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かっぱ堰さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 1248
性別 男性
自己紹介 【名前】「くるきまき」(Kurkimäki)を10年近く使いましたが変な名前だったので捨てました。
【文章】感想文を書いています。できる限り作り手の意図をくみ取ろうとしています。また、わざわざ見るからにはなるべく面白がろうとしています。
【点数】基本的に個人的な好き嫌いで付けています。
5点が標準点で、悪くないが特にいいとも思わない、または可も不可もあって相殺しているもの、素人目にも出来がよくないがいいところのある映画の最高点、嫌悪する映画の最高点と、感情問題としては0だが外見的に角が立たないよう標準点にしたものです。6点以上は好意的、4点以下は否定的です。
また0点は、特に事情があって採点放棄したもの、あるいは憎しみや怒りなどで効用が0以下になっているものです。

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21.  写真甲子園 0.5秒の夏 《ネタバレ》 
2014年夏の「東川町国際写真フェスティバル」の時期に現地に行ったことがあり(皆さんお世話になりました)、その際に映画化の話も聞いて来た。その後にふるさと納税(株主制度)のお勧めがあったので喜んで「写真甲子園映画化事業」に協力したが、いざ公開されてみると自分の住所地から半径100km以内では上映していなかった。まあそれはだいたい予想していたことなのでDVD化を心待ちにしていたわけである。見覚えのある場所とか花火大会とかが見られるのは嬉しい。 東川町は2014年に「写真文化首都」を宣言しているが、そういうアピールの仕方は個人的に好きだ。ちなみに環境分野では「環境首都」というのもあるが、何にせよ何から何まで東京が一番でなければならないことはないはずなので、うちはこの分野では全国代表だ、という気概を持ってやっているところは応援したい(気持ちだけだが)。 この映画でも無理に町民を主人公にはしていないが、実際の写真甲子園で本当に活躍するのは全国の高校生であり、地元としては仕組みを作って場を提供することで写真文化を盛り立てる立場になっている。文化での町興しは無理との意見もあったそうだが、その正否はすでに実証済ということである。  褒めてばかりでも何なので映画に関していうと、まず予選を勝ち上がる過程を大胆に省略したのは時間の節約としても、全国大会の出場者にしてはあまりに素人っぽいとか緊張感のなさすぎな連中で大会の権威に関わるのではと思ったが、それはまあ審査の厳しさを強調するための下準備と解される。その審査の講評には台本がなかったとのことだが、「できるでしょう」「できます」というやり取りがあったのもアドリブだったということか。審査委員長の人となりは知らないが芸術家にしては意外に優しい物言いで、厳しい単語は使っていても若い人を伸ばそうとする意図は明らかであり、「未来しかない」「開き直る」といった励ましの言葉には正直感銘を受けた。ここには本物の感動がある。 その後の椅子工房は話を作り過ぎだったが、今しかできないことを今しなければ、という意味ならわかる。また終盤でひたすら走る女子の情けない顔に少し泣かされるところもあった。結末も意味不明瞭だった気はするが、今回の体験が当然、出場者それぞれの未来につながっていくはずだと思っておく。彼らの後に続く人々は、写真を含む芸術文化の創造性が人間の力になるということを、例えば極端に古風な(ステレオタイプな)言動の校長に見せつけてやってもらいたい。 その他個別事項として、必要な告知事項などをCGか何かで映像中に紛れ込ませていたのはスマートな説明の仕方だったかも知れない。また撮る側のマナーにかなり気を使っているのが目についた。
[DVD(邦画)] 8点(2018-07-15 09:29:09)(良:1票)
22.  ケアニン ~あなたでよかった~ 《ネタバレ》 
水野久美さんがヒロイン役?の映画が上映されるというので見たが、FINAL WARSなどよりよほどいい出演作だった。この人を主人公が彼女扱い(今カノ)していたのは相手が誰でも同じではなく、やはりそもそもが美形の人だからこそそういう発想が出て来るのだと思われる。劇中では施設利用者の若い頃の写真を並べてその人の人生を思う場面があったが、水野さんの昔の写真を出せば皆さん恐れ入るのではないか。舞台挨拶の写真で見る限り、背筋も伸びてお元気そうで他人事ながら嬉しくなる。今後一層のご活躍を期待申し上げたい。  ところで自分としてはこの方面の仕事に関わったことがなく、この映画が実態をどの程度反映しているのかはわからないが、結果として現職の介護職員にエールを送り、またこの道を目指す若者を励まそうとする映画には見える。虐待はないのか、という友人からの問いを主人公が軽く受け流したのは若者らしい反応とも見えたが、あるいは他はどうでも自分は違う、というプライドを込めた対応とも取れる。 また自分には要介護の身内がおらず、こういう施設が理想なのかもわからないが、家庭的な対応の施設を見せることで家族に訴えかける部分もあったようである。ヒロイン?の息子のエピソードはかなり作為的に感じたが、この映画としてはぜひとも必要な登場人物だったのだろうし、終盤に至ればその息子も認知症との向き合い方を体得したということらしい。目の前にいるのが誰だかわからないだけで、人そのものの存在を忘れてしまったわけではないということである。 ほか全ての人にそれぞれの人生があり、最後まで人間として生きているのだといったことは、人間への敬意を忘れるなという意味で、介護の分野にとどまらない一般向けのメッセージにもなっているように思われる。  個別の場面では、個人的には序盤でオレンジの皮をむく場面に和まされたが、人物の動きを止めて観客の意識を集中させる場面も複数あり、軽薄に見えた登場人物の発言が重たく響くところもある。最後に用意されていた落ちも少々わざとらしいが悪くなく、この人らしいきれいな字で書いてあったのが泣けた。どうせ関係者が内輪で盛り上がるだけの映画だろうと思っていたらそういうことでもなく、役者のおかげもあって広く人々に訴える力のある映画になっている。自分としては水野久美さんに引かれて見た形だが、主演俳優の今後にも期待したい。
[映画館(邦画)] 8点(2018-03-17 18:49:25)
23.  神聖なる一族24人の娘たち 《ネタバレ》 
ロシア連邦の構成共和国であるマリ・エル共和国に住むマリ人の物語を集めた映画である。解説によれば題名は本来「草原マリ人の天の妻たち」だそうで、邦題のうち「一族」「娘」は不適切である。映る場所は主に農村部だが、劇中出た一番の都会は首都ヨシュカル・オラだったらしい。なお映画紹介ではマリ人が「特異な民族」と書かれているが、ロシア領内にはマリ人と同系その他の各種民族が広く住んでおり、その中でマリ人だけが異色といえるのかは不明である。ロシア人でも辺境の民など何をやっているかわかったものではない。  映画の内容は22話のショートストーリーが連続する構成で、短いものは36秒くらい、長いもので9分半くらいある。別にマリ人でなくてもと思う話もあるが、土地の風習を題材にしていたり、土地の風物を盛り込んだりして地方色を出しているように思われる。全くわけのわからない話もある一方で、短くても映像面を含めて感慨を覚えるものや、けっこう見ごたえのある長い話があったりして充実している。 個人的に関心の持たれるエピソードとしては、 「オドチャ」(樺の木の話)体調不良の際には近代医療、祈祷の催し?、キリスト教の聖人、呪術・卜占が頼りにされるようだが、結局最後の占いが最強だったらしい。 「オシャリャク」(歌姫とゾンビの話)ゾンビというかヨーロッパに伝わる“不死者”のような感じである。官憲が普通に対抗措置を準備していたのが面白い。 「オルマルチェ」(怪しい合コンの話)ホラー風味。討伐隊が出たのは驚いたが、要は“コックリさん”のようなものか。なお「キセリ」はロシアの伝統食らしい。 「オシライ」(墓から戻った男の話)死者を思う家族や友人の心情が切ない。意図的に混乱させていたと思うが、「セリョージャ」は「セルゲイ」の愛称であって、これと「パブリーク」が親友と思われる。 以上のほか「オラズヴィ」(納屋の戯れの話)は閉鎖→開放の意外な展開がいい。また「オヴロシ」(水泳見学の少女の話)や「オノシュカ」(去り行く老人の話)は男子として若干の切なさを感じる。  登場人物としては、邦題では「24人の娘たち」となっているが、実際は小学生くらいから孫のいそうな年代まで幅が広い。劇中では美醜さまざまに見えるが、ラストの顔見せで24人を連続で映すところは化粧して着飾ってそれなりに魅力的なので和む。24人のうちベストヒロインは世界平和少女であって、日本アニメの少女キャラクターのような言動が可愛らしいので笑ってしまう(笑ってごめんなさい)。また乾布摩擦少女は最後の表情が微笑ましい。 ちなみに山姥は24の数には当然入っておらず、役者はボリス・ペトロフという男である。
[ブルーレイ(字幕)] 8点(2017-12-09 09:58:46)
24.  オルド 黄金の国の魔術師 《ネタバレ》 
わりと新しいロシア映画である。冒頭表示される文字は縦書きだがロシア語だろうから字幕が出ないのは変だ。 題名の「オルド」は「帳幕」と訳していいかどうかよくわからないが、とりあえず劇中に出る「黄金のオルド」という言葉は、チンギス・ハーンの長子ジョチを祖とするキプチャク・ハン国(金帳汗国、ジョチ・ウルス)を指している。映画はこのキプチャク・ハン国とモスクワの府主教アレクシイとの関係を描いており、年代的には序盤の暗殺が1343年、終盤の暗殺が1357年で、日本では南北朝時代に当たる。 考証的なことはよくわからないが見た目でいえば、ハンの都(恐らく「サライ」)はみすぼらしいようで結構な壮大感がある。皇太后が宮殿ではなく郊外に住んでいたのは遊牧民の伝統を固守する人物像の表現だろう。劇中のモンゴル人がやたらに野卑で粗暴なのはロシア側の蔑視感情の表れかも知れないが、その性質を受け継いだといわれるロシア人自身も、他国の文明人から同じように見られていたのは言うまでもないことである。 一方、モンゴル人がキリスト教会のある粗末な村に来て、知り合いだったらしい住民と立ち話を始めたのは何かと思っていたら、これがモスクワ大公イヴァン2世に対し、キプチャク・ハン国が要求を突き付けた場面だったというのはかなり度肝を抜かれた。そのあと鶏のいる裏庭で大公が見せた必死さがまるきりその辺の一般人のようなのも笑った。ちなみに字幕の「王子」は明らかに誤訳で(英語からの重訳?)、これは「公」と訳すのが適切である(歴史的には「大公」とされている)。  物語の面では、説明を排して専ら状況を見せる形になっている。 最初の1/3くらいはヨーロッパ人がほとんど出ず、文化的素地の全く違う意味不明な風習を見せられるのが面白い(泣き女のようなのがいい)。ロシア人が出て来てからもすれ違ってばかりのようだったが、人命尊重の観念がないだけで実は気のいい連中だというところも見えていた。皇太后は最初から親和的、臣下の男も同情的で、ハンも言葉は乱暴ながら“少し待ってやろう”という意思を最初から示していたと解される。 ストーリー上のメインになるのは「奇跡」だろうが、本当に奇跡が起きたのかは不明瞭である。府主教の受難によって神の慈悲が下されたと思うのもいいだろうが、あるいは本人が何もしていないと語ったように本当にたまたまだったとも取れる。以前にウラジーミル(モスクワ近隣の都市)の疫病を終息させたというのも同じとすれば偶然の連続だが、毎度の身を捨てた行動があったからこそ後に聖人に列せられたということかも知れない。なお劇中アビニョンからの使者が登場して助け助けられしていたのは、正教会もローマ教会もない唯一の神の意思が働いたことの表現か。 またこの映画の立場として、信仰心のない「黄金のオルド」はやがて衰退し、ロシアは生き残ったと言いたいのかも知れないが、これもそれほどはっきり示されているわけではない。この映画を見たロシア人は、モスクワ・ロシアと正教会の正統性を主張する立場から都合よく解釈することが認められているが、それ以外の人間なら、たまたま起こった出来事を並べて描写しただけと取るのも勝手だろうと思われる。これは、単なる事象の連なりにどう意味付けをするかという、いわば歴史解釈に関する一種の問題提起になっているようでもあるが、ただし単なる羅列と捉えてしまうと、映画としてのストーリーがないも同然になってしまうのが問題である。やはり歴史には物語が必要だということか。  結果として様々な面で興味深い映画であり、また映像が美的なのも印象深かったが、しかし娯楽映画としては難があるので他人には勧められない。ちなみにこれを見てから、昔のドイツの音楽グループ「ジンギスカン」の曲を聞くと気分が出る(「めざせモスクワ」Moskauなど)。
[DVD(字幕)] 8点(2017-06-10 09:27:53)
25.  花戦さ 《ネタバレ》 
華道家元池坊に伝わるエピソードを題材にした原作の映画化である。自分は無粋なので花を愛でる習慣はないが、美というものが確かにそこにある、ということは映像から納得させられる。また千利休との関係を強調した物語のため、いわゆる三千家も製作に協力している。主人公が初めて利休を訪ねたときに突然泣き言を言い出したのは、映像では見えない作用を利休の茶が及ぼしたという表現のようで興味深かった。  原作はわりと淡白な感じの小説で、最後の勝負など本当にこれだけでよかったのか、という思いが残るものだったが、映画では序盤の岐阜城と終盤の前田邸の対応関係が明瞭で、庶民にできる最高度に強烈な反撃という印象も強まっていておおむね納得させられる。この場面では観客としても息を詰めるようにして見入ってしまい、その余韻は鑑賞後もしばらく後を引いた。また全体としてのメッセージも明快で、美と芸術家を賞揚するにとどまらず、秀吉含め全ての人それぞれの個を咲かそうとする物語になっている。素直にそう思えるだけの愛おしさが劇中人物には感じられた。 ほか秀吉との対比ということだろうが、美的なものへの関心の高さや批評精神など、京の町衆の文化水準の高さが表現されている。それは原作も同じだが、映画を見るとジョークのレベルも高かったようで感心した(少し古風で漫才風?)。  登場人物に関しては、序盤では主人公が変人すぎて呆れたが、終盤はそれらしい人物像に収まっていたようで悪くない。人を覚えられなくて苦労するのは個人的に共感できるので、茶室の場面では見ている方も泣き笑いになった。この主人公に寄り添う弟の人物像もいい。 また「れん」というのは原作にない人物だが、映画の飾りとしてのヒロインというだけでなく、掛け軸のサルなど見ても、父親を含めた形での存在意義がちゃんと付与されていたようで安心した。外見的には可愛らしいが(森川さん本当に可愛い)それだけでなく、最後には芸術家としての側面を含めた人物像も見えて来る。主人公がこの人の名を呼んで手に取った蓮の花が、本当にこの人らしく見えたのは感動的だった。 そのほか人懐こく笑う町娘はどこかで見たと思ったら、「湯を沸かすほどの熱い愛」の妹役(鮎子ここにあり)の伊東蒼(あおい)という人だった。子役も含めて役者揃いのように思われる。  結果としては小説を何となく映画化しただけのものでなく、単なる華道家元のPR映画でもなく、花がきれいだった、で終わりの映画でもなく、それ自体の存在意義をちゃんと主張する映画になっている。人に勧めるかは別として自分にとってはいい映画だった。
[映画館(邦画)] 8点(2017-06-03 22:49:26)(良:1票)
26.  ある戦争 《ネタバレ》 
アカデミー賞外国語映画賞の2015年(88回)ノミネート作品とのことで、日本でいえば「たそがれ清兵衛」(2002)と同格だが、個人的感覚ではこれの方が上である。出演者インタビューによれば、この映画の監督は「演技ではなく状況に反応する」ことを求めるのだそうで、「シージャック」(2012)に続いてドキュメンタリー調に見えるのもそれと関係あるかと思われる。また問題提起はするが答えを与えない監督(脚本家)とのことで、この映画も文字通りの“考えさせる”映画になっている。  内容としてはアフガニスタンで治安維持活動に従事するデンマーク軍部隊の隊長が、民間人の殺害容疑で裁判にかけられる話である。監督によれば、デンマークでは実際にそういうことが現地指揮官の心配事になっているらしい。 まず劇中では誰も明言していなかったが、爆撃の結果として攻撃が止んだのならその場に過激派がいたこと自体は明らかであり、誤って民間人だけを死なせたというわけではない。恐らく爆発物のエピソードのように民間人を盾にしていたと想像されるが、そういう状況で、いざというときに自国民(軍人)と外国人のどちらを優先するかの問題だったと思われる。劇中の検事(法務官)は、人類社会の正義を代表しているようでいて実は単なる手続論の話しかしておらず、存在確認さえすれば殺人ではないと言っていたのも同然である。また弁護人の立場は台詞に出ていた通りであって、どちらの主張にも絶対的な正当性は感じられない。判決がどうなるかは出演者にも知らされていなかったとのことで、自分としてはけっこう驚く結末だったが、判事が諸事情を勘案の上で妥当な結論を出したということなら尊重する必要がある。 ちなみに日本では、最後は国家が悪い軍隊が悪い戦争は嫌だと言えば済むことになっているが、デンマークほどの民主国家なら軍の派遣を決定したのは疑いなく国民自身の判断ということになるだろうから、そういう逃げ場はないことになる。国全体として劇中の妻/母のような立場を取るなら派遣などやめるという選択もありうるが、基本的には国際貢献としてあえて汚れ仕事を引き受けているという考え方だろうし、これに関してもデンマーク国民の判断を尊重するしかない。ただ、自分の国に関してそういう判断をするのは一国民としても確かに難しい。とりあえず南スーダンからはみな無事に帰って来られそうで幸いである。  なお、主人公に対する副隊長の批判的発言は自分としても非常に耳が痛いことで、これで主人公が自分に似たタイプの人間であることが知れてしまった。副隊長はそつなく賢い男だろうが主人公も悪い奴ではなく、一度は事実を認めようとしたことからも個人的には共感度の高い人物像だった。そもそも女性通訳にこの男の弱点を衝かせるような筋立ては卑怯だ。
[DVD(字幕)] 8点(2017-05-21 16:26:18)
27.  映画 鈴木先生 《ネタバレ》 
原作とTV版は知らない。この映画だけ見て思ったことをとりあえず書いておく。 まず世の中グレーゾーンがないと困ることはあるだろうが、グレーとダーク(ブラック)の境界だけははっきりさせる必要がある(普通は法律などで決まっている)。個人的感覚でいえば、劇中の引きこもり男が公園で喫煙していたあたりはいいとして、生徒に危害を加えようとした時点でこの男に共感しようとする気が完全に失われた。この男の言っていた“真面目な人間が損をする”というのも単なる屁理屈で、現実には真面目かどうかより主体性のない愚かな人間が不利だというだけのことである。愚かなこと自体は罪ではないが、愚かなことを理由にして罪が許されるわけではなく、どういう事情があろうがやってしまったら終わりである。最後に教員が声をかけた場面は、紙一重の差を分けてしまったことを強く印象づけるものになっていた。 ちなみに教員の性的な妄想もグレーゾーンの範疇だろうが、この男が一線を超えることは決してないはずだ。  また選挙に関していえば、そもそも民主主義などグレーゾーンだらけであり、誰がどういう意図で投票したかなどわかったものではない。劇中で言われていたように候補者を真に支持する票と看做すほかないわけで、当選者には有権者の負託に誠実に応えようとする義務が課せられる(有権者にも結果責任が課せられる)。その点で、劇中の当選者は単なる「不満分子」ではなかったようで、新会長としての最初の提案は結構泣かせるものがあった。  ところで自分は学校教員をやったことはないが、劇中の教員が「世界を変える」と言っていたのは共感できることで、終盤で女子生徒に声をかけられた場面はかなり感動的だった。たとえわずかずつでも、自分の行動が世界を変えていくことにつながると考えなければ教員などやっていられないだろうし、またそれは教職に限らず社会に生きる人間全てに通じることではないかと思われる。こういう映画が作られているのを見ると、本当に世界は少しずついい方向へ変わっているのかも知れないと期待を寄せたくなる。  なお演劇は人が生きるための役に立つ、という主張は別のところでも見た気がするが、これに関する劇中の教員の語り口も悪くなかった。またキャストとしては、土屋太鳳以外にも未来穂香、小野花梨といった人々がそれぞれ所を得ていた感じだったが、個人的には三浦透子という人の雰囲気が好きなので、もう少し前面に出てもらうともっとよかった。
[DVD(邦画)] 8点(2016-11-15 20:52:48)
28.  1944 独ソ・エストニア戦線 《ネタバレ》 
第二次大戦中のエストニアに関する映画である。 エストニアは1939年の独ソ不可侵条約と密約に基づいて1940年にソビエト連邦に併合され、ソビエト体制に不適格とみなされた多くの人々が殺害あるいは収容所送りになった。1941年の独ソ戦の開始後、今度はドイツ軍がエストニアを占領したが、戦況の悪化に伴い(連合国がソ連を支援したこともあり)、1944年にドイツ軍は撤退してソビエト軍が再度エストニアを制圧した。 この映画はその最終段階に関わるもので、ロシアとの国境にあるナルヴァ市近郊での戦闘(1944年7月)から、サーレマー島南部ソルベ半島での最後の戦闘(11月)までを扱った上で後日談を加えている。ちなみに前半の主人公が冗談で言及していたカール12世とは、1700年にナルヴァの戦いでロシアのピョートル1世の軍勢を撃退したスウェーデン王の名前である。  この時期の現地状況についてはよく知らないが、1940年にソビエト軍が現地を占領した際、当時のエストニア国軍が抵抗しなかったのは事実らしく、これに関する悔恨と取れるところが劇中にもあった。それで国軍は解体されたのだろうが、その後は現地で編成されたナチス親衛隊に志願したりソビエト軍に編入されたりして、同じ国民が敵味方に分かれて戦う事態になったことがこの映画で描かれている。戦争が終われば元の暮らしに戻れるとみな思っていたらしいのが気の毒で、そのほか細かいエピソードで描かれた人々の思いも切ない。 また微妙なことだが、劇中ではナチス親衛隊よりソビエト体制の方がはるかに過酷で非人間的に見える。もともと現地では何百年もドイツ人が根付いて来た事情があってのことかも知れないが、もしかすると当時の一般人(ユダヤ人を除く)にとってもドイツの支配の方が寛容だったという感覚が残っていて、それがこの映画にも反映されているのではないかという気がした…そう思うのは、同時期のラトビアについて書かれた本で同様の印象を受けたことがあったからである。 これに関する国民感情として、映画を見る限りは「罪なき人が罪を感じ、罪深い人は感じない」という思いがその後も尾を引いていたのかと思わせるものがある。劇中でも罪なき人への赦しの言葉が出ていたが、戦後70年を機に、そうした思いを受け止めた上で一定の収まりをつけようとしたようにも思われる映画だった。恐らくはソビエト側に協力した人々への感情整理の意味が大きいのだろうと想像するが、シベリア出身でロシア語を話す人物の存在をどう取ればいいのかはわからなかった。まだ読込み不足のところが多いと思われる。 ほか戦争映画としての的確な評価はできないが、少なくとも一兵卒の視点からの迫力は感じられた。当初から出ていたソビエト戦車はT34のようである(T34-85?)。また洋上から艦砲射撃していたのはドイツ装甲艦アドミラル・シェーアか重巡洋艦プリンツ・オイゲンだったらしい(恐らく後者)。
[DVD(字幕)] 8点(2016-08-05 00:55:45)(良:1票)
29.  人狼ゲーム ビーストサイド 《ネタバレ》 
前作を見たので基本設定は完全に受入れ済であり、この世界がこうなっている理由については全く疑問を持たずに見た。どうせ二番煎じだろうという予感があったので、物語的によほど面白いものを見せてもらわなければ済まないところだったが、結果としては視点の変更や若干の強化策にもかかわらず、基本的には前回の単純な延長のように見えた。 ただし前作における場の空気のようなものは継承されており、また若い役者の熱演が目を引くのも同じで、これが全体的な充実感をもたらしているのは間違いない。無意味に人が死んでいくだけの映画ではなく、人の生命の重量感を観客にぶつける映画になっている。前作に引き続いて見ていると、自分の生命をむき出しにして対峙する登場人物が愛しく思えるようになって来た。 ラストでは、原作とは全く別の方向性をもって外部世界に歩み出す主人公が映されていたが、自分としてはここで「犯人殺る」というよりも、「目指せロケンローラー」というメッセージを最後に主人公が得たのだと考えたい。それはかつての盟友の怨念ではなく、宗像美海の生命そのものを主人公が背負ったという意味になるのではないか。  ところでキャストに関して、個人的には宗像美海役が、ほわんとして自然体ながらやるときはやる、という感じを出していたのが非常にいい。緊迫感のある中でも「なんでかな?」といったような何気ない物言いが笑いを誘う。また「南極料理人」(2009)のわがまま娘だった小野花梨さんが、役者としては最年少ながらきっちり存在感を出していたのはよかった。この人だけ設定年齢より役者の実年齢が下である。ちなみに最年長は小曽根正則役の俳優であって、全体として9歳も年齢幅があるが全員が高校3年生をやっている。
[DVD(邦画)] 8点(2016-04-29 08:34:05)
30.  でーれーガールズ 《ネタバレ》 
原作者が「カフーを待ちわびて」(2009)と同じであり、今回の題名を見てまた沖縄かと思ったら違うのだった。 まず苦情から書いておくと、終盤の大事件のような展開は個人的に嫌っている。原作がそうなので仕方ないとしても、単なる偶然ではなく必然を感じさせる工夫はなかったかと思う。また時代を象徴するものとして山口百恵を取り上げていたが、これで特定の年代感が強調されてしまうと、少し前の団塊向けのような世代限定モノとして取られかねないと心配される。 ただし近年ティーンエージャーをとりまく過酷な環境を強調したがる傾向があるように思われるのに対し、30年前に遡ることで、年齢本来のより自然な感覚を素直に出せる意味はあったように思われる。当然ながら原作者の高校時代そのままの年代でもあったわけだが(細かくいえば2年差?)。  ストーリーに関しては、主に女子の友情に関わる話であるから個人的には共感しにくい内容のはずだが、見れば意外にも素直に登場人物の心情を受け取ることができ、笑うところは笑い泣くところは泣ける映画になっていた。自分の性格として過去の知り合いを大事にしたいなどという気持ちはほとんどないわけだが、かえってその分、自分に欠落したもの、あるいは拒否してきたものをあからさまに見せつけられたのが切なかったかも知れない。 また映画独自の趣向として、鮎子の過去に対する複雑な感情を不安感の形にして(または友人を失う予感を不吉感の形にして?)音なり映像なりで表現していたのは印象深かった。ほか細かいところでは、登場人物の表情を他人の表情の変化で予告してみせるとか、泣きの場面を長引かせずに次の笑いの場面に直接つないで笑い泣きさせる、といったことで心を動かされるところもあった。 なおキャスト面ではダブル主演×2の豪華状態になっているが、うち高校時代の鮎子役は、高校生役の中で唯一劇中人物と同年代(というかまだ中学生?)ながら少なくとも素人目には立派な主演女優であり、ほぼデビュー直後の状態を見たことのある立場からすれば感無量といえなくもない。また大人のアユコ先生は、艶っぽ過ぎてとても40代半ばに見えないのは不自然ともいえるが、自分としては思わず見惚れてしまう場面が多かった。この人も映画の満足度にかなり貢献する存在になっている。
[DVD(邦画)] 8点(2016-01-11 22:36:27)
31.  拳銃と目玉焼 《ネタバレ》 
ビデオ撮影業を本業としている監督(安田淳一)が徒手空拳で作ったような自主製作映画で、題名からすると格調高い文芸映画のようだが全くそうではない。効率性度外視でこだわって作っただけあって非常にまともなエンターテインメントになっており、素人映画だからと割り引いて見る必要は特に感じない。 内容としては触れ込みどおりの正統派のヒーロー物で、かなり昔の仮面ライダーを意識しているらしい(口が出ているのでライダーマンだが)。正義の味方をオトナの世界でやるとこうなる、というのをまともに見せた感じになっており、結末は文句なしに感動的である。純粋な正義の味方など現実には存在しえず、真の動機は別にある、といった話になっているのも大人向け仕様だが、決して見返りを求めないことだけはヒーローとして外してならない条件である。 ただ一つ苦情をいえば、ラストの後日談はやりすぎである。今回のことは今回の条件のもとでたまたま成り立った奇跡のような話であって、このまま続けてしまえばボロが出るだろうし(すでに出かけている)、また性犯罪対策専門のヒーローになってしまうのも変だろうが、まあ後で恥ずかしい思いをすることにならないよう、ほどほどにやってもらいたい。  ところで出演者はちゃんとした役者に依頼したらしく安心して見ていられる。主人公は完璧な中年男だが黙っていればそれなりに見え、シャイで口下手なところは健さんのようでもある。またこの映画の最大の見どころになっているのがヒロイン【演・沙倉ゆうの】であって、つらい境遇に耐えながらも真心と優しさを失わない女性像がたまらない。外見的にも可憐で可愛らしく、やはりヒーロー物はこういうところで手を抜いてはならないと思わせるものがある。このヒロインと彼氏の若い男(演・矢口恭平)がベッドでキスする場面があったのは憎たらしいが(編集で落ちた)、まあ悪い奴ではなかったようなので許してやる。 なおこの監督が立ち上げた「未来映画社」は次回作となる劇場公開映画「ごはん」を制作中であり、今回のヒロイン役【再掲:沙倉ゆうの】が一転して米づくり農家の主人公を演じるとのことで期待している。現時点での公開予定はよくわからないが、少なくとも予告編はできているので完成するものと信じて待ちたい。
[DVD(邦画)] 8点(2016-01-10 15:17:17)
32.  いしゃ先生 《ネタバレ》 
戦前から戦後にかけて山村の医療に尽力した実在の医師の物語で、現在の山形県西村山郡西川町大井沢という場所が舞台である。景観面では一般的な山間風景が地味な色調で多少美的に見える程度のようだが、季節や天候によって はっとするような風景に出会うこともあり、劇中ではそのような現地感覚が映像化されていたようで好印象だった。別の場所での撮影も多いとのことだが、月山・姥ヶ岳・湯殿山が並んだ映像は現地付近からの眺望と思われる。また現地で見られるという「春もみじ」も映っていたようである。  医師の物語であるから人の生死も当然関わって来るわけで、撮影地の近辺でいえば「おくりびと」(2008)など、人を死なせて観客を泣かすタイプの映画は多いだろうが、この映画では劇中の様々な出来事が少しずつ見る者の心に染みて、次第にその効果が累積していく感覚があった。少なくとも初見時に大泣きする場面はなかったが、終わってしばらくの間、何となく涙腺が緩んだような状態が後を引く映画になっていた。また撮影時に、実際に診療を受けたことがある地元の老婦人が主演女優を見て、本物の先生のようだと落涙していたというエピソードは感動的だった。 劇中では住民の言動が理不尽に見えるところもあったが、昔は出生率も死亡率も高く、病気になれば仕方ないといういわば社会通念と、それでも家族を失いたくない思いの対立が医師への反発に形を変えていたと解される。医師の存在によって“金がないから見殺し”という構図がかえって明瞭になってしまうということもあっただろう。そういう時代にこの映画の医師は、近代的な倫理そのままに“失われても仕方ない命など一つもない”との理念をまともに実践しようと奮闘していたように見えた。劇中では住民に知識が必要という言葉も出ていたが、それだけでなく人の命に関する意識の変化を、時代に先駆けてこの山村に持ち込んだこともこの人物の功績だったのではと想像する。  ところで脱線になるが、幸子役で出ていた上野優華という人は歌手兼女優とのことで、ほんわかして和む顔で他の映画でも見て知っている。自分がこの映画を見たのも、単にこの人が出ているから、という軽い動機だが、劇中では本当の田舎娘にしか見えずに少し呆れた(方言が下手すぎ)。舞台挨拶に来てくれなかったのは残念だが、この人が歌う主題歌のCDも入手したほか原作本も買って読んだので、動機が不純とはいえけっこう上客のはずである。また舞台挨拶では監督の人柄も見えた気がして大変よかった。 自分にとって郷土の映画というものでは全くないが、そういう狭い郷土意識に頼らずとも地味に応援したくなる映画になっていた。   [2017-06-10再視聴による追記(BD購入済)] 主演の平山あやという人はよく知らなかったが、この映画に関していえば目が強い印象を残す。20代半ばの場面ではまだ可愛らしさを残していたが、30代後半になると充足感が顔に出ていたようで、自分としては川原の場面の表情が好きだ。最後の授賞式での晴れやかな姿は見違えるようで、ここはさすが女優さんといったところである。
[映画館(邦画)] 8点(2015-11-16 00:49:03)
33.  旅立ちの島唄 ~十五の春~ 《ネタバレ》 
冒頭の空撮を見ると同心円状の樹林帯が目につくが、これは島の地形に対応してこのように形成されたものだろう。人の居住の歴史は浅い島のようで(「島4800万年/人100年」)、八丈島からの移住が最初というのは初めて知った。撮影は4月とのことだが、劇中では夏休み(那覇での公演)、豊年祭(9/22~23)、正月行事、サトウキビの収穫(と黒糖の初物?)といったポイントを押さえて季節の変化を表現していたようである。 登場人物には現地協力者も多いらしく、東京から役者が押しかけて来たような浮ついた感じはないが、主人公だけはひときわ美形で長身のためものすごく見栄えがする。劇中では卒業コンサートの場面のほかに、父親が主人公の昔の写真?と現在の凛々しい姿を見比べて、感無量のままで去っていく姿が印象的だった。  ところで進学を機に若年者が転出していくのは地方共通の問題だが、高校を持たない離島にとってはさらに切実なことだろう。主人公が最後までよりよい道を探りながらも結局実を結ばず、一人残される父親を思う気持ちは切ないものがある(高校の面接官が無神経で苦笑する…受験生を泣かすな!)。 しかし父親にしてみれば、いかに寂しげに見られようとも娘にはまず自分のことを考えろと言うはずだ。距離が遠くなるほど気持ちも離れ、いずれは主人公も島外に居場所を定める日が来るのかも知れないが、それでも父親としては子どもらの心が帰属する場所を維持しておく責任がある。それが去りゆく世代の最後の務めであって、自分はそれでいいのだと考えているに違いない。 ただ兄や姉は別としても、主人公に関してだけは、いつまでも心の一端を島につなぎ止めておこうとする誠実さを持ち続けるのではとも思う。文通だけで終わった(終わりにした)彼氏は忘れてしまってそれまでだが、親子の関係だけは一生切れないのだろう。  なお余談だが、民謡グループの次のリーダーは泣き虫らしいので笑ってしまう。船が島を離れる場面では、みなが笑って手を振っているのにこの人だけは始終涙を拭いていた。来年は自分なのだから頑張れよという話だろうが、逆にいえば主人公はまだしも最初からしっかりしていたということである。たった15歳で生地を離れるのは過酷なようでもあるが、しかし巣立ちの時期としてそれが正しくないともいえず、本島・本土の方が甘やかされているだけなのかも知れない。
[DVD(邦画)] 8点(2015-07-20 12:22:02)(良:1票)
34.  人狼ゲーム 《ネタバレ》 
[2017-10-29再視聴による改訂] 現時点で6作まで続いているシリーズの第1作である。改めて見ると特徴が見える気もする。 そもそもこういうゲームを小説化なり映画化して本物の人間が死ぬ物語を作ったからには、良識人が眉を顰めるタイプの創作物になっているのは間違いない。台詞にあった「アリとクモを戦わせて遊んでる」ガキ向けのような企画だが、しかしそういう枠組みを逆用して、見事にヒューマニスティックなドラマを作ったのは大人の仕事である。  主人公は最初の事件のせいもあって現実に適応できないままで経過するが、後半に入って親友の幻影を見たことでやっと覚悟が決まったらしい。このこと自体は前進ではあるが、ただ本人の話を聞くと理屈先行で少し行き過ぎたところがあったようで、そこを補正して妥当な見解に落ち着かせたのが新しい友人(恋人)の男だったように見える。これまでずっと主人公を助けてくれていたという親友の役割を、この男が引き継いだというのは台詞にもあったとおりである。 誰も殺さない+自分も死にたくない、というのが許されない状況で、自己保全のための利己主義が正当化されるのは当然だろうが、しかし自分のことしか考えないのが当然ということにもならない。この物語では、利己主義を超えたところにある人間の情(姉妹愛と恋愛感情?)が計2人を生き延びさせたのであり、逆にこの2人が死者の思いを背負う形で、これから生き抜いていく務めを課せられたのだと思われる。男が最後に人としての矜持を見せたのもよかった。 ちなみに映画を見ていて主人公を腹立たしく思った観客も、本当にこの状況になれば主人公と同じになる可能性があり、それは劇中出ていた戦争の話のとおりと思われる。そういうレベルから初めることで、普通人がこの手の話に感じる心理的抵抗に一定の整理をつけたことにより、以降の続編を見るための基盤が整備されたという意義づけもできなくはない。まあ純粋にこのゲームの愛好者とか、単純に人殺しの映画を好む向きには満足できないだろうが。  なおこのシリーズは現在も若手役者の熱演で知られているが、この第1作では後に残る役ほど感情の爆発を強いられる構造だったようである。井上姉妹のこのみちゃんが主人公を殴り返す場面は毎度少し驚く。 また藤木毅役の入江甚儀という役者は、自分としては最初にこの映画で見たのが原因で今も悪人イメージが残っているが(この男が「ヤクザ」扱いされていたのは笑った)、しかし改めて見たところ、粗暴なように見えてちゃんと思慮もあり人情もあることがわかってこの人物を見直した。後のシリーズに出る一部の連中よりよほどまともである。 ほか細かいことだが誕生日という趣向は悪くない(少し切ない)。月を映して人物を見せないのは奥ゆかしい。
[DVD(邦画)] 8点(2015-02-16 23:23:24)
35.  飛べ!ダコタ 《ネタバレ》 
まず終盤の村長の言葉は、印象的ではあるが微妙である。軍部の起こした戦争だった(国民は無責任)というのは現在も国民的常識であるから、ここであえて国民側の責任を指摘してみせた度胸は買う。しかし続いての“次の戦争を止める”との発言を聞けば、結局“誰か(要は国)が戦争を起こそうとしているので国民は止めなければ”といった昔ながらの脅威論のようで鼻白む。 当時はともかく、現実に有権者の投票行動が国の方向性を左右している(実際にした)現代においてこそ、民主主義の制度を通じた国民の主体性と責任感の発揮が求められており、その中で、今後の戦争の抑止に向けた現実的な努力も期待されることになる。そういった意図なら賞賛するが、そうでなければせっかくの感動作に古風な政治的メッセージなど込めるのは歓迎できない。むしろ劇中の経過を素直に受けた形で、広い民間交流が世界平和の礎を築くのだ、という素朴な文脈で語ってもらいたかったというのが率直な感想である。   ところで、劇中で変な親爺が日露戦争時の歌(「広瀬中佐」)を歌った後で「昔の同盟国」と言っていたのは、近視眼的な敵味方の区別をあざやかに無化してみせていて説得力があった。これはどちらかというと建前論の部類だろうが、その後の母子の情愛や歌の場面を見ていると、いわゆる諸国民の融和というような内容が、庶民(イギリス側を含む)の自然な感情に根差した形で表現されていて心に染みるものがある。 また登場人物では、その辺のオカアサンのように出ていた2人がユーモラスで、結構ブラックな軽口をたたいておいて結局笑いに巻き込んでしまうのが可笑しく、これはある種庶民のたくましさの表現だろうかという気がした。方言のため何を言っているかわからない場面とか、背中の叩き方など見てもこれは本当に地元の人かと思ってしまうが、こうした住民の姿が役者の力で映像化されているのは嬉しくなる。 そのほか、冬の日本海の風景は寒々としているが美しい。全国的観点からは“裏日本”などただ陰鬱なばかりと思われているかも知れないが、そこにはちゃんと四季もあり、ちゃんと人間が住んでいて喜怒哀楽も人の情もある。自分は佐渡と直接の関係はないが、同じく日本海沿岸の四季と人を知る者として、佐渡の皆さんの幅広い協賛と参加で作り上げたこの映画を(前記の苦情を除き)ほぼ全面的に支持したい。これは見てよかった。
[DVD(邦画)] 8点(2015-01-24 17:47:36)(良:1票)
36.  がんばっぺ フラガール! ~フクシマに生きる。彼女たちのいま~ 《ネタバレ》 
先日、いわき市の人々とたまたまお会いする機会があったので書いておく。書いて何かの役に立つわけでもないが。  まず題名の印象からすると終始ダンシングチームに密着取材かと思うわけだが、実際には2011年春~秋の浜通りに生きる人々のドキュメント、といった印象が強くなっている。中で圧巻だったのは双葉町民の一時帰宅に同行して現地に行く場面であり、これは地元民の解説も付いて非常に臨場感のある映像になっている。ウシはいるわダチョウはいるわで大変だが、自宅周辺から発電所の一部が直接見えているのはさすがに慄然とした。 ただしそういったことで誰かを声高に非難するようなものではなく、また悲劇性ばかりを強調するわけでもなく、映像に出ている人々がみな穏やかに自然体で前向きなのが清々しい。ドキュメンタリーにしても意図的にそのように作ってはいるのだろうが、それでわざとらしいと思えることもなく、特に中心人物として登場するサブリーダーが おっとりした感じで気の優しい人に見えるのは心和むものがあった。   また全体構成としては、最初が全国公演で始まって、最後は2011.10.1の部分オープン時のステージショーの時点で終わっているが、これは当然ながら「フラガール」(2006)を意識していたと思われ、映画で描かれていた出発点をここでまた再現したようで、見ている側としても感無量といったところだった。このステージショーの場面を見ていると、ここまでこぎつけた関係者の尽力はもちろん、お客の方もまだ半年でよくこれだけ集まったものだと感心するが、大変な時だから歌舞音曲は停止などといわずにお客自身が楽しむことで、ダンシングチームの人々や会社にも元気になってもらうのが本当の支援ということを納得させられる。 現在でもダンサーはほとんどが地元出身者とのことで、最初から今まで地元貢献ということで一貫しているらしい。こういう困難な時期であればこそ、初心に帰って地元と共存共栄しようとする事業者がいてくれることは地元にとって何よりの財産であり、このことで個人的には いわき市というところが何とも羨ましく思われた。
[DVD(邦画)] 8点(2014-10-01 23:57:34)
37.  おしん(2013) 《ネタバレ》 
谷村しん役の濱田ここねさん(ここねちゃん)は本物を見たことがある。「映画館で待ってます!」と書かれた名刺をもらったが、その時はただの子どもにしか見えなかった。 もとのTVシリーズはほとんど見ていなかった(朝ドラなど大の男が見るものではない!…暇はあったのだが)ので比較はできないが、映画は冒頭からいきなりシビアな感じの映像で始まり、続く家の中でも囲炉裏の火しか明かりがないようなのが明治のリアルを感じさせて気が引き締まる。また素人なので技術的なことはわからないが、映像面や背景音楽(エンディングテーマを除く)なども好印象に思えるところが多く、予告編の軽薄な感じは本編にはなかったように思われる。特に終盤で、外で雲が切れたらしく室内が早春の陽光で満たされる場面は、わざとらしいともいえるが印象的だった。 ただし登場人物のうち、父親役が子ども思いなのか粗暴なだけなのかがよくわからず、存在意義まで疑わしいのは難点に思われた。また終盤で提示されたテーマらしきものも、今どきこんな話で大丈夫なのかとは思うが、まあこれはこれで仕方ないのだろう。   ところで自分としては最近、泣ける映画はとりあえず警戒して初見時には評価を保留する一方で、登場人物が好きになれる映画についてはいきなり全面支持したりする傾向があるが、この映画はその両方に該当するので困る。もとのTVシリーズが内外で支持されたのは、まずは主人公が懸命に生きる姿が感動を呼んだということだろうが、その面では恐らく、この映画もまた旧作の価値の核心部分を確実に受け継いでいるのだろうと思われる。ただの子どもにしか見えなかった子役が、全編にわたってこれほど健気で誠実で一生懸命な姿に見えているのは、やはり本人の才能なり頑張りもあってのことに違いなく、他のことはどうであれ、とりあえずこの子限定でも見てよかったと思える映画になっていた。ここねさん(ちゃん)は南国の生まれなのに、雪の中で本当にお疲れさまでした。大変でしたね。
[映画館(邦画)] 8点(2013-10-13 09:27:16)
38.  FUNAN フナン 《ネタバレ》 
カンボジアのポル・ポト政権時代(1975-1979)をくぐり抜けた親子の話である。題名のFUNANは古代の国名とのことで、「扶南」と書けばなるほど見たことはあると思うが漢字で書くのが正式ということにはならない。何でこの題名にしたのかは不明である。 基本はフランスのアニメのようで、フランスの俳優がフランス語で台詞を言っている。人物は素朴な絵のようだが、人間性や感情はしっかり表現されている。また土地の風物が美的に描かれていて、特に水田景観はカンボジアの原風景的イメージのようで印象的だった。まばらに立つ木は「オウギヤシ」という椰子であって、実を食用にする以外にも多用途に使えるものらしい。 この時期の過激な社会改造の企てにより全土で多数の死者が出たわけだが、映画では残酷な場面を直接見せていないのが良心的に思われる。革命勢力の一員が一般民衆同様の人情を見せたりする一方、自死した人物を追い込む発言をしたのが主人公の母だったりしたのは、一般民衆の内部でも加害・被害の関係があったことの表現と思われる。ただ密告の場面がなかったようなのは、人々の間に今も残る心の傷を刺激しないようにとの配慮かも知れない。  この時代の出来事について、人類史的な悲劇とはいえ異国の昔の話だからと突き放すこともできなくはないが、こういうことが21世紀の現代に起こるはずがないともいえない。勝手な思い込みで世界を作り変えようとし、そのためには一般民衆にどれだけ被害が出ても構わないと思う連中が今はいなくなったわけではない(その辺にもいるので困る)。 また親子の物語ということとの関連で重要なのは、世界を作り変えようとする連中はまず子どもを狙うことである。20世紀にはカンボジア以外にも複数事例があったと思うが、現代でも親のいない場所で子どもらの頭の中を作り変えようとし、さらには家庭を解体して親から子を引き離そうとする連中がいないかどうか見ていた方がいい。個人的にはこの映画で、主人公の息子が見ていた水鳥とその子どもらの姿が、われわれの守るべきものを象徴していたように思われた。  その他雑記として、ヤモリが鳴いていた場面は嫌いでない。また最初にプノンペンの場面で流れた流行歌らしきものはエンドクレジットに出ていたように、当時「クメール音楽の王」と言われたSinn Sisamouthという歌手の「PROUS TEH OUN」という歌だった。その人物もこの時期の1976年に殺されたとのことで、別映画「シアター・プノンペン」(2014)の追悼場面に顔写真と名前が出ていた。
[インターネット(字幕)] 7点(2024-03-16 10:00:44)
39.  シアター・プノンペン 《ネタバレ》 
カンボジアのポル・ポト政権時代(1975-79)を振り返った上で未来に向かおうとする映画である。制作時点から40年近く前のことなので、当時を知る人々と若い世代が認識を共有できるように作ったかも知れない。また映画を扱った映画として、かつてカンボジアに豊かな映画文化が存在していたことも伝えている。ラストに「追悼」として、悲惨な時代に生命を落とした映画関係者などが紹介されていた。 映画紹介を見ると単純にわかりやすい話かと思えばそうでもなく、けっこう複雑に展開して意外な結末を迎えることになる。物語上の難点として、映画館の親爺の企みとか何度も都合よく撮影ができたこと、また最後の映画公開に現実味がなく、特にこんな結末で観客が満足できたのか(:娯楽映画の延長として受け取るのは難しい)といったことはあるが、最後の主人公の言葉に真実があったのでよかったことにする。  映画の主目的は革命勢力の非道を告発することではなく、当時の再現映像はあるが残酷な場面は限定的である。それより主に現在との関係を扱っているが、注意すべきなのは一般民衆全部が必ずしも一方的に被害者ではなかったことである。この映画でも、当初は革命勢力を歓迎した者や実際に革命勢力の一員として民衆弾圧に加わった者、さらには私怨が動機で密告により人を死なせてしまった者もいて、これは現在の社会の実情を反映していると思われる。 一方で若い世代の主人公は、いまだに女性を縛る社会への反発が映画撮影の原動力になったようだが、始めてみれば当初の想定とは事情が違い、また人も社会も単純に割り切れるものではないことがわかってきて、広がった視野のもとで新たなメッセージを込めた映画を完成させたようだった。主人公の主体性と行動力が自分と彼氏の未来を開拓し、また過去の記憶に縛られた人々も解放して和解させた形になっていて、若い世代が持つ力への期待が表現されている。極めて誠実で良心的な映画だった。  その他、主人公の彼氏は銃器に頼って虚勢を張るくだらない男だったが、他の人格を演じることを通じて視野が広がったのが更生を促したと思えばいいか? 演技を学ぶことは人格向上にも役立つという考え方が背景にあったかも知れない。 また、かつて人を死なせた男が悪事を悔いて、覚悟を決めて行った先がどこかと思ったら、なるほどと思わせる結末になっていて感心した。この近辺の国々ならではの決着のようだが日本でもできなくはないか。
[インターネット(字幕)] 7点(2024-03-16 10:00:43)
40.  島にて 《ネタバレ》 
山形県の離島・飛島で2018~19年の1年間に撮影されたドキュメンタリーである。季節ごとの自然景観や家々の様子が映されていて、特に海の向こうに鳥海山が見える映像が多く、海を隔てて鳥海と相対する島との印象を出している。また細かいところでは魚を模した盆飾りを映したのが目を引いた。 登場する人々はみな温和な感じに撮られていて和まされる。島の現状としてはいろいろ大変だが、その上で今後は何をどう考えて何に期待するのかを問う映画になっていて、最後は少ししんみりさせられた。 なお共同監督の田中圭氏は対談動画など見るとなかなか感じのいい人のようで、映画の中では80歳の漁師の人物に「圭ちゃん」と呼ばれていた。  島の現状としては当然ながら厳しいものがあり、今までのように漁に出て、あるいは裏山で畑を作るといったことが高齢のため続かなくなってきている。最後の中学生も、その中学生に漁師になれと言ったのも実は外来者の一家だった。親の生業を継ぐなと言われるのは農山村でも同じようなもので、また都市部に家があるのも山村住民などではあることだろうが、離島であればなおさらだという気にさせられる。漁業するにも島に住む必然性はなく、酒田に住んで漁に出ていることが多いらしい。 新しい動きとしては「合同会社とびしま」というものがあり、バーベキューイベントはこの年限りで終わったようだが、地元報道によれば簡易水道の管理やIT技術を使ったプロジェクトにも取り組んでいるらしい。最近は東京都の離島・青ヶ島出身の人も所属しているようだった(2023.9.1山形新聞記事)。  今後のことに関しては、そもそもこんな場所に人が住む必要などあるのかという極論も出そうだが、しかし山に人が住まなくなればクマが降りて来るように、島に人が住まなくなれば外敵が入り込む恐れもある(日本海側は昔から危ない)。また観念論になるが、学校の場面で出ていた憲法第22条第1項の居住・移転の自由の広がりを維持するためにも、従来の居住地を捨てないようにしたいという考え方はありうる。 この映画としては、要は昔からの地域社会を維持しようとするよりも、合同会社のように外から来た人々を含めたコミュニティを作っていけばいいということか。実際住むとすればここに生まれたか、その他何らかの理由でここを特別な場所と感じる人々ということになるが、一度外に出た人々が戻るのもいいとして、合同会社のメンバーには地元の大学卒の人もいたようで、地方の大学の存在がこういう場所に目を向けるきっかけになることはあるかも知れない。 何にせよ若い人々の「やってみたい」(前掲記事)に期待しようということだ。悪いことばかりとは限らない。
[インターネット(邦画)] 7点(2024-01-06 10:14:45)(良:1票)
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