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なんのかんのさんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

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1741.  路傍の石(1938) 《ネタバレ》 
おそらく現在見て一番嬉しいのは、明治の風俗の再現であろう。物売りや子どもの遊びや、昭和13年の時点でまだナマな記憶が残っていたであろう頃の再現だ。文献史料を元にした再現じゃなく、そこらにいるスタッフのだれかれに話を聞けた。大昔ではなかった、というか、現在『三丁目の夕日』を回顧しているぐらいの時間的距離だろう、いや、もっと近過去だったかな。勉学による立身ということが、何の疑いも曇りも持たずに輝いていた幸福な明治。旧弊なものはことごとく阻害者としてあり、たとえば父の山本礼三郎、あるいは伊勢屋の主人と丁稚のシステム(かつてひいきにしてくれた伊勢屋のお嬢ちゃんが、吾一が丁稚に来て吾助となったとたん横柄になる)。未来を拓いていく者は、文学青年教師の小林勇であり、絵描きの青年江川宇礼雄でありとモダンで、旧弊な側とはっきり二分されている。これはそのまま田舎と東京という二分でもあり、ラストでランプを割って電気の街に出ていくことになるわけだ。名場面としては、吾一が母の封筒貼りを手伝って間違えてしまうところ、自分に対する悔しさが渦巻くあのエピソードは本当に切ない。あとは母親の死を暗示するシーン、タルコフスキー『惑星ソラリス』の冒頭を先取りしたような、水草のゆらぎの美しいこと。
[映画館(邦画)] 7点(2009-06-07 12:02:41)
1742.  その前夜(1939) 《ネタバレ》 
幕末の京都、池田屋の近所、大原屋の物語という設定がアイデアの基本。市中を威張って歩いている新撰組に対し、絵描きら町人が「そういう時代なんですよ」と息を殺している気分は、映画製作時の軍部と重なって見えてくる。原作の山中貞雄は前年に死んでいる。でも、勤王が善で新撰組が悪という単純なものでもないところが、この映画のいいとこで、どちらかというと、政治的なものと政治的でないものとの対比なのじゃないか。絵描きが勤王派の妻をかくまうのも、ある種の親しみの感情からで、「どうも政治向きのことは…」と自分でも言っている。新撰組を狙う河野秋武(当時は山崎進蔵)も、別に長州脱藩でなくイデオロギーとは無縁、個人として辱しめられた怨みによって行動している。新撰組にも加東大介(当時は市川莚司)のような気のいい奴はいるのであり、しかし「イデオロギーなんか関係ないっすよ」というようなことを飲み屋で他藩の人間と語り合ったために切腹させられる者もいる。中村翫右衛門は、とにかく働いて上昇するためなら新撰組にだって取り入る、という町人気質の人物、川原で染めものの水洗いをしているとき、加東大介と話し合うあたりのノンキな気分がいい。別にリアリズム狙いの映画ではないが、とかくピリピリと張りつめて描かれる幕末の京都に、案外こんな気分もあっただろうなと思わせる手応えがあった。
[映画館(邦画)] 7点(2009-06-06 12:03:56)
1743.  バードケージ
オカマコメディってのには、微妙にいらつかされる。これってテレビなんかのオカマタレントにも通じるもので、差別だ偏見だって言われるとそれまでなんだけど、何と言うか、自意識過剰ぶり、チヤホヤされたがり、が引っかかる。男社会が「女性的なもの」として抑圧してきたモロモロを臆面もなく噴き出しているんだから、男社会への批評としては意味があるはずなのだが、他者の視線を意識しすぎた存在となる自分を許してしまっているところが、人の在り方として正しくない気がして仕方がない(同性愛そのものじゃなくて、それの誇示のことだよ)。でもこのいらつきを延長していくと、社会的少数者は自己主張するな、っていう“良識の壁”につながっているのかもしれず、そこはこちらの反省点。それはともかくこの映画、元は舞台劇かなんかなのか、そんな雰囲気。普通にしてくれ、と懇願する息子の向こうで、普通でない男が普通でない格好でモップを動かしてる、なんてあたりはやっぱり笑えた。ジーン・ハックマンの女装より、ダイアン・ウィーストの変身のほうが笑えた。
[映画館(字幕)] 6点(2009-06-05 12:02:12)
1744.  ハプニング 《ネタバレ》 
人々が立ち止まっている光景ってのが好きで、なにか異変が起こりかけてる雰囲気がいい。一つの拳銃が次々と渡りながら、自殺が伝播していくとこもよろしい。何かが殺しに襲ってくるのではなく自殺が伝染していく、ってアイデアはいいのだから、そこをもっと詰めてもらいたかったんだけど、けっきょく危険は外部から描かれるばかりで、もったいなかった。自分がどうかなっちゃうんじゃないか、という不安、自分の体調に過敏になっている描写があれば、もっと新鮮な緊迫感が描けたのに、風や変人といった外部にばかりサスペンスが託されてしまう。あと映画のせいではないけど、DVDのパッケージでかなり見せどころがバラされちゃってて、知らずに見てたらけっこう効いたのになあ、と思う自殺も多々あった。テレビが「当局による防衛線が張られました」と言ってたけど、そういうものが無効になる事態の恐怖を狙ってたんじゃなかったのか。“当局の防衛線”って具体的に何なんだ? それと主人公が植物原因説を採る根拠が薄弱なので、木や草がざわめいても「こちらも本気で怖がっていいのだろうか、後で引っ繰り返される仕掛けがあるかもしれないから中途半端に怖がっておこう」と用心した気分で見ることになり、もひとつのめり込めない。でも「いったい何が起きてるの?」って不安は、アメリカのトラウマになってるんだなあ、とは思った。ヒッチコックの『鳥』の、シナリオにあって最終的には使われなかったネタに、車のルーフの引っ掻き傷ってモチーフがあるんだけど、それをイタダいたのかな、あそこ。
[DVD(吹替)] 6点(2009-06-04 12:05:09)(良:1票)
1745.  燃えつきた地図
この映画の興味の一つは、『座頭市』の勝新太郎と『男はつらいよ』の渥美清という二大プログラムピクチャースターが安部公房の世界でどう動いたか、というところにあったが、率直な感想を言えば「失敗」の一言。どちらも天才的な役者だが、合わない世界というものはあり、これはどうにも合ってない。どちらも粘着型の演技で、またそれが魅力なのだけど、公房が描きたかったのはそういうものを取り去った世界なのだろう。彼らの味わいであった余分な情緒が、ここでは邪魔になる。『影武者』のときのように仲代達矢に変更されていたら、このケースではそっちのほうが良かったかも知れないし、同じ喜劇役者なら渥美よりフランキー堺のほうが合ってたかも知れない。ヌードスタジオで渥美と長山藍子が語るシーンは、テレビ版「男はつらいよ」のトラとさくらが会ってる気分。キャスティングでは市原悦子のミステリアスぶりが一番良かった。鏡像とかコップ越しの渥美とか凝った映像が、今見ると薄っぺらに見える。砂の変化する表情をあれだけ新鮮に捉えた監督だったが、都市を描くと意外と陳腐になってしまった。ただこの時代の変貌する東京とその近郊の記録としては価値が残る。公房は、公式には出来映えに満足している文章を宣伝用に残してるけど、全集に収録されたドナルド・キーン宛て私信では不満たらたらだった。4本続いた作家と監督の蜜月はこれを最後に終わる(だが公房は監督の次回作『サマー・ソルジャー』は評価していた)。都市の響きをアレンジしたタイトル曲は武満には珍しいが、そのなかから古曲が浮かんでくるあたりがあの人のタッチ。
[映画館(邦画)] 6点(2009-06-03 12:08:34)(良:1票)
1746.  いそぎんちゃく 《ネタバレ》 
カラーのポスターの印象が強かったけど、白黒映画だったんだ。白黒だと最初のクリーニング屋なんか70年代直前とは思えない昔の風景に見え、それとも高度成長期と言っても木場のあたりはまだこんな感じだったのか。この映画ではミ♯レ♯レミという音楽が流れると、男はムラムラッとして渥美マリに悪さをするキマリになっていて、それを見つけた亭主の妻が「あたし、出ていく、いいのっ!」って怒ると、亭主が「すまん、いいよ」って言うのがおかしかった。そしてとにかく男を渡り歩いていくの。大辻伺郎はもちろん、加藤嘉や牟田悌三ですら、ミ♯レ♯レミが流れ出すと、ムラムラッとする。強調されているのは渥美マリの食欲で、ラーメンをズズズーッとすするわ、別れるときもモリモリ食って「ご馳走さまでした」と去っていくわ、眼をギラギラさせてる老人の接待の料理屋でもパクパクするわ、と色気より色気以前の動物的食い気を強調、男に対してはただただ不貞腐れている。思えば渥美マリとは、60年代の今村昌平の春川ますみの食欲から、70年代の神代辰巳の伊佐山ひろ子の不貞腐れへとつないだ存在のようである。田舎の貧困や世間への怨みがモチーフとしてあるが、とりあえず掲げたという感じで、60年代末ではあまり説得力がなかったのではないか。
[映画館(邦画)] 6点(2009-06-02 12:15:44)
1747.  野獣死すべし(1959)
気分としては『太陽がいっぱい』に近いが、こっちのほうが早いのか。完全犯罪志向の青年。一番画面が緊張するのは、バーで花売り婆さんの三好栄子に、主人公の仲代達矢が金で歌わせ踊らせる場。この三好栄子の痛々しいみじめさがうまくて。センチメンタルを憎むってことを、眼をギラギラさせ渾身の力を込めて描かなければならない時代だった。仲代のクールもどこか必死、血圧の高めなクールなの。それだけ世間に蔓延しているセンチメンタルへ、新しい世代が苛立ってたってことなんだろう。映画のなかで警官が「目つきが気にくわなかったからと人を殺す時代になった」と言っていたが、でもまだクールになるためには若者も必死にならなければならなかったのだ。主人公にも、父親の自殺や貧困といった経歴が必要とされていた。犯罪者も、現代のようにノッペリとしていなかった。科学捜査とカンの捜査の対立ってようなことも描かれていて、犯罪も捜査も、質が転換しつつある時代だった。そんな時代の感触がよく分かる作品。
[映画館(邦画)] 7点(2009-06-01 11:57:21)
1748.  雲の上団五郎一座
戦後喜劇史の本によく出てくる三木のり平の「切られ与三」は、現在この映画でしか見られないらしい。その記録としてだけでも重要な映画となった。で、もちろん三木のり平はいいのだが、のり平の笑いを引き出す八波むと志(こうもり安)のキレの良さにうなった。脇でじれったがって悶える八波のツッコミが素晴らしい。初期の渥美清にもあった凶暴さを秘めた魅力。のり平と八波の芸質の違いが見事に噛み合って、掛け合いの笑いとはこうでなければならない、という見本のような出来だった。あと佐山俊二も懐かしかった。田舎から出てきて都会で戸惑ってるおとっつぁんというような、オドオドした笑い、この種の笑いを受け継いでいる人はいないのではないか。というより喜劇人という人種が表舞台から消えてしまっているんだな。由利徹はあまり出番がなく勿体なかったが、西部劇のならず者タイガーがまあまあ。これらベテランに対してフランキー堺も頑張ってはいたけど(弁慶でデタラメ言う、旅の衣はスズカケの~、がスズカケの小径になったり)、やはり長年舞台で鍛えた喜劇人の粘度と比べると、サラサラして感じられる。切られ与三とドドンパ・カルメンでは落差ありありだった。舞台上で十分に練り上げられた時間の蓄積の違いもあろう。劇中の一座の芝居のあまりのひどさに、小屋主のアチャコがヨイヨイになってしまう。「笑わせようとしてないのに客を笑わせてしまう笑い」を、芸達者な人々が見せるから芸のある笑いになるのであって、現在はこれがそのまま通っちゃってるからなあ。とにかく喜劇人俳優名鑑のような映画で、エノケンからフランキーまでの豪華な顔が一堂に揃って見られるだけでも、お得な作品です。 
[映画館(邦画)] 7点(2009-05-31 12:11:13)
1749.  右門捕物帖 拾万両秘聞 《ネタバレ》 
ああそうか、金田一シリーズの加藤武のルーツは、この志村喬の“あば敬”にあったのかもしれない。ヨシッ、分かった、とひとり合点し、見当違いの人間をしょっぴいていっちゃう、という役柄。志村喬の軽躁さと対照的に、アラカンはずっと大きな動きを見せずにムッツリ考え続け、「伝六、カゴを呼べ」で一気に動き出す。序破急の呼吸。時代劇でヒーローが悪漢を捕らえるときって、眉間にしわをよせ大仰に何かをこらえる表情をするのは、「てめえのような悪漢を含む世界全体を憂えてるんだ」ってポーズなのかなあ。それぐらい悲壮感に満ち満ちた表情になる。それとも「てめえのような汚ねえ野郎とは、仕事だからいやいや関わってるんだ」という軽蔑なのか。半世紀以上たってもテレビ時代劇の松平健あたりにまでつながっている伝統の眉間のしわだ。ドラマとしては、冒頭に刻限を決めた約束があり、ラストで切腹からのぎりぎりの救出があって、整えられている。十万両奪取の動機が複雑な政治的陰謀ではなく、恋のもつれというのがアッケラカンと分かりやすい。芝居小屋は時代劇ではよく背景に使われるが、味わいがあっていい。これでは犯罪で使われたシビレ煙幕と芝居の児雷也の仕掛け煙幕とが絡んでくる趣向で、ドラマの悪にも芝居の悪のようなおおどかな気分が添う。
[映画館(邦画)] 6点(2009-05-30 11:58:39)
1750.  ぐるりのこと。
一方に20世紀末の世間を騒がせた事件史があり、一方に無名の夫婦の歴史がある。でもこうして裁判所での事件を並べてみると、個性的に見えたそれぞれが同じ「社会からの逃走」という病いの別の症状の現われに見えてくる。また、妻の母に認められるまでの夫婦史を眺めていると、世の夫婦というものは同じようでいてそれぞれの特殊を生きてるんだな、と思わされる。普遍と特殊がスルリスルリと交替しあっているような世界観。それらを貫いているのは「人生から逃げない」ということ。別に歯を食いしばって抗うことでなく、柔軟に、しかし逃げないということの大切さ、そんなテーマの周辺を回っていたような気がする。「とにかく面倒なことからは逃げよ」という人生訓を守って生きてきた者にとっては、粛然とさせられる。法廷スケッチという一日だけ有効な絵と、寺の天井画という永く残る絵、でもそれらが等価に支えあって夫婦になっており、また社会が成り立っている、そんなことを見ながら考えていた。夫婦のいさかいなど、長回しで場の雰囲気をそっくり捉えるところが、うまさ。ただ親戚連中は、時代の変化を見せるために動員されたような感じで薄っぺらい。それと天井画ってのがやや唐突だったような。
[DVD(邦画)] 6点(2009-05-29 12:07:23)(良:1票)
1751.  D.N.A.
動物保護運動に押されてアメリカを出たモローが、日本がリゾート化に失敗した島にやってきて…、と百年前の原作を現代風にアレンジしている。でも基本にあるのが、人=理性、獣=本能という、百年前の単純な二分化で、現在この話を描くのなら、やはり主人公を獣人側に据えて語るぐらいの視点変更が必要だろう。百年前だと、獣人たちの“父”への復讐、ってのに共産主義の脅威を重ねて見る気分があっただろうが、今だともっと根源的な、創造主への殺意という「フランケンシュタイン」以来の怪奇ものの伝統にのっとった深みに迫れたはずである。まあこの頃はもう、マーロン・ブランドがB級映画界のシンボルと化していた時代で、その期待されるB級精神に誠実に沿って作られた作品ではある。ショパンのポロネーズを弾くシーンなぞに味わいはあったが、タイトルの、リズム打楽器に乗って単細胞やら多細胞やら目やらがアップしていくとこが、一番興奮できた。
[映画館(字幕)] 5点(2009-05-28 12:00:23)
1752.  リチャードを探して
lookingにkingが隠されてる、という原題の趣向。脚注映画というか。「リチャード三世」をダシにおしゃべりをする楽しさ。いささか啓蒙的な姿勢がなくもない。アメリカのヨーロッパコンプレックスってのは、自分たちでも自覚しているようで、それでもやはり憧れてしまうってとこが可憐である。ちょっと思ったんだけど、英語圏の俳優は、原作そのままでしかしゃべれないので可哀想だ。リズムの決まりがあるんでしょ、それに縛られてしまう。そこいくと日本はじめ外国語圏は、演出によって幾多の翻訳の中から選べるって利点があるわけ。でも、アン王女を誘惑していくあたりの言葉のうねりは、きっと英語ならではの味わいなのだろう。「リチャード三世」を日本に移し替えるとしたら、戦国武将よりやくざの世界がいいかもしれない、などと思った。
[映画館(字幕)] 6点(2009-05-27 11:58:09)
1753.  パラノイドパーク 《ネタバレ》 
美少年がシャワー浴びたり着替えたりしているのを、舐めるように観察している監督に付き合わされた映画という気がしないでもないが、いちおう表向きのテーマとしては、しだいにヤバい感じが迫ってくる少年の心理スケッチってとこか。おどおどした気分と、そこから脱出したい願望のようなものが、絡まり合って並存している。ヤバい感じを迫るのは、桜金造似の東洋系刑事だったり、テレビの黒人アナウンサーだったりするのは偶然だろうか。イラク戦争の実感がピンと来ないという白人少年の周囲を、有色人種がゆっくりと固めていく。スケボーの上下にうねる画面と、静かに滑るような水平の移動撮影が対比的に登場する。うねる画面のときにのみ少年らは生き生きとし、学校の廊下をゆっくり移動で捉えたシーンは『エレファント』の惨劇につながっていくようなおぞましさがある。そして実際、大がかりな水平移動である貨車で惨劇が起こるわけだ。音楽が、ラジオをザッピングしているような変な使用法で、事件のときにはベートーヴェンの第九、モールを移動しているときはフェリーニの「魂のジュリエッタ」、ガールフレンドと喧嘩別れするときは、彼女の声が消えて「アマルコルド」が流れ出す。この全然合わなさが狙いなのか、分からない。フェリーニの時代の牧歌的な悪童と対比してるって感じでもなさそうだし。
[DVD(字幕)] 6点(2009-05-26 12:08:15)
1754.  リディキュール
エスプリってのは、単にちょいと気のきいたことを言う、って程度のものじゃないんだ。実にナマナマしい、丁々発止の武器なの。日本の王朝時代の和歌に近いのかも知れない。自分で笑ってはいけない、とか、駄ジャレはいけない、とか決まり事がきちんとある世界。本筋は、田舎貴族がエスプリを武器に、しかしそういう社交とは正反対の干拓事業を目的としてノシていく展開。ロシュフォールが、エスプリを言うチャンスをのがして悔しがるのが、おかしくも真剣で、確かに馬鹿馬鹿しい時代ではある、革命直前の頽廃感もあるが、こういう時代がモーツァルトの音楽を生んだのも事実で、そこらへんの愚劣と愚劣が織りなす華麗との対比が、たぶんこの映画の味わいなのだろう。貴族と対照されるのが聾唖者で、しゃべる武器を持たない者たち、彼らがまた映画を広げている。
[映画館(字幕)] 7点(2009-05-25 12:00:40)
1755.  秘密と嘘 《ネタバレ》 
脇筋のカメラマンの家庭から入っていく。写真家とは、真を写す仕事でありながら、嘘を形作ることもある。主人公のシンシアは下町的、若いころの北林谷栄的。ホーテンスは検眼師、よく見極めようとする仕事だ。こうバラバラにドキュメンタリー的に始めて絞っていく。駅での親子の出会い、娘だとハッと気がつくときの、おかしみと厳粛。二人の密会も、奇妙なお見合いのようでハラハラする。情けない自分を見せてしまいやしないか、と思いつつも、会いたい気持ち。でロクサンヌの誕生パーティだ。姉が友を連れてくると言われたモーリス、妻に相談すると「すぐにOKしてくれないと、カカア天下みたいで困るじゃないの」と言われる、こういう些細な描写がいいの。で事実をしゃべってしまい、いさかいから浄化へという段取り。ある種の満足を与えてはくれるけど、定型に落ち着いて、もっと別の展開を期待してた気持ちには不満が残った。ドキュメンタリーで古風な物語を語られたような。登場人物たちに愛着を感じるけど、ホーテンスは役どころのせいだろうが、彼女だけノッペリした造形になってしまっていた。
[映画館(字幕)] 7点(2009-05-24 12:06:51)
1756.  純喫茶磯辺 《ネタバレ》 
人々の心模様が描かれるという点では、伝統的な日本映画。チャランポランのお父さん、イマドキの娘、ちょっと離れて別れたお母さん、といるとこに、風来坊的な美人のモッコさんが、掻き回しに登場してくるという段取り。彼女のキャラクターが、サッパリと現代的なようでいて(配ってくれと頼まれたビラをあっさり捨てたり)、古風な愛想尽かしの場を演じてみせたりして、屈折を持たせている。飲み屋での愛想尽かしの場は、けっこうジーンときた。その前に、元カレに「おまえはどこで何やったってダメだ」と決めつけられ、いや自分にはあの喫茶店という居場所がある、と心のよりどころに出来たその直後、娘に当たられて、「お客とやっちゃいました」って、愛想尽かしをさせる言葉を笑いながら言う。歌舞伎では「愛想尽かしもの」ってジャンルがあるくらいで、義理のためにわざと惚れた男に愛想尽かしをさせる場、ってのが日本人は好きなの、そういう古風な型が現代風俗の中でもまだ有効であることを見せてくれた。娘があとで、モッコさんに謝らなくちゃと思い、走る彼女を父さんの自転車が追い越していく、なんてとこがきれいに決まっている。店の客では、いつもマスターと間違われる寡黙なミッキー・カーチスもいいが、「あんた九州出身?」の斉藤洋介が好き。ロケは東京の和泉多摩川商店街らしく、東の荒川などでロケした映画だと、すぐ土手を使って画面にアクセントをつけたがるが、西のこれではそういうことしてない。下町じゃないんだ、どこにでもある郊外住宅地なんだ、って感じなのか。
[DVD(邦画)] 7点(2009-05-23 12:08:42)(良:4票)
1757.  学校Ⅱ
後半、吉岡秀隆がクリーニング工場で勤め出してからのあたりが、山田監督お得意のところだ。無力感に負けそうになる青年。その前に発表会があって、心が広がり出してきたところでドンと世間が立ちふさがってくる。大きなしくじりをさせるわけでなく、些細な描写を重ねて、「もっと馬鹿だったほうが幸せだなあ」という言葉に至る、ここらへんがいい。“厄介もの”でも“無垢な天使”でもない、一人の人間としてのタカシが見えてくる。冒頭とラストに風船を配して、山場に気球を持ってくる。イージーではあるけど、そのイージーな“夢のような”気球が、現実の厳しさを際立たせた。ホテルで働く先輩が「我慢しなきゃ」を繰り返す。それが我慢を強いるものの存在を、また逆方向から際立たせる。あからさまな差別や偏見の描写をせずに、しかし親身になって他人のことをおもんぱかる暇のない“世間”を浮かび上がらせていく手際は、やはりうまいと思う。でも卒業式で先生たちが泣くのはよくない、少なくとも生徒たちの前では泣かないでいてほしい。
[映画館(邦画)] 7点(2009-05-22 12:06:46)(良:1票)
1758.  笛吹川
この映画、特殊なカラー効果が印象に残るが、音もいいのではないか。主人公たちの家に“政治”がかかわってくるときは、橋の板を踏むバタバタいう音が、まるで歌舞伎の、あれ何て言うの、舞台の端に座ってて板を打つヤツ、あのように響いてくる。原泉の御詠歌のチリンチリンが、戦闘場面の間にも鳴り渡る。まあ原作が傑作なんだけど、傑作文学を映画化して傑作になった稀有の映画だ。やたら被害者意識のみが蔓延してた中で、戦争で生き生きとする庶民て視点が新鮮なんだろうな。つらい日常を忘れさせてくれる祭りの興奮であって、親方様にさんざん痛めつけられても、先祖代々御恩になって…、っていうとこほど戦争における庶民を批判したものはない。けっして庶民は一方的な被害者ではなく、戦争を盛り上げた当事者でもあった。一方、親方様への怨みだけで生きている荒木道子もすごく、息子ともども山門で火に包まれながら、親方様の滅びに歓喜するところ。ラストで高峰秀子が行列に着いていってしまうとこのみ、やや湿り気を帯びたが、あれは思えば『陸軍』の母親にそのまま一緒に行かせてやったものだな。一家が戻ってきたらどこに住もうか、と老夫婦が相談してる場のほうがゾクッとくる。ともかく戦争における庶民を批判する映画で、これほど厳しいものはあんまりなかったと思う。やがて『心中天網島』で夫婦をやる二人が、ここではういういしく兄妹をやってた。
[映画館(邦画)] 8点(2009-05-21 12:06:27)
1759.  ダージリン急行 《ネタバレ》 
移動撮影が、対象を追って動くというより回り舞台的な効果を狙っていて、特徴。こっちで何かしていて、それであっちのほうは…、というふうに、対象以外にヨソミをするような移動やパンなの。横に長い列車を行ったり来たりする、そのキョロキョロしている感じがちょっと面白い。インドでの子どもの葬式が終わって、帰りのバスを待っているところ、90度のパンで、前方、横手、後方、とキョロキョロ見晴らす。でそれがなんだ、と言われると困るけど、ちょっと面白かった。しかしあくまで「ちょっと」なのであって、一本の映画としては、私には物足りなかった。それぞれ疑心を抱きながらインドを旅する三兄弟って設定はまずくなく、もっと愉快に作れそうなのだが、下手に突っ込むよりオシャレにまとめるほうを狙う監督らしく、トボケた味の笑いをつないでいくだけ。でも最近の傾向ってこれなんだよね。サラサラした触感を重視する。やたらはしゃがれるよりはいいけど、物足りなくもある。でも好みの時代の変化じゃ仕方がない、とも思う。エンディングの「オー・シャンゼリゼ」は、冒頭の短篇にまたつながっている、と考えていいんでしょうか。ビル・マーレーは日本からインドと、ここんとこアジアを歴訪しているようだ。
[DVD(字幕)] 6点(2009-05-20 12:04:10)
1760.  奇跡の海 《ネタバレ》 
タイトルも手持ちのカメラで撮る徹底ぶり。このドキュメンタリータッチが、ラストの感動を嘘っぽくさせないのに成功してたのだろうが、長時間手持ちでやられると生理的につらく、船酔い状態になるのは何か考えてほしい。この人の初期の映画では珍しく催眠術が出てこない。でも主人公ベスが、この世とこの世ならぬとことの境界にいるような人で、神との対話を一人で繰り返しているのなぞ、一種の催眠術であろう。神を中継して人を愛する、ってのが向こうの考え方なんだろうなあ、一番こっちには分かりにくいところ。愛の証を見せなければならない相手としての神。そして試練という考え方。夫の懇願によって為されるふしだらの判断は神まかせになる、生け贄という考え方にも通じていく。フロイド学派ならなんか説明してしまいそうだけど、あちらの神の話になると、根本のところの分からなさばかりが際立ってしまう、とりわけデンマークの映画では。章の境にはいる絵葉書カットが実に美しいが、こういう美には溺れない映画にしようとした監督なのであった。
[映画館(字幕)] 7点(2009-05-19 12:17:24)
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