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なんのかんのさんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

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41.  友だちのうちはどこ? 《ネタバレ》 
いいのは母親とのやりとりのところ。アハマッド君は間違って友だちのノートを持ってきたことを発見する。返さなければ今度こそ友だちにとって大変なことになる。返しに行きたい。しかし母親は次々に用事を言いつける。ノートを口実に遊びたがっている、と母親が誤解していることを彼自身分かっている。つらい立場だ。落ち着かない。弟は宿題を済ませたから遊べるんだよ、と母親は教訓を垂れる。そのとき彼はイライラするのではなく、キョトンとした表情で静かに困惑するのである。これがいい。イライラするのは、誰かに自分の困惑を見せたいからだ。最終的にドラマをまとめてくれる物分かりのいい大人に見せたいからだ。しかしこの映画ではそういう大人は残酷なくらい排除されている。それらしく登場する老人もけっきょく少年の足かせになってしまうし、先生もただ鈍感なだけ。少年の気持ちを汲み大人の世界に翻訳してくれる救済者はついに登場しない。少年は最後まで世界の中にただ一人で立っている。そういう少年だからこそ、別の場所に一人で立っている友人のことに心を寄せられるのだ。ただ一人で立つ少年は、責任という問題に出会っている。宿題をやることが出来なくなっている友だちを助けられるのは、彼一人しかいないというところが辛いのである。おそらく今まで一度も母親の言いつけに背いたことのない「いい子」だった彼が、ここでそれよりも「責任」を、キョトンと困惑しながら選び取っていく。イスラム社会では強大であろう親や老人たちの言いつけを越えて、友だちの家を探しにポシュテの町へ走っていく。翌朝、間一髪で彼は友人を救うことが出来る(ここらへんの友人の絶望しきった描写が傑作)。彼のしたことは先生や親に褒められることでもなく、ただ友人の心配を消したことである。その充実が彼への最大の褒美だ。そういう彼の昨晩の冒険の証人には、小さな一輪の花がふさわしい。
[映画館(字幕)] 9点(2011-11-10 10:02:51)(良:2票)
42.  ブレインデッド 《ネタバレ》 
スプラッターってのは演出じゃなく細工で怖がらせるわけで映画としては二流だよな、と思っていた私。でも「いかにして人体を破損していくか」という唯一のテーマの元に様々なアイデアを盛り込み、億劫がらずにせっせと陳列している本作のゾンビ退治、最初のうちはヤレヤレと見ていたが、まだやってるまだやってると見つめているうちに呆れると言うより感動してしまった。基本は大雑把に二つ、『分解』と『突き抜け』であろう。『分解』パターンでは顔の上顎部がちぎれて蹴り回され床をツーツー滑っているのが印象深い。首で切れるより上顎と下顎で分離されるほうが理に適っていそうだ。「ばらばら」がもちろん『分解』の究極形だが、人体の部分がこんもり山になっているキッチンのシーンなぞ感動させる。予想を越える量が感動の質に変換するのだ。ジューサーによる撹拌や芝刈り機によるミンチ化も『分解』の一種、主人公が血糊でツルツル滑って死体の頭を踏み潰しつつ逃げるといった活用も工夫を感じる。顔の皮膚がすっぽり脱げてしまうのも『分解』に分類しておこう。剥がれた顔の皮膚を接着剤で貼り付けるというのもあった。『突き抜け』は『分解』に比べると地味であるが、ひと手間かけることによって味わいが出てくる。首の裏側から手を突き入れられて口から出てくるなどというのが基本のパターンだが、その死体を電球に引っ掛け顔が内側から照らされるようにするというひと手間でだいぶ印象が良くなる。顔面を二つに割って悪魔の赤ん坊が顔を出すのは『分解』と『突き抜け』両方を兼ねたパターンだろう(ゾンビ同士の間に邪悪な赤ん坊が生まれるってのはいかにも西洋。東洋の幽霊はこの世に残してきた赤ん坊に乳を与えるために出没したりするのだから何という違いであろうか)。しかし問題はなぜ「こういったこと」が面白いのだろう、ということだ(少なくとも面白がる人がある程度いるから商品として成立している)。実際に向かい合って食事している人から膿が垂れてスープに広がったりしてたら、たぶんあまり楽しくない。何で笑って見てられるんだろう。食事をさせると傷口からドロドロしたものが漏れ出てきてしまうおかしさは何なんだろう。昔の人が美女の死体が腐っていく変容図をまじめに描いた精神と、どこかで細~くつながっている気がしないでもない。これ時代が57年と監督が生まれる以前に設定されてい(以下字数制限のため割愛)
[映画館(字幕)] 9点(2011-08-24 09:52:48)
43.  バンド・ワゴン(1953)
エンタテイメントの決意表明のような映画で、芸が芸術より優位にあるという宣言。ミュージカル映画というジャンルが煮詰まってきてて、次の手が難しくなっていた時期だ。実際、翌年の『略奪された七人の花嫁』あたりから別の方向を探り出し、その延長線上にロバート・ワイズのミュージカルが出てくる。本作が、一番ミュージカル映画が無理なくイキイキ出来た時代の、最後に生まれた傑作だろう。行き止まりは覚悟の上で、あえて踏みとどまった者の栄誉が輝いている。自分をコケにしかねない役柄をこなし、その路線に殉じるような姿勢を見せたアステアが立派。冒頭で落ち目を強調し(顔を隠して登場するのは『トップ・ハット』で新聞で顔隠して登場したのの回想)、しかし靴を磨くことによって活力を取り戻す段取りに、希代のタップダンサーへの敬意が感じられる。そもそもこの映画全編が彼への敬意で貫かれていて、自虐ネタの痛々しさなど感じさせない。ラストの「ザッツ・エンタテイメント」はエンタテイメント讃歌であるが、同時にアステアへの敬意と感謝のセレモニーであり、ウキウキさせることに眼目があった前半での同ナンバーと違い、ここでは儀式の改まった感じが伴っている。表彰されるものを中心に主要メンバーがただ立っている記念写真のような構図に泣かされる。そして全編に渡ってダンスの素晴らしさ。ハードボイルドパロディの洒落っ気にはニコニコさせられ(ただギャングどもが酒場に入っていくオットセイ歩きのあたりは、モダンダンスとして純粋に興奮する)、あと夜の公園のダンスの優美なこと。並んで歩いていたのがごく自然にクルリと回るともうダンスに入っている。カメラも近づいたり離れたりしながら一緒に踊っているような動き。そしてそのダンスからまたごく自然に馬車に乗り込む動作につながって、馬車が動き出す。ダンスの練習をしたとリアリズムで捉える次元から、二人の恋の発生を表現したと捉える次元までが、重層的に畳み込まれていて、映画における表現の豊かさとはこういうものでなければならない、とつくづく思わされる。
[映画館(字幕)] 9点(2011-08-13 10:20:54)(良:2票)
44.  狩人
アンゲロプロスの映画では、しばしば歴史から伝説へと登場人物が漂い流れていったが、この作品では逆に現代の中に伝説が一個の死体となってドンと置かれるところから始まる。わずかな青空がゆっくりと雲に閉ざされていく冒頭、その雪原の中で狩人たちは四半世紀前のゲリラの死体を発見してしまう。苛烈な歴史に生き残った者たちの前に、生き残れなかった者が闖入してくる。『旅芸人の記録』が歴史を下から眺めていた「演じる者たち」の物語とするなら、これは上から眺めている「椅子を並べ観劇する者たち」の物語だ。栄光館のロビーで彼らは互いが演じた過去の歴史を見物し検証し批評することになる。見えるはずのないゲリラの死体に見守られながら、見えない国王と踊るまでの二十数年の歴史がこの一室で繰り広げられていくのである。見事なシーンの連続だが、あのテロシーンの密度はどうだろう。新聞記者や車が排除され道が静まる。車が去ったところから「踊りながら」やってくる右翼たち、表情は読み取れない、平和行進のデモ隊とのにらみ合い、デモのリーダーが歩み寄ってきたところで不意に画面に飛び込んでくる車、そして銃撃、すぐに死体を確保してしまう警察。この数シーンワンカットの迫力はリアリズムから来ているのではない。出来るだけ静けさを引き伸ばしておいてから一気に畳み込んでいく演劇的なクレッシェンド。ギリシャ現代史のやりきれなさを監督の心の中でじっくりと圧力を掛け続けた果てに、ワンカットの中に沸騰して流し込んでいる。そのとき彼の映画は限りなくミュージカルに近づいているようなのだ。あの右翼が示した踊りながらやってくる動き、彼らのふてぶてしさなり民主化を願う人々を小馬鹿にしたような気分が、表情を持たないロング映像の中で、生々しく匂い立っていた。彼の映画では歌がよく歌われ、音楽が演奏される。楽団が登場しない作品があっただろうか。しかし個人の恋愛を歌うハリウッドミュージカルと違うのは、それがしばしば集団の歌なのだ。個人を覆い隠してしまう音楽、明るく響けば響くほどその中心点がウツロになっていくような音楽(大島渚との近親性)、ハーモニカやアコーディオンといった鄙びた音色への偏愛も特徴的。アンゲロプロスはギリシャの陰鬱な空を発明し、長回しの技法を洗練してロングの雄弁さを再確認させてくれた。しかしそれにもまして私が興味あるのはミュージカル作家としての彼なのだ。
[映画館(字幕)] 9点(2011-08-01 10:10:24)
45.  関の彌太ッぺ(1963) 《ネタバレ》 
長谷川伸の名作のうち本作は、時を置いて主人公が「すさむ」パターンが「一本刀土俵入」と共通しており、その「すさみ」のために思い出してもらえないほど人相が変わっているという話のツボも一緒。長谷川伸の一番お得意の展開なのだろう。本映画の場合、ちょうど錦ちゃん自身が、前期の明朗な役柄から後期のニヒルな役柄に移る時期と重なったことで、すさむ前とすさむ後と、どちらも無理なく演じられた。基調にあるのは、どうせヤクザもの、という「かたぎ」に対する疚しさ。それは甘えの裏返しかもしれないが、その「すさみ」のなかに「真情」を光らせる。彼の目に映るかたぎのなごやかな家庭は、いつも額縁に入ったように垣根の向こうに見えてくる。曇天の墓参りの場や暮れ六つの鐘が鳴り渡るラストシーンなどロケも美しい(あれ七つ鳴っているのを今回発見した、最後のひとつは弔鐘なのか)。あるいは妹について知らされている岩崎加根子との場で、ゆっくりゆっくり近寄っていくカメラ。それと本作で大事なのは木村功で、気のいい小悪党の悲しみを演じて非の打ちどころがない。前半の屈託のなさが、後半の自分の恋情に突き動かされる弱さに自然につながっている。結婚してかたぎになろうとしている。そのために亭主には頭を下げ、ならぬとなれば一度は引き下がろうと旅支度までしている。やくざものとかたぎとの敷居の高さに阻まれた絶望が荒れさせたのだ(この作品で敷居を越境できたのは、けっきょく悪党の娘からかたぎの娘となったお小夜だけで、弥太郎は、悪の川にさらわれてそのまま苦海へと越境できずに流れ去った妹の代理として、自ら川から救い上げたお小夜の越境だけはなんとしても守ろうとしたのだ)。木村功の最期は「いっそ尊敬するアニイにどうにかしてほしい」と願ったゆえのものなのか。かたぎでない者はみな自死のように、それぞれの死に場所へ向かっていく。この「すさむ」ことの美意識は現実世界では危険なものでもあるが、それをスクリーンという額縁の中でぎりぎりまで磨き尽くした本作の成果には、ただただうっとりさせられる。
[CS・衛星(邦画)] 9点(2011-05-21 09:58:15)(良:3票)
46.  有頂天時代 《ネタバレ》 
このコンビの映画ではこれが一番好きなの。変化球のようでいてちゃんとツボを押さえているとこ。趣向が凝ってる。アステアの結婚式から始まるが、相手はロジャースではない。そうだったら話が進まないけど、こう始めて話を収められるのか、と観客は興味津々。ロジャースとの最初の出会いはツンツンしているという定型を踏む。そこらへんの「外し」と「定型」の揺らし具合がシャレてるんだ。うさんくさげに見られて、次第に心が解けていく経過が、だいたいこのシリーズの基本。わざと下手に踊ってから実力発揮、ってパターンも好きだね。それにずっと一緒にいる親父が楽しさを添える。ダンスの見せ場としては、三つの影とのやりとりか。最初はアステアの影と思わせておいて、次第にズレてやりとりを始めちゃう。とこの客席に元婚約者が現われて、さあどうするどうする、となる。アステアとロジャースは、大人数で踊ったあと二人だけでしみじみ踊る定型へと進む。こういうダンスは「愛」のシーンなの。ただただうっとりさせる。最初は下の階で踊ってて、心の高潮とともに上の階にのぼり、クルクル回る。この二人で踊った一番ロマンチックなナンバーじゃないか。そしてもじもじしていた婚約者マーガレットとの再会、マーガレットの手紙を読んだアステアが「You don't love me」と喜悦に震えて叫ぶ。一同大笑いになるのもアメリカ映画のいいところ(藤木孝似の指揮者は可哀想すぎる。婚約者のモチーフがあるのだから恋敵はいらなかった。なんかイタリア系をいつも笑いものにしているな)。フランスだったら人生の皮肉を強調したりするとこだが、あっけらかんと元恋人同士が互いを祝福し合う。いいなあ。
[映画館(字幕なし「原語」)] 9点(2011-05-01 09:55:14)
47.  ロシュフォールの恋人たち
冒頭、狭い車から出てきた若者たちが、ウーンと手をのばして伸びをする。最初はバラバラだったのが何となく揃ってきて、モダンダンスめいてくる。これこれ、ミュージカル映画の醍醐味はこれである。ところがこれが作られたのは1966年、アメリカではこういう型のミュージカルは没落していた時期だ。50年代前半に黄金期を迎え、65年はもう『サウンド・オブ・ミュージック』のような「音楽付き物語」に移っていて、ジーン・ケリー型のラブ・コメディは完全に時代遅れという感じだっただろう。その時代遅れのジーン・ケリーをフランスにまで呼んで本作は作られた。ハリウッド型ミュージカルの最期を、このフランスで看取ってやろうという愛惜を込めた衝動から生まれたのだろうか。もちろん完全なハリウッドのコピーではない。あちらは緊張が高まった場面で歌になり踊りになるが、こちらは簡単に歌いだす。オペラの伝統か。いくつかの見せ場に集中していく種類の波打つ時間ではなく、ミュージカル的な気分が瀰漫した時間なのである。踊りもそう。多くのナンバーが街の通りや広場で踊られる。屋外のダンスシーンてのは、普通どうも気分が拡散してあんまりノレないことが多いんだけど、面白い味が出ているとこもある。広場で溌剌とダンスを見せるシーンとは別に、この映画で印象に残るのは、カメラのピントから外れたところで踊っている連中の存在だ。こちら側でリアルな演技が進行しているとき、その道の奥のほうで若者たちが踊っているのがボンヤリと見えたりしている。これが実に面白い効果で、この街全体がミュージカル的気分に息づいている弾んだ楽しさがある。ハリウッド・ミュージカルでは、日常の世界が不意に特殊なハレの場に転換するところにサスペンスがあったのだが、この映画では、歌ったり踊ったりするのは何も特殊なことである必要はなく、日常そのものがそうであっても構わないじゃないか、と開き直っている。幕がパッと切り落とされるようなスリルがない代わりに、日常と非日常が馴染みあってしまっている蒸気のようなものが立ち込めている。ミュージカルに殉じようとしたドゥミ監督はそういう理想郷を夢見ていたらしい。
[映画館(字幕)] 9点(2011-04-25 12:21:06)
48.  東京物語
老夫婦が子どもに会うために東へ行き、子どもたちが親を送るために西へ行く、というシンプルな二つの移動の物語で、しかしその移動はほとんど描かれず、ただ西から東へ帰る紀子(原節子)の姿のみが最後に置かれる。描かれているのは人の世のむごさだが、しかしそのむごさは改めたり正したり出来る「あやまち」といった類いのものではなく、「そういうふうになってるもの」として提示されているがゆえにより沁みる。以前は、最後の京子(香川京子)の憤懣がちょっと剥き出しで、この繊細きわまる傑作の唯一のほころびかと思ったときもあったが、あれはただ本質を見つめられない「若さ」を客観的に描いていたのかもしれない。紀子によってフォローされているのだし。その紀子と京子が時計を介して照らし合わされ、移動する車中の紀子で閉じられていくことは、ここで初めて西と東が連続しようとしているようにも思われた。おそらく京子はここを通って東に行くだろう。しかし老父の葬儀までもうここを西に行く家族はいまい、という幕を引くための移動のようにも思われてくるのだ。
[CS・衛星(邦画)] 9点(2011-04-15 09:43:53)
49.  戯夢人生
画面の美しさにいちいち感嘆したのは『バリー・リンドン』以来であった。室内と風景と。煙がたなびき、人々の表情が捉えられない遠景。まるで影絵のような世界。主人公の半生もののドキュメント形式映画なんだけど、その彼の「生きざま」が浮かび上がって“こない”ところが特徴で、その個人の半生が、台湾史の中に溶けて拡散している。歴史でもないか、記憶? 歴史と普段承知しているものは、つまりこういうものなのか、と逆に目から鱗を落とされたような気がした。物憂げに響く木のサンダルの音の響きの中にこそ歴史はあるのかも知れない。映画のスクリーンと、人形劇の舞台と、芝居の舞台と、スケールをカチャカチャと替えつつ、「意志」を何かに預けている雰囲気がある。主人公は精一杯自分で選んで生きてるんだろうけど、作者の視線は、その意志が預けられているものを凝視している。これは個人と歴史との関係を描いて、もしかしてすごいことを言っている映画なのではないだろうか。この人の映画では身内の病気・その看病ってのが繰り返し出てくるなあ。親密な不安のために寄り添っている人々ってのがいいんだなあ。
[映画館(字幕)] 9点(2011-04-07 09:20:52)
50.  ダンボ(1941) 《ネタバレ》 
ディズニーの長編アニメでは、これが一番好き(『ファンタジア』は別格扱い)。『白雪姫』は初の長編という意気込みゆえか、なにか改まった感じがあり、力作ではあるがチト固い。『ピノキオ』ではだいぶほぐれてきているが、この『ダンボ』に至って、短編で培ってきた精神とつながった長編になったのではないか。なにしろ『白雪姫』『ピノキオ』と違い、絶対実写では描けない世界を描いている。アニメであることの喜びが全編に満ち渡っている。主人公がサイレントというとこに、映画の本道を再確認しようという意志が感じられなくもない。とりわけ凄いのが、酔っ払ったとき見るピンクの象の幻想シーン。「象」という与えられたモチーフをとことん展開していく。その長い鼻をラッパに見立てて始まり、「象=重い」からピラミッドに連想が移り、それを「軽さ」に反転させて、踊る・滑る・走ると目くるめく変貌させていく。しかし「飛ぶ」が慎重に排除されるのは言うまでもない。朝焼け雲に収斂されていく見事さ。この幻想シーンには唸らされる。その前の七頭のオバサン象によるピラミッドもかなりシュールなイメージで、幻想シーンを先取りしているような出来映えであった。話そのものも好きで、“魔法の羽根”を失って狼狽するダンボがネズミの励ましを受けて飛行に移る瞬間は、いつもジーンとしてしまう。
[CS・衛星(吹替)] 9点(2011-04-03 10:09:55)(良:3票)
51.  日の名残り 《ネタバレ》 
人は自主独立でなければならない、という現代の空気の中で、でもけっこう「執事願望」ってのもあるんじゃないか。選んだり考えたりする責任を逃れた、歯車の安楽。もちろんそれは孤独という裁きを受けるのだけれど。父の死のとき、足にマメをこさえた客のもとへ医者を連れて行くことで、その場を逃れることが出来る。立派な執事として気分も高揚できた。ユダヤ人女中解雇で少し抵抗しかけたりもするが、でも押し切ることはしない。「主人の命令」という逃げ道がある。客に社会情勢について尋ねられる(ちょっと『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』で、運転手がワインのよしあしを試されるシーンを思い出す、ヨーロッパの上流社会の陰湿さ)。これやっぱり彼の心に引っかかってたんだよね、のちにパブで、歴史に関心を持ってた、と言う。ここらへんの二重三重に隔てて感情を確認させるのが、実にうまい。けっして無感動ではない内面を、チラチラと見せていく。センチな恋愛小説を読んでいる。「語彙を多くするためです」って。ミス・ケントンが意地で婚約した晩、ワインを持って(一度階段で割ってしまう)彼女の部屋に至る。泣き崩れている彼女。ほこりが残っていた、とだけ告げてワインも置かずに去っていく。こうして彼はまた「自分の人生」から逃げる、「無感動の執事」に逃げ込む。そしてあっさりした再会、彼女は孫の面倒と、確実に外の世界に自分の場を作っている。20年目に彼は裁かれる。アンソニー・ホプキンスとしては、某博士よりもこっちで名を残したかっただろうなあ。己れの心の動きに戸惑い、それを抑える感じが実にうまいんだなあ。
[映画館(字幕)] 9点(2010-12-18 10:15:13)(良:2票)
52.  ゲッタウェイ(1972) 《ネタバレ》 
ペキンパーでは「男の美学」的なコッテリした作品が尊重され、たしかに『ガルシアの首』など傑作だと思うが、本作のサラッとしたイキのよさも好きだなあ。主人公はけっこう心に鬱屈を抱えているけど、なにせマックィーンだから、立ち居振る舞いはサラッとしている。もっぱら脇筋がコクを担当。追い続けるルディのしつこさはペキンパーの真骨頂だし、それに絡む倦怠期の獣医夫婦は笑いを担当しながらも、主人公二人の対照物として重要な存在。ベッドサイドで縛られている医者の亭主と、女房、ルディの図ってのは、牢屋にいたときのマックィーンと、アリ・マッグロー、ベン・ジョンソンの形と相似で、しかし女の心情が決定的に違うところが対比によってハッキリする。同じ「車の中の不自由」という状況、主人公二人はゴミにまみれてもなぜかベトベトした生ゴミはよけられるのに、獣医夫婦は人間用の車の中にいてさえスペアリブのベトベトまみれになっている。医者は拘束された後にカタストロフを迎えたが、こちらの夫婦はゴミ回収者という拘束から解放され愛の回復を確認する。だいたいアクションもので男女を描いた部分なんてオマケ的要素が強いんだけど、これは夫婦愛の回復が話の本筋になっていて、しかもそのことがアクションの醍醐味を薄れさせていない。またロッカーコソドロのカウボーイハット男、これももっぱら笑い担当なんだけど、鞄の中を見てウキウキするところなんか、チンケな野郎の束の間の夢がいじらしくさえ感じられて、記憶に残る。そしてラストの銃撃戦、銃声と静寂・リアルスピードとスローモーションのカットつなぎの名人芸。大好きな映画です。
[CS・衛星(字幕)] 9点(2010-11-09 10:11:37)(良:3票)
53.  天空の城ラピュタ 《ネタバレ》 
巨大な樹木がラピュタの崩壊をとどめる、というところに宮崎のモチーフの統合が感じられた。宮崎には大きく二つのモチーフがあり、ひとつは大地に根を張るどっしりとした不動性、もうひとつはそれとは逆の飛翔願望。しばしば別々に描かれるこの二つのモチーフが、本作ではラストでひとつになっている。根を張ることで飛び続けられるというイメージ、これを発見したとき宮崎は嬉しかっただろう。あと、姫と悪漢が冷たいメカニックな内部に踏み込んでいくと、有機的な根や雑草が増えていくイメージ。冷たい絶対権力として君臨していたラピュタの中心部を植物が浄化していった、というイメージなのか。いや、そういった理屈を超えた本質的な感動、室内に外界が入り込むことの驚きを伴った興奮がここにはある。なにかタルコフスキーに通じるものを感じた。今でも、室内で大麻栽培してて逮捕された、ってニュース映像見ると、ラピュタを思い出しホノボノとする。善と悪の対決後、崩壊、樹木によって楽園=廃墟のみが生き残る。文明は崩れても文化は残る、ってことか。本作はまだまだ豊かなイメージにあふれていて、海賊のママと姫を「おさげ」でつないでいること、ロボットのアンバランスな顔の効果、海賊船が布製であること、水の中の廃都…。これらは、それ以前それ以後の作品に関連がありそうなものもあり、宮崎世界のイメージ索引のような映画にもなっている。
[映画館(邦画)] 9点(2010-10-07 10:12:52)(良:1票)
54.  未来世紀ブラジル 《ネタバレ》 
たとえば、拷問の記録をタイプにとっているところ。担当のオバサンが打ってるタイプを主人公がちらっとのぞくと「HELP!」と悲鳴が並んでいる。話しかけてオバサンがイヤホン外すとじかに悲鳴がもれてくる。あるいは食事の場でのテロ爆弾の炸裂、それでもせっせと食事を続ける人たち。ドンパチやってる脇で掃除を続けるオバサン。デ・ニーロが情報用紙に絡みつかれていく脇をゆく通行人。なにか切迫した大音声の世界と、静寂の事務的な世界がつながっている。事務の静まりのほうが大音声を圧倒し包み込んでいく。これは単にギャグと言うだけでなく、現代社会そのものといった納得を感じた。そういった大音声への無関心を導く社会の果てに、ラストの「ブラジル」を口ずさむ呆けた夢の世界が待っているのだろう。そしてこれはスクリーンを観ている私たちを皮肉っているのか、という気にもなってくる。カフカ的な暗い未来社会もの、って映画はほかにもあるが、とりわけこれは笑いと戦慄の振幅が大きくて好き。オタフクの笑顔もそうとう気味悪い。この後に観たフランス映画の『デリカテッセン』てのでもラテン音楽が暗い未来社会に流れていた。一番「自由」を感じさせる音楽なので皮肉に響くのか、あるいは世界が北方的に陰鬱になってしまったので皮肉に響くのか。ラテン音楽が皮肉に響くようになったら、その社会は要注意ってことだ。
[映画館(字幕)] 9点(2010-07-19 10:57:20)(良:2票)
55.  出来ごころ 《ネタバレ》 
昔の労働者はいかに始業時間を知ったのか、ってのが気になってた。工場でサイレンを鳴らしただろうが、しだいに居住区が広がっていくと、この映画のように労働者が各自時計を持つようになったのだろう。富坊の部屋に時計があるのは子どもは早起きってことなのか、それとも喜八は文字盤を読めないってことなのか。昔の映画って、細部までいろいろ考えさせてくれるから嬉しい。で喜八と次郎と春江の三人の心模様が進行していく。恩の義理と心情と。「隣の大将をコケにさせるような真似はよしてくれ」なんてあたりに、かえって次郎の心情を暗示させている。ヤマ場は盆栽をめぐる場。喜八がぶつたびに富坊はそこを掻く。別に痛くもないやあ、という不貞腐れの表現。そして逆襲、「新聞も読めないで」。喜八ぶつ、富坊掻く、ののち、富坊が喜八をぶつ。やがてされるままになる喜八。子どもにぶたれるにまかせる親、ってのはしばしば小津作品に現われるモチーフだが、ここらへんの侘しさは一級品ですなあ。自分は字が読めない、この子は勉強できる、春江に惚れるのがカアヤンに笑われるほどの歳になっている、自分が惨めに見えてきて、でもその自分を父とする子どもが目の前にいて…。そういったあれこれが凝り固まった場。で「贖罪」で与えた五十銭玉で、富坊の病気を導く。病院代の工面、「こんなときでもなきゃ、あたしなんか御恩返しができませんもの」と春江。喜八は「そう言ってくれるだけでも、ガキぐれえ殺したって」、でも春江が一番言いたかったのは次郎に対する「どうせあたしなんか構わないんじゃないの」。こんなシーンは映画史上いっぱいあったと思うんだけど、段取りよく次郎と春江の愛の確認につなげていくうまさゆえか、泣けちゃう。盆栽からここまでの流れの自然さ、昔のシナリオ術ってのはこういうところが眼目だったんだろう。で北海道行き、かつて子どもに殴られるにまかせていた喜八は、次郎を殴る。しかし喜八をかっこよくし過ぎないようにと、ズボンをシワシワにして脱いでいた描写を、反復させる場を用意する。小津の喜劇の才と、侘しさを描く才とが、不可分に絡み合っている傑作。
[映画館(邦画)] 9点(2010-06-22 09:58:38)
56.  一人息子 《ネタバレ》 
小津の作品で「過去」が描かれた部分があるのは珍しい。大正末の信州シーンから始まる。ランプ。そこで人物を設定しておいてから、現代の東京に母が上京してくる。嫁は下宿の近所の娘だったそうで、なにやら小津の学園ものコメディを思い出す。あの青春を謳歌していた学生たちのその後。しかし現在の夜学の生徒たちはかつての学園ものと違って、坊主刈りだし生気がない。家ではずっと近所の工場の音が続いているのが、初トーキー作品ならでは。それで支那ソバのシーンでしたか。ちょいと隣の家によって「ひょっくり出てきちゃって弱ってますよ」なんてところ。これを夫婦で語ると深刻になってしまう。隣りのおばさんに軽く言って「まあ(そんなこと言っちゃバチがあたりますよ)」ってな調子で受けてもらいたいという主人公の側の期待も含まれている。つまり愚痴。こういうとこがうまい。そして埋立地のシュールな、後のアントニオーニめいた茫漠とした風景。ひばりの空との対比。夜の不満の爆発。母の性根論もむなしく響くぐらい、風景のうつろさが家族を取り囲んでいる。富坊が馬に蹴られるエピソードがあって、これで母が「お前もお大尽にならないでよかった」と結論づけようとする哀れさ。小津の主要なモチーフとして「不如意」があるが、これをすぐ「諦念」に結びつけるのは危険だと思う。どうして挫折するのか、どうして家族は一緒にいられないのか、どちらかというと小津は諦めるというより苛立ってたんじゃないか。これを「人生の味わい」なんて片づけさせないぞ、ってな意気込みを感じる、少なくとも戦前の作品では。私は基本的には明るい小津が好きなのだが、しかし本作の侘しさはコメディのネガとしてズッシリと記憶に残された。
[映画館(邦画)] 9点(2010-06-18 12:03:27)
57.  落第はしたけれど 《ネタバレ》 
これはギャグの豊富さでは、現存する小津作品の中でも一二を争う。試験場のカンニングをめぐる連発の密度の高さといったらない。四番を教えて、の合図が飛び交う感じ。教授の背中のカンニングペーパーを取り損なって、腕時計に耳を当てるリズム。あるいは下宿の仲間たちのワイワイやってる内輪の雰囲気。それらを通して「腐る」感情と「意気揚々」とした感情が交錯する(泣いてた突貫小僧がサンドイッチもらうと手をピンと伸ばして意気揚々と退出なんてのもあった)。小津のサイレント期のシナリオを読むと、失われた作品も含めて「腐る」というトガキがやたら目に付く(しばしば斎藤達雄の役どころで)。そうなのだ、小津作品とは「主人公が腐る」ドラマなのだ。意気揚々としたい学生生活・サラリーマン生活が、なんらかの障害に遭い、腐らざるを得なくなる。不機嫌を抱えたまま誰かに甘えかかって解消しようとし、活動が停滞する。それをスラプスティックな笑いに持っていってしまうところが小津の天才。止められた大きな動きは、小さな無意識の動作となって現われてくる。本作では、机にのせた足のリズム、角砂糖を放り上げて口でキャッチする遊び、などなどに。そして卒業したほうが「腐り」、落第したほうが「意気揚々」とすることになる。それだって問題が解消されたわけでなく、単なる延期ってところが苦い。純粋にコメディとしても傑作だが、時代の記録としても優れた作品。
[映画館(邦画)] 9点(2010-05-31 12:04:32)
58.  転校生(1982)
全編のトーンを音楽が決めている。トロイメライ、アンダンテカンタービレ、G線上のアリア、と、つまり下校の音楽なんだ。学校の終わりの音楽。男女未分の子どもが学校生活を終えて、それぞれ完結した男や女になっていくんだけれども、そのとき押し込められてしまう男の中の女性性、女の中の男性性、それを確認できる最後の時間を描いた作品なんだな。一夫に比べて一美のほうがやや連続性に欠けるのは(転化するとより女々しくなってしまう)、女性の男性化は進んでいるのでより極端にしなければならなかったってことか。だから逆に、城跡へ向かう列車の中で女になった一夫(小林聡美のほう)がわざと女の口調をまねる、などというヤヤコシイことも出来やすいわけ。この映画のみずみずしさ・サラッとした感じは、どろどろ情念があふれていた邦画で本当に嬉しかったものだが、さて、オカマタレントがやたらテレビにあふれている現在見直すと、また感想も違ってくるんだろうな。
[映画館(邦画)] 9点(2009-12-12 11:53:14)(良:1票)
59.  東への道 《ネタバレ》 
メロドラマの勘どころを考えてみる。都会に出ればチヤホヤされる美しき乙女が田舎に埋もれていたというのが、シンデレラ的でまずいい。その無垢と都会の色魔との対比。信頼と裏切り。不幸を一身に背負わねばならぬ女性と、無責任な男性(女性のふしだらは厳しく非難されるが、男性の場合は若気の至りということでかえって勲章になってしまう社会への批判、この批判が現在でも有効なのは問題)。死にゆく子どもに洗礼を授ける哀切。世間の代表としての無情な管理人。大きな帽子をかぶってあてもなく道をゆくリリアン・ギッシュはどうしてあんなに美しいのだろう。彼女を救う村人のやや滑稽味を交えた善意。好青年と彼女とのなんとはない予感。そして都会の悪意が田舎に流れ込んでくるあたりからグリフィス調が全開になる。噂話を持ち込んでくる女の道行きのカットと、家でのドラマの反復で、緊張を高めていく。誤解による怒りと冬の戸外への追放、そして氷の河へとドラマが雪崩れ込んでいく。グリフィスの3大メロドラマはどれも大好きだが、唯一自国を舞台にしているこれが“大げさ度”が低く、どれか一つと言われたら本作を選ぶ。ただ、テレビで弁士・音楽付きで観たこともあるが、かなり印象が違ったものになっていた。カットのリズムに耳を澄ましたいときに(じゃない、眼を澄ましたいときに)、それらの声や音が予想以上に鑑賞の妨げになってしまう。カットのつなぎめで輝いていた聖なるものが、とても俗っぽくなってしまうのだ。
[映画館(字幕)] 9点(2009-11-06 12:01:12)
60.  ウエスト・サイド物語(1961) 《ネタバレ》 
欠点を先に言っちゃうと、後半、踊りのボルテージが下がること。ストーリー上、群舞しづらくなってて仕方なくはあるんだけど、前半の圧倒的な迫力があったもんだから、冷える。そのかわりアニタが泣かせてくれるけど(自分の恋人を殺した男を助けに行くとこなんか、長谷川伸っぽい)。この映画、音楽もいいけど、踊りだよね。個人の至芸より群舞の迫力にミュージカル映画の活路を探っている。「ことば」を「ダンス」に置き換えて説明するだけじゃなく、もっと多面性を持った表現になっている。ファーストシーンなんか、たしかに踊りによる会話なんだけど、それ以上の雄弁さがあるでしょ。シャーク団がフィンガースナップを始めるところなんか、あのやろう、とか、こんちきしょう、とか言うより、ずっと「語って」いる。和解させようというダンスパーティで、パートナーをやっぱり自分の団から選んですぐマンボに移る気合い。ここは何度見てもゾクゾクさせられる。後半で唯一の群舞の見せ場「クール」は、直接には窓から「うるさいぞ」と叫んだおじさんに向けられた歌だったんだね。ガレージの中で頭を冷やしてからまた外に出て「パォ」ってやるわけ。そのときカメラは窓の位置にある。個人の恋をタップで表現するより、集団の鬱屈をフィンガースナップで描く時代になってしまったわけだ。
[映画館(字幕)] 9点(2009-09-18 12:01:49)(良:1票)
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