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なんのかんのさんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

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841.  許されざる者(1992)
開拓時代をはるかに過ぎた19世紀末、ついには現われない絶対の聖女が初めと終わりを締める。登場人物すべてが心に棘を刺してるんだけど、主人公にとってはこの妻ね、あるいは妻の不在。伝説を終わらせていた彼女の不在によって、一度だけ伝説が戻ってしまうって話。この映画では死んでいく者の気分が強調されている。「血が止まらない」とか、便所での哀願とか、「こんな死に方をするのか」とか。これは殺す側のむなしさに移っていく気分でもある。フリーマンが捕まったことを知らせる女の馬が、チラリと見えかけたところで焦らすようにマニーと若造のむなしさに関する会話を長く入れるんだよね。でマニーが伝説の人間に戻ってしまうわけ。幽霊のように。もうお能。店の親父を、丸腰の親父を殺しちゃう。だって鬼なんだもん。そして伝説の側に消えていってしまうの。生きてるってなんて哀しい哀しいことなんでせう、という気分だけが残る。野のシーンでは風の音が聞こえ続けていた。
[映画館(字幕)] 7点(2011-11-29 09:39:35)(良:1票)
842.  風と共に去りぬ
前半あんなに面白いのに後半急にしぼむのが気になって、原作読んでみましたよ。そしたら原作がそもそもそうなんだな。前半ではスカーレットやバトラーが「個人」として実に生き生き描かれているのに、後半では「我々南部人」の物語に埋没してしまっている。それも典型的な歴史修正主義のレベルで、困ったもんです。驚いたのは、なんとなく曖昧にボカされていた部分が、原作でははっきりKKK団として登場していることで、これは『国民の創生』の時代ならともかく、30年代後半ではそのままKKKを善玉として映画化できないわなあ。そういう苦慮による屈折が映画の後半の不自由さを招いていたよう。あとで黒人俳優にオスカーを贈ったのも、何らかの配慮が働いたのかもしれない。それにしてもこういう反動的と言ってもいい原作をモダニズムの時代に発表できたアメリカの懐の深さは、皮肉でなく立派(原作出版は30年代半ばで、たとえば推理小説を古い邸宅から都会に引きずり出したエラリー・クイーンの『Xの悲劇』のほうが古典なの。時代関係で言うと、幕末を舞台にした「鞍馬天狗」がモダニズムの時代に書かれていた日本と似ている。だからこのフィルムも、国民古典文学の映画化じゃなくて、ちょっと前のベストセラーの映画化ってわけだった)。やがて敗戦国となる同時代日本の、予言的な映画として見ると興味深いです。
[DVD(字幕)] 7点(2011-11-28 09:54:14)(良:1票)
843.  ナイト・アンド・ザ・シティ
だいたいの人は「いまの俺は世を忍ぶ仮の姿だ」と思いながら生きて、そのまま年取っていっちゃうわけだけど、ときに一寸の虫の五分の魂が爆発する人もいる。人っていじらしい、それにひきかえ社会っていじらしくない。やくざな弁護士がボクシング興行に唐突に夢をかける。もう夢を持つ年齢でもないか、という照れを越え、もう夢をかなえるなら最後だ、という焦りに乗って。デ・ニーロのセリフ量の多さでは出演作中一番かもしれない。それがちょっとモタれる。それと彼だと陰影がなにか高尚に出すぎちゃって、惨めたらしさにまでいってくれない。深みがついちゃって。J・ダッシンのオリジナル(未見)ではR・ウィドマークが演じたそう。彼の夢とJ・ラングの店の夢が対になり、あと老ボクサーの夢もあり、そういった構図。らせん階段を延々と下りて外に出て行くまでの長回しがあった。
[映画館(字幕)] 6点(2011-11-27 09:42:36)
844.  空の大怪獣ラドン
理系のイメージ連鎖としては、炭鉱から石炭層、大昔の地質時代へとつながっているわけで、そこに現われる巨大ヤゴがロストワールドへの道案内となってラドンに通じていくってのは理屈では分かるんだけれど、ちょっと流れの悪い印象。文系的に見ると、地底の労働と地上の繁栄の対比となり、その地下的なものが地上へ反発する象徴としての怪鳥ということになる。どう見てもギクシャクした作りになってしまっているのは否めない、でもこの作品、都市の破壊シーンとしては私の知る限り、東宝特撮もののベストだ。怪獣が直接腕力でビルを叩いていくのでないので、壊れていく過程がよく見える。そしてなによりも名所でないのがいい。以後の作品ではシンボルとなる建築物を怪獣が一点狙いで襲うのが多くなるが、これでは福岡の街を面として破壊する。そして街の看板がいい。ただの直方体のビルではなく、看板が掛かっている私たちの身近な街が烈風によって壊されていく。乱れ飛ぶ看板や瓦、崩れていく民家の物干し台。火災も上手でちゃんとそれらしくゴーゴー燃えている(なのにラストの溶岩は実際の溶鉄を使ったそうだがショボく見えて残念)。あるいはこれは映画の手柄と言うより、時代の違いかも知れないな。新宿西口高層ビル群を初めて見たとき、何の看板もないノッペリした無愛想さに「これって怪獣にいい加減に壊されるための街じゃないか」と思ったものだった。
[DVD(邦画)] 7点(2011-11-26 10:07:28)(良:2票)
845.  アメリカの影
芸人、それも受けない芸人というモチーフは、監督のデビュー作から登場していた。慣れないジョークの練習をする。歌も本格的すぎて重く、ハショられてしまう。客との関係をうまく演じ切れない芸人。「演じること」へのこだわりは、監督の作劇法にも根ざしていて、おおむね役者に任せたって言うじゃない。演出するってことで(映画の)観客の期待におもねってしまう意識が入り込んでくるのを拒否したかったのか。観客との齟齬を感じる芸人を描くにあたって、そのドラマの演出から姿勢を決めてきている。ステージから降りても、人の暮らしは「演じること」に満ちている。「演じてしまうこと」と言ったほうが正確か。突然現われてくる人種偏見の凄味。妹が黒人青年にダンスパーティを巡って示す高慢な態度、これも「演じること」だろう。他人の存在になにやら作用を受けて、その当人が動かされてしまう。当人が動くというよりも、動かされる・演じさせられる。そういうふうに社会を眺めている監督なのだった。
[映画館(字幕)] 7点(2011-11-25 10:02:24)
846.  ライムライト
チャップリンというとペーソスとかセンチメンタルとかウェットな印象がまず来るが、個々の作品を見ると、『キッド』や『街の灯』のような作品でもけっこうシャープでドキッとする悪意を含んでおり、ベトベト甘いだけの作家ではなかった。でもセンチメンタルなものが嫌いだったわけではなく、一度そういうものにドップリ漬かってみたかったのではないか、そんなことを感じさせる映画だ。この作品に意義があるとするなら、その「湿っぽいもの」へ思いっきり身を投げ出している彼のいさぎよさだろう。本作で、もしシャープな悪意を求めるとするなら、主人公の「老い」だろう(テリーがサクラを雇ったってのが残酷の要素になるんだけど何か中途半端で、あれ最初はサクラの笑いだったのが本物の笑いに呑み込まれていった、ってことなのか)、しかしここで描かれるのはあくまで「老愁」であって「老醜」ではない。それはチャップリンの任ではないのだ。だから歯止めをなくしたセンチメントはただただ溢れ返っていく。C・Cを敬愛する私たちは、困ったことになったな、と思いながらもそれを呆然と受け止め続けるしかない。いささか臭い人生訓を語り続けるC・Cにも、前半生であれだけ沈黙していたのだから好きなだけ語ればいい、と思う。ステージの袖で立てなくなったとパニックになるテリーのエピソード挿入のぎごちなさも、見ない振りをしよう。それぐらいの義理は、彼の前半生の傑作群への利息として払う用意がある。ああそうだ、この映画で唯一感じられた悪意は、キートンにヴァイオリンの足枷をはめて走れないようにしたいたずらか。
[CS・衛星(字幕)] 6点(2011-11-24 12:19:09)
847.  ア・フュー・グッドメン
冒頭の規律正しい動きの美しさと気味悪さで、すでに作品の雰囲気が決まる。「軍はもうキューバを撤退するよ」というジョークを何の疑いもなく打電に行きかける兵士のエピソードなどでも「軍隊」を垣間見せる。ほかにも正装して自殺する軍人や、無罪になったのに除隊処分される兵士など、軍隊というものをじっくり観察していく演出。殺された兵士の視点に密着させなかったことで(邦画だったら彼の側にもっと情緒的につくだろう)、乾いたトーンが出た。殺した側の弁護でスタートさせるとこが憎い。T・クルーズが成長していくときのD・ムーアの役割りは、恋人というより正義の女神みたいなもん。前半は旗を振り、後半は後押しをする。キューバでJ・ニコルソンがテーブルで若造をコケにするあたりの「常軌を逸した社会での権力者」って感じが、やはりうまい。人間関係の調節などにまったく気にせずにやってこられた男とその環境。その尊大さ・横柄さだけなら、たぶんM・ブランドのほうが一つ上だろうが、その興奮しやすさ・馬鹿さもくるめて「軍人」という人種を嬉々として演じるとなると、ニコルソンだ。アメリカ映画でいいのは「超人」の正義でなく「僕たちの勇気」によって光りだす正義を描くとこ。法廷もの映画が流行る国には、それなりに正義を追求してきた歴史がある。
[映画館(字幕)] 7点(2011-11-23 12:48:29)(良:2票)
848.  人情紙風船 《ネタバレ》 
芝居の世話物の世界。物売りの声が流れる道、長屋の暮らし。それなら舞台のような横長の構図が似合いそうなのに、この映画で外の世界を描くときは徹底して奥に伸びる縦の構図を選んでいく。もちろん舞台との違いを映画として際立たせたいという意図もあるだろうが、別の効果も生まれた。横の構図だと人物はただ舞台の袖に消えていくだけだが、縦だとパースペクティブの消失点が生まれ、なにか消滅していくような気配が生じる。この世界から排除されてしまうような。そして実際縦長の路上を歩いた新三はやくざものに殺され、縦長の路上をさすらった海野も、縦長の長屋の路地にたたずんでいた妻女によって無理心中に導かれていく。ほんのりと暖かくあるはずだった世話物の世界が、縦に配置換えされただけでたちまち悲劇の様相を呈してくる。まるで舞台の奥へ続く花道がしつらえられたように、人々は消え失せていく。そしてやはり舞台では作れない激しい雨が、この世界の惨めさを増幅していて素晴らしかった。白子屋のお駒さん(歌舞伎の髪結新三だと「お熊」、霧立のぼるが「お熊」じゃちょっとね)に現代的なキャラクターを与えようとしたけど、うまく映画と調和させられなかったって感じがある。
[CS・衛星(邦画)] 7点(2011-11-22 09:57:56)(良:1票)
849.  フォーエヴァー・ヤング/時を越えた告白
プロポーズは決めたときにすぐやらないと、ヤヤコシイことになる、という教訓つき。人間の冷凍保存もの、ってのがこの頃ちょっと目に付いた時期でしたなあ(『レイト・フォー・ディナー』ってのが前年にあり)。この手の趣向では、世代のズレを見せるのが面白味なんだけど、これは別にそうでもなかったか。留守番電話に戸惑ってた。少年を配置して繰り返されることを強調。軍の上層部がこのことを知ってたのなら保管がずいぶんいい加減だし、よーく知ってたのならもうとっくにハリーのノートなんか入手してたように思うんだけど。「日本を襲う台風のように」なんて比喩が使われてたな。まあ全体ブツブツ言いながら見てたんだけど、ラストの再会シーンではホロリとしてしまった。こういうのに弱いんだ。意が通ずる、というか、よかったよかった、って空気。ウミカモメが浮遊してて。
[映画館(字幕)] 5点(2011-11-21 10:20:53)
850.  黒い罠 《ネタバレ》 
嫌な感じに包まれている街、夜の街、この雰囲気ね。パッとポスターに掛けられる硫酸、向かいの部屋から向けられる懐中電灯、モーテルの騒音、音楽、若者たちの小ばかにしたような薄ら笑い。そしてO・ウェルズによる殺しの場。悪があたりに瀰漫していて、そこかしこで結晶している、いうような世界をとにかく作り上げたとこが力量でしょう。冒頭の長回しは二つのカップルがもつれながら国境を渡っていくわけで、これがラストの上と下での橋渡りと対になっているんだろうね。テープの声がエコーかかりだすあたりの映画ならではのサスペンス。この導入の事件はヘストンとウェルズを出会わせるためのもので(それにしても奇妙な組み合わせだ、こういう奇妙な組み合わせも何かのきっかけで平然と起こり得るってとこ、実に映画の魅力です)、この「変なところにさ迷いこんだ」って構造は、五年後の『審判』につながっていくようでもある。フレームアップの怖さとしてはあまり伝わってこなく、もっと抽象的な「嫌な感じ」として拡大されているとこが、ウェルズ映画としての成功なのかサスペンス映画としての失敗なのか。血で汚れた手を一度は洗うが、ふたたび橋の上の友の指先から垂れてくる血によって汚されていく、って。
[映画館(字幕)] 7点(2011-11-20 12:11:48)(良:1票)
851.  戦場にかける橋 《ネタバレ》 
川の小さな滝のところで銃撃が起こると鳥がいっせいに飛び立つ。その銃声に驚かされて飛び立ったというより、血で汚された地を嫌って空へ向かった、って感じ。無数の鳥の影がジャングルや川面を走り巡る。この映画では最初から鳥の視点が批評的に地上の愚かな戦争を眺めていて、ラストむなしさが広がるクワイ河をしだいに鳥の視線になってカメラが上昇していく。脱走しヘトヘトになってたどり着いた地でW・ホールデンは、まず自分を監視している鳥に怯えるが(倒れた彼の上を鳥の影が通り過ぎていく凶々しさ)、やがてそれは凧の鳥に変わる。狂った地上を鋭く監視する鳥から、子どもの遊び道具となっている鳥へ。狂気の地からマトモな暮らしのある地へとたどり着いたことが、鳥の裏表で示された。その女こどもが暮らすマトモの地から狂気の地へ戻っていくときに女たちが付き添うのは、彼らの作戦が男たちの狂気に呑み込まれないよう、少しでもマトモな世界の空気を注入しようとしているのだろうか。この映画は英日米の軍人気質の違いを見せてはいるが、主人公はあくまでもアレック・ギネスだ。軍人としてどうあるべきか、をまず第一に考える精神主義者。ダラケていく自軍の兵士を見ることより、敵に協力しても誇りを持ってイキイキすべきだ、と考える。精神主義者として敵であるサイトーのほうに近しいものを感じてしまっている。橋の完成のためにはついに自軍の傷病兵まで繰り出そうとするあたりのノメリ込みの凄味。あからさまな狂気の描写でないだけに、彼の心に「まったく屈折のないこと」が怖く迫ってくる。「立派な軍人」というもののあるべき姿を煮詰めていくと、この狂気に必然的に行き着くだろうというところが一番怖い。
[CS・衛星(字幕)] 8点(2011-11-19 10:26:47)
852.  チャイニーズ・ブッキーを殺した男 《ネタバレ》 
いっぱしワルぶっている小悪党がズルズルとはまっていく穴。そう悪人ってわけでもないんだ。ストリップクラブのオーナー。やっと自分の店となって、一国一城の主だ、といい気分。そこでポーカー賭博ではしゃぎ大負けしてしまう。このだんだんヤバくなっていくところを、黒人の愛人の表情で見せていく。街の騒音と街の光。白人と黒人と東洋人とがもつれあう。やはり「ステージ」「芸人」「演じること」「気楽になること」といったモチーフがぐるぐると巡っていく。自分が憎んでもいない男を殺しに行くまでの経過。道路の中で車を止め、犬用のハンバーガー、タクシーを呼び、店にショーの進行を尋ねる電話をいれ(俺がいないとダメだ)、ここらへんの逼迫感。この悪役俳優監督は夫婦の確執をフィルム・ノワールのようなタッチで描いたが、実際の犯罪を描いたのは少なく、これは正真正銘のフィルム・ノワール。
[映画館(字幕)] 7点(2011-11-18 10:33:55)
853.  ちびまる子ちゃん わたしの好きな歌
テレビ版でのエッセイ的なお笑いよりもストーリーを中心にして、それにファンタジー的な音楽シーンを織り込んでいる。エッセイでは映画としてはもたないという判断だろう。しかし時間の節約か製作費の節約か、若干お手軽になり、一本の映画としては水っぽくなってしまった。買い物ブギの終わりに出てくるウサギ耳のオッサンに笑ったのと、夜のプラットフォームに明かりがついてうなぎ電車が通過していくとこが良かった(あと「めんこい仔馬」とか、この人の趣味はヒロシの一世代前のもの・さらには友蔵の二世代前のものが影響しているのか、堂々と古くて面白い)。まる子がよそのオネエサンのことばっかり言うんでつまんない実のお姉さんのスケッチなんかが入っているところの目配り。あの絵描きのオネエサンは、著者の青春の分かれ道がダブっているのかも。
[映画館(邦画)] 6点(2011-11-17 10:18:15)
854.  十三人の刺客(2010) 《ネタバレ》 
暴君を仕留めたいのか、柵で囲ったテーマパークで遊びたいのか、見てて分からなくなる。絶対有利な高いところに立っての弓を放棄して肉弾戦に移るのは、ありゃ遊びたい気持ちのほうが勝っているからとしか思えない。その前だって火牛が登場したり、よく考えると効果の分からない見た目の派手さを選んでいる。いや、派手結構よ。それならそのエンタテイメント精神で一貫してくれればいいんだけど、「命を軽んずる武士道は立派だろ」イズムがしばしば見え隠れしてて不快。だいたい「立派な切腹」シーンてのが気持ち悪く(歌舞伎みたいに完全に様式の中に閉じ込めてしまえば、切腹だろうが子殺しだろうが大丈夫なんだが)、それが頭と中盤に二つもあるのは辛かった。宿場であんな大普請してたら噂が伝わっちゃうよな、とか、どっちも金がふんだんに使えるんだ、とかブツブツ思ってしまうのも、エンタテイメントに徹してくれてないから。エンタテイメントとして楽しめるのも弓を放棄するまでの、仕掛けが繰り出されるあたりまでで(一応ワクワクしました)、大人数のチャンバラになると至って退屈。他人がテーマパークで遊んでるのを長々見せられてもなあ。良かったのは前半の屋内シーンの廊下の暗がり。
[DVD(邦画)] 6点(2011-11-16 10:21:26)(良:1票)
855.  お気にめすまま
もうちょっと前半テキパキしてくれたら、くたびれ男の恋愛ものとしてそう悪くない味わいになったと思う。妹の騒動の顛末が、けっきょく単なる痴話げんかに終わってしまい、この主人公カップルもヘリコプターから痴話げんかと見られてハッピーエンドに閉じていくあたり、いちおう対になっている構成。痴話げんかで納まる夫婦もあれば、痴話げんかをするまでになれた恋人同士もあり、まあ人間、情けないもの同士仲良くやっていきましょうや、というちょいとしみじみしたハッピーな気分。エレン・バーキンはクラシック系の歌い手には見えないな。「イオウジマ」なんて苗字は、まずないぜ。
[映画館(字幕)] 5点(2011-11-15 10:38:17)
856.  海の牙
戦争終わってすぐなんて、レジスタンスが活躍する勇壮な映画がたくさん作られていた興奮期だと思うんだけど、なんかこれは視線が落ち着いてる、状況と距離を置いて眺めている感じ。なにしろファシスト側から描くなんて発想が出てくるのは「十年早い」んじゃないか、いや悪口じゃなくて褒めてるの。いままで強固だと思っていた地盤がぼろぼろと崩れていく寄る辺のなさが、潜水艦の密閉された空間に滲み出してくる。強固な鋼鉄の壁の中で、中身だけが徐々に腐敗していく感じ。最後まで千年王国を信じることにすがろうとするゲシュタポなんか、『日本のいちばん長い日』にも似たのがいたなあ、とシミジミさせられた。そのうつろな帝国と化した潜水艦から、現実の歴史という荒波に浮かぶボートに乗り移っていく場面の、ボートとともに揺れるドキュメントタッチのカメラが効いている。語り手となったフランス人医師だけがその帝国の残骸の潜水艦に残される皮肉。ああいう語り手を登場させた意図が十全に生かされていたとも思えないが(偽伝染病発生作戦の中途半端さ、あるいは南米で彼が目に出来なかったシーンが展開すること)、全体に距離をおいた冷静さが映画に生まれた。
[CS・衛星(字幕)] 6点(2011-11-14 09:50:02)
857.  男はつらいよ 寅次郎の青春
このシリーズでは、よく人が人の家にやっかいになる。泉がさくらの家に、寅が蝶子の家に、こういうときの女主人の導き入れ具合の自然さに、気持ちのいいものがある。あんがいこのシリーズの重要なポイントかも知れない。よその人・旅人を積極的に家の中を通過させようとすること。そのことによって社会が悪く固着するのを攪拌してるような感じだろうか。もちろん、たいていが顔見知りだった村社会時代への、アナクロニズムなノスタルジーでもあるんだけど。寅は怪我さえして本当に背景に退いて、でも恋があっただけでも良かった。朝、船出する弟と蝶子さんの会話をしみじみと聞いているシーンなんか、ずいぶんと地味な味わいになってきた。
[映画館(邦画)] 6点(2011-11-13 09:48:35)(良:1票)
858.  父と暮せば 《ネタバレ》 
木村威夫の美術は『海と毒薬』などリアリズム作品でも、そのリアルさの底に怪談めいたものが潜んでいるような設計になっていて、清順映画のときと通じていた。黒木作品ではあんまりそういう印象がなかったのだが、本作では出た。実際これはリアルな怪談が、木村のセットの中で「ぶらーりたらーり」と展開していく。本作はセットがほとんどの舞台であり、木村威夫を堪能できた。舞台劇を映画化した長所はこういうところに出ているのだから、せっかく原田芳雄の一人芝居で頭上に太陽が二つ「ぺかーぺかー」と輝いた残酷さを示したとこで、CGの原爆シーンを入れてイメージをしぼませてしまうのが分からない。映画化に際しては舞台では見せられないものを提示しなければ、と思ったのだろうか。しかしああいう分かりやすく説明する画面をすぐ入れるってのは、テレビの発想だ。舞台では味わえない映画ならではのリズムは、要所で挿入される地蔵の顔や焦げた人形のカットなどにあった。直接的には「原爆瓦」など被爆資料のアップ映像も舞台ではよく見せられないもの。そういうところでちゃんと「映画」しているんだから、あのCGは不要だった。音楽。松村禎三の控え目なピアノの調べが、要所で外さずに入ってくる。静かにさざなみだった音形が反復されつつ半音ずつ崩れていくようなモチーフが印象的で、すべてを融かす原爆の不気味さと被爆者への鎮魂が同時に感じられるよう。ラスト「おとったん、ありがとありました」の決めゼリフに続いてピンとピアノの高音が鳴り、それからその崩れゆくモチーフが沁み込むように流れてくると、やはり胸がいっぱいになる。
[DVD(邦画)] 7点(2011-11-12 09:34:31)
859.  沈黙の戦艦 《ネタバレ》 
S・セガールって人、どうも魅力がわかんない。B級なのは別にいいのよ、B級ならではの臭みでも出てくれればまだ引っかかってくれるんだけど、悪いんですけど、ホントのっぺりしたデクノボーって感じで。コックが似合わねえしなあ。シナリオとしても、なにか『ダイ・ハード』みたいな弱みを与えるとかさ、オリジナルな仕掛け、個性的な危難みたいなもんが欲しいわなあ。ただ立て籠もればいいってもんじゃない。犯行も低レベルで狙いがはっきりしない。悪玉が馬鹿に見えたらこの手の話はオシマイよ。味方の攻撃をいかに防ぐかなんてところで面白くなれそうなんだけど、それはトマホーク自爆させて、みんなヨカッタヨカッタって拍手して終わりになっちゃうの。情けない。最後に主人公が軍服着て敬礼するところに、この映画の根本的な勘違いがはっきり出ていたと思いません?
[映画館(字幕)] 5点(2011-11-11 10:22:38)
860.  友だちのうちはどこ? 《ネタバレ》 
いいのは母親とのやりとりのところ。アハマッド君は間違って友だちのノートを持ってきたことを発見する。返さなければ今度こそ友だちにとって大変なことになる。返しに行きたい。しかし母親は次々に用事を言いつける。ノートを口実に遊びたがっている、と母親が誤解していることを彼自身分かっている。つらい立場だ。落ち着かない。弟は宿題を済ませたから遊べるんだよ、と母親は教訓を垂れる。そのとき彼はイライラするのではなく、キョトンとした表情で静かに困惑するのである。これがいい。イライラするのは、誰かに自分の困惑を見せたいからだ。最終的にドラマをまとめてくれる物分かりのいい大人に見せたいからだ。しかしこの映画ではそういう大人は残酷なくらい排除されている。それらしく登場する老人もけっきょく少年の足かせになってしまうし、先生もただ鈍感なだけ。少年の気持ちを汲み大人の世界に翻訳してくれる救済者はついに登場しない。少年は最後まで世界の中にただ一人で立っている。そういう少年だからこそ、別の場所に一人で立っている友人のことに心を寄せられるのだ。ただ一人で立つ少年は、責任という問題に出会っている。宿題をやることが出来なくなっている友だちを助けられるのは、彼一人しかいないというところが辛いのである。おそらく今まで一度も母親の言いつけに背いたことのない「いい子」だった彼が、ここでそれよりも「責任」を、キョトンと困惑しながら選び取っていく。イスラム社会では強大であろう親や老人たちの言いつけを越えて、友だちの家を探しにポシュテの町へ走っていく。翌朝、間一髪で彼は友人を救うことが出来る(ここらへんの友人の絶望しきった描写が傑作)。彼のしたことは先生や親に褒められることでもなく、ただ友人の心配を消したことである。その充実が彼への最大の褒美だ。そういう彼の昨晩の冒険の証人には、小さな一輪の花がふさわしい。
[映画館(字幕)] 9点(2011-11-10 10:02:51)(良:2票)
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