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1.  10話
デビュー作『パンと裏通り』から一貫して登場する曲がりくねった路地の情景。フロントガラス部に固定されたカメラが捉える運転席・助手席の人物の何気ない所作や表情が素晴らしいのだが、その人物の背景を目まぐるしく、あるいは緩やかに流れていく車窓外の変化に富んだ光景もまた、本作を「映画」たらしめる重要な要素といえるだろう。固定カメラゆえに、観る者は二重フレーム(カメラと車窓)外の空間的広がりと奥行きを常に意識せざるを得ない。また、時間や進路の変化によって様々に推移していく陽光・夜の繁華街のネオン光など、予期不能な美しい光が座席の人物に投げかけられ、奇跡的とも呼べる一瞬間ごとの表情の素晴らしさが画面上に掬い取られている。一見、極めてシンプルな構成でありながら、画面上の豊かで複雑な移動感覚と、スリリングな対話の活劇性とサスペンス性によって終始画面から目が離せない。
[CS・衛星(字幕)] 10点(2009-11-08 19:36:27)
2.  HAZAN
琥珀色の光の中に浮かび上がる、窓辺に置かれた白い陶器。それを一心に見つめる少年の表情。そして、その全身像のシルエット。  映画の中で、波山が陶芸家に転身する動機らしきものを直接的に表すのはこの短い三つのショットのみである。  映画は説明に多弁を弄することなく、窯やランプの炎とオーヴァー・ラップする榎木孝明の顔や、長女(大平奈津美)がホタルの光や薪や星を一心に見つめる姿を通して波山の真情・感受性をあくまで寡黙に、間接的に、映画的に語りきる。  二人のロクロ師(柳ユーレイ、康すおん)が波山に心酔し協力することになる経緯も、一切の説明を省き、行動そのもので示されるのも簡潔にして雄弁だ。  そのアプローチにこそ、彼の陶芸の作風と矜持に対する作り手の映画的リスペクトが表れている。  明治期のランプや、窓からの外光など、単一の合理的光源を活かした金沢正夫の照明・芹沢明子の撮影もその任の多くを担う。  住職から返された陶器と、榎木を窓辺におさめたラストショット。 木々の揺れと慎ましい自然光の美しさに、妻と子供たちの楽しげな童謡と笑い声がオフで入ってくる。 端正・素朴でありながら、豊かな情感に満ちた素晴らしいラストだ。 
[DVD(邦画)] 9点(2012-05-17 18:48:51)
3.  アレクセイと泉
チェルノブイリの被曝地域であるブジシチェ村にご両親と共に暮らすアレクセイ・マクシメンコさん。その朴訥としたナレーションと、はにかむような表情と佇まいがとても素晴らしい。ラストの老夫婦のツーショットも心が暖まる。  朝もやの美しい情景を始めとする固定ロングショットの数々は、ともすれば単に「美しい風景」に陥りそうなところで、湧き出る水や村に残る様々な動物たちや高齢者たちの慎ましく淡々とした営為がフィルムに「生」のダイナミズムを湛えさせている。  その映画志向は『ナージャの村』から一貫しているものだ。  収穫を祝う村人たちのパーティと踊り。色鮮やかなスカーフを巻いて踊る女性たちと、酔いつぶれている男性たちのショットが微笑ましい。  水汲みや農作業、木材の切り出しから洗い場の組み立てまでの労働。落成した洗い場にイコンと十字架を供え、祈りを捧げる村人たちの敬虔な様が尊く美しい。  村人の周りに常に寄り添っている動物たち(馬、犬、家鴨、豚など)。 人間が汚染した土地に、邪気無く共存していく彼らの姿が愛おしい。  被曝地帯である現場に腰を置きつつ被写体である彼らに不必要に寄ることをしないキャメラの倫理は、3.11後を報道するテレビドキュメンタリーのカメラの多くがその涙を狙って被災者の顔面と眼に図々しく寄っていく浅ましさの対極にある。  それは、ひたすら『感情移入』と称した他力的な感傷と刺激の欲求を肥大化させていく「見る側」の倫理問題でもある。    
[ビデオ(字幕)] 9点(2012-04-03 23:03:23)
4.  レセ・パセ 自由への通行許可証
レストランの場面を撮る撮影現場のシーン。主役である助監督役ジャック・ガンブランが女優の肩にかけるショールを持ってくるようスタッフの女性に言いつけると、彼女は画面右手の楽屋へ小走りで取りに行く。それを追うカメラ。彼女が角を曲がったところでカメラが静止すると、手前では男とスタッフが出演交渉している。女性スタッフが戻ってくると、カメラは再び彼女を追い、女優の肩に無事ショールがかかる。  深い被写界の中、縦横無尽に移動するカメラは1ショット内に複数のシーンを入れ込み、画面を奥行き豊かに重層化させる。  それはこの場面に限らない。冒頭の喧騒シーンから、画面奥で活躍するエキストラ一人一人の動きも疎かにすることなく、その活気とエネルギーを画面に載せている。  クルーゾー、カイヤット、スパーク、フレネーといった当時の「コンティナンタル」を巡る錚々たる有名監督・脚本家・キャスト名が飛び交う中での、大道具・小道具・照明・衣装スタッフや端役、即ち名も無き映画を支えるスタッフ一人ひとりに対する心配りと賞賛の証しであり、その眼差しの表出が心を打つ。  映画は、ユーモアとスリルが絶妙に織り交ざり、長丁場を飽きさせない。  善悪を超えた人間描写の豊かさと共に、田舎道を自転車で疾走するシーンの縦移動の爽快感が素晴らしい。 
[DVD(字幕)] 9点(2011-08-07 20:43:17)
5.  半分の月がのぼる空 《ネタバレ》 
映画は時制の仕掛けを用いた、流行ともいえる「辻褄合わせ」的サプライズを用意する。しかし、伏線の控えめさと、その転機をさりげない振り返りとカットバックで処理するシンプルな手際によって賢しさを感じさせることなく、笑顔の忽那汐里の写真とともに静かに感動を盛り上げる。  この仕掛けの要請もあって、劇中では年代を特定するような装飾は極力排され、美術も落ち着いてすっきりしている。  その分、シーツやパーティション、カーテンの白布の白さが格段に引き立ち、手持ちの微細な揺れの中で光とシルエットと風が強く印象づけられる。  ベッドに並んで横臥する池松壮亮と忽那汐里が被るシーツが、月光を受け光を帯びる。その柔らかな光の感触が素晴らしい。  ランプシェードの光に照らされる大泉洋の横顔。ラストで月光のスポットライトに照らし出される窓辺の二人。その労わりの光が優しい。  宮沢賢治の一節も、会話劇の中に効果的に引用されていて胸を打つ。  
[DVD(邦画)] 9点(2011-02-27 22:09:18)
6.  コロッサル・ユース
スラムの住宅街。階上の窓から家具が押し出され、地面に落下するファーストショットから強度と重量感に満ち、重力を強く意識させる。 前作と比べてより低位置に置かれたカメラは、終始人物を地面に留まらせるかのごとく画面下半分の空間に捉え、背景の壁面を主体として浮かび上がらせる。  特徴的な深い陰影の中、経年を印すスラム地区の建物や壁面の混濁した色彩が醸しだす存在感は非常に濃密。テーブル上に置かれたグリーンの透明ボトル1本も豊かな色彩と光沢を画面に放つ。 一方で、移住先となる新しい集合住宅の鋭角的で無味無臭な白い壁は異質なコントラストを生む。 格別凝った照明設計を行ってはいない風でありながら、いずれのショットも豊かな明暗の領域をもって視覚を刺激する。  ラスト近くの屋外シーン。木々に反射する波光の揺れとカメラの緩やかな動きが美しい。  
[映画館(字幕)] 9点(2010-11-10 21:08:30)
7.  ペルシャ猫を誰も知らない
タブー的題材(アンダーグラウンド音楽)ゆえ、ほぼ手持ちのゲリラ撮影が主体。 ラフではありながら、迫真性とリズム感を持った「見せる」画面である。小手先の作為的手ブレ手法に寄りかかった作品群の浅薄さの対極といえようか。 暗い路地や階段での移動撮影も、対象を的確なフォーカスで捉え続ける撮影スタッフの優れた技量と臨機応変ぶりが伝わる。  題材の「規制」などまるで感じさせないバイク・自動車による奔放な移動の画面には若々しいフットワーク感覚が漲り、音楽と共に活写される街の表情、白い外光の中で音頭を取る音楽教室の子供たちの表情を捉えた画面が瑞々しい。 口八丁で警察を煙に巻く青年(ハメッド・ベーダード)の達者な長弁舌も音楽的に特筆すべきもの。  また、前3作に続きこの映画でも高地から望む情景が非常に特長的であり、印象強い。 ビルの屋上、高台から望むテヘラン市街の夕景。その高みが悲劇の場所ともなるのも、前作に連なる主題。
[映画館(字幕)] 9点(2010-08-20 19:26:35)
8.  シルビアのいる街で
カフェのシーンの、重層的な画面設計とアングルの妙。「シルビア」の虚像性を際立たせる、窓ガラスへの映り込みの技巧。劇伴BGMなのか、現実音なのか、その真偽を一瞬戸惑わせる強かな音楽用法。主要台詞の極端な少なさと反比例して、鉛筆の擦過音からガラス瓶の回転音まで、過剰なまでの生活音への拘り。細部まで凝った充実した映画であることは確かだが、ここまで演出が勝ちすぎると、もう少し大雑把ないい加減さや生々しさも求めたくなる、というのは贅沢か。雑踏の尾行シーンで行き交うエキストラ達のリアクションに対しても、一見ヌーヴェルバーグ的ではありながら、どこか管理と作為が感じられてしまう。画帳の頁や金髪を舞わせる風のショットの過剰性も。某『映画時評』が言うところの「やりすぎ」感なのだが、逆説としてそれが映画的楽しさといえなくもない。流れる列車の車窓と、そこに瞬間的に映し出される儚い像は映画フィルムそのものを思わせる。いかにも映画の映画らしい。
[映画館(字幕)] 9点(2010-08-08 20:37:45)
9.  ローラーガールズ・ダイアリー
主人公がローラーダービーに惹かれる瞬間を、チラシ配りの選手達が店を出て行く逆光の縦構図1ショットで印象づける技量。父親、母親それぞれが娘の出場するダービー会場へと向かう途中経過の描写などは省いても物語に一切支障なしとする大胆さと聡明さ。  対話シーンの切返しなどは極めてオーソドクスなのだが、圧縮と省略を駆使したシークエンスごとの繫ぎが圧倒的に巧く、テンポとスピード感は抜群だ。ありふれた物語でありながら、場面転換の妙によって観客を全く飽きさせない。簡潔性と経済性の美質が弁えられている。  一例あげるなら、ヒロインがコンテストの控え室から決勝戦の試合会場へ向かうシーン。車の発進をワイプの効果として使い、一人の少女がヒロインの着るはずだった衣装を纏い見送る姿を捉える。その簡潔にして雄弁なワンショットが、さらにラストのスピーチ原稿に連なっていく語り口の見事さ。  それでいて、物語とは無縁なショットの豊かさが映画を充実させる。金色の草原の情感。プールシーンの光の揺れや、二人の飛び込みと同時に水中に潜るカメラの垂直移動の気持ちよさ。腕立て伏せなどを始めてしまうあの司会者の可笑しなパフォーマンスは即興だろうか。 愛すべきキャラクター達の魅力的な表情を的確に掬い取る手腕に恐れ入る。  エンディングロールを見ると膨大な楽曲数なのだが、全編すっきりまとまっているのも好感度高い。
[映画館(字幕)] 9点(2010-07-26 23:21:58)
10.  イングロリアス・バスターズ
テーブル上の一点を浮き上がらせる不自然なスポットライト(第一章の屋内場面や第四章の地下酒場の場面)、背後からのライトで俳優の輪郭線をまばゆく浮き上がらせるアクセントの利いた画面(第五章のメラニー・ロランの化粧場面など)は、撮影ロバート・リチャードソンの真骨頂。真上からの俯瞰を組み合わせたドラマティックな移動撮影や、しかるべき見せ場において抜群の効果を発揮するクロースアップの仰角ショットなど、変化に富んだアングルと構図も映画のエモーションを増幅する。映画館の踊り場、梯子、床下、地下酒場、映画内映画の鐘楼など、垂直構造を活かした舞台設計の巧さゆえである。各ショット自体の素晴らしさもさることながら、主に4箇所で用いられるスローモーションの効果、地下酒場における銃撃戦の細かいカット割りといった編集の緩急も見事だ。 役者でいうなら、やはりクリストフ・ヴァルツが圧巻である。限定空間かつ椅子に座っての演技が主ながら、表情と手の所作のみで優れて活劇的な画面を作り出している。演劇における転調のタイミング・音楽的なエロキューションがとても素晴らしい。
[映画館(字幕)] 9点(2009-12-13 13:02:54)
11.  トウキョウソナタ
映画の基調色となる緑が印象深い。ハローワークの階段の壁に貼られた無機質な表示や小泉今日子を拘束するガムテープ、清掃する香川照之の前で子供がこぼすメロンソーダらしき液体、井之脇海が拘置される警察署地下のホラー風アクセント照明、あるいは小柳友が仲間とチラシを投げ捨てる橋のライティングなど等、闇や陰影が控えめとなった替わりに多様なグリーンが画面を彩る。香川と小泉の断絶の提示が画面上で決定的になるのは、居間とダイニングの段差がもたらす立位置のみならず二間を分けるグリーンとオレンジの照明の分断にもよるだろう。地平線に立つ女性主人公を照らす光と大気と風と、時刻の変化が示す奇跡的な瞬間の感動は、個人的にはロメールの『緑の光線』や『レネットとミラベルの四つの冒険』の一遍(『青い時間』)に通じる映画感覚である。随所に散りばめられた色彩効果によって、最期の演奏場面のシンプルな白い光線の揺れが一層引き立ち、輝きを増している。
[映画館(邦画)] 9点(2009-07-19 16:08:59)
12.  ハウルの動く城
街中を歩く主人公たちの後景では、様々な人々が往来している。実写でいうところのパン・フォーカスであり、そこでは物語とは直接的に関わることのない市井の一人一人が驚くべき細かさで描き分けられている。予算上・技術上・手間の問題から最も省略されがちなこうした「その他大勢の生物たち」のアクションにこの映画はひたすら拘りぬく。そうした手間をかけた動画だからこそ、映画最初期の「リュミエール工場の出口」の1ショットが捉えたような、世界を構成する豊かな要素(煙、風、雲、光、影、仕草)に気付かせてくれる。テレビアニメの功罪によって本来最も肝要であるべき動画の豊かさが軽視されてきた流れの中でこれほど徹底して人間の基本動作を高度にアニメートした作品は稀だ。劇中で「歩く」ことの大切さが語られるが、この映画は終始、様々な人々の様々な歩行・登行のアニメーションにもこだわりを見せる。それも一般的に枚数節約のために用いるリピート動画ではなく、その一歩一歩をこの映画は手抜き無く描く。終盤で、生きている大切な火を移動させるためにバランスを取りながら階段を慎重に下りるヒロインの動き、重い材木を懸命に運ぶ動きなどは絶品の職人技だ。「活き活きと人が歩く」それだけで映画が感動的足り得ることを最初期の映画やヌーヴェルバーグの映画群と共に宮崎映画は証明する。宮崎駿は「ストーリー・テーマ最重視、動画最軽視」が主流の業界の中でのあくまで「アンチ」として位置する。前作「千と千尋~」にも連なる明快なメッセージは、不可解なもの・異質なものに対して「わからない」と拒絶し他人に責任を押し付けることなく、その世界を受け入れ、順応し、積極性を発揮していくヒロイン像に打ち出されているはずである。
[映画館(邦画)] 9点(2008-07-23 22:49:50)
13.  宇宙戦争(2005) 《ネタバレ》 
仮想的を「宇宙」に求めたバイロン・ハスキン版(53)とは異なるアプローチによる、本来あるべきウェルズ原作「世界間の戦争」の忠実な映画化である。 それは即ち、異なる価値観に生きる他民族同士の争いを問うという事だ。  第二次大戦後のパル=ハスキン版に対し、2005年にH・G・ウェルズをリメイクする意義とは、いわゆる9.11が触発した現在進行形のイラク侵攻(一方的軍事侵略)が突きつけた課題に映画人としてどう向き合うか、という事に他ならない。それを明確に象徴するのが旅客機の残骸の図であり、埃塗れのトム・クルーズであり、暴徒化し難民化する群衆の姿だ。  映画は大状況の説明には興味を示すことなく、小状況の中で争い合う人間の、いわば原理を追究していく。 だから、映画は地下壕での主人公自身による殺人行為に異様なほど十分な時間を割く。ドアを閉じ、ダコタ・ファニングを眼隠しすることがここで映画的効果を発揮している。  闇を効果的に強調するヤヌス・カミンスキーの撮影が相変わらず素晴らしい。
[映画館(字幕)] 9点(2007-08-04 22:21:04)
14.  ウリハッキョ
最初期のロバート・フラハティ(カナダ、アラン諸島)から、小川紳介(山形)、佐藤真(阿賀)等に到る傑作ドキュメンタリーの伝統的一手法が、腰を据えた共同生活による長期取材・長期撮影といえる。 社会派的なテーマ先行ではなく、あくまで生活者の日常に寄り添いつつ「人間」を活写すること。 勿論それは手法のみの問題ではなく、被写体との良好な関係づくりや映画的各瞬間を的確に捉える手腕と資質があってこそ画面は魅力を放つ。  とにかく全編通して素晴らしいのが学生たちの多彩な表情だ。時勢と題材、そして言葉の壁といった障害からして彼らの緊張感・警戒感を拭うには相当な困難があったろう。日本を舞台に韓国人監督が朝鮮学校に長期密着するという手法によって初めて撮り得た瑞々しい表情といえる。  周年の学校行事を中心にした生活の細部描写が積み重なる中、自ずと日本側の排他性というものが炙り出されてくる形になっている。  後半、北朝鮮に修学旅行に行く場面があり同行出来ない監督はカメラを学生たちに託すのだが、この学生たちの撮った画面もまた彼らの感動を直截に伝え素晴らしい。 出発の場面で、埠頭の監督達とフェリーの生徒達双方が手を振り見送り合うシーンが編集で繋がれる。撮る側、撮られる側に築かれた羨むべき信頼関係の発露が胸を打つ。
[映画館(字幕)] 9点(2007-07-08 21:11:31)
15.  フライトプラン
ヒッチコック自身が「映画術」の中でも「穴だらけのシナリオ」と語っているにも拘らず『バルカン超特急』が映画として傑出している要因は、列車という舞台の活かし方であり、キャメラワークであり、サスペンスの醸成であり、という映画的手法の豊かさにある。この「映画術」は示唆に富んで非常に面白い。ストーリーを語る事を重視しつつも、ストーリーには<らしさ>や<首尾一貫性>など無くてもよいということ。辻褄合わせよりも人物の動作や画面連鎖のリズム感を大切にすること。ミステリー(謎解き)ではなくサスペンスこそ肝要であること。説明台詞への依存によって、視覚的表現を疎かにすべきでないこと。『フライトプラン』はプロットのみでなく、こういったヒッチコックの映画術自体を範としているのであり、必然的にこのフィクション映画の主眼は瑣末な犯人探しやトリックではなく、母親のドラマとしてエモーションをどう喚起するかにあることがわかる。例えば、暖色系に色調を変え半逆光の美しさを活かした最後の場面では安易に台詞を持ち込むことなく、無言の情感を演出する。仮にここで社会規範に縛られた余計な「謝罪」の台詞などが入ればそれは単なる一義的な和解でしかなくなり、両者の間にある賞賛や自尊や畏怖、その他諸々の複雑微妙な交感のニュアンスが打ち消され、何の余韻もない貧弱な場面になるはずだが、この映画はそのような愚を犯さない。絶品のラストである。そしてWASPの抱く妄想という、いわゆる9.11報道の虚構性・欺瞞性に対する鋭い批評性はもっと評価されても良い。それはジョディ・フォスター起用の意義の一つでもあるはずだ。
[映画館(字幕)] 9点(2006-06-05 00:13:48)
16.  ひゃくはち 《ネタバレ》 
原作は高校卒業八年後からスタートし、現在と過去を交互に語っていく形式である。 映画版はこれを高校時代の現在進行形で進めていく形に改変したのが良かった。 それに伴って、相馬佐知子のキャラクターも新人記者に変更され、映画後半のストーリーも 斎藤嘉樹と中村蒼の間でのベンチ入り争いへと大きく変えられることになったが、こちらも 一〇八の煩悩という題材を発展させた脚色として、尚且つ 躍動的な練習シーンと二人の感情のぶつかり合いが相俟った見事な映画的アレンジである。  序盤で携帯電話を壊される1シーンを加えることで、クライマックスの雨の公衆電話シーンが 音響と縦構図が印象的な名場面となった。  打撃や守備の練習をする部員らの身のこなしも本格的で実にさまになっており、 強豪校のレギュラーメンバーという設定を説得力をもって提示している。  ラストの斎藤のずっこけをスローで処理してしまっているのがちょっと勿体ないが、その直後の笑顔はピカ一だ。
[DVD(邦画)] 8点(2017-10-12 00:41:45)
17.  いのちの食べかた
いずれのショットも画面にパースをつけ、厳格すぎるくらい厳格に構図を決めている。 その画面領域の中で動植物・人間・メカニックそれぞれがせめぎ合う様が スペクタキュラーだ。 その奥行きを強調したカメラ移動は、その産業の構造的スケール感を否応なしに 感じさせる。(延々と続く厩舎、延々と下るエレベーター等など)  そしてここには「機械的で規則的な運動のリズム」(長谷正人 『映像という神秘と快楽』)がある。  映画に登場するベルトコンベアー作業の数々は一見、単調で「無機質」でありながら、 それは無意識に規則正しく心拍運動し生命を維持する人間とも通じ合う。 ゆえに、そこには心情に拘らず、 リズミカルな反復運動に同調する「映画的快楽」が逆説的に伴う。 その規則の中に不意に現れる小さな不規則の面白さがまた引き立つ。  音楽を一切廃すること、言語解説による意味付けを一切廃すること。 それによって観客は反復のリズムを体感し、動植物の肉声・質感を感受し、 意味から開放される。  動植物への同情や憐憫や感謝。それらの単純な感情を喚起する自由を保障しつつ、 作り手はまず、様々な運動と色彩と音にあふれた画面そのもの、つまりは 本源的な映画の面白さを受け取ることを 求めているに相違ない。  断片的なショットに、奥行を意識した構図。機械と動物と、食事する人物。 まさに映画の定義に適った、リュミエール的な映画じゃないか。 
[DVD(字幕なし「原語」)] 8点(2014-09-19 00:21:59)
18.  クロエ(2009) 《ネタバレ》 
フルショットで撮られたジュリアン・ムーアが携帯電話で話し出すと、 相手方のアマンダ・サイフリッドの声も不自然なほど鮮明に聞こえてくる。  違和を感じた瞬間、カメラがパンすると同室に彼女が入り込んできていた事 が判明するという、そういったさり気ない音響の仕掛けが随所で巧い。  人物の背後からのライトを中心に、複数の光源を用いて 女優の金髪の輪郭線と瞳とを妖しく美しく輝かせるライティングの緻密さ。 拡散する影の動きも画面を重層化させて見事である。  手前の人物と、背景の窓枠・額縁・鏡・スクリーンを的確にレイアウトした構図など、 ショット一つ一つが官能的に決まっている。  見るものの欲望の投影たる鏡・窓ガラス。そこに幾度も映し出される ファム・ファタルとしてのアマンダ・サイフリッドは「虚像」の視覚的隠喩である。  『上海から来た女』を始めとする鏡の映画史に倣えば、 映画の構造上のクライマックスは、「砕け散る鏡(ガラス)」以外有り得ないことは 中盤には明らかになるだろう。  その映画的終結というべきスローモーションも美しい。 
[DVD(字幕なし「原語」)] 8点(2013-07-17 23:09:54)
19.  闇の子供たち
どこそこのディティールが「現実的にありえない」だの、 「突っ込みどころ」だのというのは 概してフィクションというものを理解出来ない者の常套句だが、 映画作家は「その不自然さを前提にしたところで、それとは別のところに ドラマを作り出しているのだから、それを見なければ映画を見たことにならない」 (上野昴志「映画全文」)わけで、 Wikipediaあたりの拾い読み程度の薀蓄に頼った批判など、 物語に対しては有効でも、映画に対しては決して届かない。  少女を詰めた黒いビニール袋は、『トカレフ』でのそれのように、 あるいはペドロ・コスタの『骨』のように、 その生々しい物質感の露呈として映画内に要請されているのは云うまでもないだろう。  宮崎あおいは、その異質なビニール袋を目撃するや、とっさに走り出す。 無我夢中に。非現実的に。だからこそ映画的に。その走りと横移動のカメラワークがいい。  そして本来、映画の批評として肝要なのは上野氏が「非対称の視線―『トカレフ』論」ですでに書かれている、登場人物の視線の劇としてのあり方だろう。  建物の二階部から屋外を見下ろす主観構図の反復。その一方向的な視線の不穏な感覚。 江口洋介が、妻夫木聡が見詰める鏡。そこに反映する自身を見つめる眼差し。 クライマックスの取材現場での複雑な視線の交錯。そこに漲る形容不能な情感。  そうした視線によるドラマ作りを継承する本作は、劇中で幾度も主題を強調する。 具体の視線によって「見ること」を。 
[映画館(邦画)] 8点(2013-02-09 01:28:43)
20.  エスター
ピーター・サースガードの役柄が建築デザイナーであることを活かしたツリーハウスや ガーデンルーム、中央に階段を配した印象的な居間、あるいは凶器となる工具 (バール、万力)など、セットの高低と小道具を巧みにアクションに結び付けている。  その死角を強調した居住空間は秀逸なカメラワークと共に、 窃視の視線と盗み聞きのドラマにも効果を発揮する。  併せて、「話せない」こともまた視線の強度とサスペンスを生んでもいるだろう。  それだけに、インターネットはともかく携帯電話の安易な利用はドラマ的に少し勿体ない。  しかし、短いながらも強烈なインパクトのあるショットの数々が要所要所で利いている。  冒頭の逆光シーンの夢幻感。 ヴェラ・ファーミガがベッドで童話を語って聞かせる、その手話の身振り。 バックで暴走する車を内側から捉えたショットの恐怖感。 割れた鏡に映るイザベル・ファーマンの分裂した姿。 その顔に残るアイシャドウの黒。  公開バージョンのラストは、企業のシステムによって選択されたのだろうが、 監督が本来使いたかったのは、「割れた鏡」へのこだわりからしても 恐らく別バージョンの方ではないかと思う。 
[DVD(字幕)] 8点(2012-06-09 21:59:08)
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