61. クイック&デッド
面白いと思うけどね。ディカプリオが良かったよ。キザでちょっとまぬけはキッド。個人的には「ギルバートグレープ」や「タイタニック」なんかよりこっちの方がしっくりきた。西部劇も昔と違ってゲーム感覚でマンガちっくなところが現代的ですね。 8点(2002-03-17 01:26:56) |
62. ヒート
「ゴッドファーザーPART2」以来の共演となった本作ですが、あの頃の若々しく、精悍な2人と比べると、ずいぶんと年をとったなぁという印象を受けます。(当たり前だけど) さすがに二人が対峙したシーンにはしびれたけど、「あ~、これを20年前に観たかった」と思ったのは僕だけかなぁ?でも、この長~い年月を想起させるのが、あの対峙シーンの狙いでもあったのだろうな。ドラマを越えたところに別のドラマが見えた瞬間だったのだ。うん。 8点(2002-03-01 22:05:12) |
63. ルームメイト(1992)
これを観て、ジェニファージェイソンリーがますます好きになりました。クセがあっていいですね。 8点(2002-03-01 02:09:11) |
64. 恋のためらい/フランキー&ジョニー
「スカーフェイス」の2人がこんなことになるとはね。まったく。このころのミシェルファイファーは可愛らしさがあってよかった。 8点(2002-03-01 01:52:27) |
65. プライベート・ライアン
戦闘シーンのリアルさが訴える戦争の悲惨さ。それを素直に感じてしまう心情。それはある意味で無邪気な屈託のように僕には感じられる。この映画は戦闘シーンのリアルさと戦闘従事者のある種のヒューマニティという二つの側面を持っているが、その二つの事柄がうまく整合しない、妙な座りの悪さを強く感じるのだ。作者の切実さが僕らを捉える焦点のようなものを欠いている、その硬質性、その薄っぺらさがこの時代の精神なのだろうか。そう思うと妙に納得してしまうのも事実ではあるが。<補足>映画を単なる娯楽としてのみ観る立場から言えば、どうでもいいことかもしれない。娯楽として観れば、この映画はとても面白い。しかし、それが僕らの生きる「ほんとう」を指し示していない限り、娯楽以上の価値がないということも確かなのだ。そう思ってはいけないのかな?でも、そうでなかったら、僕がここで言うことなど何もない。世の中は既に汚れちまった哀しみに満ちている。既にイノセントな立場から言えることなど何もないはずなのだ。本来的な意味でリアルとは一体何だろう?僕らはもう一度、その意味について考えるべき時期に来ているのだと思う。イラクでのアメリカ人虐殺シーンの映像がネットで公開されたそうだが、その虐殺シーンとこの映画の冒頭に描かれる兵士達の殺戮シーンとの違いは何だろうか。また、戦闘ゲームやその手のマンガに描かれる殺戮シーンとの違いは何だろうか?それは、そこに投げかけられる問題の切実さによる。そしてそれを僕らがどのように捉えられるかにもよるのだ。 8点(2001-12-19 00:18:22)(良:1票) |
66. トレマーズ
現代人は、自らの過剰さに対する幻想に囚われるものである。その顕著な例が青春時代に僕らが経験する様々な鬱屈や疎外感であるが、それらの幻想は大人への成長という物語によって回収されるのがこれまでの常であった。しかし、僕らはもう、そういう物語によって、自らの過剰さを制御できないのではないか。 現代のラディカルな心情というのは無根拠の内に潜んでいるのだ。そこには如何なる物語も届かない。共同性が壊れ、薄っぺらな幻想が崩れた地平に現われた無根拠の過剰さは、まるで映画『トレマーズ』の怪物のように突如として地上に亀裂を走らせ、人を襲うのである。僕らは何だか訳の分からない怪物を相手に戦っているのだろうか。そうであれば、セキュリティがいくら強化されても、僕ら自身で亀裂を抑えることはできない限り、それは自身の無力さを実感するしかないというものだろう。 この映画、怪物という存在の無根拠さに由来する恐怖、それと闘わざるを得ない徒労、壮大なメタファーの上に描かれた実に現代的な物語なのかもしれない。 【後記】これってモンスターと戦うゲームだったんだね。無根拠さに由来する壮大なメタファーって、要はゲーム的リアリティのことだったのか。ゲームだから単純に楽しめるんだね。。 [ビデオ(字幕)] 7点(2004-11-06 21:06:01)(良:1票) |
67. ラン・ローラ・ラン
『ラン・ローラ・ラン』は、ハイゼンベルグの不確定性原理によって見出され、シュレディンガー方程式により導き出された世界の確率論的存在、多世界解釈論に基づいている。さすがドイツ映画である。この映画は、スタートからローラという電子を発射させ、観測によって3つの違った結末(位置)を用意する。これはまさしく量子論の基礎となる「2重スリット実験」そのものではないか。。。 この実験により、電子は粒子であると同時に確率論的に存在する波であり、観測前の電子は確率としてしか存在し得ないということが明らかとなったのである。観測前のローラの世界には幾多の行き方が確率論的に存在するが、それは観測と同時に収縮する。結局、ローラは最後にどうなるのか? 生きているのか、死んでいるのか。この映画は、3つの収縮の可能性を提示したのみで、どれを選択しているとははっきり言っていない。シュレディンガーの猫は、生きているのか?死んでいるのか? 生きている状態も死んでいる状態も量子論的には同時に在りえて、そしてその状態は確率としてしか存在し得ない。あぁ、つまり、彼女(世界)は生きていながら、同時に死んでいるという、「確率」という存在でしかないのだ。。。あぁぁぁ、それを否定するには、彼女が生きている世界と死んでいる世界が同時に存在しなければならず、それは観測者である僕らが既にパラレル(多世界)に存在しているということになるのだぁ!! と、別に感嘆するまでもなく、この映画はパラレルワールドをさらりと描いているので、あまり考えすぎずにパンクに楽しむのが正しい鑑賞方法だろう。 [ビデオ(字幕)] 7点(2004-08-29 16:51:56)(笑:1票) |
68. CUBE
CUBE=システム社会というメタファーだろうか?それは違うと思う。システム社会というのは、人間の欲望を消費動力とする自己増殖的な自動機械というイメージで語られるものであるから、この映画のCUBEとは本質的に全く別物だろう。では、CUBEとは何か?実は僕にもよく分からないw これまでのホラー映画に見られたジェイソンだのなんだのの何か得体の知れない不条理な存在とも全く違う。単に幾何学的な法則に従って構成されたパズルそのもののように思える。センサーによる幾多の殺人デバイスを持ち、単純な循環プログラムを施された自動機械。そんな単純かつ完全さ故にCUBEの謎は幾何学的に回答可能だ。実際、内部の人間は数学的解法によって謎をスイスイと解いていくではないか。そんでもって、皆が一致協力して脱出、めでたし、めでたし、ではなく、そこに現れるあまりにも人間くさい闘争、チープな愛憎は、一体何なのか?はっきり言って僕にはテーマがよく呑み込めなかった。メタファーとは何かしら切実さをもって語られてこそ僕らに共鳴するものである。この映画で描かれる「CUBEという完全性に立ち向かう愚かな人間」という図式は、モチーフとしてかなり古くさいが、実はそのあからさまな捩れと薄っぺらさこそが今は新しいものなのかもしれない。その白々しさが妙にいじらしい映画ではあった。そういえば、整数というのは神的完全性を備えており、その美しさはまだまだ人知の及ばない世界だ、というようなことを最近読んだけど、そういう美しさをもっと表現できればまた違った見方ができたかもしれない。まぁぐたぐた言ったけど、面白いか、面白くないかと言ったら、まぁそこそこ面白い映画だったということだ。 7点(2004-05-19 00:20:42)(良:2票) |
69. 死の接吻(1991)
小説のネタバレにはならないので言っちゃいますけど、この映画の原作は叙述トリック(というかフーダニットかな?)の名作です。皆さんいろいろと書かれていますが、おそらくこの映画を手に取った動機というは、「ほんとに映画化できるのかよー、どれどれ。。。」と言ったところではないでしょうか。僕もそうでした。<我らがマットとショーンの共演というのも理由のひとつですが。。。> 実際に観たのはもう10年くらい前になるので、いまいち記憶もあいまいなのですが、僕の印象としてはそれほど悪くはなかった、というところです。実際、原作の一部叙述を無視すれば映画化も可能なのだなぁと感心したものです。双子っていうことで丸ごとごそっと抜けているところもまぁ仕方ないかなと。<それが大事なところで、だからダメなんだという話もあるけど;> 叙述トリックのミステリーと言えば、クリスティのあの作品やアイリッシュのあの作品がありますよね。でも叙述トリックは日本の方にも名作が多く、筒井康隆のあの作品とか、綾辻行人のあの作品やあの作品とか、我孫子武丸のあの作品とか、去年の話題になったあのミステリーもありますねぇ。まぁいろいろありますけど、日本の名作ということで左記に挙げた作品は絶対映画化できない!でしょうね。これは断言できます。。。といっても何がなんだかよく分からないか; 7点(2004-01-26 01:00:57) |
70. ベルベット・ゴールドマイン
僕が初めて定価で買った洋楽アルバムがデビッドボウイの「ジギースターダスト」だった。あれから20年ちかく経ったが、いまだに僕の愛聴版である。5~6年前にCDを購入したらExtraとして入ってたなぁ「ベルベット・ゴールドマイン」。なんかのシングルBサイドだったんだよね。確か。デビッドボウイの世界というのは多分にビジュアル的なものがあり、当時を知らない僕らには、「ジギースターダスト」を聴くことによって、そのステージングの神秘的なイメージをよく喚起されたものである。デビッドボウイには「ダイアモンドドッグス」や「スペースオディティ」という名作もあるけど、「ジギースターダスト」というアルバムは、SF的な要素を盛り込みながら、リアルタイムの音楽ムーブの末路を予見する形で、セルフポートレイト的なロックスターの隆盛をクールに演じきった記念碑的な作品であるといえる。さて、「ベルベット・ゴールドマイン」という映画は、ビデオジャケットを観れば一目瞭然、デビットボウイそのものの再現を目的としているように感じられる。ロックスターを目指した一人の美しい青年が巨大なショービズにどのような形でまみれていったか、そこで何を得て何を捨てたのか、という幾ばくかのセルフストーリーを盛り込むことによって今の時点からみた当時のムーブのある側面を炙り出そうとしているようにも見える。しかし、この映画のボウイ的な世界は、C.ベール演じるフリークの視点から描かれるが故に類型的にならざるを得ず、僕らが「ジギースターダスト」を聴いて描くボウイの意外とクールな自己演出的なイメージが宙に浮いてしまうように感じる。実はこの映画の中にデビッドボウイそのものはいない。そこにはボウイ的な世界がとても浅はかなイメージで描かれているにすぎない。まぁある意味で「ジギースターダスト」というアルバム世界をなぞっていると言えなくもないが、映画にするならそれはとても中途半端な気がする。もう少し違った見方ができるのかもしれないが、「ジギースターダスト」というアルバムに思いいれのある僕のような人間にはこんな感想しか書けないようだ。あと、C.ベールが回顧する地点の1984年というのは<ボウイも歌ってましたね。関係ないけど>、日本では洋楽全盛時代。グラムロックへの印象はだいぶ違うものを感じました。あれはダサかったのか、それとも神格化へ昇華していたのか?! 7点(2003-12-06 18:34:15) |
71. 就職戦線異状なし
バブルの時代ですねぇ。僕の就職時期よりもちょっと前のお話。こういう時代が昔確かにあったのですよ。当時の就職活動というのは、言ってみれば自己錯覚的な狂乱狂喜の儀礼だったのかもしれない。あの頃、自分を見失った人たちは、たぶん今頃大変だろうなぁ。ちなみにこの映画、作品としてはわりとよく出来ていると思います。あの頃流行ったトレンディドラマの映画版という感じがしないでもないけど。 7点(2003-10-13 15:45:03) |