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黒猫クックさんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 791
性別
自己紹介 猫と一緒に映画を見ていると、ヤツらは私より先にコイツはクソ映画だというのを察知します。ストーリー展開や伏線回収が怪しくなってくると席を立ってしまうのです。だけどそんなおっちょこちょいな映画にだって良いところはいっぱいあるんですよ。
猫のヤツらは冷酷です。

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21.  ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q 《ネタバレ》 
 14年前にエヴァンゲリオンに夢中だったあの時、友人と観に行った劇場版には非常に不愉快な気分にさせられた。ストーリーやオチはまだしも、未完成なんでゆるしてくださいというあのスタンスには憤りすら覚えた。  今年になって、この作品にある程度の結末というか収束を与えられたのを観て少々の安堵を得た。あの時詰め切れなかった結末に、更に続きを与えて新しい物を作り出したことには驚きを禁じ得ず感動をしてしまった。完璧に憶えたテレビ放映版や劇場版の、その再現を期待していた従来のフリークに対しての決別を図ったかのようなストーリーは、細かいプロットを置き去りにしてでも強引で魅力的な推進をした。 「巧く弾けるようになるまで、綺麗な音色を奏でられるまで、反復練習すれば良い」  簡単に止めないで欲しい。と言う強い意志のような物を感じた。壊れてしまった世界、これはまさに現世であるこの世界そのものであって、もう戻ってこない物への決別だった。   旧版を観ていたときに強く願った、不可逆的な変異を世界が被ってしまうしまう事への回避願望が今はもう無い。なぜなら、当時はあった壊れていない世界が今は無いからだ。様々な事を様々に繰り返して、望む世界への参画を自分自身が強行しなければならない現実を受け容れる。そうやってこの中身の無い物語に無理をして中身を詰め込む作業から卒業するんだろう。   そうであれば、14年前、色々な物を忘れてきたあの場所に立ち返ってもう一度自分自身を再構築しなければいけないのだろう。反復と覚悟だけが自分に出来ることと念じながら、あの時劇場版を一緒に観た友人のことも忘れなければならないのかもしれない。あの頃の記憶がもう一度現実になる事は無いのかもしれないけれど、それだからこそ彼女との記憶は綺麗なまま仕舞っていておけるのだと思う。
[映画館(邦画)] 8点(2014-09-13 01:21:16)(良:1票)
22.  機動警察パトレイバー2 the Movie 《ネタバレ》 
観念的な物語、ということばをわざとさけて九十年代から00年代に掛けて多くの国産テーマ重視の作品が腐された。 今考えると、近隣による、自国での複製が困難な日本の高度な映像コンテンツが海外市場に打って出られないようにするためのキャンペーンが奏功したんだな、と気づく。  中国への留学生にその昔、芸術や工業技術を日本人の心に刺さるように吐き出す手口を披露してもらったことがある。 「そんなきれい事は言ってもしかたがない」 「そんな物機械に頼らない方が良い」 「説教なんて聞いてられない」 と言うような事を、どのような口調でどういう風に見下しながら喋れば日本人の自尊心が壊れるかを語ってくれた。自分達は両の手がクリーンでかつ金に塗れたまま、外国人を感情のゴミ箱か商売道具か何かのように扱う。日本人なのにと、心の底から恐怖感でいっぱいになったのを思い出す。そして有りもしない罪悪感や劣等感を植え付けることばを私に塗り込んだあとふと、そういう手口だから気にするな、と笑う。催眠術から解けた気分だった。  パトレイバーは子供の頃大好きだった。この作品は、キャラクタに頼らない設定って言うのが異様でそれぞれの立ち位置がメインキャラではないし、実行犯の実態も見えてこない。主人公の後藤のキャラの立ち方が少し流れから少しずれていて、見せ方が秀逸だった。  都内の風景があんな風に完全に壊れた感じになっちゃったらとおもうと、恐ろしくなる。国防上の問題提起も15年以上たってもまだアニメ映画のほうが、活字媒体より進んでいるということに背筋が凍る。パトレイバーのキャラを使って、こういう重いテーマで話を一本作ってもらえたのがうれしい。ロボット物じゃない、パトレイバーというストーリーが好きなんだという気持ちが伝わってくる。 この様なメディアの特性に合わせて展開していくのが紛れもなくパトレイバー。テロリストとただの警官が戦う。主役のキャラに頼らない重ーいパトレイバーをもっと観たい。実に観たい。   日本が何かに侵食されている。その流れを止めるのは警官でも市民でも無い。流される主体だからだ。 だけど、その中にも疑問を持って、行動に移す人間がいる。そう言った事に対して示唆的では無いか。 ちょっと前まで、抵抗し得ない主義的な無力感が世間にあった。が、それは酷く人工的な物でさらにはそれが国産では無いと言うことに恐怖する。
[DVD(邦画)] 9点(2014-08-28 23:04:05)
23.  るろうに剣心 《ネタバレ》 
60年代や70年台にアメリカの制作会社がコスプレでそのまんま漫画やら小説を映画化していたけど、やっとそこに追いついたらしい。  本歌取りは大切なことだ。けど半世紀以上の遅れを取り戻すのは大変だ。 文芸作は欧米と遜色ない水準に来たけど、娯楽作はまだまだコスプレだ。タイツを履いたバットマンと同じところにいる。  商業的には色々チャンスがあるんだろう。
[地上波(邦画)] 5点(2014-08-05 22:42:20)
24.  ダブル・ミッション
 無念だけど、ジャッキーじゃなかったらと思うと胸が痛くなる。80年代の檻から抜け出ることが出来なかった人はこれを見たら切なくなるだろう。
[地上波(吹替)] 6点(2014-08-04 15:33:43)
25.  カールじいさんの空飛ぶ家 《ネタバレ》 
素直に面白かった。  序盤の見せ方は逸品で、これ以上ないくらい巧かった。実写の映画では不可能な味わいを作り出すことに成功しており、日本の絵によるアニメでも難しいのではないかと思う。モデリングで作り出されたキャラが発する説得力は、他の見せ方にはないものを持っている。  物語の作りはこれ以上ないほど丁寧で、入り口に感動的なパートを持ってくることで、子供を連れてきた親が引き込まれる。そのままそこから始まる冒険譚に子供と一緒に入っていくことが出来る。観る人のことをよく考えた優しさが良い。  目のつり上がった東アジア系の太ったあまり利発でない、鈍重な少年というキャラクタを冒険の助手にしたあたりが非常に考えられている。おそらく子供像としても一般的にあまり好かれないキャラクタをわざわざ狙い撃ちで作り上げている。このことでカールじいさんが優しさにあふれる人格を取り戻す様子をきちんと見せることが出来ており、ラストシーンでの泥だらけの少年をスルーする会場の“日常的冷たさ”や、その後のそっと座る親族の女性やじいさんとの優しいやりとりで、やっぱりこの少年に対して親近感を抱けなかった受け手の、本質的な冷たさを反省させる。いい話だ。  日本では寓意を「説教臭い」と言って受け入れない風潮が醸成されているようにも感じるが、そういった受け方が一般化しては他国作品の持つ感性に置いていかれる層が拡大しないかと思ってしまう。 子供連れの客が、自分の子供にこの映画の粗探しをさせる。それでも自分の子供にはわざわざ得意顔で反論など彼らはしない。自分の子供にはいい人を演じるためのダブルバインドだ。 そういう事をする大人がいる世の中が有るとすれば、それは相当に荒れた世界だとは思えないだろうか。
[DVD(字幕なし「原語」)] 8点(2014-08-04 14:05:06)
26.  レディ・イン・ザ・ウォーター 《ネタバレ》 
 僕は、僕の中の彼女が僕以外の人の中の彼女と全然違うと言うことにうろたえていたけれど、それは顔に出さずに悲しんでる振りをした。相変わらず窓のそとに降り続く雪と、そのくせやけに明るい空が余計に、自分の居場所がどこなのかを分からなくしてしまった。  「ねえ、鵠沼に行こ」  少々投げやりに選んだ水族館よりも、海岸の方が落ち着くし時間が長く感じられるじゃん。という理屈に大変納得しつつも、アクアリウムを二人で眺めている自分に満足したい様な気もしたからだろう。 「あ、うん」  などと、気のない返事をする僕は感情の出やすい顔の作りでもしているのだろう。彼女は少し意地悪な顔をして、ずんずん134号線を歩いて行く。  本当はカップルが腕を組んで、キスをしたら思い出を作ってしまい込んでいくのをうらやましく思いながら一拍遅れて付いていく。   記憶が目の前に現れて、そして消える。彼女と僕の周りで悲しい顔をする誰かは、きっと僕の知らない彼女を知っている。それがどんな顔でしゃべり方の彼女なのかを、彼女に尋ね続ける僕は何者なんだろう。  彼女は応えない。そして、彼女は目を覚まさない。    っていう、ありきたりな側面にやたらフォーカスされた映画である一方で、中身はあんまり一般向けでは無かったっていう味わいがよく出来てた様な気がする。付和雷同を呼び起こす攻撃誘発性がどこかに仕込んであるのだけれど、わざとなのかもしれない。  もう見るな、というメッセージかもしれない。
[映画館(字幕)] 8点(2014-08-04 13:03:29)
27.  ホテル・ルワンダ
 日本は今も、紛争や戦争の遙か後方にいる。だから紛争や戦争のさなかではない。でもそれだけ。さなかではない、それだけだ。   この作品は日本が今後も戦時下でないという仮定しかしないひどく利己的な反戦映画に、納得してしまう自分を戒めるきっかけとなるのではないだろうか。何か起これば雪崩のように同種の事件が連発する社会で、平和を保とう、戦争は悲惨“だった”。などと上からの視線で主張するのは一体どういう事だろうかと。   紛争状態になればモラルなんて一発で消えるだろう。この社会を構成する僕たちは、僕たちが思っているよりずっと残忍で冷酷だ。そう言う国で、悲惨に死んでいく昔の人の映像だけを反戦の根拠とするのはいかがなものか。言葉に出来ない、人情ドラマにすることすら出来ないこの映画以上の惨劇が各地で今起こっているのに、判で押したかのような様式の国産の反戦映画で感動して、アメリカを軽蔑したらたちどころに馬鹿みたいに気が大きくなってしまう自分を戒めたい。   戦争や紛争が悪であるなんて当たり前だが、一方で殺人という行為が禁忌である理由を巧く説明できないことが一時話題になったことがある。その理由と要素はちょっとだけ複雑だけれど明白であるにもかかわらず、一言で説明することは困難だ。詳述されるその答えを用意するのも理解するのも私たちには、重荷だ。  殺人の罪は主観であるなどと言うのは、それを利用した文化人の言葉遊びだ。   そのテレビ的主張をまんべんなく否定できているわけではないこの社会では、反戦映画を観たくらいで今起きている悲惨な暴力は止められない。  世界平和といいつつ、世界の紛争やテロリストのやり口の悲惨さを、主張があるから一方的な悪ではないなどと拙く片付けてしまう。この社会で僕たちは、幼稚な主観主義で目をそらしすぎたおかげで争いと虐殺を、全く戦争として認識ができない。   自分好みの戦争と、そうではない戦争。思う様虐殺を楽しむ人たちを無関係なドラマだと楽しむ僕たちと、歴史の中のレアケースを選択的に憎む僕たち。身勝手さと頭の悪さに足元が揺れはしないか?
[DVD(字幕)] 10点(2014-07-26 04:14:30)
28.  ドン・サバティーニ
時々妙なユーモアがあるけど、話全体としては面白くない校長先生みたいな映画だった。 フーンこの人偉いんだ。で、終わる可能性が強い。マーロン・ブランドに興味が無いと。
[地上波(字幕)] 5点(2014-02-28 15:50:02)
29.  英国王のスピーチ 《ネタバレ》 
 猫は、いい。するすると人が行き交う中から、ちょっとした植え込みへ座る場所を変えて、寝転ぶ。時々はニャーとかなんとかないて、人を呼びつけたかと思うとやっぱりどうでも良くなってまたするする逃げる。  彼らは自由だ。ものすごく。毛皮を着ていても風に吹かれれば寒がるし、冷房の空気が流れ込むところを見つければ、それに人が気がつく頃には先に寝転んでいる。この失礼極まりない、だれにも媚びない彼らが一つニャーニャー泣き叫んで欲しがる物がある。   カリカリだ。フリスキーだ。キャラットもウマい。   欲望に忠実すぎて、餌の前では全くの囚人でありながら、ぐるぐるならす喉と出し過ぎなくらいの腹から見ても間違いないくらい満足しているのだろう。   ジョージ六世は、割と自由だ。囚人のようでいて、自分を伸ばし可能性を広げるチャンスを生かす自由を選ぶことが出来た。時々ローグのしつけからするする逃げ出してしまう彼だが、ローグのやり方だってまずい時もある。  でも、彼らの関係は時折、猫と人の様に対等以上で、なびかない猫を見た人間が手の打ちようの無さに落胆を隠せない時のようなことだってある。  それに、猫のように気高いジョージは、ただの人であるローグに容赦ない尊大な態度を取る。それでいいんですよ、とローグは説明するがジョージは高貴な生まれを巧妙に使いつつもそれに迷う。   だけど、お互いがまた存在を確かめ合うときっとお互いに、 「ありがとう」  って言うんだろう。ジョージがウンコファックと絶叫したあの時間の中に、くくりを超えた熱があった。うっすら光り始めた何かはその時消えてしまったけど、それでも彼らはズンズン前に進んでいった。
[地上波(吹替)] 8点(2014-02-28 15:46:51)
30.  風の谷のナウシカ
 昔見たときはいたく感動し、その感動が失せることはないと思った記憶が有るのですが、今観ると愛とか平和、文明の定義が現代のそれとものすごくずれている。2013年末に放送するにはその主義は間違った信仰のように人の心を毒す。   80年代的な「アニメ独特の愛」がカルト宗教的な思想を帯びてしまっており現代の認識では、そんなことで何か大きな諍いが解決するわけがないのになと一瞬で理解できてしまう。なぜそうなるのか登場人物達の心情理解に対してなんとなく拒絶感を感じないこともない。  巨大な恣意と暴力で、思い思いに人を蹂躙する。トルメキアの兵士は武装を間違った意識で使うし、それを殺害するテロリズムという最悪の方法で自己実現するサブキャラ達の存在もどうしようも無く不愉快だ。テロリストであるアスベルに至っては、ただ殺人を楽しむ理由を合理的な理由に落とし込めてすらいない。  風の谷の人間は政治や社会構築を見下しているようで、現代の基準の誠実な人間ではとても、ない。そして虫達は虫たちで有り、愛の象徴である理由などどこにも無い。悪意や怒りが原動力の蹂躙や殺戮をする人や虫の気持ちを害しないように、自分を殺害させておもてなしをする気持ちの悪さは七十年前から四半世紀前の日本に蔓延していた、ある種の 破滅願望では無いだろうか。  今の欧米や日本には存在しないこの信仰心は役割を終えた。   一方、非常に安価に手に入るマンガ版はこれよりもずっと洗練された話になっている。当時のアニメ映画に携わる人たちの、主義や教養の限界というものが見えないでもなく、後に主張や寓意を別の作品で昇華させずっと高い完成度に持って行くことが出来たことを見ると、必ずしも宮崎駿が本作のような宗教的諦観主義者ではないのであろうと言う事がわかり、映像メディア産業の病根のようなものが見て取れる。
[DVD(字幕なし「原語」)] 6点(2013-12-28 15:01:32)
31.  カーズ 《ネタバレ》 
 途中なんどか涙ぐむレベルで良い話が挿入される。そして舗装や砂地の挙動など、キャラクターの心理に影響する細かい設定が巧妙にプロットされている事に関心もする。   けど、最後のレース放棄は見ながらにして「それはないだろ」と思ってしまう。あと数メートル。慣性走行を1秒もする必要ない状況でわざわざ引き返す必要があったのか。結果ライバルを公然と貶めることになり、心情的にはすっきりするのだが道義的にいかがなものだろうかと考えずにはいられない。   ただ、勝負モノの映画では無いことから積み重ねが無駄になったような感覚は無いことが救いだろうか。戦いがメインであれば、修行シーンなんかが入ることでそこへの報酬としてのラストシーンが用意される流れな訳だが、本作の性質はそこに無い。   とすると、やはり主義的な人道の中の一つをテーマにしていることになるだろう。しかし、勝ったり負けたりとか仲良く一緒であること等以前に「主人公がいったいどう言ういい人」になることが正しいのかという信念の場所がよく分からない。  ドクがレーサーだったと分かったときに手の平を返す様なども、小汚い格好で居酒屋で話す人をヒソヒソと馬鹿にするカップルが、その人の話に聞き耳を立てて、その内容が非常に高度で高度に専門的な職業に就く人だったときの反応を見ているようで不快感すらあった。   この映画の芯の部分にある、手の平返して人を肯定することや、目の前の成果を捨てる事は成長と言うよりも主義への信仰心が生まれたことでしか無いように感じられた。  手の平を返す前の人格もあとの人格も、ドクはドクで有り変わっていない。友人達との約束を忘れて目の前の善意を優先するなど、人を踏みにじっている事が分からないのだろうか。   田舎の住人と言うだけで見下されたドクも、勝利を願う友人も、切り捨てることになぜほんの少しの逡巡もしないのだろうか。テーマを覆う主義が不気味ですら有り、これだけの予算が投入された映画にもかかわらずこの道徳性の脚本にたいするチェックが甘かったと言うことにも少々驚きを禁じ得ない。
[地上波(吹替)] 6点(2013-12-28 14:41:37)
32.  ブラックホーク・ダウン 《ネタバレ》 
 ストーリーは存在しない。そこにあるのは、モガディシュの戦いをリドリー・スコットが画面に再現しようとした事実だけだ。この様な種類の映画もある、と言うことを認めない人間もいる。   米軍は虐殺されて当然   この映画の感想でこう言うテロリストのような意見をたまに見かけるが、一体誰にそう言った思想を習った上での意見なのだろうか。民兵という言葉に古代の義勇兵の様な正義の市民をイメージしているとしか思えない。  「巨大資本をバックグラウンドに、テロリストのスポンサーが貧民を集めて軍事訓練を施した『職業テロリスト達』」である。本当に哀れみの対象だろうか?   事実は決して届かない。自動小銃の取り扱いはおろか、躊躇無く人間に発砲する事すら訓練を受けていない人間には不可能なことだ。  市民に銃を向けた米兵が憎い。軍事キャンプで訓練を受けた民兵を射殺した、米軍が憎い。そう言う彼らにはこれがテロリストの末席の発言と等価である自覚は無い。   存在もしない石油の陰謀と尾ひれがついたフリーメイソンによる世界征服にはらわたを煮えくりかえらせ、アメリカ人を殺したいと普段から願ってやまない人間たちには、2013年4月にソマリアがIMFにより国家として承認された事実さえもきっと許せないのだろう。  テロのフロンティアがまた一つ消えたと、米兵が死んだ土地を惜しんで酒の肴にでもするつもりだろうか。   彼らにとってはテロリズムによるアメリカの崩壊が正義で、正規兵や正規戦による紛争解決はその暴力の対象でしか無い。心の中の暴力性を代弁してくれるテロ国家やテロ組織が一つ消滅する度に彼らの目は信仰のはけ口を探して所々にさまよう。   ソマリア紛争の外資産業による復興という概念を経済テロに置き換える人間の頭の中にはどんな憎悪が隠されているのだろうか。それが誰に埋め込まれた物なのだろうか。  彼らの中では数千人の武装勢力は永遠に英雄で有り、アメリカ敗北のシンボルで有り続けるのだろう。   しかし、事実は作戦成功であり合衆国軍の勝利だった。テロを正当化したソマリアが国際社会から見捨てられるきっかけになる戦闘があっただけだ。   ただ、本作終盤、マラソン以外の何物でもないということには非常に当惑した。
[DVD(字幕なし「原語」)] 8点(2013-11-15 17:39:54)
33.  バック・トゥ・ザ・フューチャー
 これ以降、より良い映画は無数にあるが、この時代の娯楽映画は人を昔に閉じこめてしまう。あの頃はよかったと。願望だけを満たしてくれるようなその世界から出たくなくなるのだろう。作り込まれていない世界観や意匠は明らかに異質なのだが、精神的な異質であるのかというとそうでは無く、むしろその親和性は現代の映画よりも高い。  人間の弱さや、望みとそれの土台にある理想郷のようなものへのあこがれや実態は非常にリアルに描かれている。リアルという言葉の定義が曖昧だが、より願望に忠実という意味で、より一面ではあるが精神的な写実主義というような成り立ちだろうか。   暗い部分が無いので、生活を忘れられるからだろうか。この時代の映画は、人生を忘れる2時間を活力にする物が多く、今の娯楽映画は人生の暗い部分を受け入れてそれを教訓にする物が多くそれが痛い。今の映画と決定的に違うのはその部分ではないだろうか。  当時その意図は無かったのかもしれない。楽しいこと、受け手が感じる楽しさや力を最大限に絞り出した努力は間違いなく八十年代には注ぎ込まれていた。   しかし、楽しい記憶に迷い込んで出られなくなるようなそんなちょっとした怖さがあったりする。本当の楽しさはここにあるのか、本当の世界につながる物語はどんなことが起こるのか。考えがそこに至らないほどに、八十年代の映画は享楽に満ちている。  そして、バック・トゥ・ザ・フューチャーはまさにその作品群の頂点の一つにある映画で、これを見ている時間、私はこの世界にいなくなってしまう程に耽溺を楽しむのだが、それが恐ろしい。   完全に形をなしてしまったストーリーは、未だ現代作品への昇華も、それに対して止揚も果たしていない。  私は「これで良いのか?」と思いながら、  今日もまた二時間過去に没入する。
[DVD(吹替)] 8点(2013-11-15 17:25:20)
34.  テルマエ・ロマエ 《ネタバレ》 
 前半こそ日本文化を絡めたコメディだが、後半急に  「垢すり」を始める。他にも「オンドル」である。他の言語で説明するとKorean floor heaterである。ジーニアス英和辞書にも明鏡国語辞書にものっている正真正銘の韓国文化だ。  地面にむしろを敷いて寝転がるサウナ。韓国のチムジルバンを想像させるための言葉をわざわざ選んだのだろう。このあたりの意図がテレビ的で、映画や本では絶対にやらないというかやってはいけないところではないかと思うのだが、どうだろうか。  よもやWikipedia程度の取材もしなかったのではないだろうかとは思わない。多様な「湯治」など、首都圏に住んでいれば箱根だの鬼怒川だのにあり、小一時間でいけることを数千万人が知っているのだから。    当たり前の、常識以前の日常に反旗を翻して、映画にこう言う仕掛けを施すのはいかがなものか。日本の文化と韓国の紹介をしたいのであればそのシーンは普通に韓国文化にも驚くローマ人でも良かったのでは無いだろうか?  日本の文化に韓国の名称を使ったり、韓国の道具を堂々と出してみたり。話もそれに合わせて突然印象が変わるなど、放送事業者の大人の事情があるのだろうがあまりにもそれが支配的で卑屈ささえ漂う。   たかが温泉じゃん。別にどっちだって良いよ。確かにその通りで、私自身温泉にも湯治にも全く興味がない。ただ、この映画の表現するところが、アメリカの食べ物がフィッシュアンドチップスで彼らがとても聞き取りづらい英語を話しながらパブに通い、フランス人が女王陛下に敬意を払って紅茶をたしなみ、ジャーマンポテトをビールで流し込む様を戦国武将がのぞき見する類いの、現実とのズレに創作のおもしろさを狙ったものではないだろうという事に居心地の悪さを感じる。
[地上波(邦画)] 5点(2013-11-15 17:14:07)(笑:1票)
35.  ボウリング・フォー・コロンバイン 《ネタバレ》 
 確かにそう言う面もある。カナダではとくに。  だけど、アメリカに内在する移民や治安の問題から、アメリカ合衆国そのものによる地理的恩恵の上に成り立ったカナダの社会も現実にある。   隣国では治安が良いのに、アメリカは腐敗している。という印象をすぐに持ってしまう人は、すぐに真に受けない方が良い。  すぐ隣は、メキシコも同じである。そこから不法に侵入してくる犯罪者や秩序や倫理を持たない移民に対しての自衛の手段が市民に与えられている訳で、単純な問題では無い。   こうした最強ランクに危険な国と国境を接し、かなりの広さで国境線を引くアメリカにはテロや犯罪を未然に防げなかった場合という概念もやはり存在する。  その事はむしろ、この映画のような視点はあまり関係の無いことでは無いのか?と言うのが素直な印象である。本当のドキュメンタリーならば全米ライフル協会は置いておいて、素直にメキシコの現状と合衆国の対応をフォーカスしアメリカをファイアウォールとしたカナダへの影響を追うはずだが、この映画はそうしない。   あくまでもドキュメンタリ風の風刺を、真実から作り上げているのは間違いないが、その切り口はどうしてもエンターテイメントであり、虚構だ。   言うまでも無く、このドキュメンタリーに表現されているのは、現実のアメリカに非常によく似た設定を持つ架空のアメリカのようなもので有り、銃を規制するかどうかはアメリカ単体ではなく、メキシコからの犯罪流入を抑止する力や、カナダを含む北米への拡散を含めた広範な力学になるため、全米ライフル協会や発砲事件の件数などは比較の対象では無いというのが正直なところだ。
[DVD(字幕)] 5点(2013-10-11 13:31:11)
36.  フライド・グリーン・トマト 《ネタバレ》 
 時折現れる黒い笑いに、お話全体の温度が引き締まる。オチが分かってしまう人もいるかと思うけど、それはそれで安心感がある。  あの旦那はあの後いったいどうするのか気にはなるけど、丸く収まって良い話だった。
[CS・衛星(字幕)] 8点(2013-10-05 18:20:08)
37.  ビー・バップ・ハイスクール(1985)
 色々痛い。80年代ってこんなものなのかな。中山美穂の歯が気になって仕方が無かった。  この映画は那須氏のデビルマン伝説が開幕するきっかけでしか無いのだと思う。
[ビデオ(邦画)] 4点(2013-09-05 14:54:51)
38.  パシフィック・リム 《ネタバレ》 
 冒頭。109のIMAXに衝撃が走る。小うるさくマナーを口にするコップのフチ子であるが、マナーのことなど全く耳に入らない程パンツが見えそうである。見えそうで見ない。この段階ですでにボルテージは上がっている。   日本のロボット文化へのリスペクトを前面に押し出している本作であるが、実際の所、日本のロボットは微妙でありカッコいいということを後天的に埋め込まれていないと、そのような感受性が生まれないということを実は日本の作り手は自覚していない。  伸びる関節、止め絵、歌舞伎のような決めポーズ、西洋甲冑への劣等感。欧米圏で一切格好良く思われないこれらのフィーチャーをすべて乗り越えて、それでも日本の人型ロボットをカッコいいとわざわざ思ってくれるアメリカ人も確かにいる。  イェーガーと呼ばれるロボット群の、機械的な美しさに日本のアニメロボット好きは気付いただろうか。  関節や可動部への愛、金属の限界、巨大な構造物が動くかもしれない期待感。こういったものへ日本のロボット作家が発明したエッセンスを、理性の許すギリギリに振りかけてデザインされた美しさに気付いただろうか。   ガンダムのような西洋甲冑コンプレックスに押しつぶされた記号性の無意味さは、西洋甲冑に元々なんの魅力も感じない西洋人には一切通用しない。人間のような二足自律歩行をロボットが本当にしてしまう技術力が現実にあり、それを目にした、人間個々の高度なロボット解釈がイェーガー達には詰め込まれている。   今、危機と言わざるを得ない。円谷が発明した怪獣災害という概念は、昇華しいつの間にかスクリーンの中で孤高の存在である。同様に、日本のロボットメディアは現実のロボット産業のごとく、周回遅れ以上の差がついた。    棒立ちの着ぐるみ怪獣が銀色の宇宙人にしこたま殴られて爆発してる場合では無い。コンプレックス丸出しの汎スラブ色の甲冑型ゴム製ロボで子供が口喧嘩する紙芝居ももういい。自覚するときでは無いだろうか。  イェーガーのかっこよさは、わざとらしくとも所々に工業的な不格好さが埋め込まれた本当なら日本の作家達が発明すべきかっこよさだ。   それ故この作品は凄い。109でフチ子のパンツが見えそうで、ロボで怪獣を何回もやっつける。である。何度も言うが、フチ子のパンツと怪獣と人型ロボットだ。それなのに、おもしろいのである。 
[映画館(字幕)] 9点(2013-08-19 18:17:38)(良:1票)
39.  007/ダイ・アナザー・デイ 《ネタバレ》 
 愛である。007を愛するものは、こういったコラージュを特に好むのである。そして、アメリカの精密なスパイや、アクション。リアルなギミックを引き合いに出して007を取るに足らないとする輩にはエリザベス女王閣下の鉄槌が下るだろう。  これは007という、壮大な装置であって、この途切れないワクワク感を提供する唯一のメディアなのだ。   だからこそ言ってしまうのだが、これが007なのであっていつであっても過信してはいけない。予告編に足をすくわれるのは、デフォルトである。
[DVD(字幕)] 7点(2013-08-17 01:37:56)
40.  スーパーマン(1978) 《ネタバレ》 
 全身タイツの男が悪と戦う。今これをやるならば、大変な困難を伴うのは明白なのだが昔であったり、受け手に幼さを残す感受性があるならその難題は強力な武器になって物語は勢いをつけて走り始める。  クラークケントの人間性を美しく描写してのけたこの作品は、現代には得がたい産物となってヒーロー像の再定義をした。   とか何とか言って、ビュンビュン飛び回るスーパーマンとロイスレインのロマンスにあこがれて何度も何度も繰り返して見た。間違いなくおもしろい。
[ビデオ(吹替)] 8点(2013-08-14 00:12:06)(良:1票)
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