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やましんの巻さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 731
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自己紹介 奥さんと長男との3人家族。ただの映画好きオヤジです。

好きな映画はジョン・フォードのすべての映画です。

どうぞよろしくお願いします。


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人生いろいろ、映画もいろいろ。みんなちがって、みんないい。


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101.  星の王子さま(1974)
まだ映画館が入れ替え制じゃなかった中坊の頃、朝から夕方まで続けて3回見ました。それからサントラLPも買って、何度も何度も聴きました。その後、残念なことに1度も再見する機会がないままだけど、この映画を愛おしむ気持ちは、今も変わりません。それが多分に、記憶の中で美化されたものであることを承知しつつ、あらためてこの映画にささやかなオマージュを捧げたいと思います・・・。  ぼくはこの映画の、何よりその“小ささ”を愛する。アメリカのミュージカル作品でありながら、大規模なセットも、華麗なダンスシーンも、目を見張るようなカメラワークとも無縁な、むしろそういった「メイド・イン・ハリウッド」的な(あるいは、「ブロードウェイ」的な)要素とは徹底して逆をいくその“小ささ”を。それはあくまで原作に忠実であろうとしたからであり、「見えるもの」よりも、「見えないもの」こそが大切なんだ…と語りかける物語が要請したものであるだろう。いかにもアメリカ映画らしいスペクタクル(見せ物性)じゃなく、スペキュレイティブ(思索的)なものをめざされた映画。その静けさと、純粋さ。  だからここでは、あのジーン・ワイルダーですら驚くほど透明感あふれる演技を見せるのだし、ボブ・フォッシーの演技と圧倒的なダンスも、それ自体は過剰なまでに突出していながら、決して作品を破壊するものではない。それすら精神的なものへと消化=昇華され、この、「愛と孤独をめぐるささやかな寓話」へと内面化されていく。その慎ましい“小さな(寓話)世界”を構成するものとして、静かにおさまっていくのだ。  もちろんこの作品は、難解でも、知的ぶったシロモノでもない。だが一方で、有名な童話をミュージカル映画化した単なる「ファミリー映画」でもないだろう。これは、「本当に大切なものは目に見えない」という、その「目に見えないもの」を映画にしようとした、ほとんど無謀なと言ってもよい作品だ。そしてぼくという観客には、確かにその、「大切なもの」が見えたように思えたのだった。  ・・・たとえ世界中がこの映画を忘れても、きっと、ぼくは決して忘れない。
[映画館(字幕)] 10点(2005-07-22 14:03:51)(良:1票)
102.  バットマン ビギンズ
う~ん…。  結局この映画の作り手たちは、「バットマン」というものにまったく興味がないんだろう。原作コミックにしろ、ティム・バートンの映画化作品にしろ(あのシューマッカー監督作品にすら!)、この奇妙なコウモリ男が活躍するヒーロー譚の<本質>は、実のところ精神的・肉体的フリークスたちによるグロテスクかつバーレスクな「祝祭」としての非日常性にあった。彼は、他のヒーローたち(スパイダーマン.etc)のように正常な「日常」を回復するために闘うのではなく、逆に、さらなる「非日常」をもたらす“司祭”とも言うべきアナーキーな存在なのである。結果的に悪を倒したとしても、それは単に「祭の終わり」を告げ、もたらすものであったにすぎない。そう、バットマンとは、あのビートルジュース(!)と実は同類の、非日常世界の住人であり「怪人(フリーク)」なのだ。スパイダーマンだのXメンだのが、ニューヨークをはじめ現実の都市を舞台に活躍するのに対し、バットマンが「ゴッサムシティ」という架空の街を背景にしていることを思い出そう。もしバットマンをこの「現実世界」に登場させたなら、彼はたちまち狂人か精神異常の犯罪者として人々から石を投げられるにちがいない。バットマンが「ヒーロー」として“生きられる”のは、あくまで彼を含めたフリークスたちが思いのままに振る舞える、非日常世界でしかないのだ。…そういった“倒錯”にこそ、「バットマン」の真のユニークさがあったはずだった。  だのに、クリストファー・ノーラン監督たちは、何としてもバットマンをこの「現実」に引っぱりだそうとする。精神的フリークとしてでなく、自分の“弱さ”や心の闇を克服せんとする「求道的(!)」ヒーローとしてだ。ブルース・ウェインがカネにものをいわせてバットスーツやらモビールを開発していく過程を、映画は克明に見せてくれる。いかにも、「これはファンタジーだけど、いかにも“リアル”なファンタジーだろ?」と得意気に。だが、もはやそこに「バットマン」はいない。代わりにぼくたちは、単なる「金持ちのボンボンによる冒険物語」に付き合わされることになる。  とにかく、「バットマン」をシリアスな“色気のないジェームズ・ボンド映画”にした罪は重いぞ。…こんなの、バットマンじゃないやい!
[映画館(字幕)] 5点(2005-06-23 17:03:35)(良:2票)
103.  エメラルド・カウボーイ
この作品、1970年代に単身コロンビアに渡り、幾多の苦難の末に今や“エメラルド王”と呼ばれる日本人・早田英志の半生を描いたもの。しかも早田氏が自ら資金を出し、脚本・監督もこなし、予定していた俳優が危険地帯での撮影に恐れをなして逃げ出したため、若き日を東洋人にはまるで見えない現地コロンビア人が、現在の部分を早田氏本人が演じるという、ユニークというか、デタラメ極まりない「伝記」映画ではある。  しかし、自作自演で語ってみせた究極の“俺サマ映画”とは言え、意外にも金持ちの道楽やら、自己正当化めいた嫌らしさはない。確かに全編「いかがわしさ」がプンプン匂うものの、映画そのものは一日本人の立身出世譚というより、むしろ別の感興に満ちている。  というか、まさしくこの映画は「西部劇」として創られているのだ。ここには、西部劇というジャンルにおける約束事の、すべてがある。開拓者精神も、男の友情も、酒場での乱闘も、仲間の裏切りも、さらには凶悪なインディアンたちとの攻防戦までもが(インディオのゲリラたちとの撃ち合いとして)ある。映画の後半は、ストライキで反抗する組合員たちと早田氏たち側との対立が描かれる。これも『シェーン』などでおなじみの、牧場主と小作人たちが敵対する構図そのままじゃないか。  そう、ここで早田氏が演じているのは、決して「早田英志」ではなく、西部劇の「ヒーロー」に他ならない。彼が大型拳銃に弾を込め、ベルトに差し挟む姿を見よ。ボディーガードを従えて、街や会社内を闊歩する勇姿はどうだ。西部劇で牧場主は「悪玉」として描かれることが多いが、ここでの彼は、『赤い河』のジョン・ウェインのごとく確かに権力者にして「ヒーロー」なのだ。  …まさかこれが、ホークスの名作に比肩するものだとまで言うつもりもない。が、ひとりの日本人を西部劇の「主人公」として成立させ得た本作には、それゆえの捨て難い魅力があることだけは断言したい。実際、近年これほど西部劇としての“らしさ”を感じさせてくれる映画もそうはない。そして、「西部劇」こそが劇映画の祖型的ジャンルであるなら、この1本のうさん臭いコロンビア映画には、その「神話的」な息吹きがみなぎっている。その一点だけにおいても、これは見る価値があると思う。  …いや、本当ですってば(笑)
[映画館(字幕)] 7点(2005-06-08 20:15:12)(良:1票)
104.  ミリオンダラー・ベイビー 《ネタバレ》 
母親に家を贈ったものの、「こんなものより金をよこせ!」と毒づかれたヒラリー・スワンク演じるヒロイン。傷心の彼女は故郷からの帰り、イーストウッドの老トレーナーに「あたしには、もうあなただけ」と言う。ふたりは、老トレーナーが大好物のレモンパイが美味しい店に立ち寄る。そしてひとくちほおばった彼は、「もう死んでもいい…」とつぶやくのだ。  それは、もちろんレモンパイの美味しさに対してのつぶやきではあるだろう。けれどぼくたちは確信する。それが、「あたしには、もうあなただけ」というヒロインのひと言に呼応するものであったことを…。  イーストウッドはこれを、「父と娘のラブストーリーだ」と言う。つまり、それぞれ相手の中に「父親」と「娘」を見出していく主人公たちの“精神的な絆”と、その精神的な「愛」を描いたものだ、ということか。けれど映画を見終わってぼく(たち)は思うのだ。いや、違う。これは、「父親」のような男と「娘」のような女の「ラブストーリー」以外の何物でもない、と。「女がボクシングなんて!」とまったく相手にされなかった彼女が、それでもこの老トレーナーだけを頼りにした時から、すでにふたりは愛しあっていた。だから彼女は、まるで生を燃焼し尽くすように戦い続けたのだ。自分のためじゃなく、老トレーナーのために。彼のため、一刻もはやく「年老いる」ために!   …年老いることを、「死を目前にした肉体と精神」あるいは「死へとなだれ込んでいく状態」と定義するなら、全身マヒで寝たきりになった彼女は、もはや老トレーナー以上に「年老いた」存在に他ならない。そして彼女は、ある意味こうなることを望んでいたのではないか。何故ならこのふたりは、そういうかたちでしか「愛」を成就できなかったからだ(「父」と「娘」ではなく、ひとりの「男」と「女」になるための試練…)。確かにそれは悲劇的で残酷な結末かもしれない、けれどその時、誰がこのふたりを「不幸」だなどと言えるだろう。  ゆえに、最後に老トレーナーがとった行為は、決して社会的倫理的に“許されざるもの”ではあり得ない。あれは、まさしくひとつの、絶対的な「愛の行為」であり、ふたりが“ひとつ”になった瞬間なのだ。  そう、これは74歳のイーストウッドだからこそ撮れ、演じ得た、唯一無二のラブストーリーである。ただただ、素晴らしい。
[映画館(字幕)] 10点(2005-05-31 16:25:37)(良:8票)
105.  アレキサンダー 《ネタバレ》 
何なんだ、この“居心地の悪さ”は…。  まるで「新派悲劇(!)」のように大仰な役者たちの演技。「引き(ロングショット)」も「寄り(クローズアップ)」もほとんど考えてないかのような、一本調子のキャメラ。10何年という遠征の長さをまるで感じさせず、さらにはアレキサンダーの父王暗殺シーンの“場当たり的”な挿入や、ラストの、アンソニー・ホプキンス扮するプトレマイオスに語らせた言わずもがなの“仰天発言”などなど、一種ア然とさせられるストーリーテリングの朴訥さ。…その他、まるで「映画がやってはいけないこと」を、あえてと言うか、わざとやっているかのような感じなんですよね。  確かに戦闘シーンなど、予算をかけただけのことはある壮麗さだと認めつつ、みなさんご指摘の通り『ロード・オブ・ザ・リング』や『トロイ』などの後だと、やはり二番煎じの感はまぬがれない。しかもインドの密林におけるそれなど、まったく『プラトーン』のベトナム戦争と同じ撮り方(画面が真っ赤になるソラリゼーション処理は『ドアーズ』か…)で、斬新であるよりも、オリバー・ストーン監督の才能の「枯渇ぶり」を印象付けるんじゃあるまいか…。いったい、これが本当に「ストーン監督の生涯の企画」だったのかと疑いたくなったのは、ぼくだけ?  が、もはや「失敗作」ですらないこの映画を茫然と見続けながら、その画面の向こうに、ただ途方に暮れているオリバー・ストーンの姿がありありと浮かんでくる。何が「原因」かは分からない。けれど、とにかく本作におけるストーンは、『JFK』などのようなふてぶてしいまでの自信や強引さ(そして、それゆえの嫌らしさ)を、ほとんど微塵も感じさせない。彼らしいこれみよがしなあざとさを喪失したこの“脆弱”な超大作は、だからこそぼくのような「ストーン嫌い」な観客にとって、逆に不思議な「感銘」を与えるのも確かなのだ。…そう、一抹の悲哀とともに。  と、書いて、これと同じ気持ちを前にも抱いたことがあったことを思い出した。そう、これは、マイケル・チミノ監督の『天国の門』を見た時と同じだ…
[映画館(字幕)] 5点(2005-05-25 12:48:03)(良:1票)
106.  アビエイター 《ネタバレ》 
確かに「失敗作」と呼ばれても仕方のなかった(けれど、ぼくは大好きです)スコセッシ監督の前作『ギャング・オブ・ニューヨーク』に比べる時、いかにも楽しんで撮っている高揚感が伝わってくるぶん、楽しく見ることができた。言うなればこの映画、往年のジョセフ・L・マンキウィッツ監督の『イブの総て』や『裸足の伯爵夫人』を想わせる人間ドラマと娯楽性のバランスにおいて、最近のアメリカ映画じゃ最も「上質」な部類の大作だとは思う。けれど…  冒頭に置かれた、幼いハワード・ヒューズとその母親の奇妙なエピソード。それは、後年のヒューズが悩まされた激烈な強迫神経症の「原因」を暗示(というより、むしろ“明示”)するものだ。と同時に、彼の映画と飛行機と女性遍歴をめぐる冒険への度を越したのめり込みを、すべて母親である彼女の影響下によるものだと「分析」するものとしてあった。そのシーンがラストにもう一度登場する時、この映画が、「映像と航空機とセックスの世紀」である20世紀の象徴的人物を精神分析し、その<臨床例>をめざしたものであることをぼくたちは了解するのだ。言い換えるならこれは、ヒューズという人物の「伝記」というより以上に、彼を通じて「20世紀」という時代を“診断(!)”することをめざされたものに他ならない。  ただ、ハワード・ヒューズを単なる“マザコンの卑小な神経症患者”に過ぎない…というのが言い過ぎなら、彼をあまりにも「現代」の戯画(カリカチュア)として描くことは、一方で作品そのものを“矮小化”することにつながらないだろうか? つまり「心理」や「内面」を分析し説明しすぎてしまうことは、映画を、ひいては芸術というものをただの「人間主義的なスケール」に陥れることになりかねない…。  思えば、映画の冒頭に母親を持ってくる点をはじめ、この映画は『市民ケーン』をほうふつさせるところがある。けれど、あそこでウェルズは、主人公の新聞王と母親の関係を決して分析したりしなかった。そして映画の最後に、あの名高い「バラのつぼみ」として明かしてみせたのだった。…そういうハッタリこそが、この映画には、というかスコセッシ監督には決定的に欠けている。  同じハワード・ヒューズを描くものなら、たぶん『ロケッティア』というほとんど忘れ去られたSF冒険映画の方が、はるかに「神話的」かつ「映画的」だとぼくは思う。…
[映画館(字幕)] 7点(2005-05-23 20:49:18)(良:1票)
107.  村の写真集
映画の終盤近く、ダムに沈む村の人々を写真に撮り続ける父と息子が、山道で立ち止まってふもとの景色を眺める場面があった。そこには、山々に抱かれるようにして村落が広がり、いろんな生活風景が繰り広げられている。農作業に勤しむ老人、洗濯物を取り入れる主婦、学校帰りの子どもたち、自転車をこぐ女子高生、散歩する犬、…。そのひとつひとつを、画面は衒いなく、ただ丁寧に映しとる。そしてぼくという観客は、このなんでもない短い場面に途方もなく魅せられ、いつしか涙ぐんでいる…。  そう、これは、何よりも「風景」の映画だ。徳島の山深い自然の風景ばかりでなく、たとえば人間の日々の生活や営みをも「風景」としてとらえ、見つめるまなざしによって創られた映画。父と子、家族の葛藤と和解を主題としながら、それすらも「風景」のなかの点景として描く映画なのだ。しかも、決して高みから見下ろすような(ある種“傲慢”な)「神の視点」なんかじゃなく。  そんな、「人間」をも「風景」のように見つめること。日が昇り日が沈み、風が吹き木立を揺らすようにして“時間(とき)”が過ぎるごとく、人は生き、やがて死んでいくことを、ひとつの「風景」としてスクリーンに映し出そうとすること。…その時、この映画は、大げさじゃなくひとつの<コスモス(=宇宙・調和・摂理)>をフィルムのなかに創造し得たのじゃないか…と、ぼくは思う。  繰り返すが、それは決して「運命」だとか「死生観」だとかといっただいそれたものじゃない。それは、慎ましい人生の哀歓を、「物語る」のではなくそっと「見つめる」ことで成立していたかつての日本映画のように、ささやかだけれど美しい「風景」それ自体なのだ。  …かつて本作の三原監督が、『風の王国』で福岡アジア映画祭でグランプリを受賞した時、その作品を強く推したのが台湾の候孝賢だったという。彼もまた、「人間」を「風景」のように見出し、映し出す監督に他ならない。そう、『村の写真集』は、たとえるなら候監督の『恋恋風塵』のように美しい映画なのである。 拍手!
[試写会(字幕)] 10点(2005-05-18 15:53:09)(良:2票)
108.  地獄のハイウェイ
『ミスティック・リバー』や『L.A.コンフィデンシャル』、世間的には評価イマイチなれど、小生にはこれまた見ン事な“仕事”ぶりであると確信する『ポストマン』と、小説の映画用翻案にかけては当代きっての才人ブライアン・ヘルゲランド。でも、自分で監督すれば『ペイバック』に『ロック・ユー!』と、なぜかオフビートな「怪作」を嬉々として撮る、このキテレツな男の初期シナリオ作品です。で、案の定というか、いかにもB級ホラー風の原題・邦題とは裏腹のハチャメチャなコミカル・ファンタジー! ハネムーンの途中、真夜中のハイウェイで地獄から来た警官に新妻をさらわれた男の冒険が、テレビのバラエティ番組のコントみたいな感じでゆる~く描かれるというもの。主人公は彼女を救出すべく地獄に向かうのだけど、そこはどうみてもアリゾナあたりの砂漠。そんな中に、いきなりヒットラーが登場したりする脈絡のなさはほとんどアメリカン・コミックの世界だけど、様々な「都市伝説(フォークロア)」を飽きることなく産み出すアメリカの「社会心理学」的というか、精神的土壌(!)のカリカチュアをめざそうとしたフシが、随所に窺えるあたりやっぱりヘルゲランド節(つまり、こういう“深読み”ができるってことが)であります。重要なわき役でリチャード・ファーンスワースが出演していたり、主演であるロブ・ロウの弟のチャド・ロウも、クリスティ・スワンソン(キュート!)も、本作のC調なノリにぴったりで悪くない。これでもう少し監督に、脚本のオフビートなセンスを活かす腕があれば…と惜しまれるものの、深夜放送でひょいと出会えたなら、それなりに楽しめるのではありますまいか。《追記》あ、あのヒロインは恋人で、まだ結婚してませんでしたか…。ともあれ、久しぶりに見直してみたくなりましたよ。【なにわ君】さん、感謝! です。
[地上波(吹替)] 6点(2005-05-10 19:07:37)
109.  真夜中の弥次さん喜多さん 《ネタバレ》 
見終わって、しばし絶句。思わせぶりなモノクロ映像から始まるものの、その実まるで陰影のないペラペラの画面。もはや“破綻”などということ自体が空しくなるほど、いきあたりばったりの展開。意味深のようで、いきなりナ~ンチャッテと足下をすくわれるだけでしかないエピソード。テレビの最悪な部類のバラエティ番組に比べても「笑えない・面白くない・痛い」コント風の意味不明なシーンの数々…。なんだコリャ、悪い冗談か? と思われても仕方あるまい。  しかし、ここまで見る者に居心地の悪い思いをさせつつ、その“居心地の悪さ”には、一方で不思議な切実さというかなまなましさがある。そう、もはや失笑すら出ないような、ほとんど“不愉快”なまでのこの映画が持っている<感触>を、ぼくたちはすでに知っているじゃないのか。何故なら、それはぼくたちがこの「現実」を生きていく上で多かれ少なかれ常に感じている<感触>、笑えないコントの連続めいたリアリティの希薄なこの「現実」そのものの感触に他ならない…。  主人公の弥次さん喜多さんが、何を求めて旅を続けていたかを思い出そう。彼らは、すべてがナンセンス(=無意味)な“この世”にあって本当の「リヤル」を探していたのだった。その時、そんな二人をとりまくナンセンス(=馬鹿馬鹿しい)な事件や脱力ものの展開は、カタチこそ違えど、家庭で、学校で、職場で、あるいはこの社会のどこであれ、日々ぼくたちが遭遇し、感じているあの「気分」…リアルなものの薄っぺらさや嘘っぽさを、これ以上なく「リヤル」に表象したものとして迫ってくるのだ。  監督・脚本のクドカンは、はじめから「良い映画」なんて撮ろうなんて思っちゃいない。彼はこのフィルムに、この今という「現実」そのもの(の「気分」)だけを切り取り(=撮り)、映し出そうとした。不快で不愉快でまったりと希薄なその<感触>を、そのままこの男の「天才」はフィルムに描きとったのだ。…もしアナタがこの映画を見て不快や不愉快な思いにとらわれたなら、それは間違いなくこの映画における「正しい」見方なのです。ぼくたちは、こんな不快で不愉快な「現実」を生き、でもどこかで本当の「リヤル」を夢見て生きている。そう考えると、とても「泣ける」映画じゃありませんか…いや、マジで。
[映画館(字幕)] 10点(2005-04-20 17:34:20)(良:2票)
110.  新ドイツ零年
主人公のレミー・コーション(主演のエディ・コンスタンチーヌは、ゴダールの『アルファヴィル』でもこの“レミー・コーション”役を演じている。そこでは「探偵」として、だったが)は、東ドイツに何十年も潜伏していた西側のスパイ。しかし社会主義体制が崩壊し、東西ドイツが統一されたことで自らの「存在理由」を喪い、かつて自分が属していた[場所(=世界)]へ戻ろうとする…。  この映画を見て、まず何よりも鮮烈に印象づけられるもの。それは、主人公の「孤独」の深さだろう。かつて『アルファヴィル』において、「言葉=思考」を人々から奪い絶対的服従を強いる全体主義世界を破壊し、アンナ・カリーナ扮するヒロインとともにさっそうと車で画面から消え去っていったレミー・コーション。その“英雄”がここでは、まったく役立たずの老スパイとして登場する。しかも、その任を解かれた今となっては、彼という「存在」はまったくの無に等しい。これまでの何十年かが、ベルリンの壁が消え去ったのと同時に“零”となってしまった。もはや彼は何者でもなく、何物も持ってはいない。その深い、深い「孤独」こそが、本作のトーンを決定している。  実際、この映画は1980年代以降のゴダール作品にあって、最も沈鬱で、内省的で、夢想的だ。レミー・コーションの独白(モノローグ)は、そこで何が語られているかではなく、その言葉がどこへも行きつかず、誰によっても受け止められないことの悲哀によってこそ「意味」を持つだろう。彼は、車ではなく徒歩によって移動する。おぼつかない足どりで、凍った湖を渡り、息をきらして道ばたにへたり込む。その歩みに過去の映画の断片や歴史的映像がコラージュされる時、映画は、この老いた男こそがドイツの、ひいては西欧の「歴史」そのものの[アレゴリー(寓意)]であると観客に示そうとしているのだ。東西ドイツの統一に湧く当時にあって、そっと西欧の“黄昏”を奏でるゴダール。だからタイトルの「零年」とは、“終わりの始まり”を意味するのに違いない。  そしてそういったこと以上に、ここにはゴダール自身の心情が、その「孤独」が、これまでにないほど吐露されているのだと思う。…映画の中で、「帝国は唯一であることをめざし、人は二人でいることを夢見る」というような台詞があった。「孤独」を定義するのに、これほど美しい言葉をぼくは知らない。
[映画館(字幕)] 10点(2005-04-01 13:04:34)(良:3票)
111.  デス・レース2000年
ロードショーで見て(自慢)、キッチュなウサンクサイ面白さが「なかなか」と思っていたら、いつの間にか「おバカ映画のケッサク」としてカルト化していたのね、これ。幸い、昔に撮ってそのままになっていたTV放映時のビデオが出てきたんで再見したら、キッチュさはそのままなれど、ウサンクサイならぬただのビンボークサイ映画でしかないことに、がっかり。こういう未来の”ディストピア”な殺人ゲームを描いたものでは、(スティーブン・キングが別名義で書いた原作ともども)あきらかにこの映画の影響下にある『バトルランナー』が、質量ともに超えちゃったからなあ(賛同者は少ないかと思いますが…)。ともあれ、いかにもロジャー・コーマン的な”バイオレンス、セックス、そしてささやかな社会派ブリッコ”のなつかしい味わいは珍重に値します。聞けば、トム・クルーズがこれをリメイクするって話だし。…本気か? 《追記》いやぁ~、本当にリメイクが決定したみたいですね。で、監督が『バイオハザード』やら『エイリアンvsプレデター』の人…。いえ、まあいいんですけどね。けど、やっぱり↑の方もおっしゃる通り、ポール・バーホーヴェン作品で見たかったなぁ。せっかくのカルトな「お宝(?)」映画を、単なる頭の悪い本物の「バカ」なヴァイオレンスものにされちゃう気配が濃厚だもんなぁ…。
6点(2005-03-26 10:23:00)(良:2票)
112.  ラブ・アンド・ウォー
劇場公開当時に見たっきりなので、きちんとしたレビューが書けそうにありません。でも、少し思うところがあるので、ちょっとだけコメントさせてください。  …この映画で未だ印象に残っているのは、サンドラ・ブロック扮する看護婦が、常に“小声”でしゃべっていたことです。いや、彼女だけじゃない。年下の青年ヘミングウェイも、その他の登場人物も、誰もが決して大声を出したり、怒鳴ったりしなかったんじゃないか。第1次世界大戦の戦場を舞台としながらも、そこでは、みんなが小さな声で愛を告白し、喜び、嘆き、生き、死んでいく…。まるで、人々がすべておのれの「運命」をあらかじめ知り、受け入れているかのような、そんな小声。そしてそこから醸し出される、不思議な哀しみの感情。  たぶんそれは、この映画の物語が、ヒロインである看護婦の視点から描かれているからだろうと思います。それも、遠い昔の出来事として振り返る者のまなざしによって。  …単に懐かしいんじゃなく、今も悲哀と心の痛みをともなった「過去」を想い返すとき、それはきっとこうした“小声”の光景に他ならない。大声で泣いたり、わめいたりするより、こんな風に静かな声で語られる「過去」の方が、より深く、哀しく、その感情を伝えられるのではないか…。  ちょっとだけ、と言いながら例によってまた長くなりましたが(笑)、ぼくにはこれが、そういった“小声”のデリカシーを持った最近では稀有な映画だという「感動」が今なお鮮明に残っているんです。美しいメロドラマだと想います。
8点(2005-03-25 12:08:40)
113.  ビフォア・サンセット 《ネタバレ》 
映画の初めの方で、ほんの少しだけ前作『恋人までの距離《ディスタンス》』の映像が登場するところがある。そこには9年前のイーサン・ホークとジュリー・デルピーがいて、やはり若いというか、初々しい。その後、あらためて画面に現在のふたりが映し出される時、ぼくたち観客もまたある深い感慨にとらわれるだろう。「ああ、あれから本当に9年たったんだ…」と。  9年前に出会ったアメリカ人青年とフランス娘の、パリでの再会を描く本作。映画の中のふたりも、演じるイーサンとジュリーも、それぞれ9年という歳月を経てきたことを、この10秒にも満たない前作のインサートによって実感させる。それだけで、いとも鮮やかに虚構と現実それぞれに流れる“ふたつの時間”を重ねるのだ。あわせてこの作品は、85分という上映時間と物語の進行をシンクロさせるという“離れ業”を実現してみせる。今は作家となったイーサン・ホークがパリを発つまでの85分間を、映画はきっちり85分で描いてみせるんである!  …この「演じる役者/演じられる登場人物」、「映画の上映時間/映画の中の時間」という“現実と虚構”の境界線を曖昧化することで、そこには、「真実味(リアリティ)」という以上の「リアル」が実現されているだろう。イーサンとジュリーはただこの役を演じていうのじゃなく、この役を「生きている」という…。その上で、映画の中のふたりが「9年間」という《ディスタンス(距離)》を「85分間」で埋めることが出来るかどうか、観客もまた固唾を飲んで見守り続けることになる。それはどんなサスペンス・ドラマよりもハラハラさせられ、またどんな人間ドラマよりも人生の“真実(リアル)”に満ち、さらにどんなラブストーリーよりも“恋愛(あるいは、男と女)”そのものの核心を、ぼくたちに見せて(=教えて)くれるに違いない。  そして見終わった後に、ぼくたちはきっと確信する。イーサン・ホークとジュリー・デルピーのふたりは、間違いなく「映画史上最高のカップル」である、と。何故ならこのふたりは、この現実においても間違いなく「最高のカップル」に違いないのだから。…少なくともこの映画を見たアナタなら、その一点においてきっと誰もがそう思ったことでありましょう。  …でも、ジュリー・デルピーLOVEな小生にはツライ映画だったよぉ~。何でユマ・サーマンと別れたんだよぉ、イーサン・ホーク!(笑)
10点(2005-03-24 15:56:51)(良:1票)
114.  火星人地球大襲撃 《ネタバレ》 
【なにわ君】さん、ぼくはかなり以前に見たっきりですけど、この映画が大好きなんです! 地下鉄工事現場で謎の宇宙船が発見され、触れた者は奇怪な幻覚に錯乱状態になるという序盤から、何となく『ミミック』を想わせるサスペンスフルな趣にもうワクワク・ドキドキ。やがてその幻覚が火星人の「思念パワー」によるもので、宇宙船の中から巨大な昆虫型の火星人の死骸が現れ、博士が火星での「最終戦争」のカタストロフィを“幻視”するあたり、「ああ、エメリッヒの『インデペンデンス・デイ』でもこの設定を頂戴していたっけ」と、もう完全にストーリーに没入。そして火星人の思念パワーが全開となり、ロンドンの街に邪悪なエネルギーが実体化して人々を狂乱させるクライマックスは、トビー・フーパーの『スペース・バンパイア』と同じじゃん! と大興奮でありました。何より、あのゆらゆらとそびえるエネルギーの塊の、実に「悪魔」的な視覚イメージの卓抜さ!  そう、このたいして予算もかかっていそうにないSFスリラーは、前述の通り、その後に作られた数々の大作映画の「原典(オリジン)」として、未だその魅力を喪っていないとぼくは思っています。いわゆる「侵略ものSF」でありながら、エイリアンを未知の怪物とせず、“攻撃本能”と“憎悪”の感情の増幅されたもの、とするあたり、これがまぎれもないH・G・ウェルズの『宇宙戦争』の、巧妙な翻案であることを証明するものでありましょう。そしてウェルズの小説が、戦争と破壊の「黙示録的世紀」だった20世紀への予言と警鐘として読み得るように、この映画もまた、ひとつの「アポカリプス」の現前化として創られていることを、ぼくは信じて疑いません。  …クライマックスで、あの巨大なエネルギーの塊を「アース線」の原理で“消滅”させるあたりも、戦いの神「マルス(=火星)」に対する地球(=アース)の勝利を謳う《寓話》としてお見事! 怪奇ゲテモノ映画専門のハマー・フィルム製作であるこの作品、なかなかどうしてスミに置けない小さな大傑作だと思いますですよ。
8点(2005-03-23 18:52:34)(良:1票)
115.  A.I.
「愛って、なに?」…この単純であり深淵でもある命題とともに彷徨する少年ロボットの物語を、最初の予定通りキューブリックが映画化していたなら、一種の「オデッセイ」(『2001年~』がまさにそうだったように)として華麗に映像化したんだろうな。それをスピルバーグは、自身がそうだったように「親に捨てられた子ども」という実にドメスティックな視点から作り直してしまった。で、出来た作品は、何ともおセンチなSF版『ピノッキオ』…。でも、たぶんスピルバーグが撮り得た最もプライベートな「私映画」として、これは本当に本当に本当に残酷で、悲しくも美しい映画だとぼくは思う。実際、愛とは死に至る病なのだってことを、この映画くらい生々しく、哀しく教えてくれる映画はない。単に良し悪しでも、好き嫌いでも、面白いかつまらないかでもない、ただ「美しい」という一点で、これは、ぼくにとって間違いなく最も愛しいスピルバーグ作品です。
10点(2005-03-12 18:42:48)(良:1票)
116.  怪人プチオの密かな愉しみ
第2次世界大戦下のパリに実在した、医者のプチオ先生。ユダヤ人の亡命を手助けすると言っては彼らを騙し、次々と殺害しては金品を盗む…といった最低の殺人鬼であります。しかもこの大先生、ワクチンと称して遅効性の毒薬を注射し、のぞき穴から被害者の苦しみもがく姿を嬉々として眺めるのが何よりの愉しみ。そして遺体を焼却炉で焼き、残された遺品に高価な品があるとウヒャヒャとばかりに踊り出す始末。全編にわたって、映画は彼のこうした鬼畜ぶりの繰り返しなんですよね。…そして見ているぼくたちは、いったい人間とはここまでハレンチなまでに良心をなくし、ほとんど滑稽なまでに「残忍」になれるのかと、思わず茫然自失してしまうこと間違いなしでありましょう。  ただ、それだけのことなら、『主婦マリーのしたこと』や『ルシアンの青春』をはじめ、単なる“占領下のフランス人裏面史もの”のひとつにすぎない。フランス映画には、自国の「レジスタンス神話」の欺瞞をあばき、自分たちの戦争犯罪に向き合おうとする一連の映画や小説などが存在していて、これもその、かなり地味でマイナーな1本であるには違いありません。  けれどこの映画が本当の意味で衝撃的なのは、主人公のプチオ医師の行為を、まさにナチスによるユダヤ人完全抹殺計画(ホロコースト)の完璧な「アナロジー(類似)」として描こうとしていることでしょう。あの人類史上に例のない大虐殺は、何もナチスという集団だけの“例外的な狂気”によるものものじゃない。このプチオみたく、個人の欲望のなかにすでに存在するものとしてある…。つまり、「ホロコースト」は誰の中にも起こしうる可能性(!)があること、ひいてはナチスの虐殺に対して万人が決して「無関係」ではあり得ないことを、この映画は、卑小な殺人鬼の姿を通じてぼくたちに突きつけている。…ほら、アウシュビッツの責任者だったアイヒマンだって、“素顔”は平凡すぎるくらい平凡な人間だったじゃないか、と。  正直言って、映画としてはミシェル・セローの悪趣味なまでに誇張された演技が、ブラックなユーモアを漂わせていること以外、見ていて「面白い」と言える代物ではありません。が、ほとんど露悪的なまでに人間性の根源的な「悪」を凝視した監督のまなざしの仮借なさを、ぼくは高く評価したく思います。確かに「つまんない(!)」映画だけど、刺激的です。 一見をおすすめします。
9点(2005-03-08 10:37:27)
117.  ニワトリはハダシだ
本作の監督さんである森崎東の映画には、どんなに深刻な状況や主題(例えば「原発」やら「差別」など)を描く時でも、常に〈喜劇〉であろうとする“意志”というか“心意気”を感じさせる。社会の底辺や、社会からはみ出して生きざるを得ない人々が多く登場する森崎作品は、そんな人々の抱える悲惨さや「問題」ではなく、彼らの生きる熱気を、そのバイタリティこそを見つめようとする。虐げられた人間にも、おかしければ笑う自由(!)はあるし、耐え忍ぶんじゃなく思いっきり泣く、罵る、暴れまくる権利(!)がある! …それが森崎流の「人間喜劇」の真髄なのだと思う。彼の映画には、文字通りそういう人間たちのエネルギーこそがみなぎっている。  『ニワトリはハダシだ』というタイトルからも、そういった、この監督ならではの精神が息づいている。そう、ニワトリがハダシなら、人間はハダカだ! 「問題」や困難に直面すればするほど、われわれはハダカになって、つまり何一つ隠すことなく思いっきり泣いたり、怒ったり、笑ったりするんだ! …と。なるほど、確かにここでは驚異的な記憶力を持つがゆえに、偶然見つけた国家的スキャンダルにつながる裏帳簿を記憶してしまい、警察と暴力団の両方から追われる知的障害者の少年とその家族(しかも母親は「在日」二世でもある)の受難が描かれている。しかしそこには「社会派」風のメッセージやもっともらしい告発の姿勢じゃなく、少年一家が力の限り怒り、恐れ、立ち向かい、最後には朗らかに笑いあう姿ばかりがあるだろう。そこでは笑いと涙が、暴力と慰安が、憎悪と愛が、至るところで“衝突”しあうことで「ドラマ」が生まれる。その集積が、この、渾沌としていながらどこまでも清々しく、〈生〉への大いなる肯定に満ちた、美しい映画なのである。  最後に、出演者はみな素晴らしいものの、中でも新人の肘井美佳(まるで相米慎二監督の映画における薬師丸ひろ子のようだ!)と、倍賞美津子のオモニ(母親)役の李麗仙に、ぼくは深く心打たれ、魅せられたことを付け加えておきましょう。
9点(2005-02-24 19:42:14)(良:2票)
118.  アルマゲドン(1998)
これをリブ・タイラー出演シーン中心にまとめ直し、あのムサイ男優たちのクサイ熱演ぶりを極力削って、無理矢理にでも感動させよう&カッチョイイ映像で決めようとしていることがそもそも救いがたくダサイ演出部分を編集でカットしたなら、文句なく10点を献上いたしましょう。  それくらい、本作のタイラー嬢は美しい。あのほんのりと赤みのさした頬(しかもテレビじゃよく分からないけれど、映画館で見た時は、まだ桃のごとく産毛が残っているそのみずみずしさに陶然としたものだ…)も、じっと真直ぐ見据えられた意志的て大きな瞳も、すらりと長い手足をもてあますかのような立ち姿も、何よりあの、アンジェリーナ・ジョリーのごとき時にエゲツない“攻撃性”とは対極にある、無防備なまでに優しく柔らかなくちびるも、この映画においてひときわ魅力的に思えたのだった。それは、たぶん、きっと、それなりに迫力があるものの所詮はそらぞらしい「絵空事」のCGによるカタストロフィ場面を含め、映画自体があまりにもぼくという観客にとって「どうでもいい」程度の代物でしかなかったからだろう。他に見るべき部分が何にもないものだから、逆にリブ・タイラーだけを心置きなく愛で、慈しむことができたという…  それにしても、男ならなんでリブ・タイラーを残して、ブルース・ウィリスはじめあの汗臭いオヤジどもと宇宙なんぞに行けるものか!(あの女性飛行士は、ちょいとソソッたけど・笑) ぼくなら間違いなく彼女と抱き合いながら「アルマゲドン(終末の時)」を迎えるぞ! それこそが男の“本望”ってもんだろっ、ベン・アフレック! こんなに魅力的な女優を出演させといて、「つまらん“男気(「ヒロイズム」ともいう)”なんか、糞食らえ!」という映画を作れないところが、まあ、ブラッカイマーという御仁の“限界”なんでありましょう。  もう一度言っておこう。この映画のリブ・タイラー(だけ)は、何度も何度も見るに値する。というワケで、前言を撤回して(彼女のためだけに)満点献上!!!    《追記》一夜明けて冷静(?)に考えたなら、やはり「10」はあまりにもあまりですかね。イイカゲンですみません m(_ _)m
3点(2005-02-10 20:41:20)(笑:2票)
119.  世紀の怪物/タランチュラの襲撃
実は、クモがこの世で最も恐ろしいんです。だから、最初の方で、研究所のモニターか何かにクモの大きなシルエットが映し出されたときには卒倒しそうになりました…。じゃ、何でそこまでして見たのかって? だって、若き日のイーストウッドが出演していると聞いたもんだから…。でもそのイーストウッドが、ラスト近くでようやく登場したと思ったら、ずっと酸素ボンベみたいなもので顔を覆ったままだなんて(あのパイロットが彼だと知ったのは、呆然と見終わってからだった)。…今までに最も苦痛を伴った映画鑑賞を、どうもありがとう(涙)。とにかく、本物のタランチュラを合成した本作は、世の”アラクノフォビア(クモ恐怖症)”にとって永遠の「No1ホラー」のひとつでありましょう。 《追記》その後、“最恐のクモ映画”の座を『ロード・オブ・ザ・リング/王の帰還』に譲ることになったものの(いい歳して、マジでチビリそうになった…)、今思い返してもなかなかのSFホラーだったんじゃないかなぁ。「巨大クモが砂漠に現れ、街を襲う寸前にジェット戦闘機のナパーム弾に焼き殺される」とひと言で要約できる単純なストーリーを、フラッシュバックによる過去のシーンと現在を巧みに組み合わせた語り口が、見事にサスペンスを持続させていたっけ。二度と見たくない、でも見直してみたい1本であります。
7点(2005-02-08 15:37:39)(笑:1票)
120.  マイ・ボディガード(2004)
トニー・スコットという男、何となく「リドリー・スコットの“不肖”の弟」だの「ジェリー・ブラッカイマーの御用監督」だのと簡単に片づけてしまえるほど、実は馬鹿にしたもんじゃない。彼は、プロデューサーが期待した通りの「娯楽映画」を撮る技量において、少なくともマイケル・ベイあたりの、やたらキャメラを何台も使ってフィルムを浪費し、編集で誤魔化すばかりの「撮影のイロハも知らない」輩とは一線を画す。少なくとも役者の動かし方(たとえば本作で何度か繰り替えされる、デンゼル・ワシントンがあてがわれた部屋にダコタ・ファニングやその母親が訪れる場面。それが、どれも同じような構図でありながら、役者たちの立ち居振る舞いの的確な押さえ方によって、それぞれにまったく異なる主人公の感情を、その内面の動きを観客に伝える。確かに↓の【まぶぜたろう】さんのご指摘の通り、「やる時にはやる」んである)において、トニーはリドリーをはるかに凌駕しているとすらぼくは信じている。  けれど、タランティーノが「旬」となればそのセリフのグルーヴィ感やら香港映画テイストを。今回なら『アモーレス・ペレス』や『21g』のアレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督の時制を前後させたストーリーテリングや映像の質感を頂戴する。といった、そのときどきの最新流行の“意匠”を取り入れる「軽薄さ」がまず恥ずかしい。そこに断じて必然性はなく、単なる“ファッション(衣装)”でしかないんである。そして言うまでもなく、単なるものマネであることでその作品は、観客の眼にふれる時には決定的に「古い」のだ。いったい、古くなった「流行」にどれだけの価値があるだろう?  さらに決定的なのが、ワイドだろうがヴィスタサイズだろうが、彼の映画は常に構図が画面の中心を基点に収められ、ちっとも空間的な広がりを感じさせないこと。及び、人物を撮る時の、ミディアムショットとクローズアップの中間みたいな位置取りが、実に居心地悪いってこともある。もちろん、それはぼく個人の感覚というか生理的なものかもしれない。ただ間違いなく言えるのは、かれの映画がテレビ用にトリミングされても、ほとんど影響がない(!)ってことだ。逆に言うなら、彼の映画はテレビのモニターこそがふさわしいスケールとして矮小化されている…。  でも、そうかぁ、ハスミシゲヒコ先生は「高く評価」してるんすかぁ。
6点(2005-01-29 18:32:58)
081.09%
140.55%
250.68%
3202.74%
4253.42%
5598.07%
67810.67%
79212.59%
817123.39%
98411.49%
1018525.31%

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