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自己紹介 [2010年8月23日]
か…かわも…

(゚Д゚;)ノ

…映画界は今日終わった…。


[2017年7月16日]
猛暑の夜、amazonで映画ではなく『幼女戦記』を寝ないで通し鑑賞。
大局的な戦略から入って行くという、かつてない架空戦記アニメでありながら、その悪夢性を出し切った感がすごかった。
最終話はテーマ的にポエニ戦争から対テロ戦争まで、膨大な戦争のイメージを深く広く全面爆撃して吹っ切れる展開に。
スピルバーグの『宇宙戦争』はバクテリアに仮託してその地獄自体を救いと説いたわけだけど、このアニメはそんな所まで引いて俯瞰する気がサラサラないってのがスゴイです。

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21.  バットマン vs スーパーマン/ジャスティスの誕生 オイラがスーパーマン映画につけられる最高の点数はここまでじゃないかと思うんですよ。 映画としてクズなのは否定しないし、実際何度もズッコケながら観てたわけだけど、すでにオープニング開けの中東のシーンで「これがもう自分の観たかったスーパーマンの全てなんだなァ」と理解していました。 あれほど、歴史あるスーパーマンのお約束を踏襲しながら、現実世界に当てはめて陰鬱なビジョンを打ち出した場面は寡聞にして知りません。 危険を顧みないヒロインの無謀な行動を陰からサポートし、絶体絶命のピンチには必ず助けに現れる…だが、このシリーズでのヒロインは過去のナンチャッテ記者じゃなく、テロリストにインタビューに行くピューリツァー記者。背後にうごめく様々な存在を考えれば、この「スーパーヒーローの法則」を利用していろいろ政治利用できちゃう。 冒頭でこの宣言ですよ。今回はネタバレなしで書きますので詳しい裏側までは書きませんが、そういうネタバレ情報なしでも、オープニングのこのエピソードは古典的な「抑止力」の戯画で、現代の縮図で、スーパーマンの矛盾をシンプルに表現できている。秀逸です。 クライマックスへの幕開けで敵が「絶対神は善人ではあり得ない」と語る。これが本作の唯一のテーマであって、100年近い長きにわたってスーパーマンがもだえ苦しんできた根源のテーマのようなもの。前作で原点回帰(スーパーマンの元ネタと言われるフィリップ・ワイリーのSF『闘士』のコト)し、原点ですでに提示されていたテーマ(読者に投げかける形で話が終わり、実は解決していないんですが)をキチンと発展させて、「言葉」としてセリフで明言した。 「力を持った絶対善は存在できない」と。 この、アメリカ史大反省会みたいな作品が、コミック作品の映画化として実現されてしまったのが、ハリウッドの画期ではないかと思う次第。 明確な意思と背景を持った「自爆テロ」が描かれる作品でもあります。アメコミ作品でこれやったら、もう収集がつかなくなると思いました(実際、収集ついてるとは思いませんw)。本シリーズの原点回帰・リセット志向はそこまで強い。 もちろん、DCは作品をジャスティス・リーグへ繋ぐための布石として本作を考えているでしょうから、キッチリと出すべきものは出し、見せるべきシーンは見せ、監督の意向なんかおかまいなく商業ベースを保とうとしてる。 そのあたりの(ザック・スナイダーが消化しきれなかった・消化をあきらめた)ゴツゴツした部分が、どうしようもなく前半のテーマを際立たせて、忘れがたい陰影になっていました。玉に瑕があるからこそ、かえってその美しさがわかるような、そんな感じ。 前バットマン・シリーズも時間の経過感覚を失わせるような編集をわざと行って「終末感」を出し切っていましたが、今回のスーパーマンシリーズはさらに終末度の高い、テーマが強く物語のリズムが弱い展開で、上映中はその点(シーンの構成)に様々な死を読み取りました。 ヒーローの終わり、強きアメリカの終わり、皆を救うキリスト世界の終わり。 それが芸術系の映画ではなく、コミック系のハリウッド・エンターテインメントから発信されたことが、何かを予感させるんです。 次作のジャスティス・リーグ編では、何か新らしい始まりが提示されるといいんですが、あくまで現実世界に寄り添おうとしているこのシリーズ、そうは問屋がおろさないかもしれない…。[映画館(字幕)] 8点(2016-04-17 15:06:15)(良:3票) 《改行有》

22.  X-MEN:ファイナル ディシジョン 《ネタバレ》 うわ、アリですかコレ! 原作・上田秋成! 思いっきり『雨月物語』第一話「白峰」ベースの戦闘。ウルヴァリンの台詞が西行の歌に重なり、すっげー泣かせてくれます。んでクライマックスの最後のシーンで、月をバックに雨を降らせたダメ押しには思わず拍手してしまいました(場内で一人だけでしたが…みんな雨月読もうよ面白いんだから…)。もちろん製作陣の「わかって引用してるんだよ~ん」っていうサインなんですな。 ちゃんとした評価としては、大黒柱の抜けちゃった作品&最終話という重責からか、監督は目立った仕事をしてません。推測ですが、マーヴェル社のスクリプターが描いた絵コンテをそのまま実写にしてる? アングルは今までの映画にないほどアメコミ的でした(作家性ゼロですが…)。実写とアニメの中間に位置するヒーローコミックとして観るべき絵作りですね。ただどうしてもアップが多くなっちゃうので息抜きできないのが厳しいところ。 テーマ的には、不運にもこのシリーズが背負ってしまった(だって1作目は2000年公開)「制御できないアメリカのパワー」についての様々なエピソードが積み重ねられ、コミックから少し深化した群像劇として、かなり劇的な語られ方をしていました。だからミスティークやマグニートーの「ケリのついた」後にほとんどセリフがなかったのが残念ですが、その分、活躍中に見せる演技が強烈。佳境を崇徳院発動(笑)でビシッと決める事を想定して、怨念を炙り出すシチュエーションが多かったのが、常連メンバーを一本芯の通った演技にしていました。 手にしてしまったパワーを捨てる事ができない弱さ、人間らしさが、観客の心を自然とX-メンたちから離します。ローグと、天使ボーイのエピソードが巧くそのあたりを括ってるかな。そして、今までは「敵」だったマグニートーの論理が、俄然と現在のアメリカ人にかぶってくる。人間から一歩離れた場所にいるスーパーマンとの立場の違いを(おそらく戦略的に)意識した結果の流れだと思います。これはアメリカ人の心象風景として培われてきたコミックの底力と言えるんでないかな(日本怪談で決着するけど)。 だからこそこの作品は、極めて正直に世界へ頭を垂れる結果になった。オイラには、「私たちが手にした力は、どうしても捨てる事はできません。ごめんなさい」と聞こえます。[映画館(字幕)] 9点(2006-09-18 17:28:58)(良:3票) 《改行有》

23.  セブンス・コンチネント この映画で描かれていないものが一番重要なキーポイントである、という騙し絵みたいな映画。 じゃあこの映画で描かれていないものは何か? …それは宗教(娘の就寝前の祈りのシーンがあるじゃないか! と言う方もいるでしょうが、最終章でそれは無効になったと見た方がいいでしょう)。 ミヒャエル・ハネケはロベール・ブレッソンみたいな(つまり無印良品みたいな)描き方をする監督ですが、ブレッソンのように宗教家ではなく哲学者です。西洋で「哲学者である」というのは何を意味しているかというと、それは「神の存在を疑う人」つまり論理が全てを決める人であるワケです。そういう彼が『セブンス コンチネント』という、こういう題材を選んだ。 なワケで、神が必要な場面に、この映画の中では頼るべき何者も描かれない。 じゃあこの映画で描かれているものは? 家具と日用品と車と洗車機。そして親父さんの職場であるでっかい工場。物質、機械ですな。学校の先生なんか、あんだけセリフがあるのにほとんど顔も出ないです。 この映画は物質文明の到達点を描こうとしているワケです。家族が力を合わせて文明(いや物質)から逃げ出そうとする映画。哲学者であり、主人公たちと同じように神の存在を重視していない監督は、それを肯定も否定もしない。行動を淡々と追っていく(同時に物質との関わりも描く)。洗車機の中で自分の「無力」を感じた事のある人間なら、この映画をポジティブに受け取る素養があるかも。 オイラはまだ、この映画に抵抗するだけの余力が残ってます(注:うーん。観てから一週間、実はけっこうダメージ受けてるかも…)から、この点数にしますが(注:2点UPしました)…神なき時代において、先進国の神なき人間の全てに、同じ立場の求道者として「生の意味」を問い掛けたすざまじい映画が、20年近く前に撮られていた事は間違いないのです。[映画館(字幕)] 8点(2006-08-01 01:49:52)(良:3票) 《改行有》

24.  プライベート・ライアン 《ネタバレ》 ここの諸レビューを久々に読んで、やはり変だと実感したので、ちょっと追記。 何でこの映画でみんな笑えない…?  (詳細はブログにて)[映画館(字幕)] 6点(2004-02-27 01:45:24)(笑:1票) (良:1票) 《改行有》

25.  トム・ヤム・クン! 世界進出第一弾というだけあって、てっきり配給会社の命名だと思ってた『トム・ヤン・クン』というタイトル、原題自体がそうでした(苦笑)。 アクションについては特に言う事ないかな。前作と同じなので。 映画としては、ちょっと厳しく言うしかないよなあ…トニー・ジャーのパワーは相変わらずですが、監督のパワーはダウンしてます。いやパワーダウンというより小賢しさが目につくのかな。前回の『マッハ!』は冒頭の木登りシーンで惚れ込んだんですが、アレみたいに力のある荒削りなシーンがあまりない。話題の、格闘しながら4階を登り切る長回しシーンは流石に凄かったです。でも、あれができる力量があるなら他のシーンでも考えてコマを割って欲しかったっすナ。 テーマについては、前作から後退してます。ここも評価が下がる点。前のような「仏教+バイオレンス」という(意外にイケてた)組合せが「動物愛護+バイオレンス」になって、後半で素材の組み合わせの悪さが表面化してしまいました。前作には確実にあった「タイ国民の、どうしようもない現状への怒り」というか、そういうバイオレンスの源泉となるモノが空回りしている感じがしてならないのですね。未回収の伏線があるのも気になります。DVDでディレクターズ・カットを出して欲しいところ。 編集スタイルも問題。全体的に、21世紀のハリウッドの流れを意識した小刻みな編集(研究の成果は感じ取りましたが…)。これって、前作に勝るとも劣らない直線的ストーリーや、前作以上に喋らない主人公には似合っていません。トニー・ジャー作品は変に垢抜けたモノにしようとはせず、採れたての有機セロリのような青臭さを保って欲しいと切望します。感情を表すのが難しい象なんかと共演するより、年輪を感じる爺さん婆さんから無言でセンベツ受け取るシーンの方がググッと来ますから。 どれほど売り上げるかはわかりませんが、次回作へのハードルは厳しくなったと思います…ただね、空港のあのシーン、笑いましたよ! ああいうトボケたセンスの良さは、今後期待したいかも。 ●追記:よく考えたら今回は『マッハ!』みたいに製作期間が取れなかったわけで、締め切りのある急作りだから仕方なかったのかなあ…ある意味、長回しシーンにパワーを注いだ一点豪華主義の映画と言えなくもないですね。お疲れ様でした。[映画館(字幕)] 7点(2006-04-23 22:33:42)(良:2票) 《改行有》

26.  少女ムシェット 《ネタバレ》 オイラ的にはブレッソン映画の最高峰。あのラストにはア然とし、かつ泣きましたね。何をやっても救われない少女ムシェット。健気、って感じじゃなく、カンシャクも起こせば生まれを恨みもするし、性格のネジケた悪戯もするし…そうであればあるほど愛しく、可愛く見えてきます。オイラ的にはロリータでもシベールでもアナでもキャンディでもなく、やっぱムシェットが映画史上最強の少女ですわ。ラスト、あまりの幸薄さに泣くけどね。9点(2004-03-04 23:51:49)(良:2票)

27.  ハルク ウサギとカメ。見ている間に何度もこの言葉が頭をよぎった。とは言ってもコレ、ハルクについてじゃなく、ジェニファー・コネリーという女優についてだ。彼女は、ただ美貌の女優というだけじゃない。デビューの頃は、まさしく体当たりだった『フェノミナ』とか、当時としてはかなりハードなレイプシーンを演じた『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』とかをこなしてきた、度胸の塊みたいな人だ。頭もいいらしい。だが悲しいかな、それだけではスターの座に留まる事はできなかったワケで、致命的なほど表情に乏しく、演技力がなかった。ハッキリ言えば大根の部類だ(個人的にはね)。それさえあれば大女優としてポスト・アジャーニの立場も夢じゃなかったはずだ。今回『ハルク』を見て「あ、表情がすっげー良くなってる!」と、いい意味でビックリ。特に鋭い刺すような視線を見せる時は、この限りなく灰色に近い、珍しいタイプのヒロインを巧く創っていたと思った(いや正直言うとシビレた)。まだまだブリジット・フォンダ以下のダメダメ状態だと思うけど、確実に演技力が上がっている。まー、以前の演技が記憶に残ってしまうくらい強烈にダメだった、ってのもあるけどね。もしかすると、彼女はゆっくりと成長していくスタイルの女優なのかもしれない。他の俳優が2年で吸収する所を、10年くらいかけて…そう思ったら少し楽しくなった。彼女の本当の代表作は、50代くらいに生まれるかもしれない。その頃まで映画業は諦めていないと思う。あんだけの度胸と美貌に支えられてるんだから。これからジェニファー・コネリーは長い目で見ていこう、と思った映画なのでした。えっ? ハルク? 何だっけそれ? スーパーマリオは出てたけど…(8//21 他人の票を見て2点修正)6点(2004-08-22 04:40:46)(笑:2票)

28.  グエムル/漢江の怪物 いま観てきました。 アンチ怪獣、アンチ大作な心意気が映画のフォルムを壊しまくっている。素晴らしい。 モンスターデザインにはタトプロスではなく、成田了の遺伝子を感じますな。一見ありえなさそうなシュールなボディラインが素晴らしい。 そしてストーリー! まるっきりロジャー・コーマン製作の『吸血怪獣ヒルゴンの猛襲』のパクリじゃないですか! 真似るにことかいてコーマン御大の怪獣映画かよ! むっちゃくちゃ素晴らしい! 音楽が見事なくらい「わかってなかった」のがつくづく残念。満点には至りませんでしたが、とってもとっても素晴らしい映画だと思います。 人気の悪さ、宣伝の拙さに振り回されて、食わず嫌いしてた自分が本当に悲しくなりました。「蓋を開けてみると小粒な動員だったけれど…」と評しながらも、あえて再上映してくれた蠍座のオーナーさん、感謝です! ●追記:一日じっくり考えてみた。これほど明確に具象化された「北朝鮮」を今まで見た事がないのに気づいた。生い立ちも、自然界に存在を許されない奇怪な形態も、拉致って生殺しにする食餌行動も、水路から迫る襲撃経路も、そのステルス性と俊敏さを兼ね備えた攻撃能力も、そして大多数の市民にとって真の脅威ではない点もビシッと符合する。その上で、マスコミに流布するウィルスの噂や、論点がずれて行く(というかずらして行く)政府や米軍の行動や、火炎ビンで戦う事の意味や、墓穴を掘りまくる主人公たちの思慮のなさに、いろいろな意味付けが出来はじめた。そして、実際に怪獣なるモノが現れた時には、案外行政府ってこんな風に行動するんじゃないか…とも。 ここまでの政治性の強さは、日本怪獣映画(テレビは除く)ではやれなかったものだと思う。「んにゃ、グエムルの母はヘドラだ」と言う向きはあるかもしれないけどね、日本ではヘドラは根付けなかったのをお忘れでないよ(廃棄物13号は…オイラ的には発展性の少ないオマージュだったと思うがね…マンガしか見てないけど)。 この怪獣はきっと、日本より漢江の水が合ってたんじゃないかな。観客の危機意識ベクトルの問題かもしれんがね。[映画館(字幕)] 8点(2006-12-10 20:28:44)(良:2票) 《改行有》

29.  シンドラーのリスト スピルバーグは基本的にモラルのない監督だ。暴力やセックスなどの映像表現の事じゃなくて、もっと根本的な部分の話。要するにジョーズが海水浴客を食い殺すのもTレックス&巨大トレーラーが主人公を追い掛け回すのも「観客を楽しませるため」と考えている節がある。彼は『ジュラシック・パーク』で、パークのオーナーにこんな事を言わせている。「ノミのサーカスから身を起こし、見世物興行なら何でもやってきた。だが一度だけ、客を本物で驚かせたかった」…このセリフは原作にはないので、スピルバーグが意識して付け加えたものと見ていい。おそらく「見世物監督」としての彼の本音だと思う。奇しくも『ジュラシック・パーク』の直後に本作が発表される。スピルバーグが見せたかった「本物」は『シンドラーズ・リスト』なのか…? 多分そうだと思う。彼は自分の欠点をよく承知していた。自分の苦手なタイプの人間を描く羽目に陥ると、途端に馬脚が出てしまうのだ。だったら徹底して外面から描こう。収容所の怖さを、内面ではなく外面から。トレーラーのように。ジョーズのように。Tレックスのように…それは成功しただろうか? ただの見世物に「本物」が持つ力を与え得ただろうか? 敢えて中間点をつけるのは、その評価がまだ脳内で出せないからでもあり、この作品に賭けた意欲と出来上がりのギャップを感じるからでもある。『シンドラーのリスト』以後のスピルバーグはまるで抜け殻のように無益な大作を作り続ける。テーマ性は薄く、表面的なモラルの衣までまとった映画を…この作品が転換点であったのは間違いない。作中でジュラシック・パークが崩壊したのと同じように、本物の力は創造者までも侵してしまったらしい。シンドラーは戦後、アル中になって報われない老後を送る。彼もまた、ナチスとは逆説的に《善》に憑かれた亡者であり、果たすべき役目を終えるとダメになってしまった…もしかして、今のスピルバーグはナチやシンドラーの「その後」の影に脅えているのだろうか?5点(2004-03-08 07:45:14)(良:2票)

30.  ファニーとアレクサンデル 孤島に持っていくべき、ただひとつの映画(笑)。絵がカンペキ。構成がカンペキ。長く楽しめる(苦しめる?)。ファニーが可愛くないのを除けば、文句のつけようがない。10点(2002-09-01 23:57:29)(笑:1票) (良:1票)

31.  マルコヴィッチの穴 告白します。 この映画が出てからしばらく、監督を間違えておりました。スパイク・ジョーンズじゃなくてスパイク・リー作品だと思っておりました。「いっやぁ、『マルコムX』の監督が、こんなオサレな映像も作るんだなあ」と驚いたりしちゃってました。 …んで当然、何度もDVDを再生しながら、この《社会派作品》の作中に埋め込まれた《黒人問題》を血眼になって見つけ出そうとするワケです。 「この7・1/2階というのに何か意味が…」なかった。 「こ、このサルが黒人をシンボライズして…」だが作品前半で消えてしまった。 「おお! マルコビッチになる事で、自らの黒人文化を抑圧して白人社会に溶け込んだリー監督の含意が…」考え過ぎだってば。 「まてまて、この、らしくないチャーリー・シーンの演技は白人の黒人に対する嘲りが…」ないないないない! 「そうか。マリオネットという記号に、操作され続ける大衆文化の」いいかげんにしろ>自分。 …そんなこんなで鑑賞にグッタリと疲れきってしまい、監督が違ったというのに気付いたのは数ヵ月後…あの時の壮大な徒労のため、いまだに高い点数をつける事ができません。悪いのは自分なんだけど。 あ最後に、キャメロン・ディアス&チャーリー・シーン、ナイス! [DVD(字幕)] 4点(2006-05-03 15:56:36)(笑:2票) 《改行有》

32.  エド・ウッド 《ネタバレ》 エド・ウッド漬けの1週間の締めは、もちろんこの映画で。いやあ「エド・ウッド・コレクションBOX」買って間もないから、まるでオリジナルの最編集版のように楽しめました。意外だったのが映画への愛というより、ベラ・ルゴシとウッドの泣かせる友情に軸足が置かれて、「老人映画」になっていた点かな。このあたりはホロリと来ました(お気楽版『ゴールデン・ボーイ』か?)。そして「ルゴシってやっぱり偉大だなあ」と見直した次第。大ダコと格闘するシーンなんか、そのプロ魂に泣けてくるよ。ウッド作品の看板たち、トーもヴァンパイラもクリズウェルもオリジナル通りでビックリ(つうかこの辺は、バートンの愛を感じますな)。もっと凄いのは『プラン9』のルゴシの代役までソックリだった事か。ウッド映画は各シーンとも忠実に再現されていて、オリジナル(「エド・ウッド・コレクションBOX」&『死霊の盆踊り』)を見てから本作を観れば楽しさ5倍っすね。丁度いま、シリーズ物の映画をまとめて観終わったような気分でハッピーです。 ●追記:物語のテーマだろうと思われる『怪物の花嫁』でのルゴシの「故郷? 国を追われてからはジャングル住まいよ…(中略)…やがて世界は我が子・原子超人たちが支配するのじゃあ!」ってセリフについて。要するにこの映画って「80年代のウッド再評価が始まった頃からハリウッドが低予算B級ホラーに席捲されて、ボク(バートンら原子超人)みたいな監督が大作映画を取れる時代になったのも、ウッドさんルゴシさんあなたたちの無節操な頑張りのおかげですありがとう。あれ、しかもちゃんと作中で予言してますねえ」ってコトを言いたいワケね。『花嫁』の撮影で、実際にあのセリフを自分にダブらせて語ったと思われるルゴシの心境を鑑みると、熱い涙で画面が曇るっすよ。 ●追記2:クライマックスのオーソン・ウェルズとの対話シーン、何度見ても両人の苦悩の次元の違いに笑ってしまう。苦悩の質は同じなんだけどね。ウェルズ、あんたいい奴だ(笑)。8点(2004-04-25 03:41:35)(良:2票)

33.  ジュラシック・パーク 《ネタバレ》 ここの文字数制限じゃ、本作の抱えてしまった深い業を書ききれるわきゃないんだが…表面的に書いてみようかと。クライトンの原作は、彼にしては珍しく「本気」で書かれている。彼の、科学技術を魔法と区別しようとしない輩への深い怒りが、これを書かせたんだと思う。このハナシは決して「現代科学はいよいよ恐竜を復活させる事ができるレベルに達したが、それはやってはイケナイ事なのだ」なんて悠長なテーマじゃなくて、「現代科学で恐竜復活? 確かにできるけど、できちゃった奴らは現代科学じゃコントロール不可能だよ」という、技術の暗黒面がテーマなわけだ。一言で言うなら初代ゴジラの真摯な部分を受け継いだ硬派怪獣SFなのだ(オキシジェンデストロイヤーが登場しない分、より怖い)。これこそ複雑系科学が言おうとしている根本部分なのだが、スピルバーグはあったり前のように「そうゆうテーマって子供にわかんないよねー、夏休み映画だしカットしちゃお」と思いっきりカットしくさった。原作者クライトンは脚本もやってるんだが、インタビューでは「映画になる以上はカットしないとね」と完全に業界人モード(魂を売りやがって…くぉの…)。そうして完成した映画は、皆さんご存知の通り、映画の歴史を変えてしまうエポックになった。ジュラ1以降、CGIのない特撮は考えられなくなった(この映画は比較的低予算だ)。この変化は決定的で、圧倒的だ。『ジュラシック・パーク』はCGIという恐竜をハリウッドに放った映画だ。…さて、それから10年。映画界はこの恐竜を手なずけたか? NOだ。結局のところ、原作の通りになってしまったのだよ。放たれた技術は、映画というメディアには荷が勝ちすぎるような気がする。大陸に渡って、欠陥のある遺伝子でも生き延びられる方法を見つけ、人類の手からすり抜けていったラプトルのように。垂れ流されるCGによってハリウッド映画がハリボテの安リメイクしかできなくなったんだとしたら、それはスピルバーグとクライトンが「だって子供向けアドベンチャーだよ!」「うんうん! そうだよねー」と話し合ってた頃から決まっていた宿命に違いない。あいつら二人が映画の遺伝子を書き換えてしまったんだよ。3点(2004-11-17 00:17:02)(良:2票)

34.  レディ・イン・ザ・ウォーター 《ネタバレ》 最初のアニメで既に泣いてました。で、序盤のポール・ギャリコ風のリリカルな状況設定も素晴らしい。後半のスティーブン・キングっぽい展開も悪くなかった…でもね。 ポール・ジアマッティ起用は絶対ずるい。減点理由はほぼソレに尽きる。 現実を喪失する不安感が全然ない。かといって一直線にお話にのめりこんで行く快感があるわけでもなく、演技派ジアマッティのバランスに長けた巧演で、最後までとてつもない安定感がある。もうね、例えて言えばガブリエル・バーン主演で『宇宙戦争』撮っちゃいましたみたいな、ストーリーがブチ壊れるほどの安定感に満ちてるんですよ、彼って。この話の主人公はさ、クリストファー・ウォーケンとか、ビリー・ボブ・ソーントンとか、ああいう危うげな人にしようよ~。 とは言え後半、13Bの映画評論家が殺されるくだりで、監督は「いいか、オレはこれからの展開について批評家のレビューなんて気にしてないぜ。みんなそのつもりで観ろよ」と言い放っちゃってるワケで、コレをしっかりと受け止めて観た以上、オチに文句は言わない。あんたの心意気はわかったぜ、シャマラン。 童話作家の佐藤さとるがエッセイ『ファンタジーの世界』で書いたところによると、世の中のファンタジーは「ハイ・ファンタジー」と「エブリデイ・マジック」に分類されるとのコト。指輪物語とドラえもんですな。 本作はエブリデイ・マジックの枠組みにありながら、キャラクター達がハイ・ファンタジーを目指すという展開で、スティーブン・キング出現以降徐々に増えてきた物語形式になっている。この物語形式は、必ず、あるお約束のスタイルを使う。ホラーとして描かれるか、サイコノベルになるか、だ。本作の枠組で、いきなりハイ・ファンタジー風の魑魅魍魎を跋扈させても観客は物語の中へ入って行けない。オイラの見立てではあのモンスターはナシでもやれた思う。もしくはもっと後半に登場させるか。 「予言者」である韓国人のオバチャンの人間像も薄くて雑だ。ここは考え抜かれてああいう人物像になったと思うんだが、裏の裏を読みすぎ。ま、コレは彼女に限らず全部のキャラクターに共通だろう。後半の展開を考慮して、わざと人間性を薄くしたんだろうけど…それは悲しすぎじゃないか。 シャマランは、作品で言ってるのとは逆説的に、めっちゃ評論家の言う事を気にしてるのかも。人物設定をヒネリ倒しすぎっすよ。[映画館(字幕)] 7点(2006-10-10 01:14:11)(良:2票) 《改行有》

35.  キングス&クイーン 小説と映画の最大の違いは何か。 それは「ページをめくる行為」にあると思っている。小説はいつでも読むのをやめられるし、スローダウンも後戻りも自由自在。しおりだって好きに挟めるし、余白に傍線引いたりメモも取れるし、その気になれば気に入らない場面の改変も(さほど)難しくない。 小説(というか物語)は「考える力」「想像する力」に依拠している部分が多いのだ。手短に言えば受け手主導のエンターテインメント。時として「洗脳装置」と揶揄される映画との最大の違いだろう。映画はどちらかと言うと演劇や音楽の流れであり、元をたどると祭事に行き着く文化だ。「その場にいるみんなで感じる/みんなで考える」のが映画の正しい接し方だと思う(DVDとビデオ鑑賞はまた別だけど…)。 んで本作。完全に《行間を読む》映画。その徹底ぶりと作劇の力は認めるが、その強引な「小説」ぶりにには辟易。完成度と反比例して好きにはなれない映画だった。 冒頭、ギターソロでつまびく「ムーン・リバー」が入る時点で、猛烈に世界が狭くなる。「これからしばらくは主観の映像です。本気にしないで下さい。でも人物像はよくわかりますよ」…と監督に囁かれているような感じ。 で、どこからこの物語に第三者の視点が入るかと思ったら、全然入らない。話の裏側は相当に陰惨で、憎悪と嫉妬が渦巻く犯罪ドラマのはずなんだけど、最後の最後まで二人の主人公である「うそつき」と「きちがい」の視点から語られるので、話は穏やかに、時としてエキセントリックに、明るく、オシャレに綴られていく。 そんな話を見るくらいなら、ヘンリー・ジェイムズの『鳩の翼』や『ねじの回転』を読み直すよオイラは。映像に行間は求めたくない。 DVDで自由に好きなだけしおりが挟めて、余白に書き込みもできて、表面を見ただけでどこまで鑑賞したか即座に見て取れる時代になったら、少しは印象が変わるかもしれないが…。 ●追記: 本作は受け入れられないが、同じ大嘘映画『サンキュー・スモーキング』は楽しく受け入れてしまっている自分に気付く。これが「男である事」の限界なのか…映画レビューにおける、極めて微妙なボーダーを踏んでいる感じです。 ●追記2: 完全にネタバレになるので小ネタ欄に入れますが、これ監督の私事で、かなり実体験入ってるじゃん…。[映画館(字幕)] 1点(2007-02-03 23:38:11)(良:2票) 《改行有》

36.  ラン・ローラ・ラン 実は「エスねこ」ってのはシュレディンガーの猫の略なんです…ってのはおいといて。ローラ最強。映画史上最速最凶のガテン系ヒロインだ。運命に弄ばれるのを拒み、最後には殺人的な目線で偶然の神を支配してしまうほどの凶悪さ。短編映画の濃密な雰囲気を巧く長編映画に持ち込んでる点も注目っすね。近年のドイツ映画最大の武器「キレ味」が最も色濃く使われ、観客の推理心を刺激しながらも肝心のところを先読みさせず、最後まで飽きさせない人生ゲーム映画でした。作品は8点。主人公の『ゼイリブ』並にバカ過ぎるキャラクターでマイナス1点。7点(2004-09-05 02:01:19)(良:2票)

37.  ランボー 《ネタバレ》 これ、映画館に行きたかったんだけどまだ子供の頃で行けなかった。ずっと後にビデオ録画した奴を友人に見せてもらったのが最初です(当時はビデオのある家庭も少なかったのよ)。で、まずシナリオがビックリでした。古典的なゴーストハウス物を下敷きにしてるんですよね、これ。幽霊はもちろんランボーで、村人は館の住人。ランボーの元上官が霊媒師(とか博士とか)の役回り。つまり、言外に「復讐に入ってからのランボーは既に死人だ=これは帰還兵の悪夢のファンタジーだ」と言っている。一種、「『ブラジル』のラストを延々引き延ばした映画」と言えなくもないですね。ラストで大人しく警察に引き渡されるランボーは、だから幽霊の成仏シーンというわけです。この映画を見たであろう、多くのベトナム帰還兵への強烈なメッセージがここにあります(実際に映画館で発作を起こした帰還兵もいたといいます)。「世間の人にわかってもらおうと腐心するな。幽霊になっちまうぞ。あの時あった事は俺が知っている。だから、あんたたちも早くその傷を成仏させるんだ…」。何と救いのない、悲しいメッセージ。2以降のランボーがああいう風に変身しなければ収まりがつかなかった理由もわかります。でもその語りかけの真摯さ(と上映のタイミング)において、ランボーを上回るベトナム戦争映画は出なかったと思います。もちろんオイラなんかは観客扱いされてない、という事になりますが。それはそれでいいでしょう。そんな映画もアリだと思います。7点(2004-03-07 23:47:30)(良:2票)

38.  インセプション 《ネタバレ》 何か月ぶりかの2連休で「さあ映画でも見ようか」というタイミング。最初は『イーグル・アイ』を選び、タイト (詳細はブログにて)[インターネット(字幕)] 9点(2017-03-05 14:57:06)(良:2票)

39.  10ミニッツ・オールダー 人生のメビウス さてコッチの方は… 「結婚は10分で決める」5点:今回はコレを基準作にしました。 「ライフライン」10点:まさか10分の映画でボロ泣きするハメになるとは~! いつも通りの作風ですが、100分相当の作品として通用します(でも「あと10年は撮らないよ」なんて言わないで下さいね)。 「失われた一万年」4点:あいも変わらず密林ですか…しかも、まんまドキュメンタリーだから、彼独特の狂える迫力が出てない。10分で自分の世界を表現できないからって、投げちゃいけやせんぜ監督。 「女優のブレイクタイム」4点:ジャームッシュに浸るような心の余裕は、オイラにはない。 「トローナからの12マイル」8点:うぉー濃密~。これも、一作分の長編映画に展開できる作品ですなぁ。 「ゴアVSブッシュ」3点:この映画で初めて知りましたが、ゴア君はブッシュたんに向かって一度は敗北宣言したんじゃん。まあアメリカン人でないからどーでもいいですが…。 「夢幻百花」9点:イッセー尾形さん家の引越し(笑)。コレがラストを締めるとは意外でした(ヴェンダース作品の方がよかないか?)が、見応えありました。 そして結果はこのように…。[DVD(字幕)] 7点(2006-06-03 22:00:51)(良:2票) 《改行有》

40.  バブルへGO!! タイムマシンはドラム式 《ネタバレ》 思いのほか、というか相当に考えさせられる映画だった。 なんで世間一般的に『バック・トゥ・ザ・フューチャー』が度外れに評価高いのか? オイラは「半ば神格化された《アメリカ黄金期の50年代》という古き良き時代を、無条件にバカにできるから」だという考えでいるんだけど、当のアメリカ人にしてみればアレは相当に苦い映画だった…という当然のコトに、『バブルへGO!!』を観ながらようやく気付く。BTTFは80年代、アメリカ第二の低迷期の作品だからね。あの映画を笑って観てる日本の観客は、ある意味で卑劣なのかも知れない。そこに気付かされたのは大きい。 舞台挨拶のニュースで阿部寛が「中身が何にもない映画ですから」と言っていた。役者としては確かにつまらないだろう。深みを一切要求されない人物像だから。これは役者の映画じゃなく、モノの映画だ。繁華街にある森永LOVE、ディスコで踊る女性の太い眉、壁面がガラス張りのマンション…とにかくモノ。過剰な小道具たちが、さして変わらない17年前を意識させ、異空間にしてしまう(特に広末の髪の染め具合は本当に絶妙!)。他方、財務省=大蔵省の中は変わってないが、それも意図的なものだろう。人間はどうあれ、役所は17年ごときでは変わらない。この、モノが語り綴っていくモノガタリは、薄味になったヤン・シュワンクマイエルのソレに通じている。 エンディングのバカらしさも一考に価する。ほとんど埋め立てられた東京湾はバブル期のアホな未来像そのままだし、誰かさんにとっては「あるべき現在」だ。ここで、主演が広末涼子ではなく阿部寛になっているのに改めて気付く。これは「官の映画」だったワケだ。製作がフジテレビと電通であるコトにも気付く。政府の太鼓持ちたちじゃねーか。案外、いやかなり、あのラストはマジだぞ。やりすぎて嫌味とかそういうんじゃなくて、大マジで大団円のつもりで作ってるぞ。「映画の観客はバカだからさー」という、救いようのない慢心があの絵に見えて来るような気がした(あ、でもマシン発明したのは三菱じゃなくて日立だぞ…考えすぎかもしれないネ~)。 そういう意味では、本作は映画の本質に極めて肉薄している。「みんなが観たい夢を観せる」という意味での「すっげー映画らしい映画」だ。でもいろいろ考える所があったのは事実なので、この点数で。もう一度劇場に足を運んで考えてみる価値はあるなあ。[映画館(邦画)] 8点(2007-03-12 16:32:38)(良:2票) 《改行有》


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