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プロフィール
コメント数 731
性別
自己紹介 奥さんと長男との3人家族。ただの映画好きオヤジです。

好きな映画はジョン・フォードのすべての映画です。

どうぞよろしくお願いします。


…………………………………………………


人生いろいろ、映画もいろいろ。みんなちがって、みんないい。


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261.  トイズ あまり評判のよろしくない作品ではありますが、小生は大好き。ジャック・タチ映画に通じる美術セットのシュールさの中、本来子どもたちのものであるおもちゃによって、大人たちの、大量破壊と殺戮の「戦争」を寓話にしてみせる…。発想自体は陳腐だとして、それを真正面から描き出した作り手の眼差しに、アメリカ人らしからぬ(!)成熟とペシミズムを感じさせてくれました。ジョーン・キューザックが、ほんと可愛いし。9点(2003-05-29 15:05:46)

262.  デッドゾーン この映画を製作したディノ・デ・ラウレンティスッて人、『砂の惑星』のデイヴィッド・リンチといい、『ハンニバル』のリドリー・スコットといい、そしてこの映画のクローネンバーグといい、自社の超大作に何でこうも作家性の強い監督を起用したがるんだろう。やはり、イタリア時代にフェリーニやヴィスコンティと関わった映画屋魂? ということで、おそらくクローネンバーグのなかでも最もコマーシャルな、しかし最も美しい「愛」の映画になってる。ぼくも本当に本当に本当に大好きな1本です。本作のクリストファー・ウォーケンは、永遠なり!9点(2003-05-29 14:37:43)

263.  ソイレント・グリーン 小生にとって、ワン・オブ・ザ・ベストSFのひとつ。中学生の頃、場末の映画館の3本立ての1本として出会って以来、あの安楽死ホームの場面とクラシック音楽が、今もなおふと蘇ってきたりします。この頃のリチャード・フライシャー作品は、『センチュリアン』といい実にシャープかつ深遠なテーマ性を持つものが多かったなあ。『ボウリング・フォー・コロンバイン』で醜態をさらしたチャールトン・ヘストンも、これが遺作となった名優エドワード・G・ロビンソンも、ついでに超べっぴんなリー・テイラー=ヤングも、みんな最高でした。そして、何よりあの陰うつな近未来地獄絵図を見事に表現したキャメラが。…すべての人におすすめして満足してもらえるには、ちょいと地味な印象かもと、9点にしましたが、小生のなかでは文句なしの満点作品であります!9点(2003-05-27 18:52:40)

264.  スペース・カウボーイ アホでマヌケなSF大作が横行するアメリカ映画に、イーストウッドが余裕でかました痛快ビンタ! もう、何ちゅう幸福感なんじゃ!! 見ている間じゅう、頬がゆるみっぱなし。『アルマゲドン』あたりに本気で感動出来る向きには、まあ、おすすめしませんが…。映画の「自由」があるとすれば、もはやどんな題材を撮ろうが完全無欠の「イ-ストウッド映画」になってしまう、この映画人こそ、真の自由人なのでしょう。尊敬あるのみです。9点(2003-05-26 17:16:35)

265.  ストーリー・オブ・ラブ 結婚している者には、ある胸の痛みをともなわずには見られない作品でありましょう。『恋人たちの予感』のその後、といったロブ・ライナ-監督の極私的映画。アメリカじゃ不評だったというけど、ウディ・アレンの自己弁護映画なんぞよりよっぽど誠実な作品だと思うぞ。9点(2003-05-26 16:18:49)

266.  愛を弾く女 この映画は、あくまでダニエル・オートィユのものです。あの、すべてにストイックな男のなかの男といったキャラクターは、映画史上に残すべきシブさとカッコよさだったと。それに対して、エマニュアル・ベアールのヒロインは、女の高慢さと愚かさをこれまたコワイぐらい適確に表現していて、こちらも絶品。すべては監督クロード・ソーテの手腕ではあるんだろうけれど、ここまで冷徹に人間を見据えた作品を見せられると、最近売り出しているフランソワ・オゾンの映画なんてコケおどかしに過ぎなく思えちゃいます。9点(2003-05-26 11:11:30)

267.  NYPD15分署 この映画の監督さんの映画は、いっつも「何でこんな脚本を…」と思うようなものばかりです(まあ、『摩天楼を夢みて』なんて例外もありますが)。しかし、どんなシーンであろうとこれ以上ないという素晴らしくカッチョイイ構図で役者たちを際立たせるので、やはり小生は非常に買っとります。こういう、本当に映画らしい映画を撮る監督の作品がCGまみれの奇を衒ったイマドキの映像に慣らされた眼にゃ、タイクツに映るんでしょうな。ふん! 彼の最高傑作とは言わないけれど、この映画も十分に反時代的(!)なファンを泣かしてくれることはまちがいありません。 《追記》・・・若き日のマーク・ウォルバーグもいいんだが、なによりチョウ・ユンファの格好良さたるや! 監督のジェームズ・フォーリーもまだまだ “ヤル気” をみせてくれて最高の1本![映画館(字幕)] 9点(2003-05-20 16:26:31)《改行有》

268.  ウェディング・プランナー こんなこと書くと、いかにも映画マニア的でイヤラシイんだけど、夜の公園での野外映画上映会で、突然雨が降り出すシーンが本当に美しくて…。それだけでカネ払って見る値打ちがあったと思いましたです。ほんと、上質のイタリア映画を見ているようでした。《追記》TV放映で再見。やっぱりステキな映画だと思うけどなぁ~。まあ、ここまであからさまに1950・60年代のロマンチック・コメディの感覚を 蘇らせたってことが、かえってストーリーの“ご都合主義”を際立たせることになった感は否めない。けれど、それこそがこの映画の最大の魅力であり、「美質」じゃないですか! それにこの映画の監督には、間違いなく“うたごころ”とでもいうべき映画のツボを心得たソフィスティケーションがある。いつか本格的なミュージカル映画を撮ってほしい才能です。断固支持!!!9点(2003-05-20 15:33:07)(良:2票)

269.  ウェイキング・ライフ 人は死の直前に、自分の一生を走馬灯のように見ると言います。だったら、いまの自分が生きているこの人生が、そうした死にゆく者によって見られた”一瞬の夢”であるかもしれない…。いわゆる「胡蝶の夢」というものを、かくもリアルに、かつポエティックに描き出した作品なんて、他にないんじゃないかな。とにかく、見ている間じゅうぼくは異様なまでに意識が覚醒し、興奮している自分を感じていました。映画はとっても”ダウナー”系なんスけどね。本当は10点でも良いのだけど、この監督にはさらなる素晴らしい映画を期待したいので。9点(2003-05-20 15:02:17)

270.  ツイスター 《ネタバレ》 何とか女から逃げようとする天才科学者と、何がなんでもその男をモノにしようとする女。女は男の人生をシッチャカメッチャカにかき回す。そんなふたりの間を結果的にとりもつことになるのが、かたや「大怪獣」で、こちらは「大竜巻」なのだった、という次第。 ・・・ローランド・エメリッヒ監督のアメリカ版『ゴジラ』は、当初ヤン・デ・ボンが監督にオファーされていたことを知る者にとって、この『ツイスター』という映画は示唆的だ。エメリッヒがどこまでヤン・デ・ボン監督の構想していた『ゴジラ』を踏襲したかは不明だが、この2本の作品、実はほとんど“同じ構造”によって成り立っている。そう、これらは往年のハリウッド映画の十八番だった「スクリューボール・コメディ」を再現したものだ。というか、その体裁[パターン]を「モンスター映画」としてしつらえたものなのである。 監督デビュー作『スピード』の大成功以来、その後どうもパッとしないといわれるヤン・デ・ボン監督の作品。だが、『スピード2』や『ホーンティング』(『トゥームレイダー2』は未見)でも、そこには古き良き「ハリウッド映画」への思い入れと、それをよりスペキュタクラーに“再現”しようとする意志を感じられないか。実際これらの監督作品にある「ソフィスティケーション」(とは、ひとりの男と女を“くっつける”展開の妙、といったくらいの意味だが)に、時代錯誤的な魅力をぼくは感じる者だ。 モンダイはそれが、観客が期待するものとは別の映画で成立させようとしてしまう、そういう意味での「(商業的な)センスのなさ」だろう。・・・たぶんこの監督は、現代的なアクション映画やSF映画なんぞより、アナクロニックなミュージカル映画あたりを撮るべきなのだと思う。 けれどこの『ツイスター』は、ヤン・デ・ボンが撮りたい映画と、観客が見たい映画との“ずれ”が少ないものといえるかもしれない。劇中に『オズの魔法使い』のヒロイン名“ドロシー”を持ち出したり、ハワード・ホークスの名作コメディ『赤ちゃん教育』あたりへの強烈な愛着を感じさせつつ、大災害スペクタクル映画としても成立している。まあ、このあたりは、確かに「スピルバーグ製作」の功績だという気がしないでもないけれど。[映画館(字幕)] 8点(2011-04-26 18:04:23)《改行有》

271.  リトル・ランボーズ 《ネタバレ》 英国映画の「男の子」たちは、いつもオトナや社会と〈葛藤〉している。階級差や家族関係、あるいは抑圧的な学校と教師たちなど、文字通り“四面楚歌[スクエア]”な現実に対して闘争、あるいは逃走し、自分たちだけの「(精神の)ユートピア」を築こうとするのだった。たとえば『小さな恋のメロディ』しかり、『リトル・ダンサー』しかり・・・。  ・・・そこにあるのは、ともに家庭に問題をかかえ、孤独だった少年たちが、いっしょに何かを成し遂げようとすることで心のきずなを結んでいく姿だ。だからこそ、スタローンの『ランボー』に熱狂し、自分たちだけで“リメイク(!)”しようとする11歳の少年ならではの奇想天外・抱腹絶倒・天衣無縫な撮影シーンは、大笑いさせられながらもあれほどみずみずしく、感動的なのである。同時にそれは、ふたりをとりまく家庭や社会や学校からの“逃避”であり、その時彼らが創ろうとしていたのは、映画である以上に、家庭や学校や教会から唯一自由になれるふたりだけの「ユートピア」に他ならないのだった。 やがて、そんなふたりだけの「ユートピア」に割り込んでくる大人びたフランス人少年の登場で、ウィルとカーターのあいだに決定的な“溝”ができる。文字通り身も心もカーターを傷つけてしまったウィルは、もう一度カーターとの心のきずなを築き直そうとするだろう。なぜなら、友だちへの裏切りこそ最も恥ずべきことであり、その回復こそが男の子たちにとって至上の〈倫理〉なのだから。 「友情はセックスのない恋愛である」といったのは、作家の橋本治だった。そのことの意味を、この映画ほど実感させてくれるものもないだろう。それは、どんな美男美女が演じる「恋愛ドラマ」よりも純粋[ウブ]で、歓喜に満ち、痛ましく、そして感動的だ。・・・この映画の原題『Son of Rambow(ランボーの息子)』の“Rambow”は、本当なら“Rambo”の綴り間違いだが、ぼくはそれを“Rainbow”と見まちがえた。しかし映画を見終わって、“ランボーの「息子」たち”は、“虹[レインボウ]”こそがふさわしいじゃないかと、思い直したのだった。そう、「男の子」であるのは、まさに虹のようにはかない一瞬であり、だからこそ美しいのだ。[映画館(字幕)] 8点(2011-04-26 12:16:28)(良:2票) 《改行有》

272.  お家をさがそう 《ネタバレ》 保険の仲介とイラストの仕事で、何とかしのいでいるらしい主人公のカップル。そんな彼らに、子供ができた。赤ん坊を産むための「理想的な生活の場所」を見つけるため、ふたりはアメリカ各地に暮らす知人や友人たちを訪ねる旅に出る・・・。 『アメリカン・ビューティー』以来、現代アメリカの家庭像とその崩壊するさまを、どこまでもシニカルに描いてきたサム・メンデス監督。人間の卑小さゆえの「悲劇」を突き放しつつ見つめ、むしろ“滑稽”なものとして浮き彫りにする。そこにあるのは、そういった「悲劇」すらも、笑えない「喜劇」にしかなり得ないという、苦い認識だろう。我々はそういう時代を生きているのだ、と。それこそが彼の作品の一貫したモチーフなのだった。 しかし、この映画では何かが決定的に異なっている。これまでは物語や人物に対して超越的な“観察者”としての立場をとってきたサム・メンデスの映画だが、ここでは、あきらかに主人公のカップルの視点に同調[シンクロ]しているのである。彼らの眼を通じて、現代アメリカの様々な家庭像を見つめようとするのだ。 そしてこの主人公たちは、純粋にお互いのことを愛している。その“まっすぐさ”において、彼らはほとんど「天使的存在」だといって良いだろう。そんな彼らがアメリカ大陸横断の旅で出会うのは、様々なトラブルや問題を抱えた家庭の光景だ。しかし、これまでなら家庭の崩壊劇のそれこそ見本市(!)となっていただろう展開を、この主人公カップルの存在が救済する。彼らがその光景に怒り・とまどい・呆れ・胸を痛めながら、そういったひとつひとつの反応や心の機微の“まっとうさ”が、これまでのサム・メンデス作品になかった「ぬくもり」を、この映画にもたらすことになった。 結局、自分たちにとって「理想の場所」とは最も身近なところにあった…という結末は、いささか安易かつ「保守的」なメンタリティにすぎるという気がしないでもない。けれど主人公のカップル、とりわけ男の方の、彼女のことはもちろん出会う人々のことを不器用ながら本当に思いやれるその“いいひと”ぶりに、ぼくは心から感動した。彼こそはフランク・キャプラ作品のジェームズ・スチュワートに連なる、アメリカ映画の“いいひと”路線の正統なる後継者だろう。 正直あまり好きになれずにいたサム・メンデス監督だが、この映画だけは、心から乾杯![映画館(字幕)] 8点(2011-04-22 10:48:22)(良:1票) 《改行有》

273.  SPACE BATTLESHIP ヤマト 《ネタバレ》 (ラストシーンについて、激しくネタバレしています。未見の方はご注意ください) どこまでも広がる大地にうがたれた、幾つもの巨大クレーター。その上を緑の草原が覆っている。そして、そこに立っているひとりの女と、まだ幼い男の子・・・。 この場面に、ぼくという観客は心から感動する。それは単に絵としてキレイだとか、地球の再生というドラマの大団円にふさわしいものとしてだけのものじゃない。その“緑のクレーター群”の映像は、端的にSF映画の「画(=イメージ)」として実に実に魅力的なものだったからだ。大げさに断定してしまうなら、これは今までのアメリカや他のどこの国のSF大作にもなかった、美しい、そしてSF的な「イメージ」なのだった。 正直なところ、自己犠牲だの何だのと騒ぎ立て、安っぽい悲壮感をあおるばかりの展開や演技に、同じテレビ局が製作したリメイク版『日本沈没』そのまんまじゃないか・・・と本作に少なからず失望していたことは確かだ。そもそも地球規模の危機に対し、日本人だけしか搭乗(というか、登場)しない宇宙船で立ち向かうといった不自然さからして、ここにはエメリッヒ作品程度(!)のSF的「リアリティ」もありはしない(・・・原作アニメもそうだった?)。さらに、すべてにどこかで見たことのあるような場面や設定が連続するのは、これまでの山崎作品の常だが、少なくともこれまでは、監督自身がそれらの“再創造”を嬉々として楽しんでいることの高揚感が伝わってきたものだ。しかし、今回ばかりはどうにも乗っていけない・・・  だが、【鉄腕麗人】さんの《一つでも「印象」に残る要素があれば、その映画の価値は揺るがない》というテーゼに心から賛同しつつ述べるなら、作品としての『ヤマト』は、すべてこのラストシーンによって、最後の最後にSF映画として、何より一編の美しい「映画」としてぼくを魅了したのである。そう、それでじゅうぶんじゃないか。[映画館(邦画)] 8点(2010-12-06 20:46:53)(良:5票) 《改行有》

274.  時をかける少女(2010) 《ネタバレ》 映画でも文学でも音楽でも絵画でも何でもいい、有史以来ヒトは「作品」を創り、残し続けてきた。でも、どうしてわれわれは「作品」を創造するんだろう。自分の才能を世に知らしめようという野心や顕示欲? 他人の尊敬や社会的成功を夢見て? ・・・いや、ちがう。そんなものはあくまで「作り手」にとっての“問題”であって、「作品」とは無縁のものでしかないだろう。  創造の契機は、それこそ作り手の数だけある。けれど、いずれにしても、自分が“見た・聞いた・感じた(そして、考えた)”ものを、この世界の誰かと分かち合いたいという想いというか「願い」こそが、ラスコーの洞窟壁画を描いた原始人から現代のカネと欲にまみれた類のアーチスト(ですら!)に至るまで、すべての始まりであることを、ぼくは信じる。そして「作品」は、そんな「願い」に応えてくれる理想的な“誰か”が現れてくれるのを、いつまでも待っているのだ。 ・・・この映画のなかに登場する8ミリ映画は、未来からやって来たヒロインに想いを寄せる大学生が撮った、まだ音入れも終わっていない「未完成品」にすぎない。しかし、やがて未来に戻った(と同時に、過去にタイムワープした時の記憶は失った)ヒロインは、その8ミリ映画を見て、自分でも理由が分からないまま涙を流す。もはやヒロインは、彼のことを憶えてはいない。でも、そのフィルムに込められた彼の“想い”は、間違いなく彼女の心に届いた・・・たぶん、それでじゅうぶんなのだ。いかにもチャチな出来損ないの8ミリ映画は、この時、本物の「作品」となったのである。 そう、高名なヒット映画のリメイク(というより、後日談を描いた“続編”)という体裁をきっちりと遵守しつつ、ぼくにとってこれは、創造行為をめぐる美しい「寓話」そのものだ。何よりそこに生命を吹き込んだヒロイン、仲里依紗の素晴らしさ! 彼女がここで見せる驚くべき感情表現の豊かさこそ、本作における最大の「価値」でありスペクタクルである。・・・特に、映画の最後を締めくくるストップモーション。彼女が見せたその一瞬の表情こそ、まさしく“美神[ミューズ]の微笑み”以外のなにものでもないだろう。[映画館(邦画)] 8点(2010-05-25 17:34:48)(良:2票) 《改行有》

275.  ターミネーター4 《ネタバレ》 まさにイーストウッドの硫黄島2部作を思わせる、冒頭のくすんで色褪せた映像による戦闘場面にはじまって、確かにこの映画は、これまでに見てきた様々な有名作・ヒット作・マニアックなB級作(マイケル・アイアンサイド! そして『スクリーマーズ』!)などのあのシーンこのシーンを彷彿させる“既視感”に満ち満ちている。全編これ引用=再現の連続、オリジナルに対する模造品[パスティーシュ]そのものだ。 それをオリジナリティの欠如だと否定するのも、ただのパクリじゃんと嘲笑するのも簡単だろう。が一方で、そういったシーンのすべてにおいて、無節操であることに開き直るあつかましさや、パロディやら引用と言い募るようないやらしさを感じさせないのも、また確かなのではあるまいか。ここにあるのは、マックGが愛してやまない映画たちへの単純にして純粋なオマージュであり、それらを自ら再現することへの無邪気なヨロコビそのものだ。そして、そんな〈愛〉の対象の最たるものが当の『ターミネーター』シリーズだったことは、たぶん間違いない。 そう、これは、映画が好きで、何よりキャメロンが創りあげたこのシリーズが大好きな男の手になる作品だ。だからこそ1作目と同じ容貌のシュワルツェネッガーが登場した時、単なる楽屋落ちやファンへの目くばせという次元を超えた「感動」があったのだと思う。マックGは、何としても『1』のシュワを自作で登場させたかった。ただそれだけの欲望と歓喜が、映画を見るぼくたちのハートに“共鳴作用”を呼んだがゆえの感動だったのだと。 それを、ただ「頭が悪い」と一笑に付すのは、先にも言ったように正しい。が、C・ノーラン監督のバットマン・シリーズみたくシニカルにお利口ぶった映画じゃなく、あるいは、映画を新奇な「見せ物[スペクタクル]ショー」程度のものとナメているとしか思えないマイケル・ベイ監督の撮るようなシロモノでもない、いいトシをしたオトナが「俺が見たいターミネーターを、俺自身が撮ったんだぜぃ!」と嬉々としているかのような本作にこそ、ぼくは文句なしに心ひかれる。しかも、数限りない制約だの軋轢の連続だったろう製作過程にあって、そういったノーテンキさをギリギリ貫けたあたり、この監督の“したたかさ”が窺えるじゃないか。 結論。「頭の悪さ」も、時には“才能”たり得るのです。[映画館(字幕)] 8点(2009-08-19 12:52:26)(良:3票) 《改行有》

276.  愛妻記 う~む、書きたかったことはほぼ全て青観さんに書き尽くされてしまったので、それ以上付け加えることもないんだけど・・・まあ、小生もちょこっとコメントさせていただきます。 それにしても、この映画の司葉子は本当に素晴らしい。女学生時代の友人をたよって郷里の金沢から東京に出てきたという彼女は、まさに天真爛漫でいながら、それがたまらなくコケットリー(誘惑的)だ。しかも、そのことに彼女自身がまったく無自覚であること。その“無垢[ウブ]”なところが実に実に良いのであります。たぶんそれは、この昭和初期にあってもじゅうぶんに魅力的だったんだろう。だからこそフランキー堺の主人公が魅かれ、一緒になろうと決意したことも、素直に納得できる。そして、こんな貧乏作家のところに喜んで嫁いでくれる彼女のような奥さんと出会えた主人公に、大いに「嫉妬(笑)」してしまうんである! そんなふたりが、はじめて“結ばれた”シークエンスも忘れがたい。とはいえ、もちろんベッドシーン(というか、この時代じゃ“床入り”か)があるわけじゃない。司葉子がフランキー堺の下宿にやって来て、彼の部屋で朝を迎える。その明け方の場面。おたがいきちんと着物姿でありながら、それまでになかった彼女の恥じらいを含んだ様子ひとつで、ふたりがその晩に結ばれたことを、ぼくたち観客はハッキリと知ることになる。案の定、そこでフランキー堺は(貧乏作家のくせに!)「所帯を持とう」と切り出すのだ。・・・このあたりの“奥ゆかしさ”こそ、本作の美質であり、久松静児という監督の持ち味なんだろう。 ともあれ、まだ戦争の影がさしていない昭和初期の生活風景をていねいに素描しつつ、これほど魅力的なヒロイン像を造型し得ただけでも、ぼくにとってこの映画は忘れられない1本になったです。記録よりも、記憶に残り続ける映画。・・・そう、ひとりの映画ファンにとって、それこそが真の「名画」であり、宝物なのだから。 《追記》ユーカラさんのおっしゃる「軍国化」のくだりは、え、そうだったの? と思いもよりませんでした。さすがスルドイ。ただ木下恵介ならともかく、この映画の場合、ああいう兵隊たちや警察の横柄さも含めて当時の日常というかあたりまえの「空気感」であるという、それ以上の含意はないのでは・・・とも思うのですが、どうでしょう? でも、この映画って愛されてるんですねぇ。シミジミ[CS・衛星(邦画)] 8点(2008-08-21 13:48:08)(良:1票) 《改行有》

277.  紀元前1万年 《ネタバレ》 神話や伝説なんかに接する時、往々にしてその「語り」の飛躍ぶりやご都合主義、デタラメさに驚かされる。そこでは人と動物が対等にコトバを交わし、何年もの時間がひと言で片付けられたりする。そして語り手(とは、その神話なり伝説を産んだ「集団的(無)意識」の具現化した存在=声に他ならないんだけれど)の思惑や気分(!)により、平気で展開や細部が変更・改変されることも常のことだ。でも、だからこそその「語り」は現代のような、緻密さと物語の整合性、テーマに汲々とした「神経症」的な息苦しさから解放された、あるすがすがしさや味わいがあるのだと思う。 オマー・シャリフの「語り」で物語が進行する『紀元前1万年』は、何よりも先ず、そうした「神話的・伝説的」な叙述[ナラティヴ]を映像化する試みとしてぼくは見た。というかこれは、最新のCG技術やらテクノロジーを駆使しつつ、しかし徹底して「現代的」な物語の叙述から身を離そうとする映画以外の何物でもないのじゃないか。だからこそ登場人物の「内面」やら心理的葛藤なんぞは、あっさりとナレーションで語られる程度なのだし(・・・例えばペーターゼン監督の『トロイ』は、登場人物たちの内面に寄りすぎたその「現代的」な演出ゆえに魅力を欠いたのだ、とすら言ってしまいたい)、死んだヒロインの“蘇生”場面にしても、あくまでそういった「語り」の要請に忠実だったゆえなのだ。すべてに成功している映画だとは思わないけれど(人々を支配する神のごとき存在がWASP風の「白人」だったというオチの、いささか安易な寓意性はむしろ不要だろう・・・)、その“大胆さ”こそ本作を真に興味深い作品にしているのではあるまいか。 そう、エメリッヒ監督の映画は、これまでもそのどこか反=時代的な「語り」のおおらかさこそが魅力なのだった(まあ、それを「バカバカしさ」ととる向きもあるんだが)。本作は、そういった「語り」そのものに監督自身がのめりこんでいるかのようだ。それゆえ、彼の映画としてはあまりに“作家性(!)”がオモテに出すぎた感がなくもない。が、「神経症」めいた映画にどこかイヤ気をさしていた観客にとって、これほど映画ごころを慰撫され、ホッとできる作品もないだろう。 エメリッヒ、やはり断固支持![映画館(字幕)] 8点(2008-06-03 16:03:59)(良:2票) 《改行有》

278.  アラカルト・カンパニー パリの地で、邦人相手の「便利屋」をこなしながら、デラシネ(根無し草)のように生きる主人公たち。尾美としのり、今井美樹、嶋大輔が演じる彼らは、何ものによっても連帯せずひとりひとりバラバラでありながら、その「独り」であるという意識において“連帯”している。そして、そんな彼らのゆるやかな結びつきこそが、この映画の、コミカルすぎずシリアスすぎない独特の「空気感」を醸し出すものに他ならない・・・。 これが劇場用映画の監督第1作となる太田圭は、自身のパリ滞在体験をモチーフに脚本を書き上げたという。その前の世代のように、海外滞在に何の特権性も希少価値も付加できず、その後の世代のように「自分さがし」の口実にすらならない、「ただ、何となく」といういい加減さというか中途半端さに、彼はじゅうぶんに自覚的だ。そこには希望も絶望もなく、自由も不自由すらもない。その中間をふわふわと浮遊する自分たちの、昨日に続く今日が、そして同じような明日があるばかり。たぶんそれは、パリじゃなく、これが東京でもニューヨークでも同じことだったろう。あの頃の「ぼくたち」は、本作の主人公たちと同じようにただ“浮遊”していた。漂っているという、意識だけがリアルなものとしてあった。この映画は、そんな「気分」をフィルムに定着してみせた、ほとんど唯一のものだと、あらためて思う。 そう、これは時代がバブルに突入する直前の、ぼくたちが「新人類」と呼ばれたあの頃の、ほぼ完璧な〈自画像〉だ。主人公たちの「ダメさ」を自嘲的に笑い、チクチクと胸をさす“痛み”を共有しつつ、この傑作でもなんでもない、けれどこの、ぼくでありキミやアナタの精神的ドキュメントを「見た」ことの記憶は、ムラカミハルキとミヤザキツトム(!)の“間”という、真の意味で「同世代人」の表現者=作品を持ち得なかったぼくたち1960年前後の者にとって、この上なく貴重なものだと、今更ながらというか、今だからこそ思うのだった。 最後に、この映画の今井美樹は本当に素晴らしい。彼女が見せる喜怒哀楽の表情こそ、ただ息をつめて見守り続けるしかない最高の〈スペクタクル〉だ。その記憶においてだけでも、ぼくにとってこの映画は“永遠”です。 《追記》劇場公開以来ずっと再見を果たせていない映画だけど、やっぱり深く愛着ある映画なので「7」を「8」に変更。ああ、見たいなぁ~。[映画館(邦画)] 8点(2008-02-12 17:22:43)《改行有》

279.  風の中の恋人たち 何だか見終わって、いや、見ている間じゅうも、まるで“夢”のような感触を与える映画なのだった。そして夢が、常に“自分が知っている(経験した)こと”の反映であるのなら、この映画のなかで描かれているひとつひとつが、どこか既知(デジャ・ヴ)めいた、なつかしい、甘やかな感傷に浸らせてくれるものとして、ある。それは、この映画を見てずいぶんと時間が経った今もなお、小さな余韻を残し続けているのだ。 上流階級に育った10代の英国娘が、旅先で出会ったフランス人労働者の青年にひかれ、彼が暮らす田舎町で一緒に住むことになる。けれど、国も、生活も、まるで違うふたりは、愛し合いながらも心がすれ違いはじめていく。 ・・・それだけを聞くなら、何て陳腐! と思われるかもしれない。実際この映画に、何ひとつ「目新しいもの」はないだろう。しかし、異国の小さな町で暮らす主人公の少女の、日々の生活のなかで感じるささやかな喜びや幸福感、とまどい、悲しみといった感情のひとつひとつに、見るぼくたちはきっと誰もが心を動かされ、前述の通り“不思議ななつかしさ”を覚えてしまうのだ。 たぶんそれは、この映画の描こうとしているのが、人生のある一時期だけにゆるされた“恋”であるからではないか。子供の無分別とも、大人の打算とも違う、純粋ゆえに不器用で、優しいくせに傷つけてしまう、けれど真っ直ぐに相手と自分を見つめようとする“恋”。 なるほど、いわゆる「青春」の恋を描いたものなど、ゲーテの『若きウェルテルの悩み』を筆頭に古今東西数えきれない。が、この映画が本当に描こうとしたのは、“恋”そのものではなく、それが「ある一時期だけのもの」であるという“かけがえのなさ”ではないか。だからこそ、遠い極東の島国で、30歳(だったんです、見た時は・・・)の男にもそれは受け止めることができた。何故なら、どんなカタチではあれ、きっと誰もが人生の「ある一時期」を経てきているのだから。 その意味で、これはむしろ「大人たち」こそが見るべき映画かもしれない。そして、今では忘れた(あるいは、忘れたふりをした)あの頃の“自分たち”を見出してほしい。その時、この何の変哲もない「青春映画」は、あなたにとっても“夢の1本”になってくれるはずだから。 [映画館(字幕)] 8点(2006-09-12 13:35:17)《改行有》

280.  オモニと少年 この映画を小生が見たのはもう30ウン年前のことです。まだ小学4,5年生だった時に、学校の授業(!)として講堂で上映されました。あの頃は半年に1回くらいそんな上映会があって、中にはディズニーの『南海漂流』みたいなものもあったけれど、ほとんどがいわゆる「教育映画」というヤツ。本作も、まさにそういった映画のひとつです。 地方の炭坑町で、父親を亡くしてひとりぼっちになった少年。そんな彼を、隣に住む朝鮮人のおばさんが引き取って世話をする。小学校で「ニンニク臭い」と級友にからかわれたり、はじめは嫌々だったおばさんとの生活だが、次第に心を開いていく少年。おばさんも、戦争中に日本へやって来たものの、夫と子供に死なれた身の上で、この少年が愛おしくてたまらない。やがて少年は、くず屋のリヤカーを引くおばさんを手伝いはじるようになる。けれど、東京に少年の親戚がいることが分かって・・・というお話。 まあ、いかにも「教育的」であり「良心的」な内容だ、と揶揄したくなる向きもあるでしょう。日本人と「在日」の人々との間にある様々な問題を、こんな安易なかたちで描くことは一種の“偽善”にすぎない、と。しかし、映画のなかで少年を「お前も朝鮮人になったんだ!」とはやし立てる級友たちの、無邪気さゆえにかえって残酷な心なさは、まちがいなく自分も“級友たちの側”にいただろうあの当時の自分を、深く恥じ入らせ、胸を痛めさせるのに十分だった。そして朝鮮人のおばさんが、日本人の少年に注ぐその愛情の純粋さ、広さと深さを、青洟たらしたガキだった小生も、素直に信じ、受けとめることができたこともまた確かなのです。 それは思うに、この映画が、当時の日本の「貧しさ」をきちんと描いていたからではないでしょうか。ぼくが見た1970年頃ですら、まだ社会にはかろうじて「貧しさ」の痕跡が残されていた。1958年に制作された本作は、まず何よりも人々の生活のなかに、意識のなかにあった物質的・精神的な「貧困」というものを、しっかりと見つめ捉えている。そのあたりが、1時間にも満たないこの小品を、単なる感傷的かつ「道徳的」なメッセージ映画に終わらせなかったのだ、と(そして忘れてならないのが、朝鮮人のおばさんを演じた北林谷栄の、圧倒的な素晴らしさ!)。 ・・・『ALWAYS 三丁目の夕日』の作り手たちは、まずこの映画こそを見るべきだった。[映画館(邦画)] 8点(2006-06-08 12:59:52)《改行有》

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