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なんのかんのさんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

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341.  生きる
前半一人称、後半三人称、という仕組みは、たとえば死の直前を目撃した警察官が「とても楽しそうでした」というところで生きてくる。動き回る前半、室内ドラマの後半という対比は、後に引っ繰り返されて『天国と地獄』になるわけだ。黒澤作品で初めて主人公が死ぬ、ということでも重要な映画だし、立派な出来のフィルムだが、社会批評性の濃さが今となるとちょっともたれる。たしかに今でも社会はこのように、いや、もっと悪化してシステムに組み込まれているだろうし、助役が自分の名誉にしそれを下っ端がおだてるあたりの痛烈さは見事なんだけど、この映画で一番普遍性を持ち続けているところは、案外「初老の男の若い娘への傾斜」の部分かも知れない。その切実さと気味悪さがじっくりと迫るのだ。後に『どですかでん』でも養女にいたずらする父さんが出てくるが、ストイックな黒澤さんのなかにあるドロッとしたものを垣間見てしまったような感じがある。小田切は聖女的なものではない、主人公に再生の一言をハッピーバースディの歌をバックに投げるが、あとはもう登場しない。あの二人がもうしばらく付き合い続けたらどうなったか、という興味が少し残る。帽子がパリッとし、ラストで公園の土にまみれる、という小道具の使い方。ドンチャン騒ぎのあと老人の歌声が聞こえてくる不気味な感じ、ああいうとこはうまいなあ。
[映画館(邦画)] 8点(2009-11-18 12:04:54)
342.  青い鳥(2008) 《ネタバレ》 
主人公の先生がドモるのは、原作がそうなんだろうし、物語としての意味もよく分かるが、映画としても効果を挙げていた。教室を沈黙・静寂が覆い、生徒らは先生の次の言葉を十分待ち受けてから聴く。そして先生はひどくゆっくりとしゃべる。教室のシーンはどれもいい。最初、先生が座席表と教室を照らし合わせて眺め回す、その静寂、つかえつかえしゃべり出す、そしていじめられて転校していった野口君の机を日直に持ってこさせる、その戸惑いの沈黙、「野口君お帰り」の先生の言葉で沈黙はさらに深まり、罰せられているのではないか、という反発の沈黙に変転していく。ここらへんのじっくり静寂を含ませた丁寧な演出が見事だった。その反発が机を雨ざらしにする形で表われたあとの教室での出来事の間も、ほとんど声が発せられない、もちろん音楽もない。教科書を机に叩きつける音までの間、静寂だけが鳴り響いている。“沈黙恐怖症”になってしまったテレビではまず味わえない緊張だ。先生は机を戻した意味を最初に生徒に説明するべきじゃないのか、とも思うが、先生に最小限の言葉しかしゃべらせないという映画のルールを作ったのだから、自分で分からせる教育として、これでもいいかとも思う。どっちにしろ東京都の教育委員会なら即座に追放されている先生だろう。野口君の幻影が現われる場のカーテンのゆらぎ。その後の先生と園部君との対話が本作の核心で、建て前の教育を批判したんだから建て前の結論は付けられない、といった作者の意気込みと緊張が感じられるセリフの応酬だった(ここでちょっと音楽が入るが許せる範囲内)。かつて『リリイ・シュシュ』で生徒だった伊藤歩が先生になってるのには、感慨深いものがある。いじめの問題は、こんなにも長く続いているのだ。
[DVD(邦画)] 8点(2009-11-16 12:07:58)(良:1票)
343.  散り行く花
映画はまず現実の記録として始まったが、逆に現実にない幻想世界を築く方向へも進んでいった。本作なんか素材として東洋趣味を盛り込み、まさに幻想としての物語で、お話の無理をぼかしている。帽子のリリアン・ギッシュなんて半分幻想の存在としか思えない。極端な骨組みだけの設定が、サイレントだと豊かに膨らんでくる。半ば観客の想像に頼る仕組みがいいのだろう。暴虐な父と可憐な娘という陳腐でさえある設定が、いわば神話的な原型として観客に働きかけてくるんだ。野蛮なアングロ・サクソンに仏教を伝道しようとやってくる主人公の設定がちょっと面白い。遠藤周作の宣教師の裏返しで、彼もロンドンという沼の中にぶくぶくと沈んでいってしまう訳だ。東洋に旅立つ宣教師も登場させてちゃんと釣り合いを取る。といっても、何も自分たちの膨張主義を批評・批判してるわけではなく、ちょっと気取ってるだけ。東洋人の猫背男の純情が話の芯、でもあんなに猫背かなあ、我々は。それともあれはただ身長に低さを表現してたのだろうか。
[映画館(字幕)] 8点(2009-11-14 11:52:39)
344.  注文の多い料理店
まず静かな林の夕方の気配が美しい。葉がきらめいているのか、チカチカしている感じや風の肌触りがよく出ている。しかし見事なのは「山猫軒」だ。あの原作からこんな広大な建造物を想像した人はいなかっただろう。外観ではない、複雑な構造が内側に組み込んでいく迷宮としての山猫軒。迷宮がもともと持つ、地図を失った心細さが、ここでは裏返された探検への期待として展開していく。薄暗さと静けさ。狭い廊下から鏡の間に抜け、蝶が乱舞したかと思うと、さらに地下深くの運河を越えたりもする。観客も耳を澄まし、足音を忍ばせて猟人の彼らに従っているような気分。イメージの展開は奔放だが少しもはしゃいだ気分はなく、一つ一つの場面の底には、必ず美しい寂しさが横たわっている。原作にあった恐怖感は薄められ、この作品では山猫軒で最後に出会うものへの期待が、この寂しさの中でしだいに高められているような感じすらある。それはもう単においしい料理への期待などを越えた、何やら分からないが荘厳で偉大なものの気配、孤独を通り抜けて初めて見上げることのできる巨大な何かである。二人の猟人はその最後に待っているものがもしかすると死かも知れないとうすうす気づきながらも、自分自身に調味料を振りかけながら、魅入られるようにしてこの迷宮の奥深く、山猫たちの舞踏の場まで来てしまうのではないだろうか。遺作となる作品にしばしば見られる澄明感が、ここにも満ちている。漠然と遠くに感じられていたゴール、その死がごく身近な自分だけの終着点として感じられたとき、いま生きている現実の世界はもしかすると、その死を包み込んだ寂しく美しい迷宮となって見えてくる。若い健康な者にとっては抽象性のカバーをかけられてしまう死が、その迷宮を通過することによって具体的な手触りを帯び、親しみさえ感じられてくるような気分。この映画はその気分を、すぐれた原作を得て、まれに見る凝集度で提示した。原作の中心に置かれていた、食べる=食べられるで組み立てられた世界観は、さらに死の要素を加えて、畏れる=魅せられるのベクトルをも持つようになり、奥行きの深まった限りなく美しい小宇宙を構成したのであろう。
[映画館(邦画)] 8点(2009-11-10 12:13:32)
345.  MEMORIES
「彼女の想いで」は、『2001年』的舞台で『ソラリス』やってる、って感じ。人間が考える宇宙の果ては、けっきょく人の心に行き着いてしまう。廃墟趣味がいっぱい。宇宙船の中のオペラハウス、そもそも調査艇が下降していく時に「ある晴れた日に」が流れていたのだった。ザザッと乱れの入るホモグラフ、青空に錆びた鉄骨が突き出してきてたり。ぱさぱさになる薔薇の花束。半分融けたようなピアノ、ポンと叩くと世界が変わる。拍手する手だけが見える。おそらくラストの宇宙に漂う飛行士は、故郷の夢を見ているのらしい。薔薇の花びらが浮遊している。こういうイメージの連続だけでいく話は、下手すると空回りになってしまう危険があるけど、これは45分という時間もいいのか、いっきにいけた。と、これが科学の果てに心に辿り着いたとすれば、「最臭兵器」は最も形而下的な“ニオイ”に復讐される話。地方都市の細密な再現。面白いのは花が咲いちゃうとこで、車がひっくり返ってる脇が花園になってたりする。ラストの後で花園になってる東京の場があるはずなんだけど。「大砲の街」は、全体主義社会の日常を淡々と描いていく。ここにあるのは、世界と拮抗するのではなく世界に組み込まれてしまった童夢。ファンタジーかも知れないが、これが現実になっている国もあるわけで、そこが苦い。2-3-1の順にしたほうが座りがいいような気がするけど、ま、好みの問題。
[映画館(邦画)] 8点(2009-11-02 12:06:53)
346.  父/パードレ・パドローネ
良かったところを書きあげていくときりがない。フェリーニ風の戯画的誇張とリアリズムが同居していて、イタリア映画ならではの世界を作り上げている。好きなシーンを一つだけ挙げると、手に入れたアコーディオンを持て余して困っているところ、初めて父を離れた意志を持った疚しさがあり、また家から足を一歩踏み出した瞬間の戸惑いでもあるわけ。全体として音への感度が良く、木のそよぎや小川のせせらぎ、子どもや町の人たちのささやきなどが効果を挙げている。そしてシュトラウス。ウィンナワルツってのは、『2001年』もそうだし、『ベニスに死す』では「メリー・ウィドウ」とか、けっこう大事なポイントで効果を挙げる音楽、馬鹿にできない音楽だ。寅さんでも初期のころ「春の声」を効果的に使ってたなあ。音楽として表現されるのは単純な華やかさなんだけど、それが映像と重ねられると途端に味わいを深めてしまう。で、この話、大筋だけみると、素朴な世代交代ものなわけだけど、安易な感情シーンを入れず、最後まで父に拳を握らせるとこなど、いい。退かねばならぬことを知ってはいるのだが、退く姿勢を見せてはいけないということも知っている。最後まで「父」の役割りをまっとうしようとするとこが、この人物の魅力なのだ。
[映画館(字幕)] 8点(2009-10-16 12:03:55)
347.  河内山宗俊
たまたま時代の設定が過去だったというだけで、会話だけ取り出せば昭和の現代劇の様相。かえって戦後の時代劇のほうが様式性が強くなってしまっているのかも知れない。直次郎はここではそこらにいるグレかけた気弱な少年だし、三千歳とはミッちゃんと呼びあっている。金子市の中村翫右衛門が傑作で、永年留年して大学に居着いてしまっているような雰囲気のある男、しかし実は死に場所を探していた余計もののニヒリズムも持っている、というあの時代の若者像をくっきりと代表している。“市井”という言葉がこんなにも似合うセットはそうそうなく、その中の住人としては雪の舞う世界などうっとりと見惚れていられるが、余計ものの目を通すと、唯一どぶだけが奥への逃げ路として続いている圧迫も感じられる、という素晴らしい造形。古女房のやきもちという、どちらかというと喜劇の要素を転換点に、ドラマが悲劇性を帯びていくのも、時代の影か。松江邸のニセ僧道海は、設定だけが歌舞伎と同じで、全然違うドラマに仕立てて読み換えの面白さになっている。見事な傑作だが、ただ音楽がうるさく、ラストの立ち回りで「ロミオとジュリエット」が流れ出すと、やはりのけぞる。
[映画館(邦画)] 8点(2009-10-14 12:00:58)
348.  昭和残侠伝 人斬り唐獅子
丁寧な風俗描写、あるいは薄暗い賭場のシーンの美しさ、障子に映る影。やはり一級の満足感を与えてくれる作品だ。義理と人情の葛藤はどちらかというと池部良のほうにあるわけで(もちろん健さんも「急所をはずしなすったね」はあるけど)、それだけこっちのほうが印象深い。仁侠映画内での任侠の道徳律は、すじを通す・カタギに迷惑をかけない・女を売るようなことはしない(→利益追求を第一にするのはみっともない)といったところで、現実のヤクザの対極としての「そうであるべきはずだったヤクザ像」なわけ。『仁義なき戦い』の暴力団より歌舞伎の白波ものに近い。唐獅子牡丹の1番と2番の間で合流するってのも、もう様式としての決まりになってるし。時代劇でチャンバラが始まるとけっこう退屈することも多いんだけど、仁侠映画ではまず引き込まれる。音楽が鳴らないストイシズムもいいんだろうな。
[映画館(邦画)] 8点(2009-10-03 11:50:26)
349.  ゆりかごを揺らす手 《ネタバレ》 
ネチネチとものごとを企む女。衝動的にことを起こすのではなく、自分の演出を楽しむようにゆっくりゆっくりと事件のネジを巻いていく。観客は被害者クレアの戦慄も体験できるが、犯人ペイトンの側から“企む快感”も味わえる。ここらへんがまず楽しい。動機も、「公」的には理不尽なんだけど、「私」的にはそれも分からなくはない、と微妙に観客に納得させるように仕組んである。彼女が狙うのは、赤ん坊の命ではなく赤ん坊の愛情、そして家庭を奪うこと。そこでシナリオのうまさが生きてくる。小道具やセリフが効いてくる。タバコのにおい、ぜんそくの発作、軒に吊るされた風鈴、自転車、イアリング、ライター。日常のなにげないものが一つ一つ緊張を持ち、ラストへ導いていく。音楽で盛り上げることもなく、淡々とシナリオに信頼を置いて話を進めていく。もう少しケレン味があってもいいんじゃないかと思うところもあるが(たとえばクレアが亀の図柄を産婦人科医の旧宅で見いだすところなど、ヒッチコック趣味の監督だったら階段をゆっくり上がっていくカメラが回り込んでいって捉えただろう)、このシナリオを大事にする姿勢が、ジワジワ攻めていくストーリー展開の場合よかった。身近にいてニコニコ笑っている人間が、考えてみると何を心に思っているのかよく分からないという不安。それが家庭という「最終的に安全であるべき砦」の中で起こることの怖さ。それは裏返すと「最終的に安全であるべき砦」を攻略していくスリルでもある。他人の家庭の中で、さらに小さな温室のトイレの中で、論文をびりびりに引き裂いて荒れるペイトンの俯瞰シーン、このとき観客は彼女の執念におののくだけでなく、たった一人敵地に乗り込んでいる兵士の孤独にもどこかで共鳴していたのだと思う。
[映画館(字幕)] 8点(2009-09-30 12:09:10)(良:2票)
350.  ユリシーズの瞳
前作のラストでは黄色い服を着た作業員たちが、絶望の中の希望を示唆していたけど、今回は黄色の補色の青に浸されていて、ラストは希望の中の絶望に見える。でもそれが希望であったのか絶望であったのかは、どこかに到着して初めてわかるので、いつもアンゲロプロスが描いているのは、途上で途方に暮れて立ちすくんでいる人々なんだ。路上で、あるいは岸辺で、帰還の途上ということだけがわかっていて、それがどこへの帰路なのかは分からない。20世紀史と映画史が重ねられた旅の途上、第一次世界大戦のサラエボから世紀末のサラエボ紛争への百年の旅の途上。映像としての緊張度は前半のほうが高かったけど、後半に込められた気迫のようなものの感動も、映画の感動として除外したくはない。歴史が凝縮されるお得意の手で、1944年の大晦日から1950年の新年までをワンカットで見せる踊りのシーンなど、やはりたまらない。
[映画館(字幕)] 8点(2009-09-27 12:06:11)
351.  黒いオルフェ
真の愛とは一種の災難である、って話だ。だからここでは死神も愛の一部分なの。オルフェは災難のようにユリディウスに出会ってしまう。それがなければ彼も婚約者とそこそこの幸福な家庭を築いたはず。でも真の愛に出会ってしまう。最初観たときは死神を“宿命”って感じで捉えてみたが、ユリディウスとセットになってるんだよな。愛の二面性の片割れと捉えたほうがいい。サンバという音楽にそもそも二面性が感じられる。溢れかえる生命力があるのだが、そのなかにやがてボサノバへと変質していくなにかヒヤッとする神経細胞のようなものも潜んでいる。ユリディウスを探す死神が身を乗り出すところのヒヤッとした感じね。もちろん仮面をはずしながらむこうを向くシーンが最高。役所の建物が地獄堕ちのイメージに重なっていた。南米文化ってのがもともと日常と神話が隣り合わせになってる文化だから、全然展開に無理が感じられない。ラスト、少女のユリディウスが踊り出すときは涙ぐんでしまう。
[映画館(字幕)] 8点(2009-09-23 11:58:43)
352.  美しき諍い女 《ネタバレ》 
スランプに落ち入っていた芸術家が生涯の大作を完成させるまでの過程を、カメラが観察し続けていく。それはさながら、氷結していた河がゆっくりと解け出して再び怒涛の流れを起こすまでを、ずっと見守っているような興奮に似たものがある。動きそのものよりも、作動するときの時間のうねりにこそ感動があるらしいのだ。冒頭で画家が落ち入っているスランプは、それなりに安定した生活でもある。芸術家としての焦りさえなければ、安定した夫婦の関係と重なっていて、普通の夫婦ならこれが理想の生活なのである。しかしその穏やかさからは芸術が生まれてこない。そこで若い娘マリアンヌがモデルとして入り込んでくる。安定していたこの家の空気が、創作のほうへ傾き出す。妻としては夫の仕事の再開を喜ばなければならない。しかし、自分を通して完成されなかった絵が、若い娘の裸を通して完成されていくのを、アトリエの外で待っていなければならないとき、妻のほうでも、夫の創作に並行した心理のドラマが動き出す。そっとアトリエを覗いて見ると、以前描きかけだった自分の顔がマリアンヌのお尻の絵に塗り潰されてたりして。この二人に加え、さらにマリアンヌの時間もある。画家との間に生まれてくる緊張のドラマだ。最初はデッサン、ポーズもただ椅子に座っているもの。それから普通のヌード。背中。だんだんと外界の田園風景と隔絶した造形の奥へ、芸術の創造という魔の領域へ入り込んでいく。最初は丁寧に口で指示していたポーズも、ついには画家みずからの手でぐいぐいとマリアンヌをねじ曲げていくようになる。格闘と言ってもいい。人形のように解体されていくことへの抵抗と、心のどこかで感じている妻への勝利感が、マリアンヌのドラマを動かし出す。この三つの流れが絵の完成へ向けて合流し大河となっていくところ、安定の対極にある充実、芸術の完成という死の瞬間に向けられた沸騰、それをこの映画は描き尽くした。そのとき出来上がった絵などは、映画にとってもうどうでもいいのである。
[映画館(字幕)] 8点(2009-09-15 12:14:31)(良:2票)
353.  ナイト・オン・ザ・プラネット
同時刻の地球の異なる場所をつなげるってアイデアで、それを夜に設定したのが洒落てる。せっかくいろいろな国を回るのに、昼の風景を見せない。そのために観光映画になってしまう危険から逃れられた。昼を陸とするなら、夜は海だろう。夜は一つの大いなるものの顔をいろいろな角度から見せてくれる。昼の会話がつまるところ社会の会話になってしまうのに対して、夜は人が組織を離れてしゃべり出す。人間という大いなるものが、会話を始める。一番ジャームッシュらしさが出ていたのはNY篇だろうが、パリ篇のリリシズムが、彼の別の世界の発見として嬉しかった。差別の問題を微妙に隠しながら、夜のせいでちょっと饒舌になっている運転手と客の会話。たぶん昼だったら遠慮してしまうような話題にも触れ、しかし別に偏見に関する論議が始まるわけでもなく、被差別者同士で共感し合うわけでもなく、あくまで運転手と客の距離が節度を持って保たれながら、そのちょっと饒舌になってる気配がいい。べたつかないんだけど不誠実ではない会話。そこでこの車内に満ちてくるのが、これが面白いんだけども、もう一振れすれば怪談にでもなりそうな神秘的な雰囲気なのだ。運転手にとって後部座席ってのは、密室で後ろから見られ続けていてもともと気味の悪いものだろう。しかもこの盲人の客は、見られている以上に何かを見ているようなのだ。NY篇が不完全な言葉を通してのコミュニケーションの物語だったとすれば、このパリ篇は妨げられた視線を超えてのコミュニケーションの物語ということになる。これを怪談めいた雰囲気を通して叙情性に持っていったあたりがツボ。楽しかった。そしてヘルシンキ篇で夜明けを迎え、個人の時間が消え、時計の針がただ時を消化していく退屈な昼の半球に入っていく。そう、この時間日本では昼の12:07というリリシズムのかけらもない時間なのだ。せめてその時刻に合わせてレビューを登録するのが、この映画に対する敬意の表明になるだろう。
[映画館(字幕)] 8点(2009-08-27 12:07:20)(良:1票)
354.  ケス 《ネタバレ》 
パブのシーンがあり、ののしり声が聞こえる家庭のシーンがあり、もうこの人の映画の環境がすぐに決まっていく。そういうウンザリする環境の中でも、なんとかウンザリせずに生きていく子どもの強みが描かれていく。サッカー授業のシーンのユーモア感覚。露骨に自分勝手にふるまい、しかもそれをカバーする無邪気さもない救いのない教師を、映画は笑いのめす。画面に得点が出るのもおかしい。ゴールを入れられるとシャワー攻め。あるいは学校での朝礼後の校長のオシオキ。ポイントは伝言に来た少年で、巻き添えにされていく経過が、厳しいユーモアになる。事実とフィクションの授業、ビリーがハヤブサについて語っているうちに次第に熱を帯びてくるさまを、少年の映像だけで描ききる勇気。そういうふうにビリーはいろんな種類の大人たちと関わり、それでも損なわれないものが浮き出されてくる。結末は、象徴的に捉えると暗く閉じたものに見えるが、映画の印象はそうでもない。なんとか彼はやっていくだろう、ケスの魂を抱いたままで、って感じ。「砂嵐の中のラクダのケツの穴みたいに締まり屋だ」ってセリフは、いつか使うために覚えておこうと思ったものだが、まだ使っていない。
[映画館(字幕)] 8点(2009-08-25 12:16:53)
355.  仕立て屋の恋 《ネタバレ》 
演劇はどうしても人間と人間のドラマという要素が強く、言葉の構築物なので、孤独を描くにも不自然なモノローグに頼るしかない。だが映画は人間と世界の関係を描くことができる。縄跳びをしていた少女とのかすかな接触や、飼っていたネズミをレールのそばに放す行為だけで、男の孤独が描ける。映画の利点だ。しかもこの主人公イールそのものが、映画を見るように向かいの娘アリスを見ているのである。スクリーンの中のヒロインへの観客の愛のように、四角い窓枠というスクリーン越しに、自分でBGMを流しながら、ロマンチックなメロドラマを演出する。現実との暖かな交流を断念したイールには、こういう傷のつかない関係しか考えつけなかったのだろう。この造形が見事。しかし覗かれる女が覗かせる女に変わり、スクリーンの境が溶け出して、話は悲痛さを帯びてくるのだが、この作品で面白いのは、静かな映画であるにもかかわらず、スポーツが多く登場することだ。まず競技者が横一列に並ぶボーリング、ランダムに交錯するスケート、そして向かい合うボクシング、と二人が向かい合っていくのにあわせるように、登場するスポーツも変化する。恋とスポーツが相似形を成していく。アリスの態度は最初はフェイントだった。しかしフェイントのつもりだったものが、正確に相手に向けられた強打になっていく。もしかすると彼女は違う相手とするべきではないゲームをしてしまったのかも知れない。決勝の自殺点を入れて途方に暮れている競技者。イールは、ゲームのルールを是認することが出来ないまま、映画を見る観客のつもりで競技場に入ってしまった競技者だ。望んでもいなかったのにいつのまにか走らされ、誰の声援も受けずに死のゴールへ一直線に導かれていった不運な競技者。
[映画館(字幕)] 8点(2009-08-18 12:06:43)(良:2票)
356.  魂のジュリエッタ
ジュリエッタ・マシーナって、俳優としてはそれほどうまい人じゃないと思う。“嫉妬”なら“嫉妬”とそれだけをデジタル的に表現して、あんまり膨らみがない。ジェルソミーナが良かったのは、その単純さが効果を出したからだろう。ただこの作品での彼女は、ひとつひとつの演技はそういった型通りの表現なんだけど、演技以前の「オスマシしている女の子がそのまま大人になった」感じとか、「ビクビクしているのを覚られまいとしてる女の子がそのまま大人になった」感じ、といった、おそらく彼女の地なんだろうが、少女時代をそのまま引きずってるようなとこが生きていて、いいの。亭主の監督が知り尽くしていて、それを生かすドラマに仕立てたからだろう。まだこれは『サテリコン』『ローマ』といった完全なフェリーニレビューではなく、レビューのような幻想と“普段”とが拮抗した世界にとどまっている。でもそのために幻想性の効果は高まった。祖父のサーカス、火刑芝居、隣家のパーティ、庭での心理劇…。ストーリーの軸にあるのは“相談”。降霊術とか、宗教家とか、探偵とか、彼女は相談して回る。相談することで記憶や夢や妄想といった幻想の世界から普段の世界へ戻りたいのに、ますます幻想に捕えられ、ついにラス、室内に幻想が雪崩れ込む場を迎えるわけだ。そして最後のカットは退場したはずの幻影の呼び声でさまよい出すヒロイン、これ以後のフェリーニ映画は何か吹っ切れたように、幻想を何の遠慮もなく展開していくことになる。そういうきっかけの映画として、やはり忘れ難い作品だ。
[映画館(字幕)] 8点(2009-06-30 12:08:59)
357.  夜の鳩
市井風俗ものってのは、その場所の気分のスケッチが大事、というか、それこそが作品の中心。これなんか、ストーリーよりも、そこに漂う気分だけで一編の映画にしてしまい、しかも成功している。浅草老舗の料理屋なんだけど、しだいに質が落ちている、一の酉なのにあまり客がいない。そこの女たちの話。いちおう主人公は竹久千恵子、昔は看板娘だったが、いまはトウがたってしまった。ひいきにしてくれていた月形龍之介も最近は妹のほうに向いている。あと義父のヤクザに妾に行けと言われている娘や、オタフクのためにお燗番しかさせられない娘や、女たちの世界が静かに展開していく。年の瀬の雰囲気も加わって、全体が衰滅に向かっている気分がひしひしと伝わる。ジンタの音も流れてくる。作者の視線は、この滅んでいくものを記憶にとどめといてやろう、といった感じ。もうたぶん反復されないここでの最後の年の瀬を味わい尽くそう、って。ただただひたるための映画。こういう元気が出ないモロ後ろ向きの映画って、日本でだけ異様に洗練されていった気がする。右肩下がりに独特の情緒を感じてしまう国民性なんだな。無常観とかワビサビとかとつながってるのか。原作は武田麟太郎の小説「一の酉」で脚色も作家本人。このころからもう老人役の高堂国典は、当時「黒天」と表記していたらしい。
[映画館(邦画)] 8点(2009-06-29 12:04:18)
358.  ある機関助士 《ネタバレ》 
映画としてのヤマは後半、3分の遅れを取戻しつつの上り急行で、ダイヤを乱さずに上野に行けるかという設定(厳密に言えばヤラセなのだが、労働内容の記録として私はドキュメントの範囲内だと思う)。夕刻迫りやがて夜の訪れ、と時間も緊迫感を盛り上げ、ひたすら疾走する映像で押さえていく。飛んでいくホーム。青信号へのズームアップ。ピリピリとした緊張が伝わってくる合い間に、ふっと車掌の背中越しに捉えた客車のカットが入り、到着までくつろいでいる乗客が対比される。このくつろぎを機関士の緊張が支えているわけだ。東京に近づくにつれ、ネオンが輝き出し、飛び去るホームの人数も増えていく。映画が誕生して以来、幾多の汽車が観客を興奮させてきたが、これなんか本当に疾走の充実が味わえる。JR西日本事故後の今だったら時間遅れと労働管理の問題に突っ込まなければならないところだが、ここでは労働ルポルタージュ的に押さえ、そのため労働の緊張とその充実を描いた傑作になった。到着後、気軽にボール投げのポーズをするあたりで、機関士にとってのくつろぎの時間が訪れたところを捉えている。水戸での仲間うちのシーンも興味深く、先輩が「飛び込み自殺は、警笛鳴らすとかえって踏ん切りつけちゃうことがあるんだよな」なんて話しているのを、後輩が横になって洗ったばかりの髪を(髪はすぐ汚れる)かき上げながら聞いているあたり、専門の職場内ならではの雰囲気がそのまま記録されている。あるいは発煙筒持って走る訓練と、その息切れ。
[映画館(邦画)] 8点(2009-06-28 12:11:26)
359.  JFK
「…ということを決して声高にではなく描いた秀作」ってのは多いが、声高に言わねばならないと思っていることを声高に叫んだ映画、ってのもあってほしい。これがそうだった。作者に言いたいことが過剰なまでに溢れているってことは、こんなにも気持ちのいいことだったのか。3時間、がなり立て続けるストーンは魅力的だ。証言が現われるごとに何度も繰り返される暗殺シーン、一本の作品としての流れなり盛り上がりなりを計算していく気持ちはまるでなく、手に入った絵の具からどんどんキャンバスに塗り重ねていく。その積み重ね自体を映画の魅力にしてしまっている。「あれはおかしい、これもおかしい」と、スクリーンに証拠を陳列していき、説得というより「これだけ疑問点があっても委員会の言うことを信じられるのか」と大声で脅されている気分。そのパッパと陳列していく手際でこちらも釣り込まれてしまう。この監督、役者の演技というものにも全く興味を見せてなく、ただセリフをしゃべるマシンか何かと思っているのだろう。ドナルド・サザーランドのような癖のある名優も、ただしゃべりまくらされる。監督が興味を見せるのは、証言の散文的な内容だけだ。一個の事件の周囲に、人がしゃべることによっていろいろなものが付着したり剥がれたりしていくその変容に面白味を感じているのであって、役者が本当は一番見せたい表情や仕種やらの微妙さは無視されてしまう。そういう微妙な味わいこそ映画の楽しみである、という“上品”な映画鑑賞法も一緒に無視されてしまう。「私はこれこれこういうことが面白い、こういうことにのみ興味を感じている」という自分の守備範囲をはっきりさせ、その中で好き勝手をやり、そのこと以外には媚を微塵も示さない。ストーンの映画に感じるのはその小気味よさである。自分のやってることに確信を持っているものの明朗さがある。
[映画館(字幕)] 8点(2009-06-19 12:07:19)(良:2票)
360.  いのちの食べかた 《ネタバレ》 
おそらくワンシーンだけ取り出せば、企業PR映画にも使えそうな映像。「我が社はこのように完全オートメーションで、清潔に食品を提供しています」って感じで。でもそれがこれだけ連なると、ちょっとグロテスクな様相を帯びてくる。ドキュメンタリーの面白さだ。大量消費社会と頭では理解していたつもりでも、その大量ぶりのハンパじゃなさ、それに驚いておくことも無意味ではないだろう。コッココッコやっていた鶏たちが機械に吸い取られ、どんどん処理されて、吊るされたまま“製品”になっていく。ベルトコンベアーのヒヨコなんか、コントのワンシーンみたい。木を揺すって実を落とす機械も、なんか笑えた。そう、専門化した珍しい機械の数々も見どころで、ここらへんはSF映画の世界だった。牛の乳搾り用メリーゴーランド、牛のエサ噴射機、惑星探査機のように両腕を広げていく畑の農機、無駄のない豚や魚の内臓摘出装置、エレベーターでの長い長い降下後、地下深くに広がる岩塩採掘場のシーなんか、あそこだけ見せられたら絶対にSFだ。食卓の向こうにSFが広がっていたとは知らなかった。屠殺機で静かに殺される牛、抵抗する牛、個性のあったどれもが、処理されれば同じ肉塊になっていく。考えてみればこの映画、よくテレビの自然もの番組なんかで目にするチータの狩りのシーン、あれの人間版なんだな。あの必死の迫力、食うか食われるかの緊張から、なんと我々は遠くまで来ているんだろう、という感慨が湧く。シンメトリーで捉えた透視画法の無機的な構図が静かに続き、その中で有機物が食製品へと変えられていく。でもそれはチータの狩りと本質的には全然違っていないはずなのだ。まったく言葉に寄りかからず、目で追跡する92分間は、映画の基本の驚きを改めて体験する新鮮な時間に満ちていた。
[DVD(字幕なし「原語」)] 8点(2009-06-09 12:14:09)(良:2票)
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