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プロフィール
コメント数 404
性別 男性
ホームページ http://onomichi.exblog.jp/
年齢 55歳
自己紹介 作品を観ることは個人的な体験ですが、それをレビューし、文章にすることには普遍さを求めようと思っています。但し、作品を悪し様にすることはしません。作品に対しては、その恣意性の中から多様性を汲み取るようにし、常に中立であり、素直でありたいと思っています。

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1.  ブラス! 《ネタバレ》 
イギリス・ヨークシャーの炭鉱町のブラスバンドが全英コンテストを勝ち抜いていく素晴らしきミュージカル映画、、、ではない。この映画は、とてもポリティカルな作品であり、その全てがダニーの最後の演説にあったのではないか。  ロイヤル・アルバートホールでの大会決勝戦。炭鉱の閉鎖、失業、借金、家族離散、闘病、自殺騒動など、幾多の困難があり、それでも音楽を自らの誇りとして、バンドメンバー達は決勝の舞台に立つ。最高の演奏をして、優勝を手にした彼らの喜びは本物であったに違いない。バンドが生き甲斐であり、全てだったダニーが観客を前に言う。「以前は音楽が大事だったが、人間の大切さには及ばない」と。炭鉱が閉鎖され、失業し、生活の糧を失って、それでも彼らは音楽を続けていくことができるか? 答えはノーだと。  1984年の全英ストから10年。イギリスはサッチャー首相の元、「小さな政府」を政策の根本として財政を立て直し、様々な民営化や規制緩和を進めた。その結果、新自由主義、経済至上主義の中で地方経済はズタズタとなり、失業者が溢れることになった。そういうイギリスが抱える背景の中に、この物語はある。  アルバートホールでの決勝戦、彼らは素晴らしい演奏をして優勝した。しかし、音楽は彼らの生活を救わない。その将来に明るい希望は見えない。最後の演奏は彼らの音楽に対する信と自らの誇り、そのギリギリの成果であったが、将来に生きる希望がなければ、その意志は持続しないのだと。状況は、正にBrassed Off (うんざり)なのだ。  それでも、僕は思う。この映画の素晴らしさは、やはり音楽にこそあると。ダニーの病室の前で、メンバーたちがヘッドライトを付けながら演奏する「ダニー・ボーイ」。テナーホーンを失ったアンディが口笛を吹く。音楽は、言葉や政治、諍いを超えた感動をもたらす。それが何かを生み出すという可能性。ダニー親子を救い、彼らをギリギリのところで繋ぎとめたのは音楽だった。そういう音楽の力を感じさせる素晴らしきミュージカル映画、、、かな。やっぱり。
[インターネット(字幕)] 8点(2012-07-23 08:14:35)(良:1票)
2.  男はつらいよ 寅次郎紅の花 《ネタバレ》 
男はつらいよのシリーズ最終作である。最後を飾るマドンナはリリーこと浅丘ルリ子。  元々49作で満男と泉が結婚するストーリーが予定されていたというから、いみじくも最後となってしまった作品と言った方がいいのだろう。リリーと寅さんはいつもと違って、とらや(くるまや)でのケンカ別れもなく、2人連れ立って奄美大島のリリーの家に向かうのだが、結局のところ最後に別れてしまうので、シリーズとしては未完なのだ。 渥美清本人の病状がかなり悪化していたこともあり、寅さんの体の衰えぶりが目に付いて仕方がなかった。呆けたような表情、かろうじて演技しているといった体。仕方がないとは言え、その姿が痛々しく、観ていて辛いものがあった。  ゴクミシリーズ、満男と泉の久々の共演。満男の行動は少し過激ですごく無様だったけど、最後にお互いの気持ちが通じ合うことができてよかった。二人が清々しく、爽やかでよかった。  ということで、『男はつらいよ』もこの辺でお開きということに。。。
[DVD(邦画)] 8点(2012-04-30 23:44:16)
3.  男はつらいよ 拝啓車寅次郎様 《ネタバレ》 
マドンナはかたせ梨乃。  46作と47作はゴクミが出ないゴクミシリーズ。満男の旅と旅先での出会いが物語の中心となる。今回の舞台は琵琶湖の畔、長浜である。考えてみれば、『男はつらいよ』とは、第1作目で満男が生まれ、彼の成長と共にあった。1969年。それは僕の生まれた年でもあり、彼の成長と共に画面に映し出される時代の風景は、僕と共にあったものでもある。だから僕はこのシリーズが好きなのかも。  46作以降の寅さんは動きが緩慢で表情も硬く、常に眉間にしわを寄せている姿はまるで生き仏のよう。しかし、彼の培ってきた魂はしっかりと満男に受け継がれていることが最後のシーンで分かるのである。満男の最後の独白。彼が最近、寅さんに似てきたと言われていることに対して、「他人の悲しさや寂しさがよく理解できる人間」だから彼は伯父さんを認めるのだと言う。満男は世間よりも寅さんに心を寄せる。彼は成長しつつも、世間に染まりきらない、ある意味で「常識」の象徴たる博やさくらと対立する人間(寅さんと同様)として描かれているのだと僕には感じられた。  ゴクミ不在のゴクミシリーズはなかなかいい。牧瀬里穂も可愛かった。。。
[DVD(邦画)] 9点(2012-04-30 23:44:14)
4.  男はつらいよ 寅次郎の縁談 《ネタバレ》 
マドンナは2回目の松坂慶子。  ゴクミシリーズもゴクミは不在。今回、家を飛び出すのは就職試験に落ちて自分に自信を失ってしまった満男である。但し、自分に自信を失ったという見方はあくまで博やさくらの親側からのものであり、満男としては、伯父の寅さんの生き方を常に見てきたことで、自分の目の前にせまるサラリーマン人生に疑問を持っていたことが根本にある。(当時の感覚としてそれは僕にもよく分かる。サラリーマンとして定職に就くというのは一種の喪失感として捉えられていたから。)  今回は満男も瀬戸内海の琴島で人から頼られる経験をし、ちょっとした恋(浮気?)もあり、人間として成長する。そして、柴又に帰ってくる。話だけからすると、島での満男は都会から来た「まれ人」であり、結局は都会という現実に帰っていくわけで、あくまで現実は都会の側にあるという風に見えるかもしれない。しかし、今回のドラマの白眉なところは、島の人々の生活をリアルに描いたことにあるのだと僕は感じた。生き生きとした島の生活があり、それは満男にとっても夢ではない、確かな手ごたえのあるものとして受け止められたはずである。生きるということそのものの対象として、山田洋次監督はそのリアリティをしっかりと伝えようとしている。
[DVD(邦画)] 9点(2012-04-30 23:44:11)
5.  男はつらいよ 寅次郎の青春 《ネタバレ》 
ゴクミシリーズの第4作目。  渥美清の病状が悪化したこともあり(肝臓がんの発覚)、寅さんの表情が硬く、声が掠れ、動きも鈍い。その分、満男が活躍し、ゴクミとの新幹線の別れのシーンなど、なかなか魅せるのだけど、やっぱり寅さんに元気がないのが気にかかってしょうがなかった。初期作と続けて観た為にその衰えぶりが否応なく目についてしまう。寅さんのマドンナ役、風吹ジュンとの恋愛模様にリアリティがなかったのも致し方ない。  満男のシーンに流れる徳永英明の音楽が妙に印象的だったな。
[DVD(邦画)] 8点(2012-04-30 23:44:08)
6.  男はつらいよ 寅次郎の告白 《ネタバレ》 
ゴクミシリーズの第3作目。  今回の舞台は鳥取倉吉。ゴクミシリーズの満男の奮闘ぶりはなかなか面白い。以前はしっかりものという印象の満男であったが、ゴクミシリーズ以後はダメダメぶりがすっかり定着。さくらや博をやきもきさせて、ちゃんと寅さんの代役を務めております。恋をする人間は何故無様なのか? 恋愛はみっともなく、時に悲しい。そのことに気付き、寅さんの生き様を理解する満男。彼の最後の独白が胸を衝きます。  時代はバブルも後半(というか実際はもう弾けているのだが)。ついにとらや(くるまや)にもバブルの余波が。。人手不足を嘆くタコ社長や寅さんの姿に時代を感じるなぁ。あと、寅さんのマドンナ役には吉田日出子。甘い声が魅力的でした。
[DVD(邦画)] 8点(2012-04-30 23:30:53)
7.  男はつらいよ 寅次郎の休日 《ネタバレ》 
ゴクミシリーズの第2作目。  前作同様に寅さんと主役を分け合うのは満男と泉である。40作前後の寅さんの低迷ぶりを思えば、上り調子の満男を中心とした展開もシリーズとしてアリなのかなと思う。今回のテーマは泉の父親探し。大分の日田にいる父親を探す旅に出る泉。それを追う満男。このパターンが以後のゴクミシリーズの定番となる。  そして、最後に満男の独白。幸せとは何か? 妻子を捨て新しい人生を生きる泉の父親は幸せなのか? 皆から能天気と思われている寅さんは本当に幸せなのか? そんな寅さんを心配し続けるさくらは? 成長しつつ大人になりきれない満男がそんな大人たちの姿を理解しようと思いあぐねる様子が心痛い。  ちなみに今回の寅さんのマドンナ役は夏木マリ、、、なのかな?
[DVD(邦画)] 8点(2012-04-30 23:30:50)
8.  寝盗られ宗介 《ネタバレ》 
『寝盗られ宗介』は、つかこうへいの舞台作を若松孝二-原田芳雄のコンビで映画化した1992年の作品です。つか作品はよく知りませんが、映画『寝盗られ宗介』は、やはり主人公が原田芳雄ということで、彼独自のアウトローというイメージが纏わり付きます。中年のアウトロー。そこはかとないアウトロー。アウトローの末路と言えばいいでしょうか。とはいえ、別に拳銃を隠し持っている元テロリストというわけではなく、ただのドサ回り一座の座長にすぎないわけで、その存在はアウトローにしてはかなり頼りなく、庶民的です。さらに、女房を駆け落ちさせて、戻ってくる度に、彼女がまた自分を選んだことに自足し、恋愛感情を細々と持続させるという、主人公は、なんという姑息な人格でしょうか。 しかし、単純にそうとも感じられないのです。原田芳雄が主人公を演じることにより、それが人間として、正当であるような、そんな重みを錯覚させるのです。そして、『愛の賛歌』です。このクライマックスの歌が指し示す「深み」と「高み」は、その意外性と共に、映画そのものに大きなインパクトを与えています。観ている僕らを高揚させ、そのふわーっとした高みから物語も大団円を迎えるのです。人生っていいものだなぁ~なんてね。  この映画は、ストーリーに特筆するところはないのですが、やはり原田芳雄の存在感が光ります。それは主人公の役柄を超えます。その個性をじっくりと味わえるかどうか、それによって評価が分かれる作品なのだと思います。
[ビデオ(邦画)] 8点(2011-08-16 08:27:50)(良:1票)
9.  日の名残り 《ネタバレ》 
思慕の熱情は徹底的に抑えられるが、微かな戸惑いの表情と動作に現れるズレが彼の心情を切実なものとして僕らに伝える。映像は彼のモノローグを確かに映す。それは、生きるということに付きまとう様々な心情の物語であり、ラブストーリーである。 彼は自らの役割に生き、その忠実さによって生の充実を得てきた。そこに差し挟まれる仄かな疑義。戸惑い、躊躇しつつ、それでも愚鈍に役割を演じることを選ぶ。それは何という諦念であり、決意なのだろう。沈黙の中に様々な心情を映す。これこそが真のヒューマニティなのだと僕は言いたい。 物足りる作品は、想像力を掻き立てない。物足りない作品こそ、僕らの想像力によって補われ、僕らの為の作品となる。 『日の名残り』が最上のドラマであることは改めて言うまでもない。良質の映画というものは、その良質さ故に、結局のところ、分かる人にしか分からないものなのだろう。
[DVD(字幕)] 10点(2009-09-21 08:24:28)(良:2票)
10.  ラヴソング 《ネタバレ》 
マギー・チャンと言えば、『ポリス・ストーリー』のヒロイン、、、というのはもう大きな間違い? 移り変わる時代背景の中で、男女の恋愛を描く物語と言えば、日本でも昔、『十年愛』なんてドラマがあったし、ハリウッドの『恋人たちの予感』も似たような感じだったかな。 近づきつつ何処までも擦れ違う2人、、、という最後の方の展開も、80年代後期のトレンディドラマ『君が嘘をついた』の最終回を彷彿とさせる。とは言え、これはもう携帯電話の時代には有り得ないシチュエーションなんだろうけど。 そんなイメージで観れば、『ラヴソング』という物語もベタな邦題に違わない、何てことない10年越しのラヴストーリーに過ぎないんだけど、でも、惹きつけられるものがあったのは確かなんだなぁ。 その要素の一つは、ヒロイン、マギー・チャンの個性なのだと僕は思う。彼女は決して可愛い子ちゃんではないし、特別に美人でもない。けど、その表情には言い知れぬ感情を秘めた独特の憂いがあり、その立ち姿には意思の通った芯の強さがある。そして、彼女の容姿から立ち上るのは、媚や理知というよりも、情の深さである。博愛である。 この映画には印象的なシーンが多い。自転車の二人乗りで語り合うシーン、初めてのキスシーン、新年の挨拶を交わすシーン、背中のミッキーマウス、海水パンツ、車のクラクションからのキスシーン、タイムズ・スクエアで自転車の野菜配達(?)、そして、N.Y.での偶然の再会から、香港での運命の出会いへ。それこそベタな恋愛的アイテムの寄せ集めとも思えるけど、こういう見せ方をある意味で「王道」というのかな。 最後に、偶然の再会から、運命の出会いへ。その可能性こそがこのラヴストーリーのベースであり、バックグラウンドとなっていると感じる。それがこの映画に惹きつけられた一番の理由かもしれない。
[DVD(字幕)] 9点(2009-09-21 08:22:45)(良:2票)
11.  トレマーズ
現代人は、自らの過剰さに対する幻想に囚われるものである。その顕著な例が青春時代に僕らが経験する様々な鬱屈や疎外感であるが、それらの幻想は大人への成長という物語によって回収されるのがこれまでの常であった。しかし、僕らはもう、そういう物語によって、自らの過剰さを制御できないのではないか。 現代のラディカルな心情というのは無根拠の内に潜んでいるのだ。そこには如何なる物語も届かない。共同性が壊れ、薄っぺらな幻想が崩れた地平に現われた無根拠の過剰さは、まるで映画『トレマーズ』の怪物のように突如として地上に亀裂を走らせ、人を襲うのである。僕らは何だか訳の分からない怪物を相手に戦っているのだろうか。そうであれば、セキュリティがいくら強化されても、僕ら自身で亀裂を抑えることはできない限り、それは自身の無力さを実感するしかないというものだろう。 この映画、怪物という存在の無根拠さに由来する恐怖、それと闘わざるを得ない徒労、壮大なメタファーの上に描かれた実に現代的な物語なのかもしれない。  【後記】これってモンスターと戦うゲームだったんだね。無根拠さに由来する壮大なメタファーって、要はゲーム的リアリティのことだったのか。ゲームだから単純に楽しめるんだね。。
[ビデオ(字幕)] 7点(2004-11-06 21:06:01)(良:1票)
12.  ラン・ローラ・ラン
『ラン・ローラ・ラン』は、ハイゼンベルグの不確定性原理によって見出され、シュレディンガー方程式により導き出された世界の確率論的存在、多世界解釈論に基づいている。さすがドイツ映画である。この映画は、スタートからローラという電子を発射させ、観測によって3つの違った結末(位置)を用意する。これはまさしく量子論の基礎となる「2重スリット実験」そのものではないか。。。 この実験により、電子は粒子であると同時に確率論的に存在する波であり、観測前の電子は確率としてしか存在し得ないということが明らかとなったのである。観測前のローラの世界には幾多の行き方が確率論的に存在するが、それは観測と同時に収縮する。結局、ローラは最後にどうなるのか? 生きているのか、死んでいるのか。この映画は、3つの収縮の可能性を提示したのみで、どれを選択しているとははっきり言っていない。シュレディンガーの猫は、生きているのか?死んでいるのか? 生きている状態も死んでいる状態も量子論的には同時に在りえて、そしてその状態は確率としてしか存在し得ない。あぁ、つまり、彼女(世界)は生きていながら、同時に死んでいるという、「確率」という存在でしかないのだ。。。あぁぁぁ、それを否定するには、彼女が生きている世界と死んでいる世界が同時に存在しなければならず、それは観測者である僕らが既にパラレル(多世界)に存在しているということになるのだぁ!! と、別に感嘆するまでもなく、この映画はパラレルワールドをさらりと描いているので、あまり考えすぎずにパンクに楽しむのが正しい鑑賞方法だろう。
[ビデオ(字幕)] 7点(2004-08-29 16:51:56)(笑:1票)
13.  アメリカン・ビューティー
主人公が取り戻そうとしたのは、自身の「青春」である。彼が会社を辞めてフリーターになり、娘の友達に魅せられて肉体を改造し、マリファナを吸ってロックを絶叫するのは、自らの青春への信とその回帰の意志からくるものであろう。この映画は、そんな青春に象徴される精神の自由とか、利己主義とか、社会に対する無責任さなどというものに対する無邪気な信頼を描いたものなのだろうか。  きっかけは、主人公を襲う妄想であった。現代的妄想とは、現実によって侵食された内面からの末期の悲鳴である。そしてそれは現実/世界を超越する意志という失われた原初的思念の新たな発現になり得るのである。 この物語のもう一方の主人公は隣人の若者であろう。彼の存在によって、ケビン・スペイシーの無邪気さは相対化されていると感じた。彼の現実は最初から不透明である。そこには回帰すべき青春への信などというものは既にない。しかし、彼とケビン・スペイシーはまるでコインの裏と表のような存在であるようだ。彼らが同じ世界を生きている以上に共有している思念を感じるのだ。それこそがこの映画のモチーフである「生きていくことへの信」だろう。そのモチーフに繋がる若者の動機が少し弱いかもしれないが、ある意味でそこにこそ「青春」というタームを超えたこの物語の新たな可能性を見たような気がする。
9点(2004-08-27 23:37:02)(良:1票)
14.  ロスト・ハイウェイ
内面と現実の境界、それは人と世界の境界でもある。人は世界を構築する毎に必然的に人と世界の境界たる壁をも同時に構築してきた。しかし、今の時代<無精神の時代>、気がつけば壁は消失し、人は世界という波に無防備に侵食されつつある。つまり、内面と現実の境界が消失して侵食されたのは人の心的世界であり、これが内面の喪失と呼ばれる現代的な主体の変容なのである。侵食された人の心はその少ない領域の中で末期の悲鳴を上げるだろう。そこに立ちのぼるのが現代的な妄想であるのだ。リンチは映画がそんな人(作家)の妄想そのものが作り上げる世界であること、そのことを明確に主張しているように思える。妄想から浮かび上がる人間的なリアリティという面においては、最新作の「マルホランド・ドライブ」に譲るが、本作「ロスト・ハイウェイ」は、ひたすら人間理性の森の中で道を見失った主人公の姿を追うことにより、追い詰められた狂気の静謐さを見事に描いていく。「ロスト・ハイウェイ」という場所、そこが妄想の源泉であり、同時にそれは現実/世界を超え出でる「力への意志」という失われた原初的思念の新たな発現なのかもしれない。
9点(2004-08-21 00:00:24)
15.  アメリカン・ヒストリーX
歴史とは個々人の心の在り様の集大成としてある。世界の至るところで人々が憎しみを連鎖させ、負の歴史はつくられていくのだ。そこに出口はないのだろうか? この映画は改めてその可能性を信じることの困難さを見せつける。無邪気な救いは無慈悲に閉ざされ、どうしようもない救われなさだけが残るラストシーン。 お互いが分かり合える足場を失った状態でも、人が人を理解する希望を失わないこと、その為に僕らは如何したらいいのか? そもそもそういった方法論は有り得るものなのか? 僕らは昨今のイラク情勢により、憎しみの連鎖というものが如何に根の深い問題かを知っている。その救われなさは既に自明なのだ。その先の道筋へ、仄かな希望の光を見出すこと、そんな作品としての方法論に現実性があるのかどうか。今こそ確信的なコミットメントへの志向を期待したいものである。 「もしあなたの人生が、それほど筋のとおった理由もないのに、どこかの誰かの人生とからみあってきたら、その人はおそらくあなたのカラースの一員だろう。人はチェス盤をつくり、神はカラースをつくった。」(カラースとは、民族や制度や階級などに全くとらわれない、神の御心を行うためのチームのことである)~カート・ヴォネガット・ジュニア『猫のゆりかご』 ボコノン教教義より~  Peace!
9点(2004-08-13 01:09:09)
16.  恋愛小説家
ジャック・ニコルソン、変わった男である。極度の神経症とも思える、潔癖症、離人症、他人を平気で傷つける毒舌家、誰もがお近づきになりたくないであろう、正に偏屈オヤジ。でも、よく考えてみたら、これらの症状というのはすべて、青春時代に僕らが囚われる、あの自意識の過剰さに由来する心の在り様そのもの、その極端な症例ではないだろうか。ある意味で永遠に大人になりきれない男。恋愛小説を描くことを生業としながら、恋愛のできない男。恋愛に人一倍の憧れを抱きながら、自分を傷つけたくないばかりになかなか踏み込めない、過剰な自意識のせいで日常的な幸せの価値を見出せない不幸な男。 そんなジャック・ニコルソンが選んだのが、はすっぱな感じではあるけど、生活感に溢れる力強い母親、それでいて自分の可愛らしさを素直に表現できる女性、ヘレン・ハントだというのはすごく分かるような気がする。 この「恋愛小説家」という映画、僕にはこう思える。恋愛への過剰な憧憬を捨て、現実的な愛情生活に目覚めた中年恋愛小説家の転向、その滑稽さと清清しさ。実はものすごく共感してたりなんかして。。。 
9点(2004-08-12 21:52:14)
17.  アルマゲドン(1998)
大好きな映画です。奇想天外、荒唐無稽、空前絶後の暴発的ストーリー展開にはかなり興奮しましたし、ブルースウィリスの超人的行動や献身的な最後にも晴やかさと潔さを感じましたよ。この映画に対して多くの言葉は要らないでしょう。最高です。
10点(2004-08-12 20:25:58)
18.  トパーズ(1992)
「トパーズ」は、村上龍の優れた連作小説である。そして映画は村上龍が監督した唯一魅せる作品でもある。「トパーズ」は、SM嬢やホテトル嬢など、僕らから見たらどん底と思える仕事に従事している少女達の語りを通して、人が人として在るべきポジティブな姿が垣間見える不思議な味わいのある小説だ。悲惨な待遇を受け入れ、時に恐怖と隣り合わせにありながら、彼女達の語りは、単純に絶望しているとは思えない、何か一筋の光を思わせる、まさに宝石の如きキラキラとした輝きをみせるのである。彼女たちのアブノーマルな性質の中に見る実にノーマルな人間的輝きは、世界から沈下した彼女たちが見上げるアッパーサイドの僕たちの世界への視線であり、それはいつの間にか彼女たちと僕たちの関係性を超えて、生きていくことそのものの本質的な視線を捉えていく。逆に僕たちこそがこの世界に希望を持つことが叶わない存在としてあるのではないか。この作品は僕らにそう問いかけているように感じる。その捩れた問いが僕らに奇妙だが深い感慨をもたらす、実に不思議な感覚の小説なのである。さて映画はどうかといえば、さすがに原作者が映画化しただけあって、そのモチーフはまた別の形をもって作品化されていると感じた。小説の特徴である少女たちの「語り」は確かに映画で表現できえるものではないが、語りが沈黙へと変化してもそのモチーフは十分に理解できたように思う。小説が「語り」を手段としたのに対し、映画は彼女たちと僕たちの「視線」そのものを描くことによって、この作品のモチーフを再構築してみせる。その視線はとても静かである。それがこの映画を「魅せる」作品と感じさせる所以なのだろう。
8点(2004-07-17 02:10:25)
19.  
「A」と「A2」を連続して鑑賞した為に「A」の印象というのは若干薄い。これは「A2」の方がより考えさせられる内容だったことにもよるかもしれないが、かといって「A」に見るべきものがなかったかというとそれも全く間違いである。「A」があくまで荒木広報副部長を中心とした物語であるとすれば、オウムという日本を震撼させた犯罪者集団、狂信的宗教団体の中で、あまりにも普通に苦闘し煩悶する彼の姿を浮き彫りにしていることにこの映画の重要な意義を感じるからである。僕は、ある意味で同世代の彼に安堵と共感の念を禁じえなかった。僕らが忘れかけていた青春的な葛藤劇をこんなところで見せられるとは思ってもみなかったけれど。<これを青春映画と呼ぶことに全く異論なしです> もちろんオウムの犯罪は今でも許しがたいものであり、僕らは安易に彼らの信教を犯罪から切り離して認めることはできない。矛盾を抱えた世の中と自分自身との関係に苦しみ、人生に対する絶対的な回答を得たいという彼らの真摯な願望は分からないでもないが、その終着が今でも麻原に行き着くところに捩れた純粋さを感じる。しかし、この映画はその辺りのところは脇に置いておいて、オウムという鬼っ子を完全に排除したいという公安機構や犯罪者集団というレッテルでとにかく押し通したいマスコミや世間の醜悪さを見事に描いており、どちらかというと僕らの側にあり、僕らが意識することなく認めている体制というものに様々な理不尽さが存在することを見せ付けるのである。とにかく偏見というのは恐ろしいものだ。オウムは信者をマインドコントロールするために多くのビデオやマンガを用いたそうだが、今、思考停止状態にある世間をメディアが煽動することほど簡単なことはない。中立であるはずの報道が偏見の為に誤った情報を流し続ける、そういう恐ろしさを感じざるを得ないのである。この映画は誠実な人、荒木氏の廻りの不誠実な公安権力やメディアをかなり決定的に映像化しえたことでドキュメンタリーとして成功したとも言えるのではないだろうか。
10点(2004-06-27 23:09:53)(良:1票)
20.  ショート・カッツ
傑作である。レイモンド・カーヴァーの小説作品といえば、日本では、村上春樹訳としてよく知られている。その村上春樹がカーヴァー作品について、「人間存在の有する本質的な孤独と、それが他者と関わりあおうとする際(あるいは他者とかかわりあうまいとする際)に生じる暴力性が重要なモチーフ」と解説しているように、カーヴァーは、その原初的な孤独と暴力性に常に囚われる下層労働者たちの荒涼とした悲哀を描く作家である。しかし、村上訳でカーヴァーに接する僕たちにその辺りのニュアンスを掴むのはなかなか難しい。村上訳から漂う軽妙な風がまさに都市的な悲哀を僕らに吹き込んでくるからである。個人的には、その悲哀の本質<弱さ>は変わらないと思うが、カーヴァー作品で描かれる下層労働者たちの絶対的な「どうしようもなさ」が圧倒的な存在感をもって僕らに伝わっているかと言えば、なかなかそうは捉えられないところがあるだろう。それに比べればアルトマンの描く「ショートカッツ」は実にカーヴァー的<原カーヴァー的>であると僕には感じられた。画面に漂うあまりにも明瞭な寒々しさ、絶対的な孤独を自明とした人々の生活とその荒涼感。映画としては、カーヴァーのいくつかの短編を繋ぎ合わせた構成となっていながら、そのエッセンスをうまく統合することにより、カーヴァー的世界を忠実に表現していたように思える。著名な役者たちも各々の無意識的な「ボロボロさ」加減をうまく演じていた。上空を旋回するヘリコプターが煽る硬質な不安感の中、最後の地震のシーンは人間の根源的な衝動、漠とした悪夢を見事に映し出す。僕は映画を観終わったあと、しばらく間、悪夢の続きの中をくらくらしたものだ。
10点(2004-06-10 00:47:32)
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