって現われてくる。本作では、机にのせた足のリズム、角砂糖を放り上げて口でキャッチする遊び、などなどに。そして卒業したほうが「腐り」、落第したほうが「意気揚々」とすることになる。それだって問題が解消されたわけでなく、単なる延期ってところが苦い。純粋にコメディとしても傑作だが、時代の記録としても優れた作品。
[映画館(邦画)] 9点(2010-05-31 12:04:32)
18.  乱暴者【ルイス・ブニュエル監督作品】
社会派的メロドラマ、あるいはその逆。立退き反対の人たちを英雄的に撮る、ってことは絶対にしない監督で、裏から攻める。裏切り者の視点。当人に裏切ってるなんて意識はない。なんかBC級戦犯に通じる話だ。肉はあるけど頭はない、これこそ庶民、ボスの言いなりにハイハイと実行していくあたりはいじらしくさえある。「親方のご恩を忘れるな」というのが彼に植えつけられたイデオロギーなの。娘への恋で自分の行為を発見していくってのは、安易といえば安易だけど、話はスッキリした。肉屋で働いていて肉がいっぱいあるのは監督の好みか。親方のとこのキャンディーじいさんが面白味を出す。ブニュエルが老人に対して、こういう愛嬌を感じさせる演出をするのは珍しい。ラストで鶏がパロマをにらみつけるのは、『忘れられた人々』との関係よりも、ブルートがかわりに持ってきた鶏だってことで見たほうがいいと思う。これは『エル』との二本立てで観たので、こっちはちょっと印象が薄くなった。三百人劇場という新劇用のホールで、ときどき映画もやってて、こういう「メキシコ時代のブニュエル」なんて嬉しい企画が不意にあったりし、要チェックのとこだった。しかしここもなくなったと聞く。
[映画館(字幕)] 7点(2010-03-22 11:59:20)
19.  ラヴィ・ド・ボエーム 《ネタバレ》 
この人の映画では、ついてない人がやたら出てくる。その自分の「ついてなさ」にうんざりしているのに、「ついてなさ」を過剰にどんどん受け入れていってしまう。その勢いに奇妙な爽快感すら感じられる。少なくとも彼らは、同情してほしいような素振りを見せない。まるでそれらの不幸が、自分が自由であることの証拠とでも思っているのか、人出に渡るのを惜しむかのように手あたりしだい受け入れていく。で本作、「若くて貧しい」芸術家のメロドラマが、カウリスマキの手にかかると、「もう若くなくてしかも貧しい」に変換されてしまうのだ。芸術家として名を成せるかどうかもう自信も挫けてきたころの、ふっと華やいだ一場面を掬い上げたよう。ピクニックのシーンがいい。これを若い連中がやってたらハナモチならない気分になったかも知れない。それをもっさりした中年男たちと、反メロドラマ的としか言えないミミというキャスティングでやられると、なんとも切なくていいのである。繰り返し現われる「花」のモチーフも彼らが冴えないからこそ生きてくる。まっとうな連中なら仕事をしているような時間に、中年の男女が花を摘んだりしていることが、ユーモラスであると同時に、どうしようもない切実さも伴って観客の前に展開するのだ。これを観ていると「貧乏なんて若者には贅沢すぎる」とつい思ってしまうのだ。
[映画館(字幕)] 7点(2010-01-31 12:12:08)
20.  ランジェ公爵夫人 《ネタバレ》 
字幕の使い方が面白い。「彼はこの言葉に稲妻に撃たれたようになった」なんてのが平気で出てくる。おいおい、映画なんだからそれを演技で見せてくれよ、と一瞬思ったが、考えてみれば、今までの映画で「稲妻に撃たれた」ようなショックの演技で納得のいくものがあったかと振り返ると、だいたい大げさにビクンとなって口をあけたりし、さらにはご丁寧にガーンという効果音がはいったりもして、もう映画の中だけで定型になってる様式を反復していたわけだ。それなら字幕で表現したほうがその人物の内面に入れる、って思う監督がいてもいい。映画が得意とする描写、不得意とする描写を峻別し、不得意方面は字幕でサッサと済ませてしまう、そういうことなんだろう。で何が得意なのかというと、この監督にとっては、男女の心理の探り合いなわけ。危険な女と朴訥な男の関係が揺れ動いて逆転していく話。一組の男女が恋愛において優位に立とうとゲームを繰り広げていくの、神が介入する高みに至るまで。こういう形でしか愛し合えない男女の滑稽さなのか悲劇なのか、とにかくそういう話と見た。バルザックとリヴェットのコンビでは『美しき諍い女』も、画家とモデルのほとんど格闘といっていい心理闘争の映画だったし、フランス人はこういうのが好きなのね。ただこれは「十三人組」という秘密結社の連作物語の一編で、原作では序文を初めその結社についてミッチリ書かれてるんだけど映画では説明がなく、誘拐の場やラストで突然現われる連中が、これだけ見た人にはなんだか分からなかったのではないかなあ。
[DVD(字幕)] 6点(2009-08-04 12:07:37)
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